月別アーカイブ: 2014年4月

【展覧会】 生誕100年 立原道造と軽井沢展

 生誕100年
立原道造と軽井沢展
◎ と   き:2014年04月24日[木]-07月14日
午前09時-午後05時 会期中無休
◎ とこ ろ:軽井沢高原文庫[開館30周年]
389-0111 長野県北佐久郡軽井沢町塩沢湖202-3
Telephone:0267-45-1175
http://www.karuizawataliesin.com
◎ 料 金:おとな(高校生以上)700円 小・中学生 300円
◎ 協 力:立原道造記念会、立原道造の会
──────
ふるさとの夜に寄す    立原道造

やさしいひとらよ  たづねるな!
なにをおまへはして来たかと 私に
やすみなく 忘れすてねばならない
そそぎこめ すべてを 夜に ……

いまは 嘆きも 叫びも ささやきも
暗い碧ミドリの闇のなかに
私のためには 花となれ! 咲くやうに にほふやうに

この世の花のあるやうに
手を濡らした真白い雫のちるやうに ────
忘れよ ひとよ …… ただ! しばし

とほくあれ 限り知らない悲しみよ にくしみよ……
ああ帰つて来た 私の横たはるほとりには
花のみ 白く咲いてあれ! 幼かつた日のやうに

140421[1]

四季派の抒情詩人立原道造(1914-39)の生誕100年を記念し、立原道造の詩的世界を育んだ軽井沢において、立原と当地の関わりを中心に彼の足跡を紹介するものです。詩稿、設計図、パステル画、書簡、著作、初出誌、建築模型など貴重な資料約200点を展観します。

わずか24歳8ヶ月にしてその短い人生をかけぬけた、詩人にして造形家:立原道造と触れるために、初夏のひととき、軽井沢にお出かけになりませんか。
残念ですが、東京に「立原道造記念館」が無きいま、軽井沢でのご観覧をおすすめします。

【会員情報】 「Keyword」ハンガリアン vol.2

Keyword

「Keyword」ハンガリアン vol.2

と  き ─ 014年4月24日[木]-30日[土]
じかん ─ 2:00-19:00
*入場無料 *初日15:00- *金曜日-20:00まで *最終日-17:00まで
ところ ─  ブックギャラリー ポポタム
http://popotame.m78.com/shop/
〒171-0021 豊島区西池袋2-15-17
tel. 03-5952-0114
参加作家 ─
阿部真弓、尾田美樹、さかたきよこ、タダジュン、永島幸子、濱中大作、
宝珠光寿、松本里美、溝上幾久子、宮越暁子、山福朱実、山本佳奈枝
企   画 ─ QIP&ホルスル工作室

春 まだあさき 奥信濃路をゆく

奥信濃路《世のなかは みっか見ぬ間の 櫻かな》
あでやかではあるが、まことにあわただしく、はかないのが春の櫻である。
そんなはかない花と、世のなかのうつろいを、
「世のなかは みっか見ぬ間の 櫻かな」
と詠じたのは、江戸の俳人/大島蓼太 リョウタ であった。類似の句に、
「有為転変ウイテンペンは 世の習い」
がある。ともに浮き世のうつろいと、そのあえかさを嘆じたものであろう。

所用があって、04月の上旬、久しぶりに奥信濃、信州飯山に帰郷した。例年なら豪雪地帯で知られる飯山あたりには、五月の連休になってもまだ積雪がみられるのに、ことしは平野部にはもう残雪のかけらもなかった。こんな年もたまにはあっても良い。

ことしのお江戸の櫻は、年度末の忙しさと、悪天候にたたられて、文字どおり「世のなかは みっか見ぬ間の 櫻かな」となった。ようやく陽が差した昼下がり、ふらりと櫻をみにでかけたが、すでに地面いっぱいに、雨に打たれた紅色の花弁が散り敷いていた。
郷里での所用が早めにすんだので、奥信濃の早春と、艸艸をひさしぶりにたのしんだ。

DSCN3594DSCN3613 DSCN3803

便利な世の中になった。東京駅から長野新幹線にのり、一時間とすこしで長野駅に着く。
かつては上野コウヅケの国・群馬県と、信濃の国・長野県をへだてる「碓氷峠 ウスイトウゲ」をこえるのが困難で、旧国有鉄道・信越線は、この横川-軽井沢間の区間だけ機関車を増設して、中央に歯車のようなカムがある アプト式 という特殊なレールの軌道をあえぎながらのぼっていた【リンク:碓氷峠鉄道文化村】。

この国境の峠に、近代の乗り物が登場したのは1888年(明治21)のことで、「碓井馬車鉄道」といって、ドコービル鉄軌の上を、馬が車を牽引していたようである。
ドコービル鉄軌とはフランス人ポール・ドコ-ビル(1846-1922)の考案によるもので、トロッコのレールの前身のようなものであった。その使用権を購入した、平野富二が率いる「石川島造船所」と「平野土木」の貢献が「碓井馬車鉄道」の建造にはおおきかったという。

平野富二は1873年(明治6)に東京築地活版製造所を創立して、わが国の近代印刷術への貢献がおおきかったが、造船・機械製造・運輸・土木工事(現IHIがその一部を継承)への貢献はあまり知られていなかった【ウィキペディア:ドコービル】。

かつての信越線(1997年・平成9年廃線)には、碓氷峠だけで26ヶ所のトンネルがあったが、けわしい山間部にある、その大半のトンネル掘削と、多くの鉄橋工事にあたって、おおいに威力を発揮したのが「ドコービル鉄軌」であった。
それまでの土木工事とは、ほとんどが人手により、土砂の運搬などは「モッコ、バイスケ」などで、もっぱら人足が担いでいた。それを一変したのは、平野富二による「ドコービル鉄軌」であった(『平野富二伝』古谷昌二 p.698)。

平野富二は、当時から造船業だけでなく、足尾銅山の古河市兵衛から鉱山の機械化について相談を受けて、鉱山用機械の製造もしていた。
平野はこのドコービル軽便軌道が将来多くの用途で役立つと考えて、1883年(明治16)日本においての独占販売権を獲得した。ところが買い手がつかず、結局平野自らが土木業をはじめることになった。このひとにはそうした無鉄砲なまでの大胆さがあった。

1886年(明治19年)、平野富治は有限責任東京平野土木組を設立し、各地の鉄道、道路や水道工事等にこのドコービル鉄軌を使用し、モッコやバイスケがふつうだった土木現場に機械力を持ち込み、1888年(明治21年)に開業した 碓氷馬車鉄道 の工事を請負った。
また、これもやはり平野富二がふかく関わった足尾銅山でも、ドコービル鉄軌ほかの「石川島造船所」製の機械がもちいられた。【関連資料: 『足尾暴動の史的分析 第3章』西村一夫 補助説明(11)

長野新幹線は、東京駅を発車し、上野、大宮と停車し、新聞を読みおえるまもなく、上信国境の碓氷峠の地下深く掘られたトンネルをぬけて、軽井沢に停車する。
風は冷たかったが、よく晴れた日で、浅間山が全容をみせていた。この威容に接すると、
 「あぁ、みすずかる 信濃の国に もどったな」
と感慨ぶかいものがある。
DSCN3598 DSCN3605 DSCN3604 DSCN3606長野冬季オリンピックの時に新幹線が長野まで開通した。
この新幹線は延伸されて、やがて東京から長野を経由し、やつがれの郷里の飯山から、信越国境の山並みをこえるトンネルにはいり、一気に越後の国・新潟県上越市にぬけて、日本海にそった、富山・金沢などをむすんだルートで関西圏に達するという。

そのためにあたらしい長野駅舎が旧東口(新幹線口)に設けられて、全国どこでもみられる、平板で機能むき出しの、じつに無味乾燥な風景となった。
いっぽう旧駅舎の西口は、善光寺を模した建物で、とても独自性と風情があった。ところがさすがに老朽化したようで、全面的に取り壊され、あたらしい駅舎の工事中であった。

《長野から花と栗の里・小布施町へ ── 旧国道をのんびりと》
長野駅の西口で下車したが、車中心の社会になったためか、駅前には人通りがすくなく、善光寺参詣の善男善女にむけて、アンズ、桃、ブドウ、リンゴなど、折折の名産品をならべて軒をつらねていた土産物屋は、ほとんどすがたを消し、駅前の景観はすっかり変わっていた。

かんがえてみれば、やつがれがこの長野を出てから半世紀ほどのときが経っている。
わずかに特産の信州味噌の老舗が、かわらぬ姿で駅前の末広町の交差点にのこっていた。ここを右にまがると、善光寺までまっすぐな参道となる。長野市は県庁所在地でもあるが、もともと善光寺の門前町として栄えたまちであった。
末広町の脇でレンタカーを借りて、小布施町にむかった。この間には高速道路があるが、わずか15kmほどの距離でもあり、旧道をのんびりと走った。

小布施町はふるいまちで、戦国時代からの遺跡、遺物、文書がのこる。また、ものなりがゆたかであって、どこかおだやかで、しっとりとしたまちでもある。
また、小布施町は千曲川に流入する松川にそったまちで、名産は栗である。
その栗からつくった「栗羊羹」「栗鹿の子」は絶品で、小布施堂、櫻井甘精堂、竹風堂の三社がふるい街道にそって軒をならべ、それぞれ特徴ある味わいで覇をきそっている。

DSCN3613 DSCN3620 DSCN3600十数年ぶりで小布施の町にいった。千曲川と松川の川面をわたる早春の風はまだつめたかったが、雪国の春をつげる蕗の薹(ふきのとう)が芽をだし、馬酔木(あしび)も純白の花房を垂れていた。
やつがれ、小布施堂、櫻井甘精堂、竹風堂の三店舗をのんびりまわり、「栗おこわ」と「栗ぜんざい」を食した。しみじみと旨かった。(自分への)みやげに、栗羊羹を一本だけ購入した。

小布施では、ともかく内外の観光客の多さにおどろいた。のちに訪ねた善光寺が閑散としていたのにたいして、この町ではおおくの西洋人が、三三五五散策をたのしんでいたし、中国などアジアの国からの観光客も多かった。
外国人向けの情報や、観光ガイドブックなどには、どのように小布施町は紹介されているのだろう、とおもえるほどだった。

小布施町には、ふるく戦国時代、加藤清正らとともに秀吉の麾下にあって、「賤ヶ岳七本槍」としてしられる、武将・福島正則の墓所がある。
福島政則は豊臣家の滅亡後、徳川幕府によって広島藩50万石から、一気に川中島藩(高井野藩)2万石に減封されて、この僻遠の地で憤死ともいえる終焉をむかえた。その墓は小布施のちいさな寺に葬られている【ウィキペディア:福島政則】。

また小布施は、江戸時代には天領(幕府直轄領)であり、ものなりがよい割に、地方大名からの搾取がなかったために、実入りがよくて文化度はたかい。すなわち小布施は幕末の豪商・高井鴻山(タカイ-コウザン 1806-1883)が招いた、葛飾北斎、佐久間象山、小林一茶ら、一流文人の交流の地でもあった。

高井鴻山は江戸での遊学時代に葛飾北斎の門を叩いた。そして1842年(天保13)年の秋、北斎83歳が、はじめて小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた。このとき鴻山は自宅に「碧漪軒」というアトリエ(画房)を建てて厚遇し、北斎に正式に入門した。
北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したという。鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合った。そして1848年(弘化5)、北斎(89歳)は四度目の小布施来訪のとき、このまちの岩松院の天井絵を完成させている。

それにしても、「人生五十年」とされたこの時代、80翁の葛飾北斎は、急峻な碓氷峠を越えて、よくもまぁこの僻遠の地、小布施町まで何度も来訪したものだと感心する。
高井鴻山は明治期にはいってもいきたひとだが、その後高井家は没落して、その跡地の多くを小布施堂が取得して、一部を公開している【ウィキペディア:高井鴻山】。

そんな歴史を背景として、小布施町は隣接の市との合併を拒み、いまでも長野県下高井郡小布施町として独立不羈の精神を発揮している。
そのぶん、景観保存には鋭敏で、だいぶ以前から、消費者金融の店舗、チェーン店レストラン、スーパー・ショップ、コンビニエンス・ストアなどの、彩度のたかい色彩展開や、全国共通の店舗設計にたいして、町の条例をもって、無理のない規制をもうけているようである。
【URL:小布施町公式サイト ようこそ小布施 ウィキペディア:小布施町

《郷里での所用を終えて、長野に善光寺とカタクリの群生地をたずねた》
郷里での所用がおもいのほかはやくすんだ。みやげに義姉から山盛りの蕗の薹をもらった。
これはうれしかった。やつがれ、蕗の薹を信州味噌とあえて、直火焼きする「蕗味噌」のかおりが、早春の信濃をおもうよすがとして大好物だから。


たかやしろ【URL:朗文堂好日録-020 故郷 忘じ難く候

旅の同行者のノー学部は、はるか以前、九州の高校時代に修学旅行で長野の善光寺にきたという。懐かしいのでまた善光寺にいきたいという。そしてどう調べたのか「カタクリの群生地」にいきたいという。
長野までの30kmほどを高速道路で長野市にもどった。
DSCN3746 DSCN3748 DSCN3750 DSCN3751善光寺に着いたとき、チラホラと淡雪がまった。すぐに雪は止んだがひどく寒かった。そのせいか参詣者はすくなく、また参道に軒を張り出して、ずらりとならんでいた土産物屋も整理され、すっきりした分、どこかわびしかった。
〈牛に牽かれて善光寺参り、信濃では 月と佛と おらが蕎麦(うろ覚え)というな……〉
などとかんがえながらあるく。
善光寺では、朝の八時から、夕刻の六時まで、正時ごとに寺男が力いっぱい鐘を撞く。
野鳩だけがあいかわらずおおくて、餌が欲しくて近寄ってくる。
DSCN3749 DSCN3760 DSCN3768 DSCN3771 DSCN3769 DSCN3781 DSCN3786 DSCN3788

ご本堂の手前脇にあったはずの「徳本上人トクホン-ショウニン 六字名号碑 南無阿弥陀仏」が、いつの間にか本堂向かって左脇に移築されていた。
はじめてこの独特な書風の碑をみたとき、おおきな衝撃をうけた。それからは僧・徳本トクホンが住持した小石川/一行院をたずね、当時のご住職にはすっかりお世話になった。
当時は徳本上人に関する図書はほとんどなく、いつか徳本上人に関する図書をまとめようとおもいつづけ、いくつかの小論をしるしてきた。ところが近年すばらしい研究書が刊行され、もはややつがれの出番はなくなった。それはむしろうれしいことだった。

それでも30年ぶりになろうか、善光寺のこの碑に接して、血がたぎるおもいがしたことも事実である。【URL:花筏 朗文堂好日録-028 徳本上人六字名号碑 徳本上人画像集

《信州蕎麦を食し、はや咲の櫻をたのしむ》
DSCN3783 DSCN3799 DSCN3798 DSCN3804 DSCN3791 DSCN3792

長野の櫻-染井吉野が開花期をむかえるころ、このあたりでは、土筆ツクシが顔をだし、菫スミレがひっそりと花をつける。そして櫻だけでなく、杏アンズ、林檎リンゴと、艸花と樹木が妍を競うように咲き誇り、まさに百花繚乱の春をむかえる。
中央通りに味噌蔵でも改造したものか、ちょっとおしゃれな店がならんでいた。その陽だまりに、なんの種類かしらないが、早咲きの櫻が赤みのつよい花をつけていた。先ほど淡雪が舞っただけに、ほんわり幸せな気分になった。
手打ち蕎麦、更級信州蕎麦を食す。やはり旨いなぁ。

《長野市郊外、カタクリの群生地》
どこで、どうやってしらべたのか、九州うまれのノー学部が、長野市郊外に「カタクリの群生地」があるという。やつがれは半信半疑で車をはしらせたが、ほんとうに市内中央から車で10分ほどのところに、「カタクリ」は群れをなして、可憐な紫の花をつけていた【ウィキペディア:カタクリ】。

裾花川の変電所のちかく、カタクリはまったく〈みすずかる〉場所にあった。
信濃の国の枕詞マクラコトバ 〈みすず〉 と 〈みすずかる〉 の紹介には別項を得たいが、ともあれブナの疎林のなかに、落ち葉と枯れ草をかき分けるようにして、カタクリは顔をだし、薄紫の花をうつむき加減にして咲いていた。

変電所からのわずかなあいだにも、菜の花、菫のほかに、マンサクに似た黄色い花をつけた灌木や、地衣類が岩肌をおおっていた。このあたりは川沿いでもあり、適度な湿度があって、風通しのよい場所でもあった。
まだ樹木の若葉は萌えることなく、堅いつぼみのままだったが、このカタクリの群生地は薄紫の花がじつにみごとだった。
いうこと無しの、春 まだあさい 奥信濃路を あわたしく駆けめぐった。

DSCN3696 DSCN3698 DSCN3743 DSCN3637 DSCN3738DSCN3741 DSCN3702 DSCN3701 DSCN3704 DSCN3714 DSCN3724 DSCN3664 DSCN3627 DSCN3733 DSCN3732 DSCN3692 DSCN3723 DSCN3637 DSCN3650 DSCN3672 DSCN3683DSCN3677

手製本・活版印刷……Atelier Bomami Open!

サックルDM

Bonami

ボナミについて

杉山聡 三木葉苗 三木咲良 のトリオ。
神奈川県の小さな港町、真鶴のアトリエで
手製本、活版印刷などを用いた本や紙のものを制作しています。

Bon ami(ボナミ)はフランス語で「なかよし・良き友だち」の意味。
私たち3人は、はじめて出会ったその瞬間から仲良しになりました。
そのことが、私たちの人生でいちばんの彩りです。
浮き沈む日々も、ただ、こう言います。「私たちは Bonami(なかよし)です。」

P3180493

P3180495──────────────
海の幸、山の幸にめぐまれた、神奈川県の
真鶴マナヅル町に、杉山聡 三木葉苗 三木咲良の、おさんかたからなるアトリエ、〈Atelier Bonami 〉-なかよし-がオープンしました。
〈Bonami 〉はアダナ・プレス倶楽部会員で、小型活版印刷機 Adana-21J のユーザーでもあり、アトリエをオープンした直後から、きわめて意欲的な活動を展開されています。
また WebSite も充実した、美しいものになっていますし、facebook にも豊富なコンテンツが掲載されています。
会員の皆さまも、これから、よきお仲間〈 なかよし  Bonami 〉としてご交流をお願いいたします。
[ 資料提供 Bomami ]   【 リンク : Bonami 】

【展覧会】 片岡知子さん 《てぬコレ2014「果物」展》

てぬコレ2014「果物」展
*と   き : 2014年4月25日[金]-4月29日[火・祝]
*会      場 : tray  東京都渋谷区代々木4-20-4
TEL : 03-6677-1999  www.tray.jp
*時   間 : 12:00-19:00(最終日17:00まで) 期間中無休
*主     催  : てぬコレ http://www.tenukore.com/

◆てぬコレ新作8柄 参加クリエイター
片岡知子・サダヒロカズノリ・高安恭介・中村幸代
のぐちようこ・羽多野光・村田善子・山田タクヒロ
──────
なんだか「果物」が気になります。
てぬぐいの柄が「果物」だと、どんな気分になるのでしょうか。
今年の「てぬコレ」の新作は、「果物」がテーマです。
8人8様のユニークで美しい「果物」をご賞味ください。
──────────────────
 
《八朔ゴムはん-片岡知子さんから、情報提供をいただきました》
第一回の〈活版凸凹フェスタ〉から連続参加されていた、〈八朔ゴムはん〉の片岡知子さんが、
〈てぬコレ2014「果物」展〉に参加・出展されます。
〈八朔ゴムはん〉のWebSiteには、Vimeo 動画も新設されています。
〈てぬコレ2014「果物」展〉の詳細は、主催者情報とあわせて
〈八朔ゴムはん〉の情報もぜひともご覧ください。

片岡知子さん
1975年  カラカス生まれ
1979年  東京/さくら幼稚舎に転入
1998年  大学/彫刻科卒業
2002年  個展 手紙展(彫刻/自庭)
2004年  八朔ゴムはんの活動始
2007年  八朔ウェヴサイトをひらく

【展覧会】 書道博物館 美しい隷書-中国と日本

 20140404171554707_0001 20140404171554707_0002

書道博物館企画展 中村不折コレクション
美しい隷書 ──── 中国と日本
【会    期】  2014年04月04日[金]-07月13日[日]
【開館時間】  9時30分-16時30分(入館は閉館の30分前まで)
【休  館  日】  毎週月曜日(5月5日は会館。5月7日は展示替えのため休館)
【詳     細】  台東区立書道博物館 URL
──────
隷書は、篆書を簡略化して、日常書体とすることによってうまれました。 篆書は左右対象で、曲線を多く用いた威厳のある形姿でしたが、書くために時間がかかるという不便があったために、徐徐に簡略化がすすみました。やがて曲線を減らし、水平と垂直線を増やした隷書がもちいられるようになりました。

したがって隷書の「隷」は、篆書に「隷属」するという意からうまれました。
いまだにわが国の辞書の一部には、隷書の紹介を、秦(春秋戦国時代の大国のひとつ。前221-前207年中国史上最初の中央集権国家となる。3世16年で漢の高祖に滅ぼされた)の雲陽のひと 程邈テイバクが、秦朝の公用書体だった小篆の繁雑さを省いてつくったもので、「徒隷」、すなわち卑しい身分のものにも解しやすい漢字書体だとするものがありますが、そろそろ見直しが必要のようです。

隷書が誕生した直後は比較的直線がめだちましたが、次第に波のようなうねりをともなうようになり、歯切れのよい、リズミカルな形姿を獲得していきました。その頂点をむかえたのが漢(前207-後220)の時代です。

漢代初期の隷書は、おおらかで動きのある素朴な趣が主流でしたが、その後期になると、鮮やかで美しい隷書として完成をみるにいたりました。そしてその隷書で書かれた石碑が数多く建立されたのも漢代の特徴のひとつです。 また20世紀の初頭に、西域の敦煌トンコウやトルファンから出土した文書モンジョからも、肉筆で書かれた隷書が発見されています。

中村不折フセツコレクションには、隷書の名品が数多くあります。不折はみずからの書風を形成していく過程において、これらの隷書からも大いに刺激をうけました。したがって、不折流とされる独特の書風には隷書の要素が多分に取り込まれ、表情がゆたかで、あかるく、また装飾性にも富んでいます。 ご観覧をお勧めいたします。 [同館フライヤーより。一部追加改変してご紹介しました]。 【関連情報/ウィキペディア:隷書体