《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュース、アダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』を画像YouTubeに投稿して紹介してきた。
トランジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 はおおきなサイズであり、銅版印刷、活版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
そのためにできるだけ資料を公開し、もし意欲的に「ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけの便宜をはかりたいとかんがえている。
【画像紹介:YouTube 3:53 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】
王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と
活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN 1666-1714〕
〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕
王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。
ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでもプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方で、文化政策にも力を注ぎ、1635年には「フランス語の純化」を目標に「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。
アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。
ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年に、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
この委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes 59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet 37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon 38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon 32歳の教育者)であった。
メンバーの学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな斯界の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは以下のように記録されている。
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」
結局のところ、アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心にあらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することになった。
ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョン技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻士はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。しかし銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでにはもう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
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フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain 1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。
グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズと、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成したが、その事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらにルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。
グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。
それでも原図にみるヘアライン(極細の線)は、当時の印刷用の紙質や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。
きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマールが付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」を保証した。
「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位を、いまなおゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l」の突起部の有無をふくめて、多くの摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot らのフランスの活字鋳造者であり、かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体Transitional roman」と呼ばれて親しまれている。
◎ 参考資料:
Type designers : a biographical deirectory, Ron Eason, Sarema Press, 1991
Studies for a Type, James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏