カテゴリー別アーカイブ: 活版万華鏡 KALEIDOSCOPRE

【艸木風信帖】サラマ・プレス倶楽|Lingua Florens-ことばの花園|’23年7月27日 猛暑のあいまに + 新宿餘談 輝安鉱・アンチモン・伊予白目|東京大学総合研究博物館 若林鉱物標本展 会期末

紫 陽 花 の 末 一 色  と な り に け り  一  茶

ビルの谷間、人工地盤、五坪ほどの小庭、植えも植えたり、数十種の艸木
Lingua Florens  2023年07月  猛暑のなかでの開花報告
朗文堂 サラマ・プレス倶楽部

カラスウリ1カラスウリの花
カラスウリ2カラスウリの花   花冠は夕方から開き裂片の先は細く裂けて房状に垂れる。
雌雄異株で花期は8-9月。写真は雄花。(カラスウリ画像集 外部リンク
ハニーサックル(スイカズラ)ハニーサックル(スイカズラ)
合歓の花1合歓の花2合歓の花
紫陽花ドライフラワー 紫陽花の干物紫陽花ドライフラワー
六月の小庭 を豊饒に飾ってくれた 紫陽花 は、斬るな、切るなの堂主の願いもむなしく、ノー学部愛用の農機具:鋏を縦横に駆使、逆宙づりにされてしまった。これはドライフラワー也という。いや「紫陽花の末一色となりにけり 一茶」と詠じた俳人よろしく、干物のようでどうにもこうにも。
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下掲写真はプレビュー。近日中に稚拙ながら画像大量使用で紹介予定。
東京大学総合研究博物館東京大学総合研究博物館 東京本郷
輝安鉱 兵庫県1-2東京大学 若林鉱物標本展 安輝鉱(アンチモン、アンチモニー、伊予白目とも)
輝安鉱 熊本県天草1-6東京大学 若林鉱物標本展 安輝鉱「熊本県天草市天草鉱山」産出の輝安鉱原石
東京大学総合研究博物館2東京大学 若林鉱物標本展 標本展示室のほんの一部
東京大学総合研究博物館 鉱物データーベース東京大学総合研究博物館 鉱物 データーベーストップ

[ 参 考 : 活版アラカルト 【展覧会】東京大学 総合研究博物館|特別展示「東京大学・若林鉱物標本:日本の鉱山黄金時代の投影」|’23年3月23日-9月1日 ]

アダナ・プレス倶楽部 Adana-21J の初使用者はジェームズ・モズレーさんでした。

なつかしいひと、なつかしいできごとをご紹介いたします。
アダナ・プレス倶楽部ニュース No.002 【アダナ・プレス倶楽部便り】 過去ログより

Adana-21J とジェームズ・モズレーさん

アダナ・プレス倶楽部の設計・製造による、小型活版印刷機「 Adana-21J 」が、工場での検収を終えて、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部に搬入されたのは 2006 10 9 [月]のことで、この日はちょうど体育の日で祝日でした。

James-Mosleys-Autograph[1]設置を終え、工場のスタッフといっしょに、まずは試運転という最中に来社されたのが、米国にうまれ、ながらく英国のセント・ブライド印刷博物館にあって世界のタイポグラファならだれまがその名を知る、前館長/ジェームズ・モズレーさん(James Mosley  1931 – 2012)でした。
モズレーさんはこのときが初の来日で、ご専門は、書誌学・図書館学・パレオグラフィ(古書体学)・タイポグラフィ・カリグラフィと多岐にわたっています。

またその論文や著作はきわめて多数を数え、この来日の直前にも『 THE NYMPH AND THE GROT 』を著し、サンセリフの誕生(リヴァイヴァル)をあらたな視点から説きおこして注目されました。
James-Mosley1[1]
こうした世界の印刷界の権威ともいうべきモズレーさんと、夕方から懇談と会食の予定はしていたのですが、なんと約束の時間より 1 時間半もはやく小社に到着されたために、スタッフは大慌てで印刷機を片づけようとしたのですが、オックスフォード大学修士課程の履修中に、活字鋳造所に勤務されたこともあるモズレーさんは、興味深そうに試作機をご覧になり、やがてじつに気軽に、

「どれどれ、わたしにも刷らせてください」

とのことで、「 Adana-21J 」の試作機での印刷に挑戦されました。
つまりこの試作機を使用したのは、スタッフを除けばモズレーさんがはじめてという「珍事」になってしまいました。
ところで、そのモズレーさんの印刷ぶりは、腰のはいった本格的なもので、スタッフ一同感動するやら、感心するやら大忙しでした。
James-Mosley2[1]
印刷を終えて、モズレーさんは、
「ここのところ、世界の各地で、まだ十分使用できる活版印刷機が廃棄される悲しい現場をたくさんみてきました。ですからおそらく、この小さな活版印刷機は、21 世紀になって誕生した世界でもはじめての活版印刷機でしょう」
と嬉しそうに述べられました。

なにしろテスト用の粗末な用紙しかなく、印圧調整のいとまもなかったのですが、それでもモズレーさんは自ら印刷した 1 枚を丁寧に間紙にはさんで鞄にしまわれ、もう 1 枚にはサインをしてわたしたちに残されていきました。
この一枚は、モズレーさんなきいまいまや、歴史的な記念品となってしまいました。

James Mosley さんの略歴 ]
James Willett Moseley (
August 4, 1931 – November 16, 2012 行年81)

1953-1956  英国ケンブリッジ大学で修士号を取得
1955       Stevens, Shanks & Co Ltd, で活字鋳造に従事
1956-1958  St Bride Printing Library に司書助手として勤務
1958-2000  St Bride Printing Library に司書・館長として勤務
1964-2000  Reading University, Department of Typography
& GraphicCommunication
Visiting Lecturer 1964-2000
Visiting Professor 2000-

【 ウィキペディア : James Willett Moseley

【長崎文化歴史博物館】 『レゴ®ブロック』で作った世界遺産展 PART-3

2015年夏休み長崎開催決定! これまで280万人を集めた話題の展覧会。世界遺産登録を目指す、歴史の地・長崎へ!!

※入場料とグッズ売り上げの一部は、日本ユネスコ協会連盟が行う世界遺産活動へ寄付されます。

KTNテレビ長崎

会場:長崎歴史文化博物館
長崎市立山1丁目1番1号 TEL: 095-818-8366


【 企画詳細 : 長崎歴史文化博物館
【 参考資料 : レゴ®ブロックとレゴ・グループ
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2015年05月 長崎のいま
いわゆる「厳流坂」の旧長州藩長崎屋敷跡の地にもうけられていた<新町活版所跡碑>は、もとの角地から、10 m ほど坂をくだった場所に移転されている。
黄檗宗をもたらした隠元和尚にちなむ古刹、崇福寺の参道には<福地櫻痴生誕の地>碑があるが、正確な生誕地の場所は、この道の反対側であったとされる(岩永充氏、江越弘人氏談)。
また歌手:さだまさしもこのあたりで幼少期をすごしたとされる。崇福寺直前角には、親族が経営していたミルクセーキがおいしく、終日さだまさしのCDをながしていた喫茶店があったが、いつのまにか洋物雑貨店にかわっていた。
長崎の変貌はいまもかわらずはやいものがある。

DSCN9124DSCN9118DSCN9220DSCN9218DSCN9231DSCN9316ホテルのロビーに掲出されていた「長崎港古絵図」の複製。原画はオランダ国立ハーグ中央古文書館蔵。阿蘭陀船がオランダ国旗をかかげて入港しており、半円形に突出した出島と、その背後に長崎奉行所東役所がある。
幕末、この長崎奉行所に「海軍伝習所」がおかれ、現在は埋め立てが進んで長崎県庁となっている。1671・寛文11年に東役所の一部が立山(現、長崎市立山一丁目・長崎歴史文化博物館の所在地)に移され、立山役所(総坪数3278坪)と改称された。それ以後はこの両所を総称して長崎奉行所と呼んだ。左の矩形の突出部はおもに中国人が居住した「唐人街」で、現在は長崎新地の一部となっている。
DSCN9322DSCN9325DSCN9329DSCN9331DSCN9469DSCN9481DSCN9550出島は現在修復工事中であるが、そのすぐ脇、市電にそった場所に「長崎県印刷界会館」があり、印刷関連の貴著な資料が収蔵されている(長崎市出島町10番13号)。
同館資料庫にはアルビオン型の手引き印刷機が二台収蔵されており、そのうちの一台上部の鳥居天板部には、東京築地活版製造所、大阪活版製造所の社名と、マークを表裏にみることができる。
商標01
この東京築地活版製造所の「いわゆる ◯も に ローマン体の H 」のマークは同社の登録商標で、1886・明治19年の新聞広告からみられる。
この大阪活版製造所の「旭日の中心に ◯も」のマークは、1885・明治18年の同社の登録商標である。
したがって、このアルビオン型手引き印刷機は1886・明治19年以降の製造とみられる(『平野富二伝 考察と補遺』 古谷昌二、朗文堂、p.531)
9784947613882最下部写真は同館所蔵のもので、長崎製鉄所が建造した、わが国最古の鉄橋が撮影されている。橋のたもとにたつ「鉄橋」の碑は西 道仙の書による。この右手 西浜町は長崎一の繁華街となっている。
まさに幕末から160年あまりの長崎の激動をおもわす場所が、この西浜町あたりである。

聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって

摠

DSCN7902 DSCN7891 DSCN7899 DSCN7898《 北京清華大学にて 龍爪槐 と であった 》
2015年01月11日[日]の午後に、中国北京の清華大学にいった。
キャンパス巡りの中途で、奇妙な枝ぶりの樹木をみつけた。 同大 美術学院 副教授/原 博先生、書きしるしていわく、
「 その樹は、龍の爪のエンジュで、中国ではこう書きます 」。

―― < 龍爪槐 > !

ここから、頭がいっぱいになって、ただでさえおそい歩みが、凍りついたようにこわばり、すべてが疲労となっておそってきた。
ふるく、中国周王朝 ( 前1100ころ-前256 ) の時代、三公の位をあらわす高貴な樹木とされたのが < 槐  カイ ・ えんじゅ> である。
その槐の一種の < 龍爪槐 > は、冬枯れのころに剪定され、まさに龍の爪のような奇観を呈する。
【 関連URL : アダナ ・ プレス倶楽部ニュース / [会員情報] 中国清華大学 美術学院/原 博先生 陳 輝先生とお会いしました 】

「 木をみて、森をみず 」 なる格言がある。 やつがれのばあい、まことにもって恥ずかしながら、「 木をみて、木をみず 」 であった。
これまでの訪中で、西安 ・ 洛陽 ・ 南京 ・ 鄭州などで、間違いなく < 槐 > をみては
いた。
それよりなにより、北京の紫禁城 ( 現故宮博物院 ) のあちこちに < 龍爪槐 > が植えられており、紫禁城の北、景山公園は < 龍爪槐 > の名所だとされていることをつい最近知った。
すなわちやつがれは、あちこちで < 龍爪槐 > の垂れさがった枝ぶりや、蝶のように可憐な花を、間違いなく目にはしていたが、みてはいなかった。

natu 龍爪槐 中国百度百科/枝のたれた夏の龍爪槐 葉の生いしげった龍爪槐 龍爪槐の花シンシンと冷えこむ北京の冬の夕刻に < 龍爪槐 > を知ったため、葉の生いしげる姿や、蝶のように可憐な花も撮影していなかった。 そのため上掲三点の写真は 中国版百度百科 から引用したものであることをお断りしたい。
【 百度百科 : 龍爪槐ウェブ  龍爪槐画像集

またわが国の代々木公園にも龍爪槐があり、あちこちで栽培もされているようである。
代々木公園のものは、1984年(昭和59)、東京都と北京市との友好都市05周年を記念して、北京市から寄贈されたものだという。
わが国では、枝が湾曲して垂れさがるようすから、「 しだれえんじゅ 」 とも呼ばれている。
花紀行 ・ 花おりおり 】

また、わが国ではほどんど研究の手がおよんでいないが、近代印刷史研究に欠くべからざる重要な場所が、 中国浙江省寧波の < 槐路 > にあり、その通りをめざして車を走らせたこともあった。
それなのに、この < 龍爪槐 > なる樹木のなまえを知らず、また冬枯れの寒風のもと、剪定されたこの怪奇な樹木の姿を(みて)みなかったばかりに、無知をさらした。  無残なものであり、ここに不明をお詫びしたい。

【 関連情報 : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日

DSCN7870 DSCN7880北京清華大学のあちこちに植栽されていた <龍爪槐>。  花をつけ、実もおちてから、このような枝ぶりに剪定されている。  こうするとかえって翌春の枝ぶりがよくなるという。 DSCN7897 DSCN7895《 槐 えんじゅ/カイ を知るために 》
えんじゅ 【 槐 】 ヱンジュ ―― 広辞苑
( ヱニスの転 ) マメ科の落葉高木。 中国原産。 幹の高さ約10-15メートル。 樹皮は淡黒褐色で割れ目がある。 夏に黄白色の蝶型の花をつけ、のち連珠状の莢サヤを生じる。 街路樹に植え、材は建築 ・ 器具用。 花の黄色色素はルチンで高血圧の薬。 また乾燥して止血薬とし、果実は痔薬。 黄藤。 槐樹。 季語は夏。

【 槐 】 ―― 漢字源
① 省略 ( 広辞苑とほぼおなじ )
② { 名 } 三公。 また三公の位。 周代に朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事にもとづく。
<熟語>
【 槐安夢 】 カイアンノユメ   唐の李公佐の小説 『 南柯記 』 にある。酔夢のひとつ。
【 槐位 】 カイイ 三公の位。 『 槐座 カイザ ・ 槐鉉 カイゲン ・ 槐鼎 カイテイ 』。 朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事や、鼎カナエの三本足や、鉉ゲン(鼎の耳の金具)を三公にたとえたことから。
【 槐棘 】カイキョク  槐の木とイバラの木。 三公九卿をさす。
【 槐市 】 カイシ   漢代の長安の東方にあった市場の名。 槐を植え各地の産物 ・ 書籍 ・ 楽器を売買し、学問も論じたので、のち、大学の別名となった。
【 槐宸 】 カイシン  天子の宮殿
【 槐門 】 カイモン  三公 ・ 大臣の家柄

《 四川宋朝体 龍爪 と名づけられた 顔 真卿書風とは 》
いつも混乱がみられるので、まず<顔氏世系表>から世代を追って顔氏一族を紹介しよう。

【 顔 之推 がん しすい 】
531年-?  南北朝時代の学者。 山東省臨沂リンギのひと。 あざなは介。 南朝の梁、北朝の北斉・北周につかえ、さらに隋につかえた。 著書に 『 顔氏家訓 』 がある。
『 顔氏家訓 』 は七巻からなり、隋の601-04ころ成立した。 著者みずからの体験を基礎とした処世訓の書。 乱世を生き抜いてきた著者の経験 ・ 見解が広汎かつ具体的に述べられているので、当時の貴族の生活 ・ 社会の状況をうかがう貴重な史料とされる。

【顔 師古 がん しこ】
581-645年。 中国唐代の学者。 万年(陝西省西安市)のひと。 顔之推の孫で、唐二代皇帝太宗 ・ 李世民の近臣。 訓詁の学にすぐれ、『 漢書 』 の注釈を書いた。
太宗皇帝 [ 唐朝第二代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身も能書家であり、儒教の国定教科書として 『 五経正義  ゴキョウ-セイギ』 を近臣に編集させた。 そこで使用する書体として、編集協力者の顔 師古による正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいた。

【 顔 元孫 がん げんそん 】
?-714年。万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは聿修。 進士となり唐の高宗から玄宗の時代に活躍した。 顔杲卿の父親。 祖父 ・ 顔 師古の「 顔氏字様 」 の字体を、正体 ・ 俗体 ・ 通体に整理して、『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。

【 顔 杲卿 がん こうけい 】
602-756年。 唐代玄宗につかえた忠臣。 山東省臨沂リンギのひと。  常山の太守であったので、顔 常山ともされる。 唐の玄宗の末年(755-63)におこった安禄山父子、史思明父子の叛乱 「 安史の乱 」 で捕らえられ、安禄山をののしって殺された。 子の泉名と季明も殺された。
この従兄弟父子の死、とりわけ姪の李明の死を悼んで顔 真卿によって行草書で書かれた、追悼文の草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に現存する。

【 顔 真卿 がん しんけい 】
709-85年。 唐代玄宗の忠臣。 万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは清臣、諡は文忠、顔魯公とも呼ばれる。 「 安史の乱 」 に際し、平原太守として武功があった。 徳宗のとき叛乱をおこした李 希烈の説得にあたったが殺された。 書芸の評価はきわめてたかい。
四川宋朝体顔 真卿 (ガン-シンケイ  709-85) の生誕から1300年余が経過した。
この顔 真卿生誕1300年祭を契機として、顔 真卿の業績の再評価がなされ、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書芸展が盛んに開催され、関連図書の刊行もさかんである。

顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安碑林博物館

2011年09月、中国陝西省西安をおとずれた。
顔 真卿関連の石碑が集中する 「 西安碑林博物館 」 の 第3-4室 は、日中は中国人をはじめ、各国からの団体客が押しよせ、あまりの混雑で、ほとんど碑面の閲覧もできないほどの状態だった。
たまたまホテルが至近の場所にあったのを幸い、翌早朝に再度参観に訪れた。
このときもまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。
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robundo type cosmique には、この顔真卿書風に淵源をみる、四川刊本書体  『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 がある。
わが国では、顔真卿生誕1300年祭のことは、書法界の一部で話題になったものの、ひろくはあまり関心がもたれなかったようである。
そこであらためて、唐王朝中期の、忠義の志をもった政府高官にして、文武のひとでもあった顔真卿を紹介し、あわせてデジタル ・ タイプ 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 を紹介するとともに、この書体をもちいた名刺製作の実例をご紹介したい。

伝 顔 真卿の肖像画 中国版Websiteより 

《 顔 真卿書風を継承する、四川刊本と、四川宋朝体字様のふるさと 》
中国の西南部 ・ 四川省は、ふるくは蜀ショクとよばれていた。
蜀は唐王朝末期の板目木版による複製法、刊本印刷術の発祥地のひとつで、その刊本字様 ( 書風 ) は顔 真卿書法の系譜をひくものとされている。

また四川刊本は 「 蜀大字本 」 とも呼ばれ、
「 字大如銭、墨黒似漆 ―― 字は古銭のように大きく、字の墨の色は黒漆のように濃い 」
として高い評価がされている。
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強勢王朝として威をほこった唐王朝(20代、618-907)ののち、五代十国の混乱期をへて建朝された、宋 ( 北宋、960-1127 ) の時代にも、唐王朝官刊本の伝統的な体裁を四川刊本は継承していた。
また女真族の金国との争乱に敗れ、都を開封 ( 中国河南省の都市。黄河の南方平野に現存。 Kaifeng,  東京 ・ 汴ベン京とも ) から、臨安 ( 現浙江省  杭州 Hangzhou ) に移して建朝された南宋 ( 1129-1279 ) での刊刻事業の継続と、覆刻 ( かぶせぼり ) のための原本の供給に、四川刊本は大きな貢献をはたした。

ところが、こうした四川刊本も、相次いだ戦乱と、くり返しおこなわれた<文字獄>などの文書弾圧のなかに没して 、『 周礼 シュライ 』 『 新刊唐昌黎先生論語筆十巻 』 『 蘇文忠公奏議 』 など、きわめて少数の書物しかのこっていない。
そのような四川刊本の代表作が、わが国に現存する 『 周礼 』 ( 静嘉堂文庫所蔵 ) である。 

『周礼 シュライ』(巻第9より巻首部、静嘉堂文庫所蔵、重要文化財)

『 周礼 シュライ 』 は 『 儀礼 ギライ 』 『 礼記 ライキ 』 とともに中国の 「 三礼 サンライ 」 のひとつで、周代 ( 中国古代王朝のひとつ。 姓は姫。 37代。 前1100ころ-前256 ) の官制をしるした書。
『 周礼 』 は周 公旦 ( シュウコウ-タン、兄の武王をたすけて 商(殷)の 紂王 チュウオウ を滅ぼした。
周の武王の没後、甥の成王、その子康王を補佐して文武の業績を修めた。 周代の礼樂制度の多くはその手になるとされる ) の作と伝えるが、 『 周礼 』 の著者とその成立年度には議論もある。

『 周礼 』 は秦の焚書で滅したとされたが、漢の武帝のとき李氏が 「 周官 」 を得て、河間の献王に献上し、さらに朝廷に奉じられたものが伝承される。

本来 『 周礼 』 は 「 天官 ・ 地官 ・ 春官 ・ 夏官 ・ 秋官 ・ 冬官 」の六編からなるが、「 冬官一編 」 を欠いていたので 「 考工記 」 をもって 「 冬官 」 にかえている。
静嘉堂文庫所蔵書は 巻第九、巻第十だけの残巻ではあるが、南宋 ・ 孝宗 (127-200) のころの 「 蜀大字本 」 とされ、同種の本はほかには知られていない。
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《 顔氏書風にみる、龍爪と蚕頭燕尾 》
 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 は、林 昆範 ・ 今田欣一 ・ 片塩二朗の三名で構成された、ちいさな研究会 「 グループ 昴 スバル 」 の研鑽のなかで、主要なテーマとなったもので、『 周礼 』 を、なんども調査し、臨書し、試作をかさねるなかから誕生したデジタル ・ タイプである。

『 周礼 シュライ 』 の力強い字様には、横画の収筆や曲折に 「 龍爪  リュウソウ 」 とされる、鋭角な龍の爪ツメにも似た特徴が強調されている。 これは起筆にもあてはまり、またどっしりとした収筆も印象的である。
縦画の起筆にみられる 蚕頭 サントウの筆法は 『 周礼 』 においてはさらに強靱になり、龍爪に相対している。

このような顔真卿に特徴的な書法は 「 蚕頭燕尾 サントウ-エンビ── 起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている 」 とされ、また 「 顔法 」 とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いた。

この顔真卿の書風が四川刊本字様の手本となり、おおらかで力強く、独自性のある刊本字様へと変化したといえよう。 これはまた、工芸の文字としての整理がすすんだことをあらわし、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえる。

 『 四川 シセン 宋朝体 龍爪 リュウソウ  Combination 3 』 は、このような顔真卿書風と、四川刊本字様を継承した、あたらしいデジタル ・ タイプとして誕生した。
このように顔氏一族に伝承されてきた 「 顔氏字様 」 と、顔家伝来のその書風をさらにたかめた顔真卿の書風を、『 中国の古典書物 』 ( 林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97 ) では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。 その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝 [ 唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。 そこで使用する書体を、編集協力者の顔師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいたことが挙げられる。

「 顔氏字様 」 はのちに 顔 師古の子孫、顔 元孫 ガン-ゲンソンが整理して 『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいられた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された 「 顔氏字様 」 は、あたかも唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 


『 多宝塔碑 』 ( 原碑は西安 碑林博物館蔵 )

拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。 現在は繰りかえされた採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

顔真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、 「 一碑一面貌 」 とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔真卿の楷書による石碑の特徴である。
『 多宝塔碑 』 は、長安の千福寺に 僧 ・ 楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔真卿44歳の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 

行草書で書かれた草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 などの書巻は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に伝承するが、顔真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、晩年(780年、建中元年)の書作 『 自書告身帖  ジショ-コクシン-ジョウ 』 だけである。

《 四川宋朝体 龍爪 をもちいて名刺を製作する 》
デジタル ・ タイプ  『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 には、和字 ( ひら仮名 ・ カタ仮名 ) として  「 もとい、さきがけ、かもめ 」 の 3 種の和字がセットされている。
原字製作者は 欣喜堂 ・ 今田欣一氏によるもので、今田氏自身がWebsite内の 「 龍爪 」 において、詳細に設計意図、背景などをしるしているので、あわせてご覧いただきたい。 

この 『 四川 宋朝体 龍爪 Combination 3 』 は、おおきく使うと、まさに 「 龍爪 」 と名づけられたように、天空たかくかけめぐる飛龍のように、勇壮な、勢いのある書体として立ちあらわれてくる。
また、板目木版による刊本字様(書体)として、ながらく書物にもちいられてきた字様のため、12pt.-18pt. といったすこし大きめな本文用書体としても、十分な汎用性をもった書体である。

このくらいのサイズだと、もはや 「 飛龍、龍の爪 」 というより、かわいらしい 「 辰の落とし子 」 のような、素直な刊本字様としての姿が立ちあらわれてくるのも面白い書体である。 それだけにつかいやすく、個人的な意見で恐縮ながら、とても好きな書体でもある。

そんなためもあって、 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 の発売以来、この書体をもちいて名刺を印刷している。本心ではせめて 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも、原字製作者の了承をいただいて、金属活字をつくってみたいところであるが、なかなか意のままにならないでいる。
そこで下記のようなデジタルデータを作成して、軽便なインク ・ ジェット・プリンターで 「 出力 」 していたが、どうしても滲みがひどく、また紙詰まりがしばしば発生するので、困惑していた。

朗文堂には活版印刷事業部 「アダナ ・ プレス倶楽部 」 があり、「 Adana-21J,  Salama-21A 」 という活版印刷機の設計 ・ 製造 ・ 販売もおこなっているので、それを活用しないことはありえない。
たまたまコピー機が複合機にかわり、あわせてファクシミリ番号がかわったので、下記のデジタルデータをもとに樹脂凸版を作成して、「Adana-21J」による「 カッパン印刷 ≒  レター ・ プレス 」 を実施した。


印刷にあたったのは、粘り強く金属活字鋳造法を学んでいる日吉洋人さん。残念ですが小生が印刷すると、太明朝をもちいたために、字画が混みあっている  「 新宿私塾 」 の 「 塾 」 の字と、@メールアドレスの 「 @ 」 がインキ詰まりを起こして調整に難航する。

樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 とはいえ、なかなかデリケートなところもある。 ところが、さすがに日吉洋人さんはそんな障壁は軽軽とこなして、アッというまに 500 枚の名刺を刷りあげていた。

「 たかが名刺、されど名刺である 」。 とりあえずは軽便なコンピューター ・ プリンターで我慢できても、次第になにか物足りなくなる。 今回は樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 で製作した。
しかしながら、やはり金属活字による「活字版印刷」には、いまだに小生が言語化できないままでいる 「 Something Good 」 がある。 もちろん 「 Enything Bad 」 もあるのだが……。
ですから、いつの日か 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも金属活字をつくってみたい、そして胸をはってお渡しできる名刺をつくりたいというのが、目下の小生の見果てぬ夢であろうか。   

十五夜のお月さま――月に叢雲ムラクモ、花に風といいますね。月餅と最中、Flea Market 蚤の市

    DSCN7232 DSCN7238 DSCN7255《十五夜お月さまをきれいに撮影したかったが、叢雲 ムラクモ が邪魔をして……》 
長月ナガツキ 九月、09月08日は十五夜であった。旧暦 (陰暦 ・ 太陰暦) だと、この日は八月十五日となるので、この十五夜の名がうまれたようである。<活版 à la carte>にふさわしい話題かもしれない。
この日のお月さまを 「十五夜の望月 モチヅキ-満ち足りた月 ≒ 満月」と呼び、「仲秋の名月」とするのは、陰暦では07月を初秋、08月を仲秋、09月晩秋といい、その08月 仲秋の十五夜が満月となることからその名がうまれたとされる。

秋の名月をたのしもうとすると、雲が邪魔をし、また春の花(櫻)を愛でようとすると、風や雨が邪魔をすることがある。この日の夜も新宿の空には叢雲ムラクモがわき、なかなか「十五夜の望月」が撮影できなかった。
古人はそれを、<月に叢雲 花に風> とし、せっかくの風情をだいなしにしてしまうと嘆いていた。さらにそれが転じて、<よいことには、えてして邪魔が入りやすい> ことのたとえともする。

《中国の友人、清華大学 副教授 原 博 (yuán bó) 先生のおみやげは月餅だった》
中国 ・ 北京の友人/清華大学美術学院の副教授 原 博 (yuán bó) 先生が来日されて、2014年08月23日[土]、朗文堂アダナ・プレス倶楽部を訪問された。
原先生とは、昨年末、ことしのはじめと、二度にわたって北京でお会いしたが、日本でお会いするのははじめてであった。

おみやげに、
「まだすこしはやいのですが、北京の月餅です」
とはなされながら、下掲写真中央奥の赤い箱 「北京福香月餅-四味」 をいただいた。
目敏いノー学部は、中国の生活用品を描いた包装紙に、「月餅の型」 があるのをみつけた。

「この月餅の型と同じようなものは、ことしの一月、北京のフリーマーケットで買ってきました」
といって、木製の素朴な月餅の型を引っぱりだしてきた。
「あら、壽 字が彫ってありますね。よく見つけられましたね。これは実際に使われたものですよ」

この型は、ちょうど手鏡ほどの大きさのものであるが、月餅の包装紙の一部が開封のときに痛んでしまったので、そこに乗せて撮影してあるのでご覧いただきたい。
【 関連情報 : アダナ・プレス倶楽部ニュース 中国の友人、原 博さんがご来社に!】

DSCN7264 DSCN7290 DSCN7293《お菓子の 月餅と 最中モナカ の季節感とは
わが国の暦コヨミから季節感が乏しくなって久しいものがある。
そもそもほとんどのひとが、祝日(特に国でさだめたいわいの日)と、祭日(皇室の祭典をおこなう日。神道シントウで死者の霊をまつる日。祝日の俗称の意もある)の違いがわからなくなっている。またかつて存在した「旗日」などということばは、ほぼ死語となっている。
また、暦ならぬカレンダーのおおくは、日曜と祝日が平日とは色違いで表示されるくらいで、その日はいったいなんの祝いの日で、どうして休日になっているのかわからないままのことが多い。

ところで月餅である。わが国ではいまや、ほぼ四季を問わずみかけるお菓子であるが、08月23日に来社された原 博先生は、
「まだすこしはやいのですが、北京の月餅です」
と述べておられた。つまり中国の習慣では、08月23日はまだ月餅を贈りあうにはすこしはやいのである。
そう、月餅も最中モナカも、もともとは秋の、それも秋のさなか、仲秋(中国では中秋)のお菓子である。

気候の苛烈な中国にあっては、餡アンを主体として水分の多いこれらのお菓子は、夏ならすぐに腐敗するし、冬ならまもなく凍結してしまう。
これがおだやかな気候のわが国にもたらされ、さまざまに工夫され、また保冷 ・ 保温設備(かてて加えて防腐剤)の普及などもあって、四季を問わずに食せる、わが国にすっかり同化したお菓子となった。

「最中」とはおもしろいことばである。
すなわち漢の字の最中は、「最中 さなか ・ さいちゅう ・ もなか」とさまざまによまれる(和訓)。
お菓子の「最中モナカ」は、餅米の粉を蒸し、それをうすくのばして、餡をつつみこんで、月餅と同様に、陰暦の初秋、仲秋、晩秋の 「秋の最中サナカ、仲秋 ・ 中秋」 につくられ、食されていたものである。

この最中の由来には若干異論もあろうが、本来は望月 ≒ 満月を模して丸い形をしていた。それがいまや各地の名産品となって、形もさまざまに変化し、パンダ最中、くまモン最中までが登場するようになって、日持ちのよい、わが国のお菓子となった。
したがっていまや、秋よりは食感がおとるものの、真夏や真冬に「月餅 ・ 最中」を食そうと、それはそれで良いのではないかとおもっている。

 中国 ・ 北京の友人/清華大学美術学院の副教授 原 博 (yuán bó) 先生(中央)  DSCN7282

長月ナガツキ 九月、09月08日十五夜に、近くのコンビニエンス・ストア(便利商店)で買った月餅

《中国の中秋節は09月下旬に設定され、おおむね三連休となって秋の行楽のときとなる》
古来の暦法にならい、中国では翌年の祝日を、12月中旬になってから法定祝日として政府が発表するそうである。これではカレンダー製作業者などはおおごとかとおもえるが、
「秦の始皇帝のころから、暦はそうなっています」
と、平然としているのが中国人の奇妙さでもある。
【リンク:中国の祝日 2013年/2014年 カレンダー】。

いまの中国の法定の祝日には、元旦 ・ 春節 ・ 清明節 ・ 労働節 ・ 端午節 ・ 中秋節 ・ 国慶節などがあり、元旦(新暦の正月)は01日、春節(旧暦の正月)と、国慶節(1949年中華人民共和国建国記念日。10月01日)は07日、それ以外の祝日は03連休となる。
ちなみにことしの中国の中秋節は09月27日で、26日[金]-28日[日]の三連休となっている。

ノー学部がはじめて中国を訪れた2011年は、たまたまこの「中秋節」のときにぶつかって、各地で観光バスでやってくる観光客の大混雑に巻きこまれて閉口した。
中国南宋のみやこ、杭州(臨安)を訪れた日がまさにその日で、日中は残暑と人混みですっかり疲労した。
ところがノー学部は中国がはじめてというのに、どこでどうやって調べるのか知らないが、夜の水上ショー <印象西湖> を勝手に予約していていた。

 
夕暮れの西湖1 西湖の中秋の月夜のとばりがおりるころ、杭州西湖に中秋の望月が顔をだした。 それはそれはみごとなものだった。
灯ともしころになると、喧噪をきわめた団体客は宴会でもはじめているのか湖畔に静寂が訪れた。
そして西湖のほとり、岳飛(北宋末期の武将)廟前の湖岸(西湖岳湖区)に、昼間はみえなかった「収縮式ひな壇型客席」があらわれ、さまざまな国から訪れた観光客で1,000余人ほどの客席はびっしり満員となった。
さすがに国際観光都市 : 杭州だけに、おおきな団体客の姿はなかったが、バケーション ・ シーズンの混乱を避けていたとおぼしき、物腰のおだやかな欧州の老夫婦の姿もたくさんみかけた。またインド系やアラブ系の顔立ちや服装のひとも多かった。

<印象西湖>は西湖岳湖区の水上を舞台として、中国の山水を融合させたもので、中国江南地方の四季折折の自然の風景描写が幻想的な世界を演出していた。
このショーの監督は、中国映画の巨匠、北京オリンピック開会式の演出家 : 張芸謀ジャン イー モーで、音楽は日本の音楽家 : 喜多郎だった。幾多郎は、ドキュメンタリー番組 『 NHK 特集 シルクロード』 のテーマ曲で鮮烈な印象をのこしたひとだった(ウィキペディア : 喜多郎)。

湖畔に喜多郎の曲のしらべがながれ、やがてとおい湖面にポツンとちいさな月があらわれ、それがしだいに湖畔にこぎ寄せられ、おおきな月影となって水上ショーの幕が切って落とされた。
物語は杭州を舞台した民話<白蛇伝>をモチーフとして、若い僧と蛇の化身の恋物語だったが、湖面に設置された舞台でおどる200余名の華麗な舞踏と、喜多郎の哀切をおびた音楽がマッチして、観客は固唾をのんで見守っていた。
それを天空たかく、望月 ・ 満月の冴え冴えとした月が照らしだしていた。

こうしてノー学部にとって、二日目の中国の夜はしんしんと更けていった。
ホテルからは、ずっしり重い、おおきな箱入りの中秋の月餅が、宿泊客には無料でくばられた。

参考 : アダナ・プレス倶楽部ニュース エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に

印象西湖1 印象西湖2 印象西湖3 印象西湖5 印象西湖6

《中国公営のフリーマーケット 潘家園舊(旧)貨市場 のみの市ってなんでしょう》
2014年01月19日[日]、北京の友人の案内で、潘家園旧貨市場をたずねた。このときに買い求めたのが、先に紹介した「月餅の木型」である。
潘家園旧貨市場はふるくからあって、露天のもとで古物(中国では二手)や、安価な雑貨などを扱う、ちいさな個人商人が雑然と群れていた地区だったという。

近年これを整備し、一部を屋根付きの商場とするとともに、出店人 ・ 業者を2,000店(人)ほどとして、 細部はわからないが、登録制かつ時限を切った交代制として、行政の一定の規制のもとでの民衆市場イチバとしたそうである。したがって猥雑さのなかにある面白みはへったが、しつこい押し売りは無いし、治安もわりと良い地区に変貌した。
そのために、いまも潘家園旧貨市場という正式名称より、潘家園ハンカエン二手市場、百姓跳蚤市場とよばれて、おおくの民衆が訪れる場所となっている。
ただ、地下鉄の駅から潘家園旧貨市場までのわずかの間の道には、登録から漏れた(ときには悪質な)業者がしつこくつきまとうので用心が必要である。
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<二手市場> とはいいえて妙で、英語でも 「古物商店 Secondhand Store 」とあらわされる。どちらが先か、あるいは、たまたまなのかは知らない。
ところでここまで、この場所を <フリーマーケット> と紹介してきた。やつがれ、まこともって恥ずかしいことながら、この <フリーマーケット> とは 「 Free Market 」 だとばかりおもっていた。
まさか 「フリーマーケット Flea Market 」とは……。 露 しらなんだ。

賢明なる <活版アラカルト> コーナーの読者のみなさんは、上掲写真三枚目をご覧いただきたい。そこには赤地に黄色の字で <百姓跳蚤市場> とある。
「百姓」は、わが国とはいくぶんことばの位相がことなり、人民 乃至 民衆 ・ 市民の意である。そのあと、蚤ノミが跳びはねる市場イチバ、すなわちここは「蚤の市イチ」である。

ここですこし考えた。 「蚤 ・ のみ ・ ノミ  Flea だよな。発音はフリーで良かったかな ?  ……アレッ ! 」
あとはもう恥ずかしいから、「フリーマーケット」 でも、「蚤の市」 でもなんでも辞書で調べていただきたい。

「蚤の市」 の語源はフランスにあるようだが、英語での 「Free Market」 はむしろ経済学の学術用語であり、「自由競争によって価格と数量の決まる市場シジョウ」とされる。市場 シジョウ と 市場 イチバ は、どういう定義がなされるかつまびらかにしないが、あきらかにちがうのである。
したがって英語でも、ロンドンや、ウィーンの「蚤の市イチ」、そしてこの潘家園旧貨市場のようなところは、多くの英和辞書では、<Flea market   露天の古物や安物市場イチバ ノミの市イチ> とされている。
これからは 「蚤の市」 の主催者は、「Free Market」 と気取って英語表記すると……。

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と、まぁいろいろ考えさせられる場所が潘家園旧貨市場である。民衆は出店者と値段交渉の駆け引きをたのしみ、もしかするとめぼしいものでもないかと、気楽に散策していた。同行した友人は、
「ここの出土品というのは、ほとんど嘘だからね」
とわらってのんびり歩いていた。幸いやつがれも古物愛玩趣味は無い。

このコーナーにもしるしたことだが、欧州諸国と同様に、中国でも図書と雑誌は明確に区別されている。すなわち図書(書籍)は、二手書店と呼ばれて、潘家園旧貨市場に隣接したビルに、わりと良質な古書店が十数件ある。こちらは鍵付きの堅牢な書棚がずらりとならんでいる。
ところが雑誌類は、こういう蚤の市の地べたか、せいぜいビニールシートの上に並べておかれ、二次循環の客を待つ。また二手書店で買い手がつかなかったわずかな図書も、ここには安い価格で陳列されている。 DSCN2798 DSCN2802 DSCN2804 DSCN2807 DSCN2809 DSCN2812 DSCN2813 DSCN2814 DSCN2850 DSCN2852 DSCN2857 DSCN2859