月別アーカイブ: 2016年10月

【会員情報】 富山県の瓜生(正成)美雪さんのあたらしいイベント『ぶっく寺す BOOK TERACE』 Vol.2  於/真宗大谷派 雲雀山 念興寺

20161031135029_00001 20161031135029_00002無類の図書と犬好きで、『活版凸凹フェスタ』でも犬や図書をテーマにアートワークを展開していた「正成みゆき」さん。富山で結婚して「瓜生みゆき」さんに。
ご主人は真宗大谷派 雲雀山 念興寺の住職 ・ 瓜生義寛さん
ことしは新生児をかかえて元気に『BOOK TERACE  ブック寺す  Vol. 2 』を企画。
会期中は早朝10時より、ご住職によるお勤めとご法話もありますよ。

瓜生-正成-夫妻 写真[1]瓜生(正成)みゆきさん/瓜生義寛住職 2015年秋撮影

◎『BOOK TERACE  ブック寺す』 Vol. 2
11月26・27日[土・日] 10:00 → 17:00
◯ 会 場 : 念興寺 庫裏
938-0103 富山県下新川郡入善町舟見一一三六
電 話 : 〇七六五―七八―一二五二

台湾{字田・活字排版研究室}髙 鵬翔さんらが活字盒をひっさげて来社 意欲満満テイクノートが早くて正確なこと見事まで

DSCN8318 DSCN8327IMG_2740 写真右からおふたりが台湾の皆さん

2016年10月28日午前、台湾から三名の活版印刷実践者の若者が来社。
活字版印刷(活版)といいながら、いつのまにか樹脂凸版印刷が増加したわが国とくらべ、台湾では金属字の供給がまだ円滑ですし、不足活字母型の新規彫刻も順調です。

髙 鵬翔さんはそんな台湾の活字供給事情を背景として、「活字は苗、込め物は土。できた活字のコマは 漢字 田 に見える」とされ、みずから{字田}と名づけた紙製簡易活版印刷キット{活印盒}を開発されています。
昨今モチベーションが低下気味で、スマホパチリで事すめりとする日本の造形者とちがい、質問連発・商品購入に積極的でした。考えさせられることの多かった金曜の朝でした。

【おかわかめ倶楽部】 妙な会が結成されたらしい。活版カレッジ・アッパークラス独身男性中心に食用植物{おかわかめ}の育成をはかる

IMG_7756◯ 2016年10月25日@メール
こんにちは、おかわかめ倶楽部 大石です。
添付の写真は、日吉さんのおかわかめの状況です。もうそろそろ食べられそうですね。
皆さまの{おかわかめ}の生育具合はいかがでしょう?
なお先月の活版カレッジ・アッパークラス月例会の際は、バッカス松尾さん、真田さん、日吉さんには、挿し木の状態の{おかわかめ}をお渡しし、田中さんと千星さんには「ムカゴ」の状態の{おかわかめ}をお渡ししました。部位によっても生育に差があるかもしれません。

◯ 2016年10月27日 バッカス松尾氏携帯メール
げげ、うちのはほとんど育ってないです。。
陽当たりがわるいからかなあ。

◯ 2016年10月27日 大石@メール
私の予想では、バッカス松尾さんより、真田さんの{おかわかめ}が
一番育っていないのではと思います。

なにしろ水を霧吹き程度しか遣っていないそうですから……。
土の渇き具合と生育具合にもよりますが、
この時期なら、毎日コップ1杯程度は水が必要かと思います。
今夜のアッパークラスでもすこし配布するので、
おかわかめ倶楽部のメンバーが増員されます。
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{ 新宿餘談 }
DSCN8259空中花壇園芸家 のやつがれとしてはですね ―― コホン。
{おかわかめ}のようなつる性の植物は、時を見計らって芯芽を摘むこと。さもないと針金のように、ただただ上にのびるだけになる。
適宜芯芽を摘むことによって、脇芽がのびて、枝ぶりがにぎやかになる。

ところで広島市植物公園の島田由紀子氏は、「みんなの趣味の園芸-オカワカメの基本情報」のなかで、{おかわかめ}の原産地は熱帯アメリカや熱帯アジアであって、日本には中国から長寿の薬草として伝わり、雲南百薬(うんなんひゃくやく)とも呼ばれていて、植え付けの時季は五月前半が好適とされている。
それなのにウチのノー学部育種科は、昨夜10月27日の<活版カレッジ>アッパークラスの月例会で、数名の会員に黒ポットの熱帯植物{おかわかめ}の幼芽をわけていた。どんな教育を受けてきたのか不安になった夜だった。

それにしても、つい先日本欄に[【空中花壇】 花のときから種のときへのうつろい 薬草ともされる{おかわかめ}が時季はずれの緑のカーテン]を紹介したばかりである。ふり返ってみると、その頃のノー学部育種科の挙措が不審であった。園芸家には内緒で、{おかわかめ}の移植に励んでいたらしい。

なによりも2010年10月02日、都下あきる野市五日市町の「ふるさと工房・軍道紙」からわけていただいた種子から育った「トロロアオイ」である。この花を吾が空中花壇の女王として丹精込めて育てていた。
DSCN7556ことしは元気で、いちにちに七-八輪の花をつけることもあった。花は短命で、早朝に開花し、午後にはしぼんでしまう。
だから早朝からノー学部はすかさずベランダに出て、お得意かつ唯一の農器具「小ばさみ」をもって、花弁をチョキチョキ切りとってしまう。それを刻んで、だし汁をかけてムシャムシャと食す。そして、
「おいしいね。おいしいでしょう」と無理をしいる。
園芸家としては、せっかくの花を切られ、内心泣くおもいであるし、怒りにふるえてもいる。
ただ口惜しいことに「トロロアオイ」の花は食しても旨いのは事実である。

《 プラハの園芸家 : カレル・チャペックとは 》DSCN0063DSCN0025DSCN0027DSCN0005チェコのプラハ第10区に「チャペック兄弟通り  BRATŘİ ČAPKŮ」と名づけられた小高い丘への通りがある。そこの頂上部に連棟式の二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーターの兄 : ヨゼフ・チャペックの住居で、現在は孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家・作家の弟 : カレル・チャペックの住居跡であるが、こちらは現在は無住でプラハ第10区が買収済みだというが、どちらも非公開の建物であり、庭園である。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、邦題『園芸家の一年』、『園芸家の12ヶ月』がある。
20161027164925_00001イラスト : ヨゼフ・チャペック
チャペック01 20161027164925_00002翻訳書も手軽に入手できる。『園芸家12ヶ月』(カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。

本書のなかでカレル・チャペックは「園芸家・栽培家・農業家」の違いをのべて、みずからを園芸家と規定している。すなわち園芸家とは栽培家や農業家とはことなり、食彩や食材をもとめるのにあらず。
したがって、やつがれも空中花壇の園芸家を自負する身なれば(頼りないけど)、丹精こめて育成した「トロロアオイ」の花を食すなどもってのほか、まさしく外道の行為なのである。

それでもあの「トロロアオイ」の花は新鮮でうまかったなぁ。

【タイポグラフィ学会】 第12回 タイポグラフィ学会 総会 が終了しました

2016-Sokai{タイポグラフィ学会事務局}
去る9月25日日曜日「第12回 タイポグラフィ学会 総会」を開催、無事に終了いたしました(会場:学校法人 専門学校 東洋美術学校)。
総会の討議ではタイポグラフィに関する学術的な研究や活動を支えるべく、より充実をはかることを具体的な提案をもって議論や意見交換がされました。
今年度は「タイポグラフィ学会誌」09、 10号の刊行、論文発表会などが計画されております。
【 詳細 : タイポグラフィ学会 】

【展覧会】 アール・ヌーヴォーの装飾磁器-長崎歴史文化博物館 10月29日-12月4日

top[1]長崎歴史文化博物館
特別展 アール・ヌーヴォーの装飾磁器
2016年10月29日-12月4日

アール・ヌーヴォーは、欧米で19世紀末から20世紀初頭にかけて全盛を極めた工芸や建築、グラフィック・アートなどの多岐にわたる装飾様式で、流れるような曲線によって構成されていることを特徴とします。
こうした流行は、同時代における陶磁器のデザインにも顕著であり、美しく優雅な作品や東洋陶磁に倣った作品が次々と誕生していきます。これは、透明釉の下に多色の模様を施すような釉下彩をはじめとする新しい技術や技法の開発があって、初めて可能になったものといえます。

本展は、アール・ヌーヴォー様式によるヨーロッパ名窯の作品の数々を、国内において総合的に紹介する初の展覧会です。1889年と1900年のパリ万国博覧会を軸に、釉下彩を伴ったセーヴルやロイヤル・コペンハーゲン、マイセンなどの作品を中心としながら、上絵付や結晶釉などの加飾による作品をまじえて幅広く展示します。
さらに日本との結びつきを示す作品、および関連するリトグラフや素描、書籍を併せた約200点によって多彩な様相を紹介していきます。
【 詳細 : 長崎歴史文化博物館

【会員情報】 「さくらとカトリ」原画展 ― 活版印刷と手製本で綴る bonami の絵本

Bonami
 ボナミ について
 杉山聡 三木葉苗 三木咲良さん のトリオ。
神奈川県の小さな港町、真鶴のアトリエで
手製本、活版印刷などを用いた本や紙のものを制作しています。
Bon ami ( ボナミ ) はフランス語で 「 なかよし ・ 良き友だち 」 の意味。
私たち 3 人は、はじめて出会ったその瞬間から仲良しになりました。
そのことが、私たちの人生でいちばんの彩りです。
浮き沈む日々も、ただ、こう言います。 「 私たちは Bonami ( なかよし ) です。」
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14732406_1201753513219563_7595065329524020049_n[1] 14642245_1201753563219558_3040576334187178760_n[1]Gallery éf URL 】

【文字壹凜】スタートから317投稿をもって一年が経過 縦組みブログとして洋約物との闘いに終始 さしたる感慨はない

<活版 à la carte>と姉妹関係にあるのが、朗文堂<文字壹凜>です。
文字壹凜>の特徴は、縦組み式ブログにあります。
そんな<文字壹凜>がスタートから一年を迎えました。

文字壹凜ロゴresize烏兎匆匆、光陰矢の如しといいます。一年、365日、315投稿が多いのか少ないのかわかりません。
ただし<文字壹凜>では可読性 Readability に配慮して、ブログ縦組み方式にこだわったため、デバイスごとに変化する洋約物のバケに苦悩した一年でした。

11月24日~29日  →  11月24日-29日
東京~大阪      →  東京-大阪

とりわけ「~ Wave dash  波ダッシュ JIS 記述記号 面句点:1-01-33」を、「◯日~◯日」、「京都~博多」のように、「から」の意での「~ 波ダッシュ」の使用は、縦組み時の社内規定もあって忌避しました。
その「代替記号」には苦慮しましたが、管理人の助言もあって、現在は「│ Box drawings light vertical 縦細線素片 シフトJIS:84A0」という妙な記号をもちいています。

これは横組みではほとんど問題がありませんが、こと縦組みとなると、その前後にデバイスによっては「縦 なか 横」が多発しました。 一度だけ妥協して「~ 波ダッシュ」をもちいましたが、結局意をつよくもって戻しました。
文字壹凜>は読者のご海容にすがって、もうしばらく孤独な挑戦を継続します。

それにしても専用ワープロの時代には、縦組みにさほどの苦労はしなかったと記憶しています。ですから現代のパソコン縦組み環境には物足りなさをおぼえます。
縦方向へ視覚を誘導する「字」記号のひら仮名・カタ仮名をもちいる日本語テキストでは、まだまだ縦組みへの需要があります。
変革のために数は力でもあります。日本語テキストの可読性 Readability 向上のため、「活字ばなれ」を防ぐためにも、勇気をもって「縦組みブログ」への、若く、意欲的な、あたらしい挑戦者の登場を待望する昨今です。

 

【空中花壇】 花のときから種のときへのうつろい 薬草ともされる{おかわかめ}が時季はずれの緑のカーテン

DSCN7556 DSCN8261 DSCN8260 DSCN8259吾が空中花壇の女王「とろろあおい」は、ことしは、年越しのふるい株と、五月連休明けにあわてて播種したもの、二鉢五株が育った。
二鉢ともに9月下旬から10月初旬にかけて花をたくさんつけた。そこでノー学部が勝手に摘んできたトロロアオイの花弁をはじめて食した。感想は無い(怒)。いまは種を懸命に育てている。
けなげに紅白の花をつけ続け、蝶や蜂が戯れていた秋桜・コスモスはさすがに疲れてきた。

吾が空中花壇の園芸家はどこか間抜けで、しばしば草花の種苗購入や播種時季をはずす。
したがって空中花壇では、北海道からは雪だよりもきかれる昨今なのに、ここにきて元気に緑のカーテンをつくっているのが「雲南百薬 おかわかめ」(画像集)である。
晩夏に気紛れに買った黒ポット一鉢から、挿し芽・ムカゴでどんどん殖えている。サラダ・味噌汁での食感は、ぬるぬるしてまさにわかめそのもの。「おかわかめ」とはいいえて妙である。来春はトロロアオイの種子とともに、「おかわかめ」の会員配布が増えそうな勢い。

実りの秋の越後路新潟で新潟会員との熱い交流ふたたび[Ⅲ] 9月30日-10月2日 最終日10月02日編「三条鍛冶道場」ほか

759739c254d60d36087880ab103460c0[1]{ 承 前 }
Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 イベント名 】  Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 展示 期間 】  2015年10月10日[土]-12日[月・祝]
【 会       場 】  「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」
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あついこころの交流があった<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>からほぼ一年。
2016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびあわただしく旅をした。今回もまたサラマ・プレス倶楽部 新潟会員の多大なご支援をいただいた。

会員の皆さんは多忙な秋の日日とあって、今回の新潟旅行は三日間とはいえ、中途帰京・中途参加と、在京会員九名の出入りがはげしく、二日目の10月01日[土]長岡市(旧栃尾市)軽井沢の「紙漉 サトウ工房」でのワークショップが、新潟会員四名も加わって最大人数の参加であった。

したがって整理の都合上、旅行行程からいうと逆順、つまり二泊三日の旅のうち、最終日の10月02日[日]から紹介したい。
それでも三回連載の本項の紹介は、ブログロールでは降順にアップされるので、のちからみれば行程順になる・・・・・・といいわけをばしておこう。

◎ 10月02日[日]-最終日午前中 長岡周辺 博物館めぐり
「馬高縄文館 (愛称:火焔土器ミュージアム)」、「新潟県立歴史博物館」


前夜は長岡駅周辺のホテルに宿泊していた数名の参加者が、早朝08:30長岡駅前に集合。
「紙漉 サトウ工房」佐藤徹哉氏の車などに同乗して、「火焔土器」の発見で知られる「馬高・三十稲場遺跡」の隣接地に、火焔土器をテーマとした日本で唯一の博物館として設立された「馬高縄文館(愛称:火焔土器ミュージアム)」と、「新潟県立歴史博物館」の参観に出発。
top_mainfigA[1]馬高縄文館(愛称:火焔土器ミュージアム)」にはやつがれもおおいに関心があったが、なにぶん早起きが苦手なことと、初日「光の館」の大風呂で長湯をしすぎて風邪気味だったのでスルーした。

あとで加久本くん、大石に、
「馬高縄文館、火焔土器ミュージアムはどんな感じだった」
と感想を聞いたところ、
R0056770tei「こんな凄い迫力の縄文土器がいっぱい」
として、とったポーズが上掲写真(春田さん写真)。わが国縄文時代の火焔型土器とは斯様な姿であったらしい。
いずれにせよ、質問相手を間違えた。このふたりが一緒になるとろくなことは無い。

朗文堂サラマ・プレス倶楽部には、「おかわかめ倶楽部」、「掃苔会」などのいくつかの分科会がある。そのひとつ、<本邦ラーメン文化研究会 会員:真田幸文堂 ・ 横島大地>はいくら会員募集をしても「肥満のもと」としてたれも新加入しないようだ。
そのふたりぼっちの会員の横島大地さんは、ここで仕事のため、泣く泣く新幹線で帰京した。それでもやはり横島さんに聞くべきだった。

東京国立博物館蔵 ウィキペディアより火焔型土器参考図版 ウィキペディアより
「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されている火焔型土器(列品番号J -39036)

◎ 10月02日[日]-最終日午後 燕市/三条市へ移動
「燕市産業史料館」、「三条鍛冶道場」、「燕三条地場産業振興センター」、「ととや(魚屋)」

午後13:00 ふたたび長岡駅前に集合。午後からはイラストレーターにして、パワフルな造形者「しおた まこ」さんが乗用車に乗ってわざわざ新潟からの参加。
しおたさんのご自身の紹介によれば、以下のようなかたである。
「プロフィール : 新潟在住のユルいイラストレーター。三人の男の子に君臨するアマゾネスの母。そして自称キュートでセクシーな妻」。
たまたま「しおた まこ」さんの個展<ひとり文化祭>が東京・青山で予定されている。皆さんの参観をお勧めする次第である。
しおたまこ個展 しおたまこ02午後からは佐藤さんと、「しおた まこ」さんの二台の車に分乗して、長岡から燕市・三条市方面をめざして北上した。

上越新幹線の「燕三条駅」は燕市と三条市の市境に設置されている。この両市は隣接しているが、もともと旧選挙区の地割りでは、燕市は新潟一区、三条市は故田中角栄が地盤としていた新潟三区であったため、なにかとライバル心が強かったという。
そのため新幹線の駅舎の位置や駅の名称で紛糾し、議論の末に、駅名を燕を先にした「燕三条駅」とし、駅長室を三条市側に配置して、駅の所在地を「三条市」とすることで最終的に合意したという。

燕市は新潟県の中央部に位置し、ゆたかな田園がひろがってものなりがゆたかである。
また洋食器の生産では世界的なシェアを誇る工業都市でもある。
三条市もまた穀倉地帯でありながら、金属加工を中心に栄えたこともあって、この両市はふるくから競合しながらも相互補完の関係が深く、燕は「職人の町」、三条は「商人の町」とも称されている。

<燕市産業史料館>
燕市産業史料館 野鍛冶・和釘 DSCN8117 DSCN8146燕市産業史料館をたずねるのは、田中さんら古参会員にとっては二回目。むしろ地元の「紙漉 サトウ工房」さん、「しお たまこ」さんが熱心に参観。
野鍛冶の現場再現、木製の大型ふいご(鞴)の展示が改善されていた。また「和釘」の見本がたくさん陳列されていた。

東京築地活版製造所出身の最後の活字父型彫刻士とされた安藤末松は、こうした砂鉄からつくられた良質の和釘が活字原字の彫刻刀に最適だとして、ふるい土蔵の取り壊しなどがあると、しばしば出かけて貰いうけて彫刻刀に研磨していたとされる(参考 : 『活字に憑かれた男たち』片塩二朗 朗文堂)。
この「燕市産業史料館」の参観をおえて、車で10分ほど、「三条鍛冶道場」で参加者は和釘ならぬ市販の五寸釘と格闘してペーパーナイフをつくることになる。

<三条鍛冶道場>
DSCN8230 DSCN8234DSCN8177 DSCN8181三条鍛冶道場」で 鍛冶の世界を体験
鍛冶の世界は、叩く(鍛造)の技術だけでなく、砂鉄と炭から鉄と鋼を生み出す独特の製鉄方法や、熱処理(焼き入れ・焼きなまし)、削る(研削)、磨く(研磨)、刃付けなど、多様な範囲にわたっている。

三条鍛冶道場」のワークショップ、「五寸釘からペーパーナイフ作る」では、いまやさすがに炭火や木製ふいご(鞴)にかえて、コークス炉、電気送風ファンをもちいるが、伝統鍛冶独特の、叩く、ねじる、削る、磨くの工程を体験し、より広い鍛冶の世界を味わうことができた。
DSCN8168この市販の五寸釘(意外におおきい)が、みごとに「ペーパーナイフ」に変貌する。
古来鍛冶士や鋳物士は、紅蓮の火焔を怖れ、敬い、火焔から製造され再生する金属機器や鋳物に執着する特殊技能者であった。

かれらの心性は、火をあがめ、おそれてきたので、すっかり近代化した工場のここ「三条鍛冶道場」にもひっそりと火伏せの祭神が祀られていた。
[参考:花筏 平野富二と活字*02 東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗
DSCN8172 DSCN8227 DSCN8177 DSCN8179 DSCN8181 DSCN8187 DSCN8191 DSCN8193 DSCN8196 DSCN8197 DSCN8205 DSCN8206 DSCN8213 DSCN8208 DSCN8214 DSCN8225DSCN8229作業中は火の粉が飛び散るので、眼球保護のためゴーグルをつけ、ともかく火傷防止。
できあがった「自作ペーパーナイフ」を手に、満足げな会員の皆さん。しばしスマホ写真の撮り合いと、うれしそうな自撮りがつづいた。
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このあと、しおたさんお勧めの「燕三条地場産センター物産館」にたちよる。今回の旅では唯一のお買い物タイムとなった。
足指の爪が曲爪で悩みがつづいていたやつがれは、ここでチョイと高かったが爪切りを購入。これは絶品、やつがれもお勧めしたい。長年の悩みが解消される切れ味だった。

旅の最後の〆は「和旬喰燗 魚家 TOTO-YA」。18:00予約済み。ここもしおたさんお勧めの店。
ともかくいうことなし。旨かったし、安かった。これで上戸ならばここに越後の銘酒がくわわり、さらに印象はふかくなるのだろうが・・・・・・。いずれにせよいうことなし、お勧めの店である。

収穫の多い旅だった。佐藤さん、しおたさん、松尾さんといった新潟会員にすっかりお世話になった。また新生児を抱えているため顔は見れなかったが山下情報もずいぶん助かった。
そんなおもいでを胸に燕三条駅20:31「Max とき348号」東京行きで帰京した。

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【ミサワ バウハウスコレクション】 第29回企画展 バウハウスの教室

20161023093436_00002 20161023093436_00001ミサワ バウハウス コレクション
「バウハウスの教室」展を開催

◯ 第29回企画展はバウハウスの教室を紹介 
◯ バウハウスの教室をのぞきに行こう。 
◯ 2016年10月17日-2017年2月4日まで無料で一般公開
◯ 水・土・日・祝日および12月28日-1月4日は休館
◯ 10:00-12:00、13:00-17:00(金曜のみ-19:00)
◯ 同館は予約制です。開館日時に注意して予約の上お出かけください。
予約受付電話番号 03-3247-5645
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第29回企画展は、「バウハウスの教室をのぞきに行こう」というキャッチフレーズどおり、実際にのぞくものがたくさんある展覧会です。
また、イッテンやクレーの出した課題を実際にやってみる「自習室」も完備。
エピソードを読み、教室をのぞいて、課題に取り組み、かつての学生たちの習作を見る、盛りだくさんな内容ですので、是非とも時間に余裕をもってお越し下さい!
【詳細紹介 : ミサワバウハウスコレクション

【会員情報】 しお たまこ個展 ー ひとり文化祭 ー

しおたまこ個展 しおたまこ02
イラストレーター しおたまこ個展「ひとり文化祭」

2016年11月12日(土)-17日(木)
11:00-19:00(最終日は17:00まで)
ギャラリー ニイク

ちまたでは、文化祭、学園祭、芸術イベントが目白押しの季節。
しおたも自力で「ひとり文化祭」なるものを開催することにしました。
今までの仕事(紙媒体)の枠をはずして、自由に布、木、和紙、陶器などに
しおたのイラストレーションをのせて制作した、作品、商品などの展示,販売を行います。
ワンピース、ニットストールから、カミモノ、布雑貨、変りこけしまで。
しおたがけっこう濃縮されております、お気をつけ下さい。

< しおた まこ プロフィール>
岡山県生まれ。東京生活を経て、今は新潟在住。
女子美術大学短期学部 造形学科卒業。
広告代理会社勤務後、フリーイラストレーターに。
生活、女性、子供、食、医療系などの雑誌を中心
にイラストレーションを制作。
その他、装丁、広告、パッケージ、テキスタイルなど。

{ 新宿餘談 }
新潟のしおたまこさんといえば、なんといっても昨2015年10月10-12日、豪農の館:北方文化博物館で開催した<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>での大活躍です。
その準備期間中の告知はおもに<サラマ・プレス倶楽部ニュース>で、報告記録はおもにこの<活版 à la carte>にたくさんあります。
759739c254d60d36087880ab103460c0[1]20151011viva_0006それだけではありません。<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>で体験した新潟の秋があまりにすばらしかったので、つい最近、2016年09月30日-10月02日にかけて、サラマ・プレス倶楽部有志が何人もで新潟旅行に出かけました。その報告は近日中に(汗)。
DSCN8066ほんのお詫びに、栃尾の「紙漉サトウ工房 サトウ徹哉」さんの工房訪問のおりの写真を紹介。紙漉き作業中の「イラストレーター しおた まこ」さん、それを見まもる「sketch & note 松尾和夏」さんの両新潟サラマ・プレス倶楽部会員です。

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 19】 長崎の〝ふううけもん〟安中半三郎『辞世の句』

長崎バーナー

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料 DSC_2488[1]上) 櫻馬場「私立長崎盲聾学校」校舎落成記念 明治41年(1908)[読者のご教授による]
下) 『史跡 盲唖學校跡』 碑-この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは1メートルにも満たない大きさで、桜馬場町の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

長崎県立盲学校」、「長崎県立ろう学校」は、安中半三郎を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立された。同年9月12日開院。
その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として授業を開始した(以後この日が開校記念日)。

九州初の盲聾教育機関であったため、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続け、そのため校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くことになった。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしてきた。
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設された。

現在この両校は、大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

DSCN6175-627x470[1]長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
安中半三郎は大正10年(1921)69歳をもって卒した。墓碑は本蓮寺脇の特設墓地にあるが、葬儀は神式として執りおこなわれた。フェンスで囲まれふつうは立ち入りができない。

<安中半三郎 辞世の句>
     酒飲めば 浮世をよそに 捨て小船
     ただようてこそ たのしかりけり

【展覧会】 根津美術館 開館75周年特別企画展 円山応挙 ―― 「写生」を超えて

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根津美術館 開館75周年特別企画展
円山応挙――「写生」を超えて
◯ 会  期 : 2016年11月3日[木・祝]-12月18日[日]
◯ 会  場 : 根津美術館 展示室 1 ・ 2 ・ 5
【 詳細 : 根津美術館 展示
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円山応挙(1733-95)は、「写生」にもとづく新しい画風によって、日本の絵画史に革命を起こした画家です。
そんな応挙の「写生画」は、超絶的かつ多彩なテクニックによって支えられています。
しかし近年、写生ないし写生画ということばだけではとらえきれない応挙の多面性、作品世界のバックグラウンドが指摘されることも多くなっています。

本展は、応挙の生涯を代表する作品の数々を、根津美術館の展示空間の中であらためて見つめ直そうとするものです。あわせて、さまざまな可能性を秘めた若き日の作品、絵画学習の痕跡を濃厚にとどめた作品、そして鑑賞性にも優れた写生図をご覧いただきます。
「写生」を大切にしながらも、それを超えて応挙が目指したものは何だったのかを探ります。

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 18】 『東来和歌之碑』 全文釈読紹介 長崎諏訪公園噴水広場 

長崎バーナー

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安中半三郎  ◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1他) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)

長崎公園は、明治6年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園である。
秋には「長崎くんち」で著名な諏訪神社と合わせ、「諏訪の杜」として、中心市街地でありながら、樟を中心とした常緑照葉樹の巨木がしげり、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩いの場として市民に親しまれている。
その一画に日本最古といわれる装飾噴水があり、石灯籠とならんで、いくつかの碑が建立されている。

噴水広場の中心をしめるのは、『池原翁元日櫻長歌幷短歌碑』(大正3年7月建立)である。
この碑に関しては春田ゆかり氏が「書と活字のはざまにいた池原香穉」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代活字文化保存会編 2003年9月30日)をあらわし詳述している。

噴水のかたわら、山際にふたつの碑が寄りそうように建立されている。
ひとつは『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)で、ほとんどの資料には「長崎文庫や盲唖学校の創始者である、安中東来(半三郎)の和歌35句が刻まれている 」程度の解説をみる。
ひとつは『月の句碑』(長崎俳画協会 昭和63年10月16日建碑)で、「俳人向井去来と山本健吉を讃える碑」とされている。

安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい  1853年12月29日[嘉永6年11月29日]-1921年(大正10)4月19日 享年69)は、たしかに長崎文庫の創立により、現長崎県立図書館の創立者のひとりとされる。
また安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」が創立され、それは現在の長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校につらなっている。
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このように事業家・慈善家・篤志家といった一面のほかに、安中半三郎は
明治期長崎がうんだ稀代の奇妙人・酔狂人であり〝ふうけもん〟ともされた。
とりわけ「安中書店・虎與號 トラヨゴウ 」での出版活動、大阪に谷口黙示らが下阪し、平野富二らが東京に上京したのちの長崎活版製造所において、西道仙・松田源五郎らと編集・刊行にあたった第一次『長崎新聞』など、出版・印刷人としての側面も順次紹介したい。

今回は「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN」から、まず、「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る 長崎素平連」。筆蹟 テ は安中半三郎のものかどうか判明しない。

活字版 櫻木よりも 世に薫り   東  来
統合安中半三郎狂歌◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)
!cid_6AC995D2-53A7-4D09-A25B-A6F4E50A4BEF !cid_EC83C279-446A-47AC-BA75-5D024AF4F963 !cid_1140D8C2-683C-4C9D-9A63-BA89FF00FE4D歌碑『東来和歌碑』は、碑面の損傷がおおく、またいわゆるお家流風の流麗な筆致で書されているため、これまで35句におよぶ碑文の紹介がなされることがすくなかった。
歌の製作者としては、末尾にわずかに安中半三郎の号「東来」があるが、碑文の建立者、年度などはみられない。
これは安中半三郎独特のテレもあったろうし、『類代 酔狂句集 初編』(編輯兼出版人:安中半三郎 長崎市酒屋町四十四番戸住居 明治17年4月出版)をあらわし、事業家・篤志家としても著名だった半三郎にとっては、明治中期-大正初期にかけては、「東来」の号だけで長崎市民には十分だったのかもしれない。

さいわい、資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)に長崎の金石文の多くを活字文章におきかえた記録がのこっていた。また本稿には春田ゆかり氏のご協力もいただいた。
この釈読はおもに同書によったが、もとよりこの分野は専門ではない。誤謬にはご叱正をたまわれば幸甚である。

【 関連 : 花筏 【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎  】
【 関連 : 文字壹凜 「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る」

【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎

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安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

安中半三郎翁紀念碑『安中翁紀念碑』
長崎県立盲学校 校門左脇在

明治長崎の印刷・出版・文化史において看過できない人物に安中半三郎がいる。
これまではおもに「長崎学」の分野において、慈善家、篤志家、ときとして〝ふうけもん〟として、わずかに触れられる程度であった人物である。
先般長崎史談会顧問:宮川雅一氏より虎與号・安中書店店主/安中半三郎の資料を拝借することができた。

ここではまず安中半三郎の功績者としての側面を、長崎県立盲学校と、長崎県立ろう学校の資料「安中翁紀念碑」から紹介したい。
「安中翁紀念碑」は、大正11年(1922)11月、安中半三郎の一周忌に際して、長崎市桜馬場町「長崎盲唖学校」の校庭に、元長崎肓唖学校長:山本 明の撰、長崎市中野郷:福丸秀樹の書によって建立された。
この年はまた長崎慈善会の創立三十年と、肓唖学校の創立二十五年記念にあたる年であり、「同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる」としるされている。

DSC_2488[1]『史跡 盲唖學校跡』 碑
この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは一メートルにも満たない大きさで、桜馬場の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

そもそも県立学校に、創設者個人の顕彰碑が建立されていたり、それもふたつの施設の校友誌にほぼ同一記録をみることはめずらしい。
また長崎県立図書館も、その創立記録として安中半三郎の名をとどめている。

長崎慈善会による「長崎盲唖院」は、その後「盲・聾教育の組織分離」がなされたため、現在は大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

「安中翁紀念碑」は時津町の 長崎県立盲学校 の校門左脇にあるという。
まだこの碑の実見にいたっていないのは断腸のおもいである。また訪崎の機会をえたらぜひとも訪問したいものである。

◎ 「長崎県立盲学校」 本校の歴史長崎県立盲学校 長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873 WebSiteより一部引用)
<明治時代>
本校は、安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立されました。同年9月12日開院、その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として、授業が開始されました(以後この日が開校記念日)。

開院時の生徒数は13名、京都以西では二番目に設置された盲聾教育機関となります。
この年の11月28日には、電話発明者として有名なA・G・ベル博士が来院し、教師及び生徒に対して手話演説を行っています。
九州初の盲聾教育機関であったために、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続けました。そのため、校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くこととなりました。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしています。
<大正時代>
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設されました。
また、この法令には普通教育と職業教育の分離化とその指導充実が明確にうたわれ、それを受けて本校でも指導内容の充実が図られるようになり、修業年限も初等部6年、中等部鍼按科及び音楽科4年、別科按摩専修科2年となりました。
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◎ 長崎県立ろう学校
長崎県立ろう学校 学校沿革抄(長崎県大村市植松3-160-2 WebSiteより一部引用)

明治維新以来わが国の文化は日に月に進み目覚しい発展を遂げたが、わが同胞で耳が聞こえず目が見えぬため、終生人生の悲境に泣く人が顧みられなかったことは、人道を重んじ博愛の心あるものにとっては一日として見過ごするにしのびぬところであった。わずかに京都・東京において明治11年相前後して盲ろう教育の機関を設けたが、その以西にあってはいまだその施設があるを聞かなかった。長崎慈善会が特に率先して盲ろう教育に先べんをつけた動機は実にここに存したのである。

明治29年慈善会幹事安中半三郎らは、会の事業として盲唖院を経営することを提議したが、さいわいにして衆議もこれを容れ京都盲唖院を標準として調査を続け、一方同30年12月20日慈善会総会では安中半三郎ら9名を盲唖院創立委員にあて開校を促進するに至った。この間京都の盲唖院から寄せられた同情と支援は言葉に尽くせないものがあった。かくして明治31年開校の運びとなり、全国ろう教育史上4番目の伝統を誇る足跡が印されたのである。
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以下、資料 : 『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)と、『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)をもとに、まず平易な現代文で「安中翁紀念碑」から紹介する。原文は最後に置いたので参照して欲しい。
なお紀念碑には末尾に五言絶句様の漢詩があるようだが、『明治維新以後の長崎』はそれを収録していない。この部分は手稿原稿からの引用であることをお断りしたい。

☆      ☆      ☆      ☆

安中半三郎resized安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

翁の姓は安中(あんなか)、名は有年(ありとし)、通称半三郎、東来(とうらい)はその号なり。
嘉永六年十一月二十九日(西暦1853年12月29日)江戸神田相生町に、父為俊、母長沢氏の三男としてうまれた。6歳のとき父にしたがって長崎に来て家業をたすけるかたわら、長川東洲、池原大所(香穉・日南とも)に和漢の学をまなび、歌道にも通じた。
明治のはじめ、皇道の由来を悟り、父にすすめて祖先の祭祀を神式にあらためた。明治19年(1886)書籍・新聞・文具などの業を営業しこんにちにおよぶ。

安中家墓地長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
本蓮寺は日蓮宗の名刹で、勝海舟が幕末の海軍伝習所にまなんだときここに寓居した。
また長崎史談会の故古賀十二郎もこの本蓮寺墓地にねむるという。

翁はうまれつき剛直にしてすこぶる義気にとみ、公共のことに尽くすことが多かった。すなわち市会議員に選出され、市参事会員にあげられて多年にわたって市政に貢献した。また商業会議所議員、その副会頭(現在の長崎商工会議所の前身。会頭は松田源五郎)として商工貿易の進展に参画した。また(長崎十八銀行頭取)松田源五郎翁らと電灯会社をおこし、長崎の灯明の新世紀をひらいた。

十八銀行本店前「長崎商工会議所発祥の地」碑

松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影上) 「長崎商法会議所発祥の地」碑 十八銀行本店前
下)松田源五郎「明治10年内国勧業博覧会」 上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵  長崎商法会議所 年代不明02 宮川資料 長崎商業会議所会員 年代不明 宮川資料長崎商法会議所前にて 年代不詳ながら1879年(明治12)10月以降の明治初期
下図は上掲写真の部分拡大。当時は写真撮影をすると指先から魂を抜かれる、レンズに心胆をのぞかれるなどの迷信があり、長崎の有力財界人であっても、レンズから視線をそらし、手指を袂にいれて隠すふうがあった。
長崎商法会議所 年代不明03 長崎商法会議所 裏面に明治39年(1906)01月の書き込みがある。
手指をだし、おおかたのひとの視線がカメラ目線に変化していることがわかる。
長崎県立図書館落成記念写真 宮川資料長崎地名考 扉[1] 長崎地名考 付録1[1] 長崎地名考 刊記[1] ORAYO-GO[1] 長崎安中半三郎は「安中書店」「虎與號 とらよ-ごう」の名称で『長崎地名考』(香月薫平)、『類代 酔狂句集 初編』(素平連 安中半三郎)など何冊かの図書を刊行し、「虎與号」から販売もしている。安中半三郎における印刷・出版・文化人といった面からの研究は未着手である。

長崎慈善会「軍人家族贈呈衣類収容所」右手最奥に安中半三郎 宮川資料長崎慈善会「軍人家族贈呈衣料収容所」。左手最奥部、裏庭のまえに、手帳を片手にうつむき加減の安中半三郎がみえる。東来半三郎は写真を苦手としたか?  明治27年12月1日

いっぽう文雅同好の士(西道仙、香月薫平ら)とともに「長崎文庫」をはじめ、それは現長崎県立図書館の源流となった。そのほかにも神社の振興や名所旧蹟の保存にも尽力した。
そのほかにも特筆すべきこととして、明治24年(1891)尾濃震災(のうび地震)に際しては、同志とともに音楽会や幻灯会を催して金品をあつめて罹災民の支援にあたった。これをはじめとして明治26年(1893)に「慈善会」を創設して、各地の天災地変や出征兵士の慰問などに金品を寄付すること30余回におよんだ。

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料櫻馬場盲聾学校校舎 明治41年(1908)以降。年代不詳

明治31年(1898)「慈善会」の事業として「盲唖学校」(現:長崎県立盲学校長崎県立ろう学校)を創立し、資金の蒐集と学位資格管理に苦心した。このようによく一生の心血をそそぎ、おおくの可憐な子女を教養してこんにちにあることに尽くした。 その期間実に三〇年および、長崎市における社会事業のさきがけとも、経営の柱石ともなった。そのため巷間では狂とも奇とも呼ばれることもあったがそれを厭はなかった。

このように功労は常人の及ぶところではなく、特殊堅実なる守操がなければこのような事業を成し遂げられなかった。
大正四年十一月国家の大典(大正天皇即位式)に際し、その功績が表彰された。
大正十年に入り、病を得て四月十九日ついに歿す。享年六十九。
その死にいたるまで一日も病床に就かず、端座してよく簿冊を管理していた。その剛健さと黽勉ビンベン(努力)はいつもこのようであった。 その妻ジウ子もまた翁の志をうけ、内助の功が多かった。翁とのあいだに長男生逸があり家を継承した。

翁が逝去して一周年、あたかも慈善会の三十年と肓唖学校の二十五年記念にあたる年であり、同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる。

   瓊浦の水洋々   峨眉の峰清秀   偉才其間に出づ   嗚呼安中君
   力を公事に致し  其績歴たり     銘を負石に勒し    以て来世に告く

         大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書
──────────
三四 長崎盲唖学校

安中翁紀念碑

翁姓ハ安中名ハ有年通称半三郎東来其号ナリ嘉永六年十一月二十九日江戸神田ノ相生町ニ生ル為俊翁ノ三男ニシテ母ハ長沢氏タリ翁六歳ニシテ父ニ従フテ長崎ニ来リ家業ヲ助クル傍長川東洲池原大所ニ従ヒ和漢ノ学ヲ修メ心ヲ歌道ニ潜ム明治ノ初年皇道ノ由来ヲ悟リ父ヲ勧メテ祖先ノ祭祀ヲ神式ニ改メ同十九年書籍新聞及文具等ノ業ヲ営ミシヨリ連綿トシテ今日ニ及ヘリ翁天資剛直ニシテ頗ル義気ニ富ミ公共ノ事ニ尽セシコト甚多シ即チ市会議員ニ選ハレ市参事会員ニ挙ケラレテ多年市政ニ貢献シ又商業会議所議員及其副会頭ニ推サレテ商工貿易ノ進展ニ参画シ先進松田源五郎翁等卜謀リ電灯会社ヲ起シテ本市灯明界ノ新紀元ヲ開キ文雅同好ノ士卜共ニ長崎文庫ヲ創メテ図書館ノ萠芽ヲ育成セリ其他神社ノ振興ニ或ハ名所旧蹟ノ保存ニ力ヲ致セシコト亦少ナカラス而シテ其特筆スヘキハ明治二十四年尾濃震災ノ際同志ト共ニ音楽幻灯会ヲ催フシ金品ヲ集メテ罹災民ヲ賑ハシタルヲ始メトシ同二十六年ニハ慈善会ヲ創設シ爾来同会ヨリ各地ノ天災地変及出征兵士ノ慰問等ニ金品ヲ寄附シタルコト実ニ三十余回ノ多キニ及ヒ越エテ三十一年会ノ事業トシテ盲唖学校ヲ創設セシヨリ資金ノ蒐集卜学位ノ管理トニ一層ノ苦心ヲ加ヘタルモ克ク一生ノ心血ヲ濺キテ多数可憐ノ子女ヲ教養シ以テ今日アルヲ致セリ其間実ニ三十年本市ニ於ケル社会事業ノ魁トナリ其経営ノ柱石トナリ狂ト呼ハルヽモ厭ハス奇卜其功労常人ノ及フ所ニアラス特殊堅実ナル守操アルニ非スンハ曷ソ能ク此ノ如クナルヲ得ンヤ宜ナルカナ大正四年十一月国家ノ大典二際シ其功績ヲ表彰セラレタルコト大正十年ニ入リ病ヲ得四月十九日遂ニ歿ス享年六十九其死ニ至ルマテ未タ一日モ寝ニ就カス端座シテ克ク簿冊ヲ理ム其剛健黽勉始終此ノ如シ室ジウ子亦翁ノ志ヲ承ケテ内助ノ効多ク長子生逸家ヲ継ク翁逝テ一周年恰モ慈善会ノ三十年卜肓唖学校ノ二十五年紀念ニ当ル乃チ同志相謀リ碑ヲ校庭ニ建テ以テ不朽ニ伝フ
大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書

宮川氏原文
資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)
『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)

DSCN7439{宮川雅一氏 略歴紹介}
1934年(昭和9)長崎市の老舗の酒類・食料品店に生まれる。勝山国民学校・新制長崎中学校・長崎東高等学校卒。
1957年(昭和32)東大法学部卒業後、自治庁(現・総務省)に入る。以来、自治省・大蔵省(現・財務省)・公営企業金融公庫(現・地方公共団体金融機構)・福岡・滋賀・愛媛・香川各県庁に勤務。
1979年(昭和54)川脯日本都市センター研究室長から長崎市助役に就任。1986年(昭和61)長崎市助役を退職し、長崎都市経営研究所を設立。

現在、長崎史談会会長を経て同相談役、長崎釈尊鑚仰会事務総長、長崎近代化遺産研究会会長、唐寺研究会代表幹事、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表、長崎ちびつ子くんち実行委員会会長、出雲大社長崎分院・松森天満宮・伊勢宮の各責任役員など。
著書に『宮川雅一の郷土史岡目八目』(宮川雅一 長崎新聞社 平成25年9月1日)、『長崎散策』シリーズほか。

{ 関連資料 : 文字壹凜 安中半三郎の肖像紹介 『東来和歌碑』釈読紹介 宮川雅一氏

【舞台公演】 IHIステージアラウンド東京 そのこけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。日本の Entertaiment が Drastic に変わる

話題沸騰! キミはこの衝撃に耐えられるか?
アジア初、没入型エンターテインメント施設として2017年03月に誕生する 「IHI ステージアラウンド東京」。
こけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。
劇団☆新感線 の公演フライヤーと、Village Audiens Club (VAC) から紹介。  蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕矩幕縺・ 蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕ウ髻ウ髢九″2017年3月に東京・豊洲にオープンする 新劇場 「IHIステージアラウンド東京」。

そのこけら落とし公演 ・ 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。 

「IHI ステージアラウンド東京」は、1300人以上もの観客を乗せて360°回転する円形の客席を劇場中央に配置し、その周囲をステージとスクリーンがぐるりと取り囲み、観客席が回転しながら舞台、映像、音楽、照明の全てが画期的な方法で融合することで、これまでにない感覚を体験させてくれるアジア初の没入型エンターテインメント施設。

「IHI ステージアラウンド東京」 こけら落とし公演となる 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 は、いのうえ ひでのり による演出、劇団☆新感線 座付き作家 ・ 中島かずき が手掛けた脚本で、7 年ごとに再演を繰り返す 劇団☆新感線 の代表作。
その 『髑髏城の七人』 を、“ 花 ・ 鳥 ・ 風 ・月 ” の4 シーズンに分け、シーズンごとに全て異なるキャスト、脚本 ・ 演出も練り直され、 2017年から2018年の約 1 年に渡るロングラン公演が予定されています。

皮切りとなる 『髑髏城の七人』 Season 花  Produced by TBS では、2011年に上演された『髑髏城の七人』 で捨之介を演じ、6 年ぶりの 劇団☆新感線 参加となる 小栗 旬をはじめ、山本耕史、成河、りょう、青木崇高、清野菜名といった 劇団☆新感線 初参加となる個性豊かな顔ぶれや、2003年『阿修羅城の瞳』以来、13 年ぶりの参加となる 近藤芳正、そして古田新太、河野まさと、逆木圭一郎、村木よし子、礒野慎吾、吉田メタル、保坂エマといったお馴染みの劇団員も集結し、約2 か月半におよぶ公演に挑みます。
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劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花  Produced by TBS
◎スタッフ&キャスト
     作    : 中島かずき
演    出 : いのうえひでのり
出    演 : 小栗旬/山本耕史/成河/りょう 青木崇高 清野菜名/近藤芳正/古田新太 ほか
◎上演スケジュール

2017年3月30日[木]-6月12日[月]  IHI ステージアラウンド東京

主    催 : TBS
制    作 : ヴィレッヂ
企画・製作 : TBS ヴィレッヂ 劇団☆新感線
公式サイト : IHI ステージアラウンド東京 公式サイト蜉・屮譁ー諢溽キ喀陦ィ1 蜉・屮譁ー諢溽キ喀陦ィ4

きょう10月04日は明治産業近代化のパイオニア平野富二 百七十回目の誕生日{弘化03年08月14日(新暦1846年10月04日)}

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二 
弘化03年08月14日(新暦1846年10月04日)-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男として、長崎引地町ヒキヂマチ(現:長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。
16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

長崎諸役所絵図0-2国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
平野富二生誕地 長崎奉行所町使(町司)長屋 矢次家旧在地
長崎引地町ヒキヂマチ(現:長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)
48632901d887fc7558749f89fba250971[1]<Viva la 活版 ばってん 長崎>
2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと平野富二生誕地を訪問

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

【展覧会】 竹尾 見本帖本店 2F 「本迷宮 ――本を巡る不思議な物語」展

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20161003165141_00002「本迷宮 ――本を巡る不思議な物語」展  
会場 : 株式会社竹尾 見本帖本店 2F
2016年10月21日|金|―11月25日|金|

10:00-19:00
土日祝休(但し、10月22日|土|、23日|日|、29日|土|、30日|日|は
特別営業、1Fショップも営業 11:00-19:00)
※10月21日|金|は17:00まで
※10月27日|木|は13:00まで
【 詳細 : 竹尾見本帖本店 展示

ミステリ・SF・幻想文学などのジャンルを超えて活躍する作家10名が、
 「本を巡る物語」をテーマに日本図書設計家協会会報誌 『図書設計』 へ
書き下ろした掌篇10篇を、1冊の本に編み展示いたします。
本がまとうブックカヴァーは、日本図書設計家協会会員による
装丁と装画により24種に展開。
12種のファインペーパーを本文に使用したドイツ装のほか
手製本、特装本といった造本のバリエーションもご覧いただけます。
ブックデザインとファインペーパーから生まれた紙の本の魅力
―― 本が織りなす迷宮世界をお楽しみください。

【会員情報】 日本列島いずこも実りの秋 ─ 鹿児島の橋口博幸さんから写真を頂戴しました

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最近行った鹿児島(永吉・山田・隼人)でも、熊本(人吉・水上村)でももう稲刈りがはじまっていました。今日は三日前に隼人で収穫された新米を食べましたがさすがに美味でした。
すべての田んぼが黄金に光り輝き、あたりにはあの、稲の香りがただよっていました。
写真は水上村で撮影したものです。

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橋口博幸さん
1982年鹿児島市生まれ。武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒業。ライター、竹文化研究家(愛竹家)。14年より鹿児島に拠点を移す。