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【図書紹介】東海汽船|東海汽船 130 年のあゆみ 1889 - 2020|A 4 版 フルカラー 424 ページ

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東海汽船 130 年のあゆみ 1889 - 2020
A 4 版 フルカラー  424ページ 並製本
編集・発行:東海汽船株式会社 東京都港区海岸一丁目16-1

明治時代に創業した東海汽船は、度重なる災害や戦争、世界的な経済不振を経て、
2019年11月に創立130周年という大きな節目を迎えます。
東京諸島と歩んだ130年の軌跡を、主な出来事や船舶と共に振り返ります。

[ 参考: 東海汽船 東海汽船130周年記念サイト

【 YouTube : 東海汽船130周年のあゆみ 2:50 】

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創立130周年のごあいさつ
東海汽船株式会社 代表取締役社長   山 﨑  潤 一

当社は1889年11月に創業してから、今年で創立130周年を迎えます。この長きに亘り会社が継続して来られたのは、当社の船を利用いただいたお客様をはじめ、株主の皆様、諸先輩方、従業員の皆様、そのほか関係先の皆様の絶大なご支援の賜物であり、心より深く感謝申し上げます。

今後も、これまで培った歴史と伝統、安定基盤を糧に、東京諸島、当社の未来創造に向かって粘り強く邁進していく所存です。今年のスローガン「Revolution 2019」のもとに、独創的で革新的なチャレンジへの取組を加速させてまいります。

まず新しい船の建造です。さるびあ丸に代わる新しい大型船は、約6,200トンとなり、安定した運航とエネルギー効率の向上、また環境負荷の低減やバリアフリーに対応したエコシップとして、来年2020年6月に就航いたします。また、ジェットフォイルは当社所有の4隻のうちの1隻「セブンアイランド虹」の代替として、同じく2020年の7月に就航予定です。ジェットフォイルは国内での建造が実に25年ぶりとなります。この2隻のカラーリング、デザインは、美術家の野老朝雄氏にお願いしております。船のデザインでも注目を集め話題になると共に、2隻の就航が船旅の魅力を更に高め、東京諸島への観光の新たな起爆剤になると確信しております。

また、ここ数年取り組んでおります東京~八丈島航路と東京~神津島航路を大島で結ぶ航路の多様化、東京湾・駿河湾を拠点としたジェットフォイルによる新規航路開拓、プラネタリウムアイランドなど新たな商品企画への取り組みなど、首都圏から抜群のアクセスを誇る、自然あふれる東京諸島を、より多方面から幅広くPRしてまいります。

130年という一つの到達点ではありますが、同時に新たな歴史のスタート地点として、グループ全体で気持ちを新たに、フレッシュな心構えで進んでまいります。
今後も引き続きご支援、ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。
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{新宿餘談}

平野富二は1872年(明治05)年に長崎から上京。その後に多くの事業事業を手がけましたが、その造船と輸送に着実に歩みをつづけた功績の一端、すなわち1899年(明治22)有限責任東京湾汽船、現:東海汽船関連の詳細な記録『東海汽船 130 年のあゆみ 1889 - 2020』が発表されました。

1889年(明治22)東京湾を運航する4つの海運会社が合併、11月14日に有限責任東京湾汽船会社が誕生。翌年1890年に株式会社となりました。これがこんにちの東海汽船に連なりましたので、同社では今なお、毎年11月14日を創立記念日としています。
平野富二は有限責任東京湾汽船の創立以来尽力しましたが、その設立からからまもなく、1892年(明治25年)12月3日に脳溢血のため急逝しました。在京わずか20年余、数えて46年と2ヶ月、あまりに惜しいできごとでした。

小社は記念社史『東海汽船 130 年のあゆみ 1889 - 2020』の編纂にあたり、わずかばかりの協力をし、本書をご恵送いただきました。ここに本書をご紹介したゆえんです。
[ 参考 : 平野富二の会 ]

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

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平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。

当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

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【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第五代専務取締役社長 野村 宗十郎

東京築地活版製造所第五代野村宗十郎

東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎

(1)第五代社長として専務取締役社長に選任
(2)東京築地活版製造所に入社までの略歴
(3)東京築地活版製造所への入社とその後の昇進
(4)支配人時代の事績
    1)活字のポイントシステム調査と導入・普及
    2)コロタイプによる写真印刷の実用化
    3)組織改革と営業活動、博覧会出品
      <組織改革> <営業活動> <博覧会出品>
    4)業界活動と社会貢献
      <外部団体の役員就任> <印刷物見本交換会の開催>
(5)専務取締役社長としての事績
      <事業の拡張・縮小> <ポイントシステムの普及> <社外活動><博覧会出品> 
      <エピソード>
    1)内田百閒と築地13号室
    2)新社屋の裏鬼門
      <持病の悪化と死去>
(6)没後の記録
まとめ
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ま と め
野村宗十郎は、長崎に居住する薩摩藩御用商人の服部家に生まれた。親戚の野村家当主が戦死したため、その名跡を継いで長崎製鉄所の第3等機関方となった。しかし、それは短期間で、技術者としての素養を身に着けたとは考えられない。
実父は、維新により家職を失い、明治3年(1870)に本木昌造が開いた長崎の新町活版所に勤務した関係から、野村宗十郎も活版印刷に多少の関わりを持ったと言われている。

その後、病弱の身を押して勉学にはげみ、大学予備門を中退して簿記を学び、大蔵省に入省した。しかし、専ら外回りの勤務に見切りをつけて退省した。その時、すでに数え年33となっていた。
退省した野村宗十郎は、陽其二の推薦を得て、明治22年(1889)7月、東京築地活版製造所に将来の幹部候補として招聘された。野村宗十郎が最初に配属された先は倉庫係だったが、3年後の明治25年(1892)8月には早くも社長曲田成の下で副支配人となり、その翌年8月に支配人となった。

さらに、明治29年(1896)4月に社長名村泰蔵の下で取締役支配人となった。明治40年(1907)9月には、名村泰蔵死去の跡を継いで専務取締役社長に選任され、大正14年(1925)4月23日に数え年69で病没するまで社長職を務めた。
支配人として15年間、取締役として11年間、専務取締役社長として18年間、それぞれ重複する期間はあるが、東京築地活版製造所の経営に関わったことになる。

野村宗十郎は、入社して間もなく、活版製造事業について学ぶ中で、活字サイズの決め方に疑問を持ち、外国文献にポイント・システムがあることを知った。結果的に、野村宗十郎に一人合点と思い違いがあったと見られるが、このポイントシステムが本木昌造の決めた活字体系に合致することを知り、改めて本木昌造にたいする尊敬の念を強めるとともに、わが国の統一システムとして普及させることを決意したと見られる。

曲田社長の理解と名村社長の積極的後援を得て、野村宗十郎は死去する直前までポイントシステムに焦点を当てて、その普及に努めた。その結果、新聞社がその利便性に着目して採用するものもあったが、読者の受け入れ易さを主に、紙面の構成やバランスなどを試行錯誤する状態が続いた。やがて、全国の新聞界はすべてポイント活字に風靡されるようになり、一般の印刷工場においてもポイント活字を整備することになった。
このようなことから、大正5年(1916)2月15日、野村宗十郎は、ポイント式活字の創造と普及によりわが国の文運隆興を補助したとして、藍綬褒章を下賜された。

会社の経営面から見ても、ポイントシステムへの切替需要により、順調に増収増益を重ね、大正11年(1922)後期の決算では、資本金が30万円であったが、売上高57.7万円余、純利益10.5万円を記録している。
しかし、牧治三郎によると、東京築地活版製造所の全盛期は大正12年(1923)を以って終わった。活字鋳造が次第に自動鋳造機械の普及に従って、大口需要家の新聞社をはじめ、一般印刷業者も自家鋳造へと移行する形勢を示した。
それにも関わらず、関東大震災でほとんど全ての製造設備を失った東京築地活版製造所が採った対応は、旧態依然とした手廻鋳造機を中心とする活字製造事業に注力し、手工業的体質からの脱却、活字需要者の変化に対する対応が見られない。

大正時代になると、一般製造業の発展により女工不足が深刻となった。また、職工組合による賃上げ要求ストライキが発生するようになっていた。
野村宗十郎は、創業者である本木昌造を敬うあまり、実質的に活版製造を事業として完成させ、海外需要にも目を向けた平野富二、時代の局面で同業組合による協調で切り抜けた曲田成、日清・日露の戦争による好況、不況を積極経営で乗り切った名村泰蔵の3人の社長が敷いた布石を発展させることなく、ポイントシステムの成功に酔いしれていたとしか考えられない。

曲田社長が糸口を付けたコロタイプ版や網目版による写真印刷は、新しい印刷事業の方向性を示すものであったが、その後の展開が見られない。また、印刷物蒐集交換会も、社長に就任してから1回開催しただけで、中止してしまった。
明治18年(1885)には、石版技手人名鏡に東京築地活版製造所が国文社と共に勧進元となっているように、活版印刷と石版印刷〔オフセット平版印刷につらなった〕の双方の印刷分野でトップクラスの技術と実績を持っていた。

さらに、名村社長が復活を手掛けた印刷機械製造事業についても、その製造機種は依然として平野富二が製品化した機種ばかりで、急速に普及しつつある輪転印刷機やオフセット印刷機などの国産化には全く関心がなかったようである。
さらに問題なのは、次期社長とするべき後継者を育成することなく死去したことである。
そのため、遠隔地である長崎に居住し、多くの会社の役員を兼任する松田精一が引き継がざるを得なくなった。
それでも、有力な支配人が実質的な経営に取り組んでいれば別であるが、昭和3年(1928)6月の株主総会で取締役に指名された支配人大沢長橘は知名度が低く、それまで、どのように経営に関わっていたかは知られていない。

野村宗十郎は、活版の大業に一大功績を残し、東京築地活版製造所の興隆に尽くしたとされている。しかし、結果的にバランスを欠いた経営が、その後の苦境を乗り切れず、その死去から13年目に会社解散に追い込まれる要因になったと見られる。

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【朗文堂ブックコスミイク】『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』|発行:平野富二の会|発売:朗文堂

平野号_書影 チラシ広報 チラシ広報『平野号』プリント用 PDF 】

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録

B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0  C1020

発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
    www.robundo.com
    typecosmique@robundo.com

<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
 平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
 長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
 東京編
  平野富二の足跡
  各種教育機関
  官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
  平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
  その他、民間の活版関連事業
  勃興期のメディア
 「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき

跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船 
『平野号』出発進行、ようそろ!

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【図書紹介】『夢と次代への挑戦』|平野富二の生涯 ─ 日本初の造船会社「石川島造船所」創業者|株式会社 I H I

20190405172141_00001『夢と次代への挑戦』
平野富二の生涯 ─ 日本初の造船会社「石川島造船所」創業者
株式会社 I H I
2019年4月1日発行

発行者  株式会社 I H I
     135-8710 東京都江東区豊洲三丁目1番1号
仕 様  新書判 128ページ モノクロ

編 集  広報・I R 部 社内報グループ   非売品
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《 主要内容 ── 目次より 》

はじめに
01 近代日本の幕開けとともに
02 機関手として、幕末の海をわたる
03 土佐藩に一時雇われ、龍馬と熱く語る

04 造船への道と、大きな挫折
05 恩師・本木昌造に導かれ、活版印刷の世界へ
06 新都・東京への旅立ち
07 東京築地活版製造所の誕生と、悲しい別れ
08 民間ではじめての造船所をひらく
09 約束を果たし、さらなる夢に挑む
10 試練のとき
11 夢の結晶~軍艦「鳥海」進水へ
12 富二がおこした新事業と、描いた理想
     ◯ 平野土木組
     ◯ 東京平野汽船組合
     ◯ 鉱山事業の機械化
     ◯ 東京中央市区改造計画論
     ◯ 官業払い下げをめぐる怒り
     ◯ わが国初の商業用水力発電所建設の提言
     ◯ 果たされなかった大規模物流計画
     ◯ 民間メーカー初の近代橋を建設
13 石川島造船所を支えた、澁澤榮一発案の「匿名組合」
14 闘病を経て、近代経営への道をあゆむ
15 永遠の熱き思いを胸に
監修あとがき

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~ 

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【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

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平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
本稿もこれまでの「印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜寿記念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。

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わが国最初期の新聞のひとつ、『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)の表紙

「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

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【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第四代専務取締役社長 名 村 泰 蔵

古谷昌二名村東京築地活版製造所 第四代社長 名村泰蔵

(1)第四代社長として専務取締役に就任
(2)名村泰蔵の出自と名前の変遷
(3)東京築地活版製造所に招聘されるまでの略歴
(4)東京活版製造所での事績
     〔株主総会関連〕
     〔事業拡張〕
     〔営業活動〕
     〔徒弟の基礎教育〕
     〔その他〕
ま と め
名村泰蔵は、幼名を島村子之松、少年の頃、オランダ通詞北村元七郎の養子となって北村元四郎、30歳になってオランダ語、英語、フランス語を学んだ名村八右衛門の名跡を継いで名村泰蔵となった。
北村元四郎を名乗っていた幕末から明治初期には、神奈川奉行所詰め(22歳)、横浜製鉄所の建設工事でフランス語通訳を勤め、八丈島に漂着していた本木昌造一行の救助に向かった幕府蒸気船に搭乗(27歳)、パリ万国博覧会に幕府随員として参加(28歳)し、帰国後、長崎に戻って上等通弁(29歳)となった。
慶應4年(1868)、30歳のとき、名村八右衛門・名村貞四郎の名跡を継いで名村泰蔵と改名し、長崎の「広運館」仏学局でフランス語の助教を務める傍ら、本木昌造の経営する新街私塾で英語とフランス語を教えていた。
明治5年(1872)に上京して司法省に出仕し、岩倉使節団の後発団員としてヨーロッパに派遣された。以後、明治26年(1893)、54歳のとき、大審院長心得を辞任して退官するまでの22年間を司法畑で過ごした。

東京築地活版製造所は、もともと、新街私塾の出張所(長崎新塾出張活版製造所)であったこともあり、名村泰蔵もその縁に連なる人である。そのことから、あらかじめ退官を期に東京築地活版製造所に役員として招聘される内諾があったと見られる。
第三代社長曲田成の急逝により、第四代社長として専務取締役に選任された名村泰蔵の東京築地活版製造所に於ける業績は、資本金8万円の会社から20万円の会社に成長させたこと、印刷機械を含む諸器械の専門工場として月島分工場を設立し、経営の拡大と安定を計ったことが挙げられる。また、各種博覧会に新製活字を出品して受賞し、業界のトップ企業としての地位を確立した。さらに、徒弟として入社した年少者の基礎教育を制度化した。

名村泰蔵を語る伝記や私記は見当たらない。東京築地活版製造所の正史とも言うべき『株式会社東京築地活版製造所紀要』(昭和4年10月発行)には、名村社長についての記述は僅かに4行しかない。そのこともあってか、その事績はほとんど知られていない。
明治26年9九月退官。明治27年貴族院議員となり実業界でも活躍。明治40年(1907)9月6日東京築地活版製造所社長在任のまま歿す。68歳。特旨により正三位に叙せられ、祭祀料を賜わり、勅使をその邸に遣わされて幣帛を賜わった。
名村角判 tukisima 平野富二甲1 名村墓所青山霊園────────────────

古谷昌二さんuu[1]平野富二生誕の地碑建立有志の会の< WebSite 平野富二──明治産業近代化のパイオニア >において、精力的に「平野富二」に関する最新研究成果を<古谷昌二ブログ>に連続発表されている古谷昌二氏。その蓄積は2017年01月-2018年06月にわたり、都合24回の連載をかさねています。

平野富二は長崎から上京後、わずか20年ほどのあいだに、明治産業近代化のパイオニアとしてさまざまな事業を手がけました。そのひとつが活字製造と活字版印刷関連機器の開発・販売で、東京築地活版製造所の名称でひろく知られます。ところが同社は昭和初期に解散したために、企業史の側面からの研究は十分とはいえない状況にありました。

近年、長崎と東京で「活版さるく」をはじめとするさまざまなイベントが開催され、東京築地活版製造所関連資料があらたに発掘され、周辺では共同研究も盛んになってきました。
これらの成果の一端として、<古谷昌二 新ブログ  東京築地活版製造所歴代社長略歴>は、明治18年(1885)6月16日に設立され、昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会の決議によって解散を迎えるまでの東京築地活版製造所の消長を、個性ある歴代の社長の姿を追うことで明らかにしようとするものです。ご愛読をたまわりたく存じます。
[平野富二生誕の地碑建立有志の会 事務局長:日吉洋人]

【 詳細: 東京築地活版製造所歴代社長 略伝 】

【展覧会】国立科学博物館|特別展 明治150年記念「日本を変えた千の技術博」|’18年10月30日-’19年3月3日

kahaku01 kahaku02国立科学博物館
特別展 明治150年記念「日本を変えた千の技術博」
会  期  2018年10月30日[火]-2019年3月3日[日]
時  間   9時-17時(金曜日、土曜日、10月31日[水]、11月1日[木]は20時まで)
      ※入場は各閉館時刻の30分前まで
      ※今後の諸事情により、開館日や開館時間等について変更する可能性がございます
休  館  日  月曜日、12月28日-1月1日、1月15日[火]、2月12日[火]
      (12月24日[月・休]、1月14日[月・祝]、2月11日[月・祝]、2月25日[月]は開館)
主  催  国立科学博物館、日本経済新聞社、BSテレビ東京
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明治150年を記念した本展では、明治から平成にいたるまでの、日本を変えた科学技術に焦点を当て、ストーリーやキーパーソン、製品・部品、文書、写真資料などを一堂に集めて紹介します。日本の科学技術の歩みを振り返り、その強みや面白さにスポットライトを当てることにより、科学・技術の未来を考えます。

【 詳細: 国立科学博物館
{初掲載:2018年11月15日} XdRByAh6

【会員情報】I H I Corporation|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|YouTube 動画を共有紹介

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~  音が出ます  03:57 】


* 拡大画面をご希望の際は、画面右下 YouTube の文字部をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開
嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

【 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/
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I H I 会社概要
I H I は総合重工業メーカーとして、資源・エネルギー、社会インフラ、産業機械、航空・宇宙の4つの事業分野を中心に新たな価値を提供しています。

1853年創設の日本初の近代的造船所「石川島造船所」を起源とする I H I は、造船で培った技術をもとに陸上機械、橋梁、プラント、航空エンジンなどに事業を拡大し、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
現在の I H I は、石川島造船所の流れをくむ石川島重工業が1960年に播磨造船所と合併して「石川島播磨重工業(Ishikawajima-harima Heavy Industries)」となった後、2007年にグローバルブランドの強化を促進するため、社名を「 I H  I」に変更して誕生しました。
I H I は「技術をもって社会の発展に貢献する」という経営理念のもと、今後もものづくり技術を中核とするエンジニアリング力で世界的なエネルギー需要の増加、都市化と産業化、移動・輸送の効率化などの社会課題の解決に貢献していきます。

社   名  株式会社 I H I / I H I  Corporation
本社所在地  〒135-8710 東京都江東区豊洲三丁目1-1 豊洲 I H I ビル
代表取締役社長  満岡 次郎
創   業  嘉永6年(1853年)12月5日
設   立  明治22年(1889年)1月17日
資 本 金    1,071億円
年間売上高    7,217億円(2018年3月期)
連結売上高  15,903億円(2018年3月期)
従 業 員 数  8,256名 連結対象人員:29,706名(2018年3月末)

* 創業:水戸藩 徳川斉昭が幕命により江戸・石川島の地に造船所を創設した日
* 設立:有限責任石川島造船所が設立された日

[株式会社 I H I 会社概要ゟ抜粋 2019年01月08日情報]

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株式会社 I H I / I H I  Corporation の公開展示施設の紹介
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株式会社 I H I 本社 ( I H I ものづくり館 アイミューズ)

所在地 江東区豊洲3丁目1-1 豊洲 I H I ビル1階
概 要
この地は大型船を建造できる新立地として、昭和14(1939)年に開設された。それ以来、東京石川島造船所の研究・設計・製造の拠点であったが、豊洲地区の開発により広大な工場群を閉鎖し、平成18(2006)年に本社ビルを新築した。

それを機会に、I H I の企業史、製品史を展示・紹介するコーナーを設けて一般に公開し、「ものづくり」の大切さを伝える場とした。この開設に当たっては I H I のOBからなる「平野会」の働き掛けがあった。平成30(2018)年にリニューアルされ、受付近くのコーナーに創業者:平野富二に関する展示が追加された。

石川島資料館(石川島平野造船所 跡)
所在地 中央区佃1丁目11-8 ピアウエストスクエア1階 (もと佃島54番地)
概 要
この石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設した所で、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場だった。

この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸-あさひまる」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現 I H I )開設の起点としている。
石川島資料館は、長い歴史を持つ石川島造船所を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

【 詳細: 株式会社 I H I   i – muse     石川島資料館 】

【Information Release Ⅱ】明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|11月23[金・祝]・24[土]・25日[日]| 長崎県勤労福祉会館にて開催

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◯ 会  期
    2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]──三日間
◯ 時  間

    23日[金・祝]15:00-19:00/24 日[土]10:00-19:00/25 日[日]10:00-17:00
◯ 記念式典

    「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会 11月24日[土]11:00より開催
◯ 会  場

    長崎県勤労福祉会館4階(長崎県長崎市桜町9 ― 6)
◯ 入  場 料

    無 料 〈催事の一部には参加費が必要なものもあります〉
    *展示のほかに、講演会、活版ゼミナール、ミニ・活版さるくを開催。詳細は下記webをご参照。

◯ 主  催
    「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会
    160-0022東京都新宿区新宿2―4―9 4F 朗文堂内
    Telephone:03-3352-5070 Facsimile:03-3352-5160
    E mail : info@hirano-tomiji.jp  Web : http://hirano-tomji.jp/

【Information Release 3】明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭 鋭意準備中!

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明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭

◯ 会  期
    2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]──三日間
◯ 時  間

    23日[金・祝]15:00-19:00/24 日[土]10:00-19:00/25 日[日]10:00-17:00
◯ 記念式典

    「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会 11月24日[土]11:00より開催
祝賀会へのご出席はご招待状のご呈示をいただきます。
◯ 会  場

    長崎県勤労福祉会館4階(長崎県長崎市桜町9 ― 6)
◯ 入  場 料

    無 料 〈催事の一部には参加費が必要なものもあります〉
    *展示のほかに、講演会、活版ゼミナール、ミニ・活版さるく開催。詳細は下記webをご参照。
◯ 主  催
    「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会
    160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9 4F 朗文堂内
    Telephone:03-3352-5070 Facsimile:03-3352-5160
    E mail : info@hirano-tomiji.jp  Web : http://hirano-tomji.jp/

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明治産業近代化のパイオニア
「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭 現在鋭意準備中!

平野 富二

主会場:長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9―6)

明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭にむけて、
もろもろの準備を進めております。

記念祭の詳細はこちらをご参照ください→【Information Release 1】

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◎約450キロの御影石に文字を刻んでくださるのは、長崎にある株式会社 小森石材彫刻の若き職人です。

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長崎県印刷工業組合の青年部のみなさんには、アルビオン型手引き活版印刷機印刷用ニカワローラー製造器の展示・実演をご準備いただいております。

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タイポグラフィ学会 会長 山本太郎氏には、「平野富二 略歴」の英訳と欧文組版を行っていただいております。

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◎長崎ではおなじみ、観光案内板である 長崎さるく ボードも準備万全です。

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◎除幕式で使用する「幕」と飾り紐は、新宿の 株式会社 鈴木旗店 にて準備中です。

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◎そして、活版さるく(通称「ブラ・富二」)のグッツもそろそろ準備開始です。

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◎ご案内の DM は、樹脂凸版印刷にてサラマ・プレス倶楽部会員が印刷します。

こちらは、昨年開催「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」DMの印刷風景

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◎ タイポグラフィ学会 が記念展示を行います。

タイポグラフィ学会は、おととし10周年を迎えられました。また昨年『タイポグラフィ学会誌』の第10号を刊行されました。

そこでこの度、日本のタイポグラフィの発展に多大な貢献をされた、平野富二の生誕の地 碑 建立を記念し、ご支援いただいた多くの方がたへの感謝の気持ちを込めた「タイポグラフィ学会 記念展示」が開催されます。

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◎記念式典「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会【 11月24日(土)11:00より開催】、募金いただいた方へ「吉 宗ーよっそう」茶碗蒸し料理をご用意いたします。

慶応三年「吉宗-よっそう」の正月風景 上野彦馬撮影

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◎記念式典の公式写真撮影は、フォトグラファの 上野隆文氏 が担当します。

 

【展示】本木昌造の佩刀が展示されました|日本美術刀剣と押形展|長崎歴史文化博物館企画展示室|日本美術刀剣保存協会長崎県支部|

DSC_1192 DSC_1189 20181003144508_00001本木昌造、諱:永久-ながひさ-がもちいていた佩刀が長崎歴史文化博物館で鑑定書つきで展示され、長崎会員からスマホ写真を頂戴いたしましたので紹介いたします。
本木家・平野家(矢次家)はともに長崎の地役人で、明治維新以後のいっときは「卒族」とされていましたが、苗字帯刀をゆるされていました。

日本美術刀剣と押形展
会 場  長崎歴史文化博物館企画展示室
期 間  2018年9月13日-24日 会期終了
主 催  日本美術刀剣保存協会長崎県支部
平野富二武士装束uu平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への進出の夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した、1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。
[関連:花筏 平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで
日本鋳造活字始祖大阪四天王寺境内にある「本木氏昌造翁紀念碑」。ここにみる本木昌造の銅像と碑域は明治30年に建立されたが、昭和20年金属供出令で銅像をうしなった。昭和60年の再建にあたっては、本木昌造が士装した資料がなかったため、絵画をよくした森川龍文堂:森川健市が戦前の銅像の記憶をもとに絵画をおこし、それにもとづいて像造したとされる。

(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大印工本木先生銅像復元委員会 昭和60年9月)
[関連:【講演録】文字と活字の夢街道

【古谷昌二 新ブログ スタート】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴 ── 初代社長 平 野 富 二

社長略史01【古谷昌二 新ブログ スタート】
東京築地活版製造所

歴代社長略歴

初代社長 平 野  富 二

(1)初代社長就任とその実績
(2)築地活版製造所の前史
     〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
     〔活版製造事業の改革〕
     〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
     〔事業所の東京移転〕
(3)平野富二の貢献
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古谷昌二さんuu[1]平野富二生誕の地碑建立有志の会の< WebSite 平野富二──明治産業近代化のパイオニア >において、精力的に「平野富二」に関する最新研究成果を<古谷昌二ブログ>に連続発表されている古谷昌二氏。その蓄積は2017年01月-2018年06月にわたり、都合18回の連載をかさねています。

平野富二は長崎から上京後、わずか20年ほどのあいだに、明治産業近代化のパイオニアとしてさまざまな事業を手がけました。そのひとつが活字製造と活字版印刷関連機器の開発で、東京築地活版製造所の名称でひろく知られます。ところが同社が昭和初期に解散したために、企業史の側面からの研究は十分とはいえない状況にありました。

近年、長崎と東京で「活版さるく」をはじめとするさまざまなイベントが開催され、東京築地活版製造所関連資料があらたに発掘され、周辺では共同研究も盛んになってきました。
これらの成果の一端として、<古谷昌二 新ブログ 東京築地活版製造所歴代社長略歴>は、明治18年(1885)6月16日に設立され、昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会の決議によって解散を迎えるまでの東京築地活版製造所の消長を、個性ある歴代の社長の姿を追うことで明らかにしようとするものです。ご愛読をたまわりたく存じます。

[平野富二生誕の地碑建立有志の会 事務局長:日吉洋人]
平野富二 03ea964d3f22efbbfc3e02f6c3213aee 727888b699973808e40cc8ca99d760c0 7448e9df747f3cf40629d5bdf0b3b66c 55ebe9892c555028e236a51c24cad9c0 『印刷雑誌』第1巻第8号1891.09m24 部分拡大

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ16}── 長崎新聞局とギャンブルの伝習

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明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ────平野富二とその周辺

古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習

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【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ15}── 立神ドックと平野富次郎の執念

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古谷昌二15

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ────平野富二とその周辺

古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
立神ドックと平野富次郎の執念

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【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ14}── ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場

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古谷昌二ブログ03月
明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。

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古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ

[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
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【明治産業近代化】株式会社 I H I 社内報『あい・えいち・あい』2018年2月号にて同社創始者:平野富二時代に製造された手引き式活版印刷機を紹介

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株式会社 I H I 社内報『あい・えいち・あい』2018年2月号(通巻687号)

表紙・表紙裏・本文三ページにわたって「手引き式活版印刷機」を紹介

総合重機械大手企業、株式会社 I H I(東京都江東区豊洲3-1-1 豊洲 I H I ビル  光岡次郎社長)は、同社創始者の平野富二のもうひとつの事業、「平野活版製造所 のち 東京築地活版製造所」による、活字版印刷器機製造・活字製造事業を紹介すべく、社内報『あい・えいち・あい』(B5判 中綴じ 28ページ)に表紙を含む3ページにわたる特集記事を掲載しました。

c744292ca56cacab6da941241b982f44 平野 富二(ひらの とみじ)
1846年10月4日〔弘化3年8月14日〕-1892年〔明治25年〕12月3日

実業家、県立長崎製鉄所(現、三菱重工業長崎造船所の前身)最後の経営責任者、石川島平野造船所(現、株式会社IHI)創立者、東京湾汽船会社(現、東海汽船)創立委員・取締役。これに先立ち、東京築地活版製造所(1938年3月17日解散決議)を設立した。
平野富二は活版印刷普及の貢献者、民間洋式造船所の嚆矢、明治産業近代化のパイオニア。

バーナー20180326162657_0000178c9bdb7ed01487055858ec639c66de32017年11月、メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭にあたり{江戸・東京 活版さるく}が実施された。
その折り、株式会社 I H I 豊洲ビル内にある<ものづくり館 アイミューズ>を訪問した。
同館は160年以上にわたり、エンジニアリングの最先端を探求してきた I H I のチャレンジ精神の軌跡を展示する場であるが、現在はきたる4月24日[火]のリニューアルオープンを控えて改修のさなかにある。
ついで創業の地に設けられた<石川島資料館>を訪問し、平野富二と I H I の160年余の歴史を学んだ。
その詳細報告は今夏発行予定の『タイポグラフィ学会誌 11号』に発表予定である。

【関連情報:株式会社 I H I   http://www.ihi.co.jp/ 】{続きを読む …… 花筏

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ13}── 官営時代の長崎製鉄所(その2)

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
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無題
明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。

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古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ

[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

官営時代の長崎製鉄所(その2)

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【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ12}── 官営時代の長崎製鉄所(その1)

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明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
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⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
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幕末の長崎製鉄所全景写真(「ボードイン・コレクション」から)幕末の長崎製鉄所全景写真(「ボードイン・コレクション」から)
『長崎府職員録』(慶応4年8月)01 『長崎府職員録』(慶応4年8月)02 『長崎府職員録』(慶応4年8月)

【展覧会】 萩博物館 萩の鉄道ことはじめ ’17年12月16日─’18年4月8日+日本鉄道の父:井上 勝

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萩博物館 企画展

萩の鉄道ことはじめ  ― 待ちに待ったる鉄道いよいよ開通す―
◯ 開 催 日 : 2017年12月16日[土]-2018年4月8日[日]
◯ 時     間 : 09:00-17:00(入館は16:30まで)
◯ 会     場 : 萩博物館 企画展示室
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日本近代化の象徴である鉄道は萩に何をもたらしたのでしょうか。
「鉄道の父」井上勝をはじめ、草創期の「鉄道技術者」飯田俊徳、
「時刻表創刊者」手塚猛昌など、萩ゆかりの人びとが鉄道をつうじて
近代化に貢献していったことに注目し、萩と鉄道のかかわりを
多角的な視点から紹介します。
【 詳細情報 : 萩博物館
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{ 新塾餘談 }

* 飯田 俊徳(いいだ-としのり、1847-1923)
日本の鉄道の父といわれる井上 勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者。山口県萩市出身。元長州藩士。
萩藩大組飯田家の子として生まれ、幼名吉次郎。藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の松下村塾にまなび、また大村益次郎らに師事する。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。

1867年(慶応3)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学。帰国後工部省鉄道局に入局。
1877年(明治10)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された「工技生養成所」で教鞭を執り、多くの技術者を育て上げる。翌年、東海道本線京都・大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。これは日本人の手で施工された最初の鉄道トンネルである。
その後も東海道本線をはじめとする東海地方・関西地方の数々の鉄道敷設を主導、1890年(明治23)に鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。

* 手塚 猛昌(てづか-たけまさ  1853-1932)
明治-昭和時代前期の実業家。「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。現在の山口県萩市須佐出身。
嘉永6年11月22日生まれ。神職をつとめたのち慶応義塾にまなぶ。明治27年「汽車汽船旅行案内」を発行。星亨(ほし-とおる)らと東京市街鉄道をおこし、39年東洋印刷を設立し社長。明治40年帝国劇場の創設にも参加した。昭和7年3月1日死去。享年80。本姓は岡部。

バーナー井上勝 小学館ライブラリー井 上  勝(いのうえ-まさる 1843-1910)

明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。日本鉄道の父とされる。
長門国(山口県萩市)の長州藩士井上勝行の三男として天保10年(1843)8月1日生まれる。いっとき野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍して井上勝と称した。
長崎や江戸、そして箱館(函館)の武田斐三郎(たけだ-あやさぶろう)の塾で洋学を修めた。

長州五傑/長州ファイブ在英中の長州五傑 前列右から時計回りに紹介
山尾庸三、井上馨、遠藤謹助、井上勝、伊藤博文

職掌は唯クロカネの道作に候
吾が生涯は鐵道を以てはじまり、すでに鐵道を以て老いたり
まさに鐵道を以て死すべきのみ
井 上   勝

1863年(文久3)いわゆる「長州五傑・長州ファイブ」のひとりとして、伊藤俊輔(伊藤博文 ひろぶみ)、井上聞多(井上馨かおる)、山尾庸三(わが国工学の父 1837-1917)、遠藤謹助(近代貨幣制度の導入者・造幣局長 1836-1893)らとともにイギリスに密航、このとき井上勝は二〇歳、養家の姓から野村弥吉と名乗っていた。

英国滞在中はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学群)で鉄道、鉱山技術を学び卒業、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられ、翌1872年鉄道頭専任となり、東京-横浜間(新橋駅-桜木町駅)の鉄道敷設に尽力した。
関西で鉄道建設がはじまると鉄道寮の大阪移転を断行した。外国人技師主導からの自立を目ざし、飯田俊徳をはじめとする日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都-大津間の敷設には、井上自身が技師長となって逢坂山トンネル建設の難工事を乗りこえ、はじめて日本人だけの手で工事を完成した。技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。

また鉄道庁長官として東北線を敷設する際に、広大な荒地を農場に変えようと念願し、岩手県におよそ900万坪の宏大な敷地に「小岩井農場」(現小岩井農牧株式会社 岩手県岩手郡雫石町)を創設した。
この農場の名称は共同創立者三名、日本鉄道会社副社長:小野義眞(おの-ぎしん)、三菱社社長:岩崎彌之助、鉄道庁長官:井上勝の姓の頭文字をとって「小岩井」農場と名づけられた。すなわち小岩井の「井」は井上勝の頭文字の「井」である。
なお「小岩井農場」は宮澤賢治の詩文集『春と修羅』にも「小岩井農場 パート一-九」にかけて印象深く描かれている。

1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。
1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。欧州での鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで1910年8月12日息をひきとる。享年68。
遺言によって、現地で荼毘に付されたのち、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)に埋葬された。ここはJR東海道本線・JR山の手線・京浜急行・東海道新幹線の鉄道線路に近接した場所である。井上 勝、愛称 : オサルの得意やいかにとおもわせる地でもある。
東京駅(丸の内北口付近)に彫刻家:朝倉文夫による銅像があったが、同地区再開発工事中のため撤去されており、現在はみられない。
(追記 : 本稿アップロード寸前、2017年12月07日丸の内広場北西端、オアゾビルと新丸ビルの近くに、井上勝像が10年ぶり再建されたことを夕刊で各紙が報じていた)

【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展{日本工学の父 山尾庸三}

山尾庸三フライヤー(表)[1] 山尾庸三フライヤー(裏)[1]
日本工学の父・山本庸三の人物像に迫る

幕末に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。
本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

【詳細情報 : 萩博物館 】   
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バーナー {新塾餘談}

Yozo_Yamao_01[1]山尾庸三 (やまお-ようぞう 一八三七-一九一七)

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。
文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。
翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。
その後、英国商人のT・グラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察したのち、ロンドン大学で学び、グラスゴーで実習生として造船術を習得した。この時の同行者のなかには、のちの伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。
また明治四年(一八七一)には工部大学校(現東京大学工学部)設置を建白した。当時の日本では「未ダ我国二於テ為スペキエ業ナシ、学校ヲ立テ大ヲ作ルモ何ノ用ヲカ為サン」という反対が強かったという。
この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触も多かった。 印刷局活字系譜修整版その後山尾庸三は宮中顧問官・法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年子爵を叙爵。
また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校 東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。
大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。
[参考文献] 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)
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山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六 長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。 

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科事務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

  • 製鉄所御用掛となった井上聞多(井上馨)の示達に基づき、製鉄所頭取助役の青木休七郎は、長崎府からの食禄を辞退し、製鉄所の経営を独立採算制とし、その収益の中から職員の給料を支払うことにより、職員の改革努力で給料が上がる仕組みを作った。
  • しかし、青木休七郎は、職員の給料を捻出するため、部下の経理担当者と共謀して二重帳簿により製鉄所の収益を計上させた。
  • 頭取役本木昌造はそれに気付いて、内々で調査をしたが、井上聞多に直結する青木一派の勢力が強く、限界を感じて頭取職を辞職した。
  • 代わって頭取となった青木休七郎は、部下の経理担当者を昇格させ、本木一派と目される品川藤十郎と平野富次郎を小菅諸務専任として本局の経営から分離した。
  • 明治二年(一八六九)末、製鉄所職員の給料が無視できない程高くなっていることから、長崎県当局から県職員のレベルに合わせるように指示が出された。
  • 明治三年(一八七〇)五月、民部省の山尾庸三が製鉄所事務総管となった。青木休七郎は、それまで製鉄所兼務で、部下の経理担当者に任せ切りであったため、製鉄所専任を命じられた。
  • 同年六月、青木休七郎は大阪出張大蔵省から呼び出しを受け上阪することになった。これは製鉄所の経理不正を疑われた結果と見られる。
  • 青木頭取不在中の対応として、平野富次郎等が諸事合議して運営することを申し入れ、次いで頭取職として県当局から兼務の形で少属の者二名が派遣された。
  • 同年七月、小菅分局に勤務していた品川藤十郎と平野富次郎が本局に呼び戻され、他の機関方六名と共に兼務頭取との合議制による製鉄所の経営が行われた。
  • 明治三年(一八七〇)秋(九月頃)になって、経理担当の責任者二名が逼塞を命じられ、製鉄所経営陣の刷新が行われた。このとき品川藤十郎は頭取心得、平野富次郎は元締役となった。
  • 同年閏一〇月になって、品川藤十郎が退職すると共に、平野富次郎が長崎県権大属に昇格した。(このとき、頭取にはならず、県職員の頭取兼任者との合議によって製鉄所の運営が行われたらしい。)
  • 明治三年(一八七〇)三月に長崎製鉄所の工部省移管準備として山尾庸三が事務総管となって以来、青木一派の経理不正が疑われるようになり、遂に悪事が露見して製鉄所経理不正の首謀者たちは免職させられ、東京に連行された。
  • 明治四年(一八七一)三月、県営製鉄所の最後の責任者となっていた平野富次郎は責任を取って辞任した。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、五年におよんだ英国留学を終え、すでに新政府の高官であり能吏であった。
いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は、算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。

それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は富二に好感をもったようである。
富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。日本工学会は山尾庸三の設立によるものであり、その会長を三六年間にわたって勤めていた。

また先般開催された<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の「江戸・東京 活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した
DSC_1337 DSC_1333工部大学校時代の山尾庸三は以下のようなことばをのこしている。
おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代工業と産業を興している。

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ

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6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年

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<まえがき> より部分
平野富二は、まだ、平野富次郎と称していた頃の慶応3年(1867)3月から同年12月までのおよそ10ヶ月間、土佐藩に雇われた。土佐藩では、月手当25両7人扶持の待遇で器械方となり、土佐藩所有の蒸気船運行を担当した。
その拠点となったのが、長崎土佐商会で、同年2月に土佐藩が長崎西浜町に開設したばかりであった。

6bbbdb1db947ab88d5124d35a22b83f8[1]「土佐商会跡」碑
長崎路面電車の「西浜町アーケード前」駅の川沿いスペースにたてられている。
その右横に「土佐商会跡」説明板がある。
実際の位置は、この場所から 20m ほど上流の川沿いにあった。
 古谷昌二10月02「夕顔丸」モニュメント
長崎路面電車の西浜町アーケード前駅脇のスペースに建立されている。
「夕顔丸」は通称で、この船中で大政奉還に繋がる「船中八策」が起草された。
幕末維新史の重要な舞台を記念して建立された。

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⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
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furuya07 furuya08

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【長崎県印刷工業組合】 Printing Birth Nagasaki ー 『PBながさき』 2016.9 Vol.93 紹介

ながさき93号09月03日は近代活版印刷の祖 本木昌造の命日です。それを記念して、日本印刷産業連合会では09月を「印刷の月」と定め、各種の周知・啓蒙活動を行っています。
長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会では毎年法要を行っています。

第141回 本木昌造墓参・法要

平成28年9月2日(金)、大光寺において本木昌造先生の墓参・法要が行われました。
午後5時から墓地での焼香を行い、5時30分から本堂において第141回法要が執り行われま

した。
来賓、関連業者、組合員の約40名が参列し、大光寺住職の読経のもと、長崎県印刷工業組合山口善生理事長、本木昌造顕彰会 岩永正人会長、参列者がつぎつぎに焼香を行いました。

山口理事長挨拶、岩永正人会長のあいさつを行った後(要旨は後述)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏に今回修復して印刷が可能となったアルビオン型手引き印刷機の価値・重要性についてお話しいただきました。
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◎ 長崎県印刷工業組合 山口善生理事長挨拶
本木昌造顕彰会は昭和60年に発足いたしましたが、本木昌造の顕彰事業は明治20年代頃から当時の商工会などにより本木昌造をたたえる動きがあったようです。

また、昨年、業界の皆様、またモリサワ様の絶大な支援をいただき復刻した本木活字を鋳造
し、これを用いた印刷体験を昨年の長崎市立図書館、今年6月福岡での九州印刷情報産業展、また、明日長崎市立図書館において業界また地域への広報に青年部を中心に行っていきます。
また、今年は印刷会館の倉庫に眠っていたアルビオン型手引き印刷機の修復を行い、印刷することが可能となりました。
今後とも、本木昌造の功績を長崎の文化遺産また印刷業界に携わる者の基礎として顕彰してまいりますのでよろしくお願いいたします。
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◎ 本木昌造顕彰会 岩永正人会長――本木昌造を支えた人々
今年は長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会にとって記念すべき年となりました。

5月6日-8日の3日間、株式会社朗文堂主催で「Viva la 活版 ばってん長崎」というイベントを長崎県印刷会館で催すことができ、非常に有意義なことでした。
全国から活版印刷の愛好者、研究者、制作者等たくさんの方がお見えになりました。今日も朗文堂の片塩さんがお見えですが、本当にありがとうございました。

 〔平野 富二〕
その時に大きな報告をいたしました。本木昌造を支えた多くの方がいますが、その代表格が平野富二だと思います。本木の陰にかくれ長崎ではあまり注目をあびていないが、その生家を特定いたしました。本木昌造交友者マップにあらわしています。
旧町名 引地町、現在の桜町の長崎県勤労福祉会館です。国立公文書館にある長崎諸役所図にある町使長屋図「矢次」とあるが、平野富二の旧姓矢次家の場所です。
本木が大阪活版製造所を作るときに五代友厚から大きな借金をしたが、この借財を完済したのも平野富二である。印刷業界としても忘れてはならない人です。

 〔西 道仙〕
西道仙という人がいます。眼鏡橋の橋名碑の揮毫も西道仙である。明治時代の文化人であり、長崎の文明開化の先駆者である。ジャーナリストであり、政治家でもあります。明治6年長崎新聞を発行している。その他西海新聞も発行している。

 〔松田源五郎〕
松田源五郎は十八銀行の創始者であるが、当時の政財界をリードしている人である。長崎商工会議所を設立し、初代会頭を務めている。また、長崎新聞の創立にも貢献した人である。経済的に本木昌造を支えた人です。
本木昌造の事業はこういう人たちの応援があってなしえたものであり、そのことも改めて記憶しておきたいものです。
本木昌造交友者マップ.pdf

 〔アルビオン型手引き印刷機の修復〕
長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機の修復ができましたが、明治時代のものであり、印刷業界にとってきわめて大きなニュースです。本日その印刷機で印刷したものを資料として配布しています。福岡の文林堂の山田さんに修復いただきました。本当に有難うございました。
アルビオン型手引き印刷機について

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◎ 修復したアルビオン型手引き印刷機実演
平成28年9月2日(金)14:00からの理事会冒頭に修復したアルビオン型手引き印刷機の実演を行った。印刷機の操作は修復をお願いした㈲文林堂の山田善之氏にお願いした。実演には芸術工学会の大串誠寿氏(福岡市)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏、大石薫氏(東京都)、タイポグラフィ学会 板倉雅宣氏(東京都)もはるばる駆けつけました。
印刷機の由来等について本木昌造顕彰会の岩永正人会長が説明し、同時に山田氏にアルビオン型手引き印刷機の写真を亜鉛版に作成し、印刷してもらいました。

 PBながさき93号(2016.09)

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長崎印刷組合年賀アルビオン上掲の長崎県印刷工業組合『PB ながさき』に紹介された記事は、おおむね <活版 à la carte>2017年01月23日掲載において紹介した。
【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

まことに迂闊なことに、既報の<活版 à la carte・花筏>での紹介は、同組合会報誌『PB ながさき』ほかの記録が、URL上にPDFで公開されていることを知らぬまま記述していた。
ここに 長崎県印刷工業組合 執行部ならびに事務局の皆さまにお詫びすると同時に、長崎県印刷工業組合のURLへリンク設定すると同時に、今後は長崎県印刷工業組合の動向の紹介に注力してまいりたい。
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【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

長崎印刷組合年賀アルビオンうれしい年賀状をいただいた。
既報のとおり、昨二〇一六年九月二日、「本木昌造墓前祭」にあわせ、長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機一号機」が同組合で復旧され、稼動実演をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30-40年ころの製造とみられる百年余も以前の印刷機。

もう一台の「アルビオン型手引き印刷機二号機」、東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が表裏に鋳込まれた印刷機は、明治20年代の製造と推測されるが欠損部品が多い。
ところが一号機の復旧をみて、こちらの二号機にも復旧の動きがあると仄聞する。
近代活字版印刷発祥の地、長崎印刷人の意地と底力を見るおもいがする昨今である。
長崎タイトルresize-627x108[1]DSCN6689-627x470[1] 切りぬき01-627x627[1] 切りぬき02-627x627[1]

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造墓前祭」で復元修復報告と実演 》
長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機 一号機」(大阪・片田製造所製造)、同二号機(天板両面に東京築地活版製造所、大阪活版製造所の銘板が鋳込まれている。推定明治20年代製造)は、その由来、存在意義、価値などの詳細が明らかでないまま、同館三階収蔵庫にいつのころからか放置されていた。

19世紀の終わりのころから、長崎にのこされた本木昌造由来の活字を復元しようとする気運があった。その際収蔵スペースが問題となり、スペース確保のために収蔵庫を整理して、前述の「アルビオン型手引き印刷機」二台を処分して展示室にしようとするという話題がもちあがったことがあった。

若気のいたりであったのかもしれない・・・・・・。
まことに余計なことながら、このうわさをを耳にして、当時の専用ワープロをたたいて、「アルビオン型手引き印刷機」二台の保存と再生をつよく訴えたことがあった。
その専用ワープロのデーターはやつがれの手もとではすでに消滅していたが、長崎の印刷組合で紙媒体でしっかり保管されていた。そして再稼働にあたって、その保管文書をもとに二台の印刷機の由来、存在意義、価値を説明する小冊子をつくりたいとの申し出をいただいた。
大慌てで一部の語句を修整し、資料補強をなしたが、いかんせん時間がなかった。そのため一部に重複もみられるが、その一部を紹介したい。

20160914163731_00001[1]☆      ☆      ☆     ☆

長崎県印刷工業組合所蔵
アルビオン型手引き印刷機

モノとコトの回廊
アルビオン型手引き印刷機とは

「手引き印刷機 Hand press」とは、「手動で操作する印刷機の総称」である。
一般にはグーテンベルクがもちいたと想像される印刷機のかたちを継承したもので、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされる。
そのため厳密には手動式であっても、Salama-21A や テキンなど、印刷版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen press」とは区別されている。

グ-テンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案された木製の「ネジ棒式圧搾機型印刷機 Screw press」であったとされるが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想像の域を出ない。

現存する最古の手引き印刷機としてぱ、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムや、イタリアのパルマ宮殿にあるジャンバティスタ・ボドニ(1740-1813)博物館の木製手引き印刷機の存在が知られている。
またアメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-90)も、木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られている。

グーテンベルクの木製活版印刷機の時代からその後350年ほどは、細部に改良が加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化はなかった。
その後に開発された著名な手引き印刷機としては、「コロンビアン印刷機」、「アルビオン印刷機」、「スミス印刷機」、「ラスペン印刷機」、「ワシントン印刷機」、「八-ガー印刷機」(以上年代順)などがあげられる。

フィギンス社アルビオン写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フイギンズ社による1875年製のアノレビオン型手引き印刷機である(Lingua Florence 所蔵)。
本機は印刷機としての実用面だけでなく、19世紀世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォなどの新工芸運動の影響をうけて、アカンサスなどの植物模様が描かれ、金泥塗装の多用、猫脚の形態などに装飾の工夫がみられる。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランドをあらわす古名(雅称)である。ラテン語の「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレートブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来する。

アノレビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機である。
アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるためのオモリがアメリカの象徴である鷲の姿をしている。

「アノレビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重いオモリにかえて、頭頂部に内蔵されたバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?-1828)によって考案された。
またコープ社の閉鎖後も格段の規制をもうけられなかったために、キャズロン社、フィギンズ社などが、独自の工夫を加えながら大小様様な同型機の製造を続けていた。

産業革命を経た19世紀末の英国では、すでに蒸気機関などの動力による大型印刷機が
商業印刷の主流であったが、アーツ・アンド・クラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスは、手工藝再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン型印刷機をもちいていた。また、石彫家にしてタイポダラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていた。

20160523222018610_0004『Book of Spesimens  Motogi & Hirano』
(平野富二活版製造所 推定明治10年 平野ホール蔵)

わが国でも「アノレビオン型印刷機」とのつきあいはふるく、明治最初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所、江川次之進による江川活版製造所などの数社によって、アノレビオン
型の手引き印刷機が大量につくられていた。
また明治09年、秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も、アルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっている(片塩二朗『秀英体研究』)。

長崎県印刷工業組合所蔵
アフレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされた

2003年07月19日、わが国の印刷人、タイポダラファにとって嬉しいニュースが流れた。
それは長崎県印刷工業組合三階の収藏庫に、国産「アルビオン型手引き印刷機」が二台所
蔵されていることが、朗文堂・片塩二朗によって再発見され、報告されたからである。

そのうちの一台は(以下一号機)、横板部に二つの筋違いの正方形の中に「 K 」のマークがみられ、版盤なども健在で保存状態は比較的よい。
これは南高有家(島原)の「有正舎」の旧蔵品で『長崎印刷百年史』(田栗奎作 長崎県印

刷工業組合 昭和45年11月03日)に写真紹介されていたものである。
201109handpress[1]この一号機を板倉雅宣は『ハンドプレス・手引き印刷機』(朗文堂 p.64)で、同機の「 K 」マークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。

もう一台のアルビオン型手引き印刷機は、元長崎県印刷工業組合相談役:阿津坂実(1915-2015 花筏:タイポグラファ群像008)によると、「九州荷札印刷」の旧藏品であったとする(以下二号機)。
機械主要部のほか圧盤までは現
存しているが、加圧ハンドノレ、版盤、版盤案内レール、チンパン、あんどん蓋などは欠損している。

切りぬき02-627x627[1] 切りぬき01-627x627[1]BmotoMon2[1]二号機に特徴的なのは、目立たないが「テコ Fulcrum」に鋳込まれている「丸 も」のマークである。これは本木昌造の裏紋とされている。
もうひとつは、横板(天板)の両面に鋳込まれている社名と
マークの存在である。
正面(加圧ハンドルのある側)には、

「TYPE FOUNDRY OSAKA TRADE MARK JAPAN」とあり、大阪活版製造所の機械類の
マーク「丸 も に旭日」が鋳込まれている。
裏面には「TYPE FOUNDRY TSUKIJI TRADE MARK  TOKIO」とあり、東京築地活版
製造所の「丸 も にH」(ローマン体)のマークが鋳込まれている。

この両社のマークが制定されたのは1885年(明治18)ころとされている。したがって二号機は明治中期の製造とみられるが、いずれも本木昌造一門につらなる、大阪・谷口黙次/大阪活版製造所、東京・平野富二/東京築地活版製造所のいずれで製造したのかは判明しない。

アルビオンとはイギリスの古名で、「アルビオン・プレス」はイギリスのリチャードー・コープが1820年に発明、同工場のジョン・ホプキンスンが1824年に改良した手引き式の活字版印刷機である。
コープ社が閉鎖されたのちも、格別の保護を主張しなかったために、英国では数社が同型機の製造を継続していた。

わが国では明治初期から平野富二(東京築地活版製造所)、江川活版製造所、金津鉄工所、国友鉄工所、片田鉄工所などによって国産化され、安定した活字版印刷機として評価され、ふつうは単に「手引き印刷機|と呼ばれていた。
また秀英舎(現・大日本印刷)の創業時の印刷機も「アノレビオン・プレス」であったことが、
最近創業時の工場写真が出てきたことで判明している。
いずれにしても同型機の多くは昭和中期まで、一部で校正機などとして長年にわたって用いられていたすぐれた印刷機であった。

活字版印刷術、タイポグラフイとは、活字だけでは成立しない。当然印刷機も必要である。このたび長崎県印刷工業組合から再発見されブこ本機は、平野富二関連では『BOOK
OF SPECIMENS MOTOGI &HIRANO』(活版所平野富二 平野ホール所蔵 推定18フフ)の最終ページに図版で紹介されていたものとほぼ同一のものである。

いずれにしても本機の発見は嬉しいニュースであった。なによりも本木昌造と、その師弟であった平野富二/東京築地活版製造所、谷口黙次/大阪活版製造所が誕生した長崎で
発見されたことを欣快としたい。
そして印刷関連業界、タイポグラフイ界・造船工学界・
機械工学界の研究者がひとしく同機に熱い視線を注いでいる事実を記録しておこう。

《急速に進展した総合技術としての活字版製造術の研究-活字製造だけの研究の陥穽を脱し、関連器械・技術研究への視点 》
長崎県印刷工業組合でのアノレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされたのち、顕
著な変化があった。それはこれまで活字版印刷術研究 ≒ タイポグラフイとはいいながら、ともすると活字だけに偏するかたむきがみられたのにたいし、総合技藝としてのタイポグラフィの視点から、活字と器械研究への視座の転換がみられたことである。

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会 2003年9月30日)は、「本木昌造活字復元プロジェクト」の旗のもとになされ研究であった、同書の執筆者の多
くは、すでに活字製造と関連人物の資料発掘に偏することなく、その研究の視座を大きく
転換していた。

同書刊行の直前、筆者片塩二朗は肺炎から敗血症となって入院中であった。しかしながら不完全ではあったが、「文明開化とタイポグラフイ勃興の記録」をしるし、そのコラムとして「長崎県印刷工業組合所蔵アノレビオン型手引き印刷機 p.291」をのこし、両機の保存と再生・再稼働をつよく希望した。

また、印刷博物館開館三周年記念企画展図録『活字文明開化一本木昌造が築いた近代』(印刷博物館2003年10月6日)では、主要展示に同館が所蔵する三台の「アノレビオン(型)手引き印刷機」を出展し、おおきな関心をよんでいた。

『ハントプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂 2011年9月15日)は、真っ向から手引
き印刷機に取り組み、論述したものである。
著者:板倉雅宣は国内各所に現存している手引

き印刷機を丹念に調査し、その形状・マークの採用時期などから、それぞれの印刷機の製造
元・製造年度に関して詳述している。

それによると、一号機は「K」のマークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。
二号機に関しては、両社のマーク
の採用時期と照らし明治18年(1885)から大阪活版製造所の名前が見られなくなる明治末年までの間のものであろうとしている。

『明治近代産業のノベイオニア-平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 2013年11月22日)においては、ついに長崎で発祥した活版製造業のことを、長崎製鉄所による産業の近代化の事業の一環としてとらえ、その中心に長崎出身の平野富二の事業をおいて、まったくあらたな
視点から、近代産業としての活版製造業にとり組んだ。その成果はおおきく、小指の先ほどもないちいさな活字と、巨大な造船事業が、長崎製鉄所の事業を基盤として誕生し、それがそれぞれ飛躍していった姿を記録し尽くすことに成功した。

《長崎と全国のタイポグラフアの交流の場となった<Viva la 活版ばってん長崎>》
朗文堂サラマ・プレス倶楽部による活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>が長崎県印刷会館を主会場として、2016年5月6-8日に開催された。

東京をぱじめ、全国各地から訪崎した会員は50余名。マイクロバス二台をレンタして開催された{崎陽長崎 活版さるく}には、地元勢の参加があって45名を超えてていた。また会場には熱心な来場者多数を連日お迎えした。

DSCN7279-627x470[1] DSCN6689-627x470[1]事前準備、撤収作業と、一部の会員は五泊にわたる長崎滞在となり、140年余にわたっ
て蓄積された長崎の活版印刷事業の奥深さを実感する機会となった。
その際、同館所蔵の小型プラテン印刷機だけでなく、貴重な「アルビオン型手引き印刷機」もなんとか稼動・実演したいという意見があり、部品の欠損が少ない一号機を復元する試みをした。
ところがなにぶん出張先での修復作業であったブこめ、工具も足りず、部品の補充もでき
ずに稼動実現の成果をあげることはできなかった。

その際、訪崎され<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられていた板倉雅宣氏が詳細に点検され、一号機はやはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、将来の復元稼動を支援することになった。

また長崎県印刷会館の収蔵庫には、本木昌造の逝去後の「新町活版所」を経営し、本木昌造の叙位に際して資料提供にあたった境 賢治(1844-?)がもちいていたとされる「インキロ
ーラー鋳型」かおり、これも主会場に展示されて話題を呼んだ。
こうして2003年から13年あまりの時間が経過していた。

☆      ☆      ☆     ☆

《本木昌造141回忌に際し アルビオン型手引き印刷機が復旧披露》
2016年9月2日[金]開催の「本木昌造141回忌法要」に際し、長崎県印刷工業
組合の力により「アノレビオン型手引き印刷機」一号機が修復・復元され、稼動・実演されるとの情報に接した。とてもうれしく、わが国の印刷産業史に特筆すべき快挙となった。

うかがったところによると、<Viva la 活版 ばってん 長崎>におけるサラマ・プレス倶楽部会員の皆さんの関心の推移をみて、長崎県印刷工業組合もついに「アルビオン型手引き印刷機」(一号機)の本格修復を決断されたとされる。
復元稼動に際しては、福岡市の有限会社文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163336_00002[1] 20160914163336_00001[1] DSCN6742-627x470[1] DSCN6744-627x470[1]

「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館三階で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。
「チンパン Tympan」は<Viva la 活版 ばってん 長崎>会期の前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。

 (有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
 「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」
手引き印刷機のチンパン-627x470[1] DSCN6687-627x470[1]
ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を、片塩が簡単ではあったが解説にあたった。
DSCN6804-627x352[1]
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足/趣意書と平野富二生誕の地確定根拠を発表

05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催され、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。
8ed979955048d3208a8a4c7c96c739b41-1024x175[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画が平野富二の生家跡であることが判明しました。w21_引地町町使長屋 44fb978b853aae4f20258b5d23743605[1] 48632901d887fc7558749f89fba250971[1]平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。
e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二初号平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。

2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

──────────
05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑 建立趣意書

発  行:2016年12月
発行者:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
連絡先:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
      メール  info@hirano-tomiji.jp
事務局:朗 文 堂
     160-0022 東京都新宿区新宿2-4ー9
     電話 03-3352-5070 ファクシミリ 03-3352-5160

☆「平野富二生誕の地」碑建立有志の会は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の開催を契機として自発的に発足しました。
ご関心のあるかたは事務連絡先までご一報いただけたら、「趣意書」と、「平野富二生誕の地 確定根拠」を収録した小冊子を進呈いたします。
また2017年(平成29)早早から専用URLの発足も準備中です。

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 発起人申込書
趣意書

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足

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本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月に、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。

長崎タイトルresize-627x108[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画であることが判明しました。
DSC_0045これを契機として「崎陽長崎 活版さるく」に参加したメンバーの中から、この場所に平野富二の記念碑を建立する要望が出され、現在有志者により具体化のための検討ならびに予備調査が行われています。
────────

平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5長崎での平野富二の知名度は、恩師である本木昌造の陰に隠れて高いとはいえません。しかし平野富二は県営時代の長崎製鉄所において、その付属施設となった小菅修船場の初代責任者として抜擢され、長崎製鉄所の経営に大きく貢献しました。
その収益により立神ドックの掘削を建言して、長崎製鉄所を本格的な造船所とする道を造り上げました。この掘削工事は、当時長崎市内に溢れていた失業者の救済にも役立てられました。  

その貢献が認められて長崎県官吏の資格である権大属に任じられ、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管された時の最後の経営責任者となりました。そのとき平野富二は数え年で26歳でした。
今の三菱長崎造船所の前身は平野富二が貢献した長崎製鉄所であり、長崎造船所立神地区の壁面にある記念碑の銘板には、平野富二の名前が記録されています。  

工部省移管に伴い長崎製鉄所を退職した平野富二は、その後活版製造事業で経営に行き詰まった本木昌造の要望を受けてその経営を引き継ぎ、短期間のうちに活字の品質とコストの問題を解決して、大量生産の技術を完成させて事業を成功に導きました。
のちに平野富二が農商務省に提出した文書には、
「創業の功は専ら本木氏に在りて、改良弘売の功は平野の力多きに居る」
と述べています。

本木昌造の創業した活版製造事業を軌道に乗せるため、平野富二は需要の中心地である東京に拠点を移しました。
当時の公文書や書籍類は、筆写や木版摺りで作成されていました。これらを活版印刷化することによって得られるメリットは大きく、それを宣伝すると共に、輸入に頼っていた活版印刷機の国産化を図りました。
その結果、官公庁や府県が発行する布告・布達類の活版印刷化が促進され、また、近代的新聞の普及に結び付き明治初期における文明開化の実現に大きく貢献しました。

また平野富二は、長崎製鉄所時代に決意した、
「造船事業を興して国家に寄与する」
との志望を実現するべく、1876(明治9)年、海軍省から旧石川島造船所の跡地を借用して、わが国最初の民間造船所を設立しました。
そこでは、河川運行用の小形蒸気船を開発して内陸部への交通運輸の便を開き、海難事故の多かった海上運送で堅牢・安全な洋式船舶を建造、また、民間造船所としてわが国最初の軍艦建造を行いました。

1892年(明治25)年12月3日、平野富二は演説中に発症した脳溢血により病没しました。享年47でした。生前の功績により、
「民設西洋型造船所の嚆矢たり。我邦造船事業の先達として従五位を贈し可然」
として1918(大正7)年に従五位を追贈叙位されました。

このように平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。
2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

【「平野富二生誕の地」碑建立有志の会】 「平野富二生誕の地」確定根拠を発表

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平野富二の生前に発行された東京築地活版製造所編纂『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 並ニ 継業者平野富二氏行状』によると、「平野富二氏、幼名ハ富次郎、長崎ノ士人、矢次豊三郎ノ二男、……、弘化三年丙午八月十四日、長崎ニ於テ生ル。」とある。

平野富二の生家である矢次ヤツギ家の記録「矢次事歴」によると、1874(明治7)年4月に記録された矢次家の住居表示は、第一大区四ノ小区引地町50番地となっている。

矢次家の始祖矢次関右衛門は元大村藩士で、故有って浪人となり長崎に移り住んでいたところ、正徳3年(1713)、空席となった町使役を仰せ付けられた。のちに町使は町司と表記されるようになるが代々世襲して、父豊三郎は矢次家八代目として町司を勤めていた。

町使長屋は、寛文3年(1663)、現在の引地町ヒキヂマチに初めて建てられたが、宝暦5年(1755)に類焼したため建て替えられた。以前は11軒(戸)だったものが13軒(戸)となって、2軒(戸)が追加された。このことは「引地町町使長屋絵図」〈添付資料1  長崎歴史文化博物館所蔵「長崎諸御役場絵図」第一巻〉に記載されている。

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添付資料1
上図:「長崎諸御役場絵図」第一巻、長崎歴史文化博物館所蔵
下図:上図の白枠部分の拡大図
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添付資料1 は焼失後に建て替えられた町使長屋の絵図で、2棟ある長屋の各軒(戸)に入居名が記載されている。絵図で右側に描かれている長屋の右端から二番目に「矢次」と明記されている。

焼失前の町使長屋の絵図も別途存在するが、それには「矢次」の名前はどこにも記載されていない。そのことから、矢次家が引地町の町使長屋に入居したのは、建て替えられて2軒(戸)が追加されたときの1軒(戸)に入居したと見られる。

引地町町使長屋の位置は、明和年間(1765年頃)に作成されたと見られる『長崎惣町絵図』〈添付資料2 長崎歴史文化博物館所蔵〉に「町使屋舗」と表示されている。
くだって嘉永3年(1850)に再板された『長崎明細図』〈添付資料3 長崎勝山町文錦堂刊〉には、その位置に「丁じ長や」と明記されている。嘉永三年(1850)は平野富二が数え年五歳であることから、引地町にある町使長屋が平野富二の生誕の地であると見ることができる。

w21_引地町町使長屋国立公文書館『長崎諸役所絵図』より「引地町町使長屋」

添付資料1と類似の絵図が国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」に含まれている。その絵図を現在の長崎法務局の「国土基本図」に重ね合わせて合成し、「町使屋鋪」と表示した地図〈添付資料4〉が、布袋厚著『復元! 江戸時代の長崎』に掲載されている。
それには現在の勤労福祉会館の建物などに重ね合わせて町使屋舗が描かれており、それによって矢次家の在った場所を確定することができる。 以上

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上図:「長崎惣町絵図」明和年間制作、長崎歴史文化博物館所蔵

下図:上図の白枠部分の拡大図
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上図:「長崎明細図」嘉永3年(1850)再板、長崎勝山町文錦堂刊

下図:上図の白枠部分の拡大図
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◯ 添付資料4
『復元! 江戸時代の長崎』布袋 厚 著から引用

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〈備考〉平野富二生誕の地 位置確定目安
引地町町使長屋は、7戸建てと6戸建ての2棟の長屋が引地町筋の道路に面して建てられており、この2棟の長屋は本大工町筋に抜ける道路によって隔てられている。

添付図2によると、矢次家のある7戸建て長屋が建てられている敷地は、前面道路に沿って長さ27間(当時、長崎では六尺五寸を一間としていたことから、これを換算すると約53.1メートルとなる)と表示されている。1戸当たりの幅は平均約7.6メートルとなる。

焼失前の「町使町絵図」(添付省略)によると、同じ敷地と見られる場所にある6戸建て長屋には、5戸が間口5間、一戸が4間と表示されている。長屋内に路地は設けられていないので、長屋の全長は29間となる。添付図2とは2間の差があるが、その理由は不明。この「町使町絵図」には「矢次」の名前はない。

添付図1では、各戸はすべて間口が3間と表示されており、これとは別に前面道路から裏庭に通じる路地が7戸建て長屋では4本ある。その内、2本の路地には途中に井戸があり、他の2本の路地には井戸はないので同じ幅とは限らない。路地の幅は明記されていないので、長屋全体の長さ(間口)は不明である。

敷地の北東に隣接する窪地に現在建てられているビルの境界が当時と同じとすれば、境界を基点としてほぼ8メートルから15メートルの間が矢次家居所跡、すなわち平野富二生誕の地の目安となる。
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〈参考〉添付資料1の左側添え書き

【原文】
此図元長崎奉行所支配普請方用屋敷所蔵也明治維新後故西道仙翁得本図十襲不措後與故長崎區長金井俊行氏謀模寫本図納諸長崎區役所以便研究者焉 大正二年 月及翁歿余請得本図於其嗣某氏分為弐巻施装訂就明嶽道人有馬祐政先生龍江深浦重光先生求其題字以備座右

巻中所在自政所衛門至陣営望台米廩等凡四拾有弐図(全長約拾弐間、上下弐巻)奉行所幷管掌町悉載焉 實長崎史研究者必須之図也
大正四年孟春下沈      鶴城 福田忠昭識

【現代文】
この図は、元長崎奉行所支配普請方の用屋敷に所蔵されていたものである。明治維新の後、故西道仙翁が本図を得て大切に秘蔵して手放さなかった。後に故長崎区長金井俊行氏と相談して本図を模写し、長崎区役所に納めて研究者の便とした。大正二年 月、西翁が没し、私はその嗣者である某氏から本図を得た。分割して二巻とし、装丁を施し、明嶽道人有馬祐政先生に従って龍江深浦重光先生にその題字を依頼し、座右に備えた。
巻中には、政所・衛門から陣営・望台・米蔵などに至るまでおよそ四十二図(全長約十二間、上下二巻)があり、奉行所と管掌する町がことごとく載せてある。実に、長崎史研究者にとって必須の図である。

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【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 平野富二(矢次富次郎)生家旧在地が判明

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏

【良書紹介】 渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か 十八銀行:松田源五郎

20160520212058459_0001渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営
著者名 |水尾順一  田中宏司  蟻生俊夫 編著
判  型    | 四六判   頁数 260ページ
定   価   | 1,944円(本体1,800円+税)
ISBN 9784496051975          第1刷 2016年05月01日

「論語と算盤」にはその理念が次のように述べられている。 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」 この理念のもと、ともすれば失われてしまいがちな企業の社会的責任について、現在の経営を根本から見直す。
【 詳細 同友館 OnLine
=================== 
{ 新宿餘談 } 長崎タイトル長崎では印刷界でも機械製造界でも、同市出身の平野富二が語られることはほとんどなく、活版印刷なら本木昌造が、機器製造なら岩崎弥太郎だけだと周囲にお伝えしてきた。
今回<Viva la 活版 ばってん 長崎>に各地から訪崎された皆さんは、その実態を眼前にして、やはり驚かれたようであった。

その逆に、三菱重工業長崎造船所(ながせん)の関係者で、懇親会に参加されたかたは、 「今回のみなさんは、平野富二さんに詳しくて、お好きですね~」 といささか呆れていた。

『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』 第11章 「算盤勘定だけでない企業経営/IHI」 の執筆者は、IHI 執行役員の水本伸子氏により、渋沢栄一が手がけた多くの事業の一環として IHI の事績を14ページにわたって、とてもわかりやすく、簡潔にまとめている。 とりわけ注目されたのは、
3. 渋沢栄一の貢献  (2) 最初の株主  であった。 

「有限責任石川島造船所」設立の1889(明治22)年、資本総額は17万5000円(1株100円)株主数は17人で計1750株だった。会社創立時の株主名簿は現存していないが、3年目の株主とその持ち株数が第3次営業報告に載っている(図表11-1)。渋沢、平野、梅浦、西園寺の4名は設立時委員を務めた。

図表11-1 最初の株主と持ち株数 (第3次営業報告書[明治25年]記載)
渋沢  栄一  400株
平野  富二  389株
松田源五郎  270株
田仲  永昌  250株
西園寺公成  150株
梅浦  精一  130株

渋沢栄一はともかく、またのちに社長となった梅浦精一のことは若干の知識があったが、ここに第三位の株主として、長崎十八銀行第二代頭取にして「長崎の渋沢といわれた人物」が登場することに興味をひかれた。 松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影たまたま小社に松田源五郎の外戚で、玄孫にあたられるかた(松尾 巌氏)が来社され、明治10年の松田源五郎の肖像写真(撮影:上野彦馬)を提供していただいた。
解像度は低いが一般公開はこれがはじめてとなるようである。

上野彦馬の台紙にみる「明治10年内国勧業博覧会」、このとき松田源五郎36-7歳。
この博覧会は、前年に新設された十八銀行支配人(のち第二代頭取・衆議院議員)松田源五郎が企画したもので、西南戦争の大混乱のさなかに、長崎諏訪公園のいわゆる丸馬場を会場として開催されたものである。

平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要がまし、渋沢栄一の助言と支援を得て「有限責任石川島造船所」(現 IHI )となった。
その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。

松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

この松田源五郎を〝ふうけもん〟と評した人物、長崎新聞に長く勤務した増永 驍がいた。
〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿を意味する。いずれ詳細を紹介するが、おなじ馬鹿でも、もうすこし愛嬌のある馬鹿のことである。

増永は〝ふうけもん〟の本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)を配し、同名の小説『ふうけもん』をのこした。
たしかに紹介した写真をみても、冷徹な銀行人というより、長崎人に多い面長で、瞳は好奇心にあふれ、わんぱく坊主がそのまま成長したような風貌にもみえる。

また十八銀行は松田源五郎のころから平野富二の活字版製造(東京築地活版製造所)を終始支援し、同社の取締役にも就任している。
のちにも松田精一(十八銀行第五代頭取、衆議院議員)は、東京築地活版製造所の第五代社長も兼任していたほどの密接な関係にあった。

そのためもあり、すこし松田源五郎と十八銀行にこだわってみたいとおもっていた。そこで昨週末本書を読了した。
読者諸賢に、もっともソロバン勘定の苦手なやつがれが、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』をお勧めするゆえんである。

活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>03{崎陽長崎 活版さるく}訪問予定地の小菅修船所(通称:そろばんドック)のいま

小菅修船所resize長崎で<Viva la 活版 ばってん 長崎>のためにご尽力をいただいている宮田和夫様から、桜花爛漫の「小菅修船所(通称:そろばんドック)のいま」(2016年04月01日)写真データをご送付いただきましたのでご紹介いたします。
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<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、05月07日{崎陽長崎 活版さるく}を予定しております。
{崎陽長崎 活版さるく}は、上掲写真の小菅修船所(そろばんドック)をはじめ、若き矢次富次郎、のちの平野富二の活躍のあとや、日本産業近代化に貢献したひとびとの関連史蹟を可能なかぎり辿ります。
{崎陽長崎 活版さるく}へのご参加は事前申し込みが必要です。 adana@robundo.com  までお申し込みください。

【 参考資料/平野富二伝 小菅修船所の経営と立神船渠の開鑿 古谷昌二  p.88より 】
明治2年(1869)3月、(矢次)富次郎24歳のとき、長崎の小菅浦に建設されていた曳揚船渠(パテント・スリップ)が、イギリス人グラバーから引渡を受け、長崎製鉄所の付属となった。その際、富次郎は、小菅修船所の技術担当責任者となった。
小菅修船所では、常時イギリス人4名を使役して、船舶の修理と船渠の賃貸事業を行い、16ヶ月間で純益金1万8千円を得た。

同年9月、長崎製鉄所は本木昌造の頭取辞任に伴う人事異動で、富次郎は機関方から元締役助に昇格した。その時、小菅修船所での経験を元にして、長崎の立神浦に大型ドライドック(乾式船渠)の開鑿を、長崎県知事を経由して民部省に建議した。
すなわち、大々的に造船事業を起こし、日本と中国間を航海する権利と、諸船舶を修理する権利とを掌握し、それによって沈滞気味の長崎港の繁栄を維持しようとするものであった。

異なモノ発見! NHK朝ドラ〝あさが来た〟で一躍人気者に―五代友厚関連鹿児島の金鉱山凡そ百二万坪を販売か 

DSCN6352 DSCN6353朗文堂と世界堂の中間「新緑苑街」の角に古物商が店を設けている。ほとんど従業員の出入りをみたことはないが、その店頭に、五代友厚(通称才助)旧蔵、薩摩三金山のひとつ凡そ百二万坪を販売すると告知している。
五代は「若き薩摩藩士」をひきいて江戸時代末期に英国に密航し、通称『薩摩辞書』の発行につよい関わりをもった。『薩摩辞書』の初版は上海で製造したが、再版を日本国内での製造をめざして大阪活版製造所を開設し、それを請けおった本木昌造一門に再版刊行を委託した。

しかしながら当時の大阪活版製造所の力量では『薩摩辞書』の増刷作業は不可能で、中途で作業を放棄せざるを得なかった。このとき本木は五代から相当の借財を背負ったが、その借財は本木にかわり、のちに平野富二が利息を含めて返済した。
印刷関連ではほどんど知られない人物、五代友厚を成果のないままおって15年ほどになる。これをみると苦笑するしかない。
鹿児島商工会議所前五代友厚立像 DSCN5673 DSCN5682

【会員投稿】 掃苔会新会員/時盛 淳さん、平野家塋域 単独代参参上の記録

DSC_1010東京谷中霊園中央園路に面して建立されているおおきな石碑が、平野富二の十三回忌に際して、株式会社東京築地活版製造所有志、株式会社東京石川島造船所有志の拠金による「平野富二君之碑」(甲01号01側)である。
篆額の揮毫は榎本武揚、碑文の撰幷書は福地源一郎(福地櫻痴)による。
この項の詳細は古谷昌二『平野富二伝』(p.810 – 18)を参照願いたい。

DSC_1012 DSC_1013 DSC_1014 平野富二の墓所は東京都谷中霊園の東北部、乙11号14側にある。
中央の平野富二の墓石の表面には、吉田晩稼の筆になる「平野富二之墓」が陰刻され、向かって右側面には、法名の「修善院廣徳雪江居士」が刻まれている。
吉田晩稼(1830-1907)は長崎興善町うまれ。陸軍・海軍に奉職したのち辞して書芸をもっぱらとした。大楷書を得意とし、筆力雄勁にして並ぶものなしと評された。また本木昌造とは歌友であり、東京九段の靖国神社の標柱、大阪四天王寺の本木昌造像の台座の書も晩稼による。
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{新塾餘談}
「平野富二墓」は太平洋戦争の際、上野駅周辺に無数に投下された焼夷弾をあびており、焼損が見られるのは残念である。平野家一門には再建の議論もあったが、この墓石は本来浅草雷門再建のために切りだされた房州の小松石をもちいた由緒あるものであり、また吉田晩稼の書の典型例としてやつがれは再建には反対してきた。
それでも近年碑面にも剥落がみられるようになり危惧をいだいている。なにかよい保存法があればご提案いただけたら幸甚である。
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DSC_1036 DSC_1024 DSC_1025平野家塋域はいってすぐ左脇に法名「妙清古登童尼」と陰刻されたちいさな墓標がある。
裏面には「平野富二長女 古登子 享年三歳 明治八年七月七日歿 大正二年三月再建」とある。
明治05-08年という、もっとも平野富二が多忙をきわめた時期にうまれ、そして夭逝した「長女 古登子 琴 コト」の墓である。戸籍が未整備な時代だったため、明治五年の何月のうまれかは記録にない。

塋域右奥には「平野鶴類墓」がある。のちに平野家を継承した平野津類は長女古登の逝去から三ヶ月後の1875年(明治08)09月30日に誕生した。明治12年ころに編成された京橋区戸籍記録には長女:古登の記録はなく、二女津類が「長女」として記録されている。
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平野津類は青森県出身の勇造(旧姓境、のち離別)と結婚して嫡孫:平野義太郎が1897年(明治30)03月05日に誕生して、平野家第三代を継承した。平野義太郎は高名な法学者であったが、その妻嘉智子とともに、塋域右奥にねむる。

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【 参考資料 : 花筏  平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連 】

朗文堂ちいさな勉強会<平野富二の会>講師:古谷昌二さんで連続九回の講座を終了。さらなるステージへ

DSCN0374uu DSCN0371uu2013年の暮れ、古谷昌二編著 『 明治産業近代化のパイオニア-平野富二伝-考察と補遺 』 が刊行され、日展会館で講演 ・ 展示もおこなわれた。
その後一年半ほどが経過し、この間、同書に触発された平野富二関連の研究が各方面で進行し、また古谷さんも、各種の学会 ・ 団体 ・ 大学などでの講演をかさねられた。
『平野展』ポスターs《 参加者にも、主催者にも負担がすくない気軽で本気な「ちいさな勉強会」再開 》
もともと朗文堂には「ちいさな勉強会」というシステムがあり、少人数での学習をかさねていた。それが近年では講演会場の増加や、簡便なネット情報が増加したために、いつのまにか一応仕掛けがおおがかりな<講演会>の開催が増えていた。これはやはり疲労を呼んだ。

このころ、古谷昌二編著 『 明治産業近代化のパイオニア――平野富二伝――考察と補遺 』 の読者のあいだかから、より深くこのテーマに迫りたいという声が聞かれるようになった。
そのため今回は「ちいさな勉強会」の原点にたちかえり、著者・古谷昌二さんをかこみ、多彩にして未解明の点もまだ多多ある平野富二の業績を、古谷さんの講義によって紐といていただき、その後、参加者のみなさんとの懇談を設定した。
したがってこの「ちいさな勉強会」の名称を<平野富二の会>とした
(下掲平野富二関連画像:平野家蔵)。

平野富二 平野富二と娘たち_トリミング会場は朗文堂4F-B室をもちいて、最大10名ほどの少人数で、毎月一回、第三週目の水曜日の開催とし、2015年03月18日-11月18日までの都合九回の連続講座「ちいさな勉強会」ワンクールを終了した。
朗文堂ちいさな勉強会は、次へのステージへのさらなるあゆみをはじめた。