月別アーカイブ: 2016年12月

【会員作品紹介】 造形者・千星健夫 NECKTIE design office 移転を期に新企画商品・作品を続続と発表

mitaka_01オフィス移転のご挨拶

NECKTIE design office の千星です。 この夏に弊社はオフィスを移転いたしました。
新オフィスは吉祥寺、井の頭公園の近くで、ちょうど「ジブリ美術館」の裏手あたりになります。窓のないプレハブの工事現場のような外観で、うっかりすると工事のトラックが休憩で横付けをしてしまうような建物ですが、住居棟とアトリエ棟を中庭でつないだ変わった物件で、デザインをしていくには良い環境となりました。
都心からは少しばかり離れた場所になりますが、お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りくださいませ。

あらためてデザインと向き合い、精進を続けてまいりますので、今後ともよろしくお願いいたします。

2016 年   吉 日
NECKTIE design office    千星 健夫

181-0001 三鷹市井の頭5-26-8
T 0422 26 6916 F 0422 26 6917
E cbo@necktie.tokyo www.necktie.tokyo

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 ──────────  {新宿餘談}
NECKTIE design office    千星 健夫さん-いつものようにチボシ君と呼んで紹介したい。
チボシ君は新宿私塾と活版カレッジを修了し、現在は朗文堂 WebSite の管理人でもある。
つまり、つきあいはふるく、深いのだが、その分ここでの紹介は難航した。なんどもファイルホルダーを開いては、まとまりがつかずに終わっていた。

アー写つまりチボシ君は、ふつうの造形者とはちがって、もの静かで、知性があり、常識人であり、よき家庭人でもある。やつがれの既成概念からいうと、この点ではおもしろさが少ないし、平凡でもある。
さりとて凡庸かというと、こと造形に関してはとてつもなく知識と情報量は豊かで、意欲的であり、粘着力がつよい。またギョーカイの常識とされるものには見向きもしないが、あたらしい造形に意欲的に切り込んでいく勇気と覇気と行動力に富んでいる。

活版カレッジにはもともとこの種の造形者が多かったが、最近は新宿私塾の塾生にもときおりこの種の造形者が登場する。なにごとかおおきな変化のはじまりを予感させる存在でもある。
いい訳めいた。チボシ君は世田谷から三鷹への移転通知に、矢印にかえて、自社のメルクマールでもあるネクタイをもって移転を告知していた。
NECKTIE design office のWebSiteはコンテンツがゆたかで、丁寧につくりこまれている。
そこへのリンク設定をマメにすることにして、NECKTIE design office    千星 健夫氏を紹介したい。
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【再録 会員情報】 造形者・千星健夫 NECKTIE design office による TEA BAG HOLDER SHIROKUMA

GRAPHIC, WEB, PRODUCT  と横文字ことばが似合わないのが千星健夫-ちぼし たけお-さん。 1976年兵庫県うまれ。専門学校営業職からデザイナーに転身。
新宿私塾・活版カレッジ修了。{文字壹凜}はじめ朗文堂WebSiteの管理者。
要するに身体性のあるモノづくりに熱中する真の造形者。
同氏主宰 NECKTIE design office 製造販売による『TEA BAG HOLDER SHIROKUMA』は、長崎の窯元に出向いて職人といっしょに型から製造したすぐれもの。
小社でも愛用しております。お茶時間がほっこりします。ご推薦。
NECKTIE design office Shirokuma shirokuma01 shirokuma03

◎ MOMENT SCALE  モーメントスケール
moment_05[1] moment_07[1]
ものを乗せると
時間が進むような
ふしぎな感覚を呼び起こす
スケール型の白磁時計
Moment Scale(モーメントスケール)は、スケール(はかり)に物をのせるとハリが動くという無意識の作用を利用したデザインの時計です。Moment Scaleの上皿にものを乗せると形が意識にはたらきかけて、針が進んでしまうような、時間が進んでしまうような、不可思議な感覚を呼び起こします。

moment_03[1]波佐見風景moment_hasami_28[1]moment_hasami_09[1]moment_04[1]MOMENT SCALE
時計の時間と、人間の感じる時間には差異があります。時計の時間は常に同じスピードで流れているはずですが、人が感じる時間は、早くなったり遅くなったりします。
また年をとると時間の流れが速く感じるということもよく知られています。しかし普段の生活のなかでそういった「時間の伸縮」にたいして、意識することはあまりありません。

Moment Scaleは、スケール(はかり)に物をのせるとハリが動くという無意識の作用を利用したデザインの時計です。Moment Scaleの上皿にものを乗せても実際に時計の針が進むわけではありません。しかし、形が意識にはたらきかけて、針が進んでしまうような、時間が進んでしまうような、ふしぎな感覚を呼び起こします。その不可思議な違和感によって、普段あまり意識することのない、時間の感覚そのものを見つめなおします。

Designed by NECKTIE design office

【ボヘミア チェコ プラハ】05 民族魂のほとばしり Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ 巨大連作絵画『スラヴ叙事詩』(重複紹介)

 

プラハ[1]

Alfons Mucha  アルフォンス・ミュシャ  『スラヴ叙事詩』

本項の初出は2016年12月07日であった。
ここにまさに快挙ともいうべき展覧会、国立新美術館における《ミュシャ展》2017年3月8日-6月5日開催の予告フライヤーを紹介するとともに、暢気な喫煙ボヘミアンがプラハを訪れた記録から、【ボヘミア チェコ プラハ】05 をここに再掲載した。
勝手ながら字句や年代の表記などの相違は、すべて上掲の国立新美術館の情報を優先していただきたい。

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プラハで市販されている 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもまたいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 裏返せば執着力に欠ける。さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとはボヘミア地方の住人のことで、中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただし、その地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには隷従をしいられたり、流浪したりと、堪え忍んできたつらい歴史もある。

またチェコは古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほどドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 また鉄鋼業を中心に工業産業がさかんで、ガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
さいわい、いずれもお盆休みを利用した「三泊+機中泊二日」というみじかい滞在の弾丸旅行だったが、2014年08月、2016年08月の二度にわたってプラハを訪問した。
古都プラハはわが国の京都と姉妹都市であり、街の規模も似かよっているし、名所旧蹟は数え切れなくある。したがってその紹介にあたり、気軽な観光写真と食べ歩き報告ではない方法をかんがえていたが、なかなかに難しいものがあった。

たまたまYouTubeに、プラハを流れるブルタバ川(わが国ではドイツ語風にモルダウ川がふつう)、プラハ城、レギー橋、プラハ国民劇場、欄干に聖人の彫像が見られるカレル橋、旧市庁舎の時計塔、街並みなど、プラハの主要な観光地の映像があった。
やつがれが訪ねた真夏とちがい冬枯れのプラハの光景であったが、ここに紹介された観光地のほとんどは訪問している。
それと本稿の主要テーマ、『アルフォンス・ミュシャ スラブ叙事詩』製作の端緒となった民族音楽、カレル・アンチェル&チェコ・フィル( Karel Ančerl )演奏、スメタナ作曲の交響詩『我が祖国 プラハの風景』12:32があった。まずこのYouTubeでプラハのふんいきを知っていただきたい。

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《アール・ヌーボの旗手から大変貌するきっかけとなった スメタナの交響詩『わが祖国』》
アール・ヌーヴォーの旗手、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860-1939 わが国ではフランス風にミュシャとする)は、もうひとりのアール・ヌーボーの画家、クリムト(グスタフ・クリムト, Gustav Klimt, 1862-1918 帝政オーストリアの画家)と双璧をなしたグラフィックデザイナーであり、画家でもあった。

パリでのミュシャの出世作『ジスモンダ』長尺ポスター 1894年
プラハ城 聖ヴィート大聖堂 外観 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス1 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス 上部アッププラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャ製作のステンドグラス 1931年

ミュシャはパリとアメリカを往復しながら、クリムトとならんで満天下の人気をあつめ、おもに官能的な女性を描いていたが、次第にボヘミアンとしての民族意識にめざめるようになった。
一説によると、1908年(明治41)ボストン交響楽団の演奏によるスメタナの『わが祖国』をきいて感動し、またアメリカで生計を維持するのに足るスポンサーもついたため、余生をチェコ国民とプラハ市民に捧げるべく、1910年、プラハ近郊にあるズビロフ城の一部を借り、ミュシャの20年近くにわたる『スラヴ叙事詩』の製作がはじまった

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わが国には情感ゆたかにうたいあげた「叙情詩」や、心情を吐露し訴求した「抒情詩」は多い。ところが、「神話」はあまたあるとはいえ、「叙事詩」は意外にすくないよようだ。
すなわち「叙事詩」とは、「多くは民族など社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡や事柄をありのままに述べつづる(叙事)の態度でうたい上げた詩」とされる。
すなわちミュシャが、1910年から1928年にかけて、民族の歴史をまなび、それに通暁し、さらに事実調査と現地調査をかさねてつくられた連作絵画が『スラヴ叙事詩』である。

『スラヴ叙事詩』は、チェコおよびスラヴ民族の伝承および歴史を題材としており、太古の時代から1918年のチェコ独立までを描いている。ただし、制作順序については作品に描かれた時代どおりではない。
サイズは小さいものでもおよそ4 x 5メートル、大きいものでは6 x 8メートルに達する。

全作品が完成した後、1928年に特設の展示場を用意することを条件に、この作品はプラハ市に寄贈された。
しかしながら、ミュシャと『スラヴ叙事詩』は、製作完了から必ずしも幸せな道を歩んだわけではない。2012年以前はチェコ共和国の地方都市、南モラヴィア州のモラフスキー・クルムロフの城館に忘れ去られたように展示されていた。

1939年03月、ナチスドイツによって当時のチェコスロヴァキア共和国は解体されて、プラハに入城したドイツ軍によってミュシャは逮捕された。
「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。
ナチスドイツ軍は70歳代後半になっていたミュシャを厳しく尋問し、三ヶ月余にわたって拘留した。欧州戦線での第二次大戦が終了の前、78歳のときに獄中で躰調をくずして釈放されたが、その4 ヶ月後に症状が悪化して終戦をまたずに逝去した。
◯ アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)

ミュシャの遺体は、『スラヴ叙事詩』製作の啓示をあたえたとされる作曲家:スメタナ、戯曲家・作家・造形者・造園家のヨゼフ・チャペック、カレル・チャペック兄弟らとおなじ、プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov の中央部にある「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」に埋葬されている。
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ戦後、祖国は独立を果たしたが、当時のチェコ共産党政権は愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。
しかし民衆レベルではミュシャへの敬愛は生き続け、1968年におこった変革「プラハの春 Pražské jaro」の翌年には、ミュシャの絵画による郵便切手数種が製作されている。
また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォーの再評価の動向とともに、改めて高い評価を受けている。

2012年以降はチェコ国立美術館分館、ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác National Gallery in Prague)1 階に展示されている。
この建物は本来「産業見本市」のために1928年(昭和03)に建設された、鉄とコンクリートと水平連続ガラス窓を特徴とする「国際様式建築」であるが、90年近い時を刻んでなお古さを感じさせない名建築であった。
それでも、「建築様式の見本の街」とされるプラハでは、少なくとも旧市街ではほとんど類似の建物をみることはなかった。
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《チェコ国立美術館分館ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)の『スラヴ叙事詩』》
プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿 ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác National Gallery in Prague)外観 スラヴ叙事詩案内板上) プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿。ここが手狭となり至近の地に新宮殿が1928年にプラハ初の「機能主義様式」で建設された。Veletržní は「見本市の」の意である。
下) ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác, National Gallery in Prague 1928年)の外観と正面サインボード

スラヴ叙事詩『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』『ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教』『クジージュキの集会』『スラヴ叙事詩』 左) ロムニェジージュのヤン・ミリチ 中) ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 右) クジージュキの集会

アルフォンス・ミュシャ畢生の大作『スラヴ叙事詩』のスケール感を実感していただきたく、上掲図版を紹介した。
来館者はほとんどA4 三つ折りの小型パンフレットをもち、作品と解説(叙事詩)を見くらべている。若いカップルなどは肩をよせあって、男性がちいさな声で解説を読みながらゆっくりと鑑賞している姿はほほえましかった。
それでもこれだけの著名作品なのに、来館者はまばらで、その分ゆっくり『スラヴ叙事詩』と対話できた。またノーフラッシュが条件ではあるが撮影が許可されることにはおどろいた。

二年前のプラハ訪問の際、プラハ場内のルネサンス様式の建物で「午後のコンサート」を聴いた。なにぶん観光地でのコンサートであり、ピアノとヴァイオリンだけの演奏であったが、スメタナ組曲『わが祖国』はしみた。臨席の老夫婦などは頬を紅潮させてスタンディング・オベーション。不覚ながらやつがれも鼻の奥がムズムズした。
ヴェレトゥルジュニー宮殿でも『スラヴ叙事詩』をみながら、幻聴のように、スメタナ『わが祖国』が耳朶のどこかで鳴りひびいていた。
以下ウィキペディアの支援をうけながら、いくつかの作品を紹介したい。

◎ スラヴ叙事詩『イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた―』
スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より印刷の様子 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より紙漉きの様子イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた
1914年 610 x 810 cm

ヤン・フスとペトル・ヘルチツキーの影響を受けて1457年に設立されたチェコ兄弟団(ボヘミア兄弟団)は信仰にとって教育が重要なものと考え、ミュシャの故郷であるイヴァンチッチェに学校を創設し、聖書をチェコ語に翻訳した。
この聖書はその後クラリッツェで印刷されるようになり「クラリッツェ聖書」と呼ばれた。
チェコ語で書かれたこの聖書は国民の連帯意識を高め、またチェコ語文法の基本ともなった。
画面右手には印刷された聖書をルーペを使ってチェックする人人が描かれ、左手前方には老人のために聖書を読む青年が描かれている。青年の厳しい表情はカトリックによるその後の迫害を予知しているかのようである。

◎ スラヴ叙事詩 『ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』よりシメオン皇帝 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』より筆記者と本を読む老人ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星
1923年 405 x 480 cm

ブルガリア帝国の皇帝シメオンⅠ世は帝国の版図を拡大し、その治世は帝国の繁栄の時代であった。ブルガリアは文化の中心地ともなり、ここには文人、学者、司祭に囲まれた皇帝が描かれている。

◎ スラヴ叙事詩 『フス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし』
スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』 スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』より読書する人びとフス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし
1923年 405 x 480 cm

フス派の穏健派(ウトラキスト派)はバーゼル協約によってフス派を認めさせることに成功した。しかし教皇はこの協約を一方的に破棄し、ローマに従うことを求めてきた。
この時チェコの国王であったのがボジェブラディのイジーであった。彼はおよそ150年ぶりのチェコ人の国王であり、賢明な王として知られた。
この作品では横柄な態度をとる教皇の使節に対し、玉座を蹴って立ち上がり、要求をはねのける国王の姿である。右下に描かれたこちらを向いた少年は「ローマ(ROMA)」と題された大きな本を閉じており、ローマとの関係の終焉を表している。

【 活版 à la carte : チェコ プラハ での過去ログ紹介

【展覧会】 石の街うつのみや-大谷石をめぐる近代建築と地域文化 宇都宮美術館

20161226132413_00003 宇都宮美術館resized
宇都宮美術館開館20周年・市制施行120周年記念

 「石の街うつのみや――大谷石をめぐる近代建築と地域文化」
会期 : 2017年1月8日[日]-3月5日[日]

詳細
宇都宮美術館 http://u-moa.jp/
下野新聞社 http://www.shimotsuke.co.jp/

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今からおよそ1,500万年前、わが国は海の底でした。
海底火山が盛んに噴火し、その際に水中で噴出した大量の軽石流は、堆積してから長い時間をかけて岩石となりました。それが、北海道から山陰にいたる日本海側、内陸部の北関東、甲信越地方から伊豆半島にまたがるエリアに分布する「緑色凝灰岩」です。
この「岩石」は、それぞれの地域の人々が利用することで「石材」となり、宇都宮近郊に産するものは「大谷石」として知られてきました。

大谷石の利用は、古くは縄文時代にさかのぼりますが、石の採掘を生業とする人々が現れたのは、江戸時代になってからです。
その後、石を採る、彫る、運ぶ、使う「産業」が確立されたのは、「石の街うつのみや」が近代都市として発展をとげた明治年間から大正時代にかけて、そして大谷石を用いた「近代建築」が宇都宮や他の地域に登場したのは、大正末期から昭和の初めのことでした。
特に、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが手がけた「旧・帝国ホテル ライト館」は、「鉄筋コンクリート造・大谷石張り」という「新しい工法」により、この建物が竣工した1923(大正12)年の関東大震災に耐えたため、土木・建築・都市計画の領域で注目されました。画期的な工法が導いた「新しいデザイン」が、同時代以降の建築家に与えた影響も多大なものがあります。

そのような歩みを経てきた「大谷石」について、本展では、さまざまな観点から探ります。
「地質・歴史」では、それが「どのような岩石なのか」を分かりやすく示し、
「産業・建築」においては、大谷石が「地域産業としてどれほど発展を遂げたか」「日本の近代建築史にどのような意味を持つのか」を詳しく分析します。
さらに、「美術」では、この石を産する「大谷」を、美術家たちが「どのように捉えたか」に関して、多様な表現の作品によって紹介します。

【展覧会】 大洲大作・写真の仕事――石の街 宇都宮美術館 サテライト企画展 Vol.008

20161226132413_00001 20161226132413_00002宇都宮美術館 サテライト企画展 Vol.008
大洲大作・写真の仕事――石の街

◎ 会 期 : 2017年1月19日[木]-2月5日[日]
◎ 会 場 : 市民ギャラリー(うつのみや表参道スクエア 市民プラザ 5 階)
◎ 問い合わせ先 : 宇都宮美術館  TEL. 028 – 643 – 0100

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8回目となる今回のサテライト企画展では、宇都宮美術館開館20周
年・市制施行120周年記念「石の街うつのみや-大谷石をめぐる近代建築と地域文化」展(2017年1月8日-3月5日、於・宇都宮美術館)に連動する内容として、「石の街うつのみや」展のためにアーティストの大洲大作氏が撮り続けてきた写真をご紹介します。

しばしば「石の街」と称される宇都宮、その産地である「石の里」の大谷地区は、わが国でも稀に見る「石の産業・建築文化」が栄えてきました。その石-大谷石として知られる凝灰岩の誕生のきっかけは、約1,500万年前における海底火山の爆発にさかのぽりますが、それが長い時間をかけて岩石となり、古墳時代から石材として利用されて現在に至ります。

今日でも、「石の里おおや」を訪れると、自然の奇岩、採石によって生じた絶壁、里山や農村の間に顔を覗かせる石切場の跡、石造りの神社などに出会うことができます。また、「石の街うつのみや」では、石藏や石塀、石のプラットフォームから石の近代建築まで、大谷石を用いた多種多様の建造物が日常の風景に溶け込んでいる、としても過言ではありません。

そんな「石のある風景」に魅せられた大洲氏は、約2年をかけて、「石の街」「石の里」を何度も訪れてカメラを向けてきました。「写真をメディウムとし、風景に人の営みを見ること」を追求している大洲氏が捉えた作品は、どれも身近な場所を写したものでありながら、多くの発見に満ちています。
今回は、そのうち、大判プリント(1,000×660mm) 1点、中判プリント(450×300mm)約15点、小判プリント(手札サイズ)多数、スライド・ショーによって、立体的な写真の展示を試みます。

【会員情報】 田中智子さん  ことしも誕生日とクリスマスをWでお祝い

DSCN8854 DSCN8859 DSCN8865サラマ・プレス倶楽部会員の田中智子さんの誕生日は天皇誕生日・クリスマスの直近。
会社関係でも忘年会シーズンとあってあまりこのころが誕生日とはいいだせなようです。
そこで昨年につづき すこし早めの平日の夜、朗文堂社内 で簡素でこころのこもった誕生日のお祝い。
それを知らないで来社した真田幸文堂は、ケーキにありつけず無念のスマホ乱写。
(やつがれはなまくら仏教徒で冠婚葬祭がおおいに苦手のため、唱歌隊として参加 …… )

【会報誌】 サラマ・プレス倶楽部会報誌 第34号(Autumn & Winter) 完成 ・ 配布中

サラマ・プレス倶楽部の会報誌
『 Salama Press Club NewsLetter   Vol. 34 』 (Autumn & Winter  2016)を刊行し
会員の皆さまへ配布中です。
kaihoushi_34『 Salama Press Club NewsLetter   Vol. 34 』 (Autumn & Winter  2016)

表紙使用活字 : 36pt. Old English Text ,  8pt. 記号活字

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主な内容 (目次) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 【推薦図書情報】 『タイポグラフィ学会誌 08号・09号』
・  ――活版印刷礼讃イベント――
◎ Viva la 活版 ばってん 長崎 その後とこれから
◎ Viva la 活版 Let’s 豪農の館 その後
◎ Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO その後
◎ Viva la 活版 Viva 美唄 その後
・ 【連載 活字版印刷豆知識 34】 活字は小粒でピリリと重い 「ABC のかたち」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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【サラマ・プレス倶楽部ニュース : 過去ログまとめ

【Season’s Greetings】 2013年07月開催/Viva la 活版 Viva 美唄の会場 安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄から初雪の Postal Carad 到来

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20161222190725_00002《2013年07月開催 Viva la 活版 Viva 美唄の会場:アルテピアッツァ美唄》
2006年発足の{アダナ・プレス倶楽部/2016年07月よりサラマ・プレス倶楽部}が、活版印刷の大型イベント<Viva la 活版 ―― 活版礼讃>の会場として、はじめて東京都内をはなれて地方都市での開催に踏みきったのが北海道美唄市の「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」でした。

その後<Viva la 活版 ―― 活版礼讃>イベントは、鹿児島、新潟、長崎とつづきましたが、2017年は明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕170周年でもあり、久しぶりに東京にもどっての開催となりそうです。
ともかく北海道と美唄市にはおもいでがいっぱい積もっています。
そんな美唄から彫刻家:安田侃カンさんのシグネチュア入りの絵はがきをいただきました。
サラマ・プレス倶楽部会員の皆さまによろしくとの添え状もございました。
ここにご報告いたします。
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《 安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 》
アルテピアッツァ美唄は、このまち出身の彫刻家:安田侃(かん)氏がいまなお創り続ける、大自然と彫刻とが相響する野外彫刻美術館です。

美唄市は、かつて北海道有数の炭鉱都市として栄えました。ところが国のエネルギー政策の変更にともなって1973年に最後の炭鉱の灯が消え、炭鉱住宅はひっそりと静かになり、こどもたちがいなくなった学校は閉校されました。

それから時が過ぎ、イタリアで創作活動を続けている美唄出身の安田が、日本でアトリエを探していた際、1981年に閉校された旧栄小学校に出会いました。
その朽ちかけた木造校舎には、こどもたちの懐かしい記憶がそのままに残ってあり、そして、校舎の一部に併設されていたちいさな幼稚園に通う子どもの姿が安田侃の心をとらえました。
時代に翻弄された歴史を知らず、無邪気に遊ぶ園児たちを見て、安田侃はおもう。
「この子どもたちが、心をひろげられる広場をつくろう」。
これがアルテピアッツァ美唄誕生のきっかけとなりました(中略)。

アルテピアッツァ美唄を訪れる人びとは、初めて来た人でもどこか懐かしい気持ちがするといいます。
安田侃はこう述べています。
「アルテピアッツァは幼稚園でもあり、彫刻美術館でもあり、芸術文化交流広場でも、公園でもあります。
誰もが素に戻れる空間、喜びも哀しみも全てを内包した、自分自身と向き合える空間を創ろうと欲張ってきました。
この移り行く時代の多様さのなかで、次世代に大切なものをつないで行く試みは、人の心や思いによってのみ紡がれます」。

アルテピアッツァ美唄は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人びとに自分の心を深く見つめる時間と空間を提供します。
それはまさに、芸術の本質に通じているからです。

【活版 à la carte  Viva la 活版 Viva 美唄 アルテピアッツァ美唄 まとめ

【会員情報】ぢゃむ 杉本昭生さん 活版小本新作 中島敦『狐憑』製作発表

冬の月[1]

IMG_2522[1] IMG_2523[1] IMG_2528[1] - コピー IMG_2527[1]{ぢゃむ 杉本昭生 一筆箋}
中島敦『狐憑』をつくりました。
平凡な若者であったネウリ部落のシャクは、
弟の無惨な死をきっかけに譫言(うわごと)をいうようになりました。
はじめは弟を失った悲しみを語っていた彼でしたが、
やがて自分の望んだものになった時の哀しさや楽しさを語るようになりました。
異色な題材を巧みにあつかう作者の才能に感服しました。

正直に云いますと、この本を作りながら、
「いまは自分だけがこの小説の面白さを知っている。
だから完成するまでそのことに誰も気がつかないでいて欲しい」
こんな屈折した思いがありました。
そのぶん以前のものより少し丁寧に作ったつもりです。
製作後のなんとなく気が抜けた感じはその反動かもしれません。
ぜひご一読ください。

【 詳細 : ぢゃむ 活版小本

【Season’s Greetings】 ドイツの友人バウマン+バウマンより All the best… 問題は思考だけでは解決できないのだから

!cid_image001_jpg@01D24635上掲のカードは1993年のボンに設けられた当時の国会議事堂のプロジェクトで使用した詩です。
どんな色も、どんな問題も解決も、間違いも真実も、すべては混在しているというこの詩は、驚くほど現代とも通底しています。

親愛なる日本の友人たちに素敵なクリスマスと新年がやってくることを心から願っています。
情熱や勇気、既成概念にとらわれないクリエイティビティが、必ずや軍艦の浮かぶ世界の海を越えてくれるはずです。問題は思考だけでは解決できないのだから。
バーバラ・バウマン+ゲアド・バウマン b+b 

文字壹凜まとめ
【文字百景26 バウマン+バウマンと私たち PDF moji-hyakkei 26 B&B_1

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足/趣意書と平野富二生誕の地確定根拠を発表

05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催され、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。
8ed979955048d3208a8a4c7c96c739b41-1024x175[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画が平野富二の生家跡であることが判明しました。w21_引地町町使長屋 44fb978b853aae4f20258b5d23743605[1] 48632901d887fc7558749f89fba250971[1]平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。
e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二初号平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。

2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

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05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑 建立趣意書

発  行:2016年12月
発行者:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
連絡先:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
      メール  info@hirano-tomiji.jp
事務局:朗 文 堂
     160-0022 東京都新宿区新宿2-4ー9
     電話 03-3352-5070 ファクシミリ 03-3352-5160

☆「平野富二生誕の地」碑建立有志の会は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の開催を契機として自発的に発足しました。
ご関心のあるかたは事務連絡先までご一報いただけたら、「趣意書」と、「平野富二生誕の地 確定根拠」を収録した小冊子を進呈いたします。
また2017年(平成29)早早から専用URLの発足も準備中です。

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 発起人申込書
趣意書

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足

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本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月に、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。

長崎タイトルresize-627x108[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画であることが判明しました。
DSC_0045これを契機として「崎陽長崎 活版さるく」に参加したメンバーの中から、この場所に平野富二の記念碑を建立する要望が出され、現在有志者により具体化のための検討ならびに予備調査が行われています。
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平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5長崎での平野富二の知名度は、恩師である本木昌造の陰に隠れて高いとはいえません。しかし平野富二は県営時代の長崎製鉄所において、その付属施設となった小菅修船場の初代責任者として抜擢され、長崎製鉄所の経営に大きく貢献しました。
その収益により立神ドックの掘削を建言して、長崎製鉄所を本格的な造船所とする道を造り上げました。この掘削工事は、当時長崎市内に溢れていた失業者の救済にも役立てられました。  

その貢献が認められて長崎県官吏の資格である権大属に任じられ、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管された時の最後の経営責任者となりました。そのとき平野富二は数え年で26歳でした。
今の三菱長崎造船所の前身は平野富二が貢献した長崎製鉄所であり、長崎造船所立神地区の壁面にある記念碑の銘板には、平野富二の名前が記録されています。  

工部省移管に伴い長崎製鉄所を退職した平野富二は、その後活版製造事業で経営に行き詰まった本木昌造の要望を受けてその経営を引き継ぎ、短期間のうちに活字の品質とコストの問題を解決して、大量生産の技術を完成させて事業を成功に導きました。
のちに平野富二が農商務省に提出した文書には、
「創業の功は専ら本木氏に在りて、改良弘売の功は平野の力多きに居る」
と述べています。

本木昌造の創業した活版製造事業を軌道に乗せるため、平野富二は需要の中心地である東京に拠点を移しました。
当時の公文書や書籍類は、筆写や木版摺りで作成されていました。これらを活版印刷化することによって得られるメリットは大きく、それを宣伝すると共に、輸入に頼っていた活版印刷機の国産化を図りました。
その結果、官公庁や府県が発行する布告・布達類の活版印刷化が促進され、また、近代的新聞の普及に結び付き明治初期における文明開化の実現に大きく貢献しました。

また平野富二は、長崎製鉄所時代に決意した、
「造船事業を興して国家に寄与する」
との志望を実現するべく、1876(明治9)年、海軍省から旧石川島造船所の跡地を借用して、わが国最初の民間造船所を設立しました。
そこでは、河川運行用の小形蒸気船を開発して内陸部への交通運輸の便を開き、海難事故の多かった海上運送で堅牢・安全な洋式船舶を建造、また、民間造船所としてわが国最初の軍艦建造を行いました。

1892年(明治25)年12月3日、平野富二は演説中に発症した脳溢血により病没しました。享年47でした。生前の功績により、
「民設西洋型造船所の嚆矢たり。我邦造船事業の先達として従五位を贈し可然」
として1918(大正7)年に従五位を追贈叙位されました。

このように平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。
2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

【「平野富二生誕の地」碑建立有志の会】 「平野富二生誕の地」確定根拠を発表

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平野富二の生前に発行された東京築地活版製造所編纂『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 並ニ 継業者平野富二氏行状』によると、「平野富二氏、幼名ハ富次郎、長崎ノ士人、矢次豊三郎ノ二男、……、弘化三年丙午八月十四日、長崎ニ於テ生ル。」とある。

平野富二の生家である矢次ヤツギ家の記録「矢次事歴」によると、1874(明治7)年4月に記録された矢次家の住居表示は、第一大区四ノ小区引地町50番地となっている。

矢次家の始祖矢次関右衛門は元大村藩士で、故有って浪人となり長崎に移り住んでいたところ、正徳3年(1713)、空席となった町使役を仰せ付けられた。のちに町使は町司と表記されるようになるが代々世襲して、父豊三郎は矢次家八代目として町司を勤めていた。

町使長屋は、寛文3年(1663)、現在の引地町ヒキヂマチに初めて建てられたが、宝暦5年(1755)に類焼したため建て替えられた。以前は11軒(戸)だったものが13軒(戸)となって、2軒(戸)が追加された。このことは「引地町町使長屋絵図」〈添付資料1  長崎歴史文化博物館所蔵「長崎諸御役場絵図」第一巻〉に記載されている。

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添付資料1
上図:「長崎諸御役場絵図」第一巻、長崎歴史文化博物館所蔵
下図:上図の白枠部分の拡大図
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添付資料1 は焼失後に建て替えられた町使長屋の絵図で、2棟ある長屋の各軒(戸)に入居名が記載されている。絵図で右側に描かれている長屋の右端から二番目に「矢次」と明記されている。

焼失前の町使長屋の絵図も別途存在するが、それには「矢次」の名前はどこにも記載されていない。そのことから、矢次家が引地町の町使長屋に入居したのは、建て替えられて2軒(戸)が追加されたときの1軒(戸)に入居したと見られる。

引地町町使長屋の位置は、明和年間(1765年頃)に作成されたと見られる『長崎惣町絵図』〈添付資料2 長崎歴史文化博物館所蔵〉に「町使屋舗」と表示されている。
くだって嘉永3年(1850)に再板された『長崎明細図』〈添付資料3 長崎勝山町文錦堂刊〉には、その位置に「丁じ長や」と明記されている。嘉永三年(1850)は平野富二が数え年五歳であることから、引地町にある町使長屋が平野富二の生誕の地であると見ることができる。

w21_引地町町使長屋国立公文書館『長崎諸役所絵図』より「引地町町使長屋」

添付資料1と類似の絵図が国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」に含まれている。その絵図を現在の長崎法務局の「国土基本図」に重ね合わせて合成し、「町使屋鋪」と表示した地図〈添付資料4〉が、布袋厚著『復元! 江戸時代の長崎』に掲載されている。
それには現在の勤労福祉会館の建物などに重ね合わせて町使屋舗が描かれており、それによって矢次家の在った場所を確定することができる。 以上

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上図:「長崎惣町絵図」明和年間制作、長崎歴史文化博物館所蔵

下図:上図の白枠部分の拡大図
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上図:「長崎明細図」嘉永3年(1850)再板、長崎勝山町文錦堂刊

下図:上図の白枠部分の拡大図
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◯ 添付資料4
『復元! 江戸時代の長崎』布袋 厚 著から引用

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〈備考〉平野富二生誕の地 位置確定目安
引地町町使長屋は、7戸建てと6戸建ての2棟の長屋が引地町筋の道路に面して建てられており、この2棟の長屋は本大工町筋に抜ける道路によって隔てられている。

添付図2によると、矢次家のある7戸建て長屋が建てられている敷地は、前面道路に沿って長さ27間(当時、長崎では六尺五寸を一間としていたことから、これを換算すると約53.1メートルとなる)と表示されている。1戸当たりの幅は平均約7.6メートルとなる。

焼失前の「町使町絵図」(添付省略)によると、同じ敷地と見られる場所にある6戸建て長屋には、5戸が間口5間、一戸が4間と表示されている。長屋内に路地は設けられていないので、長屋の全長は29間となる。添付図2とは2間の差があるが、その理由は不明。この「町使町絵図」には「矢次」の名前はない。

添付図1では、各戸はすべて間口が3間と表示されており、これとは別に前面道路から裏庭に通じる路地が7戸建て長屋では4本ある。その内、2本の路地には途中に井戸があり、他の2本の路地には井戸はないので同じ幅とは限らない。路地の幅は明記されていないので、長屋全体の長さ(間口)は不明である。

敷地の北東に隣接する窪地に現在建てられているビルの境界が当時と同じとすれば、境界を基点としてほぼ8メートルから15メートルの間が矢次家居所跡、すなわち平野富二生誕の地の目安となる。
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〈参考〉添付資料1の左側添え書き

【原文】
此図元長崎奉行所支配普請方用屋敷所蔵也明治維新後故西道仙翁得本図十襲不措後與故長崎區長金井俊行氏謀模寫本図納諸長崎區役所以便研究者焉 大正二年 月及翁歿余請得本図於其嗣某氏分為弐巻施装訂就明嶽道人有馬祐政先生龍江深浦重光先生求其題字以備座右

巻中所在自政所衛門至陣営望台米廩等凡四拾有弐図(全長約拾弐間、上下弐巻)奉行所幷管掌町悉載焉 實長崎史研究者必須之図也
大正四年孟春下沈      鶴城 福田忠昭識

【現代文】
この図は、元長崎奉行所支配普請方の用屋敷に所蔵されていたものである。明治維新の後、故西道仙翁が本図を得て大切に秘蔵して手放さなかった。後に故長崎区長金井俊行氏と相談して本図を模写し、長崎区役所に納めて研究者の便とした。大正二年 月、西翁が没し、私はその嗣者である某氏から本図を得た。分割して二巻とし、装丁を施し、明嶽道人有馬祐政先生に従って龍江深浦重光先生にその題字を依頼し、座右に備えた。
巻中には、政所・衛門から陣営・望台・米蔵などに至るまでおよそ四十二図(全長約十二間、上下二巻)があり、奉行所と管掌する町がことごとく載せてある。実に、長崎史研究者にとって必須の図である。

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【展覧会】 会期末迫る ’16年10月15日-’17年01月15日[日] クラーナハ 五〇〇年後の誘惑 国立西洋美術館

20161015[1] 20161216174719_00001 20161216174719_00002 20161216174719_00003ルカス・クラーナハ(父、1472-1553年)は、ヴィッテンベルクの宮廷画家として名を馳せた、ドイツ・ルネサンスを代表する芸術家です。大型の工房を運営して絵画の大量生産を行うなど、先駆的なビジネス感覚を備えていた彼は、一方ではマルティン・ルターにはじまる宗教改革にもきわめて深く関与しました。
しかしながら、この画家の名を何よりも忘れがたいものにしているのは、ユディトやサロメ、ヴィーナスやルクレティアといった、物語上のヒロインたちを、特異というほかにないエロティシズムで描きだしたイメージの数々でしょう。
艶っぽくも醒めた、蠱惑的でありながら軽妙なそれらの女性像は、当時の鑑賞者だけでなく、遠く後世の人々をも強く魅了してきました。

日本初のクラーナハ展となる本展では、そうした画家の芸術の全貌を明らかにすると同時に、彼の死後、近現代におけるその影響にも迫ります。1517年に開始された宗教改革から、ちょうど500年を数える2016-17年に開催されるこの展覧会は、クラーナハの絵画が時を超えて放つ「誘惑」を体感する、またとない場になるはずです。

【 詳細 : 国立西洋美術館トップ  展覧会

【展覧会】 ティツィアーノとヴェネツィア派展/東京都美術館 新春特別展

20161216174947_00003 20161216174947_00004 20161216174947_00005 ティツィアーノとヴェネツィア派展
Titian and the Renaissance in Venice
2017年1月21日(土)-4月2日(日)

水の都ヴェネツィアは、15世紀から16世紀にかけて海洋交易により飛躍的に繁栄し、異文化の交わる国際都市として発展を遂げるなかで、美術の黄金期を迎えます。
政庁舎や聖堂、貴族の邸宅のための絵画まで、公私の場のためにさまざまな主題の絵画が制作され、明るい色彩と自由闊達な筆致、柔らかい光の効果を特徴とする、ヴェネツィアならではの絵画表現が生み出されました。
本展は、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノを中心に、黄金期を築いた多様な芸術家たちの絵画をとおして、ヴェネツィア・ルネサンス美術の特徴とその魅力を紹介します。

【 詳細 : 東京都美術館

【展覧会】 瑛九1935→1937 闇の中で「レアル」をさがす 東京国立近代美術館

20161216174947_00001 20161216174947_00002 2016.11.22 - 2017.2.12
企画展
瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす
EI-Q 1935-1937 : Seeking the “Real” in the Dark

瑛九(えいきゅう、本名:杉田秀夫、1911-1960)は1936年にフォト・デッサン集『眠りの理由』で鮮烈なデビューを飾り、その後さまざまな技法を駆使しながら独自のイメージを探求した芸術家です。
当館は近年、彼の評伝を著した友人の画家、山田光春の旧蔵していた作品と資料を収蔵しました。
本展は、その中から約50点の初公開作品、書簡などの関連資料に加え、以前から所蔵している作品もまじえて、「レアル(リアル)」を求めて苦闘するデビュー前後の瑛九の実像を紹介します。

【 詳細 : 東京国立近代美術館 開催中の展覧会

【展覧会】 会期末迫る-2017年1月9日[日]まで 篠山紀信展 「快楽の館」[原美術館]

20161215150413_00001 20161215150413_000021960年代から現在まで、常に写真界の先頭を走り続けてきた篠山紀信が、このたび、そのカメラによって原美術館を《快楽の館》に変貌させます。
「ここ(=原美術館)で撮った写真をここに帰す(=展示する)」というアイデアのもと、出品作品はすべて当館で撮り下ろした新作で、およそ30名にものぼるモデルを起用したヌード写真です。

当館の建物は当初1938年に個人邸宅として建てられました。西洋モダニズム建築の手法を取り入れた、日本近代建築史の観点からも貴重な作例です。この場所は、写真家篠山紀信にとって、《撮る欲望》をかきたて《撮る快楽》に浸れる場であったということです。
その結果、空間はヌードのための背景ではなく、身体と空間が織り上げる、濃密なイメージの世界としての《快楽の館》が生み出されたのです。実在の空間と展示された写真の中の空間が交錯し、紡ぎだす恥美で幻惑的な世界をぜひとも覧ください。
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美術館は作品の死体置き場、
死臭充満する館に日々裸の美女が集う。

美女たちの乱舞、徘徊、錯乱、歓喜、狂乱、耽溺 ……
あらゆる快楽がこの館でくりひろげられる。

 幻蝶が舞う夢と陶酔の館。
この祝祭は初秋の夜にはじまり、歳明け、厳冬の朝に散る。

たった4 ヶ月余の一度だけの狂宴。

お見逃し無く。
2016年   篠山紀信

【 詳細 : 原美術館

【展覧会】 仲條正義 IN & OUT, あるいは飲&嘔吐 ggg ギャラリー新春企画

20161224160019_00002 20161224160019_00001ギンザ・グラフィック・ギャラリー 第357回企画展
仲條正義 IN & OUT, あるいは飲&嘔吐
2017年01月13日[金]-03月18日[土]
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「IN & OUT, あるいは飲&嘔吐」という、またしても仲條節炸裂のタイトルのつけられた本展では、「MOTHER & OTHERS」をテーマに、スイスサイズという少し大きめのポスター新作22点に挑戦します。
御歳83にして放つ若々しい感性は他の追随を許さず、模倣すら寄せ付けない圧倒的な存在感を示します。 生みだす苦労はあれど、それでも創造を止めることなく作り続け、仕事はもちろん、精力的に個展を開くなど、まだまだ氏のデザインライフは続きます。
ギャラリー地階では、そんな過ぎ去った日の個展作品と、仲條といえばの『花椿』がところ狭しと並びます。
40年前の『花椿』エディトリアルデザインが色褪せることなく、今もほとばしる瑞々しいデザインの数々とともに、現代に違和感なく存在し得る奇跡を目撃してください。

【展覧会】 董其昌とその時代-明末清初の連綿趣味/東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画

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ぢゃむ 杉本昭生【活版小本】 次の本が出来るまで その41

七十二候(しちじゅうにこう)
「七十二候」とは、「二十四節季」をさらに約五日ごとに分類し気候の変化や動植物の様子を表現したものです。
12月2日より12月31日までを掲載します。
※大雪 次候の虎始交は書家であり画家の中村不折氏の作品です。最後に製作者のリストを掲載しておきます。いつか本にできればと思っています。
しかし印をひとつずつ押すのは大変でしょうね。でも楽しそう。
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書道博物館 施設概要】 冒頭部・部分
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館である。
殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財がその多くを占めている。

こうしたコレクションと、昭和11年11月に開館した当初の博物館建設に伴う一切の費用は、すべて不折自身の絵画や書作品の潤筆料から捻出した。その偉業は日中書道史上においても特筆されるべきものである。
こうして書道博物館は、開館以来約60年にわたって中村家の手で維持・保存されてきたが、平成7年12月、台東区に寄贈された。そして平成12年4月に再開館したのが現在の台東区立書道博物館である。
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{新宿餘談}
中国明王朝は朱元璋(太祖)がほかの群雄を倒し、蒙古族王朝元を北に追い払って金陵(南京)に建朝した。三代成祖(永楽帝 1402-24)のとき北京(順天府 1421)に遷都。
明代前半期は久しぶりの漢族正統王朝のもとで「文藝復興」の時代とされ、また奇妙なことに西欧の「ルネサンス」の時代ともかさなっている。
ところが後半期は、皇族は奢侈にはしって治世が安定せず、宦官の専権が目立ち、各地で農民の叛乱が勃発し、異民族からの圧迫も多く、国勢は次第に衰微をみた。

董其昌(とう-きしょう 1555-1636)はそんな明朝末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残して「藝林百世の師」とされた。また清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、その影響で清朝においては正統の書とされた。

ところで、董其昌が活躍した明末清初の時代とは、わが国では徳川時代初期にあたり、徳川幕府の正統の書とは、楷書でも行書でもなく「お家流」とされた連綿体であった。
またここ最近、規矩の明確な明朝体・ゴシック体の使用に「活字ばなれ」と称されるような疲労感がみられ、ひら仮名からはじまり漢字にいたる「連綿体」が世上の関心をあつめている。
この奇妙な符合がどこから発しているのかを考えるのに好適な展覧会が、新春早早から開催される。

書道博物館オモテresized書道博物館ウラresized東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
董其昌没後380年
董其昌とその時代一明末清初の連綿趣味-

中国明王朝の時代に文人として活躍した董其昌(とう-きしょう 1555-1636)は、高級官僚として官途を歩むかたわら、書画に妙腕を発揮しました。
書ははじめ唐の顔 真卿を学び、やがて王羲之らの魏晉時代の書に遡ります。さらに当時の形式化した書を否定して、平淡な書風を理想としながら、そこに躍動感あふれる連綿趣味を盛り込みました。
画は元末の四大家から五代宋初の董 源に遡り、宋や元の諸家の作風を広く渉猟して、文人画の伝統を継承しつつ、一方では急進的な描法によって奇想派の先駆けとなる作例も残しています。

董其昌は書画の理論や鑑識においても、卓越した見識を持っていました。『画禅窒随筆』は、董其昌の書画に対する深い理解と理念を示すものとして知られています。

明王朝から清王朝への移行は、単なる政権交代ではなく、漢民族が異民族である満州族に覇権を奪われた歴史上の一大事でもありました。
董其昌によって提唱された書画の理念は、明末から清初にかけた激動の時代の書画にも濃厚に反映されました。連綿趣味は、当時の人〻の鬱勃たる心情を吐露する恰好の場となったのです。
ところが満州族である清の康熈帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その後三百年に及ぶ清朝においても董其昌は大きな影響を与え続けました。

今年度は、董其昌の没後380年にあたります。このたび14回目を迎える東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画では、中国書画の流れを大きく変えることとなる董其昌に焦点をあてながら、そのあとさきに活躍した人〻の書画を取りあげます。
両館の展示を通して、魅力あふれる董其昌ワールドをお楽しみください。
【詳細:書道博物館
【詳細:国立博物館 東洋館

【展覧会】 迷い鳥たち:文字の練習 イ・ギョンス : purintgallerytokyo

プリントギャラリー表 プリントギャラリー裏 迷い鳥たち : 文字の練習
イ・ギョンス  プリントギャラリー展示
2016年12月17日(土)-  2017年1月29日(日)
入場無料

[開廊の曜日と時間]
13 : 30 から 20 : 00    土日祝

15 : 00 から 20 : 00    月金
 火水木 休み

韓国のソウルを拠点に活躍するデザイナー、イ・ギョンス
檀国大学で視覚コミュニケーションを学び、2001年より
アン・サンス率いるアングラフィクスに勤務。2006年にデザイナー、
写真家、編集者と共にデザインスタジオWorkroomを設立
美術館やギャラリーなど文化関連のデザインを数多く手がける傍ら、
タイポグラフィとエディトリアルデザインを教える。
2006年、弘益大学大学院でタイポグラファ、ヘルムート・シュミットに
タイポグラフィを学んだことをきっかけとして、ハングルと
アルファベットの融合、字間や余白について等、タイポグラフィの
細部についての考察を重ねてきた。2016年初頭にソウルの
Gallery Factoryで自身初の個展を開催。

本展では、過去10年の仕事で〈タイポグラフィ上の問題〉が生じた
細部を極端に拡大したポスター “blow-up” 14点を、
クライアント/共同制作者のコメントと共に展示、
併せて歌手の息遣いに着目して歌詞を構成したポスター
“bari abandoned” などを展示する。
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[イ・ギョンス:手技/職人技としてのタイポグラフィ]
2006年に弘益大学で受講したタイポグラフア、ヘルムート・
シュミットの授業に感化され、イ・ギョンスは<手技/職人技としての
タイポグラフィ>を見出す。が、同時にこうも自問する。
<ディスプレイを前にして職人技を唱えることに、果たして意味が
あるのだろうか>。

たとえば活版印刷の時代に職人の技とされた文字を組む過程も、
現在では<ソフトウェアのプログラムがその役目を果たしている>。
そのため、グラフィックデザインと手技という言葉の関係を
云々するのは、もはや<時代錯誤>となった。 しかレイ・ギョンスは
自らの職務について<ソフトウェアに組み込まれた自動調整機能が
私の仕事ではない>として、ほかの誰ひとり気づくことのない
細部の調整であっても<手動と自動調整機能による文字組の違いを
認識する>ことは、グラフィックデザイナーやタイポグラフアに
<備わっているべき能力・職人技>だと考えている。
本展では、そうした問題意識を踏まえ自主的に制作された
タイポグラフィ作品を中心に展示致します。

【 詳細 : print gallery

【展覧会】 第730回デザインギャラリー1953企画展 「繕う 漆繕い・焼継ぎ・鎹(かすがい)繕い」 

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第730回デザインギャラリー1953企画展 「繕う 漆繕い・焼継ぎ・鎹(かすがい)繕い」

日本デザインコミッティーでは、2017年の正月企画といたしまして、「繕う 漆繕い・焼継ぎ・鎹繕い」を開催いたします。
古来より、日本人は、欠けた器に繕いを施し、そこに特別な美を見出してきました。
例えば、本阿弥光悦の赤楽茶碗「雪峰」や古田織部の井戸茶碗「十文字」など、割れや欠けを繕うことで、新たな美を見出すとともに、新たな価値をも生み出しました。
陶磁器を繕う技法は、漆繕い(金継ぎ、銀継ぎなど)、焼継ぎ、鎹繕い、などさまざまなものがあります。
本展では、日本人の独特の美意識とも捉えられる「繕い」に眼を向けようと思います。 さまざまな技法で繕い、継がれたものの奥深い美しさにご注目ください。

展覧会担当 川上元美からのメッセージ

陶磁器の繕いは、茶の湯が生まれた室町時代に遡る。欠けや綻びを修理することで、独特の美や価値観を生み、さまざまな繕いの技法が生まれた。
金継ぎは、現代人にも馴染み深いが、本展では、漆繕い・焼継ぎ・鎹繕いなども紹介する。
日本人が持つ美への眼差しを2017年の年始にご高覧いただきたい。

展覧会概略

  • タイトル : 第730回デザインギャラリー1953企画展 「繕う 漆繕い・焼継ぎ・鎹繕い」
  • 会期 : 2016年12月27日(火)-2017年1月23日(月) 午前10時-午後8時・最終日午後5時閉場・入場無料
  • 会場  :松屋銀座7階・デザインギャラリー1953
  • 主催 : 本デザインコミッティー
  • 企画・監修 : 佐久間年春
  • 協力 : 雨宮秀也、小澤實、黒田泰蔵、bar cafca.、福田義竜、山口信博(敬称略)
  • 展覧会担当 : 川上元美【 詳細 : 日本デザインコミティー

【サラマ・プレス倶楽部】歳末恒例 手づくり<餅と餃子の忘年会>12月03日[土] 四谷のレンタルキッチン Patia で開催

師走です。印刷・出版界ではこの時期の作業を<歳末進行>と呼び、一年中でもっとも繁忙をきわめるときとされます。
サラマ・プレス倶楽部の会員の皆さんも、{Season’s Greetings Card}や{年賀状}の製作であわただしい時期ですが・・・・・・、そこはそれ。例年よりいくぶん早い12月03日、<手づくり 餅と餃子の忘年会>を開催。

10.27 アッパークラス 松尾愛子さん 時盛さんはやくも10月27日の{活版カレッジ・アッパークラス}の集まりに際に、新潟旅行の報告で盛りあがっているメンバーをよそに、黙黙と{サラマ・プレス倶楽部 2016年 ボー年会}のためのコースターづjくりにいそしんでいたのは松尾 A さんと時盛さん。忘年会DSCN8259[1] DSCN8728《本番当日早朝 空中花壇から「雲南百薬おかわかめ」を収穫 仕込み作業開始》
忘年会をレンタルキッチンで開催するようになってから二年目。あいかわらず主メニューは餅と餃子であるが、そこに野菜たっぷりの「豚汁」がメニューに加わった。つまり食器の心配はなくなったが、食材はかえって増加した。

地方会員から切り餅などの差し入れも頂戴したが、炊飯器はキッチンにあっても電動餅つき器は無いので、当然運搬が必要となる。
なによりも熱帯性植物とされる「雲南百薬おかわかめ」は、寒さにふるえながらようやく発芽させた新芽を摘みとられていた。このとき園芸家は沈黙するしかない。
DSCN8739 DSCN8740 DSCN8749 DSCN8752 DSCN8754 DSCN8753 DSCN8789 DSCN8792 DSCN8794DSCN8746《松尾 A さん、時盛さん苦心のコースターで乾杯! 餅と餃子と豚汁、それに各地の銘酒がずらり 手づくり感いっぱいの忘年会の開幕でした》
搗きたての餅は、大根おろしで「おろし餅」、粒あんで「あんころ餅」、と大好評。
手づくり餃子も、製造担当が追いつかないほどの人気で、蒸しあがると瞬間蒸発の勢いでした。
なにしろ貸し切りの会場ですから、相客を気にする必要はなく、壁面には過去のイベント写真<Viva la 活版  すばらしき活版>がスライドショーで連続投影されていました。

  • 2013年 <Viva la 活版 Viva 美唄
  • 2014年 <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
  • 2015年 <Viva la 活版 Let’s 豪農の館
  • 2016年 <Viva la 活版 ばってん 長崎
    DSCN8758 DSCN8755 DSCN8767 DSCN8768 DSCN8796 《サラマ・プレス倶楽部忘年会は幅広い造形者で構成されていました》
    談笑がつづき、宴たけなわの会場で、欧文組版・欧文ページ物印刷の小宮山清さんが、恒例の「活版印刷昔〻はなし」。
    戦争末期、焼夷弾が工場の至近距離に落下して、工場設備が全焼した小宮山さんは、戦後すぐの急場しのぎに「組版ステッキ」を木製手づくりでしのいだとのことでした。
    また戦後しばらくして入手した「組版ステッキ」は、握りの部分がすっかり摩耗してしまいましたが、いまでも馴染みがよいとされます。
    そんな貴重な品を持参され、皆さんにご披露。

    来たる2017年は、明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕170年の記念すべき年です。朗文堂 サラマ・プレス倶楽部でもさまざまな企画が進行中です。
    また来年の年末に、おおきな成果をひっさげて皆さんとお会いしたいものです。
    小宮山清さん DSCN8782 DSCN8788DSCN8787

【Rebuilding】 朗文堂WebSite〝タイポグラフィつれづれ艸〟あまりにふるく気恥ずかしくはあるが若者に背をおされて再構築

kill-time-typography白頭を悲しむ翁に代わりて
唐  劉 希夷

   古人復た洛城の東に無く
   今人還た対す落花の風
   年年歳歳花相似たり
   歳歳年年人同じからず
   言を寄す全盛の紅顔の子
   応に憐れむべし 半死の白頭翁
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{新宿餘談}
朗文堂の WebSite は、デジタル時代の時計では太古の時代の発足である。
したがってメーンページの左下の片隅にちいさく案内がある〝タイポグラフィつれづれ艸〟などは、いつの間にか存在が希薄となっていた。
それでもずいぶん前から、何人もの社員や、外部の管理者がすこしずつ手を入れて細〻ながらも維持がなされてきた。
そんなコーナーにも若者には新鮮な発見があるという。
ならば公開をためらってきたコンテンツを序序に掲載して〝タイポグラフィつれづれ艸〟を再構築し、内容をゆっくり増補すべく、肩のこらない程度の改造に着手した次第。
朗文堂 WebSite の休息所として、ときおり訪問していただけたらうれしい。

【デジタルタイプ情報】 視覚デザイン研究所 誘目性 Inducibilityと可読性 Readabilityの両立をめざして果敢な挑戦を継続する書体開発

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視覚デザイン研究所(代表・葛本京子)は、明朝体・ゴシック体といった既製書体とは一線を画し、斬新で独創性のある書体開発を続け 「造形の美的バランスと文字の可読性」の両立をコンセプトに意欲的に日本語書体の創出をめざして実績を重ねてきた。
同社は今後も「個性を美しく強く主張、表情豊かなタイプフェイス」を創作したいとする。
タイポグラフィ学会会員

【詳細:視覚デザイン研究所】  (朗文堂タイプ・コスミイクでも書体見本帳進呈)

【ボヘミア チェコ プラハ】05 民族魂のほとばしり Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ 巨大連作絵画『スラヴ叙事詩』

プラハ[1]

Alfons Mucha  アルフォンス・ミュシャ  『スラヴ叙事詩』
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プラハで市販されている 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもまたいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 裏返せば執着力に欠ける。さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとはボヘミア地方の住人のことで、中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただし、その地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには隷従をしいられたり、流浪したりと、堪え忍んできたつらい歴史もある。

またチェコは古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほどドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 また鉄鋼業を中心に工業産業がさかんで、ガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
さいわい、いずれもお盆休みを利用した「三泊+機中泊二日」というみじかい滞在の弾丸旅行だったが、2014年08月、2016年08月の二度にわたってプラハを訪問した。
古都プラハはわが国の京都と姉妹都市であり、街の規模も似かよっているし、名所旧蹟は数え切れなくある。したがってその紹介にあたり、気軽な観光写真と食べ歩き報告ではない方法をかんがえていたが、なかなかに難しいものがあった。

たまたまYouTubeに、プラハを流れるブルタバ川(わが国ではドイツ語風にモルダウ川がふつう)、プラハ城、レギー橋、プラハ国民劇場、欄干に聖人の彫像が見られるカレル橋、旧市庁舎の時計塔、街並みなど、プラハの主要な観光地の映像があった。
やつがれが訪ねた真夏とちがい冬枯れのプラハの光景であったが、ここに紹介された観光地のほとんどは訪問している。
それと本稿の主要テーマ、『アルフォンス・ミュシャ スラブ叙事詩』製作の端緒となった民族音楽、カレル・アンチェル&チェコ・フィル( Karel Ančerl )演奏、スメタナ作曲の交響詩『我が祖国 プラハの風景』12:32があった。まずこのYouTubeでプラハのふんいきを知っていただきたい。

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《アール・ヌーボの旗手から大変貌するきっかけとなった スメタナの交響詩『わが祖国』》
アール・ヌーヴォーの旗手、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860-1939 わが国ではフランス風にミュシャとする)は、もうひとりのアール・ヌーボーの画家、クリムト(グスタフ・クリムト, Gustav Klimt, 1862-1918 帝政オーストリアの画家)と双璧をなしたグラフィックデザイナーであり、画家でもあった。

パリでのミュシャの出世作『ジスモンダ』長尺ポスター 1894年
プラハ城 聖ヴィート大聖堂 外観 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス1 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス 上部アッププラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャ製作のステンドグラス 1931年

ミュシャはパリとアメリカを往復しながら、クリムトとならんで満天下の人気をあつめ、おもに官能的な女性を描いていたが、次第にボヘミアンとしての民族意識にめざめるようになった。
一説によると、1908年(明治41)ボストン交響楽団の演奏によるスメタナの『わが祖国』をきいて感動し、またアメリカで生計を維持するのに足るスポンサーもついたため、余生をチェコ国民とプラハ市民に捧げるべく、1910年、プラハ近郊にあるズビロフ城の一部を借り、ミュシャの20年近くにわたる『スラヴ叙事詩』の製作がはじまった

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わが国には情感ゆたかにうたいあげた「叙情詩」や、心情を吐露し訴求した「抒情詩」は多い。ところが、「神話」はあまたあるとはいえ、「叙事詩」は意外にすくないよようだ。
すなわち「叙事詩」とは、「多くは民族など社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡や事柄をありのままに述べつづる(叙事)の態度でうたい上げた詩」とされる。
すなわちミュシャが、1910年から1928年にかけて、民族の歴史をまなび、それに通暁し、さらに事実調査と現地調査をかさねてつくられた連作絵画が『スラヴ叙事詩』である。

『スラヴ叙事詩』は、チェコおよびスラヴ民族の伝承および歴史を題材としており、太古の時代から1918年のチェコ独立までを描いている。ただし、制作順序については作品に描かれた時代どおりではない。
サイズは小さいものでもおよそ4 x 5メートル、大きいものでは6 x 8メートルに達する。

全作品が完成した後、1928年に特設の展示場を用意することを条件に、この作品はプラハ市に寄贈された。
しかしながら、ミュシャと『スラヴ叙事詩』は、製作完了から必ずしも幸せな道を歩んだわけではない。2012年以前はチェコ共和国の地方都市、南モラヴィア州のモラフスキー・クルムロフの城館に忘れ去られたように展示されていた。

1939年03月、ナチスドイツによって当時のチェコスロヴァキア共和国は解体されて、プラハに入城したドイツ軍によってミュシャは逮捕された。
「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。
ナチスドイツ軍は70歳代後半になっていたミュシャを厳しく尋問し、三ヶ月余にわたって拘留した。欧州戦線での第二次大戦が終了の前、78歳のときに獄中で躰調をくずして釈放されたが、その4 ヶ月後に症状が悪化して終戦をまたずに逝去した。
◯ アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)

ミュシャの遺体は、『スラヴ叙事詩』製作の啓示をあたえたとされる作曲家:スメタナ、戯曲家・作家・造形者・造園家のヨゼフ・チャペック、カレル・チャペック兄弟らとおなじ、プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov の中央部にある「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」に埋葬されている。
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ戦後、祖国は独立を果たしたが、当時のチェコ共産党政権は愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。
しかし民衆レベルではミュシャへの敬愛は生き続け、1968年におこった変革「プラハの春 Pražské jaro」の翌年には、ミュシャの絵画による郵便切手数種が製作されている。
また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォーの再評価の動向とともに、改めて高い評価を受けている。

2012年以降はチェコ国立美術館分館、ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác National Gallery in Prague)1 階に展示されている。
この建物は本来「産業見本市」のために1928年(昭和03)に建設された、鉄とコンクリートと水平連続ガラス窓を特徴とする「国際様式建築」であるが、90年近い時を刻んでなお古さを感じさせない名建築であった。
それでも、「建築様式の見本の街」とされるプラハでは、少なくとも旧市街ではほとんど類似の建物をみることはなかった。
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《チェコ国立美術館分館ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)の『スラヴ叙事詩』》
プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿 ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác National Gallery in Prague)外観 スラヴ叙事詩案内板上) プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿。ここが手狭となり至近の地に新宮殿が1928年にプラハ初の「機能主義様式」で建設された。Veletržní は「見本市の」の意である。
下) ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác, National Gallery in Prague 1928年)の外観と正面サインボード

スラヴ叙事詩『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』『ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教』『クジージュキの集会』『スラヴ叙事詩』 左) ロムニェジージュのヤン・ミリチ 中) ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 右) クジージュキの集会

アルフォンス・ミュシャ畢生の大作『スラヴ叙事詩』のスケール感を実感していただきたく、上掲図版を紹介した。
来館者はほとんどA4 三つ折りの小型パンフレットをもち、作品と解説(叙事詩)を見くらべている。若いカップルなどは肩をよせあって、男性がちいさな声で解説を読みながらゆっくりと鑑賞している姿はほほえましかった。
それでもこれだけの著名作品なのに、来館者はまばらで、その分ゆっくり『スラヴ叙事詩』と対話できた。またノーフラッシュが条件ではあるが撮影が許可されることにはおどろいた。

二年前のプラハ訪問の際、プラハ場内のルネサンス様式の建物で「午後のコンサート」を聴いた。なにぶん観光地でのコンサートであり、ピアノとヴァイオリンだけの演奏であったが、スメタナ組曲『わが祖国』はしみた。臨席の老夫婦などは頬を紅潮させてスタンディング・オベーション。不覚ながらやつがれも鼻の奥がムズムズした。
ヴェレトゥルジュニー宮殿でも『スラヴ叙事詩』をみながら、幻聴のように、スメタナ『わが祖国』が耳朶のどこかで鳴りひびいていた。
以下ウィキペディアの支援をうけながら、いくつかの作品を紹介したい。

◎ スラヴ叙事詩『イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた―』
スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より印刷の様子 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より紙漉きの様子イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた
1914年 610 x 810 cm

ヤン・フスとペトル・ヘルチツキーの影響を受けて1457年に設立されたチェコ兄弟団(ボヘミア兄弟団)は信仰にとって教育が重要なものと考え、ミュシャの故郷であるイヴァンチッチェに学校を創設し、聖書をチェコ語に翻訳した。
この聖書はその後クラリッツェで印刷されるようになり「クラリッツェ聖書」と呼ばれた。
チェコ語で書かれたこの聖書は国民の連帯意識を高め、またチェコ語文法の基本ともなった。
画面右手には印刷された聖書をルーペを使ってチェックする人人が描かれ、左手前方には老人のために聖書を読む青年が描かれている。青年の厳しい表情はカトリックによるその後の迫害を予知しているかのようである。

◎ スラヴ叙事詩 『ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』よりシメオン皇帝 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』より筆記者と本を読む老人ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星
1923年 405 x 480 cm

ブルガリア帝国の皇帝シメオンⅠ世は帝国の版図を拡大し、その治世は帝国の繁栄の時代であった。ブルガリアは文化の中心地ともなり、ここには文人、学者、司祭に囲まれた皇帝が描かれている。

◎ スラヴ叙事詩 『フス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし』
スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』 スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』より読書する人びとフス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし
1923年 405 x 480 cm

フス派の穏健派(ウトラキスト派)はバーゼル協約によってフス派を認めさせることに成功した。しかし教皇はこの協約を一方的に破棄し、ローマに従うことを求めてきた。
この時チェコの国王であったのがボジェブラディのイジーであった。彼はおよそ150年ぶりのチェコ人の国王であり、賢明な王として知られた。
この作品では横柄な態度をとる教皇の使節に対し、玉座を蹴って立ち上がり、要求をはねのける国王の姿である。右下に描かれたこちらを向いた少年は「ローマ(ROMA)」と題された大きな本を閉じており、ローマとの関係の終焉を表している。

【 活版 à la carte : チェコ プラハ での過去ログ紹介

【新宿私塾】 第29期 11月29日第11回講座 : 永野有紀さん/原純子さん/STORK 原純子+亀井伸二さんの活動報告

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《新宿私塾第29期  11月29日 第11回講座 : 永野有紀さん》

DSCN8696 DSCN8701 DSCN8700この日の講座は11月09日第09回講座「名刺デザインの製作実務」を受けてのもので、持ち帰り課題の提出日でもありました。
とかく課題提出とは緊張しがちです。ところが講師の永野さんご自身も新宿私塾第02期修了生とあって、課題は採点法ではなく、講師と塾生諸君の相互評価が中心となり、笑いがたえません。

ちいさいとはいえ、定型サイズの「名刺とはがき」の製作は難題です。そこをクリアするために、第一回目の講座で、過去の蓄積と業界のノウハウが提示され、それに創意と工夫をこらした課題の提出で、講座は緊張のなかにも、塾生同士の相互評価で、急速に交流が深まっていきました。
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《新宿私塾第29期  11月29日 第11回講座 : 原 純子さん》

DSCN8684 DSCN8687 DSCN8693原純子さんの講義は、おもに美術展図録製作のケーススタディで、エディトリアルデザインとグラフィックデザインの基本を踏まえ、内容やターゲット層から考える組版を説かれました。
また大型美術館や博物館図録の実物を提示しながらの熱意溢れる講座となりました。

講師:原 純子さんは新宿私塾第04期と、また<活版カレッジ>の修了生です。
原 純子さんと亀井伸二さんによるデザインユニット<STORK>から
今回の講座でも使用した二冊の展覧会図録について解説をいただきました。
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STORK 原 純子+亀井伸二

『あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術』は、京都国立近代美術館で今年の夏に開催された展覧会の図録です。戦後日本の美術界を牽引した重要な作品群の展覧会で、展覧会のタイトル通りに熱い展覧会でした。

製本はドイツ装といいまして、時間も手間もかかる装丁なのですが、タイトなスケジュールの中で、美術館、担当学芸員、印刷会社と協力して暑い時期に熱く作り上げた一冊です。
ドイツ装は私たちにとってもはじめての試みでした。
ハードカヴァーか無線綴じが主流の展覧会カタログの中で、学芸員のかたとのお話の中で制作を進めることができ、図録自体も「あの時」と同様に実験的な雰囲気のするものになったかなと思っています。

CCGA現代グラフィックアートセンターにおいて、ことしの6月11日から開催しています『中林忠良展 / 未知なる航海 ―― 腐食の海へ 』のカタログが完成しました。
レセプション会場にも短時間ですがお邪魔し、中林先生にもお会いできました。四年ぶりの須賀川はとても気持ちのいい空間でした。 [ 原 純子 wrote ]
あのときみんな IMG_0830 中林忠良展

【展覧会】 チェレンコフの光 戸山 灰 個展 “Cherenkov radiation” KOYAMA Kai Exhibition

戸山灰絵柄面戸山灰宛名面チェレンコフの光 戸山 灰 個展 
“Cherenkov radiation”  KOYAMA Kai Exhibition
◯ 会期  2016年12月20日[火]-25日[日]

       10:00-18:30 初日のみ14時より 最終日17時まで
◯ 会場  川崎駅前タワー・リバーク3階 アートガーデンかわさき 第2展示室
       川崎市川崎区駅前本町12-1 電話:044-200-1415

【 詳細 : 戸山灰がつくっているもの
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{新宿餘談}
戸山 灰(こやま-かい)さんは、ときおり来社されてあついアート談義をかたられます。
そしてデジタルタイプにも厳格な視点を有されています。
今回は久しぶりの個展に際し、[朗文堂 タイプ・コスミイク]扱いのふたつのパッケージから、「正調明朝体 金陵 あおい」と、「杉明朝-杉本幸治制作硬筆風細明朝」をご使用されました。
ご愛用ありがとうございました。
正調明朝体 杉明朝体パッケージ表out

【展覧会】 根津美術館コレクション展「染付誕生400年」2017年1月7日─2月19日

img_sometsuke[1]世界中が憧れたやきものである磁器は、永らく中国が生産の中心地でした。
日本では今からおよそ400年前の元和2年(1616)、朝鮮半島より渡来した陶工・李参平によって、肥前(現在の佐賀県)の地でその焼成に成功したのが始まりとされます。
そして肥前磁器は「伊万里焼」として、染付や白磁、青磁や色絵へと飛躍的に発展し、江戸時代を通して隆盛を極めます。

本展は、平成10年(1998)に山本正之氏が当館へ寄贈された作品を中心に、17世紀から19世紀までの肥前磁器を概観するものです。
江戸時代の日本人が生活のなかで大切に伝えてきた美しい器をご堪能いただければ幸いです。
【 詳細 : 根津美術館 展示

【特別展】 国立印刷局お札と切手の博物館「印紙・証紙──小さなグラフィック・デザインの世界」

img_main-visual01[1] お札と切手の博物館_01 お札と切手の博物館_02【特別展】
国立印刷局お札と切手の博物館「印紙・証紙 ―― 小さなグラフィック・デザインの世界」
平成28年12月20日-平成29年3月5日

{小さな証明書の形・色・図柄}
本展で取り上げる「印紙・証紙」とは「何かを証明するために貼り付ける小さな印刷物」全般を指します。
これらの「小さな証明書」は貼り付ける対象や証明の内容などの用途に合わせてデザインされるため、多様な大きさや形態、ユニークな色分けや図柄になっています。
下邑政弥氏旧蔵の貴重なコレクションと併せ、製造機関である国立印刷局ならではの収蔵品を展示します。
{詳細:お札と切手の博物館