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【長崎県印刷工業組合】 機関誌〝PB ながさき〟本木昌造関連記事抜粋を刊行

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長崎県印刷工業組合(理事長:山口善生)では、1985年に本木昌造顕彰会(会長:岩永正人)を設立して、本木昌造顕彰活動を展開してきました。
その努力があって本木昌造墓碑が長崎市指定文化財に登録され、例年本木昌造命日の9月3日に、関係者とともに菩提寺:大光寺において法要し、先人の遺徳を偲んできました。

それらの記録は、同組合の機関誌〝PBながさき〟において詳細に報告されてきました。
このたびそれらの関連記事のうち、1986年7月-2017年3月号までの30余年にわたる記事を抜粋して冊子本としてまとめられました。
株式会社モリサワ:池田暢氏と、長崎県印刷工業組合のご好意で少量をおわけいただきました。同冊子より数ページを抜粋して紹介し、また別途 <花筏>に PDF データー も添付しましたので、関心のあるかたは小社で閲覧いただくか、長崎県印刷工業組合 事務局(電話:045-824-2508)にお問い合わせください。
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20170922113000_00001 20170922113000_00003 20170922113000_00005 20170922113000_00006 池原香穉碑の前で 山本隆太郎・阿津坂実・斉藤喜徳の各氏{新宿餘談}
〝PBながさき〟Vol.22  1999.9 の片隅に懐かしい写真をみつけた。
このときは「本木昌造活字復元プロジェクト」に先だって、斯界の長老が訪崎して、諏訪公園噴水広場を訪問したときのものである。この写真から18年ほどが経過し、お三方とも黄泉に遊ぶひととなられた。

写真左の山本隆太郎氏は、印刷学会出版部に長らく在籍して、同社の歴史にひとつの時代を築かれ、また社業はもとより、いまなお『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科辞典』(平凡社)などの「印刷関連項目」は、ほとんどすべてが同氏の署名記事となっている。

ついでながら、両書の「医学史関連項目」はほとんど大鳥蘭三郎氏(オランダ・ハーグ市うまれ、慶応義塾大学医学部卒・同大教授 1908-96)の署名記事である。
同氏は幕末から明治初期の政治家/大鳥圭介の嫡孫で、またやつがれのオヤジの親友でもあった。夏休みにはしばしば信州飯山の禅寺 : 正受庵に滞在され、夜になると寺を脱出して、下戸のオヤジと「般若湯」を交わしていた。

写真中央の阿津坂実氏は、長崎県印刷工業組合の事務方を長年にわたって担い、後進の面倒をよく見ておられたかたであった。また小社に活字版印刷の復興をめざして「アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部」が発足した際には、長崎から駆けつけられて応援していただいた。同氏は タイポグラフィ学会 第三回本木昌造賞 を受賞されている。

写真右の斉藤喜徳 ヨシノリ氏は、圭角の無い人柄で、もっぱら喜徳 キトクさんと愛称されて東京都中央区に〝斉藤正文堂〟を営んで、欧文端物印刷とカメラ撮影をこよなく愛された。

このお三方の謦咳に接することは多かったが、18年後のいまは、「年年歳歳花相似たり 歳歳年年ひと同じからず」のおもいを強くするばかりである。

【イベント報告】 としょかん de 活版印刷─本木昌造からのおくりもの 長崎県印刷工業組合×長崎市立図書館

無題
としょかん de 活版印刷――本木昌造からのおくりもの

2017年9月9日[土] 10:00-17:00  終了企画
会場 : 長崎市立図書館 多目的ホール
長崎県印刷工業組合 × 長崎市立図書館  共催/本木昌造顕彰会 後援
  
長崎01 長崎02 長崎03去る9月9日[土]、長崎県印刷工業組合 青年部を中心に、会場を長崎市立図書館 多目的ホールで、<としょかん de 活版印刷――本木昌造からのおくりもの>が開催されました。

さすがに近代活字版印刷術発祥の地を誇る長崎とあって、この会場の地は、江戸期は「唐通事会所」で、明治最初期には「長崎製鉄所付属 活版伝習所」が開設された場所です。
その後はながらく「興善町小学校、新興善小学校」がおかれていましたが、2008(平成20)年に長崎市立図書館が開館しました。
[ 協力 : 長崎県印刷工業組合事務局 ]
長崎タイトルresize-627x108[1] w11_唐通事会所 IMG_3880 IMG_3879

【唐通事会所跡】 現:長崎市興善町
本興善町に置かれた唐通事役所の跡。通事と記し、阿蘭陀通詞と区別することが多い。
唐通事は通訳業務だけでなく、貿易の枢機に参画する日本側の役人であり、また海外情報の聴取や異文化の導入などでも重要な役割を担った。
その役料は町年寄に次ぎ、唐貿易がオランダ貿易の約二倍近いため、阿蘭陀通詞より唐通事のほうが重きをなしたとされる。

唐通事は一六〇三(慶長八)年に長崎奉行が任命した馮六(平野氏の祖)以来、長崎在住の潁川・彭城・林・何・呉・陽・神代・東海ら、四〇余姓のすべてが有力明人とその後裔で、大明人としての意識をもっていた。
通訳業務のほか、諸法令の伝達と執行、貿易品の評価や日本側役人としての取引折衝、外国人や出入り商人の管理・統制などにもあたる広い業務内容であった。

はじめ大通事・小通事・稽古通事の三段階で、一七〇八(宝永五)年当時は、風説定役一・目付二・大通事四・小通事五が定員で、ほか稽古通事一二がいたが(「諸役人役料高並勤方発端年号等」長崎市立博物館蔵)、享保(一七一六―三六)以降これら各職に過人・並・格・見習などの職を設け、上席の頭取・諸立合・御用通事を設定した。
唐通事は一八六七(慶応三)年の解散まで、延べ一千六四四人(実数八二六人)を数えた。

役所は年番の唐大通事宅を充てたが、一七六二(宝暦一二)年糸蔵跡に唐通事会所を開設、敷地は一八四坪(長崎市中明細帳)。長崎諸役所絵図(国立公文書館・内閣文庫旧蔵)では「唐通事会所並貫銀道蔵」として総坪数二五六坪。
一八六九(明治二)年 本木昌造がここに「長崎製鉄所付属活版伝習所」を設立ひらいた。
参考:『日本歴史地名大系』(平凡社)

Viva la 活版 ばってん 長崎 文字壹凜Summary

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

長崎印刷組合年賀アルビオンうれしい年賀状をいただいた。
既報のとおり、昨二〇一六年九月二日、「本木昌造墓前祭」にあわせ、長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機一号機」が同組合で復旧され、稼動実演をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30-40年ころの製造とみられる百年余も以前の印刷機。

もう一台の「アルビオン型手引き印刷機二号機」、東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が表裏に鋳込まれた印刷機は、明治20年代の製造と推測されるが欠損部品が多い。
ところが一号機の復旧をみて、こちらの二号機にも復旧の動きがあると仄聞する。
近代活字版印刷発祥の地、長崎印刷人の意地と底力を見るおもいがする昨今である。
長崎タイトルresize-627x108[1]DSCN6689-627x470[1] 切りぬき01-627x627[1] 切りぬき02-627x627[1]

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造墓前祭」で復元修復報告と実演 》
長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機 一号機」(大阪・片田製造所製造)、同二号機(天板両面に東京築地活版製造所、大阪活版製造所の銘板が鋳込まれている。推定明治20年代製造)は、その由来、存在意義、価値などの詳細が明らかでないまま、同館三階収蔵庫にいつのころからか放置されていた。

19世紀の終わりのころから、長崎にのこされた本木昌造由来の活字を復元しようとする気運があった。その際収蔵スペースが問題となり、スペース確保のために収蔵庫を整理して、前述の「アルビオン型手引き印刷機」二台を処分して展示室にしようとするという話題がもちあがったことがあった。

若気のいたりであったのかもしれない・・・・・・。
まことに余計なことながら、このうわさをを耳にして、当時の専用ワープロをたたいて、「アルビオン型手引き印刷機」二台の保存と再生をつよく訴えたことがあった。
その専用ワープロのデーターはやつがれの手もとではすでに消滅していたが、長崎の印刷組合で紙媒体でしっかり保管されていた。そして再稼働にあたって、その保管文書をもとに二台の印刷機の由来、存在意義、価値を説明する小冊子をつくりたいとの申し出をいただいた。
大慌てで一部の語句を修整し、資料補強をなしたが、いかんせん時間がなかった。そのため一部に重複もみられるが、その一部を紹介したい。

20160914163731_00001[1]☆      ☆      ☆     ☆

長崎県印刷工業組合所蔵
アルビオン型手引き印刷機

モノとコトの回廊
アルビオン型手引き印刷機とは

「手引き印刷機 Hand press」とは、「手動で操作する印刷機の総称」である。
一般にはグーテンベルクがもちいたと想像される印刷機のかたちを継承したもので、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされる。
そのため厳密には手動式であっても、Salama-21A や テキンなど、印刷版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen press」とは区別されている。

グ-テンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案された木製の「ネジ棒式圧搾機型印刷機 Screw press」であったとされるが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想像の域を出ない。

現存する最古の手引き印刷機としてぱ、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムや、イタリアのパルマ宮殿にあるジャンバティスタ・ボドニ(1740-1813)博物館の木製手引き印刷機の存在が知られている。
またアメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-90)も、木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られている。

グーテンベルクの木製活版印刷機の時代からその後350年ほどは、細部に改良が加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化はなかった。
その後に開発された著名な手引き印刷機としては、「コロンビアン印刷機」、「アルビオン印刷機」、「スミス印刷機」、「ラスペン印刷機」、「ワシントン印刷機」、「八-ガー印刷機」(以上年代順)などがあげられる。

フィギンス社アルビオン写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フイギンズ社による1875年製のアノレビオン型手引き印刷機である(Lingua Florence 所蔵)。
本機は印刷機としての実用面だけでなく、19世紀世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォなどの新工芸運動の影響をうけて、アカンサスなどの植物模様が描かれ、金泥塗装の多用、猫脚の形態などに装飾の工夫がみられる。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランドをあらわす古名(雅称)である。ラテン語の「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレートブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来する。

アノレビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機である。
アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるためのオモリがアメリカの象徴である鷲の姿をしている。

「アノレビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重いオモリにかえて、頭頂部に内蔵されたバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?-1828)によって考案された。
またコープ社の閉鎖後も格段の規制をもうけられなかったために、キャズロン社、フィギンズ社などが、独自の工夫を加えながら大小様様な同型機の製造を続けていた。

産業革命を経た19世紀末の英国では、すでに蒸気機関などの動力による大型印刷機が
商業印刷の主流であったが、アーツ・アンド・クラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスは、手工藝再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン型印刷機をもちいていた。また、石彫家にしてタイポダラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていた。

20160523222018610_0004『Book of Spesimens  Motogi & Hirano』
(平野富二活版製造所 推定明治10年 平野ホール蔵)

わが国でも「アノレビオン型印刷機」とのつきあいはふるく、明治最初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所、江川次之進による江川活版製造所などの数社によって、アノレビオン
型の手引き印刷機が大量につくられていた。
また明治09年、秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も、アルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっている(片塩二朗『秀英体研究』)。

長崎県印刷工業組合所蔵
アフレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされた

2003年07月19日、わが国の印刷人、タイポダラファにとって嬉しいニュースが流れた。
それは長崎県印刷工業組合三階の収藏庫に、国産「アルビオン型手引き印刷機」が二台所
蔵されていることが、朗文堂・片塩二朗によって再発見され、報告されたからである。

そのうちの一台は(以下一号機)、横板部に二つの筋違いの正方形の中に「 K 」のマークがみられ、版盤なども健在で保存状態は比較的よい。
これは南高有家(島原)の「有正舎」の旧蔵品で『長崎印刷百年史』(田栗奎作 長崎県印

刷工業組合 昭和45年11月03日)に写真紹介されていたものである。
201109handpress[1]この一号機を板倉雅宣は『ハンドプレス・手引き印刷機』(朗文堂 p.64)で、同機の「 K 」マークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。

もう一台のアルビオン型手引き印刷機は、元長崎県印刷工業組合相談役:阿津坂実(1915-2015 花筏:タイポグラファ群像008)によると、「九州荷札印刷」の旧藏品であったとする(以下二号機)。
機械主要部のほか圧盤までは現
存しているが、加圧ハンドノレ、版盤、版盤案内レール、チンパン、あんどん蓋などは欠損している。

切りぬき02-627x627[1] 切りぬき01-627x627[1]BmotoMon2[1]二号機に特徴的なのは、目立たないが「テコ Fulcrum」に鋳込まれている「丸 も」のマークである。これは本木昌造の裏紋とされている。
もうひとつは、横板(天板)の両面に鋳込まれている社名と
マークの存在である。
正面(加圧ハンドルのある側)には、

「TYPE FOUNDRY OSAKA TRADE MARK JAPAN」とあり、大阪活版製造所の機械類の
マーク「丸 も に旭日」が鋳込まれている。
裏面には「TYPE FOUNDRY TSUKIJI TRADE MARK  TOKIO」とあり、東京築地活版
製造所の「丸 も にH」(ローマン体)のマークが鋳込まれている。

この両社のマークが制定されたのは1885年(明治18)ころとされている。したがって二号機は明治中期の製造とみられるが、いずれも本木昌造一門につらなる、大阪・谷口黙次/大阪活版製造所、東京・平野富二/東京築地活版製造所のいずれで製造したのかは判明しない。

アルビオンとはイギリスの古名で、「アルビオン・プレス」はイギリスのリチャードー・コープが1820年に発明、同工場のジョン・ホプキンスンが1824年に改良した手引き式の活字版印刷機である。
コープ社が閉鎖されたのちも、格別の保護を主張しなかったために、英国では数社が同型機の製造を継続していた。

わが国では明治初期から平野富二(東京築地活版製造所)、江川活版製造所、金津鉄工所、国友鉄工所、片田鉄工所などによって国産化され、安定した活字版印刷機として評価され、ふつうは単に「手引き印刷機|と呼ばれていた。
また秀英舎(現・大日本印刷)の創業時の印刷機も「アノレビオン・プレス」であったことが、
最近創業時の工場写真が出てきたことで判明している。
いずれにしても同型機の多くは昭和中期まで、一部で校正機などとして長年にわたって用いられていたすぐれた印刷機であった。

活字版印刷術、タイポグラフイとは、活字だけでは成立しない。当然印刷機も必要である。このたび長崎県印刷工業組合から再発見されブこ本機は、平野富二関連では『BOOK
OF SPECIMENS MOTOGI &HIRANO』(活版所平野富二 平野ホール所蔵 推定18フフ)の最終ページに図版で紹介されていたものとほぼ同一のものである。

いずれにしても本機の発見は嬉しいニュースであった。なによりも本木昌造と、その師弟であった平野富二/東京築地活版製造所、谷口黙次/大阪活版製造所が誕生した長崎で
発見されたことを欣快としたい。
そして印刷関連業界、タイポグラフイ界・造船工学界・
機械工学界の研究者がひとしく同機に熱い視線を注いでいる事実を記録しておこう。

《急速に進展した総合技術としての活字版製造術の研究-活字製造だけの研究の陥穽を脱し、関連器械・技術研究への視点 》
長崎県印刷工業組合でのアノレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされたのち、顕
著な変化があった。それはこれまで活字版印刷術研究 ≒ タイポグラフイとはいいながら、ともすると活字だけに偏するかたむきがみられたのにたいし、総合技藝としてのタイポグラフィの視点から、活字と器械研究への視座の転換がみられたことである。

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会 2003年9月30日)は、「本木昌造活字復元プロジェクト」の旗のもとになされ研究であった、同書の執筆者の多
くは、すでに活字製造と関連人物の資料発掘に偏することなく、その研究の視座を大きく
転換していた。

同書刊行の直前、筆者片塩二朗は肺炎から敗血症となって入院中であった。しかしながら不完全ではあったが、「文明開化とタイポグラフイ勃興の記録」をしるし、そのコラムとして「長崎県印刷工業組合所蔵アノレビオン型手引き印刷機 p.291」をのこし、両機の保存と再生・再稼働をつよく希望した。

また、印刷博物館開館三周年記念企画展図録『活字文明開化一本木昌造が築いた近代』(印刷博物館2003年10月6日)では、主要展示に同館が所蔵する三台の「アノレビオン(型)手引き印刷機」を出展し、おおきな関心をよんでいた。

『ハントプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂 2011年9月15日)は、真っ向から手引
き印刷機に取り組み、論述したものである。
著者:板倉雅宣は国内各所に現存している手引

き印刷機を丹念に調査し、その形状・マークの採用時期などから、それぞれの印刷機の製造
元・製造年度に関して詳述している。

それによると、一号機は「K」のマークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。
二号機に関しては、両社のマーク
の採用時期と照らし明治18年(1885)から大阪活版製造所の名前が見られなくなる明治末年までの間のものであろうとしている。

『明治近代産業のノベイオニア-平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 2013年11月22日)においては、ついに長崎で発祥した活版製造業のことを、長崎製鉄所による産業の近代化の事業の一環としてとらえ、その中心に長崎出身の平野富二の事業をおいて、まったくあらたな
視点から、近代産業としての活版製造業にとり組んだ。その成果はおおきく、小指の先ほどもないちいさな活字と、巨大な造船事業が、長崎製鉄所の事業を基盤として誕生し、それがそれぞれ飛躍していった姿を記録し尽くすことに成功した。

《長崎と全国のタイポグラフアの交流の場となった<Viva la 活版ばってん長崎>》
朗文堂サラマ・プレス倶楽部による活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>が長崎県印刷会館を主会場として、2016年5月6-8日に開催された。

東京をぱじめ、全国各地から訪崎した会員は50余名。マイクロバス二台をレンタして開催された{崎陽長崎 活版さるく}には、地元勢の参加があって45名を超えてていた。また会場には熱心な来場者多数を連日お迎えした。

DSCN7279-627x470[1] DSCN6689-627x470[1]事前準備、撤収作業と、一部の会員は五泊にわたる長崎滞在となり、140年余にわたっ
て蓄積された長崎の活版印刷事業の奥深さを実感する機会となった。
その際、同館所蔵の小型プラテン印刷機だけでなく、貴重な「アルビオン型手引き印刷機」もなんとか稼動・実演したいという意見があり、部品の欠損が少ない一号機を復元する試みをした。
ところがなにぶん出張先での修復作業であったブこめ、工具も足りず、部品の補充もでき
ずに稼動実現の成果をあげることはできなかった。

その際、訪崎され<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられていた板倉雅宣氏が詳細に点検され、一号機はやはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、将来の復元稼動を支援することになった。

また長崎県印刷会館の収蔵庫には、本木昌造の逝去後の「新町活版所」を経営し、本木昌造の叙位に際して資料提供にあたった境 賢治(1844-?)がもちいていたとされる「インキロ
ーラー鋳型」かおり、これも主会場に展示されて話題を呼んだ。
こうして2003年から13年あまりの時間が経過していた。

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《本木昌造141回忌に際し アルビオン型手引き印刷機が復旧披露》
2016年9月2日[金]開催の「本木昌造141回忌法要」に際し、長崎県印刷工業
組合の力により「アノレビオン型手引き印刷機」一号機が修復・復元され、稼動・実演されるとの情報に接した。とてもうれしく、わが国の印刷産業史に特筆すべき快挙となった。

うかがったところによると、<Viva la 活版 ばってん 長崎>におけるサラマ・プレス倶楽部会員の皆さんの関心の推移をみて、長崎県印刷工業組合もついに「アルビオン型手引き印刷機」(一号機)の本格修復を決断されたとされる。
復元稼動に際しては、福岡市の有限会社文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163336_00002[1] 20160914163336_00001[1] DSCN6742-627x470[1] DSCN6744-627x470[1]

「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館三階で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。
「チンパン Tympan」は<Viva la 活版 ばってん 長崎>会期の前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。

 (有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
 「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」
手引き印刷機のチンパン-627x470[1] DSCN6687-627x470[1]
ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を、片塩が簡単ではあったが解説にあたった。
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{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 16】 長崎のアルビオン型手引き印刷機が復旧 長崎活版さるく 思案橋横丁ぢどりや三昧

長崎バーナー

1030963 1030946 10309502-1-49043[1]{Viva la 活版 ばってん 長崎}は、近代機械産業発祥の地、それも140年余の歴史を刻んだ活版印刷にはじまる印刷産業の中核地・長崎県印刷会館を主会場として開催された。
そのため、地元長崎の印刷人だけでなく、ひろく全国から長崎に結集した活版印刷実践者・研究者とのよき交流の場となった。
ばってん長崎_表 プリント全国各地から長崎を訪問されたかたは50余名。それに地元長崎の印刷人と、テレビや新聞報道によって長崎県印刷会館に来場された一般のお客さまはおおきをかぞえた。
このイベントに際し、会場設営・会期三日間・会場撤収と、十数名のアダナ・プレス倶楽部会員と、新宿私塾修了生の皆さんにご協力いただいた。
また創立十周年を期して特別参加された「タイポグラフィ学会」の皆さんにも全面的なご協力をいただいた。

あれから四ヶ月あまりの時間が経過したが、訪崎された皆さんは、長崎で収集したあまりに膨大な資料や写真の整理が追いつかないとされるかたもおられ、いまだにうれしい悲鳴も聞こえるいまである。
それは主催者 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部もまったく同様で、あまりにも多くの知見と資料にかこまれ、またあらたに誕生した長崎の活版印刷術を守もろうとされるおおきな人の輪、皆さんとの交換に追われる日々をすごしている。
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《 Viva la 活版 ばってん 長崎 主会場 : 出島町 と 宿泊所 : 新地周辺 》
主会場は長崎市出島町の「長崎県印刷工業組合 長崎県印刷会館」であったので、県外から参加されたみなさんは、そこから徒歩でもせいぜい5-6分、会場至近の「新地地区」のホテル五ヵ所にそれぞれ滞在されていた。
この出島と新地は、現在では埋め立てがすすんで境界が明確ではないが、下掲図でみると、右側の扇形の築島が「出島」であり、左方の矩形の築島が「新地」であった。
4-1-49076 長崎諸役所絵図8 上図) 江戸時代に描かれた長崎港出島周辺の絵図。半円形の樹木が茂った場所は、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)。
その前に半円状にひろがる民家は、出島御用をつとめた町人らが居住した江戸町。幕末の「海軍伝習所」は長崎奉行所西役所に置かれた施設であった。

長崎県印刷工業組合・印刷会館は、出島左先端部に設けられた「牛小屋・豚小屋」の位置と、「新地」の中間部のあたりにあたる。いまはすっかり埋め立てられているが、市電は印刷会館の直前を出島海側跡(出島通り)に添うように、湾曲しながら走行している。
長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側中図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「出嶋 総坪数三千九百六十九坪」。
出島右先端部は「通詞部屋  七間五間」である。出島内の建物は多くが二階建てであったが、オランダ通詞の詰め所であった「通詞部屋」も二階建てであった可能性がたかい。
そのほかにも町役人 乙名 オトナ 詰め所が二箇所あり、また番人・料理人や身のまわりの世話をする日本人が出島の内部にも相当数、日中のみ滞在し、一部は居住もしていた。
料理人のなかには退役ののち、長崎町内で「南蛮料理」をひろめたものもいたとされる(長崎史談会顧問:宮川雅一氏談)。

長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側長崎諸役所絵図9上図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「新地荷蔵 幷 御米蔵 総坪数三千八百六十坪」。出島左方海中の矩形の敷地。
中国からの船舶(唐船)が入港すると、小型舟艇で海岸の倉庫に積荷を搬入していたが、元禄11年(1698)の大火で焼失した。
そのため「俵物」などの貿易用荷物の搬入と運び出しの便を図り、荷物を火災や盗難から守り、また密貿易を防ぐために、元禄15年(1702)に海岸を埋め立てて築島をつくり、そこにたくさんの蔵所(倉庫)を建て、「新地荷蔵」と称した。

幕末から明治初期になると唐人屋敷(最盛時九千三百六十三坪)が廃止されたので、唐人屋敷に在住していた中国人の一部がこの新地に移り住み、今では中国料理店や中国産の土産物店が軒を並べ、長崎独特の中国人街を形成している。

《 5月5日[木]設営日 数名が前夜最終便で長崎入り。早朝から展示設営開始 》
イベント前日、「先乗り班」として長崎新地地区のホテルに分宿していた会員数名が、続続と長崎県印刷工業組合・印刷会館の三階主会場に集結した。
ほとんどのかたはサラマ・プレス倶楽部・活版カレッジ修了生であったが、創立10周年で特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんの姿も多かった。また心づよい援軍として長崎県印刷工業組合の会員も参加されていた。

<Viva la 活版 ばってん 長崎>で使用した小型活版印刷機は、もっぱら整備と注油・清拭をかねて、長崎県印刷工業組合所蔵の機械をもちいた。
その設置、試運転、展示物の配置などは、三階:横島さん・石田さん・小酒井さん・古谷さん・平野さん・真田さん・須田さん・加久本さんらのベテラン会員の手で順調に展開された。

1-7-50052-06.jpg一階特設会場には、タイポグラフィ学会の展示と、懇話室 兼 休憩室がもうけられ、その設営は春田さん・小酒井さんを中心に、福岡から駆けつけられた大庭さんと、三階の展示設営が目処がついたかたから順次応援にまわっていた。

通常のサラマ・プレス倶楽部の活版礼讃イベント<Viva la 活版  シリーズ>では、いつも予算過少のせいもあって、懸垂幕などの「大型告知」は経験不足であった。ところが長崎ではおもいきって大型懸垂幕に挑戦した。
製作・設置担当はタイポグラフィ学会会員・活版カレッジ修了:日吉洋人さん。

初出・明治24年『印刷雑誌』掲載「東京築地活版製造所広告」、また大冊の活字見本帳『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年)に「電気版見本」として収録され、サラマ・プレス倶楽部のアイキャッチ、アイドルおじさんとして創部以来もちられてきた「活版おじさん」を主要モチーフに、防水対策も完ぺきに施されたおおきな懸垂幕が、展示会場に工場直送で既に到着していた。

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《 設営に難航した懸垂幕、実稼動に失敗したアルビオン型手引き印刷機 》
さて、会場設営もほぼ目処がついたころ、いよいよ懸垂幕の設置にとりかかった。
担当者は長崎ははじめてだったが、完ぺきな設置予定図まで準備していた、
ところが、長崎県印刷工業組合・印刷会館ではこれまでこうした懸垂幕を設置したことがないそうで、当然吊り下げ装置や金具が無い!
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あれこれ工夫し、また急遽スマホで吊り下げ方法を検索したところ、
「懸垂幕で検索すると、前半は製作業者の広告がつづき、後半は体験者のブログで、『甘く見るな! 懸垂幕の吊り下げ法』がどっさりです」
との報告でびっくり仰天。
ちょうど小雨も降ってきたし、ひと晩ゆっくり考えれば何とかなるさ・・・・・・(やつがれ)、というなんとも無責任な発言で、懸垂幕設置作業は翌朝に持ちこしとあいなった。

この懸垂幕と、後述する「チンパン Tympan」の張り替えは、ともに日吉さんの担当。バスターミナル・ホテルに宿泊していた日吉さんは、この夜は悶々として一睡もできなかったようである。
翌朝は会館(定時:09-17時)に無理をお願いして、早朝八時から作業にとりかかり、来場者をお迎えした定刻十時には、何ごともなかったように?! 設営が完了していた。
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松尾愛撮01 resizeまた<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機二台を収蔵庫から取りだし、そのうち部品欠損の少ない「仮称 一号機」の麻布製の「チンパン Tympan」だけを張り替えて実稼動させる予定であった。
この仮称一号機は、大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ、百年余も以前の印刷機であったが、収蔵庫から引き出して注油・清拭してから点検したところ、上部のカムに破損があり、応急修理では稼動しないことが判明した。

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造の墓参・法要」で復元修復報告 》
その後訪崎され、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられたタイポグラフィ学会会員:板倉雅宣氏が詳細に点検され、やはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、復元稼動を支援することになった。

ここで長崎県印刷工業組合もついにアルビオン型手引き印刷機(一号機)の本格修復を決断されて、福岡市の(有)文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

アルビオン型手引き印刷機の構造アルビオン・プレスの構造 挿入図
『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 2011年09月15日 朗文堂 p.73)
20160914163336_00002 20160914163336_00001福岡で活版印刷業を営まれている有限会社文林堂/山田善之氏ご夫妻
『かたりべ文庫 職人の手仕事 Vol.17 〈活版印刷〉』
(ゼネラルアサヒかたりべ文庫 2015年4月1日)

手引き印刷機のチンパン「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。「チンパン Tympan」は会期前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」

20160914163731_00001ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を片塩が解説にあたった。
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露}

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《 『崎陽長崎 活版さるく』 と 印刷会館閉館五時以降 連夜の さるく と 根拠地 ぢどりや 》
15-4-49694 12-1-49586矢次家旧在地 半田カメラ
会期の中日、2016年05月07日[土]には、参加者40名ほどでマイクロバス二台をチャーターしての「崎陽長崎 活版さるく」が実施された。
その夜参加者は疲れもみせずに、長崎県印刷工業組合のお手をわずらわせた、これも新地角の中国料理の老舗「京華園大ホール」での懇親会に臨まれた。
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その報告は本欄でも、<長崎行き、参加されたかたも、断念されたかたも大集合 Viva la 活版 ばってん 長崎 スライド報告会>でも報告したが、主会場の長崎県印刷工業組合会館は、定時が午前九時から午後五時であった。

ところで、多くの若い造形者の皆さんは、朝に弱く夜にはめっぽうつよい。そのため開場は十時としたが、閉館は印刷会館の規定で夕刻五時厳守となった。

それでなくても西端のまち長崎の日没はおそい。当然会場を五時に出てもホテルにすぐ引きあげるわけはない。ましてサラマ・プレス倶楽部には真田幸文堂と横島大地さんという、グルメ情報ならなんでも任せておけというふたりがいる。
出島町印刷会館から徒歩10分ほどで、繁華街思案橋がある。橋といっても高知の「はりまや橋」と、長崎の「思案橋」は、いまではこれが橋かというほどあっけないものではある。

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長崎ことば「さるく」とは、もともと「うろつきまわる」の意であるとされる。
ところが2006年開催「長崎さるく博‘06」で、主催者の「長崎さるく博‘06推進委員会事務局」が間違えて説明したために、「『さるく』とは『ぶらぶら歩く』という意味である」と説明するメディアが後を絶たない――ウィキペディア とされている。

ここからは格別の説明を加えず、長崎を堪能し「さるく――うろつきまわった」参加者の皆さんをご紹介したい。ただしイベント本番の{崎陽長崎 活版さるく}とはちがい、「さるく」の本拠地となったのは主会場ちかくの思案橋横丁で、(B級)グルメ : 真田幸文堂、横島大地のコンビが、
「ひとの良さそうなお母さんがひとりでやっている店です。ここは良さそうです」
と初日の夜に推薦した、
思案橋横丁「ぢどりの三昧」であった。

10人も入ればいっぱいのこの店に、連日、それもイベント中日には25名ほどで押しかけ、客席はもとより調理場まで占拠し、ついには店外での立ち飲みまではじまる騒ぎとなった。
また最終日には引退しているご主人とともに、お母さんが<Viva la 活版 ばってん 長崎>に参加され、しまいにはサラマ・プレス倶楽部から同店に「感謝状」まで贈呈することになった。
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 《 長崎 さるく の 記録 》
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