月別アーカイブ: 2016年11月

【活版カレッジ】 2017年冬期「活版カレッジ 昼間部」 1月開講 受講生募集/Salama-21A 操作指導教室 随時受付中

活版カレッジ <活版カレッジ>は、身体性がもたらす造形精神とそのよろこびをおもくみています。
そのために、科学と、学術的根拠にもとづいた実技と実践を基盤とし、小型活版印刷機 Salama-21A を中心として、Salama シリーズによるケーススタディ ・ メソッドをふんだんに駆使し、あたらしい時代の活版印刷の現場での、現実的な課題の解決方法を学ぶことを目的とします。
活版カレッジ講習風景2017年冬期「活版カレッジ 昼間部」 1 月開講
木曜日(昼間部) 14:00-17:00 (時間超過の場合も有)
3 ヶ月(毎月 3 回、全 9 回)  定員 4 名

01月12日        活字版印刷概論
01月19日        和文端物組版
01月26日        文選
02月02日        和文ページ物組版
02月09日        和文と欧文の違い
02月16日        欧文書体の歴史
03月02日        欧文スペーシング
03月09日        多色刷り1
03月16日        多色刷り2

受講料 72,000円(税込)

定員数の少ない実技講座のため、受講料を全額納入いただきました方から受付完了とさせていただいております。
<Salama-21A 操作指導教室>は随時受けつけております。
詳細は <サラマ ・ プレス倶楽部 教室のご案内 Salama-21A 操作指導教室 >をご覧ください。
アダナタイトル【 お申し込み・お問い合わせ : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  » send email

【タイポグラフィ学会】 『タイポグラフィ学会誌 08号 09号』 論文発表会を開催/タイポグラフィ・ジャーナル 『タイポグラフィ学会誌 09』 特別委託販売開始

02_03888-2DSC04014-22016_論文発表会チラシ_1101(大)[1]タイポグラフィ学会は、2016年11月23日[水・祝日]、学校法人専門学校 東洋美術学校 D棟学生ホール(東京都新宿区富久町2-6)において、『タイポグラフィ学会誌08号・09号』論文発表会を開催しました。

  • 挨拶 タイポグラフィ学会 設立10周年を経て――山本太郎会長
  • 論文発表 学会誌08号から――真田幸治会員
    『「雪岱文字」の誕生-春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ』
  • 論文発表 学会誌09号から――春田ゆかり会員
    『近代初期「平仮名活字」の書き手について-池原香穉とその周辺』
    と題し、各論文で取りあげられた資料展示をおこないながらの論文発表会となりました。

【 詳細 : タイポグラフィ学会
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03_03919-2R0046680-6-407pix[1] DSC03943-2 DSC03991春陽堂版『鏡花全集』函表04巻[1] DSC04438[1]Gakkaishi09_KariDSC04344 DSC04307P1330552[1] P1330555[1]
【タイポグラフィ・ジャーナル特別委託販売】
タイポグラフィ学会 『タイポグラフィ学会誌 09』 販売開始
Gakkaishi09_Kari (2)『 タイポグラフィ学会誌  09 』が刊行されました。

タイポグラフィ学会は、タイポグラフィという技芸に学問的な基盤を与え、その成果を実技・実践を通して社会に貢献することを目的に、2005年8月に設立されました。 『タイポグラフィ学会誌』は2007年に創刊、今回が09号となります。

『 タイポグラフィ学会誌  09 』の主要内容
  • 論文:近代初期「平仮名活字」の書き手について― 池原香穉とその周辺
    タイポグラフィ学会会員 春田ゆかり
  • タイポグラフィ学会 設立10周年を経て
    タイポグラフィ学会会長 山本太郎
  • タイポグラフィ学会設立10周年記念催事「長崎研修」の報告
    Viva la 活版 ばってん 長崎『崎陽探訪・活版さるく』

今回は、当学会の10周年の催事(2016年5月に開催「長崎研修」)に関する記事なども特別掲載しております。
これらの研究成果が、日本国内にのみならず、各国の研究者によって広く参照されタイポグラフィ研究の発展に寄与することを希望するとともに、『タイポグラフィ学会誌』が今後さらに、タイポグラフィの研究における特色ある媒体として成長していければと考えております。
タイポグラフィ学会
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◎ 『 タイポグラフィ学会誌 09
特別委託販売 朗文堂ブックコスミイク
・ 非会員向け頒布価格 : 1部 3,000円(送料・税別)
・ 学生向け頒布価格 : 1部 2,000円(送料・税別)
*学生証明書の提示が必要です。

株式会社 朗 文 堂
160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
E-mail : robundo@ops.dti.ne.jp 
Telephone : 03-3352-5070    Facsimile : 03-3352-5160

長崎タイトルresize-627x108[1]1030963[2] 32-1-49545-2[1] DSCN7458[1]PrintDSCN7436[1] 31-4-50052[1] 10-6-49164-e1466416277572[1] DSCN7451[1]『タイポグラフィ学会誌 09』には、タイポグラフィ学会の設立10周年の催事(2016年5月に開催「長崎研修」)に関する記事などが p.55-79 に特別掲載されています。
本書のご購入は<朗文堂ブックコスミイク>にてたまわります。

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実りの秋の越後路新潟で新潟会員との熱い交流ふたたび[Ⅰ] 9月30日-10月2日 初日09月30日編 光の饗宴/ジェームス・タレル「光の館」

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Viva la 活版 Let’s 豪農の館

【 イベント名 】  Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 展示 期間 】  2015年10月10日[土]-12日[月・祝]
【 会       場 】  「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」
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あついこころの交流があった<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>からほぼ一年。
2016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびあわただしく旅をした。今回もまたサラマ・プレス倶楽部 新潟会員の多大なご支援をいただいた。

今回の旅は途中合流・途中帰京などがあってあわただしかった。
秋の越後路をめぐる旅の初日は、十日町市にある「光の館/ジェームス・タレル設計」を訪問し、そこで合宿予定。
以下三点の写真と解説は「光の館 http://hikarinoyakata.com/」公式サイトから拝借した。

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光の館 House of Ligh    James Turrell

「光の館 - House of Light」は、光のアーティスト、ジェームズ ・ タレルの作品として
第一回「大地の芸術祭  越後妻有 アート トリエンナーレ」(2000年)で生まれたものです。
この実験的な作品は、彼の作品世界を滞在生活の中で体験いただける
 世界にも例を見ないものであり、瞑想のためのゲストハウスとして構想されました。

タレルはこの構想を谷崎潤一郎の『陰翳礼讃   いんえい-らいさん』の中から見出しました。
伝統的な日本家屋における親密な光に、自らが制作してきた光の作品を融合させることを着想したのです。
越後妻有の豊かな自然の中、様々な光と向き合う時間を過ごして頂きたいと思います。

光 の 館
〒948-0122  新潟県十日町市上野甲2891  TEL/FAX  025-761-1090
E-mail : hikari01@hikarinoyakata.com
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【会員情報】ぢゃむ 杉本昭生さん活版小本 石川啄木『第十八號室』より+悲しき玩具抜粋製作発表 ご尊顔を拝せる{文字壹凜 杉本昭生過去ログ}一挙紹介

sikibuIMG_2521[1] IMG_2513[1] IMG_2515[1]京都市内吉田山のほとり、ちいさな活版印刷機で小型本の製作をつづけるぢゃむ 杉本昭生さん。
今回の製作は、石川啄木の『第十八號室より』です。後半には「悲しき玩具」から、病気と困窮を歌った何首かが掲載されています。

ブログ「活版小本」も意欲的な更新が継続しています。
「活版小本」の特徴のひとつに、ていねいな書体選択、手抜きの無い文字組版があります。
装本や用紙選択だけでなく、すみずみまでこまやかな配慮をこらす姿勢に好感をもちます。
リンク先でぜひとも拡大画面で本文ページをご覧ください。
ぢゃむ 杉本昭生 活版小本

[杉本昭生 一筆箋]
活版小本の三十何冊目は石川啄木の『第十八號室より』です。

お腹が膨らんできた啄木は病院で慢性腹膜炎と診断されます。
しかしその診断をなかなか受け入れられません……。
大きな病気を宣告された時の患者の混乱した気持が文章から伝わってきます。
後半は「悲しき玩具」から病気と困窮を歌った何首かを掲載しました。

本文書体 Oradano mincho を使って不自然にならない作家を考えた時、
啄木と鏡花、藤村ぐらいしか思い浮かばず、
この機会に啄木の作品を一冊作ろうと決めました。
いつも思うことですか、今度こそ丁寧に作ろうと取り組みましたが
そんな気持がまったく空回りしたお粗末な仕上がりです。
次回は気に入った作品なので、もう少しマシなものにしたいと思っています。
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{新宿餘談}
この{活版 à la carte}コーナーとつよい関連性をもって誕生した、縦組みブログ{文字壹凜 もじいちりん}がスタートからちょうど一年を迎えました。
小型本に高度な組版術と書体選択眼を発揮する杉本氏は、このふたつのコーナーにはしばしば登場されています。
今回は過去一年間のログが一望でき、杉本さんの写真も掲載されている{文字壹凜}から、リンク先にて、「ぢゃむ 杉本昭生過去ログ」を一挙ご紹介いたします。

【Season’s Greetings】 ドイツの友人バウマン&バウマンより north meets south

!cid_image003_jpg@01D22EB7 !cid_image009_jpg@01D22EB7シュヴェービッシュ・グムンドという、シュトットガルト郊外の、それこそ歯を噛みそうな名前のふるくてちいさな街に住居とオフィスをおく「バウマン&バウマン」とは、フランクフルトのブックメッセに出展していた十年ほど前までは毎年かならず会っていた。
その後かれらは日本にも数度、訪問教授として、私的旅行で来日していた。それらのよきおもいでは幾層にもかさなる。

ふたりはあいかわらずローティス書体にこだわり、ますます創作意欲はさかんである。うれしい便りをいただいた。
【 参考 : 文字百景56号 バウマン&バウマン 】 B&B ゲアド B&B バーバラ!cid_image001_png@01D239D9

【図書紹介】 北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。『岳飛伝』17巻文庫版刊行開始 ― ケンゾーの小説は躰にも脳にもわるいとおもう

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《活字・図書離れが語られ、取次・書店の不振もあらばこそ――怒濤の勢いの北方謙三》

テレビ・新聞・図書出版・雑誌・印刷・製本など、ほとんどのメディア産業が総崩れとされ、青息吐息、気息奄奄、意気消沈のさなか、ひとり<集英社 北方謙三大水滸伝コーナー>が気を吐いている。
ここには先の<Club 楊令伝>のときと同様に<Club 岳飛伝>が結成され、逐次刊行される文庫版の発売日直前に、北方謙三名義で集英社から下掲のようなメールが配信される。

登録、ありがとう。これから、月に一回ずつメッセージを送る。 『岳飛伝』の本筋には関係ないが、知っているとにやっと笑ってしまうような、そんなことが伝えられればいい、と思っているよ。 じゃ、今度の発売日に。 北方謙三
集英社文庫 『岳飛伝』読破応援企画 ・ Club 岳飛伝

つまりやつがれ、北方謙三(以下ケンゾー)の読者(ファンでは決してないぞ)として、<Club 楊令伝>のときと同様、<Club 岳飛伝>にも参加している。 20161124215858_00001北方謙三『岳飛伝 第一巻 三霊の章』 四六判図書 したがって、『大水滸伝』全51巻のうち、『水滸伝』全19巻の四六判図書と文庫版、『楊令伝』全15巻の四六判図書と文庫版をすでに所有し読破ている。
もちろん『岳飛伝』全17巻の四六判図書は購入済みである。
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{新宿餘談}
ケンゾーの粗放で語彙のすくない(失礼。豪放ににして簡潔な)文章を読むと、佛をなまの立木に一刀彫りで刻んだ円空仏をみたような妙な衝撃がのこる。
つまりことしの05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついにというか、ようやく、北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結して安堵した。

たまたま家人が書棚をすこし整理してくれた。それを好機としてケンゾー離れを意図して、ほかの作家の図書にとり組んだがどうもうまくいかない。 とりわけ併読していた宮城谷昌光や、葉室 麟、浅田次郎はかえって抵抗感がつよかった。

そこで、ふるい蔵書の三島由紀夫や川端康成など、語彙を駆使し、情感たっぷり、丁寧に書きこまれた図書に触手をのばしたものの、リズム感に欠け、情景描写が多すぎたりして鼻についた。
つまりケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも能の発達にも悪影響があるような気がする。
とどのつまり、ミシマもカワバタも中途で挫折して、結局はケンゾーの『史記』と『三国志』をもう一度読みなおしている惨状下にある。 ケンゾー『史記』は全七巻、ケンゾー『三国志』は全14巻である。

もともとオヤジが隠していた大衆小説、吉川英治の『三国志』で長編小説のおもしろさを知り、司馬遷の『史記』に読みふけったやつがれであるからして、ケンゾー作品は原典無視もいいところである。
したがって地下にある、原作者にして厳格をもってなる史官の司馬遷は、ケンゾーの『史記』の存在を知ったら、悲嘆にくれるに違いないとおもえる。

ところがケンゾーはそんなことは一切頓着せずに、速く駈ける軍馬のこと、兵は兵糧をとらずとも馬の秣はかかせない、馬の乳から醸った酒はまずいが、米の酒はうまいだの、射殺した鹿の骨つきのナマ肉に、手づかみで喰らいつくだの、死の床で家族に手を握られながら迎える漢オトコの死など、恥辱以外のなにものでもないなどととわめきちらすのである。
そして戦場に疾駆し、全身に矢をあびてなお倒れず、絶命するのが真の漢オトコの死だと一方的に断定するのである。こんなケンゾーにはただただ呆れるしかなかった。
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集英社からケンゾー名義の@メールがきた。 集英社文庫『岳飛伝』全17巻が11月18日[金]から発売されるとあった。
その日は帰宅をはやめ、近くの書店でケンゾーの集英社文庫『岳飛伝 第一巻 三霊の章』買った。 うれしくもあり、どこかなさけなくもあった。
繰りかえすが ケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達にも(まだあるかどうかわからないが)悪影響がある気がするのである。
これがして、ひそかに読者諸賢におすすめするゆえんである。 岳飛伝

【空中花壇】 水も土も凍りはじめる立冬というのに、空中花壇の園芸家はいまだ多忙なり

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《 畏友 杉本昭生[活版小本]によれば 11月07日 水がはじめて凍るとき――立冬とする 》

活版小本そもそもブログや SNS で犬や猫をテーマにするのは禁じ手ではなかろうか。
犬も猫もあまりに、そして無条件にかわいいし、さまざまな愛らしいポーズもとってくれる。
京都吉田山に居住する杉本昭生さんは、季節のうつろいをブログ上にえがきだしてみごとである。今回は画像の一部を拝借した。ここには当然犬猫のたぐいは登場しない。

やつがれは犬も猫もだいすきである。以前は同時に犬も猫も飼っていたが、喘息によくないからと医者に飼育をストップさせられた。その恨みと焼きもちの気分もすくなからずある。
そこでいつもの「空中花壇」の話題に転じよう。

DSCN8651 DSCN8664DSCN7994吾が 「 空中花壇 」 の造園家は迂闊で、しばしば播種のときをはずすし、季節はずれの艸花をムキになって育てたりしている。
また、世間では「雑草」の代表のように唾棄する野草を、わざわざ 鹿児島の五代才助(友厚)生誕地から採取 して 「 才助 」 と名づけて育ててきた。


そもそもやつがれ、「 雑草 」 という名の艸はないと心底おもっているから、懸命に育てていた。やがて 「 才助 」 は野菊に似たちいさな花をつけた。 それはわざわざ鹿児島から持ちかえるまでもなく、東京でもどこの空き地にでも繁茂している、まぎれもない「 雑草 」 だったが、名を調べないまま枯れるまで見まもっていた。

【 花筏 : 朗文堂好日録039-春を待つ日日。わっせクン、才助とかわす朝の挨拶 2015年02月04日

《 そもそも、ハロウィン ・ グッズを花壇に持ちこむ不逞のやからがいるからして…… 》
10月31日は 「 ハロウィン 」 である。
昨今のハロウィン祭りは、アメリカ経由のカラ騒ぎの面がみられるが、本来のハロウィンは、紀元前1000年ころに中央ヨーロッパを席巻した 古代ケルト人 が起源の祭とされ、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事である。
ケルトの「 文  ≒ 紋学 」 [ウィキペディア画像集]は、「 字学 」 と同様に興味がつきないが、現代の視点からみると、多くの古代文化の造形と同様に、面妖で怪奇な面もなくはない。

吾が「 空中花壇 」 に、ちいさなカボチャを頭にして、三年ほどまえから鎮座ましましているのが 「 わっせ君 」。 これはバレンタイン モトイ ハロウィンのときに ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。
価格は安いが、ソーラーパワー ( 太陽電池 ) がどこかに内蔵されているらしく、いまでも陽射しがつよい日には 「 わっせ、わっせ 」 と左右に躰をはげしく振動させている。
ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた 「 わっせクン 」 と挨拶、顔合わせをつづけている。


[ノー学部] わたしのガラ携動画で撮ったので画質が悪いのですが、片塩さんのベランダ喫煙の友「わっせ君」の動く様子です。一年365日、ベランダで頑張っている健気なやつです。

ことしはやつがれが丹精している赤と紫のペチュニアふた株の植木鉢に、失敬千万、けしからんことに、いつの間にかコウモリがついた風車のようなハロウィン・グッズが、むかしからいたような顔をして居座っている。これもノー学部の仕業に違いない。
このペチュニアは過酷な夏、それもエアコンの室外機が吐きだす熱風にまけず、花をつけ続けた愛着のある艸花であるのに。

ところで、長岡栃尾の 「 紙漉 サトウ工房 」 でも味わいのある草木染めをみた。とても味わいがあってよかったが、やつがれはだいぶ前から、いつか草木染めに挑戦しようという意図があって、密かにこの花柄を摘んで空き瓶に貯めている。
DSCN8422このごろすこし赤花のパペチュアが元気がないなとおもったら、なんと、
せまい植木鉢から  「 才助 」 がニョキニョキと芽ばえていた。考えてみたらこの植木鉢はかつて 「 才助 」 を育てた鉢だった。
もちろん移植に際して土替えはしたが、なにしろ悪名とどろく 「 雑草 」 のことゆえ、どこかに種子をのこしていたらしい。
それでも隣のピンクのベゴニアの花は、なんとなく草木染めには適さないとおもっていたし、ペチュニアの赤い花も、紫の花にくらべると
すこし力感に欠けると …… 。だからいまは、おそらく 「 才助 」であろうが 、ニョキニョキと伸びるがままにしている。
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すこしうれしいのは、ちいさな苗で買った香草がげんきなこと。「ホットリップス」、「レモン・マリーゴールド」、「セージー」などが次〻に花をつけている。原産地はメキシコ高地の植物だというからこのまま冬を越しそうな勢い。

《 畏友 : 杉本昭生「活版小本」によれば11月12日からは立冬 次候 : 地始凍とするが 》
553[1]11月も半ばとなった。古来の暦法、二十四節季、七十二侯によれば、すでに立冬で、水も土も凍りはじめるときらしい。
ところが「空中花壇」の園芸家は、摘芯のときをわすれ、背丈だけやたらに伸びて、颱風のおり、支柱のさきから半分枝折れしてしまったミニトマトをいまだに育てている。
ミニトマトとしては、夜などは摂氏10度を下まわる寒さのなかで結実するのは、さぞかしたいへんなこととおもわぬでもない。
DSCN8415反対側の壁面には、熱帯植物 : 雲南百薬 {おかわかめ} と、謎の巨大植物 {メキシカーナ} がげんきである。
既報のとおり、最近 {おかわかめ倶楽部} という奇妙な会が誕生し、あちこちの黒ポットにムカゴや挿し芽の{おかわかめ}が寒風に震えながらも育っている。
念のためにしるすが、{おかわかめ}はあくまで熱帯地方の草花である。かような立冬のさなかに増植すべきものではないはずだとおもう。
DSCN8411 DSCN8400 DSCN8397──────────
11月12日[土]、寒い朝だったが陽光がベランダに射していた。
そんな朝、「立冬 地始めて凍る」と京都の畏友が予告しているにもかかわらず、早朝からたたき起こされた。
「たいへん、たいへん、またトロロアオイが咲いてるよ」
冗談ではない。やつがれ今日か明日かと待ち望んでいた、ひこばえから健気に結花しようとしているトロロアオイのことなど十分に知っていた。
せっかくの休日だったが、ともかくこの花の開花時間はみじかい。そこで眠気まなこをこすりながら、間違いなくことし最後であろう「トロロアオイ」の花を観賞した。

嗚呼無情、こののちわずか、朝食の木綿豆腐の上に、長寿の薬草{おかわかめ}と、{トロロアオイ}の花が一輪、ちいさく刻まれて載り、いつの間に採取したのか、赤くなったミニトマトが数個、トーストの脇に転がっていた。
そのとき、椋鳥かなにかのつがいの渡り鳥が{メキシカーナ}にやってきて、ギャーと啼いた。 

【造形詩集】 森 郁 男 造形詩集 『 青 春 の 虜 』

森 郁男は、若くしてデビューした「造形詩」の詩人であった。 そして80年代のどこかで交通事故に遭遇し、いっときは生命の危険すらあったひとである。
森郁男造形詩集_青春の虜
たれに紹介されたのか、刊行直後に『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』を入手した。
それからすでに40余年が経過した。
やつがれも詩人も相応の歳をかさね、いつの間にかやつがれの書棚から詩集がみられなくなった。

それでも年賀状の交換がつづいた。いつも正月になると一枚のはがきにつづられた森 郁男のことばに霰にうたれたようになり、ときにあかるい陽光をあびたような気持ちになっていた。

最近 『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』 を再読したくなったが、詩人の手もとにも一冊をのこすだけだと聞いてあきらめていたところ、デジタルデーターを送付していただいた。
ここに紹介する。
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<森  郁 男  略歴>
1949年  新潟県十日町市にうまれる (本名 : 江村 清)
1952年  東京都足立区梅田町に移転
1971年    同人誌 『わだち』 創刊に参加
1973年  「 詩と造形について No.2 」を『わだち』第7号に発表
1975年  『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』 わだちの会より発行

その詩は、みずからことばを紡ぎだし、そのことばを、縦横に、大胆にコンポジションする作風で、一世を風靡した。
その詩集に綴られた百篇のことばは、ひとのことばではなく、呻吟し、選択をこらし、みずからが紡ぎだしたことばによる。
またその造形手法は、ふり返れば性能のひくい写真植字機をみずから駆使しての 「造形詩」で あった。

森 郁男は、造形詩集『青春の虜』を発刊後も、翌1977年より官製はがきによる「造形詩通信」を発行。2016年現在76号。表現粒子としての「文字」の可能性を探り続ける。
「日独ヴィジュアル・ポエトリイ展」や「ヴィジュアル・ポエジィ・パリ展」をはじめ内外のヴィジュアル・ポエム展への出品を継続中。

そういえば森 郁男は、電子メール、ケイタイ電話などのデジタルメディアには消極的なようである。その分達筆で、悪筆をきわめるやつがれなど、お便りをいただくたびに赤面する。 そこでいまは、わが国には森 郁男という、すごい詩人がいる ―― ということにしておこう。

森郁男造形詩集_青春の虜 森-01rre 森-02rre 森-03rre 森-04rre 森-05rre森-06rre造形詩集    青 春 の 虜
著      者    森  郁 男
発  行  所    わだちの会
装      本    A 5 判 118ページ 上製本 横開き
組版印刷    写真植字版下法 オフセット平版印刷

発      行    1976年01月01日
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造形詩集    青 春 の 虜     あとがき
「青春の虜」という名の詩集。今から四年前に名づけられていた脳裏の中の詩集。
それが、やがて間もなく現実のものとなろうとしている。 詩集と呼ぶところを敢えて「造形詩集」と袮したことについては、ここで理由づけをするまでもなく、読んでいただいた人、あるいは視ていただいた人の判断にお任せしようと思っている。

いずれにしても、二〇代も後半になって、やがて〝いい年をして〟などと云われるような頃になってこれを発行することに、若干のためらいを感じたりしている。
しかし、この「青春の虜」を発行することで、きょうに至るまで私の青春に対して、ひとつの区切りをつけたいという気持ちがあったことは確かである。
詩隼を発行することが青春への訣別ならば、一日延ばしに発行が遅れて、何年も時が経ってしまったこの年月の間、私はまさに青春の虜の中にいたのかも知れないと思ったりしている。

〝お前の青春時代に何があったのか?〟と問われたとき、私は詩を書くかくことしかなかったと答えるかも知れない。
私にとって、生命の次に大切なものが、青存時代に書き綴ったこれらの詩篇だといえる。
〝僕はね、たった今、火事か地震がきたら、書き綴ったこれらの詩篇の束を抱いて、外へ飛び出すつもりだ〟と友に語ったことがある。
生命の証し、あるいは生きた証し。青春時代にひとつの情熱を燃やして書き綴った紙きれが、日々の思いを日めくりのよう再現してくれるはずである。


しかし、私は殆んどといっていいくらいに、過去に書いた詩を読むことをしない。過去を回顧することよりも、できることなら明日の為の新しいい一ページを書き添えたいと思っている。 詩を書くことしかなかった十代の終わりからの青春の日々。万年筆を握りしめて、ただただ何かを見つめていた、そんな過ぎし日の自分の姿が思い出されてくる。

詩を他人に見てもらうということは、嘗て思いもよらないことだった。詩は、ひとり静かに書き綴っていればよいのではないか。そんな思いが、今となっても心の奥底に濳んでいたりする。

今は、詩集を出そうと決意した日から今日に至るまでの問、常に心の中にあった緊張から解放されて、ほっとしたやすらぎを感じている。
この詐集を発行することで、青春への訣別を告げるとともに、できうれば、明日からの道標としたいと思っている。

単なる詩隼としてではなく「造形詩」としてヴァリエーション化したこの試みが、どのように受けとられるか未知である。心の中では、今後も造形詩に閇わっていくかも知れないという疑問符に浸りながらも、その一方では、ひとうひとつ言葉を創造していった青春の日々のようにして詩を書いてみたいという願いがあったりする。

造形詩への傾倒は、出版に当って詩と最後まで関わっていこうと思ったこと。自らの手でクリエイ卜することによって、より一層詩と一体化できるのでは? と考えたからである、さらに、この百篇の詩の背後には、訪集に載ることのなかった多くの詩篇があることを自ら認識したいと思っている。
オリジナリティとかアイディアの踏襲だとかいうことには、何の意見も持ち合わせてはいない。とにかく自分の力の可能な限り頑張ってみたつもりである。
この「青春の虜」の意味することは、新しい創造へのステップだとか芸術だとか理屈づけをすることではなく、青春の日に毎夜憑かれたように詩を書いていた一人の青年の、極く単純なロマンの軌跡であると回時に、ロマンへの執着魂であるといえる。
一九七五年 冬                     森   郁 男

【良書紹介】 「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第54号を発刊 {昆布ロード}をご存じですか

水の文化54 resizedミツカン(株式会社Mizkan Holdings)は、2004年(平成16)創業200周年を迎えました。
「水」の恩恵を受け、「水」によって育てられてきたミツカンは、「水」をテーマとした社会貢献活動として、1999年(平成11)1月「ミツカン水の文化センター」を設立しました。

人の営みの根源には、常に「水」があります。人はときには「水」と闘い、またあるときには「水」と共生しながら、自らの「暮らし」をつくり上げてきました。当センターでは、この〝人と水とのかかわり〟によって生み出されてきた生活様式を「水の文化」ととらえています。
「健全な水循環」が保持されるよう、さまざまな研究活動や情報交流活動を通じて、「水」の大切さを伝え、「水」への意識向上を広く図っていきたいと考えています。
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◎ 「ミツカン水の文化センター」 の機関誌 『水の文化』

機関誌「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』
機関誌『水の文化』は、1999年(平成11)1月創刊。年3回、無償で発行しています。
創刊以来54号にたっしましたが、「人と水」、「人と人」 のかかわりの中で生み出された、知恵や地域固有の習慣に光を当ててきました。「水の文化」 を探るうちに、思いがけない〝新たな視点〟を発見することも。

意識してきたのは、多様な領域への取材。物事を一側面からだけ見るのではなく、立場が異なる人がどう考え、どうかかわっているかに着目し、横串を通すことで新たな切り口を探ります。また、無形の財産ともいえる知恵や習慣が、未来へつながることを心がけています。
発行後しばらくすると、ホームページ[水の文化 バックナンバー]からPDFファイルもダウンロードすることができますので、定期購読申込とあわせてご利用ください。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター
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企業文化広報誌としてきわめて評価のたかい、ミツカン 水の文化センター『水の文化誌』は、本欄でも 2016年03月02日 52号2016年07月14日 53号 に際して紹介 してきた。
ミツカン水の文化誌5220160711153632_00001
水の文化54 resized『水の文化誌』54号の特集は、「和船が運んだ文化」であるが、特集 Story 1 「昆布ロード ―― 富山藩と薩摩藩による[知られざる交易]」を興味深く読んだ。

明朝末期のなにかの刊本で読んだ記憶があるが、その資料を探し出せないでいる。
すなわち記憶によれば、南宋の時代、蝦夷松前(北海道)の良質な昆布が、天然の良港であった 十三湊 (青森県五所川原市)にあつめられ、そこから日本海を経由して、沖縄列島や黄海の島伝いの航路をたどって、長江(揚子江)、河水(黄河)の上流まで、砂金とともにひそかに運ばれていたという記録である。

当時の和船はちいさくて、沿岸航海しかできず、もっぱら中国船での輸送、それもひそかな輸送であったようだが、東北の豪族 : 安藤氏や藤原氏には、この「抜け荷  ≒ 密貿易」による昆布と砂金の輸出によって、京都政権による「日宋貿易」にまさるとも劣らない、巨万の富をもたらされたとしていた。

当時の中国は、漢族により臨安(杭州)をみやことした南宋と、満州女真族により開封をみやことした金(前金)が淮河を境に南北に分割統治していた。
ところが、その空隙をつくように、いわば密貿易で、中国船は大陸奥地まで大型船・小型船を乗り継いで輸送をつづけたという。
当時の中国で昆布がもとめられたのは、沿岸部では罹患者はすくなかったものの、内陸部にいくほど一種の風土病があり、昆布はその風土病に劇的な治癒効果をもたらしたので、「俵物」とされた昆布は一種の薬草とされ、チベットや蜀(四川省)のあたりまで輸送されていたと記憶している。
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◎ 『水の文化誌』54号の特集 「和船が運んだ文化」
   特集 Story 1 「昆布ロード ―― 富山藩と薩摩藩による[知られざる交易]」

だしや煮しめの具材など、日本人の食生活になくてはならない昆布の産地は羅臼、利尻などに代表される北海道が有名だが、消費量では富山県が際立って多く、数年前までは不動の全国1位だった。
昆布の採れない富山県で、なぜ食されているのか。それは江戸時代、富山県域が昆布をはじめとする海産物を運んだ海上流通の中継地を多く擁していたことに端を発する。
同じく昆布が生息しない沖縄(琉球)でも食されているのは、富山藩の商人たちが薩摩藩に昆布を持ち込んでいたからだ。
この富山藩と薩摩藩による「知られざる交易」が、やがて倒幕へとつながる。その痕跡を富山県と鹿児島県でたどった。


富山藩と薩摩藩 ―― 外様同士の暗中飛躍
「昆布ロード」をご存じだろうか。北前航路が拓かれた江戸時代中期から幕末、明治にかけて、蝦夷地(北海道)で収穫された昆布は、北前船で京都 ・ 大坂へ運ばれるだけでなく、薩摩から琉球を経て、さらには中国(清 ・ 後金)まで届けられていた。その道筋を「昆布ロード」と呼ぶ。

当時、昆布は重要な品だった。甲状腺障害が流行していた清ではその予防のためにヨードを多く含む昆布が求められていたが、海水温が高い清の沿岸では良質な昆布は育たない。
そこで財政の悪化した薩摩藩は、東アジアの海洋貿易の中継地として栄えていた琉球王国を介し、清に対して「抜け荷」と呼ばれる密貿易を始める。清への貢ぎ物のひとつが松前産の良質な昆布だった。

ところが北海道からは遠い薩摩藩で、昆布の入手は容易ではない。そこで薩摩藩が目をつけたのが富山藩。ともに外様大名であり、財政の逼迫した富山藩と薩摩藩が密かに手を結び、互いに利益を得る。薩摩藩は密貿易で得た利潤で財政を立て直し、倒幕へと向かったともいわれる。
北前船を舞台とした両藩の企てとは、どのようなものだったのか。[後略]

【図書紹介】 ヘルムート・シュミット タイポグラフィック・リフレクション 12 『nippon no nippon』

schmid_001+5 schmid_002+5 schmid_003+5タイポグラフィック ・ リフレクション 12
nippon no nippon
ヘルムート ・ シュミット 大 阪
和訳 : 山田清美

   歌麿の官能的な線によって好奇心が芽生え、エミール・ルーダーによって大いに鼓舞された私が、日本の地を踏んだのは、素朴で未熟な 24 歳のときであった。 (不可能を可能にしてくれたのは、東京のアイデア誌のアートディレクター 兼 編集長の大智浩と、ヤラカス館の社長でニッポン ・ インターナショナル ・ エイジェンシーの創立者 ・ 中許忠夫である)。
大阪に到着して間もなく、スイスの TM 誌の編集長であるルドルフ ・ ホシュテトラ一から、植字工の視点で日本的なものについて記事を書いてみないかとの依頼があった。 自分に書けるのだろうか、という疑念を押しやって書いた最初の 『ニッポンのニッポン』 のテーマが「畳」である。 1968年1 月発行の TM 誌に掲載された。

   『ニッポンのニッポン』 で伝えようとしたのは、私なりの理解による日本である。 かつて存在した日本、そして今も存在している日本、さらにこれから発見されるべき日本。 私の寄稿記事にフルページが割かれていた。  レイアウトは雑誌の規格に合わせてある。 私の記事は定期的に掲載されたが、次第に不規則になっていった。  最後の 「手水鉢」 が掲載されたのは1979年3 月号の TM 誌であった。 それから間もなくルドルフ ・ ホシュテトラーが亡くなり、シリーズも終わった。

   このシリーズを一冊の本にすることは、私にとって長い間の夢だった。 ウプサラのオケ ・ ニルソン ― 彼は1950年代のバーゼル ・ スクールの生徒であった ― の励ましもあり、ドイツ語のテキストを基にレイアウトに着手したのは1994年ごろであった。 何故途中で止めてしまったのかは思い出せないが、レイアウトが硬いスイス風であったことを覚えている。
何年かが過ぎ去り、ニコールがバーゼル ・ スクールを終え、バーゼルのデザイン ・ スタジオの仕事を止めて日本に戻ると、彼女は TM 誌のテキストのタイプセットに取り組み始め、現存する写真のスキャンを始めた。英語のテキストも必要と考え、イギリス在住のロイ ・ コールに依頼したところ、彼はライプツィヒ在住の翻訳家でピアニストのグラハム ・ ウェルシュを紹介してくれた。

    二か国語のテキストを基にしたレイアウトがおおむね出来あがった。 ドイツ語のテキストの文字は英語のテキストよりわずかに大きく、コラムの幅も英文に比べると独文がわずかに広い。 このレイアウトを持って、友人である東京の朗文堂社長の片塩二朗に会いに行った。 日本語のテキストがないと本は売れないと彼は言う。 そこで大阪のデザイン事務所の初代通訳であった山田清美に翻訳を依頼、スミ ・ シュミットが眼を通し確認作業を担当した。

    本書では、日本語のテキストをドイツ語と英語の横に並べるのではなく、アルファベット世界と表意文字世界とに分けて、本の後半にまとめた。 本書は2012年に出版され、翌年ロンドンの国際タイポグラフィック・デザイナー協会(ISTD)から最優秀賞を授与された

    出版から三年後、財団法人 DNP 文化振興財団から、京都 ddd ギャラリーで 「ニッポンのニッポン展」 を開かないかという思いがけない招待を受けた。 ポスター、チラシ、招待状、封筒、案内状、20 ページの来場者用冊子デザインも任された。

    書物から展覧会場へ伝達の場が移る。私はテキストと画像を主役にしたいと考えた。
黒い天井と白い床の間に吊るされた 90 センチ幅の半透明のバナーに黒色でプリントされた画像と和 ・ 英テキスト。 訪れる人はランダムに吊るされたバナーの間を回遊しながら観、感じ、発見し、「 88 の音符をランダムに並べた 7 つのバリエーション」 の響きに耳を傾ける。 日本的なるものの寡黙な美を味わうことができる。

    ニコ一ル ・ シュミットと、長谷川哲也によって具現化された 「ニッポンのニッポン」 の展覧会場は、私には夢のようだった。 その夢を形にして残すために、「タイポグラフィック リフレクション」1 2号を出版することにした。 「アイデア」 誌編集長室賀清徳のエッセイを添えて。

【 詳細 ・ 問い合わせ先 : helmut schid design
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{ 新宿餘談 }
おもえらく、ときに交わり、ときに併走し、あるときは逆走しながらも、ながい旅路をヘルムート ・ シュミット氏とはともにしたという感がある。
かたくなまでに変わることの無いひとだったというおもいと、柔軟に時代と整合性をたもって活きてきているひとだともいえる。 DSCF5640[1]シュミットファミリーの皆さんと[1]そのひとつの中間点であり通過点が、図書 『 japan japanese 』 (朗文堂 2012)であった。
透徹な視点と、熟慮されたテキスト、配慮を凝らしたタイポグラフィ・ コンポジションによる図書『 japan japanese 』が誕生した。
それは愛娘ニコール ・ シュミットと、夫君 : 長谷川哲也氏によって 「京都 ddd ギャラリー」 での空間展示に <nippon no nippon> と題されて、三次空間へのあらたな具現化をみた。 201203japanjapanese[1]cid_787B8BD3-8FF0-43FB-B4B4-BDDAFB5680FC1[1]ここまでの 「まとめ」 として、ヘルムート ・ シュミット自主企画出版 <タイポグラフィック ・ リフレクション 12 nippon no nippon> が完成した。
また小社のWEBサイトを繰ってみると、{ 朗文堂ニュース }、{ 文字壹凜 } だけでも相当量の記録がのこっている。
1980年代初頭からシュミット氏との共同製作作業を再再展開してきた。 そろそろまた次の、あらたな企画で、造形界の沈滞を打破したいおもいがつのっている。
編集者としてはヘルムート ・ シュミットと、その若きファミリーとともに意欲的な挑戦をしてみたいとおもうこのごろである。  [ 片塩二朗  wrote ]

【図書紹介】 『よしふみ と からあげ』 ① ② ③ +最新刊 ④ 関口かんこ著 講談社コミックプラス刊

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よしふみとからあげ4カバーresized よしふみとからあげ04家に帰っても一人。そんな時話し相手がいてほしいと思いませんか。
そんな気持ちを満たすかどうかはわからないけれど、飼い主 ・ よしふみと、ペット ・ からあげが、会話したりケンカしたり、たまに思いやったりして日々を過ごす〝水浸し日常マンガ〟。
著者は 関口かんこさん 。
最新第四巻、発売開始。
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よしふみ ―― 人間

よしふみ ―― 人間

からあげ ― ウーパールーパー

からあげ ― ウーパールーパー

 

よしふみとからあげ02「社畜人間」にして飼い主 【 よしふみ 】 と、もともとは食材として売られていたペットのウーパールーパー 【 からあげ 】 のおはなし。
ダストジャケットをはずすと、裏表紙(表四)に、電子書籍ではなかなかできない意外な仕掛けがあります。とりわけ第三巻、第四巻は造形者なら大笑い必定です。
版元は 講談社 。 推薦者は作者 : 関口かんこさんに負けず劣らずサラマンダーにこだわりつづける サラマ ・ プレス倶楽部 。 あらたな山椒魚戦争のはじまりです。

{ 新宿餘談 }
アホロトール【 axolotol  スペイン語 】。
別称 : サラマンダー、サンショウウオ(山椒魚)  愛称 : ウーパールーパー
幼形成熟するので知られるメキシコ ・ サラマンダー。外鰓ガイサイを有し、尾はひれ状という幼生形のまま、全長30センチ余に達し、成熟・繁殖する。
大航海時代、メキシコ ・ シティ周辺の湖沼に生息するものが欧州に知られてこの名がある。
わが国では標高500-2500mの山地の渓流周辺部にすみ,サンショウウオ、山椒魚の名で知られる。
チェコの作家にして「ロボット」なることばを造語したカレル ・ チャペックは、『山椒魚戦争』(チェコ語 : Válka s mloky )をのこした。同書は、早川書房、岩波書店などから翻訳書が刊行されているが、はなす能力を持つオオサンショウウオが家畜となり、普及し、対立し、やがて人間を追いつめるまでを描いたものである(参照 : ウィキペディア)。

実りの秋の越後路新潟で新潟会員との熱い交流ふたたび[Ⅱ] 9月30日-10月2日 中日10月01日編 長岡市栃尾地区「紙漉 サトウ工房」

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Viva la 活版 Let’s 豪農の館

【 イベント名 】  Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 展示 期間 】  2015年10月10日[土]-12日[月・祝]
【 会       場 】  「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」
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あついこころの交流があった<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>からほぼ一年。
2016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびあわただしく旅をした。今回もまたサラマ・プレス倶楽部 新潟会員の多大なご支援をいただいた。

今回の新潟旅行は三日間とはいえ、会員の皆さんは多忙な秋の日日とあって、中途帰京・中途参加と、在京会員九名の出入りがはげしく、二日目の10月01日[土]長岡市(旧栃尾市)軽井沢の「紙漉 サトウ工房」でのワークショップが、新潟会員四名も加わって最大人数の参加であった。

したがって整理の都合上、旅行行程からいうと逆順、つまり二泊三日の旅のうち、最終日の10月02日[日]から紹介したい。
それでも三回連載の本項の紹介は、ブログロールでは降順にアップされるので、のちからみれば行程順になる・・・・・・といいわけをばしておこう。

◎ 10月01日[土]-新潟滞在ふつか目 初日の宿、ジェームス・タレル【光の館】で「日の出プログラム・朝風呂」

新潟旅行、旅の初日の前夜は、新潟県十日町市上野甲2891、ジェームス・タレルの設計による【光の館】に合宿した。
初日に東京から車を運転して新潟入りした石田さんは、【光の館】に一泊宿泊しただけで、疲れもみせず、翌早朝、群馬県沼田市でのイベント参加のためにひとりで車で出発。
六名の会員は、「光の館」での日の出プログラムを楽しみ、ライティングが効果的な、おおきな浴槽で、おもいおもいに朝風呂としゃれ込んだ。

タクシー二台に分乗して十日町駅前に移動。そこから至近の「越後妻有交流館/キナーレ」内のレストランで朝食をとる。
館内に「温泉 明石の湯」があり、入湯したかたもいたようである。

◎ 十日町駅から「私鉄 ほくほく線」、六日町経由「JR 上越線」で長岡駅へ移動。長岡にて松尾愛子さん・イラストレーター「しおた まこ」さん合流DSCN7986 DSCN7988 DSCN7992 DSCN799311:11 十日町駅から「私鉄 ほくほく線」で六日町まで15分、そこから「JR 上越線」に乗り換えて12:36長岡駅に到着。都合1時間25分のローカル線でのゆっくりした旅となった。
つり革のところどころハート型をしていた。理由は知らないが若いカップルならよろこびそう。
長岡駅前で松尾愛子さんと合流して、東口の「庄屋」で昼食。ここは喫煙可でホッとする。

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<紙漉 サトウ工房>
DSCN801613:30 長岡駅東口に「紙漉 サトウ工房」の技芸士:佐藤徹哉さん、イラストレーター「しおた まこ」さんにそれぞれ車で出迎えていただいた。
長岡駅前からさっそく「紙漉 サトウ工房」に向けて出発。

かつては急峻な峠越えの道だったというが、いまは二車線のゆったりした道が開通しており、山越えにはトンネルを掘削してあった。
「あっという間に着きますよ。もとは家も工房も栃尾市でしたが、平成の大合併でいまは長岡市です。長岡駅からでも距離は近いんです」
と佐藤徹哉さんは笑う。
長岡駅前から二台の車に分乗して25分ほど、目的地の「紙漉 サトウ工房」に到着。現地には新潟市から参加された sketch & note|松尾和夏 さんが笑顔で待機されていた。

紙漉技芸士 : 佐藤徹哉さんとは、昨年の<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>で、松尾和夏さんの紹介ではじめてお会いした。以来、サラマ・プレス倶楽部の皆さんとはすっかり親しくされている。
ところが「紙漉 サトウ工房」を自営されている佐藤徹哉さんは、やつがれと同様にアナログ系古典派の人種に属されており、パソコンはつかわれているが、携帯電話やカーナビのたぐいは苦手とされる。

「紙漉 サトウ工房」 佐藤徹哉 連絡先
940-0243  新潟県長岡市軽井沢1192
電話 : 0258-51-5134  メール : tty@nct9.ne.jp

DSCN7996 DSCN8009 DSCN8000 DSCN8001 DSCN8006しばらく越後平野に悠然と流れる「信濃川 ―― 信州では千曲川と呼ぶ」にそった田園がつづく。その穀倉地帯からトンネルをぬけると、にわかに山並みがせまってきた。
田圃の稲は、あらかた刈り取られていたが、「しおた まこ」さんのご配慮で、景色の良いところで一旦停車して、ちょっとした休憩。刈り取られたばかりの稲わらのにおいがいっぱい。

<紙漉 サトウ工房 と 佐藤徹哉さん>

DSCN8032 DSCN8029 DSCN8031 DSCN8030アトリエ拝見、紙漉き研修の前に、まず屋敷畑といった近さの「楮 こうぞ」と、「トロロアオイ」の畑を拝見。
身長より高く成長した「楮」はまだまだ元気だった。
意外だったのは佐藤さんが育てている「トロロアオイ」。茎がとても短くて、30センチぐらいで花をつけ、いまは種子のときだったこと。
すこし吾が空中花壇のものとは品種がことなるようだった。さっそくお願いして、この茎が短く、根が太くなるという「トロロアオイ」の種子を晩秋にわけていただくことにした。
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<吾が空中花壇のトロロアオイの由来と、過去の手漉き紙研修旅行の記録>

DSCN7556いまでこそ「空中花壇の女王」となったトロロアオイであるが、そのはじめはかなりふるい。
2010年05月に、秋川渓谷めぐりでたまたま訪問した「あきる野ふるさと工房 軍道紙の家 グンドウガミ 」で黒ポットで数株の苗をわけていただいたことにはじまった。
【 サラマ・プレス倶楽部ニュース : [会員の皆さまへ] トロロアオイを育ててみませんか? 2010年06月08日
トトトアオイ 黒ポット人物入[1] トトトアオイ 密集-225x300[1] トロロアオイ 単体[1]この偶然の訪問とトロロアオイが縁となって、秋に<研修旅行 紙漉きツアー>を企画した。
あきる野市は東京都内で、交通も便利なので、このときは17名の参加だった。
重複するが、記録と記憶整理のためにも、その折りのデーターを下記にアップした。
【 朗文堂ニュース : [研修旅行]東京都あきるの市五日市町の秋川渓谷にある「ふるさと工房」で{紙漉きツアー} 好評裡に終了! 2010年10月05日 】

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【研修旅行】東京都あきるの市五日市町の秋川渓谷
「ふるさと工房」で{紙漉きツアー} 好評裡に終了!
自分で漉いた本物の手漉き紙と、美味しい空気がお土産でした!

2010年10月02日、好天に恵まれ、東京都あきるの市五日市町の秋川渓谷にある「ふるさと工房」で《手漉き紙ツアー》が開催されました。
主催は朗文堂サラマ・プレス倶楽部「活版カレッジ」でしたから、皆さんは本物のタイポグラファであり、ほとんどが活版印刷実践者の皆さん17名+1 (やつがれ)でした。

会員の皆さんに研修旅行をご案内したときは、東京都内で本当に手漉き紙の抄造が体験できるのかと半信半疑のかたもいらっしゃいました。
それでも五日市町の軍道紙 グンドウガミ の伝統を継承する「ふるさと工房」に集合したときは、あたりの緑豊かな景観と、清らかな秋川の渓流と渓谷美にううっとりとした表情でした。

総勢17名+1 の紙漉き風景は壮観でした

まず「ふるさと工房」の学芸員によって、手漉き紙の主原料となる楮(こうぞ)と、ネリにつかわれるトロロアオイの根の説明があって、さっそく紙漉き作業を開始。
今回は舟(材料槽)三つを借り切っての本格抄造とあって、ほとんど全員が初体験とは思えない鮮やかな手つきで抄造に励みます。
サイズはA3サイズ、ハガキサイズ、名刺サイズとさまざまでしたが、みんな目的意識をもってそれぞれのサイズを選択しての抄造でした。

楮の植栽の前で学芸員から説明を受ける

ところで堂主やつがれ!
実はオヤジの生家が信州信濃の千曲川にそった雪国の貧しい農家で、農閑期となる冬場は丈余どころか三メートルほどの雪に埋もれ、冬期間の内職として紙漉きが盛んであった関係で、しもやけとあかぎれの手で紙漉き作業を手伝わされた苦い思い出があった。

そこで途中は中抜けして秋川渓谷をお散歩。そして「喫茶むべ」の絶品の珈琲を愉しんでおりました。皆さんは熱中していましたから気づかれなかったはず。
そしてやおら最終局面に再登場して、なにくわぬ顔で抄造作業開始。ハガキサイズ二面付け枠を用いての堂々の勇姿ですが、あとで写真をみると、メンバーの心配そうな視線を浴びての抄造ではありました。

皆さんは笑いを堪えているのか、はたまた心配しているのか?

しつこいようですがトロロアオイ。ふるさと工房の前には大型フラワー・ポットに植えられたトロロアオイがもう種子をたくさん付けており、花は下掲写真の一輪だけでした。
ふるさと工房から再度この種をわけていただきましたので、来年はたくさんの苗をおわけできそうです。五月初旬に種まき、六月定植、九月末開花のスケジュールです。

ところで……、ウチのトロロアオイはまだ花をつけません。毎朝の水遣りのあと、「ロダンの椅子」に腰を下ろしてジーッと見ているのですが。
もしかすると……、此奴は花をつけてしまったら、根っこごと抜かれるのをいやがっているのかな? と。

ふるさと工房、トロロアオイの花と種子

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おもわぬながい寄り道をした。閑話休題。
じつはやつがれ、初日の探訪地 兼 合宿所「光の館」で、ぬるいお湯にはいって長湯をしたせいか風邪気味であった。また吹きわたる爽やかな風がなんとも心地よく、なんと紙漉き作業の開始を前に、ここでウトウトとうたた寝をしてしまったのである。
DSCN8106 リッキーと遊ぶ片塩さんしかもである、前述した五日市の「ふるさと工房」でも中途脱出して、オーナーと懇意にしていた「喫茶むべ」の珈琲をたのしんでいたが、なんら証拠がのこっていなかったから、再登場して素知らぬふりで手漉き紙作業に取り組めた。

ところが最近のように、デジカメやスマホで気軽に撮影できるようになると、かかるけしからん行為は即刻証拠写真を撮影され、言い逃れができなくなってしまう。実に困った時代になったものだ。
したがって、ここちよい昼寝から目覚めても、いまさら作業の仲間に入りづらく、佐藤夫人の愛犬「リッキー」をリシツキーと呼んで、小一時間もじゃれあっていたのである。
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< sketch & note|絵と版画 松尾和夏さんのURL紹介 >
そこでお詫びに<紙漉サトウ工房の手漉き和紙について>の特設コーナーを設けられている松尾和夏さんのURLを紹介して、そこから「紙漉サトウ工房の手漉き和紙について」を知っていただきたい。
下掲のアトリエ写真も松尾和夏さんによるが、松尾さんはふるくからのサラマ・プレス倶楽部の会員ですし、< Adana-21J >のユーザーでもある。ともかく松尾和夏さんの WebSite の画像とコンテンツは豊富で、丁寧に造りこまれている。

< atelier
活版印刷とシルクスクリーン印刷
手刷りの印刷機をつかったオーダーメイドや印刷体験
sketch & note のアトリエは、新潟市街地に近い場所にあり、新潟駅から徒歩20分程度です。アトリエは自宅の離れに設計し、2016年4月に完成しました。

アトリエには、活版印刷機とシルクスクリーン、謄写版などの印刷機があり、手刷りによる印刷を行っています。アトリエにて印刷の体験や、オーダーメイドのご相談を承ります。

紙漉サトウ工房の手漉き和紙について >
紙漉サトウ工房は、新潟県長岡市の山間にある紙漉の工房です。

栃尾とよばれるこの地域は、新潟県内でも雪の多い地域で、冬は建物の一階部分はすべて雪に埋もれてしまう程です。
かつて新潟では、自分の畑で育てた楮を使い、雪に閉ざされた季節に紙を漉く紙屋さんがたくさんありました。
いま現在、そういった昔ながらの材料と製法で、和紙を作り続ける紙屋さんはすごく少なくなっていますが、紙漉サトウ工房では、自家栽培の楮と、周辺地域で採れる材料だけをつかった、昔ながらの和紙作りを続けています。

紙漉 サトウ工房  佐藤徹哉
1967年 新潟県長岡市生まれ。
1999年-2010年 越後門出和紙に勤務。
2013年 長岡市軽井沢にて「紙漉 サトウ工房」を開業。
1c451c_c90f8c1bddf84a0bb2fa9d7fe3e21679[1]

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以下、東京から押しかけた<サラマ・プレス倶楽部>会員による写真画像を、順不同、しかも中途爆睡の身なれば説明も無しでご紹介する。

DSCN8019 DSCN8020 DSCN8021 DSCN8035 DSCN8039 DSCN8041 佐藤徹哉さんによる「手漉き紙」の工程に関する短いレクチャーがあって、さっそく作業に取りかかる会員の皆さん。
DSCN8042 DSCN8052 DSCN8054 DSCN8058 DSCN8096 DSCN8065 DSCN8066 DSCN8085 DSCN8062 DSCN8107 DSCN8092 DSCN8091 DSCN8090 DSCN8087R0056857teiやっぱりやつがれ、カバンを抱えこんで爆睡している。けしからん証拠写真がのこされた。
この翌日にいった<三条鍛冶道場>でも実はかなり中抜けして、裏庭の「四つ葉のクローバー」などをみていた。
ときおり進行状況を「観察」していたが、加久本君の背後霊のように、サボっているやつがれが写真に写り込んでいたとは、迂闊なことに読者の指摘を受けるまで知らなかった。

DSCN8106DSCN8213下掲正面中央が「紙漉き サトウ工房」アトリエ。その10メートルほど奥に佐藤夫妻の自宅がある。豪雪地帯でなるこのあたりでは、しんしんと降りつもる新雪の翌朝など、このわずか10メートルがとてつもない距離感になることもある。

楮畑のわきの台地は「栃尾市立一之貝小学校 軽井沢分校」の跡地。
明治7年(1874)の開校で平成13年(2001)の閉校というから、創立はきわめてふるく、125年余の歴史を刻んで閉鎖された。
旧栃尾市の一之貝地区と軽井沢は、さほどの距離ではないが、なにぶんこのあたりは豪雪地帯。やつがれの郷里 : 信州飯山でも「冬期分校」はいくつもあった。紀念碑には晩秋の夕べ陽ざしのぬくもりをもとめて、トンボが羽をやすめていた。

アトリエのかたわらに、艸にうももれるようにして味わいのある歌碑がのこされていた。

ふるさとの 陽のやわらかき 蓬つむ  一子

「蓬」はよもぎと詠む。春の野面の情景をうたったものか。
佐藤さんも、この歌碑のゆえんをご存知ないとされた。
秋のゆうぐれははやかった。こののち長岡にもどって、駅前の「たこの壺」で10名での懇親会にのぞんだ。 DSCN8076 DSCN8074 DSCN8072 DSCN8013 DSCN8014

【活版カレッジ】 10月27日アッパークラス定例会 新潟旅行参加者も断念されたかたも大集合 

活版カレッジ DSCN8313 DSCN83122016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびみたび、あわただしい旅をした。 そのレポートは順次本コーナーにもアップされるが、今回も新潟サラマ・プレス倶楽部、「しお たまこ」さん、「sketch & note|絵と版画 松尾和夏」さん、のご協力をいただいた。

旅のふつかめは、<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>で大活躍された「「紙漉 サトウ工房」の佐藤徹哉さんのアトリエ訪問、紙漉き研修を実施。
<活版カレッジ>アッパークラス10月定例会は、10月01日に漉いた手漉き紙が到着しており、その受け取りも兼ねての集まりだったので、通年テーマの「歌留多製作」とあわせ、当然話題は新潟旅行に集中。 DSCN8016 DSCN8032 DSCN8039ところが「紙漉 サトウ工房」を自営されている佐藤徹哉さんは、やつがれと同様にアナログ系古典派の人種に属されており、パソコンはつかわれているが、携帯電話やカーナビのたぐいは苦手とされる。
ご本人からの了承をいただいたので、佐藤さんご夫妻からのお便りをご紹介する。

「紙漉 サトウ工房」 佐藤徹哉 連絡先
940-0243  新潟県長岡市軽井沢1192
電話 : 0258-51-5134  メール : tty@nct9.ne.jp 20161107160803_00001 20161107160803_0000220161107160803_00003

【お札と切手の博物館】 特別展示 明治の顔 ~ キヨッソーネ、大山助一が彫る元勲の肖像

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特別展示    平成28年度秋の特集展
明治の顔 ~ キヨッソーネ、大山助一が彫る元勲の肖像

私たちが毎日見慣れているお札の顔は、一見写真のようにも見えますが、実は精巧な版画(凹版画)です。それは、緻密な線と点の彫刻画線で構成されています。
芸術性が高いだけでなく、偽造防止効果にも優れたお札の彫刻技術は、印刷局で独自に発展を遂げたもので、140年にわたって受け継いできた伝統技術です。
その礎を築いたのは、明治初期にお雇い外国人として数々のお札の原版彫刻を担当したイタリア人銅版画家キヨッソーネと、アメリカでも技量が認められた大山助一というふたりの職員でした。
本展では、このふたりの彫刻者たちが本業の傍ら制作した元勲の凹版画を一堂に展示し、併せて彫刻技術についてもご紹介します。

◯ 開   催 日 : 平成28年11月8日(火)-12月4日(日)
◯ 開催時間 : 9時30分-17時
◯ 休   館 日 : 月曜日(祝日の場合は翌平日)
◯ 開催場所 : お札と切手の博物館 2 階展示室
◯ 入  場  料 : 無   料

【 詳細 : お札と切手の博物館 展示 】

【ボヘミアン、プラハをいく】 04 パリ在住ボヘミアンの磯田俊雄さん、フランス版『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作)と、フランソワⅠ世にちなむシャンボール城のメダルを持参して来社

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DSCN8375 DSCN8380 承 前 【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

《長いつき合いになる。 在仏のボヘミアン:磯田俊雄さん》
最高気温が摂氏14度というひどく寒い日だった。パリ在住30年余になる磯田俊雄さんが2016年11月22日、ほぼ一年ぶりにパリから飄飄と来社。

たまたまハンブルクから大澤能彦さんも来社されており、欧州勢のバッティング。欧州在住がながいおふたりとも愛煙家で、やつがれは友垣をえたおもいでうれしい。大石は渋い顔。

磯田氏は神戸出身。四人兄弟の末、パリでソルボンヌ大学博士課程修了の才媛と結婚し、息子も立派に自立した。
フラ~とニューヨークにいったはずが、いきなりパリからファックス。
「パリに住むことにしました。荷物はカメラの寺さんに任せました。当分かえりません」
爾来在仏35年ほどか。このひとも、気軽で暢気なボヘミアンといってよかろう。

かれとは大日本印刷CDC事業部でコピーライターとして勤務していた頃からのふるいつき合いである。若く見えるが、やつがれともさほど年は離れていない(はずだ)。それでも最初の頃に「磯やん」と呼んでいたので、いまだに「磯やん」。
もともとフランス語での簡単な翻訳監修や〝eBay〟の窓口は「哲っちゃん」という同窓生が担っていたが、高齢化してスペイン国境に近い田舎に移転して隠居生活。したがって現在は大石がメールを乱発して、磯やんを悩ませたり酷使しているようである。

今回も大石の依頼で、プラハの作家カレル・チャペック(Karel Čapec  1890-1938)がのこした、邦題『山椒魚戦争』のフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地:プラハ、フランス語表記 1960年発行)の 『La Guerre des Salamanders』 を苦心惨憺で購入されての持参であった。
フランス国立印刷所 旧ロゴ[1]「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所創設以来、現在でも同所のシンボルロゴである。
下部には、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)によるとされる、
識語<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>が配置されている。この紋章がフランス国立印刷所のシンボルロゴに連なり、シャンボール城では記念メダルを販売している。

ほかにも大石は、「サラマンダー」をみずからの紋章としていたフランソワⅠ世の離宮(狩猟用離宮・世界遺産) シャンボール城 の記念メダルをねだっていたらしい。
そもそも大石はひどい地理 幷 方向音痴である。したがって、
「パリ郊外のシャンボール城にいくと、サラマンダーの紋が入った記念メダルが購入できるはずです。それをぜひ購入してきてください」
といった調子のメールを磯やんに送っていたらしい。

「大石さんはときどきヘンなことをいってくるんです。まるで東京から横浜にいってメダルを買って来いみたいな調子だったけど、ロワール渓谷のシャンボール城は、パリの隣り街じゃないんです。パリから170キロほど、禁漁区のおおきな森にかこまれた、昔の王様の狩猟用の別荘のようなところで、電車も無いし、車でも一日がかりですよ・・・・・・」
とボソボソとこぼす。やつがれは歓喜せんまでの共感のあまり、深くうなずきながら、そこは共に気軽なボヘミアン、
「磯やん、申し訳ない、悪かった。面倒をかけた。ごめん、ありがとう。これからもよろしく」
以下、一部ウィキペディア画像の助けを借りながら、シャンボール城とフランソワⅠ世を紹介したい。

フランス離宮シャンボール城概観 シャンボール城の装飾屋根 シャンボール城 フランソワⅠ世紋様シャンボール城の各所にみられる火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 「王のギリシャ文字」を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり、 創立以来フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。

フランソワⅠ世の紋章「サラマンダー」は、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして21世紀の初頭に再生された。 詳しくは次ページを参照願いたい。saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。
フランス国立印刷所は、580年ばかり以前のこの年、フランソワⅠ世治世下の王室印刷所、1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による識語、<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。この紋章がシャンボール城ではメダルとして販売されており、今般磯やんが持ち来たったということである。

以下サラマンダーとフランス王立印刷所のシンボルロゴに関して、詳しくは次ページに【 [文 ≒紋学] フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係 】を一部修整して再掲載したのでご覧いただきたい。

《 プラハの造形家 ・ 執筆者 ・ 園芸家にして小説家 : チャペック兄弟とは 》DSCN0063DSCN0025DSCN0027DSCN0005チェコのプラハ第10区に「チャペック兄弟通り  BRATŘİ ČAPKŮ」と名づけられた小高い丘への通りがある。そこの頂上部に連棟式のおおきな二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーター・執筆者の兄 : ヨゼフ・チャペックの住居で、現在は直系の孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家・作家の弟 : カレル・チャペックの住居跡である。

カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ第10区が買収済みだという。
ところがどちらもいまは非公開の建物であり、庭園である。したがってカレルの庭園の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを撮影した。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題『Zahradníkův rok 』、邦題『園芸家の一年』、『園芸家の12カ月』がある。
20161027164925_00001イラスト : ヨゼフ・チャペック
チャペック01 20161027164925_00002翻訳書も手軽に入手できる。『園芸家12カ月』(カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。
どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。

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チャペック02やつがれにとっては、兄:ヨゼフ・チャペック、弟:カレル・チャペック兄弟とは、なによりも愛読書『園芸家12カ月 or 園芸家の一生』の挿絵画家、著者であり、せいぜい、戯曲『ロボット (原題:R.U.R.)』において「ロボット」なる造語をふたりでつくった兄弟程度の知識に留めておきたいところだが、ここに困った図書が一冊ある。
20161103145611_00004『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)。いま、やつがれの手もとにあるのは、1,978年7月18日 第1刷り、2013年10月4日 第14刷りの版である。
ここでは「著者」ではなく、「カレル・チャペック作」とされている。その理由を訳者は「訳者はしがき」「解説」「訳者あとがき」のなかで縷縷のべている。

すなわち『山椒魚戦争』には、活字見本帳・ちらし・新聞記事の切りぬき、マッチ箱などの図版(文字活字によるものがほとんど)が無数にあるのである。
文庫版とはそんなものだろうともいえそうだが、チャペック兄弟の図書は、プラハにおける初版はもちろん、多数の翻訳書をふくめて、わずかな例外をのぞいて軽装版である。ところが岩波文庫版には、残念ながら二点の図版紹介をみるだけであり、しかも原寸を欠いている。

岩波文庫版『山椒魚戦争』は、1978年の初版以来、35年ほどのあいだ、14版を重ねてきた図書である。
このような名著に四の五のいうわけではないが、ともかく活字サイズが「本文 明朝体8pt.相当」、「注釈 ・ 図版説明 ・ 訳注 ・ 解説 ・ 訳者あとがきなど 明朝体6pt.相当」といったちいさな活字サイズであり、しかも総ページ数496ページにおよぶのである。
とりわけこの本文より文章量が多いとおもえる注釈などの活字書風とサイズ 6pt. はつらい。

情けないことに、すでに視力がずいぶんと低下したやつがれは、再再の挑戦にもかかわらず同書を通読していない。別の翻訳者と版元からの『山椒魚戦争』が電子化されて、電子図書「キンドル」で読めるが、こちらはいささか翻訳になじめないでいる。
造形者にとってある意味では必読書ともいえる『山椒魚戦争』である。ぜひ視力がしっかりしているうちに読了をおすすめするゆえんである。
20161103145611_0000320161104192107_00001ところで、大石は磯やんの助力をえて、このたびフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地:プラハ、フランス語表記 1960年発行)の『La Guerre des Salamanders』を購入した。
ところが大石は、すでに上掲図版のフランス Éditions Cambourakis, 2012 『La Guerre des Salamanders』 をもっている。
同書はフランス語で表記されているが、図版は原寸で、ほとんどがオリジナルの各国語のまま、改変を加えずに紹介している。

ほかにも煙草の臭いが移るからとしてめったにみせないが、プラハにおけるチェコ語の初版、戦後版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版、仏語版など、異種本を10冊余ほど所有しているようである。
これらの異言語版は、この兄弟の思想的立脚点もあったのか、初版をふくめてほとんどが軽装版であり、いわゆる上製本仕立ては一点だけである。
そして内容を理解するために、邦訳書ももっているが、もっぱらチェコ語版と英語版で、挿画と造本、なによりも「サラマンダー、山椒魚」の各国の解釈を「活字見本帳のような図版」で楽しんでいるようである。

岩波文庫『山椒魚戦争』には、本文中の図版として紹介されたものは、上掲図版 Éditions Cambourakis, 2012 『La Guerre des Salamanders』 p.264 のものと同一の図版が、「カタコトの日本文」p.309 として紹介され、あとは「訳者あとがき」に紹介された「新中國版畫集」p.455 のわずか二点であり、しかも他の版のほとんどが原寸紹介であるが、同書はどちらも原寸を欠いている。
すなわち『山椒魚戦争』の隠喩、欧州中央部に位置し、文化文明の十字街路たるボヘミア・プラハならではの、多言語下における活字組版表現の実験を楽しみ、紹介するゆとりをいささか欠いているようである。
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《 カレル ・ チャペックを中軸に、その教育体験と職歴をみる 》
読みたいのに読めないという焦燥感はつよい。皆さんにお勧めしたいのは、『山椒魚戦争』はできるだけ視力が健康な、若いうちに読了されることである。
ここで、わが国ではとかくSF作家とされる弟:カレル ・ チャペックの受けた教育と仕事から、そのもうひとつの魅力、造形家の側面に迫ってみたい。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業したカレルは、プラハの名門大学カレル大学へ進学し、哲学を専攻する。1910年、ベルリンのフリードリヒ ・ ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学。1911年、ベルリンの大学を修了後に兄 : ヨゼフがいたパリのソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。パリ時代にヨゼフとともに戯曲 『 盗賊 』 を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後しばらくは家庭教師の仕事をしていたが、1916年、チャペック兄弟として正式にプラハの文芸 ・ 造形界にデビューした。
このころはフランス詩の翻訳、とりわけアポリネールの象形詩に熱心に取り組んで、アポリネールがフランス語で象形化した詩(詩画)を、チェコ語での再現の実験に取り組んだ。
同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。1917年、独立前に唯一発行が許されていた 『 国民新聞 ナーロドニー ・ リスティ』 に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたカレル ・ チャペックは 『 ロボット R.U.R. 』 を書き上げる。このときにヨゼフの助言をえて「ロボット」ということばが生まれ、全世界に拡散した。後に妻となるオルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府の動向ににあわせて次第に保守化していく 『 国民新聞 』 に不安を感じ、『民衆新聞 リドヴェー ・ ノヴィニ 』 へヨゼフとともに移籍する。戯曲 『 虫の生活 』(ヨゼフとの合作)を出版する。
その後逝去のときまで 『 民衆新聞 』 に在籍し続けた。

《 チャペック兄弟の最後 プラハ : ヴィシェフラット民族墓地Vyšehradský hřbitov にねむる》
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)裏口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)入口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟の斜め前にあるスメタナの墓プラハ:ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる(白い墓標)。
DSCN6084 DSCN6082 DSCN6045 DSCN6048そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざま、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「 解 説 」 から紹介したい。

『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫) 「解説」 p.453-4
[前略] 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。[弟カレル]チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく[カレル]チャペックの家へやって来たのだった。
やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「残念ながらチャペックは昨年のクリスマス[1938年12月25日歿]に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。

チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「 独裁者の長靴 」 と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。
彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後 『 強制収容所詩集 』 という題名で出版された。[ 後略 ]

【文 ≒紋学】 フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係

サラマプログ

Nutrisco et Extinguo  我ハ育ミ 我ハ滅ボス

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火のごとき  火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する
──────────
火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。 2008年アダナプレス倶楽部年賀状 裏2008年アダナプレス倶楽部年賀状 表朗文堂 アダナプレス倶楽部[2016年07月01日よりサラマ・プレス倶楽部に改称]では、2008年の年賀状で「活版印刷術とサラマンダーのふしぎな関係」を紹介した。
ここにあらためて、フランス国立印刷所であたらしく再生されたシンボルロゴと、わがサラマ・プレス倶楽部の「小型活版印刷機 Salama シリーズ」のシンボルロゴとの、奇妙でながい歴史を紹介したい。
[取材・翻訳協力 : 磯田敏雄氏]
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《 国立印刷所の新しいシンボルロゴ —— Le nouveau logo de l’Imprimerie Nationale 》

フランス国立印刷所は定款を変更して、あたらしいロゴとして、今回もやはり「サラマンダー」の意匠を採用した。
あたらしいシンボルロゴとして神話の生物サラマンダーを選定したのは、フランス国立印刷所のながい歴史と、象徴主義とふかく結びついている。

フランス国立印刷所 新ロゴ フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。 フランス国立印刷所は、この年1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による標語を<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。

「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」 フランス国立印刷所 旧ロゴこのサラマンダーは何世紀もの歴史のなかで、すこしずつ意匠をかえて、フランス国立印刷所の紋章としてもちいられてきた。それらの意匠変遷の記録のすべてはフランス国立印刷所にのこされているが、21世紀のはじめに、どれもが幾分古ぼけた存在とみなされ、それを「モダナイズ」する計画がもちあがり、フランス国立印刷所のデザインチームが改変にあたった。

その結果よみがえったサラマンダーは、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして再生された。 saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス国立印刷所では21世紀の初頭にシンボルロゴを近代化して、Websiteに動画をアップした。同所のあたらしいシンボルロゴのモチーフは、1538年の創立以来変わらずにもちいられてきた「サラマンダー」である。

わが国では、このサラマンダーには TV CM でお馴染みのウーパールーパーという愛称があるが、正式には メキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとはメキシコ高地の湖沼に棲む、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類であり、その愛称ないしは流通名がウーパールーパーとされている。

ところで、灼熱の焔からうまれるイモノの「鋳造活字」をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。とりわけ今回はフランス国立印刷所からの、「王のローマン体、王家のローマン体  ローマン・ドゥ・ロワ or ローマン・ド・ロァ Romains du Roi 」のメッセージと図書も届いた。

Viva la 活版 Viva 美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ 欧文:ウンディーネ、和文:銘石Buu サラマンダーは、欧州で錬金術が盛んだった中世のころに神聖化され、パラケルススによって「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊:ノーム/水の精霊:オンディーヌ/火の精霊:サラマンダー/風の精霊:シルフとされる。

この「四大精霊」のことは欧州ではひろく知られ、アドリアン・フルティガーは、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所で、活字人としてのスタートのときに、「水の精霊/オンディーヌ Ondine」と名づけた活字を製作していた。
この欧文活字「オンディーヌ」と、和文電子活字「銘石B」 をイベントサインとしてもちいたのが< Viva la 活版 Viva 美唄 > であった。
【 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

《サラマンダーに代えて Salama の登録商標を取得し、サラマくんのイメージロゴを製作》
サラマ・プレス倶楽部の製造・販売による小型活版印刷機は、「Salama シリーズ」として登録商標が認可されている。 また冒頭でご紹介した「Salama ペットマーク」はサラマ・プレス倶楽部 AD 松尾篤史氏の設計による。 DSCN0689 DSCN0741 DSCN1173もとより朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、ユーザーの皆さまには < SALAMA Salama サラマ> の名称を今後ともご自由にお使いいただきますし、現在OEM方式により製造 ・ 販売中の < Salama-21A,  Salama-LP,  Salama-Antiqua>を、「さらまちゃん、サラマくん」とでもご自由にお呼びいただき、ご愛用いただきたいと考えている。
わが家のウーパーウーパー/ウパシローは、シャイで気の弱い、わががまものである。

【タイポグラフィ学会】 『タイポグラフィ学会誌』 08号・09号 論文発表会のご案内

2016_論文発表会チラシ_1101(大)今回の講演者、真田 幸治さん ・ 春田 ゆかりさんのおふたりは
タイポグラフィ学会会員であるとともに
活版カレッジ修了、サラマ・プレス倶楽部会員でもあります。
皆さまのご聴講をおすすめいたします。

☆     ☆     ☆

タイポグラフィ学会
『タイポグラフィ学会誌』 08号・09号 論文発表会

【日  時】
2016年11月23日(祝・水曜日)
14:30-17:30(受付開始 14:10- ) 各講演80分程度(資料閲覧時間を含む)
【場  所】
学校法人専門学校 東洋美術学校 D棟学生ホール(東京都新宿区富久町2-6)
https://www.to-bi.ac.jp/access/
【講演者】

真田 幸治 ・ 春田 ゆかり
──────────
【講演 1 】

「雪岱文字」の誕生 —- 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ
真田 幸治(タイポグラフィ学会会員/装幀家)

装幀家、挿絵画家などとして再評価が著しい小村雪岱(こむら-せったい)であるが、その評価は主に泉鏡花の著書、「鏡花本」の装幀によるところが大きい。
その雪岱の装幀において、雪岱独自の文字「雪岱文字」が実は大きな役割を担っていたという事実は知られていない。

また「雪岱文字」は、雪岱が大正期に在籍していた資生堂の和文ロゴタイプの成立にも大きく寄与している。そして春陽堂版『鏡花全集』の函の装幀において主要な構成要素として採用されて一つの完成を見ることになる。今まで論じられることの なかった「雪岱文字」が、どのように誕生し、展開されていったのかを考察する。

【講演 2 】
近代初期「平仮名活字」の書き手について —- 池原香穉とその周辺

春田ゆかり(タイポグラフィ学会会員/グラフィックデザイナー)

日本語活字書体のなかで、平仮名書体が注目されて久しい。そのあり方が文面の印象を大きく左右するからだとされる。
しかし平仮名活字書体がどのようにして現在の形にあるのか、その成立期に誰がかかわったのか、その詳細はあまりよく知られていない。

日本の近代印刷・活字の創始者(導入者)として知られる本木昌造の近くにあり、その初期の活字書体の「版下」を手がけた池原香穉(いけはら-かわか)。ながらく詳細不明とされてきたその人物像について 近年判明した事柄と、彼が平仮名書体にあたえた影響と役割について、現物資料も交えて考察する。
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【参加費】
無 料
*当日に限り『タイポグラフィ学会誌』01-09 号を特別価格にて販売いたします。
【懇親会】

講演会場至近を予定 要予約(一般3,000円)18:30より2時間程度
【お申し込み方法】

11月15日(火曜日)までに件名【論文発表会へ参加希望】として、氏名、人数、連絡先、懇親会への出欠の有無を、Eメールかファクシミリにて下記の宛先にお送りください。
こちらより3日以内にお断りの連絡がない場合は、受付完了となります。また定員に余裕のある場合は、期日以降も受け付けます。
【申込先 ・ お問合わせ先】

タイポグラフィ学会 東京事務局
Eメール : info@society-typography.jp
ファクシミリ : 03-3352-0727

【年末恒例 字学】 ポストカード Postcard と クリスマス Christmas の欧文表記に関する注意点 ー もう Post Card(二単語), X’mas の誤用は卒業、Xmas は慎重に

DSCN2014DSCN2092カレンダーの残りもあと二枚だけ。
本11月01日、郵便局から<郵便はがき>の年賀状が発売され、まちかどには<年賀状印刷たまわります>ののぼりがはためく候になりました。
この時期、造形者の皆さんは「ことしのクリスマスカード、年賀状はどんなアイデアと印刷にしよう」と、楽しくもあり、悩ましくもなるかたが多いようです。
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例年のことながら、そろそろクリスマスカードや年賀状の準備にとりかかっているかたも多いこのとき、フト ふるい記事をおもいだしました。
どういうわけか造形者の一部、なかんずくデザイナーと称するすひとは横文字に親近感をもつようで、郵便局の<郵便はがき>ではなく、欧文表記による私製の<Card>を印刷されることが多くみられます。
そこでの注意点を ソッと …… 。
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【再掲載】 ポストカード Postcard と クリスマス Christmas DSCN3921

 本項の元記事の掲載は<2014年12月03日 花筏>であった。 テーマと問題点に進展があまりがみられないこともあり、ここに再掲載した。

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カレンダーののこりが、もうすぐあと二枚だけになりそうなこのとき、本コーナーを訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介したい。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 である。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいてある。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) である。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものである。
同書には意外な記述がみられる。
DSCN3937 ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されている。

すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、 「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」 と、簡略かつ明確にしるされている。 DSCN3943 DSCN3958 3949 いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明している。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒点は、音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき (含む : 年賀はがき)」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使いわけと、英国と米国での相違まで説いている。
ご参考になったであろうか。

この問題は、わが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられている。

ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 の皆さんから、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しているかなしい状態がつづいている。
ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのであろうか] にしるされた「郵便はがき」を、そのままもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。

この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  

いかがでしょう、  「 postcard , Postcard 」 。
「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 という。 この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのであるから、なにも臆することはない。
かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用や誤謬をおかしては反省しきりの日日である。 そしてこの記事をみたあとは、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えて欲しい。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日が近からんことを念願している。
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいである。
それは某国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからである。

それに牽かれたのであろうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがあるが、これはギリシャ語の「キリスト Xristós」の省略を重複したもので完全に間違いである。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として簡略に触れている。

またギリシャ語の「キリスト Xristós」由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、やつがれも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas をはじめるのだ 」
と責められたことがあった。

宗教や宗派、そして発音までがからむと、やつがれの手にあまる。 まして某国語辞典の存在もあって困惑していたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説があった。
長文にわたるので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができた。 そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願したい。
そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものである。 DSCN3943 DSCN4098 DSCN4086