― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ
山 尾 庸 三
長州ファイブ/長州五傑
前列右より時計回り、山尾庸三(工学の父)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、
野村弥吉(井上 勝/鉄道の父)、伊藤俊輔(博文)
工学尞 → 工部大学校・工部美術学校 → 東京大学工学部の前身のひとつ
所在地/千代田区霞が関ビル周辺(もと日向国〔宮崎県〕延岡藩 内藤能登守上屋敷)
「工部大学校阯」碑および解説板(千代田区霞が関三丁目2-1)
萩博物館フライヤー <日本工学の父 山尾庸三展> 2018年9月16日ー10月01日
工部大学校
日本最初の工学教育機関。東京大学工学部の前身。
伊藤博文・山尾庸三の建議に基づいて設置され、1873年(明治04)専門教育はイギリス人の教頭・機械工学者 H. ダイアー ほか 8 人のイギリス人教師を招いて「工部省工学寮」が開校。工学頭-こうがくのかみ-は山尾庸三、教頭はダイアーであった。工部省工学寮は1877年(明治10)「工部大学校」と改称した。のち工作局長:大鳥圭介が総理となった。
土木、機械、造家、電信、化学、冶金-やきん、鉱山の 7 学科をもつ 6 年制の官費の専門学校で、学理面と実地面とを融合した、当時世界でも進歩的な工学教育機関であった。
工部大学校は1879年(明治12)に最初の卒業生19人を出し、1882年に造船科を増設、1885年(明治12)工部省廃止に伴い文部省に移管され、翌年東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学、現東京大学工学部となった。辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋-いのくちありや-ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出した。[参考資料:『日本大百科全書』(小学館)]
{活版アラカルト関連:【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展「日本工学の父 山尾庸三」}
井 上 勝(幼名:野村弥吉 いのうえ-まさる 1843-1910)
{活版アラカルト関連:【展覧会】萩博物館 萩の鉄道ことはじめ「日本鉄道の父:井上 勝」}────────────────
明治日本の産業革命遺産 紹介映像
掲載日:2016年1月28日
日本政府がユネスコへ提出した「明治日本の産業革命遺産」の推薦書に附属した、概要や資産などを紹介したビデオ(DVD)のホームページ版です。
ナレーションは英語ですが、日本語のテロップ(文字)で紹介されています。
【 参 考 : YouTube 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業 音が出ます 36:22 】