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活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>03{崎陽長崎 活版さるく}訪問予定地の小菅修船所(通称:そろばんドック)のいま

小菅修船所resize長崎で<Viva la 活版 ばってん 長崎>のためにご尽力をいただいている宮田和夫様から、桜花爛漫の「小菅修船所(通称:そろばんドック)のいま」(2016年04月01日)写真データをご送付いただきましたのでご紹介いたします。
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<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、05月07日{崎陽長崎 活版さるく}を予定しております。
{崎陽長崎 活版さるく}は、上掲写真の小菅修船所(そろばんドック)をはじめ、若き矢次富次郎、のちの平野富二の活躍のあとや、日本産業近代化に貢献したひとびとの関連史蹟を可能なかぎり辿ります。
{崎陽長崎 活版さるく}へのご参加は事前申し込みが必要です。 adana@robundo.com  までお申し込みください。

【 参考資料/平野富二伝 小菅修船所の経営と立神船渠の開鑿 古谷昌二  p.88より 】
明治2年(1869)3月、(矢次)富次郎24歳のとき、長崎の小菅浦に建設されていた曳揚船渠(パテント・スリップ)が、イギリス人グラバーから引渡を受け、長崎製鉄所の付属となった。その際、富次郎は、小菅修船所の技術担当責任者となった。
小菅修船所では、常時イギリス人4名を使役して、船舶の修理と船渠の賃貸事業を行い、16ヶ月間で純益金1万8千円を得た。

同年9月、長崎製鉄所は本木昌造の頭取辞任に伴う人事異動で、富次郎は機関方から元締役助に昇格した。その時、小菅修船所での経験を元にして、長崎の立神浦に大型ドライドック(乾式船渠)の開鑿を、長崎県知事を経由して民部省に建議した。
すなわち、大々的に造船事業を起こし、日本と中国間を航海する権利と、諸船舶を修理する権利とを掌握し、それによって沈滞気味の長崎港の繁栄を維持しようとするものであった。