月別アーカイブ: 2016年7月

ポケモンGO 妖怪キャラクターどもめ 朗文堂周辺、それもやつがれの執務机を侵蝕-新宿御苑は狂奔騒動

朗文堂パワースポット07月28日は<活版カレッジ アッパークラス月例会>。
夕刻、松尾 A さん、加久本嬢、時盛クン会員らがスマホをかざして、
「キャー、この部屋、いっぱいいる」
換気扇の下、空気清浄機にかこまれたやつがれの喫煙第二執務机周辺が怪しいらしい。
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出たぞ! 妖怪珍獣 コダック め!
なんともまぁ、ずうずうしいことに、やつがれのデスクのまんまえをうろついていた。

image2それどころではない。ノートパソコンの脇では妖怪ネズミの コラッタ が牙をむいていた。
ズバットおまけに神聖なる小型活版印刷機 Salama-21A の周辺を こうもり ズバット が徘徊。
DSCN9651夜も更けたというのに外がさわがしい。
新宿御苑に「ピカチュウ」がでるとのうわさで、道路には違法駐車の車や自転車がずらり。スマホ片手のおっさん モトイ 若者であふれかえっていた。その数ざっと200名。

パトカーがマイクで怒鳴りあげている。
「新宿御苑は夜間は閉鎖です。入苑はできません。ご帰宅くださ~い」
わが社至近の 新宿御苑 は、入苑が9:00-16:00、入園料200円、月曜休苑。周辺の遊歩道も16:30から閉鎖だから覚えておいてほしい。

阿波踊りでいう ―― 踊る阿呆に見る阿呆、おなじ阿呆なら踊らにゃ損々
まぁ飽きるまで、楽しく、事故と怪我無くやってくれ。
[ 撮影協力 : 活版カレッジ・アッパークラスの皆さん ]

【会員情報 展覧会】 若手工芸作家国際展 第2回薪技芸・炎 東京藝術大学、清華大学美術学院+新宿餘談

shingigei[1] 若手工芸作家国際展 第2回薪技芸・炎

会  期 : 2016年7月21日(木)- 8月1日(月)
午前10時 – 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日: 7月25日(月)
会  場: 東京藝術大学大学美術館 陳列館1階、2階
観覧料:無 料
主  催:東京藝術大学、清華大学美術学院 

薪技芸(しんぎげい)は、日本、中国、韓国を中心としたアジア各国、欧米の各美術大学の40代以下の工芸系の大学教員、若手作家の作品を集めた展覧会です。
本展覧会は、清華大学美術学院 劉潤福先生の発案により、2015年に中国の北京と上海で「第1回薪技芸・燃」と題して行われ、東京藝術大学は日本の代表として、展覧会の立ち上げに協力いたしました。
今回はそれを引き継ぎ、「第2回 薪技芸・炎」として、日本の東京藝術大学にて行います。

工芸系の国際展は他にあまり例を見ず、非常に貴重な展覧会でもあります。
また、本展覧会に参加する若手作家の作品は、伝統的な技法に現代的な解釈が加わり、非常に興味深い展開を見せています。
それらの作品を一堂に会して、鑑賞できるという点でも意義あるものになるでしょう。

副題には<炎>という漢字を選びました。炎は、火という漢字が縦にふたつ連なり、より大きな火になる漢字です。この言葉には、第一回の薪技芸で燃焼の始まった火を繋げ、大きな炎にしていきたいという思いがあります。
また、工芸は伝統を受け継ぎ、習得し、新たな表現に繋げていく分野です。この繋げて発展させるという行為を炎という文字に込めて、今回の副題といたします。
本展覧会を多くの方々にご高覧いただき、新たな感性を楽しみ、発見していただければ幸いです。 

【 問い合わせ: ハローダイヤル03-5777-8600 詳細 : 東京藝術大学大学美術館
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{ 新宿餘談 }
DSC_4288 DSC_4277 DSC_4258 IMG_6576IMG_6741 IMG_6744 IMG_6742ことしの5月29日-6月1日、北京清華大学美術学院の招聘で同校で特別講座を担当した。
北京清華大学美術学院からの招聘で昨週05月29日-06月01日特別講義。無事に帰国いたしました]。
清華大学美術学院 デザイン学科 学科長 : 趙 健先生とは4月末の北京大学方正の「字体大赛 ≒書体大会」の審査員・講師として四日間の時間をともにしていた。
この特別講座は 清華大学美術学院 原  博(Yuan Bo)助教授 のご招待で、その際通訳にあたっていただいたのは、なんとこの展覧会
<薪技藝 炎>の発案者 : 清華大学美術学院 劉  潤福先生(陶芸担当専任講師)であった。 3.pic 4.pic原先生、劉先生とも東京藝術大学大学院を修了され、博士号を取得されたかたであった。
残念ながら原先生は今回は出展はされているものの、教務が繁忙をきわめて来日はかなわなかった。
そこで原 博先生から大石宛の@メールをご紹介したい。
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[ 原  博先生 → 大石 薫  cc:片塩二朗 ]

こんにちは。メールをありがとうございました。
最近学務多忙のため、予定していた日本への旅を断念しました。
でも、東京藝術大学大学美術館陳列館で開催している「第2回薪技芸・炎」という展覧会で、私の作品「遠古の更生」を展示しています。もし時間があったらぜひご覧ください。

ご心配いただきましたが、ことしの中國では雨が多く、とくに中國南部では大雨があって被害者もたくさんでてしまいました。たいへんな災害です。
幸いなことに、わたしたちが華東東北部の 安徽省 にでかけたのは雨季の前の六月下旬でしたから、旅行先では二日間だけ雨にあいましたが、ほかは炎暑の毎日でした。
教員3人と学生43人、全員46人での旅行は大変なことでしたが、文房四宝と木版版画の製造工程を見学しました。また、みんなで自ら紙を漉いたり、木版版画を彫る体験ができて大満足でした。

開封/清明上河図部分(宋代)北宋末期のみやこ、開封の繁栄を描いた「清明上河図」部分

大石さんは以前安陽の「文字博物館」と「殷虚」にいくとき、河南省鄭州市 で「水あたり」でお腹をこわされたようですが、わたしも今回の旅行で 河南省開封市 でお腹を壊してしまいました。 たぶん辛い物を食べすぎたことと、バスのエアコンが効きすぎたのでしょうか、お腹が痛くなりました。幸いなことに学生たちは無事でした。 龍門石窟このバス旅行では残念なこともありました。
学院の学位委員会のために、わたしだけ早めに北京にもどったために、河南省洛陽市龍門石窟 を見にいけませんでした。

大石さんも龍門石窟の直前までいって、伊水の増水で断念されたのですね。
できたら今度、大石さんと一緒にぜひとも龍門石窟を見にいきましょう。

暑さに負けないようにがんばりましょう。 

【会員情報】 ぢゃむ 杉本昭生さん、活版小本 小川未明『橋の上』を製作・発表

活版小本京都の吉田山のほとり、ちいさな活版印刷機で小型本の製作をつづけておられる
ぢゃむ 杉本昭生さんは、製作のピッチも順調ですし、そのブログ<活版小本 コホン>
意欲的な更新が継続しています。
とても瀟洒で、すっきりとした画面構成ですし、テキストも丁寧に書きこまれています。
皆さまのご愛読と、ブログへのご訪問をおすすめいたします。    [やつがれ wrote]

ブログ<活版小本 コホン>のアドレスはこちらです。
杉 本   昭 生
【 ぢゃむ 杉本昭生  活版小本 http://kappan-kohon.blogspot.jp/ 】
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小川未明 「橋の上」は『青白む都会』(春陽堂、1918年)に掲載されている短編です。
家へ帰る途中、機嫌の悪い幼子が妻の背中で泣き止みません。すれ違う人たちが眉をひそめるなか、夫婦は子どもの気をそらそうと橋の上へ連れていくのですが……。
人の心に生まれる「魔」の瞬間を描いた小品です。本文の印刷はちょっと頑張って2色二度刷りにしました。  [杉本昭生 ]

 

【会員情報】 石橋祐一郎 ― アスノキオク ― JINEN GALLERY

20160725155434_00002 20160725155434_00003石橋佑一郞 展  ― アスノキオク ―
2016年8月2日[火]―8月14日[日]
JINEN GALLERY

1986 福岡県久留米市生まれ
2010 多摩美術大学美術学部絵画学科版画専攻卒業
2012 多摩美術大学美術研究科博士前期課程絵画専攻版画研究領域修了
現在  多摩美術大学版画研究室助手
日本版画協会準会員

【 詳細 : JINEN GALLERY EXHIBITION

【展示会】 ポケモンだけじゃないぞ。日本列島各地に妖怪や地獄が出現中 ―― 国立公文書館 ようこそ地獄 たのしい地獄

20160722142445_00001 20160722142445_00002平成28年度 第2回企画展 「ようこそ地獄、たのしい地獄」
場    所 : 国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2) 1 階展示ホール
会    期 : 平成28年7月16日(土)-8月27日(土)

※日曜、祝日は休止(但し、8月11日(木)、14日(日)は開館) 入場無料

凄惨で残酷、おどろおどろしい地獄の世界 ―― でもどこかちょっぴり楽しそう !?
古代インドを起源とする「地獄」は、仏教や道教と共に日本へ伝来して以降、土着の信仰などと混ざり合い、独特のイメージを形成しました。
本展では主に平安時代から室町時代にかけて成立した様々な古典籍から、古来、日本人が描いてきた「地獄」のイメージとその死生観についてご紹介します。
【 詳細 : 国立公文書館 展覧会情報

{ 新宿餘談 }
むかしから夏になると、妖怪ばなしや妖怪・地獄ものの企画が多い。
調べものがあって土曜日の昼下がり、お堅い国立公文書館にでかけた。
夏休み企画なのか一階では「ようこそ地獄、たのしい地獄」の企画展示が開催されていた。

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『源氏物語』の作者 : 紫式部は 人〻を惑わせた罪により、地獄に堕ちた !? 
2807_02[1]源氏供養表白 (ひょうびゃく-供養祭の願文)

 『源氏物語』で人々を惑わせた罪により、地獄に堕ちたとされる紫式部を供養するための表白文。展示資料は江戸時代初期に書写されたもので、徳川家康の謀臣:林 羅山(はやし らざん、1853-1657)が所蔵していたもの。(上掲図版は国立公文書館URLより)

【展示会】 ポケモンだけじゃないぞ。日本列島各地に妖怪や地獄が出現中 ―― 江戸東京博物館 大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで

yokai[1]江戸東京博物館
大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで
2016年07月05日[火]― 08月28日[日]

妖怪は、日本人が古くから抱いてきた、異界への恐れ、不安感、また〝身近なもの〟を慈しむ心が造形化されたものです。「百鬼夜行絵巻 ひゃっきやぎょうえまき」などに描かれた妖怪たちの姿は、一見すると不気味ながら、実に愛らしさにあふれています。

日本絵画史上、異界の生き物としての「鬼」や「化け物」が登場するのは平安時代の末期、12世紀とされます。たとえば、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、邪気を退治する神々を描いた国宝「辟邪絵 へきじゃえ」や、国宝「六道絵 ろくどうえ」に地獄の様相があらわされ、鬼が数多く登場します。これらが妖怪誕生のイメージ・ソースとなります。
中世に入ると、いよいよ妖怪の登場です。気弱そうで同情を引く顔つきの妖怪が登場する重要文化財「土蜘蛛草紙絵巻 つちぐもそうしえまき」や、古道具を妖怪化させて物の大切さを説く「付喪神絵巻 つくもがみえまき」など、親しみやすさが色濃くなります。さらには、コミカルな鬼たちが京を闊歩する室町時代の重要文化財「百鬼夜行絵巻」や、江戸時代では葛飾北斎「百物語」や歌川国芳「相馬の古内裏 そうまのふるだいり」などの作品が、後世に大きな影響を与えました。

本展では、古くから日本で愛されてきた妖怪、すなわち〝異界への畏れの形〟の表現の展開を、縄文時代の土偶から、平安・鎌倉時代の地獄絵、中世の絵巻、江戸時代の浮世絵、そして現代の「妖怪ウォッチ」まで、国宝・重要文化財を含む一級の美術品で紹介します。
民俗学にかたよりがちだった従来の妖怪展とは一線を画す美術史学からみた〝妖怪展の決定版〟です。

【 詳細 : 江戸東京博物館 展覧会

【字学】〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟情報過多の時代の活字と書物

Print〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

資料や著作原稿のことを「DATA」と呼ぶようになったのはいつのころからだろう。

極めつきの悪筆だったのでワープロが便利で好きだった。富士通 オアシス、NEC 文豪などを愛用していた。その後パソコンになったが、基本ソフトは「一太郎」であり、「ATOK」であって、ワープロと大差はなかった。

それらの「情報」は、8 inch, 5 inch, 3.5 inch のフロッピーディスクや、MO といった「記憶媒体」に「記録」したつもりだった。ところがそれは「記憶媒体であって、決して記録媒体」でないことを痛感させられる事態がつづいた。それでもハードディスクなる記憶媒体が登場すると、そこにも前述のデーターを「変換して保管」した。

ある日、「フロッピーのドライバーをつかえなくなった」とされた。ケーブルが「スカジーケーブル」から細いものにかわったときも、大量のデーターが事実上喪失することになった。
それでもいまだにフロッピーディスクや MO を未練がましく大量に保存している。それは物体生の安心感があるが、枚数が多ければデーター量も多いという旧弊なおもいこみであることはいまや知ってはいてもである。
これらの「記憶媒体」とは、すこしたってなじんだ頃になると、決まって、OS 変更、機種変更がなされ、そのたびに古いデーターは電子技術者でもないかぎり「開かない、あかない」とされてしまう。

ということは・・・・・・、危惧におわってくれればよいが、どうしても現在の容量が増加したすべての記憶媒体は、肥大化した恐竜が絶滅したように、いずれはその崩壊ないし絶滅のときをむかえるという危機感からぬけだせない。
未来は過去の延長線上にある。そこで未来予測のまえに、過去をふり返ってみたい。

19世紀世紀末英国街頭風景『Printing  1770 – 1970』 より
18-19世紀イギリスの印刷・出版・広告界の混乱は、現代では想像を絶するものでありながら、どこかまた現代とも通底するところがある。

上図は1835年(江戸後期 天保6)、産業革命後イギリスの負の側面が露呈した、まさに狂奔というべき状況を記録したもので、「ビラ貼り職人」が街頭で競ってビラを貼っている様子をあらわす。
ビラを貼るそばには、ライバル企業のそれを剥がす専門のものいて、さらにその跡や前のビラの上に無遠慮にビラを貼るものがいたと記録されている。
ちなみに1835年には「Hand bill  (手で配る広告、ちらし 1753年初出)」はあったが、まだポスターということばの使用は記録されていない。
上図から三年ほどのち、1838年に Post の派生語として Poster なることばが誕生した。

下図は、1874年(明治7)蒸気機関車がみられる駅頭に掲出された巨大ポスター。これらのポスターの一部は、わが国の印刷博物館にも展示されているが、ともかく想像を絶する巨大なものである。
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もうひとつ図版を紹介したい。

上図は1829年(江戸後期 文政12年)印刷地は不明ながら、米国における「Auction sale の告知」(Sales notices  15”×12”)である。
ところがそのオークションの内容たるや、食品・図書・裁縫用具・リボン、馬などとともに、「男女の奴隷市」というすさまじいものである。
ちなみに奴隷制を廃止したのは、英国では1833年、米国では南北戦争を経て、つい最近ともいえる1865年(慶応元年)のことである(Printed Ephemera, John Noel, W.S.Cowell Ltd., 1962 p.81)。

この Sales notices にはまだサンセリフ体の使用はみられないが、書物ではあまりみられなかった、おおきなサイズ、太い活字書体がもちいられている。

こうした旺盛な商業広告のなかから、それまでの書物の活字「テキスト・タイプ」にかえて、サン・セリフ体をはじめとする「ジョブ・タイプ 広告・端物用活字書体」が誕生し、巨大サイズの木製の活字も大量に生産された。
しかしこれらが書物と公版印刷に与えた影響とは必ずしも好ましいものではなく、19世紀世紀末から21世紀初頭にわたって展開された、「個人印刷所運動 Private press movement」、「金属活字改良運動  スタンリー・モリスンらのフラーロン派など」の動向をまって落ち着きをみせた。

『新英和大辞典』(第六版 研究社)によると、書物・図書としての Book の初出は、あまりにふるくて判明しないとされる。
いっぽう雑誌・Magazine は、ラテン語 Magazzino(仮設置き場・倉庫・雑貨店)から発し、英語での初出は1731年に仮置き場・情報保管庫の意からの初出がみられるとする。
また上述したように、ビラの淵源になったともくされる Hand bill  (手で配る広告、ちらし、ビラ ≒小型販促印刷物)は1753年に初出がみられるが、それがいっそう大型化し、掲出されるようになった Poster は、1838年 Post の派生語として初出がみられるとする。

すなわち産業革命を主導した英国においては、新聞・News peper は1670年の初出で346年ほど、雑誌・Magazine は285年ほど、ビラ・Poster は178年ほどの歴史しかなく、書物・図書の製造をもっぱらとしていた近代活字版印刷術 Typography の620年ほどの歴史とくらべると、いずれも比較的あたらしいメディアであることがわかる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography 伝来の起点をどこに置くかは議論のあるところだが、いちおう1869年(明治2)10月上旬のころ、長崎製鉄所付属活版伝習所における迅速活字版製造の技術の伝習とすると、上掲図の10年後、米国での奴隷解放が実現した四年後ほどのちのこととなる。
また下掲図の駅頭に掲出された巨大ポスター1874年(明治7)とは、数えて27歳、青年平野富二が1871年(明治5)新妻 古ま と長崎新塾活版所の社員8名をつれて長崎を出立してから2年後、東京築地に「築地活版所」をもうけて、活版製造と関連印刷機器の製造に目途がついたころにあたる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography の伝来は、おもに欧米諸国の租借地だった上海からもたらされた。この上海の租借地とは、欧米先進諸国が租借国となり、原則的にそこでは統治権を行使したので、ある意味では占領地にちかいものであった。
しかしながら、その背後の英国と米国の状況とは、両図にみるような混沌としたものだったことは忘れられがちである。
東京新聞
参議院議員選挙、気候不順などの話題がかさなってめだたなかったが、先般英国は国民投票によってEC(European Community)からの離脱を決定した。もしかすると、また欧州混乱の序章の幕開けを予想させる事態であった。
また、『東京新聞 2016年7月8日』には、<町の書店経営悪化>がおおきく報道された。
これは日本書店商業組合連合会(日書連)による全国4,015店の書店の実態調査で、
「ここ数年間の経営状態が悪化したとする回答が85%をこえたことがわかった」
としている。

経営悪化の原因としては、客の数やひとり当たりの購入額の減少だけでなく、雑誌の売り上げの低迷、ネット書店の台頭、後継者不足をあげる声が多数をしめたという。
10年前の同様の調査でも、すでに「客数の減少」「大型店の出店」が憂慮されていた。
同紙はまた【出版不況】について出版科学研究所の調査をひいてその不振とともに、雑誌と書籍の売上高が逆転したことを報告している。

それによると書籍と雑誌をあわせた出版物の2015年の推定販売金額は1兆5220億円で、その市場規模はピークだった1996年(平成8)の6割弱まで縮小しているとした。
また特に深刻なのは、これまで出版界を支えてきた雑誌で、出版取次(問屋)大手の日本出版販売が6月に発表した15年度決算において、雑誌の売上高が32年ぶりに書籍を下回ったと報じている。
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〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟―― 孔子『論語』にみられる警句である。
これまで産業革命がもたらした書物と印刷・活字における負の側面をみてきた。

産業革命(Indusrial revolution)とは、1760年代の英国にはじまり、1830年代以降欧州諸国に波及したもので、ちいさな手工業的な作業場にかわって、産業の技術的な基礎が一変し、機械設備による大工場が成立し、社会構造が大きく変化したことをいう。

とかく、活字離れ、町にみえている書店の不振ばかりが話題になるが、いっぽうでは電子技術の進展と利便性を「IT 革命」として歓迎するむきもある。
それでなお、取次中堅業者(図書の問屋)が倒産したり、集合化している深刻な事態は看過され、印刷所・出版社・新聞社・メディア関連業界が気息奄奄たる状況にあることは見逃されている。
小社も零細とはいえ出版社である。この危機的状況の埒外にあるわけではない。
いいたいことは山ほどあるが、たれのせいでもない、傍観も看過もできないが、いったそばから天に唾するがごとく、わが身にふりかかる難問でもある。

チャペック01 チャペック02 「海の日」にちなんだ三連休、近場への外出はあったが、一昨年にその兄弟の墓地をたずねた、チェコの作家 カレル・チャペックKarel Čapek, 1890-1938)の著作を文庫版で三冊買いこんで読了するつもりだった。
『園芸家12ヶ月』、戯曲『ロボット (R.U.R.)』と二冊まではおもしろく読みすすんだが、楽しみにしていた小説『山椒魚戦争』で行きづまった。

これは著者のせいでも訳者のせいでもない。この翻訳書は世評のたかい版元であり、印刷所だった。ところが世情では評価がたかいものの、この印刷所の活字書体と組版にはどうしてもなじめなかった。
『山椒魚戦争』は、原著のチェコ語版、フランス語版を含めて、いくつかの言語の版を「みてきていた」。みるだけでおもしろく、楽しい書物だった。それだけに残念で、月曜深夜というより、火曜朝までなんとか読もうとねばったがとうとうあきらめた、
「よむため」に、別の版元からでている翻訳書を購入することにした。
出版人として、タイポグラファとして、まだやることがあるとおもって朝をむかえた。

【東京国立博物館】 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」 {植栽:龍爪槐をたのしむ}

20160719211830_00001 20160719211830_00002東京国立博物館 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」
平成館 特別展示室   2016年6月21日[火] - 2016年9月19日[月]

ギリシャの彫刻、フレスコ画、金属製品などを展示します。新石器時代からヘレニズム時代までの各時代、キュクラデス諸島、クレタ島ほかエーゲ海の島々や、ア テネ、スパルタ、マケドニアなど、ギリシャ各地に花開いた美術を訪ねる旅に出発しましょう。
ギリシャ本国の作品のみによるものとしては、かつてない大規模なギリシャ美術展です。

【 詳細 : 東京国立博物館 特別展
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{ 新 宿 餘 談 }
DSCN9524 DSCN9546 DSCN9537もう蟬がないていた。 むしあつい夏の日の午後だった。
「エジプト展」とならんで、「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。7月17日[日]もそうだった。
人にアタル(人混み中毒症)のやつがれ、予習をだいぶしてきたので、平成館のせっかくのひろい展示場を、くねくねと細い通路でしきった、冷房の効きののわるい展示会場をかけ足でみてあるいた。
なにしろ本展は九割以上が日本初公開で、全325点の展示がなされている。やつがれの画像許容量をはるかに超える作品群だった。

人混みを避けて前庭に出る。ことしの東京は水飢饉が心配されるほど雨がすくなかったが、国立博物館(トーハク)の樹木と艸花は庭士がかわったのかとおもわせるほど元気だった。芝生では雀がむれていたし、蟻もさかんに活躍していた。
正面プラザからはいって、正面の「本館 日本ギャラリー」の前のユリノキ( 百合の木、学名 :  Liriodendron tulipifera は、袢纏にも似た葉をいっぱいにつけて元気だった。

ユリノキ 北アメリカ中部原産  
日本へは明治時代初期に渡来した。東京国立博物館本館前庭の巨木に添えられた銘板に、次のように記されている。
明治8、9年頃渡来した30粒の種から育った一本の苗木から、明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。
そのため東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。

DSCN9536 DSCN9546 DSCN9548 DSCN9552 DSCN9559平成館の前庭には「芙蓉」らしき艸が、深紅の大輪の花をつけていた。
アレレッとおどろいた。いままで見逃していたのかも知れないが、庭のそこ此処に「龍爪槐 リュウソウ-エンジュ しだれえんじゅ」(画像集)がこんもりと繁っていた。

この低灌木は、冬になって剪定されると形相をかえて、鋭い龍の爪のように変貌する。このことは、<花筏 聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって>で紹介した。
龍爪パッケまたことしの五月末にでかけた北京清華大学の指定ホテル「甲所」の前にも、生け垣のようにして龍爪槐がたくさんあった。

DSCN7899DSCN8137陽ざしはつよかったが、こうして平成館の前庭をぐるぐるまわり、喫煙所で一服をかさねた。
一時間余ののち、鑑賞をつづけていたつれあいが図録を重そうにかかえてはしりでてきた。
どういうわけか、「エジプト展」とならんで「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。
家に帰って図録鑑賞をゆっくり楽しもうとこころにきめた。

【展覧会】 奥村浩之氏/笹井祐子氏出展 グループ展 「FIFTH ELEMENT ― 5つの要素」 ― 風 . 水 . 土 . 太陽 . 月―

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「FIFTH ELEMENT ― 5つの要素」 ― 風 .  水 . 土 .  太陽 . 月―
会 場 : ATELIER • K art space
http://atelier-k.main.jp/index.html
横浜市中区石川町1-6三甚ピル3F
T E L : 045-651-9037 / 045-625-2352
会 期 : 7月16日(土)-7月28日(木) 7月25日(休廊)
11:30 am-19:00pm(日曜日18:00pm, 最終日17:00pm)
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IMG_1360 IMG_1402IMG_1403奥村さんは三
点、笹井は二点の展示です。青い彫刻作品は「青の黒曜石」です。その上が笹井さんの版画作品です。

美味しゅうございました マールブランシュ 京都 北山 ♬ 京 の か ぞ え 唄 ♬

main1 DSCN7936 DSCN7941ちょっとした祝いごとがあって、京都の友人から{マールブランシュ 京都北山}の銘菓をいただいた。
京都ならではのこまやかなこころ配りがされた美味しいお菓子であった。
これでもかというほどの配慮がなされたうつわ(器ともパッケージともしるしたくない気分)がまたよかった。
こうした京都風情はやりすぎると嫌味になるが、ギリギリのところで抑制されていた。
そこに一枚の紙葉がはいっており「京のかぞえ唄」がしるされていた。紹介したい。

♬  京 の か ぞ え 唄 ♬ 壹    〝東西の通り名の唄〟
まる たけ えびす に  おし おいけ

あね さん ろっかく たこ にしき
し あや ぶっ たか  まつ まん ごじょう
せった ちゃらちゃら  うおのたな
ろくじょう しちちょう とおりすぎ
はちじょう こえれば とうじみち
くじょうおおじで  とどめさす

♬  京 の か ぞ え 唄 ♬  貳   〝南北の通り名の唄〟
てら ごこ ふや とみ やなぎ さかい

たか あい ひがし くるまやちょう
からす りょうがえ むろ ころも
しんまち かまんざ にし おがわ
あぶら さめないで ほりかわのみず
よしや いの くろ おおみやへ
まつ ひぐらしに ちえこういん
じょうふく せんぼん はてはにしじん

俚謡で難解な京都の通り名をおぼえるためのもの。異謡もさまざまにあるらしい。
これを覚えて行けば、もう〝おのぼりさん〟といわれないのかな?
【 詳細 :   マールブランシュ 京都北山 】
【 参考 : 京都の通り名の唄 歌唱つき 】

【良書紹介】 「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第53号を発刊 晋弘舎活版印刷所:四代目の若き技芸者、横山桃子さん登場

20160711153632_00001ミツカン(株式会社Mizkan Holdings)は、2004年(平成16)創業200周年を迎えました。
「水」の恩恵を受け、「水」によって育てられてきたミツカンは、「水」をテーマとした社会貢献活動として、1999年(平成11)1月「ミツカン水の文化センター」を設立しました。

人の営みの根源には、常に「水」があります。人はときには「水」と闘い、またあるときには「水」と共生しながら、自らの「暮らし」をつくり上げてきました。当センターでは、この〝人と水とのかかわり〟によって生み出されてきた生活様式を「水の文化」ととらえています。
「健全な水循環」が保持されるよう、さまざまな研究活動や情報交流活動を通じて、「水」の大切さを伝え、「水」への意識向上を広く図っていきたいと考えています。
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企業広報誌としてきわめて評価のたかい、ミツカン 水の文化センター『水の文化誌』は、本項でも 2016年03月02日 52号に際して紹介 した。
ミツカン水の文化誌5220160711153632_00001
『水の文化誌』53号の特集は、夏らしく「ぼくらには妖怪が必要だ」であるが、連載「魅力づくりの教え5」(担当執筆:中庭光彦氏)では「制約を味方にする小さなベンチャー ―― 長崎県小値賀島 (五島列島)」として、本欄7月1日「長崎県五島列島小値賀島(おぢかじま)の晋弘舎活版印刷所:横山桃子さんがご来社に 」に取りあげたばかりの横山桃子さんが登場で、おどろくやら、うれしいやらであった。
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見開き 片面──────────
「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』

機関誌『水の文化』は、1999年(平成11)1月創刊。年3回、無償で発行しています。
創刊以来53号にたっしましたが、「人と水」、「人と人」のかかわりの中で生み出された、知恵や地域固有の習慣に光を当ててきました。「水の文化」を探るうちに、思いがけない〝新たな視点〟を発見することも。

意識してきたのは、多様な領域への取材。物事を一側面からだけ見るのではなく、立場が異なる人がどう考え、どうかかわっているかに着目し、横串を通すことで新たな切り口を探ります。また、無形の財産ともいえる知恵や習慣が、未来へつながることを心がけています。
発行後しばらくすると、ホームページ[水の文化 バックナンバー]からPDFファイルもダウンロードすることができますので、定期購読申込とあわせてご利用ください。
【 詳細 : ミツカン 水の文化センター

【展覧会】 根津美術館 はじめての古美術鑑賞 ー 絵画の技法と表現 -

根津美術館7-9展覧会
日本の美術、とくに古美術は西洋美術にくらべてむずかしい、あるいはなんとなく敷居が高い、という声をよく耳にします。日本の古美術の解説に用いられる耳慣れない専門用語が鑑賞のさまたげになっていると考えられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、逆にそれらの用語を少しでも覚えてしまえば、見方や興味が広がり、日本の古美術の面白さやすばらしさをさらに深く体感できるようになるはずです。
この展覧会では絵画の技法やその用語を、とくに墨と金の使用法を中心に、作品を例にとってやさしく解説しています。皆様の鑑賞がより深まれば幸いです。
主要展示作品 : 四季草花図屏風 喜多川相悦/愛染曼荼羅/洛中洛外屏風/山水図 雲渓永怡筆 沢庵宗彭

◯ 会     期  7月23日[土]-9月4日[日]
◯ 会     場  根津美術館 展示室 1 ・ 2
◯ 休  館 日  月曜日
◯ 開館時間  午前10時-午後5時 (入館は午後 4 時30分まで)
◯ 入 場  料  一般1100円、学生[高校生以上]800円 *中学生以下は無料

【 詳細 : 根津美術館

【字学】 『株式会社秀英舎 創業五十年誌』より 秀英舎は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海・保田久成らにはじまり、こんにちの大日本印刷につらなった

Print創業50年誌 創立者
『 株式会社秀英舎 創業五十年誌 』
B五判 上製本 120ページ 基本 : 活字版印刷 図版 : コロタイプ、オフセット平版印刷

[奥付刊記]
昭和二年三月十五日 印刷
昭和二年三月二十日 発行         非売品
発行者  株式会社 秀 英 舎
       右代表  杉山 義雄
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷者  佐久間衡治
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷所  株式会社 秀 英 舎
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
──────────
由来

 

       社名及商標ノ由来

吾カ秀英舎ノ名称ハ幕末ノ偉人勝安房伯ノ命名セル所ニシ

テ創業当時伯ハ舎長佐久間貞一ニ対シ将来英国ノ右ニ秀ツ

ル意気ヲ以テ事業ノ発展ヲ期セヨト激励シ毫ヲ揮ヒ秀英舎

ノ三文字ヲ題シテ与ヘラレタルニ由来シ其ノ商標ノ生字ハ

秀英ノ反切ニシテ創業発起人安田久成ノ起案ニ係ル所ナリ

【 意読 一部を常用漢字にした p.4 】  基本組版 10pt. 明朝体 26字 字間四分
秀英舎の社名および商標の由来
わが秀英舎の名称は、幕末の偉人 勝 安房伯爵(かつ-やすよし 海舟とも 1823-99)が命名したものです。創業にあたって勝伯爵は、舎長の佐久間貞一(1848-98)に対して、当時強勢を誇っていた英国より将来は上位になり、さらに秀でた存在となるの意気をもって事業の発展を期すように激励し、筆を揮って「秀英舎」の三文字を題して与えられたのに由来します。
秀英舎の商標「生」の字は、「秀英」の 反切 で、創業発起人の保田久成(佐久間貞一の義兄 1836-1904)の起案にかかれるところです。

[ 付記  反切 ハンセツ について ]
わが国で漢和辞書が本格登場したのは明治後期であり、それまでは漢字音を示すのにほかの漢字を借りてする法があり、それを「反切」と呼んだ。
ここでは「秀」の字の声(頭の子音)と、「英」の字の韻を組み合わせた発音が「生」の字となるとしている。ところが現代中国音では「秀」はxiu 、「英」はying 、「生」はsheng であるから、かならずしも当てはまらないことになる。
したがって現代では「反切」はほとんどもちいられず、やや「死語」と化しているともいえる。詳しくはリンク先でご覧いただきたい。

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口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」

創立者

       沿  革  略  誌

明治九年十月九日佐久間貞一大内青巒宏佛海保田久成ノ四名金壹千円ヲ共同出資シテ高橋活版所ノ事業及設備ヲ買収シ今ノ京橋区当時ノ東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地ニ活版印刷ノ業ヲ創ム是即チ株式会社秀英舎ノ濫觴ナリ当時社名ヲ単ニ秀英舎ト称シ四六判八頁掛手引印刷機半紙倍判掛手引印刷機械及半紙判掛手引印刷機械各一台竝ニ四号五号ノ活字若干ノ設備ヲ有スルノミニシテ従業員亦二十余名ノ少数ニ過キサリキ

【 意読 一部を常用漢字にした 口絵 p. 1 】  基本組版 14pt. 明朝体 34字 字間四分
沿  革  略  誌
明治09(1876)年10月09日、佐久間貞一(口絵上右 さくまーていいち 元幕臣・彰義隊隊士、初代舎長・社長 1848-98)、大内青巒(口絵上左 おおうち-せいらん 1845-1918)、 宏 仏海(口絵下右 ひろし-ぶっかい 曹洞宗僧侶 『明教新誌』社主兼印刷人 1838-1901)、保田久成(口絵下左 やすだーひさなり 元幕臣・学問所教授 佐久間貞一夫人 て津 の実兄 秀英舎第二代社長 1836-1904)の四名が発起人となり、金壹千円を共同出資(おもに保田久成が資金提供)して、東京府第一大区八小区山城町(いまの泰明小学校のあたり)の高橋活版所の事業および設備を買収し、それをもっていまの京橋区西紺屋町角(数寄屋河岸御門外弥左衛門町)、当時の東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地(現東京都中央区の晴海通りに面し、数寄屋橋交番の前にあたる)に活版印刷の業をはじめた。これがすなわち株式会社秀英舎、現大日本印刷株式会社のおこりとなった。
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創立当時の社名は単に秀英舎と称し、そのトップを舎長と呼んでいたが、明治27(1894)年01月15日から株式組織となり、初代社長に佐久間貞一が就き、明治31(1898)年11月28日第二代社長に保田久成が就任して、こんにちにいたる基盤を構築した。

当時の設備は高橋活版所から譲渡を受けたもので、四六判八頁掛手引き印刷機(おおむねB三判)、半紙倍判掛手引き印刷機(おおむねA三判)、半紙判掛手引印刷機(おおむねA四判)印刷機がそれぞれ一台ずつと、四号、五号サイズの活字が若干あるのみであった。また従業員も20余名の少人数であった。

{新宿餘談}
平野富二の事績調査にあたっていた際、わが国近代産業の開発者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創始者:平野富二と同様に、秀英舎創業者:佐久間貞一らに関する公開資料もきわめて少ないことにおどろかされた。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日)

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

やつがれは『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日)を著し、上掲のことどものあらかたをしるしたつもりだった。
爾来10年余が経過し、二次循環でも『秀英体研究』が入手難だとも聞くこのごろである。
BsyueiPH2[1]さりながら依然として、東京築地活版製造所の創立者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創立者 : 平野富二と同様に、秀英舎創業者 : 佐久間貞一に関する公開資料がきわめて少ない現状がある。これがしてここに再びデーターを開いた次第である。

『株式会社秀英舎 創業五十年誌』の本文用紙はきわめて上等な、いくぶん厚手で生成りの非塗工紙であるが、筆者旧蔵書は、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」に関しては、どういうわけかひどく「アカヤケ・紙ヤケ」して、劣化がめだっていた。
たまたま古書カタログで「極美麗書」とされた『株式会社秀英舎 創業五十年誌』が紹介されていたので、重複を承知で購入した。

新『株式会社秀英舎 創業五十年誌』は某団体への寄贈書で、収蔵印はあったが、ほとんど手にとられたことがないとおもわれるほどの「極美麗書」であった。
案の定というか、「アカヤケ・紙ヤケ」がめだった、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」のページの前に、「いわゆるウス、グラシン紙」がそのまま挿入されており、おそらくそれが酸性紙であって、本文用紙の劣化を招いたとおもわれた。
すなわち劣化の原因は判明したが、残念ながら良い状態での紹介はできなかった。

佐久間貞一は真言宗円明山西蔵院(台東区根岸3-12-38)にねむる。
ここには佐久間家歴代の墓、そして焼夷弾の焼損によるとおもわれる損傷がいたいたしい、秀英舎の創業者/佐久間貞一の墓があり、境内には榎本武揚による巨大な顕彰碑がある。
黄泉にあそぶひととなった偉人は、塋域がもっとも雄弁にその人物像をかたりかけてくることがある。

dc66f84aa4d9497c09d1fe6d07666210[1]また、幕末の敗者となった、彰義隊士や新撰組を、官許をえてまつることで知られる、曹洞宗補陀山円通寺 (荒川区南千住1-59-11)には『佐久間貞一君記念之松』碑(明治33年5月13日建立)がひと知られずにある。

佐久間貞一は彰義隊士ではあったが、水戸に蟄居した徳川慶喜に同行したために上野戦争には参加しなかった。それでもいっときは追補される身となり、その後企業人として成功しても、没年の二年ほど前に彰義隊士の寺院に記念植樹を寄進したこころ根には熱いものがあったとしかおもえない。
しばらく 佐久間貞一にこだわってみたいゆえんである。

【字学】 佐久間貞一遺墨 『送 太田温郷之帰省』、『法の序』 をみる

Print極めつけの悪筆ゆえ「書は以て姓名を記するに足るのみ」といっている。もちろん負け惜しみの減らず口である。
ところが「書は体を表す」ともいう。
たしかに肉筆からは、
それをしるしたひとの人柄を、ある程度推しはかることができる。

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

秀英舎の創業者 : 佐久間貞一(1848-98)の遺墨とされるものは少ない。
わずかに見るのは、その七回忌に際して発行された『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 印刷所・秀英舎 明治三七年一一月三日)の口絵である。
しかしながら石版印刷によるとみられる複写図版は、あまりに不鮮明で解読に難航して紹介をえなかった。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日) 

もうひとつは一三回忌に際して発行された『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 印刷所・秀英舎第一工場 明治四二年一二月一五日)の口絵にみる、佐久間貞一の遺墨二点である。こちらを紹介させていただく。

そのひとつは静岡で読まれた七言絶句である。韻を踏んでまことに堂々としたものである。
静岡時代の佐久間貞一は、戊申の役に際し、彰義隊隊士として無残なまでの敗北を喫し、追捕の身となって流浪を重ねていた時代のことであった。
佐久間貞一、ときに数えて二一歳、血気と侠気盛んな青春のときでもあった。

佐久間貞一筆書01この書をみると、まさに痩勁である。裂帛の気合いのこもった、まさに痩勁な書である。
友人「太田温郷」との別れに際してのこしたものであろう。詩もほれぼれするほど良い。
その読み下しを古谷昌二氏の助力をえて試みた。もとよりこの分野は専門ではない。賢者の叱正を待ちたい。

送 太田温郷之帰省
杜鵤啼度客樓遣  祝席傷心首夏天
男子常慙児女態  如今臨別転凄然
    静岡
貞一   再拝

ほととぎす啼きて客楼にわたらしむ
祝席にあって傷心、夏のはじめの天

男子はつねに慙ハジる 児女の態タイ
別れに臨みて淒然とすること今の如し

もうひとつは、宿痾の病としていた肺結核が進行し、死期を悟ったときのもの、あるいは辞世の句とも読める悲壮なものでもある。
弱〻しい筆で入って、それでも気力を振り絞ってしるしたような、これまた痩勁な書である。おそらく宿願であった「工場法」の制定をみないままに果てる無念さをうたったものか。

佐久間貞一筆書02
ありし日に 逢見し老いの おはりにと
法の 序 の かなしかりける

「対づ  ついづ」とは(順序よく)定めるの意である。つまり労働法の成立をみなかった無念をあらわす。
佐久間貞一がのこしたこのふたつの書に、筆者は秀英体活字書風の遠い源流をみる。

BsyueiPH2[1]【 参考 : 『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日) 9-1 佐久間貞一の墨書の源流  p.652-660 】

【字学】 本木昌造関係家系図、そのおいたち、その肖像・銅像

Print

本木昌造02◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所)にも掲載されているが、これには裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印字されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。
 
◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。

明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

【本木昌造関係家系図】

参考資料 : 長崎諏訪神社蔵『本木氏系図』
「櫻痴、メディア勃興の記録者」『ヴィネット00』(片塩二朗 朗文堂)
『文明開化は長崎から 上』(広瀬 隆 集英社)
本木家系図

【本木昌造の生い立ち】

本木昌造は、文政七年(一八二四)六月五日、長崎会所請払役 ナガサキカイショ-ウケバライヤク : 馬田又次右衛門 バダ-マタジエモン の二男として、長崎新新石灰町 シン-シックイ-マチ (現在の油屋町アブラヤ-マチ)にうまれた。幼名は作之助、成人して元吉モトキチと改めた。

その後、長崎新大工町((現在の長崎市新大工町)乙名 オトナ : 北島三弥太 キタジマ-ミヤタ の仮養子となり、ついで阿蘭陀 オランダ 通詞 : 本木昌左衛門久美の婿養子となった。
仮親の北島三弥太は、馬田又右衛門の実兄で、本木昌左衛門久美の従姉 繁 を妻にしていた。繁は、一説では久美の祖父本木栄之進良永の長男の娘で、幼くして父を失い、叔母(良永の長女)に養なわれていたとされる。元吉が本木家に養子に入るに当たって、本木家の長男の家系に属する 繁 を元吉の仮親とし、本木家と縁続きであることとしたと見られる。

なお、久美の父 : 本木庄左衛門正栄は、本木家と血脈のつながる 法橋 ホッキョウ 西 松経 ニシ-ショウケイ の三男で、本木栄之進良永の長女を娶って本木家を嗣いだが、早く妻を亡くして、長崎宿老 シュクロウ 徳見尚芳の娘 綾 を迎え、その長男光芳は徳見家を嗣ぎ、二男昌左衛門久美が本木家を嗣いだ。
久美も早く妻を亡くして 萬屋 ヨロズヤ 浅右衛門の娘 たま を後妻とし、その間に生れた娘 縫 を娶わせるために元吉(昌造)を迎えた。〈「蘭皐本木君墓碑」、「蘭汀本木君墓表」、「阿蘭陀通詞由緒書」など。一部推測による〉
 
昌造は、本木家に入って養父昌左衛門の「昌」の字を貰って改名したもので、諱 イミナ は永久 ナガヒサ、雅号は梧窓 ゴソウ 、堂号は點林 テンリン、戯号は 笑三、咲三と多くの名を持っているが、戸籍名は昌三に改めている。
明治五年(一八七二)、戸籍編成の際に作成されたと見られる資料には、
「 平民
    実父元長崎会所吟味役馬田又次右エ門亡二男
    本木昌三
  壬申四十九歳 」
とあり、さらに続けて、父は隠居した本木昌栄、母は たま と記録されている。
父は隠居後に昌左衛門久美を改めて昌栄としたことが分かる。
この記録においては、実父馬田又次右衛門(故人)は元長崎会所吟味役と記録されているが、請払役の後に、より高位の吟味役になったと考えられる。

また本木昌造の異母弟には、松田雅典 マツダ-マサノリ (八歳下、国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉 シバタ-ショウキチ (一七歳下、外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
 
本木昌造の祖父にあたる 本木栄之進良永は、平野富二の生家、矢次 ヤツグ 家五代目 矢次関次と一緒に仕事をすることが多く、本木家と矢次家とは、少なくともその頃から付き合いがあったことが分かる。
DSC00889 14-4-49348 ◎ 本木昌造の銅像
この銅像は長崎公園に設置されている本木昌造の銅像である。戦時中に金属供出された坐像にかわって、昭和二九年(一九五四)九月に立像として再建された。 

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朗文堂愛着版 『本木昌造伝』
島屋政一著  朗文堂刊
A5判 480ページ 上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点

残部僅少。ご希望の方は直接朗文堂ヘお申し込みください。
直販のみで書店では取り扱っておりません[詳細:朗文堂ブックコスミイク]。

[本項には古谷昌二氏、春田ゆかり氏から情報を提供していただいた]

【朗報】 4月22日[金]-5月24日[火] 東京都立美術館に40万の観覧者をあつめた『若冲 Jakuchu 展』図録が特別追加販売

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伊藤若冲(1716-1800)は、18世紀の京都で活躍したことで知られる画家です。
繊細な描写技法によって動植物を美しく鮮やかに描く一方、即興的な筆遣いとユーモラスな表現による水墨画を数多く手掛けるなど、85歳で没するまで精力的に制作を続けました。

本展では、若冲の生誕300年を記念して初期から晩年までの代表作89点を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」3幅と、「動植綵絵」30幅が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
──────────.
『生誕300年記念 若冲展』日本経済新聞社 展覧会図録(代引き発送)
◎ 展覧会会期 : 東京都美術館 2016年4月22日(金)-5月24日(火)
◎ 図録仕様 : サイズ  A4 判変形、(約)縦29.7×横22.5×厚さ2.3cm、 327頁
◎ 価   格 : 3,900円(消費税 8%込)
【 詳細 : 日経アート社

★        ★        ★        ★

{新宿餘談}
この『若冲展』のことは、本欄でも二度にわたって紹介した。
会期二日目にいったが、すでに相当の混雑で、図録を購入するのにも長蛇の列だった。
本項末尾には<見逃すなかれ 若冲展>と強調しておいた。

20160424142155830_000420160424142155830_0005生誕三百年記念 若冲 じゃくちゅう 展
04月22日― 05月24日
──────────
伊藤若冲(1716―1800)の生誕三百年を記念して、初期から晩年までの代表作を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三〇幅(宮内庁三の丸尚蔵館)が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人々に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
東京都美術館展覧会
──────────
{新宿餘談}
若冲が気になって、「若冲展」二日目、23日[土]に東美(東京都美術館)にでかけた。
できたらとなりの国博(東京国立博物館)の「黒田清輝展」もいっしょに見ようと、はやめに上野公園に向かった。
曇天だった。国博の入場口は閑散としていた。言問通りでタクシーを捨てた。
東美の裏側から回りこんでいったら、入場券売り場から長蛇の列だった。会場内はギッシリ満員。ひとにアタル(中毒)やつがれ、入場前からすでに疲労困憊。

若冲の絵画には息をのんだ。すごかった。
したがって画像記憶許容量をたちまちこえて、脚がなんどもすくんだ。
気がついたら階上のレストランにいて、デザートに旨いティラミスを摂っていた。国博行きはこの瞬間にあきらめた。
見のがす無かれ、若冲展。

──────────   <5月24日掲載分>

「長崎松の森なる千秋亭にて いと厳粛に …… 」と綴った〝ふうけもん〟福地櫻痴。大石は長崎のパワースポットと評す

「長崎松ノ森ナル千秋亭ニテ」(千秋亭は1889・明治22年、総理大臣伊藤博文の命名により富貴楼と改名)ときいて、ハッと反応するような奇妙人を、長崎では〝ふうけもん〟という。
松の森には放し飼いの「若冲 じゃくちゅう」 が数羽いた。おおむねひとになついていたが、一羽挑みかかる鶏がいた。その不届きもんの鶏を「若冲一」と名づけ、以下五羽の鶏と、モソモソとあるく烏骨鶏ウコッケイとしばし戯れた。

東京都美術館の若冲展 は好評だったがきょう(05月24日)で終わり。
会期二日目(4月23日)に参観して息を呑んだやつがれ、「見逃す無かれ 若冲展」として本コーナーでも紹介した。会期後半の週末などは入場に五時間待ちという混雑だったときいた。巡回展が期待されるところである。
そして「長崎松の森なる千秋亭」への再訪の機会をうかがうやつがれがここにいる。
長崎タイトルresize20160424142155830_0005DSCN7620 DSCN7623 DSCN7738 DSCN7728

【サラマ・プレス倶楽部会員情報】 ジュール・ルナール『葡萄畑の葡萄作り』『榛のうつろの実』 新作発表+新宿餘談

雨の元3ともすると小型本の製作者は、なによりも小型であることと、装本のおもしろさにこだわりがつよいあまり、そのテキストが、読書のための 判別性 Legibility と、可読性 Readability を 失っていることがみられます。
ところが ぢやむ 杉本昭生さん はもともと読書家ですので、たとえ小型本であろうと、テキストを厳選し、みずからも読み、読者にも読んでもらおうというつよい意志を感じます。
活版小本 ぢゃむ } タイトルページは凝ったつくりになっていますし、更新もさかんです。
リンク先でゆっくりご覧ください。

なおこのページはスライドショーでもお楽しみいただけます。
──────────
[杉本昭生さんのコメント]
ジュール・ルナールは『にんじん』や『博物誌』で知られるフランスの小説家です。
短文を集めた『葡萄畑の葡萄作り』はルナール30歳の作品で、大正13年岸田國士の訳で出版されました。
この本の中から「力持ち」「七面鳥になった男」「水甕」「商売上手な女」を『葡萄畑の葡萄作り』として一冊にしました。
また同じ本に掲載されていた『榛のうつろの実』の気に入った言葉をいくつか選んで一冊にしました。
読んでいると、なるほど芥川が『文芸的な、余りに文芸的な』でルナールを好意的に書いているのも頷ける気がします。


{新宿餘談} 中國で大いに話題になった活版小本 陶淵明『挽歌詩三首』
大石 薫が五月に北京清華大学にでかけて活版演習にとり組んだ。その際少量の見本を持っていったが、諸大学の教師があらそって手にし、撮影したのが、活版小本 陶淵明『挽歌詩三首』。絵本の出版社に勤務する会員によると、中國では絵本がすくなく、いわゆる豆本のたぐいもあまり見かけないという。
そんなこともあり、近日中に<北京探訪>アップを予定。

【字学】 長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN 「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位報告祭に活句をよみて奉る」

Print 統合長崎諏訪神社所蔵
「本木昌造関係文書集」より

故本木昌造翁の功績を追懐して
贈位奉告祭に活句をよみて奉る
長崎素平連
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點林の枯骨   贈位の花か咲き       紫泉
本木にて朽ちぬは   文字の元祖也    鈍々
文学の修業場   巌流坂に建て       藤覚
鋳上けた活字   銅像と成て立ち      應来
贈位の御沙汰   文明の日の本木     躬之
ステロ版本木の  末に流れ出て      豊舟
本木から枝葉   繁る新聞紙        竹仙
発明の活字を  積て位山           我天
名の如く永久  朽ちぬ君か功        和薩
摩滅せぬ偉勲  活字の発明者       東籬
活字版桜木    よりも世に薫り       東来

統合

「川柳吟社素平連」は明治期長崎にあった川柳・狂句の会で、虎與號トラヨゴウ・安中ヤスナカ書店/安中半三郎(号:東来トウライ 嘉永六年十一月二十九日[西暦1853年12月29日]-1921年4月19日 行年69)が主宰した{花筏}。

もとおと「川柳吟社素平連」は知るところがすくなかったが、故阿津坂 實氏の紹介をえて、わずかにこれらの句を『活字をつくる ヴィネット04』(片塩二朗・河野三男 2002年06月06日 朗文堂 p.207)でも紹介した。
ようやく長崎でも「ふうけもん 安中半三郎」が注目されるようになり、今般長崎で一次複写資料を入手したので、ここに古谷昌二氏の釈読で紹介した。
しかしながら、依然としてこれらの句をのこした結社の会員名は「安中半三郎=東来」以外の詳細は不明である。

冒頭に、「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位奉告祭に活句をよみて奉る」とあるのは、明治45年(1912)2月26日に本木昌造に従五位を追贈する旨が通達された。
東京築地活版製造所では同年5月25日「本木昌造翁贈位祭典」が星野 錫、野村宗十郎、松田精一、三間ミツマ隆次を発起人として「上野精養軒」で盛大な祝賀会が催されている。
おそらく地元長崎でもこのような祝賀会が催され、「川柳吟社素平連 すぺれん」も句を寄せたものであろう(『本木昌造伝』島谷政一 朗文堂 p.218-228)。

ことしも鈴なり、おいしいトマトが到着しました! 北海道由仁町:まるほり野菜園

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DSCN8575 DSCN858407月01日、今年初モノのミニトマトが北海道由仁町「まるほり野菜園」から到着。
「風の猫ゴリ」は最近栽培部長に昇格したようである。ところが園主の堀内さんは、熱中症でダウンしたことがあったようでおどろいたが、大過なく元気いっぱいのいま。

社内では<Viva la 活版 Viva 美唄>のおもいでの地、北海道にまた行きたい、<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>の鹿児島に再訪をなどとかまびすしいが、どうやら<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>にちなんで、新潟十日町ちかくの「紙漉サトウ工房 佐藤徹哉」さん訪問が具体化しつつあるらしい いま。IMG_8473_convert_20160617121418[1] ゴリ01 堀内鬼の霍乱【 ことしのミニトマト情報 : まるほり野菜園

長崎県五島列島小値賀島(おぢかじま)の晋弘舎活版印刷所:横山桃子さんがご来社に

DSCN8586 DSCN8584活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>にご来場いただいた、長崎五島列島、晋弘舎活版印刷所:四代目の若き技芸者、横山桃子さんがご来社に。
おりしも<Viva la 活版 Viva 美唄>でお馴染みの北海道「まるほり野菜園」から、ことし初物のミニトマトが到着して、話題は「モノづくり」全般にひろがって盛りあがっていました。
晋弘舎活版印刷所の WebSite からご紹介いたします。

────────── 09[1] 23[1]はじめまして。
晋弘舎4代目・横山桃子です。 晋弘舎は、長崎県五島列島の北部に位置する小値賀島(おぢかじま)の唯一の印刷所として100年の歴史があります。
もともとは総合商社でしたが、2代目の祖父の「活版印刷は文化事業だ」との強い想いが、この印刷業だけを手元に残すことになり、他の事業はのれん分けしました。

曾祖父、祖父、そして父と、3代に渡りこの島の暮らしに寄り添うあらゆるものを印刷してきました。 一時は、安さ・便利さを求められる時代の中で衰退の道を辿りましたが、こんな時代だからこそ求められる魅力が活版印刷にはあると信じ、娘である私も今、活字と向き合う毎日です。
島で唯一の印刷屋として、世界に目を向けて、この小値賀島と共に活版印刷の奥深さを発信していきたいと思っています。

【 詳細情報 : 晋弘舎活版印刷所 】