A Kaleidoscope Report 005 『東京築地活版製造所紀要』紹介

A Kaleidoscope Report 005


資料/『東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式會社東京築地活版製造所紀要』である。
題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。
だから、この小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ稿者の手許にあるのかもわからない。
つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所 昭和4年10月)

本文ページ/四号明朝体  26字詰め  12行  字間五号八分  行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。

天地184ミリ × 左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表  紙  皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨1色片面刷り
口  絵  部  5葉
     (裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷とみたいが、オフセット平版印刷の可能性あり)
本   文  10ページ(非塗工紙に活字版墨1色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版  四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分 行間五号全角アキ
刊  記  無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)

『株式會社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。しかし「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。
もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」として公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容である。

本ブログロールには、この全文を現代文として釈読し、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。
時間が許せば読者にはこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には、筆者が私見を述べた項目をこれから随時挿入する予定である。したがって本稿を閲覧される読者は、面倒でも「更新アイコン」をクリックしていただきたい。筆者の挿入部分は黒く表示し、釈読部と他文献からの引用部分は青く表示してある。

当時の専務取締役社長は、第六代松田精一(- 調査中)であった。このひとは、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取でもあったことは本ブログロールでも既述した。
ここでは
まず、『株式會社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。つまり同社がなぜ、『株式會社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の真の目的を探るためである。

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

・大正12年(1923年) 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋完成。地下1階地上4階竣成。

・大正12年(1923年) 9月
関東大震災により築地本社及び月島工場の全設備が羅災。

・大正14年(1925年) 4月
野村宗十郎社長病歿、享年69才、正七位叙賜。

・大正14年(1925年) 5月
常務取締役に松田精一社長就任 [長崎十八銀行頭取を兼任] 。

・大正14年(1925年)11月
『改刻明朝五号漢字』 総数9,570字の見本帳発行。

・大正15年(1926年) 2月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。

・大正15年(1926年)10月
『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。

・昭和 3年(1928年)
大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。

・昭和 4年(1929年) 9月
『欧文見本帳』 を発行 (68頁)。

・昭和 5年(1930年) 1月
時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。

・昭和 5年(1930年) 6月
五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。

・昭和 6年(1931年)12月
業務縮小のため 小倉市大阪町九州出張所を閉鎖。

・昭和 7年(1932年) 5月
メートル制活字及び 『号数略式見本帳』 を発行。

・昭和 8年(1933年) 5月
『新細型9ポイント明朝体』 8,500字完成発売。

・昭和 9年(1934年) 5月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。
つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。

東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。
『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。
また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。
渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社 I H I の主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。
渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。
渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。
もしかすると、東京築地活版製造所第五代社長であり、中興のひとともされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。
また新築の本社工場ビルが移転作業の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた東京築地活版製造所第六代社長:松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた根強い長崎系の人脈・血脈が細ったとみることが可能かもしれない。
すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第七代社長として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳ながら長崎人とみられる)を専務取締役・第八代代表に選任している。

当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い ── 日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にも登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、この唐突な吉雄永寿の専務取締役社長就任は、長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第八代社長が辞任した。この後任には、
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」阪東長康専務取締役第九代社長が就任した。そして宮内省関係者であって、国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康が、どこかから ── 稿者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが ──「派遣」され、その指揮下、就任からわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」東京築地活版製造所専務取締役・第九代社長阪東長康は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事とみるのは酷であろうか。
いずれにせよ、ついに東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、当時の印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。
そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社清算解散を決議。従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。── この間の詳細は記録されないままに終わった。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。
それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界関連紙誌は、東京築地活版製造所の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。
どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、稿者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『活字界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 〔大阪活版製造所社長を兼任〕、 曲田 成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。
社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕 鋳造機は、手廻機 〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕 120台、米国製トムソン自動〔活字〕 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 〔活字〕鋳造機〔詳細不明。 調査中〕1台で、フユーサー機は日本〔製の活字〕母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀〔勧業銀行〕から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 〔 い〕にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器輸入代理店〕西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

※ 東京築地活版製造所の正門が「写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである」とした牧治三郎の記述には『活字界』が発行された昭和45年当時の活字業界人を震撼させた。
牧治三郎は東京築地活版製造所の新ビルの正門を「南西の角、すなわち裏鬼門」と記述し、稿者にも語っていたが、近年の資料発掘によって、正門は万年橋方向ではなく、祝橋方向に向いており、むしろ北西の方向にあたることが判明した。なんらかの事実誤認があったとみられるにいたっている。

次の〔東京築地活版製造所第六代社長〕松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、たれが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 〔で〕 の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧銀〔勧業銀行〕から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

受賞経歴

東京築地活版製造所の象徴的存在・本木昌造

第1代代表/平野富二 第2代社長心得/本木小太郎(写真には掲載されていない) 第3代代表/曲田 茂 第4代代表/名村泰蔵 第5代代表/野村宗十郎

小図:明治7年の同社 大図:明治37年の同社

小図:第5代代表/松田精一 大図:昭和4年ころの同社

*      *

株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年〔一八七三〕七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来 ジライ 一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年〔1873-1929年、およそ56年〕、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン〔世のなかのひと〕より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年〔一八二四〕六月九日、肥前ヒゼン〔旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県〕長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ〔西洋〕諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年〔一八五一〕ころに至って、はじめて「流し込み活字」〔流し込み活字は後出するが、どちらもハンド・モールドとされる素朴な活字鋳造器を用いた活字とみられる〕ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。
〔このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない〕

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間〔1868年1月25日より明治元年〕にいたって、米国宣教師姜氏〔後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利 ガンブル である。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた〕が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型〔活字母型〕をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏〔維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910〕が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡〔現在の長崎市立図書館〕に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年〔1872〕東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局〔現、独立行政法人・国立印刷局〕となったのであります。

明治四年〔1871〕夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する〔素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドと従来型のハンドモールを併用したとされる〕不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。
同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・千代田区和泉町一)〔神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩上屋敷に隣接した町人地であった。現在の神田佐久間町は商住地である〕に設けました。

翌明治六年〔1873〕に至り、いささか販路も拓け、工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年〔1874〕には本建築をなして、これを震災前 〔関東大震災 大正12年9月1日、1923〕迄事務室として使用していました。
同八年〔1875〕九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年〔1876〕には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年〔1879〕)活字改良及その他工業視察のために、社員曲田 成 マガタ-シゲリ を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年〔1882〕に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに〔活字版〕印刷部を設けて、石版・活版の〔平版印刷と凸版印刷の〕両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏〔大阪活版製造所社長を兼任〕を副社長に、松田源五郎〔長崎・十八銀行頭取〕、品川東十郎〔本木家後見人格〕の二氏が取締役として選任せられました。〔ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所はきわめて長崎色のつよい企業であった〕

明治二十二年〔1889〕六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が〔お目付役兼任として〕取締役として選ばれました。
同二十三年一月、本木〔小太郎〕氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。〔本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長には就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間隆次の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている〕

明治二十六年〔1893〕十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏 ナムラ-タイゾウ 氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役〔明治37-38 1904-05〕後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪 タオ れました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

〔野村宗十郎〕氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年〔1890〕入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年〔1908〕三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[月島分工場のこと。実際は名村泰蔵が十年がかりで建造にあたった。大正十二年九月一日、関東大震災で焼失〕、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年〔1921〕十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑 イトマ ないほどでありました。

かくして〔野村宗十郎〕氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰 トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有 ウユウ に帰してしまったのであります。〔この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は軽微な被害であったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、後継の歴代社長はそのうわさに脅かされることになった〕

剛毅に富んだ〔野村宗十郎〕社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年〔1924〕七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四〔1925〕年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年〔1925〕六月、取締役松田精一〔長崎・十八銀行頭取を兼任〕氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。

社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。
同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。
明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。

四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。
社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。
其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。

斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

朗文堂 ― 好日録006 達磨輪廻転生の世界へ 月映 藤森静雄をみる

朗文堂-好日録 006

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 いただいたダルマで 輪廻転生リンネ-テンショウ の世界に突入か 》
¶ カレンダーがあたらしいものにかわった。西暦2011年、平成の御代も数えて23年になった、ト、ここで年号をなんとか確実に覚えようとしている。
ことしは大正元年から数えて100年、もし昭和の御代が続いていれば昭和86年となる。よくわからないが、まことにめでたいことである。

2009年11月  宇都宮駅で無償配布されていたダルマ

¶ だが、もともと冠婚葬祭はできるだけご容赦を、ト念じているから、本音では祭のひとつ、正月を、さほどめでたいとはおもっていない。 むしろ、きょうとおなじ、あすがあって欲しいと願う。 しょうがない、つぎの正月まで、またポチポチやるか、という程度だ。

¶ 2010年最後の日、31日[金]も出勤した。 電話はちっとも鳴らないし、@メールもほとんど着信なし。 みんないったいどこにいったのだ。 そうか、年末年始休暇だとおもいあたる。
だからなんとなく(かえって)リズムが狂って、まとまりがないまま時間がすぎた。
夜更10時半退勤。 ちかくの「あおい書房」がまだ開いている時間だ。 そこで休日用の文庫本を購入。司馬遼太郎 『この国のかたち 4 ・ 5 ・ 6 』、宮城谷昌光ミヤギタニ-アキミツ 『三国志 1 ・2 ・ 3 』。
司馬さんの連載は、初出 『 月刊 文藝春秋 』 のときから読んでいる。上製本、文庫本と読んできたが、ぼろぼろになったので、また買った。

¶ 上製本はとっておくが、雑誌と文庫はどちらかというと睡眠導入剤。  だからすぐにぐちゃぐちゃになる。
やつがれ、もし文庫本が 「 電子出版 」 になったらまことに困る。 現状の文庫本や雑誌は、夜ごと、枕の下に埋もれ、尻や出っ腹に敷かれ、毛布と布団と敷布の間で行方不明になり、足蹴にされて布団からずり落ち、ときにはよだれでベトベトになっている。

それでもよい、頑丈、かつ、万に一つでも よだれによる感電事故などがない、また最低限の組版規範を達成した 「 電子機器 」 に成長したら、槍でも鉄砲でも 「 電子出版 」 でもなんでも良いぞ。  おそらくそんなものは当分登場しないから、いまのところはとりあえず、文庫を顔にのせて惰眠をむさぼるか。

¶ 帰宅後すぐに 『 この国のかたち 』 を読みはじめた。 久しぶりの司馬節、司馬史観に夢中になって03冊とも読了。 やはりこのひとは凄いな、ト 改めて脱帽。
このひと、いまにありせば、この乱世をいかに喝破するかとおもう。 かくするうちに しらじらと夜があけ、新年になっていた。
アダナ・プレス倶楽部 「 餅プレス大会 」 の折りの冷凍餅をチンして、マッタリおいしい大阪昆布の佃煮と食す。 旨し。  リポビタンD 1 本グビリ、これこそまことにもって、優雅なお節セチとお屠蘇トソではないか、ト 吾輩 初春にあたり 独居しておもう。

¶ 朝まだきの室外にでて、空中庭園で一服つけたら、おもわぬことに、黄色い花が一輪咲いていた。 「 こいつは春から、ほんとうに縁起がいいわい 」、ト 写真機でパチリ。
それにしてもコイツはどこから来て 植木鉢の真ん中を占拠して、どうしてこんな日に初花をつけたのかふしぎだ。 もちろん名もしらぬ。 花は蒲公英タンポポに似るが、草丈は 50 cm ほどもある。 吾輩の空中庭園には雑草という名のあはれな艸はない。 むしろすべてが雑草ともいえる 。だから コレハ ナンダ とおもったが、放っておいただけのこと。

¶ 元旦から駅伝をテレビでみる。  オフサカ-ゲーニン-録画版-莫迦嗤い-番組 はみない。
実業団の駅伝はかなり熱くなったが、学生の箱根駅伝はあまりにショーアップされて燃焼不足。 体育会学生がついにゲーニンになったのかナ。 アナウンサーの絶叫もチトうるさい。
だから往路はみたが、復路はパス。 ミヤギタニ文庫版 『 三国志 』 を手にする。 ここのところ北方謙三 『 揚家将 』  『 水滸伝 』 『 揚令伝 』 にすっかりはまっていた。
現在はいったい何巻になるのかわからない 『 史記 』 を、刊行されるたびに、待ってました ! と購入。 ケンゾウめ、司馬遷の名作をここまで勝手に改竄、断裁するのかとおもう。 えれぇ筆力だ、ト 呆れるばかりなれど、やめられない。

¶ もちろん ケンゾウ 『 三国志 』 もすでに読んでいた。 そんなケンゾウ節のせいもあって、久しぶりのミヤギタニに、すぐには入りこめなかった。それでも20ページほども読み進めると、すっかりミヤギタニに捉まったから単純なものだ。 このネットリ絡みついて離さない、大蛇アナコンダのような文体も味がある。 結局外出時も鞄に入れて持ち歩き、休暇中に読了。

凄い人混みの川越大師喜多院の達磨市

¶ そこで凡人、01月03日[月 正月休暇]、箱根駅伝観戦を早早に中断。 帰京したノーガク部と、川越喜多院の達磨市にでかけた。 このダルマは一昨年11月、宇都宮駅で偶然 「 高崎ダルマ市 」 を開催していて、無償配布をうけたもの。
俚諺 リゲン にいうぞ、「 タダほど高いものはない 」 ト。 まったくそのとおりで、ちょっとした願いごと (ささいなものだ、内緒だけど) をして片目を入れておいたら、昨年年末にめでたく念願成就とあいなった。 だから両目に墨がはいったが、サテその処分に困惑した。
信心などほとんどないが、「 このダルマさんを、まさか燃えるゴミにはだせないなぁ 」 ということで、Website で調べて、一番近く、休暇中にダルマ市を開催している川越にでかけた。

¶ びっくりした。東武線川越駅を降りたら、いきなりそこから長い行列。 「 喜多院 達磨市 専用往復バス切符 」 を売っていた。 行列の後尾についてようやく切符を買って、ピストン輸送の満員バスになだれ込むように乗り込む。
喜多院についたらますます押すな押すなの人混み。 人にアタル(中毒する)たちのやつがれは、もう青息吐息、酸素欠乏症状を呈する。 ラッシュアワーの通勤電車の比じゃない。 ただただうしろから突きとばされてあるく仕儀となる。

¶ 捨てにきた モトイ  お納めにきたダルマだから、べつに潰れても構わないはずだが、吾輩、なぜか後生大事にダルマを抱えてあるく。「達磨納め所」 の立札をみつけてそこに猛進。
道中、やはりことしのダルマも要るな、 ト おもいつく。 あたらしいダルマを購入。 衝動買い。 これでは輪廻転生 リンネ-テンショウ、来年もまたまた川越に来なくてはならなくなった。
つまり、結局のところ、タダでもらった達磨が ―― おそらく業者の狙いどおり、有料の新品に変わっていた。 <ウ~ン、ダルマ屋長期販売戦略か>。 しかも 「 達磨納め所 」 で志納金投入。交通費、食費その他を考慮するとかなりのもの。

¶ それでも餅ばかり食していたので、人混みをかきわけ、あちこちの屋台で怪しげなものをさまざま食した。 「 じゃがバター」 は旨かった。 ジャガイモを蒸かして、そこに一斗缶に入った 「 バター付け放題 」 だった。が、これはバターというよりマーガリン以下のシロモノ、黄色いなにか油の一種か。 むかしの学校給食のジャムバターをおもいだした。
さらに「たこ焼き」、「牛串 ―― 和製シシカバブー」、「お好み焼き」などを、ノー学部が得意げにつぎつぎと買ってくるママ食す。それにしても、あの人混みのなかで、よく喰いまくったなぁ。

新旧のダルマ。どちらが美男におわすか?

ダルマ納め所で、小さいながらも頑張る吾輩のダルマ。

¶ 昨年一年間、毎日にらめっこしてきた高崎ダルマとのお別れに、新旧の達磨をもって祠の裏に入りこんで記念撮影パチリ。 よくみたら高崎ダルマは小ぶりながら、彫りが深いお顔立ちで、なかなかの美男におわしました。 だから別れがたいおもいもある。
新人 ・ 川越大師のは、顔がでかく、彫りが浅い顔立ちで、なんとなくロンパリ ・ メンタマだった。 眉宇ビウ のあたりもきもち迫力に欠けるかな。 まぁこんなものかと納得。

¶  高崎ダルマをもって 「達磨納め所」 に入る。 うずたかく積まれたダルマがあった。 みんなが大願成就で両目を入れていたし、裏面には願文があった。 ほとんど無病息災、家内安全などと平凡だったが、なかに 「一攫千金 イッカク-センキン」 という、おそろしいのか、はたまた図々しいのかわからん願文を書き、両目を入れたおおきなダルマを発見。
その上にやつがれ高崎ダルマを鎮座させた。「一攫千金」 を成就したひとは、宝くじをあてたのか、泥ボーにはいったのかしらないが、メンタマも眼をむくようにでかかった。 その上に鎮座したのだからことしは凄いぞ。

¶ それにしても、この人混みの民草は、儚ハカナき願望をいだき、そのささやかな成就を謳歌しておるというのに、なぜにマス ・ メディアは、めでたい正月早早、口角泡を飛ばし、性事 モトイ 政治と金、性事 モトイ 政治不信、オザワ問題などと、十年一日、いつまでたっても (毎年 ・ 毎月 ・ 毎時) おなじことどもを、飽きもせで、たんなる繰り言をならべたて、セージの足を引っ張って得意になっておるのか。
すべてのつまらんギョー-カイ-ジンどもよ、雁首揃え 「 川越 喜多院 達磨市 」 へ詣るべし。
そしてアチチアチチの 「じ ゃがバター」 を食すれば、諸君のつまらんヒステリーや、欲求不満も解消するはずだ。 ともかくうるさいんだよ、あなたがたギョー-カイ-ジンは ネ。

宇都宮美術館外観(同館案内より)

《 あくまでも美術館にいったのだ、餃子を食しにいったのでは無いはずだ が 》
¶ 01月04 日[火 ・ 赤口・ 正 月休暇]、宇都宮美術館 「日本近代の青春 ―― 創作版画の名品」 展にいく。 ここはともかくゆったりとした時間が流れているから好きだ。 おまけに帰りがけには名物デッカイ餃子も喰えるしな。
さすがに正月、駅からの宇都宮美術館行きのバスはまったく貸し切り状態。 されど駐車場は栃木 ・ 宇都宮ナンバーの車でいっぱい。地 元客の来館者がおもいのほか多かった。

¶ 版画の印刷版と印刷方式にこだわった丁寧な解説におどろく。 ようやくここまできたか…… のおもい。 明治以降の木版画の多くは、バレン刷りではなく機械刷りであった。 印刷用の版、印刷版を理解してくれたようで欣快のおもい。 詳細省略。
「月映 ツクハエ」 にあらためて感動。 いずれ恩地孝四郎邸訪問記をアップの予定。 写真は同館案内パンフレットのもの。01点だけ、ちょいと藤森静雄を気取った、影印のある風景をパチリ。

明るい樹林に夕陽が射しこんでいた。

¶ 01月10日[月 ・ 成人の日 ・ 祝日]、正月明けから、05,06, 07日と営業したが、どこか間抜けな週であった。 バタバタしただけで、なにもまとまらずに時間だけが過ぎた。 まぁ暖機運転というところか。
01月11日[火 ・ 鏡開き]、いよいよ朗文堂も本格始動。 この週、すでにスケジュール表に余白無くビッシリ。

本日01月11日、一点の雲無き快晴。されど気温10度と寒し。
正月は終わった、燃えねばならぬ。

花こよみ 007

花こよみ 007

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

はつ春に 咲くやこの花 名をしらず

よみし ひとを しらず

花こよみ 006

 

花こよみ 006

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。 

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

      正岡子規(俳人・歌人 1867-1902)「小園の記」より

¶ ようやく  A Kaleidoscope Report 004  をアップした。Kaleidoscope(万華鏡)の連載は、いよいよ「活字発祥の碑」建碑がなって、その落成式・除幕式のあたりまでを記述した。この「活字発祥の碑」シリーズはまだまだ続きそうな勢い。
ところでその除幕式での混乱と混迷は大きかった。そしてついに、平野富二の嫡孫・平野義太郎によって紹介された「平野富二首証文」がおおきな話題となった。しかしその報告は全国活字工業組合の機関誌『活字界』であり、発行部数はわずか100部ほどにしかすぎなかった。そのためにいつの間にか忘れられていた話題である。

¶ 別に験ゲンかつぎをするわけではないが、バプテスマ、ヨハネの首級を所望したサロメでもあるまいし、これで2010年の「花筏ブログロール」を終わりにするのもチト一考を要するかな ト おもう。そこで「花こよみ」。

 

¶ 12月28日[火]、小社もひとなみに仕事納め。歳末恒例の大掃除の日でもある。2階ははやばやと片付け・大掃除が終わったが、4階は書類整理やら、なにやらで、結局掃除らしい行為のないまま納会へ突入。
年末恒例の大掃除ではあるが、年末の大掃除とは、大掃除に圧倒的に優先する、なにごとか正当かつ緊急性のある、差し迫ったことどもを考えださねばならぬ。だからひどく疲れる日でもある。

本音をもうせば、吾輩、小学生のみぎりから「通信簿」(かつてはそういった。これを父母に見せるのはつらかった)には、いつも「お掃除の時間になると、いなくなる性癖がある」と担任教師に書かれた。掃除とは性癖らしいぞ。ならば、性癖としては掃除は苦手ということにしてもらおう。

¶ ともかくアダナ・プレス倶楽部は、大掃除どころか、いまだに年賀状を印刷中なのだから始末に負えない。宛名面は2度刷りくらいで済ますようだが、絵柄面はいったい何度刷り(色数ではない)になるのかわからない。
吾輩もなんやかやで大晦日まで出社するつもり。正月三ヶ日だけは、おそらくマラソン観戦漬け。気分だけは箱根山をめざして若者とともにいっさんに駈けのぼる。

¶ アダナ・プレス倶楽部の年賀状は、例年活字の歴史を追ってきている。
すなわち、ブラック・レター、ヴェネティアン・ローマンからはじまり、オールド・ローマンを経て、ようやくトランジショナル・ローマンまできた。トランジショナル・ローマンなら英国のバスカーヴィルがいる。ところがバスカーヴィルは昨年ブレイクの詩を組んで実施済み。
ブレイクとは誰じゃい、とわが国ではもうひとつの評価だったが、この年賀状 モトイ ニュー・イヤー・カードにいたく感動してくださったのは、英国の「アダナランド 御領主陛下」だった。

¶ ――いるのだ モトイ いらっしゃるのだ、本当に アダナランド御領主陛下は はるか遠い英国に、何エーカーかの(かそけき)御領地を所有なされて、たしかにおわしますのだ。
しかも陛下は、かしこくも 治世の証として(私製の、通用する!)切手までおつくりあそばされ、東海の小島から、いやしき平民がさしあげたニュー・イヤー・カードに、まことに畏れ多きことながら、賞賛のご親筆をたまわった。切手はもちろん御自ら制作あそばされた切手を、あちこちペタペタと貼って下賜されたのである。

¶ だからトランジショナル・ローマン体はここでよせばいいのに、今回はフランスのピエール・シモン・フールニエを無謀にも選んでしまった。
それでなくてもロココ美術は難解である。ましてフールニエにおいてをや。テーマは18世紀の、甘くやるせないシャンソンの名曲、『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』である。「愛は歓び  されど儚く 愛は悲しみ とこしえに続く――」。たれもが知っている名曲である。活字は新鋳造のフールニエ装飾活字とフールニエのローマン体である。

¶ 吾輩は知らなかったから以下は受け売りである。
この『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』は、ユー・チューブにたくさん画像と音声入りのものがある。

 『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』その1(癒し系調)
 『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』その2(劇中劇調)
しかもこの曲から、エルビス・プレスリーが、わが青春の愛唱歌の着想を得たというから二重の驚きである。オヤジならしみじみ泣けるし、若けぇのならプレスリーの偉大さに腰をぬかすこと必定だ。
 『Can’t Help Falling in Love 好きにならずにいられない』

¶ 恥ずかしながら吾輩、米国製脱脂粉乳給食で育ったせいもあって、いまでこそひどいアメリカ・アレルギーであるが、かつては腰こそ振らなかったが、熱烈なプレスリー・ファンであった。
アメ車ガソリンガブ飲みマスタングをプレスリーの映画に触発されて購入したこともあった。その後はビートルズ最初期ファンでもあったのだ。チョイ恥ずかしいけどネ。

年賀状の背景として、こんな興味ぶかい挿話があるのも、ときには楽しいことではないか、諸君! だからノート・パソコン内蔵スピーカーで音質は良くないが、それをガンガンかけながら製作すると、アドレナリンが滾滾コンコンとわき出して時間トキを忘れさせることもある。

アダナ・プレス倶楽部2011年賀状 絵柄面 9度刷り

¶ シャンソンの歌詞は甘くやるせないが、フールニエの活字は生やさしくはない。フールニエは、「あなたは印刷者ではなく、数学者だったのか !?」というくらい、精緻な構造計算をかさね、華麗かつ精緻なる装飾活字を駆使して絢爛豪華な誌面を構成している。
それを追試(あわよくば凌駕 ?!)しようというのだから、まことにもって無謀である。だからここのところ連日、来客が途絶えた夜更けから、計算機を片手にシコシコと組版をはじめ、それを印刷し、解版し、再度その作業を反復する日日。始発の電車で帰って、出勤は昼近くなる。もう勝手にやってくれ、という気分である。

¶ 片づかないのはなにも事務所だけではない。吾輩の花壇、「空中庭園」も子規庵に負けず劣らず相当なものである。
正岡子規の旧宅「子規庵」は、台東区立書道博物館のハス前にある。だからときどきのぞいている。子規はよほど蔓草が好きだったのか、小ぶりな花をつける朝顔が多く、瓢箪がブラリと下がったりする。

吾輩の「空中庭園」でも困ったことに、エアコンを停止したら急に元気になったニガウリが、11月下旬になってもつぎつぎと実をつけていた。さすがに12月ともなると、「緑のカーテン」とはいかず、黄葉にかわった。それでもけなげに花をつけるし、花の少ないこの季節には蜂が好んでやってきた。だから寒さにふるえてやってくる、みなしご・ハッチのためにそのままにしておいた。

¶ それを先週植えかえて、そこに晩春に掘りあげておいた、チューリップ、水仙、クロッカス、ヒヤシンスなどの球根を、ゴチャゴチャと植えた。久しぶりに黒々とした地面が露出した。
それがノー学部は不満らしい。ともかくノー学部の農具とはハサミがもっぱらで、それであちこちチョキチョキやるからたまらない。球根は発芽をはじめたが、いまのところハサミの使いようがないから安全だ。が、ノー学部それがお気に召さないからこまったものだ。

¶ さらに困ったことに、ノー学部は育種科だから、ともかくタネがことのほか好きらしい。夏ミカンを食べればそれを、枇杷ビワを食べれば枇杷を、アボガド、メロン、スイカ、ジャガイモ、里芋、長芋、オリーブ、サクランボ、馬鈴薯まで、ともかくタネや根っこをあたりかまわず蒔くし、まるで埋蔵金でも隠すようにコソコソと植えてしまう。
さらに、人参、ゴボウ、大根などの根菜は、わざわざ土つきのものを買ってきて、下は食すが、ヘタの部分を、これまた勝手にあちこちに植えてしまう。それがまた枯れもせで、根っこが生え、成長するから面白くもある。
それだけではない。豆モヤシまで、葉っぱは切って食べるが、根っこはヒソヒソと植え込んで知らぬ顔である。これまた『ジャックと豆の木』よろしく、ニュキニョキと這いずり回るから結構なものだ。しかし水遣り、肥料やりは育種科カリキュラムに無かったとみえて、ひと任せ、知らん顔。

¶ 嫌な予感がしたのだ、ほんとうに……。ロダンの椅子に腰をおろして一服 モトイ 思索に耽っていたときである。
球根を植えて露出した地面をみたノー学部が、「ことしはレンゲ草を植えないの」と聞いたからだ。
「レンゲの種は神田にいかないと買えないからな」
とごまかしたが、
「地面がみえるのって寒ざむしくない。レンゲはかわいいし、きれいじゃない?」
とこだわっていた。

それが今朝になって、なにやら得意そうに、小さなジャム缶にはいった、怪しげなものを持ちだして、
「これは北海道の地ばえの蒲公英タンポポの種だから、きれいだとおもうよ」
ときたもんだ。たしかノー学部が北海道にいったのは5月ころのはず。それをこの暮れのどん詰まりまで、機内食ででるちいさなジャム缶に入れて、後生大事にどこかに隠していたらしい。つまり吾輩に「バランス良く植えろ」ということ。

¶ 大晦日は赤口九紫である。だからどうということもないが、仏滅ではないらしい。もうやけくそで、大晦日に蒲公英タンポポを植えることにした。ただし、羽毛のような綿毛につつまれたこの種子は、どうみても、ヒラヒラ舞って、どこぞにたどりついてこそ蒲公英タンポポであろう。
悔しいことにノー学部は、吾輩が蒲公英タンポポや、菫スミレが好きなことを知っている。しかしそれを一定の範囲に植えるとなるとピンセットが必要となる。そうだ、きょうは忘れずにピンセットを鞄に入れて帰ろう。そして長芋の茎からこぼれ落ちた「ムカゴ」も植えてやろう、ト 大掃除に先立つ緊急かつ重大事態としてそれをおもっている。

¶ かくのごとく、わが空中庭園は、正岡子規がうたったように、
「ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな」
の風情のまま、あらたまの初春を迎えることになる。

5月から現在まで空中庭園の王者・とろろあおい

 

A Kaleidoscope Report 004 活字工業会と活字発祥の碑

『活字発祥の碑』
(編纂・発行/活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日)
A4判28P 針金中綴じ  表紙1-4以外の本文・活字原版刷り

「活字発祥の碑」を巡る旅も4回目を迎えた。ここではまず、昭和46年(1971)6月29日、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。同書に文章をよせたのは以下の各氏である。

『活字発祥の碑』 目次
◉ 活字発祥の碑完成にあたり…………1
渡辺宗助/全日本活字工業会会長・活字発祥の碑建設委員会会長
◉ 活字発祥の碑完成を祝う…………2
室谷 隆/日本印刷工業会会長・印刷工業会会長
◉ 活字発祥の碑建設を慶ぶ…………3
新村長次郎/全日本印刷工業連合会会長・東京都印刷工業組合会長
◉ 活字発祥の碑建設に当たりて…………4
山崎善雄/株式会社懇話会代表取締役
◉ 心の支えとして…………5
松田友良/東京活字協同組合理事長
◉ 東京築地活版製造所の歩み…………6
牧治三郎
◉ 東京日日新聞と築地活版…………12
古川 恒/毎日新聞社
◉ 活字発祥の碑建設のいきさつ…………14
活字発祥の碑建設委員会
◉ 築地活版のこと…………16
今津健之介/全日本印刷工業組合連合会
◉ 父・宗十郎と築地活版…………17
野村雅夫
◉ 築地活版の想い出…………18
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
◉ 活字とともにあって…………19
渡辺初男/株式会社文昌堂会長
◉ 建設基金協力者御芳名…………20
◉ 建設委員会名簿・碑建設地案内図…………24

このパンフレットには編輯者個人名の記載はないが、おおかたの編輯にあたったのは、当時の全国活字工業組合広報部長であり、また、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐としてここにも名をのこしている中村光男氏としてよいだろう。

ほとんどの寄稿が1ページずつの、いわゆるご祝儀文である。とりわけ関連団体の代表者の文章にはみるべき内容は少ないが、活字鋳造現場からの素朴な声として「築地活版の想い出」(谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長 P18)、「活字とともにあって」(渡辺初男/株式会社文昌堂会長 P19)の記録には、ほかにない肉声がのこされているので紹介しよう。


谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
東京都台東区松ヶ谷2-21-5に旧在

築地活版の想い出
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長

私がいっぱしの文選工になろうとの志を抱いて、築地活版所に入ったのが明治43―4年[1910―11]の頃、たしか22才の時でした。当時煉瓦造りとモルタル造りの社屋があり、印刷部と鋳造部とに分かれていて、私は印刷部のほうの活字部門に入りました。当時の社長は野村宗十郎さんで、活字部長が木戸金朔さん、次長が川口さんという方でした。この頃が築地活版所のもっとも華やかなりし時でした。

当時のお給金は1日19銭で、3食とも会社で弁当を食べていましたが、これが16銭、あとはたまの夜業代が[手許に]残るだけでした。そのため私は浅草に住んでいましたが、当時の電車賃5銭5厘(往復)をはらえず、毎朝5時に起きて1時間半がかりで築地の工場まで通ったものです。会社は7時から5時まで10時間労働というきびしいものでしたが、今の人には全く想像もつかないことでしょう。

私はわずか半年ばかりしか[東京築地活版製造所に]勤めませんでしたが、その時『古事記類苑』[不詳]という書物の活字を拾った[文選した]ことを憶えています。[活字]鋳造機は手廻しのもの[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産]が100台ほどあったようですが、夏は暑くて、裸になって腰に白いきれをまいて作業をし、たいへんなものでした。

また、当時は月島に分工場が、九州に支店がありましたが、月島からは、築地活版のしるしのついた赤い木箱の車で活字を運んでいました。配達もこの車やモエギの風呂敷に包み、肩にかついでやったようです。

私は大正3年[1914]、26才の時に独立して開業しましたが、やはり築地活版所の活字を[開業]当初は売っていましたから、だいぶいろいろとお世話になったものです。

私も築地活版所が解散する前に、[同社の]株をもっていて、株主総会にも2、3回出たことがあります。会社が思わしくなくなっても、株主には損はさせないと強調していました。しかし、1株55円だったものが、最後には5、6円になったようです。

しかし、築地活版所が無から有を生じることに努力して、印刷界発展の基礎をつくった功績は、まことに偉大なもので、とても筆に尽くせないものがあります。今日築地活版所跡に記念碑が建設されると聞き、昔の想い出を2,3綴ってみました。


渡辺初男/株式会社文昌堂会長
東京都新宿区東大久保1-489に旧在

活字とともにあって
渡辺初男/株式会社文昌堂会長

[前略]私の父、渡辺嘉弥太郎の話によりますと、明治19年[1886]秀英舎(大日本印刷の前身)に入社した当時[の活字鋳造設備]は、カスチング(手動鋳造機)[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産。原型は米国、国産機は弘道軒・神崎正誼の義弟、上野景範が、英国公使時代の明治9年(1876)春に神崎に送ったもの。それを原型として赤坂田町4丁目、大川光次郎兄弟が興した大川製作所が明治16年(1883)に国産化に成功。大川製作所は師弟相伝で、大川製作所→大岩製作所→小池製作所と継承された。小池製作所は2008年8月閉鎖されたが、その主要従業員と特許などは三菱重工が吸収した。『七十五年の歩み――大日本印刷株式会社の歩み』(昭和27年 P27)、『活字文化の礎を担う――小池製作所の歩み』(東洋経済 小池製作所 昭和60年6月30日 P32)より。なお秀英舎は、大川製作所による国産化がなってから、ただちに同機を数台導入したとされる]が3台[あった]とのことでした。後にトムソン(自動鋳造機)[トムソン型自動活字鋳造機]が大正時代に導入されたそうです。明治時代に「欧文のライン[を揃えて鋳造すること]、および規格[活字格とも。活字のサイズ、高さなどの仕様が各社で微妙に異なっていた。そのためこれらの企業の金属活字を混用することは長らく、あるいは最後までできなかった]を作るのに苦労した」等の話も聞き覚えております。


ブルース型手廻し活字鋳造機[参考写真]

トムソン型自動活字鋳造機[参考写真]

それから39年間、[父、渡辺嘉弥太郎は]只活字ひと筋に[秀英舎に]勤め、関東大震災を契機として、大正13年[1924]に独立開業しましたが、その当時の主流をなす3大メーカーとして、築地[活版所]、秀英[舎]、博文館[共同印刷の前身]がありました。いずれも書体とか規格[活字格とも]に特徴がありました。書体も大分近代化し、やや細目のものが出廻り始め、昭和20年[1945]の戦災から後の変遷は、ひときわ目覚ましいもので、ほぼ書体においては、現在の基礎をなすものと思えます。

母型の彫刻機[ベントン型活字母型(父型)彫刻機]、活字自動鋳造機等も続々と新機種が出て、書体の改刻等により新書体の誕生、JIS規格の制定と相俟って生産能力の向上等現在に至っております。

このように考えてみますと、印刷文化に貢献しつつ100年を迎えました。しかし日進月歩の歩みは1秒も休みなく、昨今の印刷技術の進歩は幅広く、変遷も著しく、ややもすると、活字が斜陽化するような誤解を生じ易いと思われますが、文選植字機[文選と植字を同時にこなす、いわゆる日本語モノタイプ、自動活字鋳植機]等の開発も進み、良い持ち味のある印刷物には活字は欠かせないものと自負いたしております。[後略]

また、パンフレット『活字発祥の碑』には、6-9ページの4ページにわたって、牧治三郎が「東京築地活版製造所の歩み」を寄稿している。ここには図版紹介がなく、また一部に詳細不明なところもあるが、簡潔ながら良く整理された貴重な資料である。次回、別項として、筆者手許資料で補完した姿をもってこの「東京築地活版製造所の歩み」の全文を紹介したい。

さらにパンフレット『活字発祥の碑』から紹介するのは、「活字発祥の碑建設のいきさつ」(P14-15)である。この執筆者は、全国活字工業組合広報部長、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐として名をのこしている中村光男氏(株式会社中村活字店社長)だとみている。この記録を読むと、除幕のまさにその瞬間まで、中村氏は全面的にこの建碑事業の人脈を、ほぼ牧治三郎にたよっていたことがわかる内容となっている。活字鋳造業者とは、ほとんどが現場の職人出身であり、当時にあっては意外と交友関係は狭く、知識に乏しかったのである。

活字発祥の碑建設のいきさつ
活字発祥の碑建設委員会(P14-15

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が、]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法はアメリカで開発されて、移入されたもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞日と滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の間にここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏から、築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売と印刷の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある築地活版に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒]氏の協力を得、同社田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人]先生の絶大なご協力をいただきました。

一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 建設基金協力者御芳名によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長が委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。

最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字・古賀和佐雄は、渉外委員としてだけ名をのこし、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。そのため活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任としてだけ名をのこしている。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売界、印刷界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。その主要な原因は、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じて、業績は急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた東京活字母型工業会も、事実上の破綻をきたしていたためである。

前号で吉田市郎のことばとして紹介した「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」としたのがこれにあたる。ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として資金提供にあたっている。


「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行
『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は、「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページの報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じない旅行記をは2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。神主に先導され、東京築地活版製造所第5代社長の子息、野村雅夫夫妻と、同氏の弟の服部茂がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。そして序幕にあたったのは野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。その介添えには終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、野村泰之少年があどけない表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に
『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
 


昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

あちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激をかうことになった。その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」という声が囁かれ、やがて蔽いようもなく「なんで東京築地活版製造所記念碑の除幕が野村家なんだ! 創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」という声が波紋のように拡がっていった。そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮――銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは頂点に達した。懇親会は険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

左) 平野富二
弘化3年8月14日―明治25年12月3日(1846―92)

右) 野村宗十郎
安政4年5月4日―大正14年4月23日(1857―1925)


 

《「碑」建設委員会の解散》

発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。

引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。

神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第5代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。

参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

ともあれ、「活字発祥の碑建設委員会」は11ヶ月にわたる精力的な活動をもって建碑にこぎつけて解散した。同会委員長代理であった中村光男氏は、同時に、そして引き続き、全日本活字工業会広報委員長でもあった。ここでもう一度建碑までの時間軸を整理してみよう。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

この連載において、牧治三郎は大正12年(1923)秋、野村宗十郎社長のもとで竣工した旧東京築地活版製造所ビルの正門が、裏鬼門、それも死門とされる、[方位学などでは]もっとも忌むべき方角に正門がつくられていたことを指摘した。そしてこのビルの建立がなった直後から、東京築地活版製造所には関東大地震、第二次世界大戦の空襲をはじめとするおおきな罹災が続き、また、野村宗十郎をはじめとするビル落成後の歴代経営陣にも、多くの病魔がおそったとを不気味な調子で記述したり、口にもしたのである。

信心深く、ふるい技能、鋳物士イモジの伝統を継承する活字業界人は、反射的に、それを、折からの不況と、業績不振とに関連づけた。そして除霊・厄払い・厄落としのために記念碑の建立を急ぎ、なにはともあれ昭和46年(1971)6月9日、無事に除幕式にこぎつけたのである。この間わずかに11ヶ月という短期間であったことは特筆されてよい。

なにごとによらず、うたげのあとは虚しさと虚脱感がおそうものである。ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、みずからもそれまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を調査、記録することにつとめた。これ以後、牧治三郎にかわって、毎日新聞の古川恒がなにかと中村光男氏を支援することになった。そしてここに、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の記録が、嫡孫の平野義太郎からあかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕から一年後に「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行して、ここに平野家一門を主賓として招くと同時に、『活字界』(第34号 昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶――生命賭した青雲の志」と題して、再度「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫とその一門は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らずに牧治三郎に利用されただけだったことが以下の記事から業界に知れて、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左:平野富二  中:義太郎、一高時代、母つるとともに(1916)
下:義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類、右・次女幾み(平野ホール藏)

ーーついにあかされた《平野富二首証文)ーー
平野富二の事蹟=平野義太郎」
「活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫」

『活字界 31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

平野義太郎
平野富二嫡孫、法学者として著名 1897―1980

★平野富二の事蹟=平野義太郎

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

1)風雲急な明治維新の真只中における、祖父・平野富二の畢生ヒッセイの事業は、恩師である学者、本木昌造先生の頼みを受け、誰よりも早く貧乏士族の帯刀をかなぐり棄てて、一介の平民となって、長崎新塾活版所の経営を担当したことでした。そのときすでに販売に適する明朝活字、初号から五号までを完成していました[初号活字は冷却時の熱変形(ヒケ)が大きく、木活字を代用とした。鋳造活字としての初号の完成は明治15年ころとされる]。しかも平野は他の同業者に比し、わずか4分の1の1銭で五号活字を売り捌いたということは、製造工程の生産性がいかに高かったかを示すものでした。

2)さて印刷文化の新天地を東京にもとめ、長崎から東京にたずさえてきた(明治5年7月)のは、五号・二号の字母[活字母型]および、鋳型[活字ハンドモールドのことか]各1組、活字鋳込機械[平野活版所には創業時から「ポンプ式活字ハンドモールド」があったとされるが、これを3台を所有していたとは考えにくい。詳細不詳]3台、ほかに正金壱千円の移転費だけでありました。四号の字母[活字母型]は、そのあと別送したものです。平野は長崎で仕込んだ青年職工・桑原安六以下10名を引きつれて上京、ついに京橋区築地2丁目万年橋際に新工場を建てました(明治6年7月)。そこはいま碑の建てられた場所です。この正金壱千円の大金を、平野はどのようにして調達したのでしょうか。

この正金壱千円の移転費を、長崎の金融機関であった六海社(平野家の伝説では薩摩の豪商、五代友厚)から、首証文という担保の、異例な(シャイロック型の)[Shylock シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』に登場する、強欲な金融業者に六海商社を義太郎は擬ナゾラえている]借金をしたのでした。

すなわち、「この金を借りて、活字鋳造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差し上げる」という首証文を担保にした借金だったのである。

3)平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた――これが活字改良の第一歩であった。

曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである。

明治14年3月(1881年)、築地活版所[長崎新塾出張活版製造所から改組・改称し、東京築地活版製造所]と呼称した。平野は従来の投資になる活版製造所の一切の所有権を恩師・本木昌造先生の長子、[本木]小太郎社長に譲渡した。それで平野は本木先生の信頼にたいして恩義に報いたのであり、また自分は生涯の念願である造船業に全エネルギーを注ぎ込んだ(石川島平野造船所の建設)。
曲田 茂 マガタ  シゲリ
阿波徳島の士族出身、幼名岩木壮平、平野富二と同年うまれ
弘化3年10月1日-明治27年10月11日(1846-94)

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。

★活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。

正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。

最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

「活字発祥の碑」建碑を終えてからも、『活字界』は積極的に取材を重ね、周辺情報と、人脈を掘りおこしていた。なかでも平野富二の嫡孫・平野義太郎の知遇を得たことが中村光男氏にとって、井戸のなかから大海にでたおもいがしたようである。驚くかもしれないが、そもそも平野富二の嫡孫であり、また東大法学部助教授の俊才として名を馳せた、高名な法学者・平野義太郎が、東京都内に現住していることは、当時の活字業界人は知らなかった。その次第はあらかた『富二奔る――近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗 朗文堂 2002年12月3日)にしるした。端的にいえば、天下の悪法・治安維持法のためであった。また平野義太郎の詳細な評伝も刊行されている。『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)。両書をご参照願いたい。

★      ★

碑前祭り厳粛に挙行、活字発祥記念碑から一年
『活字界』(34号 全日本活字工業会広報委員会 昭和47年8月20日)

『活字界』34号は、落成・除幕式の折の陰鬱な記録とはまったく様相を異とし、「活字発祥の碑」建碑から1年、碑前祭りの記録――が、全8ページのうち、6ページをもちいて、中村光男氏の弾み立つような文章に溢れている。ここで平野義太郎がかたった「首証文」の借用書に関して名前が出てくる、長崎・大阪の豪商・金融業者・「協力社、永見松田商社、六海商社、五代友厚」に関してあらかじめ簡略に紹介しよう。

『百年の歩み――十八銀行』
(十八銀行、昭和53年3月28日

《長崎における会社》 P11
当時の長崎に存在した会社、商店についての資料は非常に少ない。明治11年『県統計表』によると国立銀行五行(第十八、第九十七、第九十九、第百二、第百六)の外に、会社としては、つぎの8社があげられているにすぎない。
勧業会社(対馬厳原   物産繁殖           株金1万5、000円)
六海商社(長崎区西浜町 物産繁殖          株金5万円)
以文会社(長崎区勝山町 書籍ならびに活字印刷  株金  5、000円)
又新社 (長崎区東浜町 石鹸製造           株金  2、000円)
養蚕社 (対馬厳原   養蚕ならびに職工      株金  1、000円)
漸成社 (東彼杵郡大村 養蚕             株金  1、500円)
長久社 (東彼杵郡大村 桑苗ならびに茶園     株金    800円)
新燧社 (本社東京   マッチ製造              株金1万円)

《第十八国立銀行の前身――永見松田商社の設立》 P12
明治3年1月長崎の有力商人たちのうち、中村六之翁、盛千蔵、山下右一郎、永見伝三郎(当行初代頭取)、村上藤平、三田村庄次郎、和田伊平次、松田勝五郎、永見寛二、深川栄三郎、伊吹卯三郎、下田嘉平の13人は、長崎県の要請により、「協力社」という為替会社とは性格を異にする商社を組織することになった。

この協力社は長崎産物会所が旧幕時代に海産物商その他に前貸ししていた貸付金約9万5,000両の整理をはかるため設立されたもので、協力社はこの貸付金を回収して明治4年から10ヵ年賦上納することと定められていた。しかし、これらの貸付金は諸国産物商に対する滞り貸付や、幕府の残した抵当物件のようなもので回収は急速にははかどらず、協力社は為替、貸金業などをいとなんでいたものの運営資金は乏しく、金融の効果はあげ得なかった。

松田源五郎(当時第2代頭取)は、かねて新時代を迎えてこれからの長崎の発展のためには、近代的金融機関「バンク」の設立が必要であると痛感し、当時の有力な商人、富商らに、その実現について極力働きかけていたが、旧商慣習になずむ人たちが多く、その実現は容易なことではなかった。

しかし、永見伝三郎、松田勝五郎、永見寛二その他の一部の有志は、ようやくこの進歩的主張に動かされ、明治4年会社設立に踏み切り、12月15日資本金5万円をっもって、東浜町326番地に本店をおき、合資組織による「永見松田商社」を設立、松田勝五郎を社長として翌明治5年1月2日をもって開業した。この永見松田商社こそ、後年における第十八国立銀行および株式会社十八銀行の先駆をなすものであり、九州における近代商業銀行の嚆矢といってもあえてさしつかえない。

また「永見松田商社」へ参加しなかった人びとも、明治6年1月「協力社」を「六海商社」という合資組織の会社に改組し、盛千蔵が社長となった。

平野義太郎は「平野富二首証文」の提出先として、長崎の伝承では六海社としているが、これは上記資料からみても「六海商社」のことであろう。六海商社はもともと長崎銅座の豪商による一種の講であったとされる。いまはわずかに長崎市街地に銅座川の名をのこすにすぎないが、わが国はながらく産銅国として知られ、銅竿を長崎に集め、ふき替えをして銀や金などを取り出してから輸出して、巨利をあげていた業者の講があった。そして、その町人地を江戸期は銅座と呼び、明治以後はそれらの富商は六海商社に結集していたとされる。「協力社」系の企業、六海商社の資金力は、前記資料をみても、のちのナンバー銀行「十八銀行」と同額の5万円であったことに注目したい。ここに「平野富二首証文」を提出したという風聞は、長く長崎には流布していたようである。

しかし平野一家では、それを大阪の豪商、五代友厚(1835―85)として、いまも伝承している。五代は元薩摩藩士として外遊を重ね、維新後は外国事務局判事などをつとめた。のち、財界に身を投じて、おもに大阪で政商として活躍した人物である。その興業は造船・紡績・鉱山開発・製藍・製銅などにおよび、大阪株式取引所、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)などの創立に尽力した。また五代関連の資料では、大阪活版製造所の創立者を五代に擬すものが多い。

しかし五代は近代主義者であり、開明派をもって任じており、26歳の有為の青年・平野富二に、「首証文」を担保として提出を求めたとは考えにくい。もちろん軽々しく断定はできないが、筆者はむしろ長崎の伝承にしたがって、ふるい銅座の旦那衆であった「六海商社」が、上京開業資金の借り入れに際して担保を要求したため、青年・平野富二は六海商社に「平野富二首証文」を提出したものとみなしている。

また平野義太郎は、平野富二の右腕兼後継者として、曲田茂マガタ-シゲリを何度もあげたが、野村宗十郎に関しては、冒頭にわずかに一度触れただけで、ほとんどそれを無視した。これは通説にたいする見事なしっぺ返しである。義太郎が再々のべたように、いわゆる「活字書風築地体」の確立に果たした役割は、やはり創業者・平野富二と、その右腕の曲田茂によった、と筆者もみなしている。野村宗十郎の役割と功績は、少し別な見地から再評価されるべきであろう。

ともあれ、明治維新に際して長崎の富商は「協力社」に集められ、そのうち金融業者を中心に、これまた長崎出身、福地櫻痴による新造語「BANK→バンク→銀行」に変貌した。そのうち「永見松田商社、のちの立誠会社、長崎十八銀行」は、本木昌造の事業、平野富二の事業にきわめて積極的に関与していた。とりわけ実質的な創業者であり、第2代頭取・松田源五郎は、東京築地活版製造所、大阪活版製造所の取締役としても記録されている。また第5代頭取・松田精一は、、十八銀行頭取(1916―36)と、東京築地活版製造所の社長職(1925―35)を兼任していたほどの親密さでもあった。

したがって松田精一が歿し、長崎人脈と、長崎金脈が事実上枯渇したとき、明治5年(1872)7月、神田佐久間町3丁目長屋に掲げた「長崎新塾出張東京活版所」、すなわち、のちの東京築地活版製造所は、あっけなく解散決議をもって昭和13年(1938)3月、66年の歴史をもって崩壊をみたのである。このあたりの記録は次稿『東京築地活版製造所の歩み』でさらに詳細記録をもって紹介したい。

6月29日午後3時から、東京・築地懇話会館前の「活字発祥記念碑」の前に関係者など多数が出席して碑前祭が行われた。[全日本活字]工業会では昨年6月29日、各界の協力を得て旧築地活版所跡に「活字発祥記念碑」を建立した。この日はそれからちょうど1周年の記念日に当たる。

碑前祭には、全印工連新村[長次郎]会長、日印工佐田専務、東印工組伊坂理事長、全印工連井上[計]専務、懇話会館山崎[善雄]社長、同坂井支配人、同八十島[耕平]顧問、全印機工安藤会長はじめ、毎日新聞古川恒氏、平野義太郎氏(平野富二翁令孫)、牧治三郎氏(印刷史評論家)など来賓多数も列席、盛大な碑前祭となった。

碑前祭は厳粛に行われ、神主が祝詞をあげ、渡辺会長を先頭に新村会長、伊坂理事長とつぎつぎに玉串を捧げた。

懇話会館入口では出席者全員に神主から御神酒が配られ、この後は同会館の13階のスヱヒロで記念パーティが行われた。渡辺[宗助]会長はパーティに先立って挨拶し、その中で「ホットとコールド[金属活字と写植活字]は全く異質なものであり、われわれは今後とも[金属]活字を守り、勇気をもって努力していきたい」と語った。つづいて挨拶に立った全印工連新村[長次郎]会長は、「活字があったればこそ、今日の]印刷業の]繁栄があるのであり、始祖を尊ぶ精神と活字が果たしてきた日本文化の中の役割を、子孫に伝えなければならない」と活字を讃えた。

また、和やかな交歓が続くなかで、日本の活字発祥の頃に想いをはせ、回顧談や史実が話された。毎日新聞社史編集室の古川[恒]氏は、グーテンベルグ[ママ]博物館の話を、平野義太郎氏はそのご子息と一緒に出席、祖父について同家に伝わるエピソードを披露した。牧治三郎氏からは本木昌造翁、平野富二翁、ポイント制を導入して日本字のポイント活字を鋳造・販売し、その体系を確立した野村宗十郎翁などを中心に、旧築地活版所の歴史を回顧する話があった。

活字をめぐる情勢は決して良いとはいえないが、こうして活字業界の精神的な柱ともいうべき碑ができ上がったことの意義が、建立から1年を経たいま、確かな重さで活字業界に浸透していることをこの碑前祭は示していたようだ。

平野義太郎氏挨拶――生命賭した青雲の志

私はここで[晴海通り側からみて、懇話会館ビル奥のあたりが平野家であった]生まれましたが、平野富二はここで死に、その妻、つまり私の祖母[駒・コマ 1852―1911]もここで死んでおります。その地に碑を建てられ、今日またここにお集まりいただいた活字工業会の方々はじめみなさまに、まず御礼を申し上げます。

エピソードをなにか披露しろということですので、平野富二が開国直後の明治5年に東京へ出てくる時の話をご紹介します。この時、門弟を4-5人連れて長崎から上京したのであるが、資本がないし、だいたい上京の費用がない。そこで当時の薩摩の豪商[五代友厚を意識しての発言とみられる]に、“もし返さなかったらこの首をさし上げる”といって借金した[という]話が、私の家に伝わっております。それくらいに一大決意で[活字製造の事業を]はじめたということがいえましょう。本木昌造先生の門弟としてその委嘱を受けて上京、ここではじめて仕事を始めたということです。

これら創生期の人々も、その後築地活版を盛り立てた方々も、きっと今日のこの催しを喜んでいることだろうと思います。

朗文堂-好日録005|朗文堂-好日録005|ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 P R G のこと

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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★ 忙中に閑あり 美術館巡りのこと───
ひとなみに年末バタバタ騒ぎの渦中にある。そんなことを綴っても面白くもない。だから忙中に閑ありて、美術館のこと。

このごろはなかな良い美術館があちこちにできた。東京の美術館はチマチマ、コセコセ、混雑しているので、いささか敬遠気味。でかいビルのこちらのワン・フロアが美術館です、といわれても味気ない。

だから最近はチョイ遠出をして(新宿から電車一本、バス一回)、宇都宮美術館がお気に入り。
関東平野、ここにつきたか ─── といった小高い丘のうえにある。ともかく緑ゆたかな景観がよい。天井がたかくてゆったりした建物もいい。それが宇都宮美術館である。
ここは展示スペースが広く、ごちゃごちゃした美術館のように、作品がくっつきあって、たがいに視覚に干渉することがない。また、ここのカフェのランチは、地元の食材を使って新鮮で旨い。そして帰りがけに、駅前でのんびりと、名物のでっかい餃子をたらふく楽しむ。

★ 横須賀美術館にて《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》を展観する
12月18日[土]、勇気をふるって横須賀にでかけた。横須賀には30年ほど前に一度いった。やたらと制服のヘイタイさんがおおくて辟易した。それ以来である。

もともと「制服」がおおいに苦手である。制服・制帽の着用を義務づけられた高校入学式の前夜、ひたすら制帽の芯(ただのボール紙だった)を全部ぬいて、禅宗坊主のズダ袋のようにした。

なにぶん高校は、鈍くさい、田舎の元旧制中学だったから、一応(甘かったけど)制服・制帽の着用が義務づけられていた。まして、お粗末なことに、「風紀委員」などという、時代遅れ、勘違いの輩ヤカラがいて、翌朝に新入生指導と称して、肛門 モトイ 校門の前で服装チェックをしていた。
トンチンカンを相手にするのは面倒だから、鞄から苦心のズダ袋を取り出して、頭にひっかぶって、
「おはようございま~す。ご苦労さまで~す」
と通り抜けた。それでもけしからん一年生だと、すぐさま風紀委員からの呼び出し。(軟弱で硬直した風紀委員なぞは衆を頼むから)大勢に取り囲まれたが、
「わが校の校則に、質実剛健 シツジツゴウケン、和衷協同 ワチュウキョウドウ、至誠一貫 シセイイッカンとありました。質実剛健を体現するべく斯様 カヨウにいたしました。ナニカ?」
といって退かなかった。

これですっかりトンチンカンから目をつけられたが、ひとつきもたつと、たれもとがめなくなった。べつに制帽などという暑苦しいものをかぶる必要はないだろう。できるだけ自由人でありたいし、等身大でスッと立っていたいものだ。
ところで風紀紊乱 ビンラン なることばもあったな。忘れていた。
しかし、暑くも寒くもない4月、それも若いうちから帽子などをかぶっていると、将来の毛髪の消長に甚大な影響があろうというものだ。そんなものなのだ、風紀なぞとは、所詮。

いまだにこの制服嫌いは徹底している。バスやタクシーの運転者の制服くらいなら反応しないが、ホテルの黒服などには過敏に反応する。客にはくそ丁寧をよそおいつつ、慇懃かつ無礼きわまるからである。こんなのに限って、同僚のベルボーイやウェイターには居丈高であったりする。
ときとして、トンチンカンにとっての制服とは、なにか、おのれはたれかより偉いト、愚かにも勘違いさせたりする。これが階級章をつけた制服の警察官や自衛官であると、もうそれだけで吾輩のアレルギーは危険水域にはいる。それが元となって、ずいぶん埒 ラチ もない、語るに落ちる、つまらない経験をした。
それでもこのアレルギーだけは現在進行形、症状はますます重篤なのだ。

ところで横須賀。横須賀美術館《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》展覧である。
本展の図録を新宿私塾修了生Hさんが担当。ご案内もいただいていたので気になっていた。しかし制服アレルギーの発作がこわかったので、横須賀行きを逡巡していた。それでも会期終了が近づいたし、雲一点もなき快晴だし、行くか ! 
てっきり東京駅から古ぼけた横須賀線に乗って、チンタラ横須賀までいくものだとおもっていた。ところがノー学部が Website で調べた、分刻みの路線案内にしたがって、地下鉄でいく。どこかでそのまま京浜急行に乗り込んだようだが、ともかく新宿から地下鉄に乗って、乗り換え1回で京急馬堀駅に降り立つ。道中居眠りしていたせいもあってよくわからない。

ナント! 目が覚め、降り立った地下鉄 モトイ 京浜急行の馬堀海岸駅の眼前には、眩いまでの海が広がっていた。吾がふるさと信州信濃には海が無い。だから吾輩を含む信州人にとって、海は永遠の神秘(であるはず)。
まして地下鉄に乗って居眠りを続けてきたから、地底から救出された銅鉱山の鉱夫のように、この衝撃はまぶしく大きい。

バスでチョイ、横須賀美術館に着く。景観に感激。海を借景にしたというとなにか変だが、海と山にはさまれた素晴らしい眺望だった。
まずは海を堪能しながら、ギャラリー・カフェでランチをとる。プチ贅沢をゆるす。写真はまた失敗したので、同館パンフレットのものを紹介。18日[土]は一点の雲もない、あっぱれ日本晴れだったのだが。
これでデジタルカメラの操作マニュアルなどという、技術屋の記述による、無味乾燥、これがわが国語かという、妙な文章にあふれた七面倒なものをみないで、撮影技術が伴えば鬼に金棒だ!

ここのところ、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819―1900 イギリスの芸術批評家・社会思想家)と、ラファエル前派との関連を折りに触れて調べていた。例のアーツ・クラフツ運動の理論的指導者として、この人物の存在が無視できなかった。それにしては翻訳書からの理解は歯がゆいものがあった。
だから横須賀美術館で、愛読書の『建築の七灯』『この後の者にも』の原著(ガラスケースに入っていたけど)を見たり、ラスキンの自筆のスケッチを見られたのには興奮した。
[この大聖堂のスケッチは、批評家というより、もはや素描家だな。ラスキンめ、なかなか巧いじゃないか] トおもう。

ただし、エリート画家(無謀で反抗的だったけど)が結集した、ロイヤル・アカデミー(王立美術学校)出身の、「ラファエル前派兄弟団  P R B」という若い画家集団の絵画(とりわけ第一世代、20代の作品)は、どこか意識過剰で、生硬で、消化不良をおこしているようで、少々辛かった。
また主題を構成する部分より、周辺細部の草花やら道具やらの、なにやら一見暗示的(神秘的?)な仕掛けばかりが目について、主題が散漫になっていた。
[ラスキンの奴メ、若けぇ画学生どもを、うまく煽ったな]── トおもった。

★ラファエル前派兄弟団 P R G
いまから160年ほど前のことである。1848年09月、ロンドンの片隅に6人の画家と1人の作家が集まった。年齢は18歳から20歳、意欲と能力はあったが、まだまだ未熟、発展途上の造形者であった。中心メンバーは、ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-96)、ダンテ・ガブリエル・ロセッテイ(1828-82)らであった。

かれらは当時のイギリス画壇の潮流を、大胆不敵、一刀両断のもとに斬り捨てて、「ラファエル前派兄弟団 P R B」と名乗った。その構成員はしばらくは内密にされ、作品にはただ「P R B」とだけしるされた。
[このあたり、悪戯半分で、中世アルチザンの秘密結社を真似たのかな?]
トすこしばかりおもう。

さらに大胆にも「ラファエル前派兄弟団」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠、ラファエル(Raffaello Santi  1483-1520 ヴァチカン宮殿の壁画、サン-ピエトロ大聖堂の建築監督、ラファエロとも)をもっとも唾棄すべき存在とした。かれらはラファエルに代表される、ルネサンスよりも前の時代、すなわちそれまで暗黒の時代とされていた「中世」を賞揚すべき存在とした。
これはまた同時に、イタリア・ルネサンスを否定して、中世復古、ゴシック・リバイバルを意味することにつながった。乱暴に解釈すれば、秘技・秘術・錬金術バンザイでもあった。

そんなかれらが作品を発表すると、当然世上は辛辣な批判にあふれ、無理解のおおきな壁に突き当たった。もちろん異端は異端であるだけでは注目されない。「ラファエル前派兄弟団」にはそれだけの(批判をあびるほどの)理論構築と技倆がともなっていたということだ。
そのとき批評家ラスキンは、むしろ積極的に、この暴走族にも似た、無謀な若者のグループを支持したが、さすがにその「ラファエル前派兄弟団」の名前を「いささか滑稽な」と評した。
しかしながら19世紀の中葉、停滞した英国ヴィクトリア王朝美術の復興は、無謀で大胆な、美術学校の学生運動ともいえる、若者たちの破壊的な挑戦からはじまったことだけは特記されてよい。
─── それにしても現代の若者は「よゐこ(ぶった)」が多いとおもう。若者は生意気で、挑戦的であって良いのだ。そして老人はやかましくて、口うるさくて良いのだ。─── 話柄がそれた。戻りたい。

「ラファエル前派第二世代」とされるのが、画家のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-96)、ウィリアム・モリス(1834-96)である。このふたりはロイヤル・アカデミー(王立美術学校)の学生が中心だった第一世代とは異なり、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学し、神学を学んだ。ふたりを結びつけたのは中世文化への傾倒だったが、その後急速にキリスト教社会主義と、ラスキンの社会思想の影響を受けるにいたった。

ジョーンズとモリスにいたって、あまりに教条主義的だった「ラファエル前派兄弟団」の写実性は、穏当なアルチザン(技芸者)とアーチスト(工芸者)のものへと変容を遂げた。かれらはまた書物と活字にも目を向けた。ここからはすでに語り尽くされているので割愛。

吾輩、すっかり若者の熱気にあおられ、久しぶりに血が熱くなった。展観を終えて、外に出ると、はや日はどっぷり暮れて満天の星。汽笛がボーッと鳴る。ほぼ桃源郷に遊ぶこころもち。
お腹がすいたので、走水神社前の和食店 ── というよりふるぼけた食堂に飛び込む。これがまた !! いいんですねぇ! ことばを失うほどのうまさ。そして安いときているから、いうことなし。

老店主は漁士で、息子夫婦が地魚の食堂を経営しているようだ。ピチピチのアジの刺身、サザエ、地タコ、ナマコを食す。いうことなし。美術と美食で満腹であるぞ。そういえば「美食同源」だったな、イヤ「画文同源、画文一致、そうか医食同源」だったかな? もはやなんでも良いぞ。旨かったから。

おお、忘れるところだった。
同館所蔵品特集《藤田 修 ── 深遠なるモノローグ》が常設展示場の一室で開催されていた。ここではじめて藤田修なる版画の異才を知った。とりわけフォトポリマー・グラヴェール技法と、レタープレス(活版)による「生まれるのに時があり」の作品に凍りつく。
「版画よ、額縁から脱出せよ!」「活版印刷よ、額縁にとりこまれるな!」── と念じている吾輩にとって、まさに欣快、ポンと膝を叩いて、やったな! の作品であった。
「やっぱりいたか。こんな造形者が、わが国にもな~」
のおもい。図録を 2 冊買って帰りの電車でみていたら、ナント! こちらの図録のデザインは、これまた新宿私塾修了生Mクンだった。みんなあちこちで大活躍しているなぁ。トいたく感激。

《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》は12月26日まで。23日(天皇誕生日)と、この週末の休みもある。その気になれば新宿から1時間半。荒らされるからあまり教えたくないが、美術館から徒歩 5 分、走水神社バス停前(行けばすぐわかるはず)には、新鮮・旨い・安い(店主夫妻は無愛想だし、チトきたないけどネ)、地魚食堂つきの旅である。図録は二点ともとてもすばらしかった。できたらこの週末、再度いきたいものである。

12月18日[土]、一点の雲無き快晴。21日[火]重い雲がのしかかる。曇天なり。日日之好日

花こよみ 005

詩こころ無き身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

冬   が   来   た

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹 イチョウ の木も 箒 ホウキ になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木にそむかれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た

高村光太郎(詩人・彫刻家 1883-1956)

朗文堂-好日録004 吾輩ハ写真機ガ苦手デアル

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉吾輩ハ写真機ガ苦手デアル――――どうも写真機、モトイ、カメラとの相性が悪い。3年ほど使っていた、平べったい小型「エスオーエヌワイ」電子カメラが起動しにくくなり、Websiteで検索したら、こうした事例が多い機種とみえて、対処法がいくつか掲載されていた。最初にヒットしたアメリカのユーザーは「手をまっすぐ伸ばして、そこから落下させると起動する……」と、なんとも怖ろしいことを書いていた。おとなしい日本のユーザーは「膝の上でトントンと、やや強く叩くと起動する」などとしていた。どうやら接触不良が原因か? それでもなんとか、だましだまし使ってきたが、ついにまったく起動しなくなった。もちろん保証期間はすぎていた(このあたりは良くできていたな、ウン)ので、泣く泣く次世代機を購入。

伊勢丹ちかくの「大きなカメラ--元 安さ爆発! カメラのさくら屋~♫」で、安物ではあったが「ナイコン」一眼レフ型の新機械を買った。もともとナイコン一眼レフカメラ愛用者だった。その重厚感としっかりしたピント合わせが魅力だった。しかし今回の購入時にはひと悶着あった。接客態度があまりに凄い。「メモリー・チップも欲しいんですけど」、「あそこにありますから」  ト 遠くを指さす。「ふつうどのくらいの容量を買えばいいんでしょう」、「それはお客さんがきめることです」。ト きっぱり。

チョットひどすぎるとおもった。支払い時にチトクレーム。すこし偉そうな店員さんが(格好だけ)平謝り。その説明(言い訳)によると、担当した店員さんは競合某社からの派遣社員であって、「ナイコン」を選んだ小生は(彼のひとにとっては)客ではなかったようだ。偉そうな店員さんがにこやかに(中も確認しない箱のまま)袋に(放り)入れて「これが保証書です」、との説明を受けて退出。ヤレヤレのおもいで帰社。最初にテスト撮影をしたら、レンズがおおきく突き出たまま、そこでフリーズ。なんともトンマな姿であった。「バッテリーを外して再起動すると治る、モトイ、直る」といわれ、やってみたらたしかに起動した。だがまたすぐにフリーズした(いいんだろうか? 写真機とパソコンを同じ用語で語っても)。

そもそも平べったい「エスオーエヌワイ」の小型カメラも最初は難儀した。カメラはファインダーを覘いて撮るものと(いまでも)決めているから、ファインダー(だとおもっていた)穴が、よもやレンズとは露おもわなかった。たいていは「向けて撮~る」だから、撮影後にみたらオカルト画像のような、妙なモノしか写っていなかった。それが自分のメンタマだとわかるのに少し時間がかかった。これですっかり機械オンチであることがバレて軽蔑された。電子カメラもレントゲン撮影機(胸部の)と同じ構造になったとおもいこんだのが間違いだった。

さて「ナイコン」のその後。10回に1回はフリーズするので、保証書と一緒に「大きなカメラ」に修理依頼で持ちこんだら、「新宿ナイコン・サービスセンター」を紹介され(追い出されて)退出。新宿西口までトボトボ歩く。さすがに「ナイコン」は丁重そのもの。即刻にこやかに同型の新台と交換(速攻追い出し)退出。なにか不満足、なにかが物足りないぞ。

精密機器の修理とは、痩身の技術者が、何だかふしぎなルーペを目にはめて、小さなドライバーでシコシコ修理するのだとおもっていた。そして所在なくふるい週刊誌などをみていると、やがて「ハイ、お待たせしました。直りました!」と技術者と共に喜びたかったのだ。精密工業技術を誇る日本製なのに、なんたることかとよくみたら、MADE IN INDONESIAと、底部に豆粒のような字でしるしてあった。嗚呼! 唖唖 !! 精密工業の底辺を支えてきた信州人を愚弄しているではないか。わがふるさとは貧しく、民草は泣いておるというのに。

銀座凮月堂のおいしい和菓子-味の粋

◉吾輩ハ、銀座凮月堂デ「味ノ粋」ヲ食ス――――銀座をぶらつく、というとちょっと格好がいいが、ふるい資料と、例の「ナイコン」を鞄にいれて、晴海通りから一本新橋寄りの「みゆき通り」を徘徊する。晴海通りから、gggギャラリーに続く「すずらん通り」に入って、一本目の道路が「みゆき通り」である。ここをうろうろとさまよい歩く。徘徊の最中は明治11年ころの南鍋町2丁目1番地を歩くこころもち。

町の名前からして、江戸期のこのあたりは「居職」商工者の町で、鍋や釜などの鋳物屋が多かったとされる。その一部が文字の鋳物--活字鋳造業者に転じたということ。明治11年、当時ここには「活版製造所弘道軒」があった。そしてご自慢の英国直輸入(原産国は米国)ブルース手廻し活字鋳造機が(最初から最後まで)1台だけあって、清朝活字を製造していた。そのすぐ脇には「日報社・東京日日新聞社、いまの毎日新聞社」があり、数寄屋橋に近寄れば秀英舎活字鋳造部製文堂もあった。いわば築地の東京築地活版製造所とともに、明治の印刷・出版・活字史を飾った企業群があったメディア発祥、活字ゆかりの地である。

かつては東京築地活版製造所、秀英舎の創業の地を訪ねて、やはりその周辺を徘徊した。いまは「活版製造所弘道軒、南鍋町2丁目1番地」である。古地図『東京京橋区銀座附近一覧図』(明治35年、京橋図書館蔵)が頼りとなる。そこでは「菓子商・米津凮月堂」の一軒隣が「活版製造所弘道軒」となっている。凮月堂はいまでもみゆき通りに本社と直営店を構えているが、移転を最低でも三度は繰りかえし、はす向かいの現在地に落ち着いたことがわかった。南鍋町2丁目1番地の弘道軒は、現在は鈴乃屋呉服店(中央区銀座5丁目6-10)あたりであるとみなす。

客足が途絶えたところを見計らって、鈴乃屋呉服店に飛び込む。「まことにつかぬことを伺いますが、こちらは何年ころから営業されておられるのでしょう?」「昭和5年(1930)と聞いています」。このくらいは事前にWebsiteで取材済み。社長が出てきてこんにちは♫ 親切に対応。関東大地震(大正12・1923)の後始末がついて、各店舗が開設されるまでに時間がかかったようである。収穫多し。

みゆき通りからすずらん通りに左折、2軒入ったところ。ここも昭和5年創業の「タカオカ靴店」に「ワンカップ」数本を片手に再訪問。ここは靴屋である。その証拠にショー・ウィンドーに照明が入っているが、商品は革靴が一足だけポツリ。それも確実に4ヶ月は連続して現状のママ、イキ。店主はいつも店右奥でフリーズして、ズック、モトイ、黒いスニーカーを履いている。今回は、みゆき通り、銀座中央通りに、関東大地震のころまで「ドブ・溝・クリーク・川・運河」があったか否かを再取材。タカオカ翁、御齢96歳。まだ昼下がりなのに、まずワンカップをグビリ。

「戦争中か、おぅ、陸軍に召集よ(敬礼)」。[第一師団ですか?]。「冗談じゃねぇ、あんな金ピカ近衛じゃねぇ、第六聯隊、実戦部隊だ」。[第六聯隊はほとんど全滅したとされてますね]。「まあな。青森や岩手の聯隊からは軽くみられてたな、弱兵だってな。逃げんのが早いんだよな」。[ところでタカオカさん、そこのみゆき通りには、関東大地震のころには、ドブか、クリークか、川のようなものはありましたか?]。「震災後も、戦前までは川があった。ここからも中央通りに流れていた」。[それはドブのようなものでしたか?]。「ドブじゃねぇさ。泥鰌やタニシくらいはいたし、中央通りにいけば、鮒やメダカだっていたな。ところで若いの、幾つだ?」。[65歳になりました]。「そうか、若いな(?)。オレの息子の歳だな」。[はい、わたしの母親もタカオカさんと同じ96歳で健在です]。障害難聴者と加齢難聴者の会話は、ここが銀座のど真ん中か、という具合で、端から見たら(たれも入ってこないけど)怒鳴りあいの大声でつづく。

チョイ疲れたし、取材メモを整理するために凮月堂に入る。1階のショーケースで和菓子の品定めをして、2階の喫茶室にあがる。一服して和菓子「味の粋」が食べたかった。ただしこの菓子の読み方がわからなかったので、写真付きのメニューから、「コレと、珈琲をください」と註文。昼下がり、甘いものをひとりで食すのはチト恥ずかしい。テストを兼ねてこっそり「ナイコン」でパチリ。

まもなく妙齢のご婦人が隣席に。「アジのイキと、お抹茶、よろしくね」とこちらは小粋に決めた。同じ和菓子がでてきたぞ。なにか引っかかったので、一階のレジで、伝票にプリントされた「味の粋」の読み方を質問。「当店ではアジ-ノ-スイと呼んでおります」。あぁ良かった、恥をかかなくて済んだ、とおもうと同時に、湯桶ユトウ読みや重箱ジュウバコ読みにはふり仮名を! とおもった。そして「ナイコン」。やはりひどい仕上がりだった。これはカメラのせいではなく、まぎれもなく小生のせいである(らしい、悔)。

中央が鈴乃屋呉服店。すずらん通りの右が旧日報社とみられる。

タカオカ翁、96歳。意気軒昂!

銀座のど真ん中タカオカ靴店。堂々と靴一足!盛業中!

花こよみ 004

詩こころ無き身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

楓 橋 夜 泊
月 落 烏 啼 霜 満 天
江 楓 漁 火 対 愁 眠
姑 蘇 城 外 寒 山 寺
夜 半 鐘 聲 到 客 船
      ―――― 唐  張 継

蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
月 落ち からす ないて 霜 天に満つ
江楓コウフウ 漁火ギョカ 愁眠シュウミンに対す
姑蘇コソ 城外の 寒山寺
夜半の鐘声 客船に到る

張継は中国8世紀前半盛唐の詩人。字は懿孫イソン。
湖北襄州のひと。玄宗のとき進士。『張祠部詩集』
一巻があり「楓橋夜泊フウ-キョウ-ヤ-ハク」の詩で著名。

朗文堂-好日録003 秀英体100、正調明朝体B、和字たおやめ

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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大日本印刷 ggg  ギンザ・グラフィック・ギャラリー 「秀英体100」を発表――大日本印刷のgggギャラリーが、第294回企画展「秀英体100」を発表している。会期は2011年1月11日[火]-31日[月]。同社秀英体開発室を中心に、長年にわたって展開してきた「秀英体平成の大改刻」には、小社もお手伝いを重ねてきた。プロジェクト自体はまだ中途であるが、その中間報告として画期的なイベントとなることが期待される。新年のダイアリーには、まずこの予定を書き込んでいただきたい。  【 詳 細

朗文堂タイプコスミイク――《正調明朝体B金陵 Combination 3》、《和字たおやめ Family 7》発売開始。
お待たせしました! いよいよ発売開始です。このふたつのパッケージ書体は、林昆範さん、今田欣一さんとの勉強会「グループ昴スバル」でのいいつくせない思い出がある。あのころは熱かったとおもう。そして、これからも熱くありたいとおもう。

祝祭日――11月23日は「勤労感謝の日」だった。最近の「デザインの効いた」カレンダーの一部には、祝日は刷り色だけを赤などにしてあるものの、どうして会社や学校が休日になるのかわからないものが多い。つまり気がつかないうちに、あまり使われないことばとなって、もはや死語と化しつつあることばが「祝祭日」かもしれない。もともと祝日は「めでたい日、いわいの日、特に国家の定めた祝いの日」であった。いっぽう祭日は「国民の祝日の俗称」ともされるが、本来は「祭りをおこなう日――皇室の祭典をおこなう日、神道で死者の霊を祭る日、物忌みする日」であり、旧制度のもとでは別途のものであった。このふたつをまとめて「祝祭日」としたから、わかりにくくなり、あまりつかわれなくなったことばのようだ。

勤労感謝の日――勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあうとする日だそうである。もともとは皇室行事の新嘗祭ニイ-ナメ-サイ。祭日が祝日にかわった一例でもある。ここのところ、チト無理をしてきたので、自分を褒め、勤労感謝! 朝からバスタブにぬるいお湯をいれて長湯をしたら、全身がけだるくなって休日(になってしまった)。新嘗祭とは天皇が天神地祇に新穀をすすめ、また親しくこれを食する日。もちろん天皇は古式ゆかしく正装し、この行事を粛々とこなされたことだろう。顧みてわが身。ただボケーッとして、溜まっていた書物を読みとばし、うたた寝をしただけの休日。たまたま腹がすいたので、コンビニでカレーをチンしてこれが小生の新嘗祭。ついでに100円ショップに寄って、「平成23年版カレンダー」を買う。これにはスケジュールも書き込めるし、祝日がなんの日かはもちろん、旧暦、六曜もでているから便利で昨年も買った。ちなみに、きょう24日は「旧暦10月19日、仏滅一白」だ。だからどうしたというわけではないけど。

A Kaleidoscope Report 003をアップ――東京築地活版製造所の跡地に建立された「活字発祥の碑」の背景を描くシリーズも3回目を迎えた。逡巡はあったが、牧治三郎さんのことを踏み込んで書いた。すこし辛かった。

◉11月24日[水] 本日快晴。日日之好日。

A Kaleidoscope Report 003 活字発祥の碑 活字工業会

多くのドラマを秘めた「活字発祥の碑」

東京・東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑の背景を詳細に記録していた全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も3回目を迎えた。

この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる石碑としての役割だけではなく、その背後には、抜けがたく「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識があったことは既述してきた。それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。

その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎によるB5判、都合4ページの短い連載記録、「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)であった。これらの記録は、このブログの「万華鏡アーカイブ、001,002」に詳述されているので参照してほしい。

牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。昭和44年5月22日、全国活字工業会は全日本活字工業会第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。

たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、どてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されているが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の総会記録『活字界』第22号では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページレイアウトになっている。

このときの総会の実態は、全国活字工業会中部地区支部長・津田太郎によって、「活字発祥の碑」建立問題の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。

有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)

元箱根「山のホテル」で開催された「第12回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)。ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の報告(リード文)によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。

この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年会長職をつとめていた古賀和佐雄が辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。そのため、総会後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。
古賀和佐雄は7年にわたる会長職在任は長すぎるとし、また高齢であることも会長辞任の理由にあげていた。しかし後任の津田太郎は1896年、明治29年1月28日うまれで当時75歳。高齢を理由に辞任した古賀和佐雄は明治31年3月10日うまれで当時73歳であった。すなわち高齢を理由に、若返りをはかって辞任した会長人事が、その意図に反して、73歳から75歳へのより高齢者への継承となったわけである。
津田太郎はそれ以前から全日本活字工業会副会長であったが、やはり高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。しかし、たれもが自社の業績衰退とその対応に追われていたために、多忙を理由として、激務となる会長職への就任を辞退した。そのためよんどころなく津田が、高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に諒承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。

◎『活字界』(第23号、昭和44年11月15日
特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記

この東京築地活版製造所記念碑設立顛末記には、無署名ながら、広報委員長・中村光男氏の記述とみられるリード文がある。そのリード文にポロリともらされた「懇願書」としるされた文書が、同一ページに「記念碑設立についてのお願い」として全文紹介されている。この「懇願書、ないしは、記念碑設立についてのお願い」の起草者は、平野富二にはまったく触れず、本木昌造と野村宗十郎の功績を強調するとする文脈からみて、牧治三郎とみられる。ただし牧の文章はときおり粗放となるので、全日本活字工業会で協議のうえ形式を整えたものとみている。

また「記念碑設立についてのお願い」あるいはその「懇願先」となった懇話会館への案内役は、当時67歳を迎え、ごくごく小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっている。ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――記念碑設立についてのお願い」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのようにその案内役となったのか、そして牧の隠された異才の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。同社のWebsiteから紹介する。

◎ 企業プロフィール

昭和13年(1938年)春 戦時色が濃くなって行く中、政府は戦時物価統制運用のために軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手、銅配給統制協議会を最高機関として、複数の関連各機関が設立されました。

一方その効率的な運用のためには、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月に電線会社の出資により株式会社懇和会館が設立され、同時に現在の地に建物を取得し、ここに銅配給統制協議会・日本銅統制組合・電線原料銅配給統制協会・日本故銅統制株式会社・全国電線工業組合連合会などの関連諸団体が入居されその利便に供しました。

その後昭和46年(1971年)に銀座に隣接した交通至便な立地条件に恵まれたオフィースビルとして建物を一新し、コンワビルという名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナント各位へのビジネスサポートを提供する企業として歩んでおります。

◎ 会社概要

社  名    株式会社 懇話会館
所 在 地     東京都中央区築地一丁目12番22号
設  立       1938年(昭和13年)11月28日
株  主        古川電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立電線株式会社
昭和電線ケーブルシステムズ株式会社
事業内容
1) 不動産の取得
2) 不動産の賃貸
3) 前各号に付帯する一切の業務

ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。

ここで少しはなしがずれるようだが、広島に無残な姿をさらしている、通称「原爆ドーム」に触れたい。この建物は国家自体がなんらかの薬物中毒にでもかかったように、闇雲に戦争に突入していった、悲しい時代の記念碑的な建物として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。そして、「二度とおなじような悲劇を繰りかえさない」という戒めと、願いを込めて、「負の世界遺産」とも呼ばれている悲しい建造物である。

広島県商品陳列所(1921―33頃)から、「原爆ドーム」となった建物。
ウキペディアより。

この現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年(大正4)に、チェコ人のヤン・レッツェル(Jan Letzel)の設計による、ネオ・バロック風の「物産陳列館」として完成した。その後1921年「広島県立商品陳列所」と改称され、さらに1933年「広島県産業奨励館」となった。この頃には盛んに美術展が開催されて、広島の文化の拠点としても貢献したとされる。

しかしながら、戦争が長びく中で、1944年(昭和19)3月31日にその産業奨励の業務を停止し、かわって、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。つまりここには「土木・木材関係の統制機関」がおかれていたことになる。そしてあまりにも唐突に廃業が決定された東京築地活版製造所の旧社屋には、「銅を中心とする金属関係の統制機関」が入居した。すなわち「統制機関」としては、広島のある時期の「内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの行政機関・統制組合の事務所、現在の原爆ドーム」と、戦前のある時期の懇話会館は、「聖戦遂行」のための、国家権力を背景とした「統制機関」としては同質の組織だったことになる。

そして1945年8月6日午前8時15分17秒、広島の空に一瞬の閃光が炸裂して、この歴史のある貴重な建物は、中央のドーム部分をのぞいて崩壊した。ここ広島にも、「統制」による悲しい物語が人知れずのこされている。そして、東京築地活版製造所の新ビルディングは、完工直後の関東大地震、太平洋戦争による空襲のはげしい罹災をへながらも、よく使用にたえた。しかしながらさすがに老朽化が目立つようになって、1971年(昭和46)に取り壊され、あらたなオフィスビルとして建物を一新されて、コンワビルという名称でこんにちにいたっているのである。

以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から70年余にわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。

また、その発足時の母体企業となった銅配給統制協議会、なかんずく日本故銅統制株式会社とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型を廃棄に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。このわが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に、近著「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。

ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして懇話会館が設立されたのも「昭和13年春」である。さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。さらに牧がつづった昭和10―13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。これだけをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、解明されていない部分があまりにも多いのである。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。
・昭和11年(1936年) 7月
『 新刻改正五号明朝体 』 ( 五号格 ) 字母完成活字発売。
・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)

すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)の東京築地活版製造所の動向をじっと注目していたのである。そして長年の経験から、だれをどう突けばどういう動きがはじまるか、どこをどう突けばどういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。

筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を20余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」とのみかたっていた。そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。

つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんらの肩書き無しで名をのこしたのである。もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。それがして 、牧自筆の記録、「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。

[編集部によるリード文]本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、ご賛同をえました。その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、[古賀和佐雄]会長・[吉田市郎]支部長・津田理事と会談の結果、単に活字業者団体のみで推進すべきことではないので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田副会長、渡辺理事長、ならびに印刷3団体を代表して井上[計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。⌘

活字発祥記念碑建設趣意書

謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。

先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、書風の研究改良、ポイント活字の創製実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。

また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。

このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月1日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。

このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。

ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。

何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。    敬 具

昭和45年9月

発起人代表    全日本活字工業会々長   津田太郎
東京活字協同組合理事長  渡辺初男
協    賛    全日本印刷工業組合連合会
東京印刷工業会
東京都印刷工業組合
記念碑建設委員会委員
委員長        津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐     中村光男(広報委員長)
建設委員           主任 吉田市郎(副会長)
宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員           主任 野見山芳久(東都支部長)
深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員          主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)、
後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎

◎『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)
特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる

紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には設計変更が求められて、ほぼ現在の姿になった。

旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。

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全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。

同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。

9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。

ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。

このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。

活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。

◎『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に


「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。

昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

次回のA Kaleidoscope Report 004では、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用を失墜して、孤立を深めることになる。

朗文堂-好日録002 電子出版の未来

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉爆睡の昨夜――仕事も、依頼原稿もだいぶたまっているのに……。きのうは新宿私塾が西尾彩さんの特別講座だったことをいいことに、隣室でA Kaleidoscope Report 003の執筆。講座は5時に終わったが、メシも喰わず一気呵成に書き終えて擱筆。時計をみたら10時を過ぎていた。帰途にメシをかき込んだら睡魔がおそった。考えたら6月頃から土日をまともに休んだことはない。風呂もなにもなく、そのまま爆睡。

◉早起きは三文の徳――スッキリとした目覚め。早朝7時。新聞を読み終えて、このごろお気に入りのカフェに。中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』をかかえていく。ここはベローチェでもドトールでもないのだが、名前はまだ知らない。ただ珈琲がそこそこにうまいのと、ともかく空いているので、煙草くさくないのが良い。このごろ肩身の狭い愛煙家でも、やはりケムイのは嫌なのだ。どうせなら、おいしく煙草をくゆらしたいのだ(我が儘を承知で、せめて日曜の朝ぐらいだ)が。

◉中西秀彦さんのこと――中西さんは、京都の老舗印刷所・中西印刷株式会社の経営者で、執筆の主舞台は印刷学会出版部の『印刷雑誌』での連載である。その軽妙洒脱な語り口が好評で、連載も長期にわたっているし、単行本も売れているようだ。ところがその連載の前任者はなんと筆者であった。筆者の連載は18ヶ月であった。それに大幅に加筆して『活字に憑かれた男たち』として発売されたが、売れているとはいいがたい。筆力の差か。

◉中西亮さんのこと――中西印刷の六代目社長、中西亮さんとはふしぎなご縁があった。きっかけは1914年(大正3)うまれ、ただいま96歳のオフクロ。オヤジが亡くなった25年ほど前からしばらく、ようやく身軽となったオフクロは「お父ちゃんが、エジプト、ギリシャ、蒙古、アラスカ……行きたいっていっていたから」とまことに都合のよい理由を見つけて、海外旅行を楽しむようになっていた。もちろん老人のことゆえ、単独行ではなく、添乗員つきの団体旅行がおもだった。気に入りの旅行代理店があったらしい。そこでオフクロとしばしば海外旅行にご一緒したのが中西亮さん。ある日オフクロが「お前と同じで、ホテルでも、レストランでも、メニュー、コースター、マッチまで集めて、どこでも勝手に町の印刷屋さんに飛び込む京都のひとがいる。面白くていいかただから一度お訪ねしてごらん……」という次第で、京都の中西印刷さんを二度ほど訪問したことがあった。おもに京都大学の学術書用の特製活字を見せていただいた。そこには一朝一夕の蓄積ではない、素晴らしい「金属活字」があった。

◉ふたたび中西秀彦さんのこと――かつて『本とコンピュータ』という雑誌があった。創刊から3年ほど筆者も連載記事を執筆していた。編集担当は、いまは怪しげな筆名にかわった河上進さんだった。ある日怪しげさんが「オンデマンド印刷、どうおもわれます?」とやってきた。「あんなもの、ゼロックスのトナー・コピーだろう」。「そうそう、それでいきましょう」。怪しげさん、なにやら嬉しげにひとりで納得。しばらくして大日本印刷のgggギャラリーのビルで「激論! オンデマンド印刷の未来」と題する対談が設定された。そのときの「オンデマンド印刷、バラ色の未来の論客?」としての対談相手が中西秀彦さんだった。筆者は怪しげさんが勝手に設定した「オンデマンド印刷だと? ふざけんな! 派」だったらしい。

◉アンダースローの軟投型の投手――対談は1時間の設定だったが、話題がまったく噛み合わず、3時間は優に超えても終わらなかった。中西さんはときおりアンダースローから巧妙な変化球を投じてくる。筆者はジャイアンツの小笠原よろしく、あたりかまわず(なんの思惑もなく)バットをブンブン振りまわす「試合」に終始した。気の毒だったのはカメラマン。最初に対談風景の写真を撮り終えていたが、帰るに帰れず、カメラを抱いたままウツラウツラしていたのを覚えている。あれから何年経ったのだろう。整理の悪い筆者はその掲載誌も探し出せないでいる。それより皆さん、オンデマンド印刷って知っていますか? 使っていますか? オンデマンド印刷はだいぶ進歩して、筆者はときおり急ぎで少部数の「印刷≒コピー」に使ってます。いまやたれもお先棒は担がないようですけどね。

◉中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』――カフェで2時間ほどかけて読了。書名のタイトルはチト大袈裟かな? 著者は出版社と印刷所が主従関係にあり、あたかも別途の存在としてかたっているが、もともと印刷所から創業して出版社になった版元は多いし、いまでも出版部と印刷部を併営している企業はたくさんあるしなぁ。だから感想はなし。いまさら電子出版に抵抗するはなしをされても困ったなぁ……、というのが実感。便利で安いものは受け入れられるもの。それでダメだったら見捨てられるだけのはなし。それでも定価1,680円、一読の価値はありそうだ。ただし、今朝の珈琲の味はいつもより苦かった。

◉19日[金]に来社した新宿私塾修了生曰く。「掲示板、ブログ、チャット、ミクシィ、ツィッターってやってきたけど、どれも荒れちゃうんでね。もうツィッターも飽きちゃたし、やめました……」。オイオイ迂生は、みんながツィッターにいってブログが空いたんで、周回遅れを笑われながら、シメタとばかりブロガーになったばかりだぞ!

◉4F-Bでは、はるばる金沢から来社されたご夫婦が、Adana-21J操作指導教室受講中。5時で終わり。日帰り日程。きょうは、きょうのうちに帰ろう。

◉11月21日[日]、本日曇天。日日之好日。

朗文堂-好日録001 西尾綾さん「製本術入門」

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉本日の新宿私塾は、西尾彩さんを講師に迎えての特別講座「製本術入門」ワークショップ。西尾さんには開塾以来ずっと新宿私塾の講師をお願いしている。外連味 ケレンミ のない、堅実な製本術の講座である。隣室ではヨスト・アマンの職人絵図さながらの作業がつづいている。道具もこの絵図とさして変わらないものがもちいられている。いつも技芸の伝統、書物の歴史におもいを馳せるワークショップとなる。


◉11月17日、タイプコスミイクが「正調明朝体B Combination 3」、「和字たおやめ Family 7」を発表した。月内での発売開始に向けて、スタッフは最後のチェックに余念がない毎日である。ご予約、発売日のお問い合わせもいただいているようで嬉しいことである。もうほんのしばらくお待ちいただきたい。

◉木版刊本や浮世絵の例をあげるまでもなく、かつての版画はメディアであり、庶民の身近な存在だった。幕末のほぼ同時期に伝来した、銅版画と石版画も同様な歴史を背負って導入された。それがいつから、実用の工芸や技芸としての存在を失って、額縁のなかに鎮座し、ギャラリーの壁展示によって鑑賞するだけの芸術乃至は美術に変わったのだろう。

◉12月4-5日、第35回全国大学版画学会による版画展が町田市立国際美術館で開催される。アダナ・プレス倶楽部は昨年につづいて公開セミナーとワークショップに協力。昨年はとかく忘れられがちだった「リノカット」の魅力を再現することにつとめて反響を呼んだ。ピカソが、ダダイストたちが、そしてエミル・ルーダーが、「リノカット」を自在に駆使して、膨大な作品や書物をのこしていたことは意外に知られていなかったようだ。とりわけルーダーの作品は写真製版の網点だとしかおもっていないようだ。そこで愚考! 「そうだ! ふたたび、みたび、新島さんに、ドットのスタディ」の講習会を依頼しよう。

◉版画展はことしも意欲的なセミナーとするべく、9月から当番校の日本大学藝術学部と協議をはじめた。こころは「版画よ、額縁から脱出せよ!」。11月にはいってからは、4F- Bが空いている日には、ときおり製本担当者を交えて深夜までの準備作業がつづいている。テーマは「版画と活字」。公開制作では「製本した作品をみながらの、版画と活字作品制作のデモンストレーション」である。詳細はアダナ・プレス倶楽部ニュースに紹介されている。昨夜は早朝5時までの作業だった。武井武雄による『地上の祭』の完成を見守る志茂太郎の心境だった(すこし大げさかな?)。それでもチョット凄いものができそうなうれしい予感がした。

◉朗文堂Websiteの一隅に、あたらしいブログ「花筏 はないかだ」を開設。水面 ミナモ におちたひとひらの花弁のように、はかなくアーカイブの大海に沈むのがよい。乞い願わくば、アーカイブをふくめてのご愛読を。

◉本日、快晴。日日之好日。

花こよみ 001

詩のこころ無き身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく
(朗文堂ニュースより移転)

 

さまよいくれば 秋くさの
ひとつのこりて 咲きにけり
おもかげ見えて なつかしく
手折ればくるし 花ちりぬ

                                         ――― 佐藤 春夫

タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

【角 字 かく-じ】

10×10の格子-グリッドで構成された工芸の文字

「 伊呂波寄名頭字儘 ―― 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし 」
[ 釈読 : この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし ]
いわゆる文様帳 『伊呂波引定紋大全』 ( 盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地] 明治30年頃  雅春文庫蔵)

「かくじのわり」 ── おもに染色士がもちいた工芸の文字として、角字の割り出し技法のほか、各種の 「地紋 モヨウ 割り」 として、萬字繋  マンジツナギ、毘沙門 ビシャモン 地紋、亀甲 キッコウ 地紋などが、その製作技法とともに簡潔に紹介されている。
いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)

ブログ版朗文堂ニュース、2010年10 月05日号に、《 紙漉ツアー好評裡に終了しました 》  と題する報告記事がある。
その最後の部分で、五日市にある 「黒茶屋」 の暖簾を紹介した。 ここに改めて該当部分を紹介する。hakomoji1-300x193

サービスカットはランチョン会場 「黒茶屋」 の暖簾です。 レタリング関係の書物ではこうした文字を 「籠字」 としたものもありますが、チト疑問。   「籠字」 は双鉤字であり、籠写しにした文字です。  関心のあるかたは 『広辞苑』 でご確認ください。
それではこうした文字はなんというのか、「箱字?」……。  かつてはイナセな職人のハッピや、祭りの印し袢纏などでよくみた形象です。  この字の由来についてご存知のかたはご教授ください。


黒茶屋と書いてありました。
*        *        *

しばらくして、《紙漉ツアー》 にも同行された、友人の春田さんから、写真画像が添付された以下のような @メールをいただいた。

昨夜、御社ブログの 「黒茶屋の暖簾」 の項を拝見いたしました。
先日はうかつにも、わたしはこの文字を 「箱文字」と呼んでいましたが、その後、手元にあった明治30年代発行の『伊呂波引定紋大全』 という、いわゆる文様帳(呉服の文様を確認するために使用していたものらしい)を調べてみました。 そこには 「かくじ」(目次には角字)という言葉が用いられていました。「かくじのわり」 とされた文字作成用のマス目も送信致します。

この 『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』 のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。

ところが現代では『伊呂波引定紋大全』 のような実用書が刊行されることがすくなく、むしろ「芸術書」 や 「作品集」 が氾濫しているために、いつのまにか、こうした工芸 ・ 技芸の文字があったことが忘れられている。
ときおり筆者は 「 現代の文字と活字の風景はさびしいものがある 」 としるすのには、こうした背景もある。
──────────
春田さんのご指摘のとおり、「黒茶屋」の暖簾にしるされていた文字は、レタリング書の解説などにみる「籠字・駕籠字」ではなく、あきらかに「角字 かくじ」であった。
おそらく「黒茶屋」の暖簾は、現代のレタリングデザイナーや、タイプ・デザイナーなどと称するひとの手によるものではないだろう。
なぜなら、こうした人たちは「角字」 を知らないから書けないのである。 それだけのことである。

ただし、プロであるから、その構成と技法を知れば、書けるようになることはもちろんである。 しかしながら、悲しいことに、ほかの多くの技芸家と同様に、わが国の「デザイン」とされる分野は、長い欧化思想崇拝の歴史をもち、「技芸家」にかえて「芸術家・美術家」であろうとした。そして、いまだにその埒外にたつことができないでいる。

もちろんかつての染色士たちも、「角字」を「紋帖」などの資料が無くてはこうした文字を書くことはできなかったはずである。  ただ、かつての染め物士は 「角字」の存在を知っていたし、簡略な実用書をもっていた。  したがって目的と用途にあわせて、自在に文字や文様を書き分けることができた。

「かくじのわり」 の写真をみると、この実用書に紹介された 「伊呂波寄名頭字儘」 は、10 × 10のグリッド ( 格子 ) によって分割され、構成された文字であることがわかる。 つまり書芸の文字ではなく、工芸の文字である。
換言すると、現代のデジタル ・ タイプの業界用語では、「ビット・マップ」 が10 × 10 の100 の格子によって構成された文字である。 したがって、ドット・フォントやビットマップ・フォントと「基本理念」においてはなんら異なるところがない。
これだけをみても、明治までの町の無名な技芸家たちは、現代のレタラーやタイプデザイナーに負けない、あるいは凌駕するだけの、豊富な知識教養と、すぐれた技倆をゆうしていたことがわかる。

與談ながら…… 、若くて意欲的なデザイナーが、しばしば 『グリッド・システムズ』を教えて欲しいと、勢い込んでやってくることがある。
以前はその原本と関連図書を紹介し、拙訳のコピーを渡したりもしていた。  ところが説明すればするほど、かれらは次第にガッカリした表情になり、拙訳を渡すと明らかに期待はずれといった表情にかわり、ついには当初の勢いはどこに消えたのか、肩を丸めてお帰りになることが多かった。

どうやらこうした人たちは、『グリッド・システムズ』が、欧州の一部の地域における、神話に満ちた秘伝か、なにやら玄妙な秘術であるかのような幻想をいだいてやってくるらしい。  もちろん一部ではそのように紹介する指導者も存在するのだろう。  どうやらそれに応えてあげなかったのがお気に召さなかったらしい。

閑話休題   角字は工芸者が伝えてきた文字であるから、『書道基本用語詞典』(春名好重ほか、中教出版、平成03年10月01日) には紹介されていない。
国語辞典としての 『 広辞苑 』 には ── かく-じ 【 角字 】 ③  模様 ・ 紋所などに用いる四角な字体。──  として紹介されている。

タイポグラフィ あのねのね 001 *淳化閣帖

じゅん-か-かく-じょう 【 淳 化 閣 帖 】

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

じゅん-か-かく-じょう 【 淳化閣帖 】
中国宋王朝第2代皇帝 ・ 太宗(976-997)が淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王著(オウチョ ?―990)に命じて、編輯、摹勒(モロク 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之 オウギシ、2巻が王献之 オウケンシで、二王父子が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖 ホウジョウ とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 【法帖仕立て】 である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停斎館帖』、清の『余清斎帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 ヨウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられない。 わずかに東京台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツボン』がのこされているのにすぎない。

同館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カジドウ 1213-75) による『賈刻本 カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本 セサイドウボン』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本 ギョクオウカンボン』、潘雲龍 ハンウンリュウ による『潘氏本、五石山房本 ゴセキサンボウボン』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。

編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿している。 むしろ王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。

参考資料 / 『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
         『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
           『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日

花こよみ 003

詩のこころ無きわが身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介たてまつらん

吾 亦 紅 に 寄 す

夏――   風になびく青い草原は   海のうねりにも似て
渺たる高原のそこここに   たそかれが迫る

とおく はぐれ蝉か ひぐ
らしの聲
ひと叢の ワレモコウが 風に揺れている
ひめやかに 晩夏の気配が  艸叢を覆う

秋――  妍を競って咲き誇った高原の艸草が
慌ただしく  種子の実りを終える
ワレモコウは  仔鹿の脚にも似た か細い茎を艸叢に屹立す

艸叢から  ちいさなつぶやきが
「ねぇ、ねぇ、わたしって、きれい?」

晩秋――  花序のあえかな彩りは くらい赤褐色に色とりをかえ
万葉ひとは なんのゆえありて  かくも 可憐な
「 ワレ  マタ  ベニ  ナリ —— 吾 亦 紅 」の名を与えしか
寥風がつのる   真紅の鮮血ほとばしらせ 慟哭する花  ここにあり
「 ねぇ、ねぇ、わたしって、クレナイの花よ!」

        ―――― よみひと しらす

A Kaleidoscope Report 002

『 活字発祥の碑 』をめぐる諸資料から
機関誌『 印刷界 』と、
パンフレット『 活字発祥の碑 』

『 活字発祥の碑
編纂 ・ 発行 / 活字の碑建設委員会
昭和46年6月29日
B5判  28ページ  針金中綴じ  表紙1 ・ 4をのぞき 活字版原版印刷

活字界
発行 全日本活字工業会 旧在 千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年6月1日終刊80号 昭和59年5月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判 8ページ  無綴じ  活字版原版印刷
01号40号 編集長 中村光男、41号56号/編集長 谷塚 実、57号75号 編集長 草間光司、76号80号 編集長 勝村 章。   昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた

 

★       ★       ★

レポート第2編は、全日本活字工業会の機関誌 『 印刷界 』 と、同会発行のパンフレット 『 活字発祥の碑 』 のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。 主要な登場人物は 「 株式会社中村活字店 ・ 第4代社長 中村光男 」 と、印刷業界の情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷 ・ 活字界の生き字引とされていた 牧治三郎 である。

『 印刷界 』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長は中村活字店第4代社長 ・ 中村光男氏。 この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京 ― 大阪間に開業し、首都高速道路が開通し、東京の外環をぐるりと囲む4車線道路、環状七号線が開通した、あわただしい年でもあった。 こんな時代を背景として、大正時代からあった 活字鋳造協会と、戦時体制下の統制時代にあった 活字製造組合 を基盤としながら、全国の活字鋳造業社が集会をかさね、あらたな組織として 全日本活字工業会 に結集して、その機関誌 『 活字界 』 を発行したことになる。

世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手印刷所、大手新聞社などのほとんどが活字自家鋳造体制になっていた。 それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 ( 文選 ・ 活字鋳造 ・ 植字組版作業を一括処理した組版機 ) の導入が大手を中心に目立ったころでもあった。 そのため、活字母型製造業者には、瞬間的に膨大な数量の活字母型の需要がみられたものの、導入が一巡したのちは奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業が、業界としての体をなさなくなっていた。 また、新興の写真植字法による文字組版を版下として、そこから写真製版技法によって印刷版をつくる オフセット平版印刷業者が、文字物主体の印刷物にも本格進出をはじめた時代でもあった。 つまり活字鋳造業界あげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな時代背景を 「 欧州を旅して 」 と題して、株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏が 『 活字界4号 』 (昭和40年2月20日、5頁 )寄稿しているので紹介しよう。

活字地金を材料とした単活字や、モノタイプ、ルドロー、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字を [ 鋳造による熱処理作業があるために ] Hot Type と呼び、写植機など [ 光工学と化学技法が中心で 熱処理作業が無い方式 による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。 欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[ 中略
こうした状況は、私たち 日本の 活字業界の将来を暗示しているように思われます。 私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。 このあたりで活字業界の現状を冷静に分析 判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。 現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。 したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

当時の吉田市郎氏は、全日本活字工業会副会長であり、東京活字協同組合の会長でもあった。 そして吉田氏はこの報告のとおり、1970年代初頭からその立脚点を、晃文堂時代の活字を主要な印刷版とする凸版印刷、すなわち 「 活版印刷 」 から、写真植字機と写植活字を開発し、オフセット平版印刷機までを製造するためにリョービ ・ グループに参入し「 株式会社リョービ印刷機販売 ・ 現リョービイマジクス 」 を設立した。

 この吉田の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ ・ グループの基礎を築くにいたった。すなわち吉田氏は かたくなに活字を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字から写植活字への時代の趨勢を読みとっていた。 そして1980年代からは、写植活字から電子活字への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。 それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として永らくとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。

『 活字界 』 には創刊以来、しばしば 「 業界の生き字引き 」 として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。 牧と筆者は15―10年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅まで同行したこともある。 当時の牧治三郎はすでに100歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。 下記で紹介する60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。 そんな牧が印刷図書館にくると、「 あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」 という具合で、当時の司書 ・ 佐伯某女史が 「 古老が呼んでいるわよ…… 」 と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

牧治三郎は幼少のころから活版工場で 「 小僧 」 修行をしていたが、「ソロバンが達者で、漢字もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記になった 」 と述べていた。 「 昔は活版屋のオヤジは、ソロバンもできないし、簿記も知らないし……」 とも述べていた。 牧とは、東京築地活版製造所の元社長 ・ 野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。 筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを 「 そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ 」 とたしなめられることが多かった ( 片塩二朗 『 富二奔る 』 )。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎 ( ヨシタロウ、法学者、1897―1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。 なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。 牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して 「 野村先生 」と呼んでいた。したがって筆者などは 「 若ケエノ 」 とされても仕方なかったのだが、野村の功罪をめぐって、ときには激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「 牧老人が亡くなった……」 と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。 牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷 ・ 活字 ・ 製本関連の機器資料とその歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」の資料は蔵書の山から見いだせなかった。牧は「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」と述べていたが、どうやらそれは実現しなかったよで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出 」 『 活字界15 』 ( 昭和42年11月15日 ) にインタビュー記事があったので、40年以上前というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真と略歴を紹介したい。

牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
67歳当時の写真と蔵書印
1900年( 明治33 ) ―( 2003―5年ころか。 不詳 )。
印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。1980年ころは、中央区新川で 活版木工品 ・ 罫線 ・ 輪郭など活字版印刷資材の取次業をしていた。
主著 /「 印刷界の功労者並びに組合役員名簿 」 『 日本印刷大観 』 ( 東京印刷同業組合 昭和13年 )、連載 「 活版印刷伝来考 」 『 印刷界 』 ( 東京都印刷工業組合 )、 『 京橋の印刷史 』 ( 東京都印刷工業組合京橋支部 昭和47年11月12日 )。
牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。

ふしぎなビルディングがあった……。
このビルは、東京築地活版製造所の本社工場として、当時の社長 ・ 野村宗十郎(1857―1925)の発意によって 1923年(大正12)7月 ( 現住所 ・ 東京都中央区築地1-12-22) に竣工をみた。 ビルは地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。 ところがこのビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。 下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「 鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「 イモノ 」 をつくっていた。 ふつうの家庭では 「 火吹き竹 」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。 そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。 ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「 踏鞴 タタラ 」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「 蹈鞴 タタラ を踏む 」 としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 ( 聖徳太子の父、在位585-87 ) の 『 職人鑑 』 に、 「 蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆 」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。 つまり高温の火勢をもとめて鋳物士 ( 俗にイモジ ) がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。 また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「 鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭 」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。 すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと、「 活字発祥の碑 」 建立までの経緯がわかりにくい。

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して 市街地中央に位置したために 類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。 ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれた厄災とは、 関東大地震 による、まさに 《 火災 》 であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を越えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。 このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった……。

130年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災 ・ 震災 ・ 戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂 ・ 第2代社長、津田太郎 ( 全日本活字会会長などを歴任。 1896 ― 不詳 )が 「 活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として 」 と題して 『 活字界4号 』 ( 昭和40年2月20日 ) に報告しているので 該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に 「 物資統制令 ・ 故鉛 」 ということばが出ている。 これを記憶しておいてほしい。

・明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字 [ 取次販売 ] 業を開始する。 最初は [ それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の ] 江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた 熱変形を生じた不良の 活字母型を使用したため [ ] 、活字 [ の仕上がりが ] 不良で評判 [ ] 悪く、翌43年2月から、東京築地活版製作所の代理店として再出発した。

・明治42年、現在の鶴舞公園で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。この頃の印刷界は [ 動力が ] 手廻しか、足踏式の機械が多く、動力 石油発動機、瓦斯機関 が稀にあった程度で [ あった。] 8頁 [ B4サイズほど ] の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で 現代の人にこの意味が判るでしょうか あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。

・活字界も太田誠貫堂が堂々 [ とブルース型 ] 手廻し鋳造機5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。 その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。 もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区 [ を含めた商圏 ] が市場であり、後年に至り 津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み? の経営 コンナ言葉はなかったと思う で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。 五号活字が1個1厘8毛、初号 [ 活字 ] が4銭の記憶である。

・取引きも掛売りが多く、「 活字御通帳 をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。 営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。 活字屋風景として夜 [ になって ] 文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ 説明しても現代っ子には通じないことです )をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。

・盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火 これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい をボウボウ燃やして、その下で [ 作業をし ]、また津田三省堂は 蝋燭を使用 燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの )、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル 説明を省く [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、後漸く電灯になった。 当時は10燭光 タングステン球 であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ! と叱られた記憶すらある。

・当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。 もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う。 当時の 新愛知 名古屋新聞社 共に [ ブルース型 ] 手廻し鋳造機が2―3台あり五号 活字 位を鋳造していた )。

・大正元年 大阪の啓文社が支店を設け [ たために、地元名古屋勢は ] 大恐慌を来したが、2―3年で [ 大阪に ] 引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。当時は着物前垂れ掛で 小僧 と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。

・大正3年、津田三省堂が9ポイント 活字 を売り出した。 名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。 7年は全国的に米騒動が勃発した。 この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。

・大正11年、盛功社 が取次だけでなく 活字鋳造を開始。 国語審議会では当用漢字2,113字に制限 [ することを ] 発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。

・大正12年9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[]残さず灰燼に帰した。その為に津田三省堂も供給杜絶となり遂に殉難して休業のやむなきにいたった。

・大正14年秋、津田三省堂は鋳造機 手廻し [ ブルース型活字鋳造機 ] 6台 )を設置 [ して ] 再起した。 活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。

・大正15年、硝子活字 初号のみ )、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。

・昭和3年、津田三省堂西魚町より鶴重町に移転。 鉛版活字 仮活字 を売り出す。 また当時の欧文活字の系列が不統一を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。

・昭和5年1月、特急つばめが開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年10月の超特急は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。

・昭和5年、津田三省堂は林栄社の [ トムソン型 ] 自動 活字 鋳造機2台を新設、[ ブルース型 ] 手廻し鋳造機も動力機に改造し12台をフルに運転した。

・昭和6年、津田三省堂で宋朝活字を発売した。

・昭和8年、津田三省堂が本木翁の 陶製 胸像3000余体を全国の祖先崇拝者に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。

・昭和10年、満州国教科書に使用せられた正楷書を津田三省堂が発売した。 当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる。

・昭和12年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉( いずれも故人 ) の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923吋 と決定するという歴史的一頁を作った。

・昭和12年 7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。 物資統制令の発令 [によって] 活字の原材料から故鉛に至るまで その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。 受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。

・次第に空襲熾烈となり、昭和20年3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

 津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに 「 新社屋を新築して その移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した 」のである。 活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰したが、不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。 野村宗十郎はさっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所からの支援をうけて再興にとりかかった。

ところが……、本来なら、あるいは設立者の平野富二なら、笑い飛ばすであろう程度のささいなことながら、震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去と、新築ビルの易学からみた、わるい風評がじわじわとひろがり、それがついに野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。 こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版を 『 活字発祥の碑 』 から紹介しよう。
1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所。

1923年(大正12)竣工なった東京築地活版製造所。
正門がある角度からの写真は珍しい

平野富二の首証文
東京築地活版製造所の前身、平野富二がここに仮社屋を建てて、長崎新塾出張活版製造所、通称 ・ 平野活版所の看板を掲げたのは1873年 ( 明治6 ) で、赤煉瓦の工場が完成したのは翌1874年のことであった。 長崎からの進出に際し、平野富二は ―― 長崎の伝承では 六海社 ( 現 ・ 長崎十八銀行の源流のひとつ ) に、平野家の伝承では薩摩藩出身の豪商 ・ 五代友厚 ( 大阪で造船 ・ 紡績 ・ 鉱山 ・ 製銅などの業を興し、大阪株式取引所、現大阪商工会議所などの創立に尽力。1835―85 ) 宛に―― 「 首証文 」 を提出して、資金援助を仰いでいた。 現代では理解しがたいことではあるが、明治最初期の篤志家や資産家は まだ侠気があって、平野のような意欲と才能のある若者の起業に際して、積極的な投資をするだけの胆力をもっていた。 筆者は、長崎の伝承と平野家の伝承も、ともに真実を伝えるものであり、平野はこの両社に 「 首証文 」 を提出して資金を得たとみているが、何分確たる資料はのこっていない。

すなわち平野富二は 「 この金を借りて、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる 」 ( 平野義太郎 『 印刷界31 4P  昭和46年11月5日』 ) という、悲愴なまでの覚悟と、退路を断っての東京進出であった。ときに平野富二26歳。

この 「 平野富二首証文 」 の事実は意外と知られず、長崎新塾活版製造所が、すなわち本木昌造が東京築地活版製造所を創立したとするかたむきがある。 しかしながら、平野の東京進出に際して、本木昌造は新街私塾の人脈を紹介して支援はしているが、資金提供はしていないし、借入金の保証人になることもなかった。 それでも平野は可憐なまでに、本木を 「 翁 」 としてたて、その凡庸で病弱な後継者 ・ 本木小太郎に仕えた。

東京築地活版製造所の創立者を 本木昌造におくのはずっと時代がさがって、野村宗十郎の社長時代に刊行された 『 東京築地活版製造所紀要 』 にもとづいている。 これもちかじか紹介し たい資料である。 薩摩藩士でありながら、本木昌造の新街私塾にまなび、大蔵省の高級官僚だった野村宗十郎を同社に迎えたとき、どういうわけか平野富二は倉庫掛の役職を野村に振った。 おそらく活字製造に未経験だった野村に、まず在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は どうやらこの待遇に不満があったとみられる。 しがたって野村が昇進をかさね、社長就任をみてからは、東京築地活版製造所の記録から、平野の功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。

移転当時は大火災の跡地であった築地界隈
東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。―― 「 平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 ( 五千石 ) 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった」。

ところが、牧治三郎が江戸切絵図で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。 どうやら牧はこの記録を見落としたようだが、この日、銀座から築地一帯に強風のなかでの大火があって、築地では西本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一帯が焼け野原と化した。 そして新政府は、同年7月13日に東京中心部の墓地を移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで 雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大墓地をつくって市中から墓地の移転をすすめていた。 したがって築地西本願寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、これらの新設墓地へ移転していたのである ( 『 日本全史 』 講談社 918ページ 1991年3月20日 )。

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事中の歌舞伎座のあたり、采女ヶ原の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷 現松竹ビル )、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所 現懇話ビル となった。 いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が上野景範家で、弘道軒 神﨑正誼がこの上野の長屋に寄留して 清朝活字 を創製した。 活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。


大火のあとの煉瓦建築
創業時からの東京築地活版製造所の建物が煉瓦造りであった……、とする記録に関心をむけた論者はいないようである。 もともとわが国の煉瓦建築の歴史は 幕末からはじまり、地震にたいする脆弱さをみせて普及が頓挫した関東大地震までのあいだまで、ほんの65年ほどという、意外と短い期間でしかなかった。 わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年 ( 安政4 ) 長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。 その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスの お雇い外国人 の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。 それが一気に普及したのは、前述した1872年 ( 明治5 ) 2月25日におきた 銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は西本願寺の大伽藍をはじめとして 一帯が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際して、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。 そのために東京築地活版製造所は 、社史などに わざわざ 煉瓦建築で建造したと、しばしば、あちこちにしるしていたのである。 さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円という、おそらく当時の物価からみて低額で獲得することができたのである。 その事実を購入価格まで開示して、出資者などにたいし、けっして無駄なな投資をしたのではないことを表示していていたものとみたい。すなわち、牧治三郎が述べた 「 幕末切腹事件 」 などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

新ビルの正門は裏鬼門に設けられた
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。 牧治三郎が短い連載記事で述べたのは、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよかったかもしれないとおもったことがある。 このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。 [ 西川さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、正門が裏鬼門にあることを意識してなかったのですか? ]。 「 もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ [ 活字鋳造工 ] の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出りしなかった。 オレだって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな 」。 [ それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか? ]。 「 野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった 」。

東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられた。

家相八方位吉凶からみた裏鬼門
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。 あらためてしるすと、このビルは1938年(昭和13)東京築地活版製造所の解散にともなって「 懇話会 」 に売却され、1971年 ( 昭和46 ) まで懇話会が一部を改修して使用していたが、さすがに老朽化が目立って取り壊され、その跡地には引き続いてあたらしい懇話会館ビルが新築されてこんにちにいたっている。 取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学ではもっとも忌まれる死門、坤 に設けられていた。 現代ではこうした事柄は迷信とされて一笑に付されるが、ひとからそれをいわれればおおかたは気分の良いものではない。 牧治三郎は取り壊しが決定したビルの こうした歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「 寝た子をおこした 」 のである。

これからその牧の連載を紹介したい。 ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの歴史が丹念につづられている。 これについで、次回には 当時の印刷人や活字人が、牧の指摘をうけて、どのように周章狼狽、対処したのかを紹介することになる。

*      *

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 21号』(編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、大正12年 1923 3月に竣工した。 地下1階地上4階の堂々たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。 ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは 焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。 また隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いて焼失した。 焼失を免れたこのビルは1971年(昭和46)まで懇話会館が使用していたが老朽化が目立って、全面新築されることになったことをきっかけとして牧治三郎による連載記事が掲載された。

活字発祥の歴史閉じる
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。 この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円 ( 現在の金で4億円 ) を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕が、ここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

大正12年に竣成
[ 東京築地活版製造所の旧社屋は ] 大正11年、野村宗十郎社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。 特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた 月島分工場も灰燼に帰した。 罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所 [ 大阪活版製造所 ] の字母 [ 活字母型 ] が健在だったので、1週間後には活字販売を開始、[ した ]。 いまの東京活字 [ 協同 ] 組合の前身、東京活字製造組合の罹災 [ した ] 組合員も、種字 [ 活字複製原型。 ここでは電鋳法母型か 種字代用の活字そのもの ] の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。
平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内 [ 門前とも ] の長屋 としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。 東都下谷絵圖 1862 を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町3丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多くてさほど大きな変化はない。 すなわち藤堂和泉守屋敷は、台東区立和泉小学校となり、その路地を挟んで佐竹右京太夫邸との間の、細長い民家の家並みが 長屋 」跡とみられ 、その神田佐久間町三丁目の一部が、平野の最初の拠点であったとみられる。 尾張屋静七判『 江戸切絵図 人文社 1995年4月20日 )

 明治5年外神田で営業開始
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機 [ このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない ] 2台、上海渡りの8頁ロール 人力車廻し [ B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた印刷機 ] 1台、ハンドプレス [ 平圧式手引き活版印刷機 ] 1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

 明治6年現在地に工場に建築
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁をはさんで、釆女が原 ウネメガハラ から、木挽町 コビキチョウ を過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

移転当時の築地界隈
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 五千石 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

煉瓦造工場完成
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、 神田佐久間町まで半日がかりで活字買い [ に出かける ] の時間が大いに省けた。 商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

勧工寮と販売合戦
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字 [ 活字ハンドモールドを用いて製造した活字 ] で売出していた 志貴和助や大関某 [ ともに詳細不詳 ] などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷 [ を担当していた ] の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の手強い競争相手だった。

活字割引販売制度
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争 [ 太平洋戦争 ] の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した [ もの ] に外ならない。 勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

西南戦争以後の発展と母型改刻
西南戦争 [ 1877/明治10年 ] を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体 [ 活字 ] 母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された [ 印刷図書館蔵 ]

次いで、同14年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。 残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。 この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

*      *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』 ( 編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年7月20日 )

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [ 大阪活版製造所社長を兼任 ]
、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。
その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [ 平野 ] 造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

 築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治256年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治278年戦役 [ 日清戦争 ] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [ 活字 ] 鋳造機は、手廻機 [ 手廻し式活字鋳造機 ブルース型活字鋳造機 ] 120台、米国製トムソン自動 [ 活字 ] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [ 自動 ] 鋳造機 [ 詳細不明。 調査中 ] 1台で、フユーサー機は日本 [ 製の ] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [ した。 その ]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[ はなしが ] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [ はあるが ] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [ ] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [ 東京築地活版製造所 ]の重役で、 [ 印刷機器輸入代理店 ] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [ ] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [ ] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会 広報部 中村光男
( 『 印刷界22号 』 囲み記事として広告欄に掲載された )

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌 活字界 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と 同建物跡に建設される 懇話会館の八十島 [ 耕作 ] 社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会は こうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

花こよみ 002

初   恋

詩のこころ、無き身なば
古今東西、四季折々のうた、ご紹介奉らん。

まだあげ初 ソ めし前髪の
林檎 リンゴ のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅 ウスクレナイ の秋の実に
人こい初 ソ めしはじめなり

わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情 ナサケ けに酌みしかな

林檎畑の樹 コ の下に
おのずからなる細道は
誰 タ が踏みそめしかたみとぞ
問いたもうこそこいしけれ

                                                      ――――― 島崎藤村 ( 1872―1943 )

A Kaleidoscope Report 001 活字発祥の碑 問題提起

『 活 字 発 祥 の 碑 』
( 全日本活字工業会 活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日 )

『 活字発祥の碑 』 パンフレット表紙

活字発祥の碑 案内図

「活字発祥の碑」。
コンワビル晴海通り側、排気筒の傍らにひっそりと佇む。

旧築地川をはさんだ遠景。 右より松竹ビル、コンワビル、電通テックビル。
コンワビルがほぼ東京築地活版製造所の跡地。
電通テックビルのあたりに、関東大地震まで平野家があった。
隣接して元駐英ロンドン公使 ・ 元老院議員/上野景範(ウエノ カゲノリ 1845-88)家があった。
ここはまた、上野の義兄 ・ 神﨑正誼による弘道軒清朝活字誕生の地でもあった。

かつての築地川は埋め立てられ地下を高速道路がはしり、地上は小公園になっているが、
日比谷通りの交差点には今も  「  万年橋東 」  の標識がのこる。

*

 東京 ・ 築地にちいさな石碑がある。 称して 「 活字発祥の碑 」 である。 このあたりがわが国の近代タイポグラフィが発祥した場所であることを記念するちいさな碑である。 所在地は東京都中央区築地1-12-22。 懇話会館ビルの傍らにひっそりと鎮まっている。 この地と、「 活字発祥の碑 」 は、タイポグラフィの実践者、研究者ならぜひとも訪れ、活字と書物の来し方、行く末におもいを馳せていただきたいものである。 碑面には以下のようにしるされている。

活 字 発 祥 の 碑

明治六年(一八七三)平野富二がここに
長崎新塾出張活版製造所を興し
後に株式会社東京築地活版製造所と改稱
日本の印刷文化の源泉となった


『 BOOK  OF  SPECIMENS  MOTOGI  &  HIRANO 』
( 俗称/平野活版所明治10年版活字見本帳 )。
築地に開設された平野活版所の木版画。
看板に長崎系の出自を現す 「 長崎新塾出張活版製造所 」 とある。
木版印刷物を版下とした石版印刷とみられる。

1903年(明治36)ころの東京築地活版製造所の威容。
銅版印刷物を版下とした石版印刷とみられる。
当時は重量のある印刷機器や活字の運搬には水運を用いることが多かった。

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1873年 ( 明治6 ) 青雲の志を抱いて、平野富二  ( 1846―92 )  がこの地に 「 長崎新塾出張活版製造所 」 を設立した。平野富二このとき26歳。 当時の住所表示では 「 東京築地2丁目万年橋東角20番地 」 にあたる。 このあたりは、明治5年、銀座から築地一帯をおそった大火により一面の焼け野原であった場所であった。 草創期の素朴な建物は神田佐久間町の味噌蔵を 《 耐火煉瓦で改装した建物 》  であったが、増築をかさねられた。

やがて事業の安定をみた平野富二は、次第に活字製造 ・ 販売を、膝下の長崎 ・ 新街私塾系の人脈に任せて、自らの軸足を1876年 ( 明治9 ) から、念願の造船 ・ 重機製造において 「 石川島平野造船所 」 を設立した。 この企業は改組 ・ 改称を繰り返し、現在は株式会社 I H I として造船 ・ 重機界の巨大企業となっている。 いっぽう 「 平 野活版所 」  も改組 ・ 改称を繰り返しながら 「 東京築地活版製造所 」 として発展した。 そして明治36年ころともなると、威容を誇る大工場に成長した。

東京築地活版製造所においては、明治6年の創業から、1938年 ( 昭和13 ) の解散の直前にいたるまで、長崎の本木昌造系人脈、なかんずく長崎新街私塾の教授陣とその元塾生が代表を勤めていた。 すなわち東京築地活版製造所では、開祖の本木昌造は 「 翁 」 と称され、平野富二は 先生 と呼ばれていた。また、従業員であっても、長崎 ・ 新街私塾出身者は 塾生 と呼ばれていた。そして東京で雇用をみたものは、従業員でも職人で もなく、 生徒  と呼ばれていた ( 島屋政一 『本木昌造伝』 )。

つまり兄弟企業の 「 大阪活版製造所 」 と同様に、この企業は人脈 ( 新街私塾 ・ 新町活版製造所 )、 金脈 ( 長崎銅座の旦那衆 ・ 六海社 ・ 長崎十八銀行、元薩摩藩士で長崎遊学が長かった関西の豪商 ・ 五代友厚 ) ともに、 最初に平野富二が看板に掲げた商号 「 長崎新塾出張活版製造所 」 があらわすように、 「 長崎の新街私塾と新町活版製造所から、東京の築地に出張してきている、活字版印刷関連機器製造販売と 活字鋳造製造販売の企業 」、すなわち 「 東京築地活版製造所 」 という 「 意識 」 が色濃くみられた ( 平野義太郎 『 活字界31,34』 )。

それだけでなく、両社ともに終幕を迎えた折りは、多くの企業のように汚点をのこしがちな、いわゆる倒産や破産ではなく、「 解散 」 によって見事に清算されて、歴史に汚点を残すことがなかった。 当然そこには、長崎十八銀行が人材 ・ 資金ともに支援にあたり、敏速かつ徹底的な清算にあたったことはいうまでもない ( 『長崎十八銀行百年史』 )。  すなわち最初から最後まで、なにかと長崎に依存することが多かった、いささか特異な企業として記録されている。

東京築地活版製造所の代表者を列挙すると、長崎にうまれ育った設立者の平野富二に続き、病弱で終生平野の支援を受けた、本木昌造の長男 ・ 新街私塾出身/本木小太郎 (1857-1910)、 新街私塾出身/曲田 成 (マガタ  シゲリ 1846―94)、 新街私塾教授・大審院院長・貴族院議員/名村泰三 (ナムラ  タイゾウ 1840―1907)、 新街私塾出身・大蔵省銀行局出身/野村宗十郎 (1857―1925 )、 長崎第十八銀行頭取と東京築地活版製造所代表を兼任/松田精一にまで及ぶ。

この長崎系人脈が絶えたあと、同社は東京市電気局長の大道良太を社長に迎え、ついで宮内省関係出身の阪東長康を専務に迎えたが、経営は不振を極め、1938年 ( 昭和13 ) 3月17日、臨時株主総会において一挙に解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧業銀行から、懇話会館に売却された。 この株式会社懇話会という、いっぷう変わった名の企業も、広島に悲しい残骸をさらしている 「 原爆ドーム 」 とともに いずれ紹介したい。

この石碑の建立がなったのは1971年 ( 昭和46 ) 6月29日のこと。その披露にあたって配布された小冊子が  『 活字発祥の碑 』 ( B5判  針金中綴じ 28ページ 非売品 ) である。

巻末の会員名簿によれば、主唱団体だった全日本活字工業会の当時の会員は、北海道支部4社、東部支部51社、中部支部14社、西部支部9社、九州支部8社、都合86社を数えていた。 しかしながらほぼ40年後のこんにち、全日本活字工業会の会員の多くはオフセット平版印刷材料商などに転廃業しており、2010年 ( 平成22 ) 現在も活字鋳造を継続実施している業者は、わずかに6社を数えるのみという淋しさである。 皮肉なことに、むしろこの名簿に記載されていない、比較的小規模だった非組合員の活字鋳造所のほうが、現在もたくさん操業している。

「 活字発祥の碑 」 は小さくて簡素な碑ではあるが、そこにはじつにさまざまなドラマが秘められている。  それをそのまま歴史の大海の中に放置し、風化に任せるのは心許ないものがある。  また、タイポグラフィの歴史の空白がどんどん拡大して、活字印象論や活字美醜論だけが大手をふるって語られている現状を寂しくおもう。

この碑の建立には、全日本活字工業会、東京活字協同組合、印刷工業会、全日本印刷工業組合連合会、東京都印刷工業組合など、1970年代初頭の印刷 ・ 活字界の有力団体と企業が総力をあげて資金を拠出し、建立に尽力している。  しかしながら、ここにはすでに発起人にも協賛団体としても 活字母型工業会の名前は無く、わずかに東京母型工業会が拠金にあたって名をのこしている。  それは活字母型製造界の雄とされた 株式会社岩田母型製造所が、すでに1968年に倒産しており、この時代にはもはや活字母型製造界が活力を失っていたことが大きい。 すなわち 『 活字発祥の碑 』 の建立がなった1971年 ( 昭和46 ) とは、すでに活字母型製造業は凋落し、その発注者であった金属活字製造社とその関連業界にもあきらかな翳りが見え、オフセット平版印刷の隆盛がはじまっていたのである。

ここで1960年 ( 昭和35 ) 当時の全国活字工業会の主要メンバーを紹介する。 これらの同業組合の役員とは、多分に1-3年ごとに持ち回り制のところがみられるが、ある程度はこの時代の活字関連業者の主要メンバーを知ることができる。

○ 会  長  古賀和佐雄
千代田活字有限会社 東京都千代田区神田猿楽町1-5
○ 副会長 ・ 東部支部長 吉田市郎
株式会社晃文堂 東京都千代田区神田鍛冶町2-18
○ 副会長 ・ 中部支部長 津田太郎
株式会社津田三省堂 名古屋市中区矢場町1-35
○ 副会長  古門正夫
株式会社モトヤ 大阪市南区塩町通1-14
○ 西部支部長  奥田福太郎
日本活字工業株式会社 大阪市北区真砂町43
○ 北海道支部長  林下忠三
北海道印刷資材株式会社 札幌市大通り西1丁目16
○ 九州支部長  島田栄八
合資会社南陽堂商店 北九州市門司区大阪町2-4-2

また 『 活字発祥の碑 』 発行所としてしるされた、全日本活字工業会/東京活字協同組合の合同事務局は、東京都千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル にあった。 そこには12-3年ほど前までは非常勤ながら職員がいて、毎週水曜日には開館していたが、これまた現在は閉鎖されて事務局自体が存在しない。 それだけでなく、「 活字発祥の碑建設委員会 」 に名を連ねた15名のほとんどが鬼籍に入り、わずかに吉田市郎氏と中村光男氏だけが健在という、ぎりぎりの状況にある。 すなわちいまは 「 活字発祥の碑 」 と、その記録書 『 活字発祥の碑 』 だけがわずかにのこっているという状態である。

『 活字発祥の碑 』
発 起 人           全日本活字工業会   東京活字協同組合
協   賛         印刷工業会 全日本印刷工業組合連合会 東京都印刷工業組合
土地所有者     株式会社懇話会館
所 在 地        東京都中央区築地2丁目13番地
( 旧東京築地活版製造所跡 )
設 計 者        国方秀男氏 ( 日総建 )
銘板レイアウト     大谷四郎氏 ( 大谷デザイン )
銘板之製作     菊川工業株式会社
石       材     宮本石材店

《 収録内容 》
◎ 活字発祥の碑建設にあたり ―― 渡辺宗助 ( 株式会社民友社活版製造所 )
全日本活字工業会会長/活字発祥の碑建設委員会委員長
◎ 活字発祥の碑建立に当たりて ―― 山崎善雄 ( 株式会社懇話会代表取締役 )
◎ 心の支えとして ―― 松田友良 ( 株式会社松田 )
◎ 東京築地活版製造所の歩み ―― 牧治三郎
◎ 東京日日新聞と築地活版――古川 恒  ( 毎日新聞社 )
◎ 活字発祥の碑建設のいきさつ ―― 活字発祥の碑建設委員会
◎ 建設基金協力者御芳名
◎ 全日本活字工業会 会員名簿

わが国の活字鋳造に関する記念碑としては、 戦前から、長崎 ・ 諏訪公園、 大阪 ・ 四天王寺境内に本木昌造の銅像があった。  ところが関東にはなんらこうした活字関連の記念碑が無く、その建立が再々提起されていたが、議論百出、実現をみないままに終わっていた。 その議論の主要な争点は、「本木昌造 ・ 平野富二らの長崎系の活字鋳造より先んじて、ほかにも活字鋳造を実施した者がおり、東京築地活版製造所系だけの顕彰には問題がある 」 とするグループが存在したためであるとされる。 それに対して 「 先行事例は認めるが、活字鋳造と活字版印刷の量産と、工業化に成功したのは、平野富二と東京築地活版製造所である 」 とするグループ間の論争がもとになっていたとされる。

ところが 『 活字界 』 ( 21号―1966年5月、 22号―1966年7月、 全日本活字工業組合 ) に掲載された、B5判2ページずつ、都合2回、計4ページの きわめて短い連載記事 「 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し 」 ( 牧治三郎 ) が、活字業界にとてつもなく大きな衝撃を与え、この余震は印刷界にまで及んだ。

この時代の全国活字工業組合の広報委員長は中村光男氏 ( 株式会社中村活字店社長 1926― 。  84歳) であった。  中村光男氏は牧の原稿をみて 驚愕するというより、むしろ震えあがり、直ちに ( 『活字界』 22号の発行前に ) 迅速に行動した。 そしてその結果を 6月27日開催の東京活字協同組合理事会に 「 コト は急を要する緊急課題だ 」 として問題提起した。 東京活字協同組合理事会では 「活字発祥の碑 」 建立が、このときばかりは嫌も応もなく即決された。  したがっ て 『 活字界 』  ( 22号―1966年7月20日発行 ) には、牧治三郎の連載記事 「 旧東京築地活版製造所  社屋の取り壊し 」 とあわせて、その下部の広告欄を潰す形で、 「 旧東京築地活版製造所その後 」 ( 中村光男 ) が同一ページに緊急掲載されているので紹介しよう。



旧東京築地活版製造所その後
東京活字協同組合では  6月27日開催の理事会で 「 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 」 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については 本誌 『 活字界 』 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。
この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

牧治三郎が何を指摘したのか、 詳細は次回のこのレポートで報告したい。  牧は B5判4ページの連載の最後にこうしるした。  「 以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で [ も ] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動 [ への ] 参加を願うのもよいと思う 」。

1960年代の東京活字協同組合の重鎮は、 瓢箪のマークで知られる千代田活字製造株式会社 ・ 古賀和佐雄であり、 中堅としては欧文活字で盛名を馳せた 株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏と、 株式会社民友社活版製造所 ・ 渡辺宗助であった。 そして若手の活動家に中村光男氏がいた。 中村光男氏は銀座 ( 木挽町 )の 株式会社中村活字店の社主であり、現在の中村明久社長の叔父にあたる人物である。  『 活字発祥の碑 』 を理解するために、まず、この3人の記録を追ってみよう。

古賀和佐雄――
1898年 ( 明治31 ) 3月10日―1979年 ( 昭和54 ) 8月5日
佐賀県小城郡大字柿樋瀬315番地の富農の家に、父 ・ 徳市、母 ・ トラの三男として誕生。  中央大学経済学部卒業からまもなく、1922年 ( 大正11 ) 東京神田蝋燭町に千代田印刷材料社を創立。  凸版印刷株式会社と提携して、旧満州 ( 中国東北部 ) に大々的に進出したものの  敗戦により撤収。 1946年 ( 昭和21 ) 千代田印刷機械製造株式会社に改組 ・ 改称。  1950年( 昭和25 ) 同社立川工場から活字鋳造部門を千代田区猿楽町に移転。 罫線 ・ 活字母型製造 ・ 鈑金 ・ 活版木工の総合工房とする。 のちに瓢箪マークで知られる 千代田活字株式会社がこれである。 この頃より活字ケース ( ウマ棚 ) のスチール製 ・ レール多段式などを開発。  古賀和佐雄の没後、 同社は小森コーポレーションの一部として吸収された。

吉田市郎――
1921年 ( 大正10 ) ― 。 90歳
新潟県柏崎市うまれ。  名古屋高等商業 ( 現 ・ 名古屋大学経済学部 ) 卒。 三井商事を経て、株式会社晃文堂社長、株式会社リョービイマジクス社長。 現在同社顧問。 1970年代からの吉田氏は、リョービ ・ グループに参入して、 リョービ印刷機販売株式会社 ( 現リョービイマジクス )  を設立して、徐々に活字版印刷関連業界から、オフセット平版印刷業界に軸足を移していた。 それでも活字工業会会員としては、古賀和佐雄、民友社 ・ 渡辺宗助とともに積極的に活動していた。 「活字発祥の碑 」 銘板レイアウトに大谷四郎 ( 大谷デザイン ) を起用したのは吉田市郎であるが、碑文の文章でも喧々諤々の議論あり、またできあがった碑面の書体が いわゆるレタリング調で、一部の会員からは東京築地活版製造所明朝体独特の、気迫と格調が無いとして不評をかったと苦笑する。  また東京活字工業組合では、現在地ではなく、「 もう少し方角の違う場所に建立したかったのだが、それは懇話会館ビルの設計変更が必要だったので、現在地に決まった 」 とだけ述べている。

中村光男――
1926年3月11日―  。 84歳
1910年 ( 明治43 ) 初代 ・ 中村貞二郎が、京橋区木挽町1丁目 ( 現 ・ 中央区銀座2丁目13番地7 ) において、活字母型と活字の取扱店 「 中村活字店 」 を創業。 中村貞二郎には4人の男子、長男 ・ 貞吉 ( 1908年1月31日― 。 102歳 )、 次男 ・ 國次郎 ( 1916年3月18日ー1992年6月4日 )、 三男 ・ 光男氏 ( 1926年3月11日― 。 84歳)、四男 ・ 和男氏があり、貞吉から光男氏までが 順次 「 中村活字店 」 の代表をつとめた。 第4代 ・ 中村光男氏は、古賀和佐雄、吉田市郎氏らが第一線をひいたのちの 全日本活字工業会/東京活字協同組合を、野見山芳久 ( 株式会社錦精社 千代田区神田錦町3-15 )、後藤 孝 ( 株式会社後藤活字製造所 港区西新橋3-14-1 ) らとともに 逆風の中で良く牽引した。  また中村光男氏は 全日本活字工業組合の広報委員長として、また機関誌 『 活字界 』 40号までの10年間を編集長として尽力した。その間、牧治三郎の記述 ( 提言 ) をうけ、率先して 「 活字発祥の碑 」 建立にあたった。 なお現在株式会社中村活字店は 創業100年を誇るが、社長/第5代 ・ 中村明久氏の父は 第3代 ・ 國次郎であり、 第4代 ・ 中村光男氏は叔父にあたる。

中村光男氏と 『 活字界 』、 そして牧治三郎 「 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し 」 に触れるのは別稿を得たい。 冒頭で 「 活字発祥の碑 」に は秘められた、おおきなドラマがある……としるした。 たしかにこの碑に関しては比較的資料が多い。 しかしながら資料がすべてをかたるわけではない。 むしろ、その資料の行間に秘められ、隠された事実をひとつひとつ洗い出していく努力が必要であろう。

筆者はかつて吉田市郎氏がフト漏らした 「 あの碑は、本当はもう少し方角の違う場所に建立したかったのだが、それは懇話会館ビルの設計変更が必要だったので、現在地に決まった 」 とする言を、 [ たしかに排気筒の近くであるし、また路地深くに入ったところであるから……]、 程度に軽くとらえていた。 つまり、中村光男氏がのこした記録の行間に、秘められた物語があることに気づいたのはつい最近のことである。 そのため、筆者もすこし時間をかけて、行間を埋める努力をしなければならない。

ここでは、まず 『 活字発祥の碑 』 に掲載された 興味深い論考をひとつ紹介したい。 執筆者は古川恒である。 古川は日報社 『 東京日日新聞 』 と、東京築地活版製造所の長い取引を紹介している。 『 東京日日新聞 』 は1872年 ( 明治5 ) 2月21日、 條野傳平、 西田傳助、 落合幾次郎が日報社を設けて創刊した 東京最初の日刊紙であり、その後改組 ・ 改称を重ねて現在の 『 毎日新聞社 』 となっている。 当初は浅草茅町 ( 現浅草橋近辺 ) の條野の居宅から発刊したが、 2年後 銀座 ( 現 ・ 銀座五丁目 ニューメルサビルのあたり ) に社屋を建てて進出した。 最初は雑報入りの 「 新聞錦絵 」 が東京土産として話題を呼んだ。 1873年 岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受けて大衆紙として定着した。 また1874年入社とともに主筆に就任した福地源一郎 ( 櫻痴 ) が社説を創設してから 紙面を一新して、政府擁護の論陣を張る 「 御用新聞 」 となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。 櫻痴 ( 福地櫻痴 ) の社説、 吟香の雑報、 それに成島柳北の雑録が 『 東京日日新聞 』 の三大名物と謳われた。

『 東京日日新聞 』 と 『 毎日新聞 』 の題号の変遷についても略記したい。
・1872年3月29日 ( 明治5 ) 『 東京日日新聞 』 東京浅草の日報社から創刊。
・1876年                                  『日本立憲政党新聞 』 大阪で創刊。
・1885年             『 大阪日報 』 と改題。
・1888年              『 大阪毎日新聞 』 と改題。
・1911年                                 大阪毎日新聞社が日報社を合併。
・1943年1月1日                   東西で異なっていた題号を 『 毎日新聞 』 として統一した。

『 東京日日新聞 』 と東京築地活版製造所、活版製造所弘道軒の地理関係も簡単に紹介したい。 銀座5丁目の日報社 『 東京日日新聞 』 から 「 東京築地2丁目万年橋東角20番地 」、現 ・ 懇話会館ビルのあたりの 東京築地活版製造所 までは、徒歩7分ほどで到着できる。 また活版製造所 弘道軒 は 「 京橋区南鍋町二丁目一番地 」 ( 現 ・ 銀座鈴之屋呉服店のあたり) とは、ほぼ棟を接する至近距離にあった。

古川に関しては略歴を紹介できる。 しかしここのところ困惑しているのは、『 京橋の印刷史 』 の主著者であり、この碑の建立にも深く関わった牧治三郎の経歴がまったくわからないことである。 筆者は晩年の牧の謦咳に接し 「 戦前は印刷同業組合の書記を永らく勤めた 」 「 もうじき百歳になる。 そうしたらお迎えがくる 」 とは聞いていたが、うっかり牧の経歴調査をおこたってきた。 どなたか ご存知のかたがおられたらぜひともご教授願いたい。

古川 恒 ―― ふるかわ ひさし  1910―86年。享年76。
昭和2年6月16日 『 東京日日新聞 』 入社。 印刷局、活版部副部長、企画調査局第一部長、総務局副理事、同参与。 同社は1943年 ( 昭和18 ) 大阪毎日新聞、東京日日新聞の題号を 『 毎日新聞 』 に統一した。  また 「 家庭に恵まれず、現 ・ 東京都立工芸高校 夜間部に通いながら 東京日日新聞、毎日新聞に奉職した 」 と自らしるしている。 [東京日日新聞/毎日新聞の活版部員、1989、6頁]。  なお 『 毎日新聞百年史 』 の技術編はそのほとんどを古川が執筆した。 晩年は小池製作所の技術顧問を勤めた。

東京日日新聞と築地活版
古河 恒 ( 毎日新聞社 )

毎日新聞は昭和47年2月21日で創刊100周年を迎える。[毎日新聞の前身] 『 東京日日新聞 』 の創刊号は木版、題字奥付はセピア色、本文は黒という凝ったものであった。この色刷は11号までセピア、以後は青系統に変わり、30号から黒1色となっている。

2号から11号めまでは、当時恵比寿屋が上海美華書館から輸入した明朝体の活字が使われている。 この活字は 漢字にすべきところを カタカナにしたところが多く、また奇妙な当て字が多く使われているために 「 新聞漢文 」 と悪口を言われたという。 この原因は 漢字が足りなかっただけでなく、肝腎のケース [ 活字ケース、 活字スダレケース ] というものがなく、 [ 活字の ] 分類と整理が不完全であったのではないかと思われる節がある。

12号から 木版に返り、117号まで続き、 明治5年7月2日付 118号から木活字が使われている。

明治5年といえばこの時既に、本木系の活字も、勧工寮の活字もできていたのだが、何故わざわざ手間のかかる木活字を作ったのであろうか。 結局鉛活字は高価で買うことが出来なかった[ためだと ] と思われる。

木活字の工賃について 広岡幸助氏の思い出話によると、当時の東京日日新聞の活字は 四号に近かったが、1個の工賃は5厘、日新真事誌は三号に近かったが、1個につき6厘で、職人が『日新真事誌 』 の方が割がよいというので、東京日日新聞の仕事をやりたがらず、やむを得ず東京日日新聞も6厘にしたとのことである。

明治6年3月2日付304号から [ 東京日日新聞は ] 勧工寮の鉛活字を使い始めた。 この時の払下げ価格が幾らであったかは 必ずしも判明しないが、 同年2月18日付日新真事誌の付録に、勧工寮の広告に、鉛活字大2分5厘方が1銭1厘、 中縦2分5厘横2分が8厘5毛、 2分方が8厘、 小1分2厘5毛方が7厘、 同振仮名6厘2毛5糸方が4厘5毛とある。 この小1分2厘5毛方が五号で 1個7厘だったのである。

東京日日新聞は 創刊以来意外なほどの売行きを示した。 創立者の1人 西田傳助氏の思い出話によると、 100号毎に1,000部ずつ部数を増したとのことである。 従って鉛活字に切換えた時は、既に4,000部近く発行していたものと思われる。 そして経済的にも、木活字より高価な活字の払下げを受けることもできたのであろう。

勧工寮にとって東京日日新聞への活字の払下げは 一つの紀元 [ 起源 ・ 転機 ] となったようである。 東京日日新聞の木活字の使用経験、特に [ 活字収納 ] ケースのあり方は、鉛活字実用化への正に踏み石となったのである。 勧工寮では明治6年5月19日に、活字を広く販売する方針を決め、6月19日付東京日日新聞に広告を掲載している。 そしてこの時は鉛製活字 大2分5厘方が9厘、 中縦2分5厘横2分が8厘、 小1分2厘5毛方が3厘で、 前記日新真事誌の広告の時に比べ大幅な値下げをしている。 特に五号活字は 半分以下の値段となっていることが注目される。 なおこの時勧工寮の活字の売捌元になったのは、 東京日日新聞の木活字を作った辻家であったのである。

勧工寮の活字は、少なくとも3種の系統の異なった活字が混在していた。 そしてその一つは本木系で、平野富二によって納入されたものであった。 これは書体のよくそろった美しいもので 順次他の系統のものを駆逐して行った。 明治6年8月16日付東京日日新聞第453号に、

是迄外神田佐久間町3丁目において、活版並銅版鎔製エレキトルタイプ 摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間、不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也
明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

という広告が掲載されている。 この広告掲載に際し、平野富二が浅草瓦町の東京日日新聞を訪れたか否かは 必ずしも判っていない。 しかし このころから東京日日新聞は築地活版の活字を直接購入する計画を立てたようである。

勧工寮は明治6年11月19日に廃止され、活字製造の業務は製作寮に引継がれた。 東京日日新聞はこれを機に、築地に移転した平野活版と直接取引を開始した。 東京日日新聞11月24日付第540号からこの活字が使われ、 この時以来築地活版と密接な繋りを持った。

明治42年4月2日付第10603号 ( 創立満37周年記念特集号 ) の 第9面に 「 我邦活版の祖 」 と題して、野村宗十郎の談話が掲載され、野村氏は本木昌造の功績を述べたあと、次のようにいっておられる。

……吾社の今日有るは実に本木氏の御陰であります。 其間我社の終始変ぜざる一大花主 [ 得意先 ] ともいふべきは、 即はち日日新聞社で 明治5年の頃より我社の明朝活字を採用され、10年頃一時弘道軒の楷書活字を使用された事あるも、再び我社の花主と為て以来、今日に至る迄髙庇を蒙って居る次第である。 斯の如く本社とは其の創立の年を同じくし、互に姉妹の関係を以て三十有七年の久しき共に、社運の隆興を見るに至ったのは誠に慶賀に堪へない次第である。

ここで  [ 野村宗十郎は ] 弘道軒の活字に触れているが、これは東京日日新聞が 明治14年1月4日付から8ページとなり、同8月1日付から 本文活字として弘道軒の活字を採用したことを指しており、この活字は明治23年2月11日付まで使われた。しかしこの間にも相場、商況広告等は築地活版の明朝五号が使われており、築地と縁が切れていたわけではなかった。

創業100周年を前にして、本社と因縁の深い築地活版跡に記念碑の建てられることは極めて意義のあることと思われる。 種々の困難を克服して、これを実現された活字工業会のご努力に対し心からの敬意と、深甚の感謝の意を表する次第である。