新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』

 爿ショウ と 片ヘン,かた
その《字》の形成過程をみる

 

 楷書4画、一部で爿ショウ部  部首偏とする。
『説文解字』が部首としなかったために一部で混乱はみられるが
『康煕字典』『現代漢語詞典』などでは「爿」を部首として扱っている。
シフトJIS: E0AB
嘯奬妝將漿瀟爿牀牆獎簫莊蕭裝墏娤嶈彇
戕槳潚焋蔣螿蠨蹡醬摪斨梉橚熽牄蘠鱂
          総数37 
                               

 楷書3画、常用漢字でもちいる爿の字画の「部首丬しょう偏」

Unicode:U+4E2C
奨将蒋醤状寝壮荘装
             総数9 
                              

楷書4画、片ヘン,カタヘン部
教育漢字6年配当、常用漢字
シフトJIS:95D0
牒牌版淵片嘯瀟牋牘簫肅蕭奫婣彇沜潚牎牏牐牓牕牖
繡蠨鏽驌魸鱐鷫扸棩橚熽牉牊牑牔牗璛蜵蝂裫覑鼘
           総数45 
                           

★   ★   ★ 

《字体と字種には触れないと決めていたが……》
30年ほどまえのはなしだが、辞書の編纂に関わっている人物の知遇を得たことがある。会うたびに、まことに博覧強記、碩学セキガクだなぁと感心する反面、
〔コイツと付きあっていると、こっちまでおかしくなるぞ……〕
とおもって、敬して遠ざかった。
           

20年ほどまえのはなしだが、ある編集者が、いわゆる「83JIS字体」の施行によって、混乱がみられた「漢字の字体と字種」にいたく立腹され、それに関する執筆を依頼された。たまたま別の版元の雑誌に連載記事を書いていたので、そのなかで、さる編集者への回答を兼ねて、「字体と字種には、小生は触れたくない」としるしたことがあった。          

その理由は、「文と字」は、所詮ひとがつくったもの。したがって、ひとによって異なり、時代・地域によって異なり、筆記具によって異なるのはあたりまえだとおもっていたから。
すなわち「文と字」は、いま現在において「混乱・混迷」したのではなく、その成立以来、創造と消滅、誕生と寂滅、混乱と混迷を極めながら変化してきた。それがまた至極あたりまえだとおもっているからであった。
         

もちろん「文と字」の公共性を考えれば、教育と公文書などには一定の統一は必要だとおもう。
しかし、わが国のこれまでのように、明確な方向性、指針、根拠を示すことなく、かの地ではさして評価されない『康煕字典』を典拠としたり、唐突にただ既成の活字書体を例示書体として提示して、「これにしたがえ」では混乱を助長するだけである。
   

そもそも康煕55年(1716)、清朝の大学士張玉書、陳廷敬らが康煕帝の勅命により撰した字書が『康煕字典』である。たしかに『康煕字典』は部首別、画引きで編纂されているので、わが国の関係者にとって利便性にすぐれているのかもしれない。しかし『康煕字典』はすでに290年余の以前の木版刊本であり、それだけに字様(刊本上の字)には混乱もすくなくない。   

また、張玉書らは『字彙』『正字通』にもとづき、それを増補したとその巻頭に述べている。やはり公共の「文と字」を論じるのなら、その原点となった『字彙』『正字通』も参照するべきであり、『康煕字典』を金科玉条として、安易に〈康煕字典体〉?などと唱導することなく、やはり最低でも以下の資料ぐらいは(せめて役所だけでも)揃えてから論じていただきたいものである。 
このおもいはいまもかわらない。

 『中文大辭典』      中国文化研究所        49,905字収容
 『國民學校常用字』   國立編譯館(台湾)        3,861字収容
 『教育部常用漢字表』  教育部(台湾)           3,451字収容
 『甲骨文集釋』       中央研究院             1,607字収容
 『金文正續編』      聯貫出版社           1,382字収容
 『辭 源』          商務印書館          11,033字収容 
 『辭 海』         中華書局            11,769字収容
 『辭 彙』         文化図書公司          9,766字収容 
 『國語辭典』       商務印書館            9,286字収容
 

 だから「文と字」はおもしろくもあるのだが、「文と字」を綯ナい交ぜにして「文字」と呼んでいるこの国にあっては、さきの辞書の編纂者のように、ある種の偏執狂モノマニアのような執着心がなければ、書いてはいけないテーマだとおもっていた。生来杜撰なわが身を省みても、精緻な論考がもとめられる漢字字体に論及することはつつしみたかった。つまり なまかじり はしたくなかった。        

 いま、その禁をみずから破ろうとしている。しかも、いかに慎重を期しても、いわゆるウケのない分野であることは承知しながらである。そして反論・異論だけでなく、どういうわけか明治期以来、「字学」についてかたり、著述をのこしたひとにたいしては、その発言者の品位・品格を疑わざるをえないうような、流言飛語や誹謗中傷までが頻出する分野である。その地雷原のような危険な分野に、徒手空拳、なまかじりのままで歩みだそうとしている……。           

やつがれ、いつも出所はまったく同じ、こうしたたぐいの根拠のない流言飛語や誹謗中傷にはすっかり慣れているし、そんな単純な扇動に附和雷同するような、愚昧のやからを相手にしたくないから、いまさら頓着しない。
まして、いまさら功名心や使命感でもない、まして衒学趣味もない。春の野辺のツクシのように、ポコポコと、自由気ままに、
「こんなにおもしろい、文と字のことども」
をしるしたかっただけのことである。
        
 

ただただ、一部の同学のともがらとともに、「文と字の大海」を揺蕩タユタフがごとく彷徨し、あちこち揺れ漂う旅に出てみたかった。
したがって、読者諸賢からの反論・異論・誤謬のご指摘は大歓迎である。
いずれにしても、本欄《新・文字百景》は近い将来、別のコーナーに移転の予定である。それまでポチポチといきますか。
 
──── 以上、冒頭駄言。 
                     

 《『説文解字』で部首とされなかった爿ショウ、そもそも『説文解字』とは》
「字 ≒ 文字」のなりたちを説いていて、現代中国でももっとも基本的な書物とされるのが許愼『説文解字』である。
これまで「許愼」あるいは『説文解字』という図書の名はしられても、その人物像をおもいうかべることはできなかった。
そこで冒頭に、新設なった「中国河南省安陽市・中国文字博物館」に展示されていた「許愼胸像」を紹介した。           

また下記に『文白対照 説文解字』(李翰文訳注、北京九州出版社、2006 年 3 月)の口絵に「許愼肖像画」が掲載されていたので、それもあわせて紹介した。もちろん写真術などは影も形もない1900 年ほど前のひとであるから、どこまで許愼のふんいきや風貌を伝えているのかはわからない。                              

           

許愼キョ-シンは後漢(東漢とも 25-220年)の学者で、あざな(字、男子が成年後に実名のほかに名乗った別名)は叔重シュク-ジュウ。中国河南省汝南ジョナン県召陵ショウリョウのひと。
その撰による『説文解字』15巻は、中国文字学の基本とされる。        

許愼の人物紹介は、わずかに『後漢書』列伝に簡潔にしるされただけである。
したがってその生没年には諸説あって、西暦30-124年『広辞苑』、?-c.121年『新漢和辞典』、c.50-121年『標準世界史年表』、c.58-c.147年[李翰文]と、かなりの振幅がみられる。
許愼がいきた後漢の時代とは、わが国はまだ弥生時代中期とされる未明のときであった。『標準世界史年表』(亀井高孝ほか、吉川弘文館)では、『説文解字』がなったのは推定西暦100年ころとしている。        

『文白対照 説文解字』(李翰文訳注、北京九州出版社、2006 年 3 月)によると、『説文解字』には正文9,353字、重文(合分、Compound sentence)1,163字、合計10,516字が掲載され、その全書の総字数は133,441字におよぶとされている。
また『説文解字』には540の部首が設けられ、その部首ごとに編纂をすすめるという方法がとられた。                

                         

許愼がしるした『説文解字』は、見出し字(親字)に篆文(小篆)をもちい、本文は隷書であったとされる。
後漢の時代には、まだ楷書(当初は今隷、のち正書・正体とも)が登場していないので、隷書で本文をしるしたことは当然とおもえるが、現存する最古の『説文解字』は、500年余ののち、唐代(618―907)写本のわずかな残巻でしかなく、本文はすでに唐代に登場した楷書でしるされている。つまり許愼『説文解字』の正確な形姿は想像するしかない。           

まだ複製術 ≒ 印刷術が創始されるはるか以前、いまから1900年余以前の、後漢のひと許愼は、当然のことながら『説文解字』を「手書きの書物 稿本」として、15巻におよぶ大著をのこしたとみてよいだろう。
その後書写本がいくつか製作されたとみられるが、写し間違いや、訛伝、ときには潤色もみられたことは当然予測可能である。        

そして許愼の時代から千年ほどのちの10-11世紀ころ、北宋の時代に木版印刷術などの諸技術が飛躍的な発展をみて、『説文解字』はいわゆる北宋刊本(板目木版印刷術による複製本)として相当量の刊行をみたとみられる。
しかし北宋刊本は、その後女真族による金国の誕生・支配にともなう混乱や、蒙古族の元王朝の誕生など、異民族支配があいつぎ、その戦乱と混迷のなかにそのほとんどが忘失した。                    

           

現代によく伝承されている許愼『説文解字』は、わずかに200年ほど前の刊本で、清朝嘉慶14年(1809)孫 星衍ソン-セイエンが、宋朝時代の刊本を覆刻(かぶせ彫り)した『仿北宋小字本 説文解字』(仿は倣と同音・同義)と呼ばれるものである。
しかしこの『仿北宋小字本 説文解字』ですら、容易には入手・閲覧できないために、清朝同治12年(1873)陳昌治チン-ショウジによる新刻刊本『説文解字』がもちいられることも多い。                

しかしながら木版刊本によった前掲 2 書でも、到底厖大な知識層の需要をまかなうことはできなかった。また近代中国では解釈できない文や、注釈が必要な部分が多かったため、しかるべき識者・碩学が「訳文」と「注釈」を原本(木版刊本)に朱筆でしるしたものを「批注本」と呼んで珍重した。
それらの「批注本 説文解字」を、清朝末期に導入された大量複製術の石版印刷によって、スミと朱色による套印(トウイン、多色刷り。現代のオフセット平版印刷多色刷りに相当)をもちいて書物にすることがみられた。           

筆者が所有する『説文解字』は、『説文真本』(和刻本 1826)などの和本が数種類あるが、まったく物足りなかった。このごろもっぱら愛用しているのは、「批注本 説文解字」の一種で、『黄侃コウカン手批 説文解字』(黄侃コウカン批校、中華書局出版、2006 年 5 月)と、現代中国の簡化字活字による『文白対照  説文解字』(李翰文訳注、北京・九州出版社、2006 年 3 月)である。                      

もちろん手元の「漢和辞典」のたぐいも総動員しているが、それぞれ一長一短あって、コレとは決めかねている。それでも長年にわたって『新漢和辞典』(諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎、大修館、昭和 59 年 3 月 1 日)を愛用している。これは諸橋轍次一門が、いわゆる諸橋『大漢和』の要約版として編んだもので、机上において邪魔にならない。       

それより、もっとも愛用している「漢和辞典」は、電子辞書版『漢字源』(原本:『漢字源』藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光、学研)である。それとパソコンに組み込んだ「ATOK文字パレット」も、電子メディア表示字種の確認のために捨てがたい。 要するにたいした資料は無いということである。                          

《順序が逆向き?! だが、まず 片 からみる》
【片】は教育漢字で、小学校6年(配当)で学ぶ。常用漢字でもある。
つまり、あたりまえの漢字であるが、おおきな矛盾もはらんでいる。
総画数は楷書 4 画で、漢字部首「片 ヘン, カタヘン部」をなす。
漢字音は「ヘン piàn, piān」、常読は「ヘン/かた」、意読は「きれ/ひら/かけ/かた/ペンス penceの音訳」など。
わが国での名づけは「かた」である。
したがって筆者の姓は「片塩」であるから、「かたしお」とよんでいただくことになる。                 

むかしのこと。某 FUJI 銀行の窓口で、
「ヘンエンさ~ん」
と呼ばれて、最初は〔誰のことじゃい〕とおもって聞き流し、そこらにあった週刊誌をながめていた。再度、
「ヘンエンさん、ヘンエンさ~ん、いらっしゃいませんか~」
と大声をだされて、
「あぁ、オレを呼んでいるのか」
とわかるまでに少し時間が必要だった。       

たしかに漢字のよみがわからないときは、奈良朝のいにしえより、漢字音(漢音読みとも)でよむならわし ── はじめは太政官符だったらしいが ── がある。それでもわが国の「片の名づけは 古来 かた」であるので、片桐・片岡・片倉・片山さんなどとともに、たとえ少少変かもしれないが、お願いだから、「片塩 ヘンエン」とはよまないでいただきたいのだ。                         

図版『黄侃コウカン手批 説文解字』にみる「凡片之属皆从片」は、「およそ片に属する字は、みな片にしたがう」という意であり、「片」は漢字部首「片 ヘン piàn, piān」として成立している。           

〔新漢和辞典 解字〕によれば以下のようになる。
指事。木の字をふたつに割って爿と片にした右の半分を示し、かたいっぽうの意を表す。        
その楷書字画 4 画には、諸説、諸例があって混乱がみられるが、ここではひとまず触れないでおく。        

「片」の字画をその部首あるいはその字画の一部に有する字のうち、ふつうのパソコンに登載され、表示できる字には、
「牒・牌・版・淵・片・嘯・瀟・牋・牘・簫・肅・蕭・奫・婣・彇・沜・潚・牎・牏・牐・牓・牕・牖・繡・蠨・鏽・驌・魸・鱐・鷫・扸・棩・橚・熽・牉・牊・牑・牔・牗・璛・蜵・蝂・裫・覑・鼘」
などがあり、その総数は 45 字におよぶ。                          

《爿に触れる前に、かなりやっかいな字 从 をみる》
図版『黄侃コウカン手批 説文解字』にみる「从」は、『説文解字』に掲載された字であるから、おそくとも後漢の時代からつかわれていた字である。
「从」は楷書 4 画で、漢字部首「人部」にある。
この字は《从 → 從 → 従》と変化したが、現在の中国常用国字(簡体・簡化字)は、「從 でも 従 でもなくて 从」である。
しかもほかの字の字画の一部になるときにも、この「从」が応用されるので、けっこう厄介な字である。           

すなわち、《従、從、从》は同音同義の字である。
常読では「ジュウ/ジュ/ジョウ/したが……う/したが……える」であるが、和訓音として「したがって、それだから」がある。
漢字音は時代差と地域差がおおきく、「ショウ/ジュ/ショウ cóng/ジュウ/ショウ zóng/シュ/シュ cōng」などとさまざまに音される。         

現代のわが国では「从」を異体字としてひどく冷遇? している。
すなわち《従、從、从》を以下のように扱っている。〔電子辞書版 漢字源〕
【従】  教育漢字6年配当。常用漢字。
          楷書画数10画、部首彳部、シフトJIS:8F5D
【從】   旧 字、楷書画数11画、部首彳部、シフトJIS:9C6E
【从】  異体字、楷書画数04画、部首人部、シフトJIS:98B8

〔新漢和辞典 解字〕によれば以下のようになる。
会意兼形声。从ジュウは前のひとのあとに、うしろのひとがつきしたがうさま。從は「止アシ+彳イク+音符从」で、つきしたがうこと。A のあとに B がしたがえば、長い縦列となるので、長く縦に伸びる意となった。従は当用[常用]漢字字体。                

 《さて、問題の爿ショウである……》
「爿」の字画をその一部に有する字のうち、ふつうのパソコンに登載され、表示できる字は、
「嘯・奬・妝・將・漿・瀟・爿・牀・牆・獎・簫・莊・蕭・裝・墏・娤・嶈・彇・戕・槳・潚・焋・蔣・螿・蠨・蹡・醬・摪・斨・梉・橚・熽・牄・蘠・鱂」
などがあり、その総数は 37 字におよぶ。さきに紹介した「片」の総数 45 字にくらべてもさして遜色ない。           

しかも、爿と片は元がおなじ「木」をまっふたつに割った字とされるから、元の「木」にもどろうとしているのか、字画が混み合うのをいとわずに、
「嘯・瀟・簫・蕭彇・潚・蠨」
「淵・嘯・瀟・簫・肅・蕭・奫・婣・彇・潚・繡・蠨・鏽・驌・鱐」
のように、「片と爿」が向きあった字画もすくなくない。                      

そしてわが国の字書の一部には(楷書・総画数)4 画とされることがあるが、よくみると「片・爿」では楷書としての運筆上に矛盾を生ずることもままみられる。つまりなにかと書きづらい字でもある。
すなわち現代中国でも台湾でも「正体としての 片」は 4 画として国家が定めている。しかしこれはあくまでも楷書字画のことであり、その余の書体 ── 行書や草書などの字画におよぶものではない。        

すなわち、中国ではふるくから「正体・俗体・通体」があった。公文書や教育用には正体がもちいられるが、生活人は「俗体・通体(通行体)」をあたりまえのごとくもちいている。ついでながら、ふつう中国で「異体字」とは、異民族が漢土にのこしていった字のことを指すことが多い。         

したがって筆者(片塩)は、「片」の下の横線を上の直線と同様に長く書き、最終画の 5 画目を縦の直線として、ながらく楷書 5 画で「書いてきたし、書き続けている」。つまり俗体であり通体でしるしている。
しかも筆者のオヤジなどは、2 画目は釘の頭のような短い縦棒ではなく、ドンと点をうち、5 画目の最終画をグイと右に曲げてから撥ねていた。こうすると木の切れっ端という印象はうすれて、安定感がいや増し、結構勇壮な「片」であったのだ?!
このことがらは、項をあらためて触れたい。                  

 しかもこの「肅・淵」のような字画を有する字のばあい、ときとして「肅 → 粛」、「淵 → 渕・渊」などとあらわされることもある。
これらの例は同音・同義であるが〔電子辞書版 漢字源〕では、
【粛】       常用漢字・楷書11画・聿フデ-ヅクリ部
【肅】       旧字・楷書字画13画・聿フデ-ヅクリ部
が通用している。                       

ところが、似たような字画を有する「淵」になると、ふしぎなことに以下のようになる。
【淵】     楷書11画・水部
【渕】   楷書11画・水部・異体字(A)
【渊】      楷書11画・水部・異体字(B)
                           

これらの通用字をよくみると、「肅」の字の一部の字画が「米」に置きかえられ、「粛」が常用漢字となり、「肅」は旧字とされて「格下げ」されている。しかし「肅」で「米」の字画に置きかえられた「淵」の字画は、常用漢字への採用がなかったために、いまもって「淵」が常用字であり、「渊」は異体字 B として「ひどく格下げ」されるという、ある種の矛盾が発生している。           

これらの当用漢字や常用漢字に採用された字画を、ほかの字の偏や旁やその一部になるときにも採用して、「字体」の乱れ(混乱)を調整しようという動向がかつてあった。
たとえば「肅が常用漢字となって→粛」となるならば、同種の字画を有する「淵を → 渊」とするようなことであった。それは「拡張新字体」として一部の活字業者にも採用されたが、現在ではあまり注目されないようだ。                      

さらに先に紹介した『説文解字』の説明とは、爿と片の左右の位置関係が逆におかれている。
許愼『説文解字』(第七上)によれば「判木也。从半木。凡片之属皆从片」とある。
すなわち、「片」は、指事であり、「木」をまっふたつにしたうちの右の半分である。つまり楷書や行書ではなく、冒頭に掲げた図版のように、甲骨文や小篆にみるような「木」の字をふたつに割って、左半分を「爿ショウ」とし、右半分を「片ヘン」にしたもので、ともにかた一方の意をあらわすとされてきた。
したがって「爿」は左に、「片」は右にありそうだが、実際の字画はその逆になっている。
「爿」「片」は、どうやらやっかいな字であることをおわかりいただけたであろうか?                            

《常用漢字爿部首? 丬の字を検証する》
さらに、まことにやっかいなはなしだが、わが国では「爿」の字画を「部首」に有する字が、常用漢字になると、「丬」の字画となって、にわかに「新部首 丬」になったりする。
しかしここに電子辞書版『漢字源』(学研)から検証したように、「丬」をもちいても、すべての字が「爿」の字画を「旧字」「異体字」などとして、いまだに温存しているのはなぜだろう。ふしぎな字画(部首?)が「爿」である。
                      

【奨】   常用漢字・楷書13画・大部
【奬】
   旧   字・楷書14画・大部
【獎】   異 体  字・楷書15画・犬部
【将】   常用漢字・教育漢字6年配当・楷書10画・寸部
【將】   旧   字・楷書11画・寸部
醤】          楷書17画・酉サケノトリ,ヒヨミノトリ部
【醬】   異 体  字・楷書18画・酉サケノトリ,ヒヨミノトリ部・Unicode:U91AC
【状】   常用漢字・教育漢字5年配当・楷書7画・犬部
【狀】   異 体  字・楷書画数8画・Unicode:U+72C0
【寝】   常用漢字・楷書13画・宀部
【寢】   旧   字・楷書13画・宀部
【壮】   常用漢字・楷書6画・士部
【壯】   旧   字・楷書7画・士部
【荘】   常用漢字・楷書9画・艸部
【莊】   旧   字・楷書10画・艸部
【装】   常用漢字・教育漢字・楷書12画・衣部
【裝】   旧   字・楷書13画・衣部
                          

《部首になりきれなかった爿・丬》
前掲資料のように、電子辞書版『漢字源』(藤堂明保ほか、学研)は、「爿」を部首としてはまったく扱っていない。
あるいは中国伝統の部首配列にもとづくとされる ── 俗に康煕字典配列とされる ── 活字版印刷の活字ケース(スダレとも)での配列は、「将・將」→ 寸の部(業界用語でチョット寸 → 3 画)に配される。同様に「状・狀」→犬の部(業界用語でケモノ → 4 画)、「壮・壯」 → 士(業界用語サムライ → 3 画)の部である。
        

すなわち『康煕字典』には「爿」の部首があることはすでに紹介した。したがって、「将・將」→ 寸の部、「状・狀」→ 犬の部、「壮・壯」→ 士の部の例だけをみても、── わが国の活字ケースは康煕字典配列にもとづく ── とされる「俗説・通説」には疑問が発生することになる。
ましてこのごろでは、わが国の漢字字体の典拠として「康煕字典体」などということばも散見する。まことにもってふしぎなはなしだとおもうが、いかがなものか。
       

 ところで、このくらいで驚いてはいけない。わが国の活字版印刷の分野では、いまもって、「しんにゅう 辶は 7 画」である。すなわちここでは許愼のむかしとかわりなく、「しんにゅうは、そのふるい字画  辵 」であり、7 画であるとしているのである。              

これをして、時代錯誤としようが、固陋頑迷としようが勝手だが、字 ≒ 文字は、ほぼ漢王朝のころに完成をみたために「漢字」とされた。それを明確かつ体系化した字書が『説文解字』であった。
そして「漢土→中国本土、漢文→中国の文書、漢方→中国の薬・医学、漢族→中国の主要民族」として、いまもって「漢」の字は、民族意識をもってもちいられている。
       

いま、我我は隋・唐のむかしと同様に、ふたたび隣国中国との接触をつよめている。つまるところ、そこでは、その中国の国字たる「字 漢字」をどのように理解し、わが国で馴致した「日本式漢字」をどのように理解し、双方で誤解なくもちいればよいかの判断がもとめられはじめただけのことであろう。  なにもめくじらをたてるほどのことではない。たいしたことではないのである。                   

 そこで「爿」を部首としている簡便な「漢和辞書」2 冊をみてみたい。
『新漢和辞典』(諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎、大修館、昭和 59 年 3 月 1 日)p.564 には、【爿(丬)部】がある。
すなわち 4 画の部首として扱われている。
ここには 6 字が紹介されている。簡略に紹介する。
                           

    【爿(丬)部】 しょうへん(丬は3画)
【爿】 ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)qiáng
      ①きぎれ。木をふたつに割った左半分。
〔解字〕 指事。木の字をふたつに割って爿と片とした左半分を示す。当用(常用)漢字では丬の形に書く。

【壮】 → 士部 3 画。
【牀】 ソウ(サウ)・ジョウ(ジャウ)慣用:ショウ(シャウ) chuáng
①寝台
【牂】 ショウ(シャウ)・ソウ(サウ) zāng
①めひつじ
【将】 ショウ→ 寸部7画。
【牆】 ショウ(シャウ)・ゾウ(ザウ)
①かき。かきね。
                           

拍子抜けするほどあっけないものである。しかも当用(常用)漢字となった【壮】は、「新部首?丬」が置かれないために、士部 3 画をみよ、であり、【将】も寸部7画をみよ、となっている。
すなわち諸橋轍次とその一門は、「爿」は部首としているが、常用漢字に採用された「丬」は部首としては扱っていないことが判明する。
                             

もうひとつ「爿」を部首とした『新明解漢和辞典 第二版』(長澤規矩也、三省堂、1982 年 11 月1日)をより簡略にみてみよう。
ここでは常用漢字となった「将・壮・装」などは、そのふるい字体「將・壯・裝」も紹介しないほどの割り切りかたである。
もちろんそれぞれの書物には編集意図があり、それに異をとなえるものではないが、かなり大胆な割り切りかたである。
  

    【爿 部】 新字体は丬
【爿】 漢音:ショウ(シャウ)、呉音:ゾウ(ザウ)
①木を両分した左の半分。→片(右の半分)
〔字源〕 象形。木の左半分の形にかたどる。
【妝】・【牀】・【戕】・【斨】・【牁】・【牂】・【娤】・【漿】・【奬】・【牆】・【螿】・【醬】             

   

ただし、ここできわめて興味深いのは、諸橋轍次ほか『新漢和辞典』がその〔解字〕において、
「爿」を「漢字六書の指事」とし、
長澤規矩也『新明解漢和辞典 第二版』はその〔字源〕において、
「爿」を「漢字六書の象形」としていることである。
この「漢字六書の法」も許愼が定めたものであるが、こうした基本的な事柄におけるふたりの碩学の相違にかんして述べるには、いまは筆者の学問がたりない。しかしこれを看過していては、「字学」の歩みを止めてしまうことになろう。非才の身ながら精進したいものである。
                         

  

 
 
 

 

《常用漢字  将(旧字 將)と、状(旧字 狀)を『説文解字』にみる》
将(旧字 將)
『説文解字』第三下 寸部  5 行目 寺 の下にある。
師也。从寸、醬省聲。即諒切。(jiàng)
〔電子辞書 漢字源 解字〕
会意兼形声。爿ショウは長い台をたてに描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(て)+音符爿」。

状(旧字 狀)
『説文解字』第十二下 犬部 上部にある。
犬形也。从犬、爿聲。盈亮切。(zhuàng)
〔電子辞書 漢字源 解字〕
会意兼形声。爿ショウは細長い寝台の形をたてに描いた象形文字。
狀は「犬+音符爿」で、細長い犬の姿。細長いの意を含むが、ひろく事物のすがたの意に拡大した。
                                 

《結論は急がないで欲しい。いっしょに漢和辞典でも引きましょうや》  
ここまでみてくると、許愼はどうやら「爿」を字音をあらわすための「音符」としてみていたのではないかとおもわれる。だから部首にはしなかったのかと……。
すなわちこの「爿・片」だけを取りあげても、もっと学問が必要ですな。
そんなわけで、ぜいぜいヒイヒイいいながら『説文解字』をひき、漢和辞典と照らしあわせているいまなのである。
───〔この項つづく〕
 

朗文堂―好日録014|アダナ・プレス倶楽部(サラマ・プレス倶楽部)|新潟旅行Ⅲ |會津八一と坂口安吾のこと

朗文堂―好日録014

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會津八一と坂口安吾のこと

て、ここで會津八一(1881-1956)のことをしるさねばならない。坪内逍遙はこのひとを、かくのごとく紹介している。   

とにかく君は、天成の藝術家である。

新潟市會津八一記念館のパンフレットやWebsiteでは、かくのごとく紹介している。

會津八一は、秋艸道人シュウソウ-ドウジン または渾齋コンサイと号し
すぐれた東洋美術史学者でもあり
それとともに、類
まれな歌人であり
また、独往の書家でもあった

 《會津八一記念館と北方文化博物館新潟分館・會津八一終焉の地》
會津八一記念館 は日本海の潮騒が聞こえそうなほど、関谷浜に沿った高台にあった。おりしも企画展《會津八一 vs 北大路魯山人 ── 傲岸不遜の芸術家》の開催中であった。
會津八一(1881-1956)と、北大路魯山人(1883-1959)は、ほぼ同世代人であり、互いに書にたくみでありながら、書芸家だけとしての人生を過ごさなかったという共通項を有する。
すなわち會津八一は、新潟市古町通五番町・料亭會津屋に三男五女の次男としてうまれた。1881年8月1日うまれだったから八一と名づけられたとされる。歌人であり、美術史家であり、教育者でもあった。
いっぽう北大路魯山人は、京都にうまれて、名は房次郎。書と篆刻で名を成し、のちに料理と食器の研究と製作にあたった。そんなふたりだったが、両者の仲はそうとう険悪だったそうである。同館ではそんな展示をていねいに展開していた。

しかしながらやつがれ、学芸員諸氏の苦労は別として、こういった個人を顕彰するのが主目的の記念館で、根っこから切りはなされたような、そして被収蔵者の生前の息づかいや、体温のぬくもりのごときものが感じられない、博物館的な施設は苦手である。つまりこういう個人の記念館施設なら、わざわざ新潟まででかけなくても、バスでチョイの  早稲田大学會津八一記念博物館  で十分な気がする。それよりも、やつがれ、會津八一が意味なく苦手であることにあらためて気づかされた。

會津八一は生前、みずからを《傲岸不遜 ゴウガン-フソン》と称していたそうである。「傲岸 ゴウガン」は、おごりたかぶり、角立って、へりくだらないこと。「不遜 フソン」は、謙遜でなく、おもいあがっていることである。
すなわち《傲岸無礼》の類語であって、《傲岸不遜》などとみずから称するなどというものではない。むしろ天にむかってうそぶくものである。もちろんそこには諧謔やパラドクスがあったにせよ、なにか避けたいものがある。

早早に記念館を抜けだして外で一服していたところ、山崎歯科博士がさりげなく、
「この近くに、ふんいきのよい、會津八一関連の施設がありますけど、いきますか?」
とかたりかけてきた。このあたりの山崎博士の呼吸はまことにそつがない。

會津八一は早大卒。名を成してのち、東京下落合霞坂に居住し、のち1935年(昭和10)目白文化村に引っ越した。そこは霞坂時代の「秋艸堂」と区別するために「文化村秋艸堂」と呼ばれるようになった。ところが1945年(昭和20)4月13日の夜半、目白文化村は B29 の大編隊による空襲を受け、會津八一が長年にわたって蒐集した美術品や骨董品、あまたの美術資料や書物が一夜のうちにすべて灰になった。

このころ會津八一は「養女」きい子とともにあり、空襲のなかを逃げまどい、同年4月中に、「養女」きい子をともなって郷里の新潟に疎開、蒲原郡中条町の丹後康平宅にしばらく寄寓した。その疎開とは混乱をきわめた列車の旅ではなく、毎日新聞社の取材用の飛行機によった。會津八一はやはり傲岸不遜のひとであった。
そして新潟市南浜に瀟洒な邸宅を提供されてからは、ここを「南浜秋艸堂」と名づけて、二度と東京にもどることはなく、この地で1956年(昭和31年)11月21日、75歳で永眠した。
會津八一記念館から車で移動するほどでもないところに、「南浜秋艸堂、會津八一終焉之地」はあった。ところがナント、そこは昨夜から一日だけ宿泊し、博物館巡りをしてきた「北方文化博物館の新潟分館」であった。ふたたび北方文化博物館のWebsiteから紹介する。

01image01

新潟分館ホームページへ   北方文化博物館新潟分館の庭には秋艸道人(曾津八一)の歌碑が 建っています。
新潟分館は、出雲崎町尼瀬の西山油田の掘削によって巨万の富を得た長岡の清水常作氏が明治28年(1895年)に別宅として建設したものであるが、清水常作氏の逝去後、明治末期に六代伊藤文吉が新潟別邸として取得した。
曾津八一は昭和21年(1946年)5月、坂口献吉氏(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)から懇願され、「夕刊ニイガタ」の社長を引き受け、新潟市内での住居[探し]を同氏に依頼していたが、当時は戦後の混乱期で住宅事情が悪く、坂口氏は東奔西走の末、伊藤文吉の持ち家である新潟別邸に白羽の矢を立て、昭和21年(1946年)7月25日から昭和31年(1956年)11月21日に75歳で永眠するまで、ここ新潟分館の邸内の洋館で暮らしていました。
建築は新潟市の玉野玉蔵氏、箱庭は後藤石水氏の苦心の作で、館内には秋艸道人の歌書、良寛の書を多数展示している。
曾津八一は昭和3年(1928年)建築のこの洋館を、1階は書斎と応接室、2階を寝室として使用していた。曾津八一は伊藤家6代当主の弟・九郎太とは中学、早稲田大学とも2年後輩で、その弟とは中学が同期で大変に親しい関係にあった。
住所:新潟県新潟市中央区南浜通2番町562

《ゆったりとした時間が流れていた南浜秋艸堂》
會津八一は母屋の和風建築に居住したというより、おもにこの建物の正面からみて右手、2階建ての洋館に居住したようである。ふたつの建物はすっかり整理されて、會津八一と良寛の書があふれていた。
ここでやつがれ、おもわずのけぞった。最初はウソだろうとおもった。展示場でも陽の射しこむ母屋の展示場の端に、まったく無造作に良寛の書『天上大風』があった。これは夢かうつつか? わからん!
      

かつてやつがれ、某氏と某社とともに、「小町・良寛」という、写植用仮名書体の開発に関わったことがある。この仮名書体は、現在ではデジタル・タイプとして発売されている。その際、良寛の書をそれなりに勉強した。とりわけ『天上大風』の書は、何度も(書物で)みたし、その飄逸な書がきわめつきにすきだった。その原本がここにあった!
ガラスケースの中の書だったから、写真はひどいがご容赦願いたい。
ともかく、この書軸を無造作に掛けてあることに驚いた。
もしかすると良寛和尚は『天上大風』を何枚も書いていたのかもしれない。
あるいはこれはレプリカか?
それでは伊藤文吉8世に失礼になる。
『天上大風』を前にして、やつがれうろたえるばかり。
同館では図録や資料集は製作されておらず、若い受付嬢がいるばかりで詳細は不明のまま。

 

今回の旅では良寛記念館に行けなかったことは既述した。すなわち、どうしても良寛記念館にもいかなければならないことになったようである。すなわち越後路の旅、ふたたび。      

    

南浜秋艸堂の庭の片隅に1955年(昭和30)に建立された歌碑がある。碑文は以下のようである。

かすみたつ はまのまさこを ふみさくみ
かゆき かくゆき おもいそわかする

        この碑の建立にあたって會津八一は上の写真のような指示を、原稿に朱筆で書き加えている。「歌碑として  彫刻せしむるために 特に 筆劃に 訂正を 加へたる ものなり 彫工は熟練なるを要す 文字行間のあきは 絶對に原稿の 通りにすること」        

さてと……、短歌と書に関しては論及する立場にない。しかし會津八一は、書字と刻字、書写系の文字と彫刻系の文字の相違に関しては理解不足を指摘されてもしかたなかろう。
ここにみる建立直後の写真は、おそらく刻字の部分に石灰でも入っていたとおもわれる。したがって文字は鮮明に読みとれる。それで八一翁は満足したらしい。        

しかしやつがれ、この碑の彫刻のあまりの彫り込みの浅さと、線質の弱さ、かぼそさにおどろいた。筆画や字配りにこだわって指示をだすのはかまわない。そしておそらく、彫工はしかるべき技倆の名工を起用したと想像されるが、その指示のきびしさに萎縮し、細部にこだわりすぎて、本来の技倆をまったく発揮していないとみた。とくに運筆の速度の遅速感が、彫刻からはまったく伝わらなかった。
こうしたひら仮名異体字をふくむ、いわゆる和様の書の彫刻は、1898年(明治31)長崎の父祖の地に建立された『平野富二君碑』(平野幾み《喜美子》書、現在は谷中霊園乙11号14側、平野家墓地に移転)が、彫りの深浅、柔軟な線質を石彫にいかしてみごとである。その報告は平野富二没後110年を期して『富二奔る』(片塩二朗、朗文堂、2002年12月3日)にまとめた。
また長崎公園の『池原香穉翁小伝』の碑も、艶冶な和様の書を刻した巨大なものであり、名碑といってよいであろう。長崎の寺町通りの寺(名前は失念)には、會津八一のできばえのよい、かなの書の碑もあったと記憶している。會津八一翁はこれらの名碑をご存じなかったか。       

會津八一の書は「孤高蒼古の境地にある」とされる。残念ながらその良さがこの歌碑にはいかされていなかった。ましてそこに「原字と石彫指示書」があっただけに、余計痛痛しかった。やつがれは、八一翁にならって現在の碑面に触れ、文字をそっとなぞってみたが、採拓の形跡はほとんどないのに、あまりに弱弱しい刻字であった。
写真は照明もなく、やつがれの技倆の悪さがもろにでているが、それでも 6 枚シャッターを切ってこの程度のものしかなかった。「餅は餅屋」という。あまりひとの職能に容喙するのは良い趣味とはいえないこともある。        

《會津八一とふたりの養女――きい子 と 蘭のこと》
會津八一が妻帯したという記録は、ほとんど関心もなかったので管窺に入らない。しかし會津八一記念館の記録に、晩年の會津八一をめぐるふたりの女性が「養女」として登場する。そして「會津八一終焉の地・北方文化博物館新潟分館」には、「養女」きい子と、「養女」蘭の数葉の写真記録がのこされていた。
會津八一63歳  1944年(昭和19)   
   身辺の世話をする高橋きい子(義妹)を養女にする。
會津八一64歳   1945年(昭和20)
       養女きい子疎開先で病没する。享年33(7月10日)。
會津八一68歳  1949年(昭和24)
   従兄弟・中山後郞の娘・蘭を養女とする(5月)。
きい子は、ともに東京目白で空襲の猛火のなかを逃げまどったひとである。そのあまりにも若い永眠のときとは、敗戦となるひと月ほど前のことであった。この1945年7月10日には會津八一はまだ南浜秋艸堂には移転しておらず、蒲原郡中条町の丹後康平宅でのことであったとおもわれる。
それでも目白時代のものか、戦前のきい子と八一がともに庭に出て、庭いじりをしている写真がのこされている。きい子は整った顔立ちで、真っ白な割烹着を着て、まるで若妻のようにはなやいでみえる。
きい子の逝去から2週間後ほどして、1945年7月25日から會津八一は南浜秋艸堂に移転した。そして4年後に蘭を「養女」としている。蘭も越後の美人といってよい、引き締まった顔立ちである。どことなくきい子と似ていなくもない。
奏楽家の宮城道雄(1894-1956)が新潟を訪れた際、蘭はその琴の指導をうけた。それを見まもる會津八一の顔は、ムスメを見る顔というより、むしろ(あきらかに)、いとしいひとをみるという顔をして写真に収まっている。
會津八一の評伝や研究書は数多いが、このふたりの「養女」に触れたものはすくないようだ。やつがれ、これらの写真から、孤高を演じ、傲岸不遜をうそぶいていた會津八一が、澄みきった心境にいたったときにチラリと見せた、人間らしい一面をみるおもいがして、勝手に救われた。
    

《坂口安吾 風の館》
坂口安吾(1906-55)は新潟市中央区西大畑町にうまれた。第2次世界大戦後に、在来の形式道徳に反抗して「堕落論」をとなえたひとである。1946年(昭和21)4月『新潮』に掲載された「堕落論」は青空文庫にアップされているので見て欲しい。
かつての新潟市長公舎が
「安吾 風の館」として、坂口安吾の諸資料を収集して無料公開されている。
 磯馴れ松がひろい庭を占めていた。これがよかった。   

その「安吾 風の館」からすぐ近く、新潟大神宮参道の脇に「安吾生誕碑」がある。碑面には以下のようにある。 安吾らしくアッサリしていた。たしかにこのあたりは、日本海の荒波が押しよせてきそうな海浜の地であった。   

私のふるさとの家は 空と 海と 松林であった
そして吹く風であり 風の音であった 

   《そして、短かった新潟の旅は終了した。でも、すぐにもう一度行きそうだな?》
かくして短かった新潟の旅終了。雨男が同行したにもかかわらず、終始アッパレ日本晴れだった。そしてやつがれ、諸橋轍次記念館で漢学酔い、笹川流れで船酔い、北方博物館とその関連施設で魑魅魍魎のごときもろもろの出現でぬかるみに。かにかくに……、あらためておもうに、心地よいばかりの興奮の旅であった。新潟でサポートしてくださったおふたりに感謝。

最後は「豪農の館」でボケをかましているショットで終わろうか。

朗文堂―好日録013 アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行Ⅱ

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大呂菴と北方文化博物館のこと

《二日目の宿、大呂庵のことども》
新潟1泊目の宿は、翌日のプチ贅沢にそなえて、各自駅前ホテルで分宿。
新潟2日目は早朝から日本海に沿って北上し、「笹川流れ」で遊覧船に乗った。笹川とはいえそこは粟島(最初は佐渡島だとおもったが……)
を遠くにのぞむ海だった。

その海にでて30分ほど沿岸をまわったが、山河育ちのやつがれひどい船酔い。その後に立ち寄った村上市では、町歩きにでかけたみんなとは別に、しばしベンチに腰をおろして文庫本を読んでいた。そのうちに、ウツラウツラから完全に熟睡状態におちいったようだ。

だから写真のような村上の天然遡上の鮭の干物の奇観はみていない。この鮭の干物を酒にひたした「鮭の酒びたし」なるつまみが絶品だったそうだが、「サケのサケびたり」と間違えたやつがれにはおすそ分けもなかった。


村上はふるくからの港町で,江戸期には大坂と蝦夷(北海道)をむすんだ「樽廻船」の寄港地としてしられる。
現在は古き良き村上の再開発が進行中で、滋賀県彦根市の街並み再開発とともに話題になっていた。

そのせっかくの村上で、やつがれは木陰のベンチで昏睡というていたらく。再開発の状況に関してノー学部の報告では、
「彦根は彦根、村上は村上で、どちらも一所懸命に努力しているし、面白さもあった。比較するものでは無いでしょう」
とのこと。なんとなくそんなものかと納得して鮭の写真だけ紹介。なにせ現地にいて、なにもみていないのだから発言権なし。

そのあと既述した新発田市の「蕗谷虹児フキタニ-コウジ記念館」によって、もう薄暗くなったころに、今夜の宿「北方文化館 大呂菴 ダイロ-アン」に到着。ところが、つらなって走っていた銀嶺号と流星号が「北方文化博物館」の別々の駐車場にはいったようで、合流にすこし手間取った。それだけこの「施設」はとてつもなく広大だということである。


財団法人北方文化博物館に付帯する施設(宿)が大呂菴(ダイロ-アン、だいろはカタツムリの意)である。つまりわれわれは、「北方博物館関連施設」としての「大呂菴」に宿泊したことになる。
すなわちチョイとわかりにくいが、ここは単なる宿屋ではなく、「Museum 大呂菴」なのである。

これらの「北方文化博物館」関連の施設に関しては、多くのブログに書き込みがあることをのちほど(つい先ほど)知った。旅行好きなひとには著名らしいが、いわゆる造形者の書き込みがなかった。やつがれがくどくど説明するより、北方文化博物館と大呂菴関連の Website を紹介したい。   

 ◎ 大呂菴の魅力をトコトン語っている。写真も丁寧だ。
     http://www.hotel-archives.org/mailmagazine/vol078/index.html
◎ 旅行好きの初老のご夫妻のブログらしい。この宿に惚れ込んでしまったようだ。
   風をまちながら……、のサブタイトルがいいな。同じ部屋にヤツガレも宿泊した。
     http://freeport.at.webry.info/201010/article_3.html
◎ 建築家らしきひとの宿泊体験記。視点がことなり面白い。
     http://ameblo.jp/organi9-sta/entry-10343753128.html   



正門の格子をくぐり、小さな竹林を進むと、瀟洒な玄関が現われます。豪農の風格を漂わせる純和風の宿「大呂菴」は、部屋は勿論、廊下や階段のしつらえに至るまで、できるだけ当時の雰囲気を失わないよう、最大限の注意を払って改装いたしました。
八十余年昔日の静寂の中、古いものたちとの新しい出会いが始まる純和風の宿「大呂菴」は、大正浪漫の再現です。
「大呂(だいろ)」とは「かたつむり」のこと。
八代文吉[伊藤家第八代目・伊藤文吉氏――伊藤家当主は代々文吉の名を世襲する]は言います。
「あわてず、ゆっくり参りましょう。」
ここはテレビもラジオもない大正時代にタイムスリップしていただく宿です。

     
やつがれ、最初に宿の候補として「大呂菴」のことをきいたとき、「豪農の家・豪農の宿」というフレーズがひっかかった。
(みずからいうか、豪農の家なんて…… )

ところがそれはやっかみ・ひがみというものであった。伊藤家八代は正真正銘、真底からの豪農であり、それをはなにかけたりしないのだ、ということをおもいしらされた。ふつうはすらりと「ウチは豪農です」などといえるわけもない。
くどいようだが、本当に豪農だから、サラリと豪農だ …… だといっていたことをこの旅の各地でおもいしらされたのである。 

やつがれの亡父はまぎれもない子だくさんの貧農の出で、しかも第九子で次男の末っ子だった。したがって医者をこころざしたが、学費がなく、島崎藤村『破戒』の舞台となった飯山病院の院長、山崎氏に(養子ぶくみで)慶応大学医学部の学資・生活費を提供してもらい、ようやく医者になったという経歴がある。

さらに卒業後、ただちに軍役に召集され、中途の召集解除はあっても、前後15年のあいだというもの、各師団の軍医として召集された経歴をもっていた。その間に山崎氏の一家、オヤジの許婚者とされていた娘さんをふくめた全員が結核にたおれ、やむなくちょっとした「富農」であり、これもやはり地方の医師だった藤巻家の次女と結婚し、やつがれらの誕生をみた。     

ところが、やつがれのオフクロの実家・藤巻家は、ふるくは士籍にあり、また戦後の農地解放でほとんどの田畑を没収されたとはいえ、広大な山林がのこり、それなりに富農であった。しかし、代をかさね、またご当主が芸能人になったりして、いまは無住でみるかげもない…… 。
オフクロはその娘時代の藤巻の家を、ときおりはなにかけるふうがあった。それが子供心にあまり心地好いものといえず、質朴なオヤジの実家のほうがこのましかった。

「富豪の宿ねぇ、オレは貧農の家系だから泊まる資格はないぞ」
と抵抗したが、そこはノー学部、
「大呂菴の だいろ は、かたつむりなんだって。豪農さんもデンデンが好きみたい。ウチのデンデンが死んじゃったから、供養になるでしょ」
と涼しい顔。
たしかにやつがれ、秋津川渓谷で採取したかたつむり二匹を「デンデン01号・デンデン02号」と呼んで飼育していた。2年ほど、やつがれが青菜や野草をあたえ、ノー学部が余りもののキャベツや人参を放りこんで モトイ 給餌してきたが、いつの間にか死に絶えていた。
というわけで、デンデンの供養のため「大呂菴」に宿泊することにシブシブ同意。    

 

   

   

      
 
      

《到着後、さりげなく床暖房の温度を下げていた!》
大呂菴と北方文化博物館に関して、やつがれあまりおおくをかたりたくない。正直にいうと、まちがいなく再度この地とこの宿を訪れるだろうし、それまで荒らされてほしくないからだ。
   

みんなが大呂菴に着いたとき、すでに夕刻の六時を廻っていただろうか、駐車場から肌寒い風に吹かれて宿にはいった。その大呂菴の内部はやわらかい床暖房が効いて、ほんのりと暖かかった。
やつがれはベランダでさっそく一服したが、そのとき見てしまったのだ! 調理師兼管理人とおぼしき農夫系のオヤジが、さりげなく床暖房のパネルをチョイと操作した。
「床暖房、切ったんですか?」
「いえ、皆さん外で寒いおもいをされて到着されますから、床暖の温度を上げてありました。馴れると熱く感じられるので、すこし弱くしました。お寒ければ戻しますが?」
オヤジは悪戯を見られた悪童のように恐縮していた。やつがれ、これですっかり、
「まいった、降参!」  

ここまでやるのか …… とおもった。すべてが一見豪放かつ大胆、なんにもしていないようににみせながら、大呂菴はじつにこまやかな心配りがなされていた。それもわざとらしくなく、さりげなくである。
「北方博物館の関連施設」は、落ち葉をふくめて手入れが入念に行きとどいているが、農薬を散布しないとみえて、周囲からチョウやトンボや蛙などが敷地内にわんさかおしよせていた。もちろん秋の虫が草藪ですだくように鳴いている。
食事は食器のひとつひとつがすごい。それもチマチマとした京懐石のまねごとではなく、どんと大胆な盛りつけと、繊細な味つけだった。あちこちに置かれた生花は、翌朝にはもうあたらしい野草にかわっていた。やつがれ真底、本当に、
「まいった、降参!」

再訪時にはこのあたりの事情をふくめて、第八代・伊藤文吉翁――昭和二年うまれとされているから85歳ほどか。写真のように元気だ――のはなしをじっくり聞いてみたい。
おそらく文吉翁は、大呂菴のオフィシャルWebsiteにあるように、サラリとこういってのけるのであろう。
八代文吉[伊藤家第8代目・伊藤文吉氏ーー伊藤家当主は代々文吉の名を世襲する]は言います。
「あわてず、ゆっくり参りましょう。」
ここはテレビもラジオもない大正時代にタイムスリップしていただく宿です。 

ところでやつがれ、船酔いつづきでポワ~ンとしていたから、どこでどう合流したのかしらないが、食事のあとに、メンバーとふしぎなギタリストが一緒になって、テラスで飲み会 兼 演奏会がはじまった。
いつのまにやら会員は、60歳になるという、そのふしぎなギタリストを「フクちゃん」と呼んで、和気藹藹、盛り上がって、にぎやかなことはなはだし。やつがれは秋の涼風が快く、庭のハンモックとブランコに揺られながら、腹ごなし 兼 聴衆のひとりになっていた。

奇妙なことに、「フクちゃん」のギター演奏がはじまると、かそけく鳴いていたあたりの虫が、いっせいに元気よく鳴きはじめる。演奏が終わると、秋の虫ども、
「あれっ、どうしたの…… 」
とばかり、しばし沈黙。弱り蚊までどこかに飛んでいってしまった。演奏が再開すると、虫どもがまた一斉に、すだくがごとく活気づいて鳴きはじめた。
「フクちゃん」は、まこともって、ふしぎな演奏家だった。
大呂菴にはこうしたふしぎな時間が流れていた。そしてやつがれ、ともかくブランコでうつらうつら …… 。
 

朗文堂―好日録012 アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行Ⅰ

朗文堂-好日録 012

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歴史が育んだ、文化のかおりたかい街
アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行

 

《アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行 2011年10月8―10日》
おりしも秋の行楽シーズンであった。恒例のアダナ・プレス倶楽部 秋の研修旅行に同行。
今回はアダナ・プレス倶楽部新潟支部「山山倶楽部」会員、歯学博士ドクター山崎(現・プラハ在住)と、グラフィックデザイナー山下良子嬢の全面的なバックアップがあって、期待以上のおおきな成果がえられた旅となった。
  なによりもすべての食事が旨いのなんの。写真は食べる方に夢中で、すこしピンボケだが、「妻有」で食した「きのこ汁」の食材。上げ底無し、上から下まできのこの山だった。
新潟会員のご配慮で、この時期、この場所でなければ味わえない、山盛り・天然・自然のきのこだった。左党は名物・越後銘酒にも舌鼓。ご酒は苦手のやつがれは、ひたすら「きのこ汁」。ほんと「きのこ汁」でお腹がいっぱいになるなんて、まさに縄文ひと以上の贅沢? だった。

そもそも造形とは五体・五感をもちいてなす行為である。すなわち、味覚に鈍感なりせば、良い造形などできるわけがなかろうが! やつがれ先般の中国旅行で水にあたって五キロほど痩せたが、それをすっかり取りもどしたほどだ !?  それだけ越後の食の文化はすごかったということ。

というわけで(どんなわけかよくわからないが)、食の文化のあるところには、文字の文化がある。その逆もまた当然真なり …… が持論のやつがれ、新潟旅行を積極提唱。それに賛同者ありて曰く、
「茨城の出身だから、太平洋から昇る朝日はいつもみて
たけど、海に没する夕陽はみたことがない。日本海の大海原に沈む夕陽をみたいなぁ」

〔活版カレッジ・アッパークラス〕ではさっそく、
「いいですねぇ、それではことしはぜひとも新潟に行きましょう」
となったようである。
まずはノー学部がスケジュール骨子を作成。これがまた、なんともはや極めつきに怖ろしいのだ! ノー学部、好奇心はすこぶる旺盛だが、長野県も新潟県も東北地方に分類して平然としているほどの地理オンチ。

ところが好奇心だけはすこぶる旺盛だから、あそこも、ここも行きたい …… 、と喚き立てるが、相互の地理的な位置関係や距離感はまったくないから困ったものだ。
それでも昨年晩夏の近代活字版印刷術伝来の地・長崎旅行につづき、新潟支部の会員と相談して、実りの秋、新潟がもっともはなやいで、にぎわうという、秋の連休を利用しての新潟旅行となった次第。

おおいに心配だったのは、三度の結婚披露宴(結婚式・披露宴は一度、細君の郷里、友人たちと内輪の披露宴の都合三回開催)が、三度ともすべてひどい雨だった …… 、という「雨降り男」のM夫妻が同行すること。
自他共にゆるす雨男のせいで? 行きと帰りの新幹線の車中はひどい雨だったが、まことに奇妙なことに、車中以外は東京も新潟も終始アッパレ日本晴れ。おかげで新潟県中部の寺泊テラドマリ海岸で、待望の日本海に没する雄大な夕陽をみることができた。
写真はノー学部と雨男M氏提供。
                          童 謡  すなやま
うみは あらうみ むこうは さどよ
すずめ なけ なけ もうひは くれた
みんな よべ よべ  おほしさま でたぞ
くれりや すなやま  しおなり ばかり
すずめ ちりぢり  また かぜ あれる
みんな ちりぢり  もうだれも みえぬ
かえろ かえろよ ぐみはら わけて
すずめ さよなら  さよなら あした
うみよ さよなら  さよなら あした

《新潟県と新潟市……良寛さまと会津八一だけではない、歴史と文化の街》
新潟は、信濃川(やつがれの郷里・信州信濃では、おもに千曲川という)と、阿賀野川がなした沖積層と、海と砂丘と湊町からつくられた街である。
『童謡 すなやま』は、北原白秋(1885-1942)が童謡指導に寄居浜を訪れた際に作詞したものとされるなじみ深い曲である。
どういうわけかやつがれ、暮れなずむ海をみながら、おもわず口をついてでたのがこの懐かしい『童謡 すなやま』であった。
今回は新潟市を中心に、近郊市町村をかけまわる旅となった。  

 『巻菱湖伝』(春名好重、春潮社、2000年10月5日、p.223)によると、
新潟県のひとたちは、新潟県出身の書家で傑出しているひとは、良寛と会津八一とだけであると考えていて、江戸時代に巻菱湖マキ-リョウコ(1777-1843)のようなすぐれた書家がいたことを忘れているのは遺憾である。
と述べている。

灯台もと暗しとはいうが、江戸時代だけでなく、近代・現代においても、作家・文人・書芸家・印刷・出版界に多くの俊才を送り出したのが越後の国・新潟県であり、決して田中角栄先生だけではないのだ !?
ところが今回は、良寛記念館は時間の都合でいけず、巻菱湖史料館は臨時休館ということでいけなかった。それでも十分すぎるほどの収穫の多い旅だった。
新潟市のオフィシャルWebsiteによると、以下のように紹介されている。しかし残念ながら、ここにも越後の国新潟の、歴史と、ひとと、その重厚な文化には触れられていない。  

■ 新潟市の概要
新潟市は古くから「みなとまち」として栄え、明治22年の市制施行以来、近隣市町村との合併によって人口約81万となり、平成19年4月1日には本州日本海側初の政令指定都市となりました。
本市は、整備された高速道路網や上越新幹線により首都圏と直結しているなど、陸上交通網が充実しているほか、国際空港、国際港湾を擁し、国内主要都市と世界を結ぶ本州日本海側最大の拠点都市として、高次の都市機能を備えています。一方で、広大な越後平野は、米のほか、野菜、果物、畜産物、花き類など、農畜産物の一大産地です。また、日本海側に面し、信濃川・阿賀野川の両大河、福島潟、鳥屋野潟、ラムサール条約登録湿地である佐潟といった多くの水辺空間と里山などの自然に恵まれています。 

《越後の国で、旨いラーメンにありついたぞ》
土曜(8日)早朝の上越新幹線「MAXとき」に乗り、燕三条駅で下車。
会員の山崎さんと山下さんが、それぞれの愛車《流星号》と、《銀星号》で笑顔のお出迎え。
ひさしぶりの会員同士の再開を歓ぶ間もなく、まずは昼飯、腹ごしらえ。慌ただしく話題の店という、極旨背脂 ゴクウマ-セアブラ ラーメンの「杭州飯店」に駆けつけて昼食。ところが駐車場はいっぱいで、店の前には長い行列が……。ここも「行列のできる人気店」らしい。

やつがれ、ほんのひと月ほどまえ、本場の「杭州Hang zhou」で、劉昊星さんと中国料理をごいっしょしたが、ここ三条の「杭州飯店」の極太麺と、巨大チャーシューと、背脂の出汁ダシがきいたスープも本場に負けず劣らず旨かった。やつがれおもわず舌鼓をうったが、ン !?  新潟は米どころではなかったのか?

《燕市産業資料館で金属加工産業の学習。フイゴの実物を紹介》
燕・三条駅で集合したのは、おもに燕市産業史料館(燕市大曲4330-1)と、諸橋轍次記念館にいくため。燕市産業史料館は燕市の産業の変遷を展示している本館と――この建物が広場や池をはさんだ最奥部にあるので、まず最奥部からの見学をおすすめ――。

燕市の産業は江戸時代のはじめより、和釘・やすり・銅器・煙管などを中心として発達してきました。
この地方では近世に至るまで、和釘(舟釘)は野鍛冶がその必要な需要を充たす程度でしたが、徳川幕府・元和から元禄(1615-1704)に至るまでの[徳川幕府の]直轄時代に、江戸市中を見舞った幾多の地震や火災などの災害復旧のため、当時の代官が、毎年繰り返される大川の洪水で疲弊する農民の救済を目的に、大いに和釘の生産を奨励しました。
それ以降、和釘(家釘)の需要が増大し、近郷を合わせて「釘鍛冶千人」とまでいわれるほどに繁盛をきわめ、燕は東日本の和釘生産の本場となりました。

1700年頃には自家用鋸ノコギリの目立て道具としてヤスりの製造もはじまりました。さらに、元禄年間に開かれた間瀬銅山の銅を用いて、燕では銅器の生産が行われるようになり、明和年間(1764ー)には、会津地方から鎚起の技術を用いた、新しい銅器の製造法が導入され、併せて煙管キセルなども製造されるようになりました。これら燕の金属加工技術は、飾り物などの彫金技術と一体化して、家内工業生産の支柱として農村との密接な関連性を保持しながら発展してきました。    

 しかし明治維新以降、和釘は洋釘に、煙管は紙巻タバコに、矢立は万年筆に、銅器はアルミニウムの普及に加え、1914年の第一次世界大戦勃発により鋼が高騰するなど、これらの産業は衰退の一途をたどりました。
幸いにして[第1次世界]大戦のさなかに、外国からスプーン・フォークの見本が持ち込まれ、試作に成功しました。このことは長い間つちかった金属加工技術をもとに、金属洋食器の製造という活路を開くこととなりました。当初は手造りというエ程も、新しい機械技術やステンレス鋼などの導入によって生産量の増大・品質の向上などを図り、燕の金属洋食器は輸出が急速に発展しました。

第二次世界大戦後は、ステンレス加工技術を活かした「金属ハウスウエア製品」の生産も活発化し、金属洋食器と共に、国内はもちろん、世界百数十ケ国に輪出されています。現在では、これらの伝統産業を大切に保存しながらも画期的な創造力で、先端の加工技術を取入れ、新分野への業種転換及び多角化が行われています。

燕市産業史料館本館で、写真中央と右手最奥部に、やつがれ異なもの〔フイゴ〕を発見。
この風琴にも似た構造の送風器〔鞴フイゴとフイゴ祭〕のことは、東京築地活版製造所跡地に建立された「活字発祥の碑」に関して、本ブログロール『花筏』「A Kaleidoscope 002」に紹介したことがある。関心のあるかたは、面倒でもアーカイブから引きだして「A Kaleidoscope 002」の全文をごらんいただきたい。

わが国において近代活字鋳造がはじまった明治初期、活字鋳造工のおおくはふるくからの技能士、鋳物士(俗にイモジ)から転じたものがおおかった。かれら鋳物士は、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であった。      

「A Kaleidoscope 002」より部分紹介―――
もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどにも裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「イモノ」 をつくっていた。ふつうの家庭では 「火吹き竹」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。
そのために活字鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな金属成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「蹈鞴 タタラ を踏む」 としてのこっている。
       

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 (聖徳太子の父、在位585-87) の 『職人鑑』 に、 「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。つまり高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)がもちいてきた用具である。

そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。また太陽の高度がさがり、昼の時間がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、各所の活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」 を催して、「一陽来復」を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと「活字発祥の碑」 建立までの経緯がわかりにくい。          

移動中、雨男M氏が富農の家の軒瓦に興味を示していた。こういったたぐいの、ある種の意味性をもった造形物を、中国では「文」という。わが国では、まれに「紋」という。
興味のあるかたは、前ページの『朗文堂ー好日録 011』をご参照ありたし。

越後平野は米どころ。それだけに富農や豪農がおおく、家の構えも、瓦屋根も立派なものが多い。写真にみる棟の両端におかれた装飾瓦は、よく知られる《鬼瓦》とおなじ目的のもので、こうした棟瓦の一種は《獅子口》という。最上部の円筒形の部分は経典を模したもので「経の巻」といい、山形をなす部分を「綾筋」という〔以上、おもに『広辞苑』より〕。
神社や宮殿や資産家の邸宅にしばしばみられるが、越後平野では、あたりまえにみることができた。すなわち越後の民艸は裕福であるということ。           

《度肝をぬかれた各地の記念館、なかんずく、北方文化博物館》           
それからの2泊3日、まことに慌ただしく各地を駆け巡った。
印象にのこった施設が、まず蕗谷虹児記念館。蕗谷虹児(フキヤ-コウジ 1898-1979)は新潟県新発田市出身の画家であり、詩人でもあった。

蕗谷は最初に「待てどくらせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ……」とうたった先輩の竹久夢二にあこがれ、やがて、その勢いは満天下の人気を竹久夢二とともに二分した。とりわけ短い生涯だった母を思慕して詠んだ『花嫁人形』は現在も愛唱されている。

        童 謡  花嫁人形
金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら
花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ
文 金 島 田 に   髪 結 い な が ら
花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ
あ ね さ ん ご っ こ の   花 嫁 人 形 は
赤 い 鹿 の 子 の   振 り 袖 着 て る

     

諸橋轍次記念館(新潟県三条市庭月434番地)も、タイポグラファならぜひとも一度は訪れていただきたい場所である。
正直いって、やつがれ初日にいったこの記念館――というより、この地の異形な景観に衝撃を受けて、それからの2日間は、どうにもこうにもフワフワと夢心地。
すなわちここに日本風の民家や杉林がなければ、八木ケ鼻を中心とした景観は、中国の浙江省あたりの景観とそっくりだった。そもそもこのあたりは「漢学の里」と、いつのころからか呼ばれているそうである。
諸橋轍次(1883―1982)のことはくどくは書かない。いわゆる『諸橋大漢和辞典』(大修館)を編纂し、静嘉堂文庫館長・東京文理科大学教授を歴任。また文化勲章受章者である。100歳の春秋をもって1982年逝去。

それよりやつがれ、庭園につくられたほほ笑ましい「西遊記の像」と、その直近に現存する諸橋轍次の生家にみとれていた。玄奘三蔵、三蔵法師(600―64、一説に602―64)は唐代の僧で、もちろん実在の人物である。
玄奘三蔵は629年に長安を出発し、天山南路からインド・天竺にはいって、ナーランダ寺の戒賢らにまなび、645年帰国。『大唐西域記』はその旅行記である。
帰国後に『大般若経』『倶舎グシャ論』『成唯識論』などの多数のサンスクリット仏典を漢訳した。また勅命によって652年慈恩寺を長安に建立し、経典保存蔵として「大雁塔」を設け、それらは西安に現存している。その歴史の現場に、やつがれつい先日たっていた、というより、高所きらいのため避けていた「大雁塔」にはじめて昇っていた。

大雁塔には初唐の政治家にして、楷書・隷書の書芸家としても著名な褚遂良(596―658)が、唐の太宗・李世明の命によってのこした『雁塔聖教序碑』がある。書はけっしてうまいとはいえないが、格調のあるすばらしい碑文である。つまりやつがれの好きな書のひとつが褚遂良の『雁塔聖教序碑』である。 。
褚遂良は博学でしられ、太宗につかえて諫議大夫兼起居郞にすすみ、高宗のとき尚書右僕射となった。しかしながら血の気もおおかったようで(それが書にもあらわれている……)、武氏(則天武后)の皇后冊立に反対して、愛州(いまのベトナム北部)に左遷され、そこで没した。

ところで諸橋轍次記念館の「西遊記の像」である。玄奘三蔵の『大唐西域記』と『西遊記』とはまったく異なる文書である。
『西遊記』は『大唐西域記』にみなもとを発してはいるが、明代の呉承恩作の長編小説であり、中国四大希書のひとつとされる。
『西遊記』においては、唐僧・玄奘三蔵が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄とともに、さまざまな妖魔の障碍を排して天竺(インド)にいたり、大乗経典を得て中国にかえるというのが粗筋になっている。
孫悟空ソンゴクウは快猿で、七十二般変化の術と、キントウン――ひと飛びで10万8千里をいくという――の法を修得して天空を騒がせたが、のち玄奘三蔵に随伴して大小八十一難をしのいで天竺にいたり、三蔵法師は経典5048巻を授けられるのをたすけたとされる。その孫悟空はここ諸橋轍次記念館でも、やはりキントウンにのっていた。
『大漢和辞典』というもっとも厳格さが要求される分野で名をなした諸橋轍次も、いまや黄泉にあそぶひととなったが、どんなおもいで記念館の庭園にもうけられた「西遊記の像」をみているのだろうかと、ほほ笑ましいおもいであった。   

《次回に紹介したい、北方文化博物館》

  

今回の旅(取材)でもっとも衝撃的だったのは、北方文化博物館 である。写真は北方博物館館長、第八代・伊藤文吉氏(1927年うまれ)。北方博物館は中央メディアでの露出がすくないようだが、それはどうもその存在意義の解析が困難をともなうからのようである。
やつがれ、それなりに資料収集につとめたので、次回に北方博物館と、やはり伊藤家が戦後に住居を提供するなど、なにかと面倒をみた会津八一のこと、それに新潟がうんだ奇才・坂口安吾のこともあわせて紹介したい。

朗文堂 ― 好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ

朗文堂-好日録 011

吃 驚 仰 天 !  中 国 西 游 記

《吾輩、13回目の中国行き。されどこれまでの経験則はまったく役立たず》
2011年9月の中旬、ひさしぶりの
中国旅行に出かけた。
やつがれが最初に中国に行ったのは1975年(昭和50)年のこと。まだ毛沢東は健在だったし、日本は
まだ貧しく、中国もまたひどく貧しかった。

そして最後の訪中は、イーストの丸山雄三(ステルス性胃ガンで急逝・故人)元社長をはじめとするコンピュータ・ソフトウェア製造企業の社長連に誘われ、ゾロゾロと6人の団体で、中国東北部(旧満州)ハルビンの黒竜江大学との産学共同による合弁会社「黒竜江イースト」にいった。

いかに社会体制がことなるとはいえ、なぜ国立大学の中に、営利目的のコンピュータ・ソフトウェア製造企業イーストとの合弁会社ができるのか、また黒竜江大学の副学長が合弁会社の副社長でもあるのかわからないまま、デジタル・タイプの製作指導と講演にあたった。産学共同とはいえ、このあたりの事情はいまもってよくわからない。
このハルビンにいったのが2000年(平成12)だった。その後やつがれがしばらく体調を崩したためもあって、10年ぶり、ひさしぶりの中国であった。

当時の中国には、独国ベルリンの東西を隔てる「ベルリンの壁」になぞらえ、「竹のカーテン」なることばがあった。つまり中国の為政者がみせたくないものは、外国人にはみせないということ。
したがって、外国人が所持する通貨は民衆(人民)がもちいるクシャクシャの人民元ではなく、嫌も応もなく「兌換券・兌換元」という名の、外国人専用の通貨をもたされ、それが通用する場所以外での行動が規制された。

また監視役 ?  を兼ねた、ガイドの同行がつねにもとめられた。それも旅の最初から最後まで同行する「スルー・ガイド」と、それぞれの現地でつく「現地ガイド」「車輌とドライバー」を引きつれての〈お大名旅行〉であったが、旅行者にとってはなにをするにも不自由があり、まして研究という名に値する行為には困難があった時代のことである。

急に中国行きを決めたのは複数の機関から招かれたのがきっかけ。そこで、どうせ久しぶりに中国にいくなら、おもいきった研究・取材旅行を兼行しようと決めた。ノー学部に主要な取材対象とその所在地だけを伝えて、スケジュール立案を任せた。

かつての〈監視役兼ガイド付きのお大名旅行〉とはことなり、ノー学部は勝手に、中国のホテルや、友人・知人、個人ガイドに@メールを送りつけ、やつがれが不安になるほどの安いホテルを@メールで予約していた。

ところで、ノー学部は中国はまったく初体験。そこで先輩風を吹かせて、
「しっかりガイドブックを見ていかないと、歴史のある中国のことは、なにも理解できないからな……」
といっておいた。
すると、どこにしまい込んでいたのか、ノー学部。やおら20年ほど前の、高校時代の教科書『詳説 世界史』(山川出版 1989)を引っぱり出して一心に読んでいた。海外旅行にいくのに、やたらにググるのはともかく、高校時代の世界史の教科書を読みだすことには呆れるしかなかった。
「外国の歴史の概略をつかむのには、この教科書が一番。専門事項は、帰国後に専門書でじっくりと読む」
そうである。なんでもいい、旅ではホテルは安心・安全なところにしてもらい、あとは好きにしてくれの気分。

ところで、やつがれが盆暮れの休暇を利用したりして、しばしば中国にいったのは15年ほど前までのこと。いまだ改革・解放が進展しない時代のことであった。もちろんその後の中国が「北京オリンピック」「上海万博」などのおおきなイベントをなしとげ、各地に新幹線網 ── 大事故のあとだったが、西安 ― 洛陽、洛陽 ― 鄭州テイシュウ, Zheng Zhou へと 2 度中国版新幹線に乗車した。

日本と異なり、元来広軌鉄道だった中国では、車輌こそ外国から導入した技術による「新幹線」だが、在来線軌道の一部を利用して「新幹線」とし、200-300キロで突っ走る。それなりにスリルのあるものだった ── が張りめぐらされる急速な変化を遂げつつあるという情報はもっていた。

改めて驚いたが、いまや大都市の周辺は、ドイツの「アウト・バーン」なみの、片側4車線の高速道路があった。かつて、くわえ煙草でイライラと警笛を鳴らし続けていたドライバーは、シート・ベルトを着装して、交通法規を遵守し !    ゆったりと走っていた。もちろん車内は禁煙強制が多い。

また都市には地下鉄がとおって、路上を埋めつくしていた自転車とモーター・バイクの洪水は消えていた。あたりかまわず、痰をペェッ、鼻水をチ~ンとやる風習も無くなり、男性も洗髪後にリンスを使っているのか、ボサボサ頭は消えていた。
〈いったい、どうしちゃんたんだ……、中国!〉

こうして、短いあいだに7城市(都市)、14県を駈けまわったが、ついに最後までやつがれ、浦島太郎が中国に流れついたような気分は消えず、
〈あの、ふるき良き中国は、どこにいってしまったのだ!〉
という、とまどいと、こんなはずじゃなかった……と、おもいまどうばかりの毎日であった。
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中国では、かつてやつがれの教え子だった、劉さん、孫さんが、それぞれ修士号、博士号を取得して帰国し、社会的リーダーになっていた。かれらをはじめ、各城市で、倪ゲイさん、王ワンさん、姜キョウさんらの多大な協力をいただいた。
また北京では「中国に移住直後の金田さん」のサポートをいただき、北京城西地区のとびきりおいしい餃子館 ── 主餐が数種の餃子だが、それまでの10皿ほどの北京料理ですっかり満腹 ── 
での晩餐にまでご招待いただいた。ただただ謝謝!  である。

そもそもやつがれ、中国とその民艸が好きである。富貴なるもの、傲れるもの、困窮にあえぐもの、飢えに苦しむものも、ひとしく、たくましく生きるのが、昔も今もかわらぬ中国の民艸である。
ひろい大地を悠然と闊歩し、隙あらば足をすくわんとするぬけめないひとと、底抜けにあかるく、こころやさしいひとが混在する、あやかしの国、ふしぎの国 ── 中国。

この国にはかつて、いくつもの民族とその姓氏による王朝(姓氏革命)が樹立され、黄色い皇帝の御旗が都城に翩翻ヘンポンとひるがえった。そしていま、五族協和をあらわす、いつつの星が描かれた紅クレナイの旗「五星紅旗」が北京にひるがえる国、中国。

《なつめ 棗 と トゲ 棘 との奇妙な相関関係》
ひとの墳墓によじ登ったのだから、バチがあたったのかもしれない……。
陝西省西安から、隋王朝(581-619)最末期、中央政府高官の墳墓を皇甫川 コウホ-セン に訪ねた。この日は孫さんは大学出講日。
きょうは旅行会社の社長・倪ゲイさんが、みずからハンドルを握るそうである。最初の打ち合わせでは、いかにも中国の大人タイジンらしく「隣の町ですから……」という調子でも、いざ出発時間を決める段になると「200キロほどありますから、日帰りだと朝9時出発」ということになる。
きょうも朝食は軽くして、遠出であっても倪さんのすすめるおいしい地元料理を昼食にする。

墳墓のある村の名前だけはわかっていた(この時期はまだ、カーナビもグーグルマップも存在しない)が、なにせ1500年ほど前のひと、随朝初期の高級官僚「皇甫 誕」の墓である。あらかじめ調査を依頼していた倪ゲイさんは自信ありげだったが、やつがれ、本当にそのひとの墳墓が「地上に」「実存している」のか半信半疑で、車中のひととなった。

倪さんはその皇甫川コウホ-センの村に入ってから、何度も村人に墳墓のありかを尋ねていた。もちろん案内板などはまったく無い。
村人の指さす方向にしたがって、車はどんどん辺鄙な農村に入っていった。もはや人家も少なくなり、ただただとてつもなく広大な畠がひろがる。ようやく到達した目的の墳墓は、収穫を終えた広大なトウモロコシ畠のなかにポツンとあった。

なにせ随朝政府の高官とはいえ、1500年ほど前のひとの墳墓である。わが国なら推古天皇の治世下(593―628)で、聖徳太子が摂政にあたったとされる ── 現代では聖徳太子の存在そのものが歴史学者から疑問視されている ── ほとんど伝説の時代であり、地中に埋もれて「古墳」と表記されるようなシロモノである。

ところが「字」の国・中国にあっては、この皇甫誕と唐王朝で活躍した子息・無逸のこと【中国版bai-do】が、国家の正史『唐書』に記載されているため、こうして墳墓を訪ねることも可能である。
これを見てやつがれ、どうやら興奮のきわみに到達したらしい。それからの数十分ほどのことはよく覚えていない。
やおらふらふらと、雨上がりでぬかるんだ畠に踏みこみ、墳墓に登ろうとした。倪ゲイさんは「危ない、危ない」と叫んでいたらしいが、それもよく覚えていない。

 

墳丘と、その頭頂部に立つやつがれの大きさを比較して、この墳丘(円墳)のおおきさを想像してほしい。遠目にはちいさくみえたが、この墳墓はとてもおおきかった。
中国でのこの種の構築物は、古来「版築法 ハンチクーホウ」という築造法によってつくられている。すなわち、板で枠をつくり、その中に土を盛り、一層ずつ杵キネでかたくつきかためるものである。
したがって下部の 5 メートルほどは垂直に切り立った、煉瓦のようにかためられた土で、その上に円墳がのっている。

そこで土盛りの崩れたところからよじ登りはじめたが、遠目にはただの灌木にみえたものが、一面の 棗 ナツメ(ノー学部によると、高木となるのが 棗。ここのは イバラ ないしは サネブトナツメ で灌木をなす)の木であり、それがまたナント、棘 トゲだらけのブッシュであった。

ところで……、《 棗 》の字をよくみると、《 朿  字音 シ   意読 とげ 》が、ご大層なことに、二段重ねになって「トゲ・トゲ」をあらわしている。すなわち盗掘防止のためもあるのだろうか、一面トゲだらけの灌木に墳丘は蔽われていた。
「字」の国・中国は、斯様にして無知蒙昧なやつがれらを「字」で虐めるからイヤになる。

傾斜は写真でみるよりよほどきつく、足が滑るたびにおもわず 棗 ≒ 棘 = トゲトゲ をつかんでしまう。「いてて、イテテ」と、もはや半泣きでよじ登る。
ようやく(もはや意地だったが)写真にみるように頭頂部に登りついたとき、ズボンの裾はあわれなまでにズタズタになり、上着のあちこちはほつれ、手も脚も、そしてどうやら滑ったときに顔(目じりのあたりで、すこしでもずれていたら眼球が危なかった)までが 棗 のトゲで傷だらけで、おまけにあちこちに 棗 のちいさな トゲ が突き刺さっていた。

この墳墓の主の子息・皇甫 無逸 コウホ-ムイツ は、のちに唐王朝の貴官・御史大夫(ギョシ-タイフ 副首相格、御史台の長官)となった。そこで亡父・皇甫 誕の顕彰のための墳墓を構築し、唐王朝の初期、もっとも著名な書芸家 ── 欧陽 詢 オウヨウ-ジュン という ── に墓碑の揮毫を依頼した。
おそらく唐王朝時代には、この墳丘の前には、その巨大な墓碑 『皇甫 誕碑』    がそびえたっていただけでなく、ひとびろとした稜邑がもうけられ、その一隅には坊楼がそびえたち、堂宇も建ち並び、香華が絶えなかったものとおもわれる。

しかしながら、ときが移り、四季をかさね、王朝とみやこももなんども変遷するうちに、いつしかこの墳墓は顧みられなくなったようである。なにしろ1500年からのときがここで経過したのである。そして墳墓は畠のなかに孤立し、その墓標は墳墓と切りはなされて、西安碑林のもっとも枢要な収蔵物『皇甫 誕碑』として、世上からたかい評価を集めている。
【 詳細画像 : 中国版図集 】

西安碑林をはじめ、各地の碑林・碑坊に立ちならぶ著名な碑には、こうした秘められたものがたりが多い。その墳墓を訪ねた記録のひとつを紹介した。
この間ノー学部はのんきにそこらの野面を散策し、ちいさな石ころをふたつ拾っていた。それだけがこの墳墓にいった記念の品になった。

《西安碑林と採拓のいま》
ところで、その西安碑林である。碑林とか碑坊とよばれる施設は中国のあちこちに存在するが、そもそもこの施設はかつて「
陝西省博物院」といった。やつがれ今回が 3-4 回目の訪問になる ── というより、以前は西安まで出かけても、兵馬俑・秦始皇帝陵・華清池・慈恩寺大雁塔などの著名な観光地と、ここ西安碑林、お土産物屋さんぐらいしか案内されなかった。

その西安碑林の中核の収蔵物が、晩唐の開成2年(827)、長安の最高学府たる国子監に設けられた官吏登用試験「科挙の教科書」ともいうべき「開成石経 カイセイーセッケイ」で、『石の書物――開成石経』(グループ昴、朗文堂、2003)に紹介した。この開成石経はいまなお碑林の入口、第一室をド~ンと占めている。

西安碑林の第2室  ― 第4室を占める著名な石碑は、おおむね拓本がとられており、それが拓本や影印複写による書籍の形で販売もされている。今回は銘碑とされる碑が立ちならぶ第1室から第3室までは撮影だけに集中し、世上の評価はないものの、おもに書から活字への転換点となった無名の碑を第4室-第5室で探した。
これらの無名の碑は、研究熱心な書芸家でも見落としていることが多いことに気づいていた。やつがれの眼をとらえたのは金国の石経(セッケイ・石の書物)であった。

黄河流域・開封カイホウ, Kaifeng にあった宋国(北宋 960-1126)は、1126年ツングース系の民族、女真族 完顔 ワンヤン 部の首長・阿骨打 アグダ が樹立した「金 Jin 国」によって滅びた。
1126年「靖康 セイコウ の難」とよばれる混乱のうちに、帝独自の書風による 痩金体『趙佶千字文  チョウキツ-センジモン』をのこした 徽宗 キソウ 上皇と、その実子・欽宗 キンソウ 帝は捕らえられ、漠北の地に連行されてそこで没した。

宋国の一部は臨安(杭州)に逃れて、南宋(1127ー1279)を樹立した。南宋では出版事業が盛んで、刊本字様・活字書体としての「宋朝体」をのこしたことはひろく知られている。その間、はたして金国では「女真文字」の製作以外にはみるべきものがなかったのか?

金国と南宋は大散関から 淮河ワイ-ガ, Huai He を境界として、南北に並立して 南宋(南朝)・金 Jin 国(北朝)を名乗った。しかしながら、南宋を逐って征服王朝・金国を 開封(1153年 燕京・現北京に遷都)に樹立したとはいえ、女真族はあくまでも少数民族であり、当然金国の民は漢民族が中心の国家であった。そのため金国にあっての文化も、1176年に中国伝統の官学「府學・女真學」がおかれ、女真族の文化の振興もはかったが、それでも漢民族の伝統が途絶えることはなかった。

たとえば書芸家の趙孟頫(チョウーモウフ あざな・子昂チョウ-スゴウ 1254ー1322)は、その『六体千字文』をはじめ、漢民族伝統書法の継承者として評価がたかい。これから金国時代の 石の書物・石経 セッケイ を研究しその評価を定めたいが、下記の写真の採拓風景とは異なり、石経はともかく文字がちいさく、彫りが浅いので、当初はいかに名人とされる採拓士でも、とても採拓は無理だとされていた。

しかしやつがれらの熱意に押され、また採拓士としての王さんの職人魂が燃えあがって、
「ぜひ、この石経の採拓に挑戦したい」
とするようになった。つまりいままでの手探りとはちがって、これからは西安でも、孫さんはもとより、倪ゲイさんと王ワンさんの力強い支援が期待できるようになった。乞う!ご期待の次第である。

《 文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 研究 の 旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり商(殷)・周時代の銅器などに、金文とともにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などと同様に、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

まして中国では 甲骨文 ―― くどいようだが甲骨文字ではない ―― を大量にのこしたことでしられる《 殷 》は、本来は《 商 》と自称した古代国家であった。『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏 カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な青銅器を製造し、錆びに弱い銅器が3000年余も腐食しないほどの高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)ももっていた。
また甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《 殷 》とはこの国を滅ぼした《 周 》が、《 商 》にかえて意図的に名づけた「悪相の字」である。また甲骨にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

 

殳――シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形である。「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。
殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

こうしてやつがれ、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。
河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」では、前期商(殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれこの鄭州城市は2度目通算10日間ほどの滞在だが、ともかくこのマチはわかりにくいとしかいえない。それにここでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされる。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の土塁がみえるが、それは全体の高さの1/3-1/4ほどでしかなく、峨峨たる巨大な城壁のほとんどは地中に埋もれている。
そしてこの街のあちこちから、饕餮文 トウテツ-モン を中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からはほとんど発見されない。

河南省北部の 安陽 Anyang は、前述の鄭州から近く、その北西郊外に紀元前14-11世紀に 商(後商・後殷)が都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《 文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館 》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。

《取材はいちおう完了した。あとはどうまとめるか!》
かつての新中国では「四旧追放」として、ふるき良きものをふり返らない風があった。そのために初等教育から筆をもつ書芸の授業が消え、墨や硯の製造業者が存亡の危機におちいった時期もあった。

余裕ができたのだろうか……。いまの中国は、国をあげて「民族の伝統、ふるき良きもの」を見なおしていた。したがって全土からバスを連ねてやってくる団体客によって、名所・旧跡・観光地・博物館などには人が溢れかえっていた。
まして王羲之の書で知られる浙江省紹興の「蘭亭」などは、大型バスで中国か土からやってくる観光客でまったく人の切れ間が無く、撮影に苦慮するほどの混雑ぶりだった。

著名な『蘭亭の序碑』の前では、どこかの田舎から出てきたとおもえた団体バスのオッチャンやオバチャンが、子供ともども一斉に声を張りあげて、朗朗と『蘭亭の序』を朗読する姿には感動した。そして、それを即座に読みくだせないやつがれは「かなわないなぁ……」とおもわせられることたびたびであった。

さらに、ノー学部のスケジュールには、なにかと病み上がりを自称するやつがれへの配慮などは皆無で、まったく余裕がなく、過酷なものだった(怒)。ともかくやつがれ、ビジュアル・ショック(視覚的衝撃)の連続と、足腰の痛みで、心身ともにヘトヘトになった。

とりわけ陝西省・河南省などの内陸部は、まだ開発が遅れ気味で、旅行者には必ずしも楽な旅とはいえず、北京にでてホッとひと息ついた。そこで真っ先に駈け込んだのがマックとケンタッキーだったのが悲しかったが……。

しかしそこでも報告の少ない 印刷大学、印刷博物館 を訪問し、改装なった 紫禁城(故宮博物院)武英殿も、紫禁城来訪4度目にいたってようやく取材することができた。また非公開だった紫禁城北宮が「珍宝館」として公開され、秦代石鼓の主要なコレクションや、未紹介のタイポグラフィ資料を多数発見できた。
これから何カ所かの追加取材もありそうだが、なんとか中国文字の旅をまとめたいとおもうこのごろである。

タイポグラフィ あのねのね*015 『ハンドプレス・手引き印刷機』

タイポグラフィ あのねのね*015

 朗文堂書籍 新刊書

『ハンドプレス・手引き印刷機』 板倉雅宣著

板倉雅宣氏(1932年東京うまれ)の労作『ハンドプレス・手引き印刷機』が発売を迎えた。本書はわが国の明治初期における活字版印刷機の、導入・開発・普及・変遷を丹念に追い、それを通じて近代日本の成立の歴史を、ときに俯瞰し、ときに微細に記録したものである。

わが国の近代印刷の黎明は、板目木版への刻字から、金属活字文字組版への変革をもたらし、木版版木バレン摺りから鉄製活字版印刷機の使用への転換をともなった。蒸気機関や電動モーターの実用化に先だつこのころ、総鉄製とはいえ「手引き印刷機」とは、金属活字版を印刷版とし、人力をもっぱらとする、素朴な印刷機であった。
本書は幕末期に点描のように導入された輸入活版印刷機から説きおこし、1873年(明治6)長崎から進出した平野富二らによる「手引き印刷機/ハンドプレス  Hand Press」の本格開発と、その急速な全国への普及、追随した各社の動向を丹念に追っている。
ともすると従来の近代活字版印刷の研究は、活字とその書体形象に集中してきたきらいがあった。ここに活字版印刷術の車の両輪ともいえる、印刷機と活字に関する近代タイポグラフィの開発史研究が明瞭に姿をあらわした。

詳細 : 朗文堂ニュース9月2日

板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』の発売にともなって、エールの交換をおもいたった。すなわち、小社既刊書『VIVA !!  カッパン♥』において、〈アルビオン型手引き印刷機〉をカラー図版をともなって紹介していたので、その一部を紹介し、読者の理解の一助になればと愚考した。
機構が素朴かつ堅牢な「手引き式活字版印刷機」は、わが国でも、あるいはひろく欧米各国でも、いまなお愛着をもって活版印刷の実用機としてもちいられている。また、各地の博物館などでも、重要なコレクション・アイテムとして所蔵しているところが多い。
すなわち、慌ただしい現代にあって、ひとがつくり、ひとがもちいた、もっともプリミティヴな印刷機が熱く注目されている。前に進むために、ここはいったん立ち止まり、もっとも素朴かつ堅牢であり、印刷術、大量複製術の原点ともいえる「手引き式活字版印刷機」を再検証・再評価するときなのかもしれない。

エール交換 !!  朗文堂書籍

新刊書 ―― 『ハンドプレス・手引き印刷機』  板倉 雅宣著
既刊書 ―― 『VIVA !!  カッパン♥』 アダナ・プレス倶楽部 大石 薫著

    

VIVA !!  カッパン♥

アダナ・プレス倶楽部  大  石    薫 著
2010年5月21日発行   朗  文  堂
p.62  Column  コトとモノの回廊 #
05 より

 

アルビオン型手引き印刷機

「手引き印刷機 Hand Press」は手動で操作する印刷機の総称です。一般にはグーテンベルクがもちいたとされる印刷機のかたちを継承し、水平に置いた印刷版の版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされます。そのため、厳密には手動式であっても「Adana-21J」や「手キン」など、印刷版の版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen Press」とは区別されます。

グーテンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案されたネジ棒式圧搾機型印刷機(Screw Press)であったとされますが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想定するしかできません。
現存する最古の手引き印刷機としては、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムの木製手引き印刷機が知られています。また、アメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706―90)も木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られています。

グーテンベルクの活版印刷機の時代から、その後350年ほどは、細かな改良は加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化がありませんでした。
その後の著名な手引き印刷機としては、「コロンビア印刷機」「アルビオン印刷機」「スミス印刷機」「ラスベン印刷機」「ワシントン印刷機」「ハーガー印刷機」(以上年代順)などがあげられます。

[板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』 p.22-23より抜粋]
アルビオン・プレス(Albion Press)――英国のアルビオン・プレスは、コロンビアン型のレバー式加圧を改良し、加圧機構を肘張継ぎ手にしたもので、英国のコープ(Richard Whitta Cope)が1820年(文政3)に発明したというが、確かな資料がない。アルビオンの最も古い、確かな資料に1822年にパリの工場で輸入申請許可を得るために作成された図面がある。この最も古い機種の No.132 は[日本の]印刷博物館に所蔵されている。
1832年に新聞広告を掲載しているが、
「構造がシンプルで、軽量小型で、階上の狭い部屋でも設置できる」
と宣伝している。この特徴があるのでアルビオン・プレスは普及したものと思われる。
コープの工場のホプキンソン(John Hopkinson)は1842年に改良を加えている。ウィリアム・モリスはこの機種で『チョーサー著作集』を印刷したという。(中略)
アルビオン・プレスを製作していたホプキンソンの死後、その機種の模作を規制しなかったために、キャズロン社などの多くの活字鋳造所のほか、海外でもアルビオンを製造販売するようになった。

[編者曰く……活字版印刷術のように、きわめて古い歴史を有する機器にあっては、かつては特許や実用新案などの法整備も十分ではなかった。また機器の製造に不可欠な鋳型が、高熱鋳造による熱変形を生じたり、損傷すると、原製造所であっても継続生産が困難となるばあいが現在でもままみられる。したがって需要に応えるかたちで、このような複製機の製造がしばしばみられた。そのため活版印刷機器の関連業界では、原製造所の製品を正式呼称で呼び、複製機の製品を、ほとんどが原製造所への畏敬を込めて、製品名に『型』をつけて呼称することが多い]

写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フィギンズ社による1875年製のアルビオン型手引き印刷機です。印刷機としての実用面だけでなく、アカンサスなどの植物模様や猫脚などに装飾の工夫がみられます。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランド(英国)をあらわす古名(雅称)です。ラテン語「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレート・ブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来します。

アルビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機です。アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるための錘オモリが、アメリカの象徴である鷲の姿をしています。
「アルビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重い錘オモリのかわりにバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?―1828)によって考案されました。

19世紀末には、すでに動力による大型印刷機が商業印刷の主流でしたが、アーツ・アンド・クラフト運動を牽引した、ウィリアム・モリスは、手工芸の再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン印刷機をもちいました。また、石彫家にしてタイポグラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていました。

わが国でも「アルビオン型印刷機」との付きあいはふるく、明治初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所によって、アルビオン型(複製)の手引き印刷機が大量につくられました。また秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も大型のアルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっています。

花こよみ 015

花こよみ 015  

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
〔9月7日改訂〕

くさぐさの
実こそこぼれる 岡のべの
秋の日ざしは 静かになりて

          斎藤 茂吉(1882-1953)

アダナ・プレス倶楽部会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2001』に、東日本大震災被災地の復興・再建の夢と、活字版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。
吾が「鼠のひたい」を誇る空中庭園にも、鉢植えひと株、地植えふた株を植えた。昨年のトロロアオイを育てた経験から、連作は不可、株間を十分離し、丹念な水遣りを心がけ、液肥を10日に一度ほど与えてきた。

きょう9月2日[金]、颱風の襲来が予測される蒸し暑い朝であった。どんよりとおもい空であったが、鉢植えのひと株が花をつけた。すなわちこれが速報である。花はもめん豆腐ほど、うっすらとした黄色味を帯び、手のひらをいっぱいにひろげたほどの大輪の花である。これからしばらく、毎朝の着花が楽しみとなりそうだ。各地のアダナ・プレス倶楽部会員からも、
「もうすぐウチのトロロアオイが咲きそうです……」
といった、嬉しい@メールも着信している。

情けないことに吾が空中庭園では、花はすべて、陽光のある外に向かって着花するので、写真撮影はどうしても逆光になり、うっとうしいビルも避けがたく写りこんでしまう。おまけに撮影技術が拙劣とあって、トロロアオイの可憐さを十分お伝えできないのがなんとも口惜しい。
そこで、アダナ・プレス倶楽部会員のかたからお送りいただくであろう《花だより》も、本欄で随時アップしていきたいとおもう。

種子は三株が順調に開花すれば、ことしは100粒は採れそうである。おそらく会員のかたからも種子は譲っていただけそうだ。「ふるさと工房」に甘えるのではなく、来年はもっと多くのかたに、種子から育てるトロロアオイの成長をを楽しんでいただき、手漉き紙づくりにいそしんでみたい。
それにしても、9月に入ったというのに、この蒸し暑さはなんということだろう。おまけに、つい先ほどは激しい驟雨までふった。颱風が四国に上陸しそうな勢いで心配である。
本日、9月2日 七赤 赤口 庚申カノエ-サル。

朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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ここのところ野暮用に追われまくりの毎日
されど[カラ]元気で、オイチニ、オイチニ !

¶ あの日、そう、あの03月11日以来、ここ新宿邨周辺では、大通りを闊歩していた紅毛碧眼人コウモウ-ヘキガン-ジンがめっきり減った。また、中国のひとの「ニイハオ! 謝謝」も、韓国のひとの「アンニョイハシュムニカ、カムサハンムニダ」のおおきな声もめったに聞かれなくなった。
新宿邑では、たれもが心もちうつむき加減で歩き、夜の街は、ここが繁華街のただなかであることを忘れさせるほど、すっかり暗い街になった。お江戸の空も空気が澄んで、夜空に星がまたたくのがみえるようになった。計画停電や節電が叫ばれ、余震におびえる、地震冷えの寒い毎日であった。

¶ 03―04月は、震災前から決まっていた年度末・年度はじめの作業に追われたが、ふり返ってみると、どことなく気が抜け、なんとはなしに腰が抜け、まとまりを欠いた日日だった。
それが5月の連休明けから、それまでの2ヶ月分の反動のように、俄然慌ただしくなった。それも従来の企画や行事を惰性のように反復するのではなく、ゼロ基盤から立ち上げる作業が多く、気がつけば、06―07月の両月は、ほぼ休日無しでの仕事がつづいた。

¶ アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。それでも会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2001』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性、Oさんから、「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」との写真添付メールが送られてきた。Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉に、はるばる仙台から駆けつけてくださる熱心な活版ファンである。
やつがれも5月初旬に、「空中庭園」の植木鉢に3株を植えたが、現在は腰ほどの高さにまで成長し、ちいさく花芽もつけている。この草は、アオイ書房の志茂太郎が愛した花として知られ、晩夏から初秋のころ、たった1日だけ美しい花をつける(はずだ)。

¶ おそらく秋が深まったころ、アダナ・プレス倶楽部の有志諸嬢と諸君は、このトロロアオイの根っこを持参し、恒例の〈手漉き紙体験会〉に賑やかにくりだすはずだ。ところがなんと――つい最近詳細を知ったが――、なにかと催事が好きなアダナ・プレス倶楽部は、10月の3連休を利用して、〈活版カレッジ修了生新潟支部――実存するのだ!〉のY嬢と、Y博士の肝煎りで、新潟漫遊 モトイ 新潟研修旅行を計画しているらしい……。そのあとで、もっと水が冷たくなる11月下旬ころに〈手漉き紙体験会〉となるスケジュールだそうである……。

  やつがれにとって、都下あきる野市行きとは、手漉き紙体験も楽しみだが、それよりも、近在の「喫茶 むべ」――アケビの別称――の珈琲が楽しみだ。水のせいかとおもうが、ともかくここの珈琲は絶品である。そこでは造形者だった老店主との会話が弾む。また「喫茶むべ」の近くには、湯の香もゆたかな天然温泉もあるという、おまけたっぷりの東京都下への旅となる。そして今年は、会員みずからが育てたトロロアオイの根っこが、ネリとして、コウゾの繊維とともに手漉き紙用の「舟」にいれられそうだ。 

¶ 07月某日、関西方面出張。タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での出張。たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪3ヶ所、京都2ヶ所、滋賀1ヶ所を駈けまわるという強行スケジュール。なにはともあれ交通の便だと、京都駅前のタワーホテル(オノボリサン丸出しもいいところ。のちほど京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられた)をベース・キャンプにして仕事に集中。

連日、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました! なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。
「京都から大津にいって、彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね …… 、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう」
「水戸天狗党の藤田小四郎を調べていたころ、井伊大老の居城ということでいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
やつがれ、なにを隠そう、じつはちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みの街が好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本トクホン行者 六字名号碑 南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものなのだ!

¶ 雨中の江州路をゆく……。こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。
やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。行列に並びながら、やつがれ「ほこにゃんとは、そも、なんぞい」とまだおもっていた。
ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ、(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ヒコニャン」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

      

エッ、この人力車に乗ったかですか。乗るわけないでしょうが、いいおとなが。――ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。ハイハイ正直に告白、「ひこにゃん」も見ましたし、この人力車にも乗りましたですよハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。
ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳ながら)。実際は、なによりも旨い近江牛をはやく食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ヒコニャンに  嗤いころげて  城けわし
青葉越し  天守の甍に  しぶき撥ね
湖ウミけぶり  白鷺舞いて  雨しげく

木邑重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

        

   

¶ 8月某日、爆睡ののち、おもいたっての外出。

¶ それにしても、ことしの夏は暑い毎日であり、猛暑 → 酷暑 → 劇暑 → 烈暑 → 殺暑 …… 南無~~ といった具合に暑かった。そのせいかどうか知らぬが、新宿邑の街路樹として、近年の夏を彩る「サルスベリ 百日紅」の開花がおそく、蝉どももなかなか鳴かなかった。それが一度涼しい日が数日つづいたあと、百日紅が一斉に深紅の花をつけ、蝉がにぎやかに鳴きはじめた。

一部では「暑苦しい花」として不評らしいが、やつがれ、この暑い盛りに深紅の花を、それこそ百日ほどにわたってつける「サルスベリ 百日紅」が好きである。それより、雪深い田舎町出身のわりに、暑い夏は嫌いではない。むしろ、寒い冬は、炬燵に潜りこんで厳冬をやりすごした癖がぬけないのか、愚図ぐずと、なにをする気力もなくなり、惰眠をむさぼるふうがある。

 ¶ わが「空中庭園」にも、蝶や蜂がしばしば訪れるようになったのは、08月の中旬、甲子園野球が決勝戦を迎えようかというころだっった。お盆の4日だけの休暇でノー学部が帰郷したので、高校野球の観戦もせず、08月14日[日]だけ、爆睡、また爆睡を決め込んだ。時折目覚めてカフェに行き、珈琲一杯とサンドイッチを食してまた爆睡。
そしたら疲労がいっきに回復して、かねて気にしていた、大先輩の訪問をおもいたって、相手の迷惑もかんがえず、勝手に08月15日[月]に押しかけた。

¶ 九段下で乗り換えて多摩プラーザに「活字界の最長老・細谷敏治翁」を訪ねる。細谷翁は90を過ぎてなお車の運転をして周囲をハラハラさせたが、現在御歳98歳、やつがれとの年齢差33歳。車の運転こそやめたが、耳は難聴を患ったやつがれよりはるかに確かだし、視力も相当なもの。しかもシャカシャカと歩いて元気そのものなのである。くどいようだが98歳!

細谷敏治氏――東京高等工芸学校印刷科卒。戦前の三省堂に入社し、機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。
三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。また実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月1日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
今回は、その細谷翁直々の「特別個人講義」を受講した。資料もきっちり整理が行き届いており、「やはり本物はちがうな」という印象をいだいて渋谷に直行。

 ¶ 車中あらためておもう。
「戦前の工芸教育と、戦後教育下における、工業(工業大学・工学部)と、藝術・美術(藝術大学・美術大学・造形大学)に分離してしまった造形界の現状」を……。すなわちほぼ唯美主義が支配している、現状の「藝術・美術・造形」教育体制のままで、わが国の造形人、なかんずくこれから羽ばたき、造形界に参入しようとする若いひとたちを、これからもまだ市民社会が受け容れるほど寛容なのか、という素朴な疑問である。

¶ 渋谷から山の手線に乗り換えて大崎駅下車。小社刊『本へ』の著者、羽原肅郎氏を訪問。最近少し体調を崩されたと聞いていたのでチョイと心配していたが、写真のようにまったくお元気で安堵・安心。
羽原さんはともかく無類のモダン好き。だからつい最近まで、ヘアーカットは「ウルマー・カット」(ウルム造形大学生のかつての流行ヘアー・スタイル)、そして眼鏡はマックス・ビル風のまん丸い「ビル・メガネ」という凝りようだった。この万年青年のように純粋なひととかたっていると、やつがれも若者のような心もちになるからふしぎだ。
夕陽をあびて、帰途は大崎駅まで送っていただいた。写真のピントがあっていないのは、デジタル音痴のやつがれのせいで、ナイコンのせいではないことはあきらかである。

¶ 立秋を迎え、夏休みも終わりだ。残暑も収まりつつある佳き日のきょう。8月26日[金] 五黄先負癸丑ミズノト-ウシ。

タイポグラフィあのねのね*013 マインツとグーテンベルク

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ

うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、兎ウサギがいる月とが、あわただしくすぎさる
ことから「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。つまり中締めのときである。 後事を俊秀に託すべきときでもある。お
あとはよろしいようで……なのか、おあとはよろしく……、なのかは知らぬ。
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活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

近代活字版印刷術 Typographyの始祖
グーテンベルクの生没地 マインツは、
ライン河畔に沿った街

16世紀、マインツ市の繁華を描いた木版画。手前がライン川で、
マインツ市はその水運を利用した物資の集散地として繁栄した。


ドイツ、マインツ市のグーテンベルク博物館のサイン

1639年の印刷工房を描いた木版画。左手と中央奥に木製の手引き式印刷機があり、
右手奥が校閲者、右手手前が植字作業を描いている。

◎ グーテンベルク(Gutenberg, Johann Gensfleisch  c1399—1468)
あれをバブルと呼ぶのだろうか? 小社の刊行書が欧州でよく売れて、毎年秋にフランクフルトで開催されるブック・メッセに9年連続出展した。
下見に出かけた時を合わせると、10年連続して初秋のドイツに出かけたことになる。1週間のメッセ期間が終わると、狭い展示スペースで立ちっぱなしなことと、馴れない外国語漬けのせいで、ひどく疲労をおぼえた。その疲労回復を口実に、いそいそとマインツ(あるいはふるい大学都市で、良い古書店があったハイデルベルク)に向かった。
マインツは近代活字版印刷発祥の地であり、またその始祖・グーテンベルクの生誕と逝去の街でもあった。

¶ グーテンベルクは1440-55年ころ、ブドウ搾り機から想を得て、ネジ式木製手引き印刷機を製作、金属と親和性のある油性インキを開発、鉛合金活字を鋳造するなどして、近代活字版印刷術 Typography を創始したとされる人物である。ただし、老舗の店舗にもよくあるように、「元祖・家元・創始者」などとする説には異論もあって、オランダなどは、いまもって「グーテンベルク近代活字版印刷創始説」を肯んじてはいない。
それでもマインツには、グーテンベルクの住居・工房跡や、通称『42行聖書』、『カトリコン』などの印刷された書物はよく保存されている。しかし相次いだ内乱や戦乱のためもあって、建物の一部と書物はのこったが、印刷機器や活字そのものはまったく現存していない。印刷と書物という、複製術の威力を痛感させられる街でもある。

¶ グーテンベルクの生誕地、逝去地は、ともにドイツ西部、ライン川左岸に沿った、ラインラント・ファルツ州の州都・マインツであった。マインツはラインの水利を利用した商工業が盛んで、ワインの集散地でもある。1994年の人口は18万4千人と記録され、知名度が高いわりには、こぢんまりと、閑静な街でもある。
自動車もないこの時代はもちろん、創始者のときから数百年にわたって、印刷機はもとより、印刷用紙、活字など、相当の重量のある活字版印刷術は、水運の便のよい地で発達した。

¶ マインツには「グーテンベルク博物館 Gutenberg-Museum Mainz」があり、同館には『タイポグラフィ学会誌 01-04』、大日本印刷から提供された日本語活字組版なども収蔵されている。また本稿の執筆中(これがまた、実にモタモタとやっていた)に、『VIVA!! カッパン♥』(大石 薫 朗文堂  2010年5月11日)、『der Weg nach Basel, the road to Basel, バーゼルへの道』(ヘルムート・シュミット 朗文堂 1997年6月3日)がパーマネント・コレクション(長期保存)されたという嬉しい知らせもあった。また、かつて印刷を地場産業としていた新宿区が、マインツと「姉妹都市」の提携を結んでいたが、現在の事情は不詳である。

¶ 近年、マインツ市は歴史的建造物と景観保存に注力し、グーテンベルク屋敷工房(生家)、フストとシェッファーとの共同印刷工房、最後の屋敷工房、埋葬地などが碑文をもって顕彰されており、それらの地を逍遙ショウヨウするガイドマップも完備したので、意外なほど狭隘なグーテンベルク時代の街を訪ね歩くのも楽しい。もちろん15世紀のひと、グーテンベルクも、徒歩か、せいぜい馬車で動き回っていたはずであり、ほとんどの史跡は徒歩で十分な近接地にある。

◎ 『42行聖書 ラテン語』(Biblia, latina, 42lines ― the Gutenberg Bible.  Mainz : Printer of the 42-line Bible, Johann Gutenberg and Peter-Schoefer c1455)
近代タイポグラフィの始祖とされるグーテンベルクはマインツの中産階級の家にうまれ、もともと鏡をつくったり、貨幣鋳造(個人が貨幣をつくって良いかどうかはさておき……)などにあたる金属細工士であったとされる。1434年ころから居をストラスブールに移し、印刷術の創始に没頭し、1440年には最初の活字版印刷に成功したことが裁判記録から推測されているが、実物は現存しない。1445年ころマインツに戻って、自宅に工房を開設して、印刷術の完成のためにさらに試行錯誤を続けた。

¶ グーテンベルクは生涯に6種類の活字セット(フォンツ)を製作したとされる。最初に製造した素朴な活字は、かつては「36行聖書の活字」と呼ばれていたが、現代ではDKタイプと呼ぶことが多い。このDKタイプは、ドナートゥス『文法書』『トルコ暦』などの小型印刷物(端物印刷)にもちいられている。

¶ 「42行聖書の活字」と呼ばれるものは、マインツの実業家ヨハネス・フスト(?-1466)からグーテンベルクが多額の出資を仰いで、生家の近接地にあらたな工房を開き、またパリ大学を卒業した能書家ペーター・シェーファー(?-1502/03)を校閲係として雇用してから製造されている。このあたらしい活字をもちいて、1454年末から1455年はじめのころに、最初の近代活字版印刷による本格的な書籍となった『42行聖書』(ラテン語ウルガタ訳)を完成させたとみなされている。

¶ こんにち『グーテンベルク聖書』として親しまれているこの聖書も「グーテンベルク博物館」でみることができる。同書は博物館本館中央のゆるやかな回廊をゆっくりと下降し、次第に暗がりに視力がなれてきたころ、特製ケースのなかで、淡い照明のもとでみられる。歯がゆいのは、稀覯書キコウショのために仕方がないとはいえ、ここまで出かけてきても、たったひと見開きを、薄暗い灯りのもとで、ガラスケース越しでしかみることができないことである。「もっと見たい、ページを繰りながらすべてのページを見たい」と、たれしもがおもう(はずである)。

¶ この聖書が通称『42行聖書』とされるのは、各ページのほとんどの行が42行で構成されているためである。同博物館資料によると、初版はほとんどのページが42行で構成されているが、旧約聖書の巻頭部分が40-41-42行に変化しているとしている。ところが第2刷りになると、すべてのページが42行に揃えられている。すなわち、1ページあたり42行、2段組、2巻、あわせて1282ページ。第1巻には旧約聖書の冒頭から詩編まで、第2巻には旧約聖書ののこりの部分と、新約聖書のすべてが収録されている。

¶ 活字はゴシック体(テクストゥール、典礼書体)で、1フォントで、300キャラクター以上の使用が確認されている。アルファベットは26キャラクターで、その大文字、小文字で、都合52キャラクターで済むとおもっていたら大間違いである。活字版印刷術創始者のときから、1フォントに300キャラクター余を製作していたのである。また1ページあたりでみると、およそ3,700本の活字が使用されている。これがして、全ページを見たくなるゆえんでもある。

¶  『42行聖書』はヴェラム製(子牛・子羊・子山羊などの皮を薄く剥ソいで、鞣ナメして筆記用としたもの。本来は子牛の皮をもちいたが、高級羊皮紙と表記される。装本材料にももちいられる)のものが30部、紙製のものが150部、都合およそ180部が印刷されたと推定されている。
また刊行から556年後の現在、『42行聖書』は47部の存在が確認されている。そのうち12部がヴェラム刷りで、のこりの35部が紙刷りとされる。活字版印刷はすべてスミ1色刷りの両面印刷であるが、ヘッドライン、イニシャル、とりわけ2巻の新約聖書篇には、ルブリケーター(装飾士)による、手彩色の赤と青の装飾が美しい。わが国でも、慶應義塾大学図書館が数億円を投じて購入した2巻揃いを、また早稲田大学図書館が、原葉1枚を所蔵している。

◎  『カトリコン』(Catholicon  Balbus, Johannes. Mainz : Printer of the ‘Catholicon’ 1460)
なにもできなかったなぁ、と苦いおもいがするのが『カトリコン』である。かつて町田市立国際版画美術館が「西洋の初期印刷本と版画展」(図録『書物の森』 1996)を開いて、早大図書館資料『42行聖書 原葉1枚』が展示された。またこれもグーテンベルクの刊行とされる、明星大学図書館蔵、バルブスのラテン語辞典『カトリコン』とともに黒山のひとだかりであった。

¶ この書物にもちいられた小型の活字は「カトリコン・タイプ」とされ、グーテンベルクが最後に製造した活字とされて争いはないようだ。しかし『カトリコン』には異本が多く、また印刷者名の記名もないことから、印刷者の名前はグーテンベルクではなく、「カトリコン・プリンター Printer of the ‘Catholicon’」と称されることが多い。

¶ 「カトリコン・タイプ」に注目したのは、その活字鋳型の製造者をおもったからである。グーテンベルクの死後まもなく、マインツに大規模な内乱が発生し、弟子や職人は欧州諸国にばらばらになって離散した。突然襲った内乱に際し、かれらが携行したであろう活字鋳型(ハンド・モールド)が、「カトリコン・タイプ」と極めて近似していることに気づいたためである。
すなわち初期印刷者たちは、「36行聖書の活字 DKタイプ」、「42行聖書の活字」と同寸の鋳型ではなく、「カトリコン・タイプ」とほぼ同寸の、ちいさなサイズの活字鋳型を携行してマインツを脱出し、欧州各地でそれをもちいて、独自の活字版印刷工房を開設したのではないかとみている。
これは活字父型や活字母型、つまり活字書体の形象(デザイン)をいっているのではない。鋳型が近似しているということは、活字のサイズが近似し、行間にインテルを挿入することがすくなっかった当時、行の送りが近似することになる。

¶ つまり、マインツから四散した初期印刷者たち、すなわちニコラ・ジェンソンらは、マインツの、名もない金属職人が製造した鋳型をたいせつにかかえて、欧州各地に四散したのではないかとおもっていた。イタリアのスビアコで、ベネチュアで、そして全欧州で展開した初期活字鋳造と、活字版印刷は、マインツの鋳型ではなかったか? そんなおもいでインキュナブラ(15世紀後半の書物・揺籃期本)をみていた。
しかしながら『カトリコン』の原本は所有していないし、インキュナブラも所有していないわが身にとっては、想像・想定以上に研究がおよぶことはなかった。あとはお任せ……の次第である。

◎ 資料紹介(やつがれの参考書だった。ご希望のかたには喜んでお見せしたい)
『欧文書体百花事典』(組版工学研究会朗文堂 2003年7月7日)
『グーテンベルク』(戸叶勝也 清水書院 1997年8月27日)
『Gutenberg  Man of the Millennium』(City of Mainz, 2000)
『ヨーロッパの出版文化史』(戸叶勝也 朗文堂 2004年10月13日)
『書物の森へ――西洋の初期印刷本と木版画』
       (企画構成・発行/町田市立国際版画美術館 1996年10月5日)
『The Gutenberg Bible』(Facsimle Bibla Sacra Mazarinea. France 1985)

◎ ファクシミリ版 『The Gutenberg Bible』

あらためて上記に参考資料を整理してみた。ほかにも何冊かドイツ語の資料はあるが、ほとんど読んでないし、気休めにしかすぎなかった。すなわちたいした書物はもっていない。すこしだけ愛用した資料は1985年、フランスで発行されたファクシミリ版 『42行聖書』 である。
本書は、フォリオ判(38×28.5cm)、2巻、正確な複写版で、重さは7キロほどもある。装本は素っ気ないほど地味だが、すべてが子牛のなめし革による堅牢な製本で、ドイツの製本所が担当した。幸運な偶然から吾輩の手許に転がりこんできたが、ファクシミリ版とはいえ、当時50-70万円以上で販売されていた書物である。
それでも、これなら気軽に、全ページを繰ってみることができる。意外とあたらしい発見があるものである。なんだ、これしかないのか、とあきれないでほしいのだ。吾輩はこれらをまとめきることができなかった。烏兎匆々ウト-ソウソウとしたゆえんである。

タイポグラファ群像*003 牧治三郎氏

タイポグラファ群像*003

牧    治 三 郎

(マキ-ジサブロウ  1900年(明治33)5月-2003年(平成15)

本ブログロール『花筏』 A Kaleidoscope Report 1-7において、『活字界』連載「活字発祥の碑」を通じて、「印刷業界の生き字引き」としての牧治三郎のことを紹介してきた。その一部を再録し、その後このページをご覧になった板倉雅宣氏からご提供いただいた新資料と、わずかに発見したあたらしい資料を補足しながら、ここにわが国の印刷史研究に独自の歩みをのこした牧治三郎を記録したい。
(2011年8月20日改訂)、(2011年9月9日、某古書店の協力により牧治三郎氏没年を改訂)。

     
牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
1900年(明治33)うまれ  67歳当時の肖像写真と蔵書印

牧治三郎と筆者は、20-15年ほど以前に、改築前の印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために「印刷材料商」だった牧の自宅(当時の居住地 : 東京都中央区湊3-8-7)まで同行したことがある。夕まぐれに到着したが、当時はすでに看板は掲げていなかったとおもう。
わずかに、階下に活字スダレケースや、活字架などの活版木工品、活版インキやパックのままのケース入り名刺などの在庫が置かれている程度であった。

当時の牧治三郎はすでに90歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、常識や節度といったバランス感覚も良く、また年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。また、上記の写真で紹介した60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から相手を見据えるようにしてはなすひとだった。

そんな牧が印刷図書館にくると「あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」という具合で、当時の司書・佐伯某女史が、
「長老が呼んでいるわよ……」
と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず印刷図書館まで駆けつけたものだった。
──────────

 牧治三郎の出身地、新潟県新発田シバタ市は、いまこそ豊かな米どころととして知られるが、当時の農村の生活は貧しく、幼少のころから上京して、いっとき活字版印刷工場で「小僧」修行をしたことがあるとのべていた。新潟から上京した時期と勤務先は聞きそびれた。
そして1916年(大正5)15-16歳の頃から「印刷同業組合」の事務局の書記役として勤務していたが、一念発起して(夜学とおもえる)日本大学専門部商科を1923年(大正12)23-24歳のころに卒業している。

したがって卒業後に改めて印刷会社に入ったものの、
「ソロバンが達者で、字[漢字]もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記のほうが本職になっていた」
と述べた。
「昔の活版屋のオヤジは、ソロバンはできないし、簿記も知らないし……」
とも述べていた。
──────────
牧治三郎とは、東京築地活版製造所の元社長・野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。

◎2011年9月9日追記:
牧治三郎は珈琲が好きで、印刷図書館を出てすぐ前の〈バロン〉という喫茶店で話しこんだ。牧には奇癖があって、丸くて上蓋がパカッと持ちあがる、ふるいタイプのシュガー・ポットから、砂糖を山盛りで摂りだし、それをティー・スプーンの柄の部分をもちいて、いつも器用に摺りきり三杯にして飲んでいた。

2011年9月9日、久しぶりに印刷図書館を訪ねた際、〈バロン〉はまだ営業していた。懐かしいおもいで飛びこんで珈琲を注文したが、あのふるいシュガー・ポットは、丸いスプーンとともに健在だった。そこで牧の癖を真似てみたが、おもいきり砂糖をテーブル一面にこぼしてしまった。

筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所の設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサン(平野富二嫡孫、後述)にぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにして、平野富二に関して触れるのはやめておけ」とたしなめられることが多かった(『富二奔る』  片塩二朗 朗文堂)。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヒラノ-ヨシタロウ、元東京大学法学部助教授。戦前の悪法・治安維持法によって公職を追われた。のち高名な法学者として知られる。1897-1980)のことで『富二奔る』に詳しい。

なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという、野村宗十郎(1857-1925)を高く評価して、終始「野村先生」と呼んで、なかば神格化してかたっていた。
したがって筆者などは「若ケエノ」とされても仕方なかったが、平野の功績と野村の功罪をめぐって、ときに激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

また、牧治三郎の1938年(昭和13)から、敗戦の1945年(昭和20)までのあいだ七年ほどの経歴が「印刷材料商を自営」とだけなっており、その間の行蔵コウゾウはあきらかにされていない。
印刷同業組合の書記の職を辞して「印刷材料商を自営」した1938年には、牧はまだ38歳程度の年齢であった。
向上心と自意識がきわめてつよかったこのひとが、活版木工の取次程度の閑職に甘んじていたとはおもえなかった。

この「変体活字廃棄運動」の件になると、ふつう饒舌な牧は、俄然寡黙になり、筆者がどこまでその実態に迫っているのかを逆に探ることのほうが多かった。しかしついに、牧はそれを詳細にかたることがなかった。

ただいえることは、牧はさしたる理由もなく、印刷同業組合の書記役から身をひいたものの、単なる「印刷材料商」としてではなく、あきらかに「緊張の時局下」の印刷界の枢要な黒子として、水面下で活動した。
そして、まぎれもなく「変体活字廃棄運動」と、企業整備令にもとづく、印刷企業の「廃止・整理・統合」の背後で、重要な役割をもった人物として存在していた。
──────────
印刷産業における企業整備令――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――の実施とは、
「弱小企業A社を廃止し、中小企業B社とC社の設備と人員を整理(縮小)し、中堅企業D社の設備と人員も大幅に削減する。その後、B+C+D社を統合した上で、残存会社としてB社を中心として、E社を設立する」
というような形で実施された。

官界からは業種ごとに数値だけが指示された。すなわち、
「企業・工場を、廃止・整理・統合し、兵士 ◯ ◯ 名を徴兵可能とせよ。また工場の廃止・整理・統合にともない、金属資源 ◯ ◯ 万トンを供出可能とせよ」
という数値目標だけの「指示」である。

もちろん官僚は自らの手を汚すことなく、それを民たる同業組合などに「指示」した。
つまり印刷同業組合では、政府から命じられた数値を、固有名詞、すなわち個個の企業の名前に書きかえる、ないしは置きかえる必要があった。
ところが同業組合の幹部とは、たれもが斯界シカイの事業主の一員であって、当然ながら、同業他社の内実・実情などはほとんどわからなかったし、自らの企業がそれを免れることに必死なだけであった。

つまり政府から命じられた「数値」を、仲間内の同業者の「固有名詞」に置きかえるためには「汚れ役」が必要だった。そこで印刷業界の隅々まで知悉チシツしていた人物がもとめられたのは当然であろう。
敗戦から半世紀余の当時でも「企業統合」の憂き目にあった印刷業者からは、企業生命を制する「企業の赤紙」として怖れられた「企業統合」のときの、さまざまな怨嗟エンサのことばや、風説はしばしば耳に入っていたので、それを牧に直接確認した。

この確認を再再にわたってせまった筆者に、牧は、
「戦争中は、ともかくいろいろあったからなぁ」
と曖昧に答えるだけだった。しかしながら、否定はしなかった事実も多い …… 。これ以上踏み込むと牽強付会のそしりを免れない。

もどかしいことながら、戦争末期の「変体活字廃棄運動」と、企業整備令関連文書記録などのすべてが焼却処分されたとされ、いまだにその真相に迫ることができない。
しかしながら、東京築地活版製造所が解散に追い込まれた1938年(昭和13)、すなわち牧が印刷組合書記の職を離れて水面下に潜行し、その行蔵が不明となった年以降、わが国の印刷と活字の業界には、なにかみえざる大きな黒い手が蠢動していたことは事実である。

しかし「牧老人が亡くなった …… 」と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、詳細な経歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。
牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷・活字・製本関連の機器資料と、その歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログ、パンフレット、ビラのたぐいもよく収蔵していた。
その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。しかしながら、これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、当時筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒関連の資料」は蔵書の山から見いだせなかった。

牧治三郎は、
「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」
と述べていたが、どうやら『治三郎文庫』はついに実現しなかったようである。
その蔵書は(おそらく)神田S堂を通じ、すでに二度にわたって大量に古書市場に流出して、事情通の古書店主らを驚愕・仰天させたそうである(N古書店店主談)。
また、牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「禁 出門 治三郎文庫」とあり、現在も古書店などで、この蔵書印をときおり目にすることがある。

牧の旧宅(当時は中央区湊3-8-7)があった中央区湊三丁目周辺は、すっかり様相がかわっており、高層ビルの建ち並ぶ街になっており、またご家族の所在をわからないでいる。
牧は「板橋の家にも蔵書がある……」とも述べていたので、当時から郊外にご子息などが居住していた可能性もある。

そこで、付きあいのある神田の古書店S堂に架電して、牧家のあたらしい連絡先を尋ねたが、
「お客さまの個人情報はご勘弁を …… 」
ということで、いまだに牧治三郎の没年を掌握していない。
〈2011年9月9日:N古書店の協力で、牧の没年は2003年(平成15)であったことが判明した〉。

《牧 治三郎の略歴》

幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」『活字界15』(昭和42年11月15日)にインタビュー記事があったので、40年以上前という、ふるい資料ではあるが、牧治三郎の67歳当時の風貌がわかる写真(最上部に蔵書印影印とともに掲出)と、略歴を紹介したい。聞き手は同誌編集長だった中村活字・中村光男氏とみられる。

あわせて、『東京の印刷組合百年史』(印刷組合百年史刊行委員会 東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)の巻末に、〈執筆者紹介〉として牧治三郎の略歴がある。
牧は同書全27章のうち、前章-7章までを執筆している。ほかの執筆者は三浦康(ミウラ-コウ 8-13章)、山川俊郎(ヤマカワ-トシロウ 14-19章)、真神博(マガミ-ヒロシ 20-24章)、南惠之助(ミナミ-ケイノスケ 25-27章)の各氏である。

興味深いのは、平成3年のこのころ、すでに京橋区は中央区に改称されて相当の時間が経過しているが、なにかと「印刷の街・京橋」に居住していることを自慢にしていた牧は、その住所を「京橋区湊三丁目」としるして平然としている。

「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」
『活字界15』(昭和42年11月15日 )

〈大正から昭和初期は、ひどい値下げ競争時代〉
私が活字業界のお手伝いをしたのは、大正5年頃から昭和10年頃であった。その頃私は東京印刷同業組合の事務局にいたので、活字業界に頼まれて庶務の仕事をやっていたが、ひとことでいうと、当時はひどい値下げ競争であった。
協定価格の半額が通常で、少しまとまった顧客にはさらに一割引きとか二割引きでやっていたようである。また当時は業者間でも派閥争いが激しく、ともかくたいへんな時代であったようにおもう。

〈古い資料をたくさんお持ちのようですが〉
特に集めたわけではないのですが、印刷組合、活字組合のお手伝いをしていた関係上、明治・大正時代の珍しいものが自然にたまってしまったような訳です。なかなか整理ができず、適当な機関に順次差しあげたいとおもっております。活字組合さんにも、保存さえしていただければ、寄贈したいとおもっております。

〈印刷工業組合設立の苦労をうかがわせてください〉
印刷組合のことですが、昭和6年にはじめて重要生産品に指定されて、ようやく政府にも印刷産業の重要性を認められたことでしょう。その結果、昭和8年に東京印刷工業組合が設立できた訳です。
それまでは、ほかの産業と同じくたいへんな不景気で、活字業界も四苦八苦のようでしたが、印刷業界の工業組合ができて、少しずつ過当競争を改めていったようにおもいます。
今でこそ政府の認可ということは、それほど重要ではないようにおもわれますが、当時はお役所の了解を得るのに、業界の幹部はたいへんな苦労をなさっていました。

〈今の印刷会館は三代目の建物ですか?〉
そうです。新富町の印刷会館もこれで三代目です[現在は全面改築されて四代目]。
昭和6年に木造二階建てに改築したのですが、そのとき吾々事務局は[秋葉原の]凸版印刷の本社に半年ばかりお世話になりました。

牧治三郎さんは明治33年うまれ。67歳とはおもわれない元気さで、思い出話にも少しも渋滞がない。大正10年のお茶の水の印刷展覧会、大正12年の京都の印刷博覧会など、きのうのことのように話しをすすめられる。[中略]なお、同氏は現在、中央区で、木具・ケイ・リンカク業を営んでいる。

〈執筆者紹介〉『東京の印刷組合百年史』
(印刷組合百年史刊行委員会 東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)

牧 治三郎(まき じさぶろう)

1900年(明治33)5月、新潟県新発田市に生まれる。1916年(大正5)7月東京印刷同業組合書記採用。1923年(大正12)7月日本大学専門部商科卒業。以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。京橋区湊三丁目で印刷材料商を自営(前章―7章担当)。〈2011年9月9日追記:某古書店の協力で、牧の没年は2003年(平成15)であったことが判明した〉。

《主著と呼ぶべき著作がない、能筆な執筆者・牧治三郎》

◎ 「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」『日本印刷大観』
(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)
四六倍版 本文848ページ 各種印刷版式使用 上製本

印刷同業者組合の内部文書などは別として、牧治三郎がはじめて本格的な著述をのこしたのは『日本印刷大観』である。
同書には広告や差し込みページが多いが、その本文848ページのうち、「印刷の起源及び発達」239ページ、28%ほどを庄司浅水が記述し、のこりの590ページ、69%ほどを「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」として牧が記述している。

すなわち牧は、本格的な書物の舞台に初登場した38歳ほどのときから、ある意味では共著者の庄司浅水をこえて、主たる著述者であったことはあまり知られていない。
本書を執筆した際に、牧が発行元となった印刷同業組合書記に在職していたかどうかはわからない。いずれにしても『日本印刷大観』が発行された1938年(昭和13)7月に、印刷同業組合の職を離れ、印刷材料商(代理・中継ぎ販売)というちいさな店の店主となった。いつも、どこかに、韜晦トウカイのふうがみられるのが牧の特徴だった。

◎ 『京橋の印刷史』
(編集・発行 東京都印刷工業組合京橋支部五十周年事業委員会 昭和47年11月12日)
B5判 800ページ 全活字版印刷 上製本

この書物が牧治三郎の主著といえば主著といえるのかもしれない。
しかしながら本書はおよそ印刷同業組合の一支部がつくるような資料とはいえないほどの、広汎な内容とボリュームをもつ。また背文字・表紙・スリップケースに著者名も発行者名も無く、ただ書名の『京橋の印刷史』だけがポツンとしるされた書物である。その異常といえば異常な書物が『京橋の印刷史』である。
巻頭の「ごあいさつ」で、東京都印刷工業組合京橋支部支部長・荒川隆晴は以下のように述べている。

この『京橋の印刷史』を編纂刊行できましたことは、衷心より喜びにたえません。内容をお読みくださればすぐおわかりになることですが、本書は「京橋の印刷史」というよりは「日本の印刷史」と申すべきが適当な内容で、実に日本の印刷史をひもといた、見事な、立派な、かつ貴重な歴史が刊行できましたことを、委員会を代表して心から慶賀を申しあげる次第であります。

この印刷史の編纂に当たっては、四百字詰め原稿用紙三千枚の執筆のほか、貴重な資料、写真の提供などに多大なご尽力をいただいた牧治三郎氏の約一ヶ年半にわたる長期のご努力がありました。[後略]

編纂委員として名を連ねた荻野義博は――あとがき――にこうしるしている。

[前略]この印刷史を刊行する話しがあったのは、昨年(昭和46)早春の部長会であった。四月の定時総会に諮り、満場一致の賛成を得て、直ちに印刷史に実に造詣の深い牧治三郎氏にすべてお願いすることにした。

[中略]牧氏の起稿の全貌は12月にいたって大略目安がついたが、なお脱稿まで計算すると、かなり厖大になるものと予想されたので、A5判の予定をB5判に変更することになり、加えて記念式典も盛大にということになり、予算の関係で、やむを得ず企業紹介コーナーを設けて、[組合員はもとより、ひろく関連企業からの]ご協賛を仰がなければならなかった。[後略]

牧治三郎は『京橋の印刷史』の執筆依頼をうけると、1ヶ年半という短期間に、一気呵成に400字詰め原稿用紙3,000枚を書き上げた。そのため、編纂委員会では判型をA5判からB5判に、ページ数を800ページへと急遽拡大して変更せざるを得なかったことがわかる。それでも牧治三郎は紙幅が足りないと主張したそうである。
それよりなにより、編纂担当委員は大幅な予算超過となり、「広告という名の協賛金」集めに奔走せざるを得ない仕儀とあいなった。

したがって、巻末部におかれたp.693-797「印刷略年表」(扉ページにこのタイトルがのこっている)は、校正時に編纂委員会から原稿の一部の削除と減少を懇願された。妥協案として、近代印刷だけに絞って「近代印刷小史年表」にタイトルを変更され、しかも本文活字の9pt. 30字詰め 2段組ではなく、6pt.という豆粒のようなちいさなサイズにされ、6pt. 30字詰め 3段組が実施されている。
牧はおそらく内心におおきな不満があったに違いない。それが扉ページの「校正ミス」としてのこったとみている。

皮肉なことに、多くの論考者、もちろん筆者にとっても、この巻末部の「近代印刷小史年表」がもっとも興味深く、かつ役立つ資料で、しばしば引用されていることは事実である。
同書刊記(奥付)には、多くの組合役員名が麗々しく列挙されたなかに、ポツンと「著者 牧治三郎」とだけある。

◎ 「いんさつ明治百年」『日本印刷新聞』
(牧治三郎 昭和41年7月15日―昭和43年5月22日 国立国会図書館蔵)
【板倉雅宣氏資料提供】
印刷業界紙(週刊)『日本印刷新聞』の発行元・日本印刷新聞社は、その本拠地を印刷会館ビル内に置く、典型的な業界紙である。
そこに昭和41年7月15日―昭和43年5月22日まで、ほぼ毎週、全145回にわたって幕末の近代印刷創始のことから説き起こし、凸版・凹版・平版といった印刷版式の歴史と技術解説、印刷機とその関連機器の紹介、活字業界の動向、各業界の盛衰などをきめこまかくしるしている。

◎ 「活版印刷伝来考」『印刷界』
(牧治三郎 昭和41年3月号―昭和42年2月号 国立国会図書館蔵)
「活版印刷伝来考」『印刷界』――「資料で見る印刷100年――印刷文化財保存会資料より」
(牧治三郎 昭和42年5月号―昭和42年12月号 国立国会図書館蔵)
【板倉雅宣氏資料提供】
印刷業界誌『印刷界』にも、牧治三郎はしばしば執筆を重ねた。「活版印刷伝来考」は、下記の「印刷文化史年表」の先駆けをなしたものとみられ、『印刷界 148号―169号』まで、毎月5ページほどの分量で執筆をかさねたものとみられるが、昭和42年3-4月号、160―161号は保存されていない。
組版は活字版印刷で、8pt. 明朝体、横組み、25字詰め、1段46行、2段組が実施されている。すなわち牧は毎月11,500字、400字詰め原稿用紙にして25-30枚ほどを執筆していたものとみられ、相当の知識と資料の蓄積と、巧まざる筆力の持ち主であったことがわかる。

◎ 「印刷文化史年表」『印刷界』(牧治三郎 印刷界 昭和48年4月-51年10月)
[印刷図書館蔵 沼倉氏複写寄贈  2001年12月5日板倉雅宣氏目録作成]

牧治三郎「印刷文化史年表」は、業界誌『印刷界』に4年間、43回にわたって連載されたものである。同書原本の全冊揃いは早くから失われていたようで、「沼倉覚□?選資料」として、複写されたものが所蔵されている。その整理がついていなかった資料を、板倉雅宣氏が、順序を正し、全目録を作成したものが印刷図書館に所蔵されている。

なにしろありままる実物を抱えていた牧治三郎であるから、『京橋の印刷史』の口絵をふくめて、引用図版はどれも貴重な資料ではあるが、あまりこだわりがなかったのか、図版類は比較的杜撰な処理になっている。
「印刷文化史年表」もその類にもれず、図版でみせようという意識はほとんど感じられず、厖大な資料を駆使した論述を読むことになる。

正直、筆者もこの不鮮明な複写資料「印刷文化史年表」は、一部を拾い読みした程度で十分に読んだことはない。しかし板倉雅宣氏の整理を得て、目録が充実したために、最近「印刷文化史年表」を手許において、しばしば読みふけることが増えてきた。

幸せだったのか、不幸だったのかわからないが、韜晦をきめこんでいた牧治三郎には、論敵とされる人物はいなかった。ひと世代前なら、『本木昌造 平野富二 詳伝』の著者三谷幸吉(1886年3月9日-1941年8月31日)と、『活版印刷史』の著者、川田久長(1890年5月25日-1962年7月5日)とは、さまざまな論争をかさね、お互いを触発しながら、双方ともにおおきな成果をのこした。

ところが牧治三郎にはそうしたよきライバルも、支持者もすくなかった。その発表の舞台も、ふつうは目に触れることが少ない、いわゆる業界紙誌や組合年史に限られている。
いずれにしても、これから折りに触れ「印刷文化史年表」を紹介することが増えそうないまである。

◎ 『活字界』(全日本活字工業組合 1-80号 中村光男氏合本製作・保存)
第1号 昭和39年6月1日-第80号 昭和59年5月25日
活字版印刷 B4
判2丁を二つ折り 都合B5判8p 無綴じ投げ込み

簡素ながら、丁寧な活字版印刷による活字界の業界誌である。全80号の大部分を銀座・中村活字店/中村光男が広報委員長として編集にあたり、同氏による全冊綴じ込み合本が中村活字に保存されている。
牧治三郎の寄稿は「活字発祥の碑」建立関係の寄稿が多く、建立のなった暁からは、まったく寄稿していない。その次第の詳細は、本ブログロール  A Kaleidoscope Report  1-7 を参照して欲しい。

◎ 『東京の印刷組合百年史』(東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)
2分冊を特製スリップケース入り   全上製本
論文篇:B5判872ページ 図版・資料篇:46倍判362ページ

2冊のサイズ違いの上製本が、特製スリップケースに入って配布された年史である。既述したように、本書論文篇の骨子をなす、前章-第7章までを牧治三郎が執筆している。サイズの大きな図版篇は、おもに『多摩の印刷史』の主要な著者だった桜井孝三氏が担当している。論文篇は当時牧治三郎90歳ころの読みでのある資料である。

そもそも企業組合の歴史書、すなわち企業組合年史の執筆などは、労多くして恵まれるところすくなく、ましてほとんど読者大衆の目に触れることもなく埋没するものである。
したがって「年史」の執筆などは、ほとんどの文筆家が逃げ腰になるものだが、牧は38歳のころの『日本印刷大観』にはじまり、90歳を迎えてなお、これだけの大著の骨子をなす大役を引き受けている。これがして、筆者が牧治三郎をたかく評価するゆえんであり、これからも、数少ない読み手であろうとおもう所以ユエンである。

タイポグラフィあのねのね*012 平野富二と李白 春夜宴桃李園序

活版製造所 平野富二の活字組み見本にみる
李白 春夜宴桃李園序

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の概略紹介
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)を再再紹介してきた。これは、俗に『平野富二活字見本帳』(活版製造所 平野富二 推定明治9年 St. Bride Library蔵)、『改定 BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 明治12年 印刷図書館蔵)とともに、冊子型活字見本帳としてはわが国最古級のものとされている。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は平野富二の旧蔵書であった。また筆跡からみて、平野富二の自筆とみられる書き込みが、一部に鉛筆によってしるされている。本書は平野富二の逝去後も、東京築地活版製造所に隣接した平野家に保存されていたが、1923年(大正12)関東大地震の火災に際して消火の水をかぶったため、表紙を中心に損傷がみられる。しかしながら貴重書として、平野家歴代にわたってよく保存され、こんにちなおその資料性を失っていない。

巻頭第Ⅰにみる木版画による本社社屋。

巻頭第Ⅱにみる小扉。円弧に沿って活字組版をするのは
相当の技倆を必要とする。

巻頭第Ⅲにみる本扉。たくさんの種類の活字をもちいた、多色刷り
となっており、4-6度刷り作業をおこなったとみられる。

第1ページにみる「第初號」[明朝体活字]
これは鋳造活字ではなく、木活字とみられている。

最終丁にみる刊記。住所と「活版製造所 平野富二」とある

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の造本仕様紹介

本文仕様    天地228mm×左右168mm(各ページに若干の異同有り)
輸入紙とみられる厚手の非塗工紙に片面刷り。
基本的にスミ1色刷り。扉・装飾罫ページには特色使用。
本文112丁 キリ状のもので2-4穴をあけ糸を通して綴ったものとみられ
る。穴の痕跡は明確に残るが、糸は存在しない。
最終ページに装飾枠に飾られた刊記あり。
「東京築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二」

装本仕様      損傷が激しく、推定部分が多いことを事前にお断りしたい。
装本材料、本文用紙などは輸入品とみられる。
芯ボール紙に代え、薄い木材片を表紙芯材として、表紙1-4に使用。
芯が木材とはいえ、皮をまいた、本格的な皮装洋装本仕立てである。
表紙1-2 オモテ表紙には、小扉ページと同様な絵柄が、空押し
もしくは、箔押しされたとみられるが、箔の痕跡はみられない。
BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO が楕円形で組まれ、
その中央に《丸に も》形のマークが月桂冠の装飾によっておかれ、
その中央にブラック・レターのHがある。最下部に、住所標記として
「Tsukiji Tokio. Japan」がある。
表紙3-4 ウラ表紙には、文字活字が印刷もしくは型押しされた痕跡は無い。
背にあたる部分は存在しない。

また、俗に『活字見本帳』(活版製造所平野富二 推定明治9年  St. Bride Library蔵)とされる活字見本帳は、10年ほど前までは英国St. Bride Libraryにあり、表紙の撮影だけが許されていた。しかし近年大勢出かけている留学生や旅行者の報告では、「収蔵書が多すぎて整理が追いつかなく、同書は収納場所がわからないので閲覧をお断りする」との回答が報告されている。St. Bride Libraryにはさまざまな経済的な荒波が襲ったと仄聞するが、その一刻も早い公開が待たれるところである。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は、平野富二の曾孫にあたる平野正一氏が、関東大震災当時、平野家土蔵に収蔵されていて被害がなかった、膨大な平野富二関連資料(書画・証書・表彰状類が多い)の山を整理されたおり、その一隅から偶然、損傷の激しい本書を発見されて、公開されたものである。それを長らく小生が拝借してきたが、そろそろ平野家にお返ししないと、いくらなんでも心苦しい時期になってきた。それよりなにより、平野家から、本書の影印複製本の作成を許諾されているのに、いまだに図書販売環境にとらわれて、その刊行ができないでいることもあわせて心苦しいのだ。

◎東京本格進出5年後、32歳の平野富二の挑戦
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』は、長崎のひと、若干27歳の平野富二が、六海商社ないしは五代友厚に「平野富二首証文」(嫡孫・平野義太郎記述、本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)を提出し、それを担保として創業資金を借財し、1872年(明治5)7月に「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)に鋳造活字製造工場を設け、翌1873年(明治6)築地二丁目二十番地に煉瓦造りの工場を新築し、活字の鋳造ならびに関連機器の製造販売、すなわち、のちの東京築地活版製造所を創業したことに端を発する。

平野富二が築地川沿い、万年橋東角のこの地を、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売の本格展開の場所に選んだのは、これまで見落とされていた事実があったことが、『活字界』の連載を調査するなかから浮かび上がってきた(本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)。
すなわち1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺において大火災が発生し、折からの強風もあって、旧京橋区・旧日本橋区一帯が焼亡した。政府は同年7月布告を発して、この地区に再建される建築物を、できるだけ新技術で、耐火性にすぐれた、煉瓦造りにするように命じた。また同時に、東京・渋谷に火災の被害にあった墓地の移築を命じた。これが青山墓地のおこりとなり、さらに同年11月28日、雑司ヶ谷と駒込にも大型墓地を設けて、移築をなかば強制した。
この結果、築地本願寺は大きく敷地を削られ、付属する墓地のない現在の姿となった。また京橋区・日本橋区、すなわち現在の中央区には、墓地はもちろん、社寺地がいちじるしく減少して、一大町人地となった。それがして、こんにちの銀座一帯のきわめて繁華な商業地をもたらすおおきな原因となった。

すなわち、1873年(明治6)、28歳の青年・平野富二は、焼亡した広大な敷地のなかから、もっとも水運に恵まれた、築地二丁目二十番地、万年橋東角に、耐火性をおもんぱかって煉瓦造りの工場を新築し、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売、すなわちのちの東京築地活版製造所を創業したことになる。

さらに興味深い事実を指摘しておこう。平野富二が最初の拠点とした「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)のすぐ裏には総武線の線路が走るが、かつてここには江戸城の外堀をなした運河があった。江戸末期の古地図(江戸切り絵図)を調べると、同所から、築地二丁目二十番地の前を流れていた築地川(現在は高速道路として利用)までは、相当な規模の舟が運航できたものと見られる。
活字の製造設備をはじめ、印刷・組版関連機器、活字などの重量はそうとうなものとなる。神田から築地への比較的近距離への移転とはいえ、自動車や起重機などの陸上交通機関が未発達なこの頃、同社の移転はもとより、その後の隆盛に向けて、水運の利便性は極めて重視されたことが想像される。

ところが、『活字界21号』(編集・発行 全日本活字工業会 昭和46年5月20日)で牧治三郎は、平野富二が求めたこの土地を以下のように紹介し、やがて野村宗十郎社長時代にこの地に1923年(大正12)に新築された本社ビルが、移転の当日に関東大震災に襲われただけでなく、方位学からみると「呪われたビル」であるとした。
《移転当時の築地界隈》
平野富二氏が買い求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切り絵図によれば、神田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)の中奥御小姓屋敷の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の屋敷で多くの武士が切腹した因縁の地で、あるじ無き門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心として、末派の寺と墓地のみで、夜など追いはぎが出て、ひとり歩きができなかった。

しかしながら碩学の牧治三郎も、1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺に大火災が発生していた事実を見落としたようである。この大火後、前述のように墓地はもとより、社寺地は大きく減少している。また『実測東京全図』(地理局 明治11年)をみても、現在の中央区の区画は、関東大震災の復旧に際して設けられた昭和通りをのぞくと、ほぼ現在の区画に近い。すなわち、この周辺にはすでに江戸切り絵図の姿とは異なり、寺や墓地はなかったはずである。

もともと鋳物士(俗にイモジ)・鋳造業者とは、奈良朝からのふるい歴史をゆうする特殊技芸者であり、いわば験ゲン担ぎの職能人ともいえた。その系譜を継承した活字鋳造業者も、火を神としてあがめ、火の厄災を恐れ、不浄を忌み、火伏せの神・金屋子カナヤコ神を祭神とするきわめて異能な集団であったことは報告(A Kaleidoscope Report 002)した。
平野富二と初期東京築地活版製造所の面々も、陽の力、すなわち太陽がもっとも低くなる冬至に際し、「鞴フイゴ祭、蹈鞴タタラ祭」を催し、強い火勢をもって祭神に「一陽来復」を願っていた。したがって、かれらは猛火の火によって十分に除霊されたこの地を、機械製造や活字鋳造に最適な場所として選んだとみてよいであろう。

同社の創業当時の社名は様々に呼び、呼ばれていたようである。本書口絵に相当する板目木版画には、右端にちいさな看板が紹介されているが、そこには「長崎新塾出張活版製造所」とある。かれらは東京進出後もながらく、「長崎の新街私塾[長崎新塾]が、東京に出張して開設した活字版製造所」という意識があったものとみられる。このように、同社は設立当初から、廃業に追い込まれる1838年(昭和13)の直前まで、長崎系人脈と長崎系資本との密接な関係がみられた。そしてその人脈と金脈が枯渇したとき、同社は巨木が倒れるようにドウと倒れたとみてよいだろう。

また同書巻末の刊記には「東京京橋二丁目二十番地活版製造所 平野富二」とあるが、発行日は記載されていない。同書が推定明治10年版とされるのは、紹介されたカレンダーの年号からと、本書の改訂版が明治12年に発行されているためである。いずれにしてもこの時代は、平野活版所ないしは平野活版製造所、あるいは単に活版所と呼ばれることが多かったようである。

そろそろ平野家にお返しする(つもりだ)から、名残り惜しくて、しばしば『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』を開いてはため息をつく。その都度、いまでもあらたな発見がある。紹介された印刷関連機器、さりげなく置かれた装飾罫、欧文活字の招来先、印刷されていない込め物の分割法、そして活字書風などである。
そもそもこの時代には、まだ「明朝体」をふくめて活字に定まった名称はなかった。『本木昌造伝』島屋政一の報告では、「長崎活字・平野活字・崎陽活字・近代活字」などとさまざまに呼ばれていたようである。活字の書体名として「明朝風」ということばがはじめて登場するのは、1875年(明治8)本木昌造の逝去を報じた、福地櫻痴筆とみられる『東京日日新聞』「雑報」が最初であることは報告した。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』では、漢字活字、和字活字(ひら仮名・カタ仮名)、欧字活字(欧文)は明瞭に切り分けられて紹介されている。むしろ現在のデジタル・タイプの環境下のように、明確な根拠もなく普遍化? した「漢字書体に随伴する仮名書体」、「従属欧文」という考え方などよりも、ある面では明確かつ明快といえるかもしれない。
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の漢字活字の文例は、よく知られた『李白 春夜宴桃李園 序』が、すべての漢字活字書体および漢字活字サイズの紹介に使用されている。
漢文紹介とその読み下しには、異本紹介や、異論がつきものだが、ここではいちおう、はるかな昔、漢文の教師(古ッ)が抑揚たっぷり、朗々と吟じた名調子を思いだしながら紹介したい。
そこで思いだしたことがひとつ。この李白を引いたとされる松尾芭蕉『奥の細道』を指導した古文の教師(古ッ)は、過客をカ-キャクというか、むしろ明けガラスの鳴き声のように「クヮ-キャク」と読んでいた。漢文の教師は故事成句にならって「カカク」といっていた。それをどこにでもいる勘違い男が、どちらの教師にか忘れたが、「クヮキャク」と「カカク」の違いに関して余計な質問をして食い下がっていた。そんなものは自分で辞書でも調べろ、とおもって鼻をほじっていたが、いまもってどうでもいい気がしないでもない。

第5ページにみる「第3号」[明朝体活字]。第3号からは
李白『春夜宴桃李園 序』が全文にわたって紹介されている。

長崎造船所出身の平野富二は、造船と機械製造にすぐれた手腕を発揮した。
ともすると東京築地活版製造所は
活字を中心に語られるが、はやくも1873年(明治6)
6月には、同社は上図のような、英国製を摸倣した国産機、アルビオン型手引式活字版
印刷機を製造・販売していたことが、諸記録からあきらかになっている。したがって
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治
10年 平野ホール藏)は、上図のような国産印刷機で印刷したものとみなされる。

◎盛唐の詩人・李白(701-62年)の序文『春夜宴桃李園 序』
「春の夜に、桃李トウ-リ、モモ-ヤ-スモモの園にて 宴ウタゲをする の 序」

◎ 江戸の俳人・松尾芭蕉(1644-94年)『奥の細道』
「月日は百代の過客カカクにして、行きかう年トシもまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ 馬の口をとらえて老オイを迎える者は、日々旅にして旅を栖スミカとす」

*     *     *

夫天地者萬物之逆旅     夫れ 天地は 萬物の逆旅ゲキリョ、タビ-ノーヤドにして
光陰者百代之過客      光陰は百代の 過客カカク、トオリスギシ-ヒト、タビビトなり
而浮生若夢      而して 浮生フセイ、ウキヨは 夢の若し
爲歡幾何          歓ヨロコビを為すこと 幾何イクバクぞ
古人秉燭夜遊     古人は 燭を秉トり 夜に遊ぶ
良有以也       良マコトに 以ユエ有る也ナリ
況陽春召我以煙景   況イワんや陽春の我を召すに 煙景エンケイを以てし
大塊假我以文章          大塊タイカイの我を仮すに 文章を以てする
會桃李之芳園     桃李トウリの芳園ホウエンに会し
序天倫之樂事     天倫テンリンの楽事ラクジを序す
群季俊秀       群季グン-キ、ムレヲナスの俊秀シュンシュウは
皆爲惠連       皆惠連ミナ-ケイ-レンたり
吾人詠歌       吾人ゴジン、ワレワレの 詠歌は
獨慚康樂       独り康樂コウガクに 慚ハじる
幽賞未已       幽賞 未だ 已ヤまざるに
高談轉清       高談 転たウタタ、ツギツギ-ト 清し
開瓊筵以坐花     瓊筵ケイエン、ブンガ-ナ席を開いて 以て花に坐し
飛羽觴而醉月     羽觴ウショウ、サカヅキを飛ばして 月に酔う
不有佳作       佳作有らずんば
何伸雅懷       何ぞ雅懷ガカイ、フウガナ-ココロを伸べん
如詩不成       如しモシ 詩成らずんば
罰依金谷酒數     罰は 金谷キンコクの酒の数に 依らん

花こよみ 014

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 海 の 入 り 日

浜の真砂マサゴに 文フミかけば
また波が来て 消しゆきぬ
あわれ はるばる わが思い
遠き岬に 入り日する

                                 木下杢太郎(キノシタモクタロウ 1885-1945)

花こよみ 013

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

活 字 鋳 造 士

錫 と 鉛 の  秘 法 を も っ て
鋳 造 活 字 を  つ く る の が  こ の 儂ワシ じ ゃ
組 版 は  正 確 き わ ま り な く
整 然 と  活 字 が  な ら ぶ
ラ テ ン 語、 ド イ ツ 語
ギ リ シ ャ の 文 字 で も  同 じ こ と
イ ニ シ ャ ル、 句 読 点、 終 止 符 と 揃 え
あ と は  い つ で も 刷 る ま で さ

Illustration by Jost Amman
Text by Hans Sachs
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タイポグラフィあのねのね*011 活字書体判断3原則 判別性・可読性・誘目性

活字書体判断における三原則

1.  判 別 性  Legibility    レジビリティ
活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

2. 可 読 性  Readability   リーダビリティ
文章として組まれたときの語や、
文章としての活字書体の読みやすさの程度。
3.誘 目 性  Inducibility     インデューシビリティ
視線を補足して活字書体などの情報に誘うこと。
またはその誘導の程度。

★   ★   ★

これらの外来語由来のタイポグラフィ専門用語は、耳慣れないことばかもしれない。また、本来は活字版印刷術 ≒ タイポグラフィの業界用語であったから、簡易版の英英辞典や英和辞典には掲載されていないものがあるし、紹介があっても混乱しがちである。

したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極地にある。なにも外来語をありがたがるわけではないが、近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィが、江戸最末期から明治初期に海外諸国から招来されたため、その基本用語のおおくが外来語になっている。それは現代のパソコン業界用語とされる、 PostScript, PDF, DDCP など、もはや翻訳語すら追いつかなくなった現状に鑑みたら仕方ないことだろう。
そのためもあって、わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばは混乱しがちであり、あいまいな感覚語をもちいたり、共通基盤を有さない印象論が大手をふるってかたられている。しかしこれらのことばは活字書体の評価や判断にあたってたいせつなことばである。タイポグラファなら、あるいはタイポグラファたらんとする有志の皆さんは、ぜひとも記憶していただき、適切に使用していただきたい。

《 詳 細 解 説 》

《判別性 Legibility レジビリティ》
判別性は、大文字の「B」が、数字の「8」に見えたりするときや、大文字の「I」 アイ、小文字の「l」 エル、アラビア数字の「1」イチがはっきりと区別できなかったり、大文字「O」オーと、数字の「0」ゼロが明確に区別・判別・識別できないときなどにもちいられる。わが国では、漢字の「網」と「綱」、「ー」オンビキ、チョウ- オン-フ と「-」ダッシュの差異判別や、カタ仮名の「ロ」 ロ と、漢字の「口」 クチが見分けられるように、活字を製作したり、それを議論するときなどにもちいられる。Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・識別性・視認性などともされてきた。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、文字の読みやすさ、文字の判別や識別の程度――判別性・識別性などをあらわす。活字版印刷術が創始されてから間もなく、すなわち1679年にその初出がみられる。形容詞の legible は、筆跡や印刷された文字が、看取される、判別可能な-という意味である。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable がある。

こうした判別性を、19世紀末から20世紀初頭に活躍した、英国のタイポグラファのエリック・ギルは、
「A は A、B は B である」
というフレーズをしばしば挑発的に口にしたとされる。また著書『エッセイ・オン・タイポグラフィ』にも各所にしるしている。この「A は A、B は B である」とは、たとえば A という文字を成立させている、画線の組合せでしかない図形を、どう書けばもっとも A らしくなるのかということである。逆にいえば、A を構成しているどの線をどう歪め、どうくずせば A ではなくなるのかという、字体(文字の骨格)の限界の追求を、アルファベットのすべてについて試みることであろう。

文字が成立した長い歴史におもいをはせれば、文字誕生の神秘とその洗練の過程には、確たる文字の姿(字体)を獲得するにいたった人間の工夫と、そのために「定まった字型 Type」をもつ活字のはたした役割の重要性に気づくはずである。文字はひとしく万人のものであり、それゆえに公的な存在であり、その最大多数が迷うことなく、ひとしく判別できる字体(文字の姿・骨格)を探し出す努力は、タイポグラフィの実践者や、活字書体設計にたずさわる者にとっては、基本的な問いかけといえよう。

《可読性  Readability   リーダビリティ》
可読性とは、漢語調で、いかにもふるくからあったという語感で納得させられるが、意外にあたらしい活字版印刷界の業界用語である。もとはドイツ語で Lesbarkeit の英訳語の名詞で、読みやすいこと、読めること、可読性という意味と、面白く読める、面白く書いてあることをあらわすのが原義である。

英語での Readability の初出はあたらしく、 1843年にはじめての使用をみる。わが国ではおそらく明治期に、たれかが Readability に「可読性」という、じつにうまい訳語をあたえたものと想像される。『広辞苑』には 「かどく-せい 【可読性】 読み取れる性質・度合い」 とされている。また一部にこれを「速読性」としたいというむきもある。

1980年代後半、アナログからDTPへの過渡期――技術の継承期――には世界規模での混乱がみられた。そのころ膨大に出版されたアメリカの資料の一部には、レジビリティはフォントを表わし、リーダビリティはファンクションを表す――などという記述も見られた。なにをいっているのか分からなくなる記述が出現し、困ったことに、いまでもそうした資料を引くむきがみられる。

要するにこのことばは、文字の見分けやすさと、文字の読みやすさのこと。つまりタイポグラフィの基本的役割に関わる用語である。したがってタイポグラフィ関連やデザイン関連の洋書に触れると頻出するので、あらためて確認していただきたい。すなわち、あまりこれらのことば自身を難しく考えないで、むしろタイポグラフィの基本的な役割が「文字の見分けやすさと、その読みやすさ」であることを確認したいものである。

《誘目性  Inducibility   インデューシビリティ》
英語の形容詞 「Inducible = 誘致[誘引]できる;誘導できる;帰納できる」の名詞形である。名詞形の Inducibility としての初出はきわめてふるく、印刷術の創始から間もない1643年のこととされる。すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわすために、活字版印刷の業界用語として登場したので、簡易版の英英辞書、英和辞書などには未紹介のものが多いようである。

誘目性が重視されるのは、サインデザインや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは、文字設計者の重要な役割でもある。またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて誘目性を重視した書体も開発されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計に際して「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。しかしながら、もともと「Display」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では「Display」は、表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピューターの表示・出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられる。ところが原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙・奇抜なデザインに走って(判別性と可読性に劣ったために)、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくはない。活字の世界で求められるのは、まず第一義的には、判別性と可読性であり、誘目性はむしろ抑制したほうが無難なようである。

ところが近年、バリア・フリーの考え方が進化して「ユニバーサル・デザイン」が提唱されるにおよんで、電子活字書体の一部が「UDフォント」などと称しはじめた。ここでの文字情報の役割は、判別性とともに、誘目性が重視されるようになった。まだわが国の「UDフォント」は開発の第一段階にあるようだが、ここにあげた《活字書体判断における三原則》に立ち帰り、地に足のついた、真の「UDフォント」の開発をめざして、進化・発展して欲しいものである。

タイポグラファ群像*001 加藤美方氏

加 藤  美 方 (カトウ-ヨシカタ 1921-2000)

本稿は2019年06月20日{NOTES ON TYPOGRAPHY}に
増補版として移転しました。

【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000

印刷人、タイポグラファ。1921年(大正10)うまれ。東京府立工芸学校卒業後、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業。株式会社研究社に入社し、第2次世界大戦中は海軍技術将校として召集された。
のち大日本印刷株式会社に転じて役員などを歴任。同社を退任後に、吉田市郎(旧晃文堂株式会社社長/当時リョービ印刷機販売株式会社社長、現リョービイマジクス株式会社顧問 1921- )に請われて常務取締役に就任。各種の写植活字と写真植字機器開発の指揮にあたるとともに、タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』1-9号の編集にあたった。胃がんとの闘病の末、2000年(平成12)12月29日逝去。法名・遇光院釋淨美居士。享年79

加藤美方(1987年 アステNo.5より)

《加藤役員と、最後まで親しく呼ばせていただきました》
「加藤です」というご挨拶のとき、最初の カ にアクセントがある、いくぶんかん高い声が特徴のかただった。
また圭角のないひとがらで、いつも笑顔でひとと接していた。

筆者と加藤との最初の出会いは、某印刷企業の室長であり、面接担当者(雲の上のひと)加藤と、ただ生意気なだけの(汗)タイポグラフィ研究者?  としての筆者の就職面接だった。
加藤の骨折りもあって入社をはたしたが、直属上司と大げんかの末、そこを三ヶ月もたたずに退社して加藤の失望をかった。
それでもその後も随分いろいろな分野の先輩を紹介していただいたし、きついお叱りも頂戴した。したがって最初の出会いからしばらくして(お怒りが溶けてから)は、筆者は加藤を最後まで「加藤役員」と呼んでお付き合いをさせていただくことになった。

1998年7月7日、忘れもしない七夕の日、加藤は胃がんの手術をした。小康を得て牛込矢来町の自宅にもどったとき、見舞いに訪れた筆者に加藤はこうかたった。
「タイポグラフィの研究を本気でやろうとしたら、コピー複写資料に頼ってはいけません。それをやっているひとが一部にいますが、所詮はアマチュアですし、いつか大怪我をします。タイポグラフィとは、活字の改刻とは、そんなコピーでわかるほど簡単なものではありません」。

高島義雄→加藤美方をへて譲渡された『TYPE FACES』
研究社印刷 1931年(昭和6)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社・小酒井英一郎氏によると、管見に入る限り、研究社の冊子型活字見本帳では
これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

加藤が在職した当時の研究社の本社工場。
同社は1907(明治40)年の創業以来、一貫して英語関連の印刷・
出版事業を展開した。
現在は印刷部門と出版部門は分離したが、千代田区富士見2-11-3に
自社ビルを保有し、辞書・書籍・雑誌の領域における出版企業として著名である。

このころの研究社の活字鋳植機はライノタイプが主力だったが、こののちに、
辞書などの高度組版への対応のため、凸版印刷と交換という形でモノタイプに設備変更した。

ここにみる研究社の和文書体は、第二次世界大戦で罹災して全壊した。
戦後は  晃文堂明朝体  を中心と
した活字母型を購入して、活字自家鋳造にあたった。
そのため現在の研究社の自社専有書体、
とりわけ明朝体は、晃文堂明朝を
自社用にカスタマイズしたものをハウス・フォントとする。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937年[昭和12] 研究社印刷 同社蔵)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプを本格展開
した際に製作されたとみられる活字見本帳。
研究社とその関連部署に、都合2冊が現存する。
ライノタイプ中心の1931年版では、Century, Granjon が中心だったが、
モノタイプ中心の1937年版では Garamond, Aldine Bembo が中心書体に変わっている。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937年[昭和12] 研究社印刷)
扉ページ

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937年[昭和12] 研究社印刷)
本文ページ
 

それからしばらくして、加藤は娘さんの嫁ぎ先の近く、多摩市関戸に移転して病後の療養にあたることになった。そこへの移転を控えたある日、ちいさな段ボール箱にいっぱいのタイポグラフィ資料が宅配便で届いた。おもには加藤が研究社に在籍していた時代の貴重な印刷関連機器と活字の資料であった。

加藤はすでに胃がんの進行を自覚していた。そしてそこには自筆で、
「息子が印刷とは無縁の職場にいますので、このタイポグラフィ関連資料と、活字見本帖類を片塩さんにあげます。書誌関係のものは M 八郎 さんにあげました。わたしの印刷人としての人生は幸せでした。わたしは二廻り年下の片塩さんを発見することができました。ぜひこれを役立ててください。わたしの研究社の先輩・高島義雄さんから譲られた資料も入っています。そしてあなたもいつか、二廻りほど年下の若者を発見して、この資料を譲ってあげてください」
とあった。不覚ながら、おもわず涙がにじんだ。加藤美方は1921年(大正10)辛酉カノト-トリのうまれで、筆者はちょうどふた廻り下の1945年(昭和20)乙酉キノト-トリのうまれであった。

《タイポグラファとしての加藤美方の軌跡》
タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』は、樹立社から『活字の歴史と技術 1-2』(樹立社 2005年3月10日)によって改題されて復刻をみた。その『アステ』をのぞくと、加藤には意外に公刊書は少なかった。
それでも研究社に在職中に、『The Printing of Mathematics 数学組版規定』(The T.W. Chaundy, P.R. Barrett and Charles Batey, Oxford University Press)を1959年(昭和34)3月1日に訳出して、高度な組版技術を要する数式を活字組版するための指導書として、研究社の技術基盤を築くのに功績が大きかった。
同書の初版は社内文書ともいえる扱いで、造本は A5判 本文32ページ、くるみ表紙、全活字版スミ1色印刷 中綴じのつくりで、簡素ではあったが、後続の類書に与えた影響は大きかった。
またのちに晃文堂・吉田市郎が研究社の承諾をうけて、同じタイトルでひろく印刷業者にむけて1,000部ほど(加藤談)を公刊した。同書の巻頭の「はしがき」に加藤は以下のようにしるしている。

組版ステッキのイラストがあるほうが、研究社版:発行昭和34年3月1日。
本文明朝体は「晃文堂明朝 9pt. 8pt. 」が主体である。
欧文書体は「センチュリー・ファミリー」と「バルマー・ローマン」が主体である。

タイトルがセンター合わせになっているほうが晃文堂版(発行日記載無し)。

『The Printing of Mathematics 数学組版規定』 本文ページ

は し が き

世は正に「科学万能時代」である。出版物にもいわゆる《科学もの》が多くなり、数学ぐらいは必ずでてくるようになった。ところが、現行の理工医学書及び《数学もの》を見るとはなはだ寒心に堪えない。知らぬが仏とはいえ、編集者もコンポジターもあまりにひどすぎる。なにか拠り所があったら……と思っていたら、The Printing of Mathematics が手に入った。

この本は、活字のこと、ランストン・モノタイプのこと、組版のことなどを、印刷需要家[印刷ユーザー]に説明することと、数学書を書こうとし、これを出版しようとする人に対する諸注意で大半のページがさかれていて、最後にオックスフォード大学出版局の「数学組版規定」
Rules for Composition of Mathematics at the University Press, Oxford が収録してある。この小冊子はこの規定を訳出し、注釈を加えたものである。

規定の中には重複と思われる項目もあったが、原著に忠実に羅列しておいた。なお、付録には関連資料を添えて参考に供した。
外国での数学書の組版規定がそのまま日本の《数学もの》にあてはまるとは思わないが、参考になると考えたので印刷物にしてみた。日本数学会の意見も加え、このキーストーンの上に、完ぺきな《数学組版規定》が築きあげられる日の一日も早からんことを願ってやまない。

東京大学教授・河田敬義博士、山本建二氏(培風館)にはいろいろご教授を受けた。心から謝意を表明する。
数学の ス の字も知らない私が敢えて訳出したのも ‘メクラ蛇におじず’ [ママ]のたとえ。おおかたのご批判をまつ次第である。

ところで、ほとんどのかたはご存知ないようだが、いわゆる『オックスフォード大学組版ルール』も加藤美方が初訳している。筆者所蔵版はあまりに損傷がひどいので、研究社に依頼して保存版を近々紹介したい。したがって『花筏』ブログロールは、ご面倒でも時々更新操作を加えて閲覧いただけたらうれしい。

また『日本印刷技術史年表 1945-1980』(日本印刷技術史年表編纂委員会編 印刷図書館 昭和59年3月30日)の編集委員として「文字組版」の部を執筆担当した。この巻末に《編集委員の略歴》があるので、余剰をおそれず、「タイポグラファ群像」のスタートとして紹介しよう。
すなわち、筆者はここにみる諸先輩とはわずかに面語を交わしたことはあるが、その詳細はもとより、没年はほとんど知らない。これを機として、読者諸賢からのご教示をまつゆえんである。

『日本印刷技術史年表』 表紙

《編集委員の略歴》
※2011年6月16日、板倉雅宣氏の資料提供を受けて、一部を補整した。

◎ 飯坂義治(いいざか よしはる)
富山県滑川市で1907(明治40年)4月28日うまれ。昭和5年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。共同印刷株式会社専務取締役を経て顧問。1982年(昭和57)以降の消息はみられない。

1982◎ 板倉孝宣(いたくら たかのぶ)
東京市下谷区西町(現東上野)で1915年(大正4)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社、株式会社細川活版所取締役を経て日電製版株式会社取締役。1992年(平成4)6月21日卒。法名・泰光院孝道宣真居士。台東区谷中1-2-14天眼禅寺にねむる。行年77

◎ 市川家康(いちかわ いえやす)
1922年(大正11年)うまれ。昭和21年東京大学工学部応用化学科卒業。大蔵省印刷局製造部長を経て小森印刷機械株式会社常務取締役。

◎ 加藤美方(かとう よしかた)
1921年(大正10)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社研究社、大日本印刷株式会社取締役を経てリョービ印刷機販売株式会社常務取締役。2000年(平成12)12月29日卒。法名・遇光院釋淨美居士。行年79

◎ 川俣正一(かわまた まさかず)
1922年(大正11)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。昭和29年東京理科大学理学部化学科卒業。共同印刷株式会社を経て千葉大学工学部画像工学科助教授。工学博士。2007年(平成11)以降の消息はみられない。

◎小柏又三郎(こがしわ またさぶろう)
東京麻布で1924(大正13)うまれ。昭和20年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。凸版印刷株式会社アイデアセンター部長。1989年(平成元)5月1日卒。行年65

◎ 佐藤富士達(さとう ふじたつ)
1911年(明治44)うまれ。昭和11年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。海軍省水路部印刷所長を経て東京工芸大学短期大学部教授。1985年(昭和60)6月卒。行年74

◎ 坪井滋憲(つぼい しげのり)
1914年(大正3)うまれ。昭和10年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社光村原色版印刷所専務取締役、株式会社スキャナ光村取締役社長。2000年(平成12)10月15日卒。行年86

◎ 松島義昭(まつしま よしあき)
1918年(大正7)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。同校助教授を経て写真印刷株式会社社長。全日本印刷工業組合連合会会長。1999年(平成11)4月6日卒。行年81

◎ 山口洋一(やまぐち よういち)
1923年(大正12)うまれ。昭和20年東京大学工学部機械工学科卒業。大日本印刷株式会社常務取締役を経て、海外通商株式会社専務取締役。

◎ 山本隆太郎(やまもと りゅうたろう)
1924年(大正13)うまれ。昭和18年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社を経て株式会社印刷学会出版部代表取締役。2010年(平成22)2月19日卒。行年86

加藤が卒業し、上記編集委員に大勢が名を連ねた、東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校印刷工芸科の存在にも簡単に触れておきたい。東京府立工芸学校は3-5年間の履修制の特殊な実業学校で、水道橋のほど近くに設立され、「府立工芸」と通称された。
現在はおなじ場所で3年制の東京都立工芸高等学校になっている。加藤は「府立工芸」を卒業後に、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業している。

同校は正式には新制大学にならなかったほぼ唯一の旧制高等学校とされるが、1949年(昭和24)5月、戦後の学制改革にともなう新制大学として、千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括した「千葉大学」が設立された。そこに旧東京高等工芸学校の教授のおおくが移動して「千葉大学工芸学部」の誕生をみた。そのために、卒業生の多くは「東京高等工芸学校 現 千葉大学出身」としるすことが多い。

しかしながら「千葉大学工芸学部」は、1951年(昭和26)4月1日に改組・改称されて「千葉大学工学部」となった。この改組・改称が一部の教授によって「工芸と工業は根本的に異なる存在である」として反発をかった。また、同校を離れた鎌田弥寿治教授らは、東京写真短期大学に移動した。同校は改組・改称をかさねて現在の「東京工芸大学」となった。
すなわち、工芸と工業と美術といった教育分野が、その目的と定義を巡って激しい論争をかさねた時代であり、この命題はこんにちも完全に消化されたとはいえないようである。この間の記録はあらかた散逸していたが、近年松浦広氏が「印刷教育のはじまりを考える 前編・後編」『印刷雑誌』(Vol.94 2011.4-5 印刷学会出版部)に詳しく論述しているのでぜひともみてほしい。

ともあれ加藤美方は東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校の両校を卒業し、印刷業界のエリートとして重きをなし、終生その中核を歩んだ。そして、さすがに旧制学校出身者の高齢化は避けられないものの、いまもって関東一円の印刷業界では、この両校の出身者が隠然たる双璧をなしている。
加藤の一生はまさにタイポグラファであり、なかんずく文字活字であった。その軌跡は、株式会社研究社、大日本印刷株式会社、リョービイマジクス株式会社のなど、加藤が歩んだ企業の、金属活字、写植活字、電子活字のなかにみることができる。

《新カテゴリー、タイポグラファ群像開設にあたって》
タイポグラフィ関連の記述に際して、先達の略歴はもちろん、生没年の調査にすら手間取ることが増えた。かつて、著名人なら紳士録があり、業界人でも『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社)、『印刷人』(印刷同友会)など、業界団体や、業界紙誌があらそって名簿を発表していたので、それらの資料にたすけられることが多かった。
ところが近年は個人情報管理などが過度にかまびすしくなって、肝心の基礎資料すら入手しがたくなった。そこでやつがれがお世話になった先輩・先達の肉声を記録しておくのも意味のあることか、とおもうようになった。

加藤美方氏の奥さまからは、昨年までは年賀状をいただいていた。それが今年は来信がなくて気になっていた。またやつがれが所有している加藤役員のお写真が、パーティでのスナップや、集合写真が多く、御遺影をゆずっていただこうとおもって架電した。ところが矢来町の旧宅も、関戸のマンションも、いずれも「この電話は、現在使われておりません」という機械音声が返るだけだった。

振りかえると、ご逝去の際もあわただしかった。なにしろ師走の29日に逝去されたため、ご親族・ご親戚はお別れができたが、携帯電話の普及以前とあって、「仕事納め」を終えた企業の連絡通信網はまったく機能しなかった。葬儀は四谷にある日蓮宗の古刹寺院でおこなわれたが、かろうじてリョービイマジクスの皆さんと、府立工芸系の学友の皆さんが参集できたのみであった。その末席にあってやつがれは、
「加藤役員は、最後まで企業人だったな」
という一抹の寂寥感のなかに沈んだ。

タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機

江川活版製造所と江川次之進
タイポグラフィあのねのね*008
その後のおもわぬ展開
Aloha, 江川製 Albion Hand Press

《ハワイから Aloha! の @メールに 吃驚仰天!》
このブログロール「花筏」は、締め切りもなく、また、ほとんどなんの制約もなく、のんびり、ゆっくり書き進めようとおもっていた。しかしながら、なにぶんデジタル弱者ゆえ、ブログの構成はきわめて拙いし、まして、やつがれの拙文では、おおかたの評価はないものとおもっていた。ところが意外に熱心な読者がおられて、「最近、アップの速度が少し落ちていますね。なにぶんわたしは激甚被災地にいますので、書物も読めなくなって、『花筏』を読むことを楽しみにしていますから、もっとアップを!」という東北地方居住のかたからの@メールや、記述の齟齬や遺漏への、建設的かつ率直なご指摘・ご提案を、リアルタイムでいただけるのはうれしいことだ。

とりわけ前掲の「タイポグラフィあのねのね*008」には、「江川活版製造所がなにかと気になっていたのですが、やはり資料は少ないようですね」などと、若い読者からのお便りもたくさん頂戴した。そんな情報のひとつに、Website情報、「書体の覆刻--『日本の活字書体の名作精選』の制作にまつわることなど」(小宮山博史)に、「江川活版三号行書仮名の存在があった。これはかつてどこかで読んだ記憶もあったが、デジタル仮名活字の覆刻(かぶせ彫り)制作の経緯をのべたもので、興味深く読ませてもらった。小宮山氏もやはり文中に、「江川活版製造所の本格的活字見本帳は実見したことがない」ことを述べていた。

やつがれも印刷図書館所蔵の花形活字(オーナメントなど)の小冊子はみているが、やはり文字活字のまとまった資料に接したことはない。むしろ、江川活版製造所の広告資料などと比較しても、関西系の業者の活字見本帳のなかに、あきらかに江川活版製造所の摸倣活字とみられる例をみることのほうが多い。したがって江川活版製造所の資料不足は、一朝一夕には解消しないようだ。しかしながらやつがれの経験上、たれかが問題提起をし、それを根気よく続けていると、必ず、どこからか、資料や情報の提示があるものだ。いまはしばらく、引き続いて江川活版製造所の問題にかかわっていきたい。

ところで、「タイポグラフィあのねのね*008」に、『直系子孫によって発掘された江川活版製造所:江川次之進関連資料』をアップして間もなく、ハワイから一通の@メールを頂戴した。これには腰を抜かすほど吃驚仰天ビックリ-ギョウテンした。またやつがれが、そこで江川活版製造所関連資料の不足を嘆いたために、友人・知人から、資料提供や、資料の所蔵先を紹介いただいた。
そもそも「Websiteとは Interactive インタラクティブ だ」とされる――これはInter とActiveの合成語か? すなわちコンピューター業界用語では「対話方式の」であり、Interactively では、「相互に作用して、互いに影響しあって」の意とされる。ツイッターをやるにはチト恥ずかしいし、まずもって携帯電話を「無用の長物なり」として処分したほどのアナログ派のやつがれには、この程度の軽便なブログロールが「相互に作用して、互いに影響しあって」いて手頃なようだ。

アルビオン型手引き印刷機を紹介した『VIVA!! カッパン♥』
(アダナ・プレス倶楽部 2010年5月21日 朗文堂)
1875年英国の活字鋳造所フィギンズ社製造。写真のマシンはLiugua Florence 所蔵。
まずここで、アルビオン型手
引き印刷機の概略と歴史を知っていただきたい。

2011年5月16日、ハワイで個人印刷工房マノア・プレスを主宰されている、ジェームス・ランフォード(Manoa Press, James Rumford)氏から@メールが到着した。
Dear Robundo,
I am sorry that my Japanese is not very good.  I only can read a little bit.
I wanted to tell you about my printing press, an Albion, made by Egawa around the year 1900. It came to Hawaii before World War II, and so survived the war.

どうして日本語だけの本稿を、ジェームス氏が読み解いたのかわからぬまま、やつがれも、まもなく返事をジェームス氏に送った。向こうが母語たる英語でしるしてきたから、こちらも最初の2行を別にして、すべてやつがれの母語たる日本語でしるした。
Dear James,
I am sorry that my English is not very good.  I only can read a little bit.
あなたからのお便りにとても驚き、嬉しくおもいました。江川活版製造所がアルビオン型活字版印刷機をつくっていたという記録はみたことがなく、まして1900年(明治33)ころに製造されたとする、江川活版製造所のアルビオン型手引き印刷機が、はるばるとハワイにわたり、第二次世界大戦の被害もなく、いまも大切に保存・使用されていることを知って、ほんとうに嬉しくおもいます。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
正面 江川の文字と商標 がみられる。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
背面 旧日本海軍艦隊旗がみられる

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機 側面
頭頂部にバネを内蔵した突起がみられるのが、アルビオン型手引印刷機の特徴。

木製とおもわれる部材に刻印された、江川の商標 と社名。マノア・プレス蔵。

その後 マノア・プレス のランフォード氏との@メールのやりとりが続いている。かれは1900年(明治33)ころに、江川活版製造所がつくった アルビオン型手引き印刷機 を所蔵 しているという。 なぜだかしらないが、ランフォード氏は語学がやたらと巧みで、アラビア語や中国語を相当読みこなせるらしい。しかも日本語でも漢字を拾い読みして、大方は理解できるらしい。したがってやつがれが苦手とする「漢文調?」の文章で日本語をしるすと、理解しやすいそうである。――日本語の根底には漢文がドテッと居座っているからか……。
それでも理解できない部分は、ハワイ在住の日系人に翻訳してもらっているとのことである。またランフォード氏は、ちょうど日本語の習得につとめていたので、「花筏」をテキスト代わりとして、日本語学習のテキストとして読みすすめているそうである。やつがれの拙文がテキストではチョイと困ってしまうけど。

また、マノア・プレスのWebsiteには、米国映画『HAWAII』の動画サイトYou-Tubeへのリンクがある。『HAWAII』は、『サウンド・オブ・ミュージック』のエーデル・ワイスの曲でお馴染みの女優/ジュリー・アンドリュースと、『偉大な生涯の物語』のマックス・フォン・シドーが主演しているが、現在では人種問題の扱いなどに問題があって、あまり上映されない映画のようである。その分You-Tubeにはたくさん紹介されているが、『HAWAII-Part 10』 の開始からしばらく、5-6分ころにかけて、なんと、くだんの江川型アルビオン型印刷機が画面に登場する。
映画のなかでの印刷作業の手つきは、手引きというより、手押しになっていて怪しい。(そういえば、渥美清の寅さんの映画でも、裏のタコオヤジのアオリ型円圧活字版印刷機の操作が怪しくて辟易ヘキエキしたが……)。ジェームス氏にもまだ十分に確認していないが、ともかくここに登場する、まぎれもないアルビオン型印刷機は、わが国の江川活版製造所が製造したものとされているのには驚いた。

しかもである。ジェームス氏は小社のWebsiteから、例年5月のGウィークに開催されていた「活版凸凹フェスタ」のことを知ったらしい。そして、今年は東日本大震災の被害者をおもんぱかり、また、活版実践者の精神的衝撃が深刻で、製作に集中しがたい状況を考慮して、苦渋の検討を重ねた結果、開催中止を決断したことを知ったという。
そして、被害者の皆さんの一刻も早い災害からの復興を望むとともに、日本での活版実践者とそのファンとの交流のために、来年5月開催予定の「活版凸凹フェスタ」に、「ハワイに渡った江川活版製造所製のアルビオン型手引き印刷機」を持って来日したいのだという。江川アルビオンはおよそ500パウンド、250キロ。すなわちハワイ出身の巨漢力士だった小錦ふたり分ほどの重量だそうである。ジェームス氏、ともかくすごい熱のいれようだ。

《調査不足を猛省! 明確な記述があった江川手引き印刷機》

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
社名の前の行に「●改良手引ハンド(八ページ・四ページ)製造販売」とある。
これは江川活版製造所が手引き式印刷機―アルビオン型?を
製造・販売をしていたことを想像させる記録であった

上記の図版は「 タイポグラフィあのねのね*008」にも紹介したものである。その際、キャプションとして、
「『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)。主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である」
とだけ紹介した。ここでのやつがれは、ついつい江川行書のインパクトに引きずられて、活字印象だけをかたっていた。すなわち江川行書活字は、明治初期のひとびとのあいだに、まだ、篆書・隷書・行書・草書・楷書などの読み書きの素養があった時代に誕生した、きわめて勁烈な筆運びの活字書体である。すべからく、活字書体や書風とは、時代の風や空気を背景として誕生する。その見本のような活字書体が江川行書活字であった。したがって現代の視点では、むしろその勁烈さゆえに、あまりに強すぎる活字書体とみられていた。

しかもそれを実際にテキストとして読もうとすると、行書活字はともかく、それに組み合わされた仮名書体、なかんずくひら仮名異体字(変形仮名)の読み取りに苦労することになり、活字印象派の諸君のように、活字の影印印象だけをかたって、その記述内容の紹介は誤謬をおそれておろそかにした。そこで今回は引用図版から、誤謬をおそれず、ひら仮名交じりの現代文に直しながら全文を紹介しよう。

諸賢のますますのご清適を賀し奉りそうろう。さて、拙者製造の行書活字は、発売以来ことのほかご好評をこうむり、需要日に増加し、業務繁栄におもむき千万センバン、ありがたく謝し奉りそうろう。そもそも右行書活字の義は、筆力遒勁シュウ-ケイ、トテモ-ツヨイ、おのずから雅致あるをもって、これまではおもに名刺に用いられ、大いに江湖コウコ、セケンの喝采を博し、石版[印刷]よりも尚鮮美なりとの高評を辱ふせられそうろうところ、右は独り名刺のみならず、書籍そのほか広告文などに御用いになられることそうらはば、更に美妙に之あるべくそうろう間、多少を論ぜず陸続倍旧ご注文仰せ付けくださるよう希望奉りそうろう              敬 白

追白 右行書活字の義は、拙者種々シュジュの困苦を嘗め、経験を積み、莫大の資本を費やし、明治20年の頃より活字母型製造に着手し、ようやく発売の運びに至りそうろう処、昨今大坂地方にて右に類似の活字を製造販売致し居りそうろう者之有り趣オモムキにそうらえども、右はみずから巧拙、良否の区別之有り。拙者製造のものとは、大いに相違致しおりそうろうあいだ、御購求の際は呉々もご注意然るべしと存じ奉りそうろう也
●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売
東京日本橋区長谷川町
江  川  活  版  製  造  所
大坂東区本町二丁目堺筋
東 京 江 川 支 店 朝 日 堂

やつがれは恥ずかしいことに、この江川活版製造所の広告を何度も見ていながら、そこに、
「●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売」
とある、重要な記録を見落としていた。すなわちタイポグラフィを総合技芸として把握する努力を怠っていたことを猛省させられた。もしかするとこの手引ハンドとは、ハワイのマノア・プレスに現存する「江川アルビオン型活字版印刷機ハンドプレス」のことであることも想像された。

また手引きハンドプレスのチェース、すなわち印刷版の収納サイズをあらわす、八ページはB3判ほど、四ページはB4判ほど、とおもってよいだろう。ここでの手引き印刷機とは、現代の事務用コピー複写機程度のちいさな印刷機だったとみてよい。
ただし、後述する『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)に紹介された、江川活版製造所における活版印刷機関連の記述をみると、同所は明治24年(1891)には、まだ活版印刷機を製造する態勢を築いていたとはおもえない内容である。推測ではあるが、活字の供給と同様に、すでに同型機を製造・販売していたことが、さまざまな資料から類推される、東京築地活版製造所から、現在のOEMのような状態で供給を得た可能性のほうが大きいとみたい。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。

また、マノア・プレスのジェームス・ランフォード氏は、ハワイの同型機を1900年ころの製造としている。そうすると三谷幸吉の紹介する本林機械製作所の製造によるものである可能性があることになる。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』
(平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)
本書は平野富二の旧蔵書で、ところどころに自筆の鉛筆の書き込みがみられる。
関東大地震で消火の水をかぶったが、なんとか修復してある。
管窺に入る限り、本邦唯一本である。

同書口絵ページ、板目木版印刷
看板の商号は「長崎新塾出張 活版製造所」であり、同社には最初から最末期まで
長崎の「新街私塾から出張ってきた活版製造所」との意識があった。

同書小扉ページ 金属活字を円弧に組版するのは、昔も今も相当の技倆を必要とする。
MOTOGI & HIRANO 両氏の名前を強調している。住所は Tsukiji Tokio. Japan である。

同書本扉ページ 活字版多色刷り印刷。
平野富二の東京進出から6年ほどだが、19世紀のタイポグラフィに特有の
一行ごとに書体と刷り色をかえるなど、
高度な組版・印刷技術である。

同書「第初號」とされた、木活字による初号明朝体。
まだ鋳造技術が未熟で、大型活字のツラに「ヒケ、オチョコ」の発生を防げず、
初号・一号は木活字を使用していた。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

平野富二と東京築地活版製造所が明治10年ころから
アルビオン型手引き印刷機を意識し、
それを摸倣して製造? していたことをうかがわせる図版。
この図版とほぼ同一の、同社製のアルビオン型手引き印刷機は、現在でも
長崎印刷工業組合、水野プリテック、府中歴史博物館などに現存する。

欧文活字収納用ケース

木製部材と金属を併用したプレス機。

《江川活版製造所の印刷機械製造の記録》
ここでふたたび『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)「行書体活字の創製者 江川次之進氏――敏捷奇抜の商才で成功す――」から、活字鋳造と、大坂方面における「種字盗り」の記録、印刷機の製造・販売に関する記録の部分を紹介しよう。

明治十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞! 情報提供]に改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

ここで、真田幸文堂から提供いただいた、江川活版製造所の印刷機に関する新資料を紹介したい。この記録は明治の末、上野池之端で大々的に開催された「東京博覧会」の記録である。ここには江川活版製造所の活版印刷機の写真が、不鮮明ながら石版印刷で紹介されている。
また江川長体明朝の数少ない資料として『印刷世界』から、活字広告を紹介しよう。このような埋もれていた記録が、これからも陸続と紹介できそうで楽しみなことである。また、板倉雅宣氏は2003年ころより手引き印刷機の所蔵先の調査をされている。この本格的な発表もまたれるいまである。

「江川の印刷機械と國華社の美術木版」『東京博覧会大画報』
(第6巻第3号 冨山房 明治40年 真田幸文堂蔵)

江川印刷機械所主・江川次之進氏は、明治16年斯業シギョウを創立し、独立独行幾多の困厄と奮闘して、爾来ジライ20有余年。この間幾多の改良を加え、以て製造に注意せる結果、今や江湖の信用最も厚く、内地は勿論、支邦、朝鮮などにまで分工場を起こし、業務日に月に益々隆盛に趣きつつあり。上図はすなわち出品の機械類なるが、上は足踏みロール印刷機械、下は新型のロール印刷機械なり。(以下國華社分 紹介略)

The Yegawa Type Foundry の雑誌広告 江川長体明朝の管窺にいるかぎり唯一の資料。
『印刷世界』(第2巻第1号 明治44年1月0日 佐藤タイポグラフィ研究所蔵)
「各種活字 印刷機械 附属品一式」――二号江川行書 行間二分
「本文:弊所は明治十六年の創業~」――五号江川長体明朝 行間二分

花こよみ 012

花こよみ 012

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

    花たちばな 二首 

風に散る 花たちばなを 手にうけて
君がみためと おもひつるかな

―― 万葉集異体歌 山部赤人集 所収 よみしひとをしらず

五月待つ 花たちばなの 香をかげば
昔のひとの 袖の香ぞする

―― 古今集 よみしひとをしらず

タイポグラフィあのねのね*009 活字ステガナ、ナミガナ、促音、拗音

活字《捨て仮名》《並み仮名》は様々な名称で呼ばれる!
捨て仮名派・半音派・促音派・寄せ仮名派・拗促音派?・無名派!
あなたは促音・拗音の仮名文字活字をどう呼びますか?

《促音・拗音・撥音と「捨て仮名」活字》
ここでは別に、国語表記論や、音韻論を展開しようというものではない。タイポグラフィの実践の現場で、日日処理をせまられる事柄を検証してみただけである。すなわち、ながらく筆者は、なんの疑いもなく、促音・拗音をあらわす「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」など、小さなサイズの仮名文字活字のことを「捨て仮名」と呼び、そのほかの、ふつうの大きさの仮名文字活字を「並み仮名、乃至ナイシは まれに、直音チョク-オン仮名」と呼んできた。ところが先般イベントの打ち合わせ中に、写植活字からスタートした活字書体設計者(50代後半かな?)に、「カタシオさん、どうして拗促音ヨウ-ソク-オンのことを、捨て仮名というんですか?」と、かなり強い口調で質問(詰問?)を受けた。

同席していたほかの書体ベンダーのかた(50代かな?。写植世代人)に「アレッ、オタクでは促音や拗音の活字のことを捨て仮名っていわない?」と問うと、「ウチでも拗促音です」といわれた。前者はさらにことばを継いで「捨て仮名っていわれると、なにか拗促音を軽視されているような気がする」ともいわれた。もちろん筆者は「捨て仮名」活字を軽視するわけではないし、促音・拗音・撥音ハツ-オン(日本語の語中または語尾にあって、1音節をなす音。ひら仮名では「ん」、カタ仮名では「ン」であらわす)のことはひととおり知っているつもりだったが、「拗促音」なるチョイと便利そうな合成語? は知らなかったので、奇異におもった。

ちなみに「拗促音」は『広辞苑』(申し訳ない。主として電子辞書第4版を使用している)にも、印刷業界の用語集『印刷事典』(第5版 日本印刷学会 印刷朝陽会 平成14年1月7日)にも紹介されていない。そしてTさんやIさんが辛い評価をくだした「捨て仮名」は、両書にしっかりと紹介されていた。少し退屈かもしれないが、まず国語辞書や印刷業界の用語集では、これらのことばをどう扱っているのか見て欲しい。

そく-おん【促音】――広辞苑(第4版)
語中にあって次の音節の初めの子音と同じ調音の構えで中止的破裂または摩擦をなし、一音節をなすもの。「もっぱら」「さっき」のように「っ」で表す。また、感動詞「あっ」「っ」で表す音のように、語末で急に呼気をとめて発するものにもいう。つまる音。つめる音。促声。

よう-おん【拗音】――広辞苑(第4版)
(「拗」は、ねじれる意)〔言〕
国語のア〔a〕ウ〔u〕オ〔o〕の母音の前に半母音〔j〕を伴った子音が添っている音節。「や」「ゆ」「よ」の仮名を他の仮名の下に添えて表し(現在は一般に小さく書く)一音節をなす。すなわち「きゃ〔kja〕」「きゅ〔kju〕」「きょ〔kjo〕」、その他「ぎ」「し」「じ」「ち」「に」「ひ」「び」「ぴ」「み」「り」に「や」「ゆ」「よ」が添うもの。開拗音。
「か」「が」「け」「げ」の子音と母音との間に〔w〕の音の挿入された音節。「くゎ〔kwa〕」「ぐゎ〔gwa〕」「くゑ〔kwe〕」「ぐゑ〔gwe〕」。現在は、方言に「くゎ」「ぐゎ」が残るのみ。合拗音 ⇄ 直音

よう-そく-おん【拗促音】――広辞苑(第4版)
記載なし
そくおん  促音/ようおん 拗音/ようそくおん 拗促音―-印刷事典(第5版)
記載なし

すて-がな【捨て仮名】――『広辞苑』(第4版)[傍線筆者。以下同じ]
① 漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
② 促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。
すてがな 捨て仮名―――『印刷事典』(第5版
一般に半音と呼んでいる拗ヨウ音、促音のこと。縦組みは右横付き、横組みは下付きに鋳込まれる。

はん-おん【半音】――『広辞苑』(第4版)
〔音〕[音楽用語の解説のみ。以下略]
はんおん 半音―――――『印刷事典』(第5版)
記載なし

ちょく-おん【直音】――『広辞苑』(第4版)
日本語の音節の一種。拗音・促音以外の音。1音節が、かな1字で表される音。
ちょくおん-ひょうき【直音表記】――『広辞苑』(第4版)
拗音に撥音されたと考えられる漢字音を、直音のかなで表記すること。シャ(者)・シュ(主)・ショ(所)を、サ・ス・ソと書く類。
ちょくおん 直音/ちょくおんひょうき  直音表記―――――『印刷事典』(第5版)
記載なし

★     ★     ★

造本と印刷』(山岡勤七 印刷学会出版部 昭和23年1月25日)
敗戦直後で書物が少ない時代にあって、本書は出版・印刷人が争って求めたとされる。本文用両仮名活字は凸版印刷勤務時代のミキ イサムによる「横組み用9ポイント新刻仮名活字」で、本書にのみ使用例をみるもので、原資料・活字母型・活字は保存されていないとされる(凸版印刷談)。装幀:原 弘





『造本と印刷』第六章:当用漢字・新かなづかい、68項:新かなづかい(現代かなづかい)について――は、昭和21年9月、国語審議会の答申に基づき、内閣訓令、告示により「現代かなづかい」と「当用漢字表」が公布されたのをうけてしるされている。p84第9. ヨウ音をあらわすには、ヤ、ユ、ヨを用い、なるべく右下に小さく書く。第10. ソク音をあらわすには、ツを用い、なるべく右下に小さく書く。――とある。ここには正式な名称は与えられていないし、なるべく……など、あいまいな記述が目立つ。この文部科学省のあいまいな姿勢は「現代仮名遣い」昭和61年7月1日 内閣告示 にも継承されて現在にいたっている。

ここまで調べてきて、どうやら明治からの文部省・文部科学省が、促音と拗音を表記する、仮名文字活字の名称とその定義を明確にしてこなかったために、民間で混乱がおこっているらしいことに気づいた。これについては、いずれ明治からの仮名遣いに関する公文書を紹介して整理したい。それでも気になって、あれこれ調べることになった。冒頭に掲げたように、『広辞苑』では「捨て仮名」はしっかり紹介されていた。もちろん『広辞苑』がすべてのことばを包含・包摂するわけではないが、すくなくとも小社では、現代通行文として「芝居を観て、感動して家にもどつた」としるせば、「つ」の部分に、横組みなら「」、縦組みなら「」のような校正記号で朱記がはいるか、あるいは「つ」に丸記号がしるされ、そこから枝のように伸びた修整指示として「捨て仮名にカエ」、あるいは単に「ステ」という指示が入ることになる。その逆に、歴史的仮名遣いなどでは「芝居を観て、感動して家にもどった」とあれば、前記と同様の記号とともに、「並み仮名にカエ」、あるいは単に「ナミ」という指示が入る。すなわち「捨て仮名活字 ≒ 促音・拗音をあらわす小さなサイズの仮名活字」と「並み仮名活字・直音仮名活字 ≒ ふつうのサイズの仮名活字」のふたつのことばはセットでもちいられる。したがって「拗促音にカエ」などの指示はしたことはないし、これが当たり前だとおもっていた。そこで簡単な調査であったが、近接業界のひとに直接取材した。

★     ★     ★

「捨て仮名活字」派は、比較的高齢な出版人・編集者・校閲者に多い。また、活版印刷時代からの歴史を有する書籍印刷所では、いまでもふつうにもちいられている。これらの職業人は、ほぼ全員が「捨て仮名/並み仮名・直音仮名」という、サイズの異なる仮名活字を意識して併用していた。また、このグループのひとたちは、「促音」「半音」「寄せ仮名」も理解していたが、通常「捨て仮名」が第一位で、相手によって「促音」をつかいわけるとした。またおひとり「一部で『拗促音』というが、促音と拗音は明確に異なるから、安易な合成語は疑問。しかも『拗促音』は、字音(読み)を表すが、意味範疇が活字の形象に及んでいないから意識して使わない」とするひと(学生時代は音韻論を専攻)もみられた。

金属活字業者・活版印刷業者・オフセット平版印刷業者は「半音ハン-オン仮名活字」派が圧倒的多数派。ほかにも「小仮名活字・寄せ字・寄せ仮名活字・捨て仮名活字・促音活字」などと、実にさまざまな呼称をもちいている。 ここで印刷業界の業界用語集『印刷事典』を再度紹介する。
すてがな 捨て仮名―――印刷事典(第5版)
一般に半音と呼んでいる拗ヨウ音、促音のこと。縦組みは右横付き、横組みは下付きに鋳込まれる。
この『印刷事典』にあるように、印刷業界ではいまでも「促音・拗音[にもちいる仮名活字]を、一般に半音 乃至ナイシは 半音仮名活字と呼んでいる。また促音「っ」を吃音キツオンとしたり、「ぁぃぅぇぉァィゥェォ」の文字列を「半母音ハン-ボ-イン、ハン-ボ-オン」とする例もみられた。また「半音」にたいして「直音・全角」があり、「五号明朝の半音活字の『っ』と、直音(全角)の『つ』の仮名活字」のようにつかいわけていた。校正指示記号や金属活字の発注にあたっては、「半音/直音(全角)」と表記すればこと足りる。この金属活字を使用するグループの標本数は8例と少ないが、現在はオフセット平版印刷に転じているものの、社内に組版部を有する中規模の書籍印刷所5社も同様の傾向をしめした。都合16例のうち2例をのぞき「拗促音」は理解されない。

写植活字時代になると、どこかの写植メーカーがそう呼称したのか、比較的高齢者の写植業界人や、周辺のグラフィックデザイナーを中心に、「拗促音」派が存在する。 写植世代といえるかどうか、おおむね45歳-団塊世代 60代前半の、かつて文字組版として写植活字を主にもちいていた層、ないしは、商業印刷のデザインが中心だったグラフィックデザイナーの比較的高齢者の一部が、促音と拗音をつづめて「拗促音」ということがわかった。この「拗促音」と呼ぶひとたちに特徴的なのは、たれも「拗促音活字」とはいわなかったことである。すなわちこれ(拗促音)が字音をあらわすだけで、文字形象には及ばないことを理解していないようであった。また「捨て仮名/並み仮名」「半音仮名活字/直音仮名活字・全角仮名活字」といった対語を「拗促音」は持たず、「仙台にいった」の文例から、「っ 」は、すみやかに「拗促音」と答えるが、「仙台にい○た」のほかの仮名部分の名称をもたず、「う~ん、ふつうの仮名かな」「こういったふつうの仮名に名前なんてあるの」という答えがおおかった。「最近では、拗促音だと、クライアントやスタッフとコミュニケーションがとれないから、できるだけ促音といっている」という例もあった。また、このグループに顕著だったのは「歴史的仮名遣い」への理解と経験の不足であった。

いました!「無呼称・無名」派。20-30代のDTP世代に意外と多くいる! 驚いてはいけない。パソコンの登場期以後の若い世代に「仙台にいった」の文例をみせて、「っ」の名称を聞いたところ、「こういうのって、なにか名前なんてあるんですか?」、「う~ん、小さな つ かな?」という答えが多かった。なかには「Xのキーボードを押して、 TU を入力すると出る字」、「いや、L のキーを押してから、TUのほうが楽だよ」「KYA, KYU, KYO でも きゃ、きゅ、きょ がでてくるし……」。パーソナル・コンピュータと、ワード・プロセッシング・ソフトウェアという便利な道具をはじめから獲得していた世代にとっては、まれに「ボスが時々促音とかっていっています」程度の関心しかないようである。つまり、かれらは手段・方法だけをかたっていた。この世代人にとっては、捨て仮名と並み仮名を差異化して処理する必要に迫られたことがないのであろうか。こうしたひとはウェヴ・デザイナーやDTPデザイナーに多くみられたので、将来の国語表記に漠然とした不安をいだかせた。まことにやれやれであった。されど、きちっと体系立ててこの国のタイポグラフィの基盤を構築してこなかった責任を感ずるものの、目下のところ唖然とするばかりでなにもいうこと無し。諸君の未来に幸多かれと祈るばかりである。次回は、江戸中期から平成の世までの「促音と拗音の仮名活字表記の歴史」を検証したい。

花こよみ 011

花こよみ 011

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく

  ふるさとの夜に寄す

 やさしいひとらよ  たづねるな!
―― なにをおまへはして来たかと 私に
やすみなく 忘れすてねばならない
そそぎこめ すべてを 夜に……

 いまは 嘆きも 叫びも ささやきも
暗い碧ミドリの闇のなかに
私のためには 花となれ!
咲くやうに ひほふやうに

 この世の花のあるやうに
手を濡らした真白い雫のちるやうに――
忘れよ ひとよ……ただ! しばし

 とほくあれ 限り知らない悲しみよ にくしみよ……
ああ帰つて来た 私の横たはるほとりには
花のみ 白く咲いてあれ! 幼かつた日のやうに

   立原道造(1914-39 24歳数ヶ月で夭逝した詩人・建築家・造形家)

朗文堂-好日録 009 2011年3月11日、宮澤賢治と活字ピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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あの日のこと、そして
たかが……、されど、貴重なピンセッ

メディア・リテラシー   久しぶりに「朗文堂-好日録」をしるしている。期末・期首で忙しかったせいもあるが、やはり平成23年(2011)3月11日[金]14時46分、あの大地震と災害の凄まじさで、筆 モトイ キーボードが重かった。あの日、あの時、やつがれは遅い昼食を摂ろうと、まさにコンビニおにぎりを開封しようとしていた。この作業がいつもうまくいかず、包材が破れて海苔がのこるのが口惜しいので、きわめて慎重、かつ、きわめて丁寧に剥離の作業に一心不乱、熱中している最中、第一撃がドカンときた。続いてユッサユッサとおおきな揺れが続き、これはでかいぞとおもった。続いて第二撃がおそった。不安定だった書棚の書物が崩れるのを、おにぎりを持ったまま呆然とみた。どこのビルもエレベーターが自動停止して、非常階段が叫び声であふれた。みんなが口々に「逃げろ、逃げろ! 早く新宿御苑に避難しろ」と叫んでいた。第3撃がきたとき、吾輩は[取りあえず、主震よりでかい余震はないからな……]と開き直って、椅子にかけて大好物の「昆布おにぎり」を食べていた。しばらくして新宿御苑の避難から戻った社員にあきれられた。

¶ もともと小社にはテレビが無い。今回わかったことだが、社員私物のラジオが1台あるだけである。それでも今回の地震では、全員が帰宅困難者になったので、ラジオ、Websiteの動画、新聞社や私鉄のデジタル情報が役にたった。情報は東北で地震があったことを伝えるだけで、詳細はまったく不明。むしろヘリコプターが乱舞して、九段会館の天井が落下して死傷者がでていることと、千葉県の燃料タンクの炎上を伝えていただけだった。すでに携帯電話が通話できなくなって、かろうじて固定電話だけが時折通ずる状態になっていた。ネットの情報は、おびただしい流言飛語リュウゲン-ヒゴが飛びかい、片言隻語ヘンゲン-セキゴで埋めつくされていた。あの日の夜、新宿の通りは徒歩で帰宅するひとびとであふれかえった。ほとんどたれも東北の大惨事をまだ知らず、まして原子力発電所の非常事態も知らずに、ひたすら帰宅の道を急いだ。通信網が砕け散ったとき、高度情報化時代の「情報」とは、こんな脆弱ゼイジャクさを内包している。

¶ ところで、メディア・リテラシー(media literacy)である。昨春まで大学で情報学を教えていたので一応専門領域である。メディア・リテラシーを簡略に述べると、情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のことである。すなわち「情報を評価・識別する能力」ともいえる。あの日、携帯電話と固定電話が不通になり、パソコンの電源が落ちた被災地からの肝心な情報はまったく届かず、現代の電子メディアはほとんど無能となる醜態をさらけだした。あの日からしばらくして、吾輩はテレビをほとんど観ないことにした。断片的で、根拠不明の情報が多く、また疲れるし、重い気分になるだけだった。別に忌避したわけではなく、テレビというメディアは、この段階ではまだ真相を伝えるにはいたっていないと判断したからである。それに代えて、定期購読の新聞のほかに、数紙を交互に購入するようにした。タイポグラファとしては、日頃見慣れていない新聞の活字書体には相当抵抗があったが、「情報」、とりわけ原子力発電所の情報に、かなりのバイアスがみられるとかんじたので、普段手にすることのない新聞も購入した。それを持ってロダンの椅子に腰をおろすことが多かった。

《災害は忘れたころにやってくる》 ――いいふるされたことわざである。なんの新鮮さもないが、それだけに重い。《災害は忘れたころにやってくる》。それで十分だ。あの日のことを、想定外であり、未曾有ミゾウな事象などとメディアは盛んに記述する。[本当にそうだろうか……]と、あの日以来だいぶ滞在時間が長くなった「ロダンの椅子」に腰をおろしておもう。そもそも、なにゆえ想定外、未曾有な事象!? などという(まともに読めないひとがいることが自明な)、にわか漢語、はやりことばをもちいるのだとおもう。敗戦を終戦とし、占領軍を進駐軍、事故を事象とするなど、わが国では一朝ことあると、漢語の森(中国の傘のもと)に逃げ込む悪癖がみられる。「想像もできなかった」「かつて無いできごと」ではいけないのだろうか。

¶ すこし時計をもどそう。平成7年(1995)1月17日、あの日はひどく寒かった。中国から戻ったばかりで忙しく、徹夜明けで、近くにあった《夜明けから、日没まで営業》という、いっぷう変わった店で夜明けの珈琲を飲んでいた。午前5時46分、早暁のなかでガツンという衝撃があった。老店主はすぐさま古ぼけたテレビのスイッチを入れた。「関西地方で地震が発生」という速報に続き、「京都の三十三間堂で仏像が倒壊した」という、あとからおもえば、いささかピントのずれた第2報のテロップが流れた。震源地であり、最大の被害を受けた、神戸のコの字もなかった。おそらく大阪・神戸への通信回路は壊滅しており、京都までの情報しか「エヌ-エイチ-ケイ」でも入手できなかったのであろう。この地震はのちに「阪神・淡路大震災」と名づけられた。京都での被害は軽微だったので、「京阪神」とは名づけられなかった。

¶  ふたたびあの日。あの日以来、「テラ、シーベルト、ベクレル」などの、さまざまな単位語やテクニカル・タームを覚えさせられた。テラ(tera)はギリシア語で「怪物」の意の teras から派生したことばで、一兆の一万倍をあらわす単位の接頭語で、漢字であらわすと「京 ケイ」である。いったい幾つ 0ゼロ が並ぶとテラなる怪物を表示できるのだろうか。また、最初のうちはマイクロ・シーベルトなどといっていた。それが、いつのまにかミリの単位に変わって、ミリ・シーベルトといっていた……。小数点以下の0ゼロが随分とれてしまっていた。

¶ ところで、活字を扱っていると、すこし高額だが「マイクロ・ゲージ」が必要となる。マイクロは「微少」の意のギリシア語 mikros から派生したことばで、百万分の一(10―6)を表す単位の接頭語であり、ミクロとも呼ばれ、記号はμである。すなわち吾輩も正確を期して活字計測にマイクロ・ゲージを用いることがある。金属活字ではマイクロの単位は容易に可視化しないが、ミリの単位なら、100円ショップで売っている定規で事足りるし、視覚でも触覚でも判別できる。すなわち原子力発電所と放射能汚染に関して、桁違いの話しを平然とした表情ではなされても、門外漢にとっては困ってしまう。しかもその門外漢のど素人たる吾輩は、原子物理学になど興味もないし、知りたくもない。ただ安全であることだけを願って、ことの推移を「情報」から知ろうとしただけだ。

¶  あの日の地震は、最初のうちは気象庁の発表によって「東北地方太平洋沖地震」と呼んでいた。メディアもそれに倣っていたが、いつのまにか内閣府によって「東日本大震災」と名称がかわったようである。ことばにこだわっても収穫が少ないが、「地震と、それによる災害」を省略して、「震災」と生活語で呼ぶ分には問題はなかろう。しかしながら、歴史をかたるための正式呼称としては若干の疑問がある。あの日の地震はおおきな津波を伴い、万余の犠牲者をみた。これは先例もある地震と津波によるあきらかな天災。ただし一部から危険を指摘(想定されていた)原子力発電所の暴走は、情報のバリアーが徐々に外され、もうたれもが知ってしまったように、危険性を軽視し、警告を無視し、事故を事象などといいかえて判断ミスを重ねたことによる、あきらかなる人災であろう。

¶ すなわち地震と津波による天災と、トリガーをひいたのは津波とはいえ、原子力発電所がもたらす大災害は、チェルノブイリやスリーマイル島の先行事例もあって、想定外とは許されないできごとであろう。むしろ十分に想定可能で、かつ、事故への適切な対処が可能な事象!? であろう。すなわち原子力発電所がもたらした人災を、「震災」という合成語でなにもかもをひとくくりにすると、今後の復旧・再生・補償に齟齬ソゴをきたさないかと不安を覚える。ひとがつくった「原子力発電所、略して原発」という怪物が、ひとの手に負えない大暴走を繰りかえし、それこそ「未曾有――いまだ曾カツて起こったことがないこと」の悲劇をもたらした。また、いまはかたずをのんで静観するしかないが、これから数十年にわたって、放射能汚染という可視化できない化け物によって、不安と危惧をもたらし続けることが明らかにされたいまである。素朴におもう。地震と津波による天災と、原子力発電所の制御不能事態という人災は峻別すべきではなかろうか。

¶  あの日、幸い小社では被害というほどの損傷はなかった。しかし通信網・交通網が復旧するのにつれて、次第に身内にも犠牲者がでていたことを知った。やつがれの妹の亭主は仙台の出身である。その義弟の姉(血縁ではないが一応親戚だ)が激甚被災地で犠牲となった。ようやく遺躰は発見されたが、火葬ができなくて土葬にふされた。仮葬儀に駆けつけた妹は、「ともかく凄いことになっている。テレビじゃとても伝わらない、凄惨なことになっていた」と嗚咽をこらえて報告した。被災地の友人・知人に架電すると明るく笑うが、少なからず身内や友人に犠牲者をかかえている。あの日から四十九日忌をむかえるいま、あらためて「東日本全域を襲った、地震と津波の災害」によって犠牲となられたかたがたのご冥福を祈りたい。そして天災と人災によるすべての被災地の皆さまに、心からのエールを送りたい。

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苦労しています。活版用ピンセット 活版印刷材料商がほぼ転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezers  Pincet」は入手難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月11日)

みた目は医療用やデザイン用に用いるピンセットと類似するが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。活字版印刷(活版)のよき再生をめざしたアダナ・プレス倶楽部の発足時には、さまざまな障壁があった。活版はここ40年ほど、ゆるやかな衰退を続け、なかんづく平成の時代になってからは業務としての活版印刷は急激な凋落をみていた。その技芸を壊滅させることなく、あたらしい時代のユーザーを得て、「再生・ルネサンス」をめざそうとした。いまとなれば笑って話せるが、「活版用ピンセット」には苦労が多かった。その在庫を探したが、どこにもなく、新規発注だと500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、「活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」との店主からの架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶  しばらくして、最低でも50本はあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度を持っていた。朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一のままである。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶  文豪・宮澤賢治に苦情をいうわけではないが……  活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解していることが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットは使わない。Websiteでも 《活版印刷今昔01》 の執筆者は、文選作業でのピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのようである。すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層にも多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。ここで『新編 銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは数十年にわたって、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ており、没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。本書は『新修 宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた(ただし、同文庫の編集方針により、仮名遣いは新仮名遣いになっている)書物といえる(天沢退二郎)。この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある。(アンダーラインは筆者による

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

¶ 『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたった大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して一部から顰蹙をかったことがあった。また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかたも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、おそらく「文選箱」であろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。「たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込むと」とある。これも、「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選のために立ったのであろう。ふつう文選作業にあたって、最下部に配される「外字」「ドロボー・無室」ケースの採字以外は、しゃがみこむことはあまりない。

¶ ついに問題の箇所である。ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う。ピンセットをもちいると、軟らかな活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられた。落下した活字は、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box」に活字を投げ入れた。この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無かったと推測される。また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの問題点を謙虚に、そしてひそかに指摘したとおもわれる。「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。

¶ 2011年4月28日 二黒 仏滅 癸 丑 あの日から四十九日忌にあたり、泪のような雨が降りそそぐ。肌寒し。

花こよみ 010

花こよみ 010

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 菜 の 花 や 月 は 東 に 日 は 西 に

                                  与謝野蕪村(1716-1783)

タイポグラフィあのねのね*006 「てにをは」、「ヲコト点」

「てにをは」と「ヲコト点」

タイポグラファなら、文章作法の初歩として、「てにをは が 合わない」とされるのはまずいことぐらいは知っている。ところがこの漢文訓読法――漢字に日本語をあてて読むこと――の「(隠された)記号」ともいえる「てにをは」とはなにか、を知ることは少ない。そもそも漢文そのものに触れることが少なくなった現代においては、「てにをは」を、「弖爾乎波、天爾遠波」のように漢字表記しようとすると、結構苦労することになる。もちろんふつうのワープロ・ソフトでは変換してくれない。しかも歴史上、漢文の訓読は、諸流・諸家によって微妙にことなり、また、それぞれの漢文の訓読法をながらく秘伝としていたからより一層やっかいである。

「てにをは」を知るためには、すこし面倒だが「ヲコト点 乎古止点」を知ると容易に理解できる。ここからは『広辞苑 第4版』を案内役としたい。ただし、同書電子辞書をもちいると、第5版をふくめ、ほとんどの電子辞書には図版がないために、理解しにくくなる。ここは面倒でも重い紙の『広辞苑』の出番となる。

また文献としては、『てにをはの研究 日本文法』(広池千九郞 ヒロイケ-セン-クロウ 1866-1938 早稲田大学出版部 明治39年12月 国立国会図書館 請求記号YMD78491)がある。Website情報で簡便に知りたければ、松本淳氏の「日本漢文へのいざない」 が平易でわかりやすく説いている。

以下に〔乎古止点〕の図版を2点紹介する。下図1はポイントを点(ドット)であらわしており、上部右肩を上から順によむと「ヲコト」となり、「ヲコト点、乎古止点」の語源となったものである。

下図2はポイントを横棒(バー)であらわしている。このうちのいくつかは、のちに紹介する、いわゆる「カタ仮名合字」の元となったと考えられる。

を-こと-てん【乎古止点】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家点 ハカセ-ケ-テン では、「引」の左下の隅に点があれば「引きて」と読み、左上の隅に点があれば「引くに」のたぐいとなる。したがって「ヲコト点、乎古止点」とは、図に表した右上の2点をとって名づけられた。なお漢字の「乎古止」は、「ヲコト」の万葉仮名表記である。

て-に-を-は【弖爾乎波、天爾遠波】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家 ハカセ-ケ がもちいた「ヲコト点」の四隅の点を、左下から時計回りに順に「てにをは」と読んだことに由来する名称。

花こよみ*009

花こよみ 009

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
まして、原子力発電所の暴走にオロオロするだけの今においてをや。

雨ニモマケズ

宮澤賢治(1896―1933)
改行と文節の一部に手を加え、一部にふり仮名を付した。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモ マケヌ
丈夫ナ カラダヲ モチ
慾ハナク 決シテ 瞋イカラズ
イツモ シヅカニ ワラッテヰル
一日ニ 玄米四合ト 味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲ カンジョウニ 入レズニ
ヨクミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ 病気ノ コドモアレバ 行ッテ 看病シテヤリ
西ニ ツカレタ母アレバ 行ッテ ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ 死ニサウナ 人アレバ
行ッテ コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ ケンクヮヤ ソショウガアレバ
ツマラナイカラ ヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ ナミダヲ ナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

長音符「ー」は、「引」の旁ツクリからつくられた
『太陽窮理了解説』和解草稿2冊
『日本の近代活字』――「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の補遺として

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』
(発行:近代印刷活字文化保存会、 2003年11月7日)

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(発行:近代印刷活字文化保存会、発売:朗文堂 2003年11月7日 版元在庫品切れ)がある。この書物は「本木昌造・活字復元プロジェクト」の一環として編纂された。

「本木昌造・活字復元プロジェクト」――肩書きはいずれも当時のもの
主 唱:本木昌造顕彰会(会長・内田信康)/株式会社モリサワ(会長・森澤嘉昭)/印刷博物館/全日本印刷工業組合連合会(会長・中村守利)
編纂委員会:委員長・樺山紘一(国立西洋美術館長)
委員:板倉雅宣(印刷文化研究家)、片塩二朗(タイポグラファ)、小塚昌彦(タイプデザインディレクター)、小宮山博史(佐藤タイポグラフィ研究所代表)、鈴木広光(奈良女子大学助教授)、府川充男(築地電子活版代表)、高橋律男(株式会社アルシーヴ社)

編著者:『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』編纂委員会
発 行:NPO法人 近代印刷活字文化保存会
発 売:株式会社 朗 文 堂
発売日:2003年11月7日

稿者(片塩二朗)はその編纂委員会のメンバーであり、「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」(p286-331)の章を執筆した。
いいわけめいて恐縮だが、この書物のツメの段階にあたって、筆者は病を得て病床にあった。元を正せば永年の不摂生がたたったのだろうが、2002年9月、残暑がとりわけ厳しい年だった。
このとき長崎の小さなビジネス・ホテルに滞在して、長崎県立図書館、長崎市立図書館、長崎市立博物館、長崎印刷工業組合、飽アクの浦近辺の立神ドッグほかの跡地、通称寺町通り近辺の「本木家の菩提寺:大光寺」、「西 道仙 ニシ-ドウセン の菩提寺:大音寺」、「矢次家 ヤツグ-ケ(平野富二の生家)の菩提寺:禅林寺」などを駈けまわっていた。

長崎の市街地は、海岸に沿ったほんのわずかな地域をのぞくと、平坦地はほとんど無い。市街地をちょっとでもはずれると、まるですり鉢からせりあがるように、凧合戦で知られる風頭山 カザ-ガシラ-ヤマ をはじめ、稲佐山 イナ-サ-ヤマ、星取山 ホシ-トリ-ヤマ などの急峻な山脈がいきなり迫る。それらの山山を総称して後山 ウシロ-ヤマ と呼ぶこともある。
寺町はそんな長崎の風頭山の山裾を巡って点在する。しかも、大音寺や禅林寺など、ほとんどの寺院の墓地は、山裾から頂上部にかけて這いあがるようにして存在する。したがってこれらの寺では、日頃から運動不足のわが身にとっては、墓参や調査というより、むしろ登山・登頂といったほうが似つかわしい難行になる。それを連日の残暑のなかで、登ったり降ったりを繰りかえしていた。

ともかく残暑の厳しい9月初旬であった。そんな「登山」を終えて、汗みずくになってホテルにもどり、シャワーも浴びず、エアコン冷房を最強にして、バタン・キュー状態でうたた寝をした。ところがビジネス・ホテルのちいさな部屋でエアコンは効きすぎた。おかげで一発で風邪をひき、それでもこりずにかけずり回っていたら、ひどい肺炎になって、帰京を長崎の医師に命じられた。それで緊急入院してから、院内感染を含むさまざまな病にとりつかれた。

これ以上、いいわけや「病気自慢」をしてもつまらない。病は2009年に手術を経て完治した(とおもっている)。ともかく振り返れば、不覚なことに、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』刊行の折、多くの関係者に多大な迷惑をかけながら、筆者は駒沢にある国立東京療養センター呼吸器科病棟に入院していた。
したがって「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の章は、スタッフがパソコンからデータを取り出して、編集を担ったアルシーヴ社にファイルを渡して進行した。校正紙は病床に届いたが、意識が混濁していてほとんど校正もできない状況にあった。当然この章だけがレイアウトも若干まとまりのないものとなったが、収集した資料は、できるだけほかの執筆者に利用していただくこととした。

ところで『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』のうち、拙著「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321に、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節がある。この紹介がまことに中途半端な紹介となって、刊行後に読者から何度かお問い合わせをいただいた。それがいつも気になっていた。

2010年7月、ようやく復調して、ぜひとも「近代活字版印刷術発祥の地・長崎」を訪問したいとする「活版カレッジ」の皆さんの、頼りはないがガイド役として、懐かしい長崎を訪れた。筆者にとっては、かねがね気になっていた「まどい星の翻訳と、音引きの制定者・本木良永」の再調査がかくれた目的でもあった。

長崎の本木昌造顕彰会の皆さんをはじめ、長崎史談会の皆さんも、8年余の空白をわすれさせる歓迎をしていただいて嬉しかった。ほんとうの同学・同好の士との邂逅とは心温まるものであった。また同書に「長崎と阿蘭陀通詞本木家 ─── 本木昌造のルーツ」の章(p240-269)を執筆された、元・長崎市立博物館館長/原田博二氏には、「長崎歴史文化博物館」に移行した資料「本木家文書」の閲覧許可の取得にたいへんご尽力いただいた。

ちなみに、グーグル検索エンジン(2011年3月9日調査)によると、「本木昌造 ── 82,400件」、「本木良永 ── 270,000件」となる。
2019年03月12日にも再調査を試みた。「本木昌造──21,000件、本木良永──20,800,000件」であった。本木昌造のヒット件数が大きく減少しているがその理由は判明しない。
タイポグラファのあいだでは、長崎のオランダ通詞として本木昌造がよくしられるが、じつはその曾祖父にあたる、本木良永が3倍強の数値でヒットすることにおどろく。本木良永は天文学関係者のあいだでは極めてよく知られた人物だったのである。しかもその本木良永が訳語を制定した「惑星 ── 訳出時にはマドヒホシとふり仮名がある」にいたっては、7,760,000件(2019年03月12日 37,600,000件)と、とてつもなく膨大な数にのぼる。

すなわち、タイポグラフィあのねのね*005は、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節の、補遺[もらし落とした事柄を、拾い補うこと。また、その補ったもの ── 広辞苑]である。

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『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記述

アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
カタ仮名の濁音を、〃のように、母字に2点を加えることと制定した。
カタ仮名の半濁音を、° のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
カタ仮名の促音を角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
長音符号(音引き)を、引の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借り(当て字)併記して表記した。

『太陽究理了解説 和解草稿』 凡例に相当するページ
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。惑星が紹介されている。
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

本木昌造の曾祖父にあたる本木良永 ヨシナガ/リョウエイ がしるした『太陽窮理了解説』和解 ワゲ 草稿上下2冊(翻訳の下書き書)がある。天文学の分野では「惑星 モドヒホシ/ワクセイ」をはじめて紹介した書物としてしばしば取り上げられる書物である。
かつては長崎市立博物館が所蔵していたが、現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている。200年以上前の、1792年(寛政4)にしるされた手稿であるが、そこには実子の本木昌左衛門によるヒレ紙(附箋)がある。本体ともども虫食いが激しいが、大意次のようにある。
「お役所に差しあげ置き品は、外にこれあり候とも、父御自筆なれば、大切に直し囲い置いた」

この翻訳はオランダ甲必丹 カピタン、すなわち阿蘭陀商館長が、天球儀と地球儀を長崎奉行に呈上したために、その用法を長崎奉行が本木良永に命じて記述させたものとされる。本草稿は太陽系に関する諸説の変遷を述べ、コペルニクスの地動説をもって終わっている〔原田博二〕。
また長崎学の古賀十二郎は、この原著を『Treatise on the Construction and Use of Globes』(George Adams 1766)に擬し、本木良永は同書のオランダ語版『通俗基礎太陽系天文学』(オランダ語の書名は不詳)から和訳したとする。

本木良永はこの翻訳にあたって、天文学の訳語とその記述法に困惑して、さまざまな工夫を凝らした。その結果が『太陽窮理了解説』和解草稿下巻の冒頭にみる「凡例風」の記録としてのこったわけである。本木良永は困難を乗りこえて翻訳を終え、1792年(寛政4)に『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』として、老中松平定信に献上したとされているが、本書はその草稿にあたる。

なお幕府献上本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、当時の幕府の施設「天文方」に託され、現在は国立天文台が所蔵すると一部で記録されている。そこで、今回国立天文台を訪れてマイクロ・フィッシュを取得したが、国立天文台所蔵資料は『太陽窮理了解説』和解草稿、すなわち現在の長崎歴史博物館所蔵資料からの大正期の写本であって、正本ではないことが判明した。また同天文台の所蔵書は下巻を欠いていた。
ただし『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』に関して、グーグル検索エンジンではフランス語と中国語? の2件の文献にヒットするので、どこかに正本が存在する可能性は否定できない。

『太陽窮理了解説』和解草稿の山下満津丈による写本(国立天文台蔵)

『太陽窮理了解説』の正本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、幕府天文方に献上されたものであるから、その機構の一部を継承した国立天文台(東京都三鷹市大沢2-21-1)に存在すると一部の記録にみる。そのために同所の所蔵書も調査してみたが、同所蔵書の巻末に「大正3年10月、長崎公園内長崎市役所仮庁舎ニテ 山下満津丈 識 シルス」とあり、その跋 バツ/アトガキ によると、国立天文台所蔵書は「正本」ではなく、長崎の『太陽窮理了解説』和解草稿(現長崎歴史q博物館蔵)の写本であるとしていた。
また同一ページ最終部に「東京天文台暦研究課」による小さな書き込みがあって、「昭和36年1月11日、東京本郷◯◯古書店より購入」とあり、ここで取りあげる「凡例」を含んだ、肝心の下巻は残念ながら発見できなかった。

◎『太陽窮理了解説』和解草稿にみる興味ぶかい記述

『太陽窮理了解説』和解草稿の原文はカタ仮名混じりであるが、若干意訳して紹介する。
ちなみに本木良永は西家から本木家に養子にはいった。曾孫にあたる本木昌造も、やはり他家(馬田家から・北島家からとする両説がある)から本木家に養子にはいったという、似た経歴がある。また本木良永は本木昌造に先立つこと89年前に誕生したが、文章は近代的で、曾孫・本木昌造よりはよほど平易である。ただ、図版で紹介したように、同書は虫食いがきわめてひどく、一部は判読によった。

プラネーテンということばはラテンの天文学用語なり。この語はオランダ語ドワールステルと通ず。ここに惑星 マドヒホシ と訳す。いまここにあるかと見れば、あそこにありて、天文学者が測量をなすに迷い惑へるによる。

また下巻の冒頭、「凡例風」の文中にこんな驚くこともしるしている。なお「算数文字別形」として例示された算用数字/アラビア数字は、金属活字をもちいており、印刷方式ではなく金属活字をもちいて捺印方式によってしるしたものとおもわれる。

算数文字別形
1 一  2 二  3 三  4 四  5 五  6 六  7 七  8 八  9 九  0 十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。かつカタ仮名の□以下数文字判読不能□新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字をあわせてしるすなり。

としている。すなわちカタ仮名に濁音記号と半濁音記号を設け、カタ仮名に促音を設け、カタ仮名の音引き・長音符としての記号「ー」をつくったのは、1793年ころ、長崎の本木仁太夫良永であったのである。また算用数字を明瞭な形象、おそらく印章と同様に捺印方式によったとみられるが、金属活字の影印をもちいて、1-0までを紹介している。

東京天文台蔵の写本で、山下満津丈はその跋バツ/アトガキに「此の書中のアルファベットは皆木版を用ゆ」と紹介しているが、現・長崎歴史文化博物館蔵書を都合4度実見した稿者は、算用数字を含むアルファベットのほとんどは、水性の墨のはじき具合、その影印からいって、木版(木活字)によるものではなく、金属活字による捺印であるとみなしたい。
また虫食いがひどい部分で判読は困難だが、「新字を為し」の部分からは、いわゆる「カタ仮名合字」も本木良永が制定した可能性も否定はできない。さらに「促呼する音声」とされた部分には、正確にいうなら、促音・拗音・撥音もみられるが、ここでは音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。

◎ 本木良永とは、どんな人物だったのか?

おもえば本木家歴代において、もっとも傑出した人物は本木仁太夫良永(モトギ-ジンダユウ-リョウエイ、ヨシナガトモ 1735-94 享保20-寛政7)かもしれない。本木系譜所引本木家系図には「本木仁太夫良永、永之進、幼名茂三郎、字士清、号 蘭皐ランコウ」[『日本の近代活字』では蘭皐-ランサイとルビをふったが、お詫びして訂正したい]とある。

西家の出で、西松仙の三男。14歳にして本木仁太夫良固の女婿となり、稽古通詞からはじめで大通詞になった。阿蘭陀通詞本木家のひとではあったが、このひとは通詞の実務家というよりは、学者であり研究者であった。
おもな訳書に『平天儀用法』1774年、『天地二球用法』1774年、『渾天地球総説』1781年、『阿蘭陀全世界地図書訳』1790年、『太陽窮理了解説』1792年などがある。大光寺の本木家墓地で、もっとも立派な墓標は、中央を占める本木仁太夫良永蘭皐のものである。その墓誌には次のようにある。

寛延元年君年一四、充訳員、転副訳末席、天明七年累進為副訳、八年擢家訳、茲歳、蘭入貢永続暦、官命訳之、寛政元年、頁万国地図書、又命訳之、作解書二冊献之、三年、見異船於豊前藍島、君寵命抵彼地竣事而還、同年、訳和蘭天地二球及用法之書、作太陽窮理了解説献之、訳前書全部献之、此際賞賜数次、声誉亦大顕六年秋病辞職、君在職四十七年、以享保二十年乙卯六月十一日生、寛政六年甲寅七月十七日病卒、享年六十、葬于大光寺焉

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。『日本の近代活字』p254に紹介。(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

このひとはたしかに偉大な業績をのこしたが、曾孫・本木昌造と同様に牢獄にもはいった。この時代、長崎阿蘭陀通詞が刑を得て入牢するのはとりたてて特殊なことではなかったのである。
1790年11月『犯科張』(長崎県立図書館旧蔵)によると、大通詞本木良永、大通詞楢林重兵衛のふたりは30日の押込(入牢)、通詞目付吉雄幸作は30日の戸締(蟄居)を命じられた。その罪状はたかだかとしたものである。句点のみ加えで原文のまま紹介する。

右之者共先輩仕癖之事与者申なから、御改正被仰出候上者心付候儀は追々ニも可申出処、無其儀年来樟脳銀銭之儀ニ付、不束之取計候段不埒之至ニ付、厳科可申付処、令宥免、幸作儀は戸〆、重兵衛、仁太夫は押込申付候

これらの3名は、オランダに売り渡す樟脳や銀銭などの書類に、ふつつかな和解 ワゲ、ホンヤク をして幕府に損害を与えたとして罰を与えられたのである。こうした処罰は長崎奉行所が下したが、ふつうはしかるべき肝いりからの嘆願書が出され、押込は蟄居に、戸締は謹慎に減刑されるものであった。この3名も結局そうなった。

ちなみに長崎の医師の家系であった西家と、阿蘭陀通詞・本木家とのあいだでは、しばしば婚姻・養子縁組がなされている。『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、「本木家関係系図」をふたつ紹介するので参考にしてほしい。

上図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、
本木昌造関連家系図(旧長崎県立図書館の資料から補整、1992年)

下図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p129)から、島屋政一資料「本木家関係系図」

◎ データ公開が待たれる『太陽窮理了解説』和解草稿

『太陽窮理了解説』上下二冊の木製ケース
(長崎歴史博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』上巻の本文ページ
(長崎歴史文化博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊を、8年ぶりに長崎歴史文化博物館において閲覧することができた。しかしながら、先の調査時における長崎市立博物館とは異なり、同書は基本的には閲覧不可書目になっており、方々に手を尽くしての閲覧であった。したがって同館の担当者が立ち会い、紹介した見開きページだけを開いて撮影することができた。肝心の下巻はより損傷が激しくて、開くことは許可にならなかった。

国立天文台の資料が、一部の伝承とは異なって、長崎資料の大正期における写本であることは紹介した。したがって天文学関係者の皆さんはもちろん、タイポグラファも『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開を待つことになる。
先の調査では挿入図版が手書きではなく、銅版印刷である可能性を発見していたが、今回の短い調査時間ではその追跡もままならなかった。しかしながら、長崎歴史文化博物館では、ともかく幕末期の長崎の資料は膨大であり、いまのところは各施設から継承したこれらの資料の整理に追われており、いつデジタル・データーとして公開できるかは不明だとの説明をうけた。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回できるだけ図版紹介をともなって紹介したような、おどろくべき事実が記されている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。だからこそ、『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

花こよみ 008

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

春 暁

春眠シュンミン 暁アカツキを 覚えず

処処ショショ 啼鳥テイチョウを 聞く

夜来ヤライ 風雨の 声

花 落オつること 知る 多少

孟 浩 然(モウ-コウネン 667-740 中国唐代の詩人)

朗文堂-好日録008 正月に咲くノゲシの花

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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元旦の早朝に、はつ花をつけたノゲシ。1月6日既報写真。

空中庭園で次次に花をつける現状のノゲシ

◎吾輩、風邪をこじらせて肺炎になりかかった。ヤレヤレの毎日。
風邪が治りきらない。なんとなくポワ~ンとしている。思考にどうにもまとまりがない。新春早早なさけないことはなはだしい。ヒロオカ奴で血液検査をしたら、白血球の値が異常で、軽度の肺炎と診断された。通院で点滴を受けたり、抗生物質を投与されて、どうやら回復基調になった。ところで、本日は新宿西口、東京イタ~イ病院での3ヶ月毎の定期検診にでかけた。心臓エコーの検査にはまったく問題がないとの報告を受けて安堵したが、「血液検査では白血球の値がすこし高い。どこかに炎症があるはずだ」とのウッシッ師の見立て。風邪をひいてかかりつけ医に通院したことをはなすと、風邪薬、施薬5日分の処方箋がでた。吾輩の主治医ウッシッ師はどうやら名医らしい。ギョロメで、ときおりつまらん洒落 オヤジ-ギャグ をとばすが、いいひとだ。とりあえずは任せるしかないしな。

◎「花こよみ007」での報告は《ノゲシ》というらしい。
正月の朝まだきに初花をつけた艸があった。それを2001年1月6日、本ブログロールに「花こよみ007」として紹介した。「はつ春に 咲くやこの花 名をしらず――よみし ひとを しらず」。新春第1弾のアップとあって、なんにんかのかたから情報をいただいた。この花は「ノゲシ 野芥子、もしくは ハルノゲシ」という野草、ひとによっては雑草であることを知った。ノゲシはなかなか人気があって ウキペディア にも紹介されていた。

(^o^) 吾輩と似たようなブログを書いているひとがいた!

\(◎o◎)/! ノゲシは食べられるらしい!

>^_^< 亀はノゲシが大好物らしい!

∈^0^∋ うさぎやワンコもノゲシが好きらしい!

>^_^< カピバラもノゲシが好きらしい!

ネット・サーフは不得手だが、紹介されたページはみんなのぞいてみた。ペット好きのひとが増えたことはしっていたが、世事に疎い吾輩は、ペット好きとは愛猫家と愛犬家ぐらいしか考えていなかった。ところがじつにさまざまなペットが飼育されていることに驚いた。そしてみなさんがペットにほんとうにやさしい視線をむけており、しかもWebsiteでの写真紹介が巧い。画像は鮮明だし、生き生きと情景をきりとって紹介している。さすがにこれだけは動物園の画像であったが、カピバラ紹介などは、ユーチューブの動画つきで、おおきな鼠というか兎というか、ビーバーにも似た愛らしい小動物として人気のカピバラが、ノゲシにむしゃぶりつく様をみた。こんなWebsiteをつくってみたいが、デジタル弱者のヤツガレでは当分不可能だ。なにせ写真は極めつきにヘタだしね。

空中ではプロペラのような綿毛が、地面ではジャッキのようになる?

空庭園のノゲシは、いまだに黄色の花を次次につけている。そしてときおり、綿毛につつまれた種子を空中に放つ。「ロダンの椅子」で所在なく文庫本を読んでいたところ、誌面にノゲシの種子がポトリと落下 モトイ 落花した。なにせポワ~ンとしているから、種子に視線を移動してじっとみつめる。そのうちに種子は風に吹かれてどこかに飛んでいった。文庫本の上はお気にめさなかったらしい。

ところが「鼠のひたい」の地面に着地したノゲシの種子は、ここの地面の湿度や匂いが気にめしたのか、すぐに綿毛を足のようにして踏んばって、もう少少の風では飛ぶことがない。ポワ~ンとしながらそれをじっとみている。吾ながら寒風の吹きつのる朝っぱらから、そんな情景に見入っているとは実に暇な奴だとおもう。でもノゲシの綿毛は、気に入った地面に着地すると、すぐさまボルト&ナットのように、あるいは強力磁石のように、地面に、接着、吸着、着地することに気づいた。肺炎気味の風邪っぴきだというのに、それを飽きもせで1時間ほどじっとみていた。まるで阿呆だな。

ノー学部がまた妙なものを持ちこんだ。今回は鹿児島の土筆 ツクシ だそうである。ひょろっとした根っこを空中庭園に植えろという。土筆はスギナの子だから、狭い庭がスギナだらけになると抵抗したら、土筆とスギナは違うと反論された。とりあえず相手はノー学部出身、一応はそっちが専門だから黙っていたが、土筆はスギナの子ではないのかなぁ。信じられん。そこで作業拒否にでたら、自分でごそごそとコンビニ袋からいろいろ出して、鹿児島の土ごと小鉢に植えた。鹿児島の土壌は白砂 シラス 台地とされ、火山灰のなごりか白っぽい色をしている。桜島火山灰と富士山火山灰の違いかな。まぁ謂っても詮無いことだと放っていたら、土筆がいつのまにか芽をだしている。土筆は本当にスギナの子ではないのかもう少ししたらわかる。それまでは小さな植木鉢の中だ。

★山崎パン

ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願つき ¥100

ともかく買い物が苦手である。だから買い物といってもコンビニぐらいしかいかない。ときおり100円ショップにも立ち寄る。たいていは意味のない、使い道のないものを買って帰る。昨年の「活版凸凹フェスタ」で、写真製版会社・真映社さんが「春の版ハンまつり」と銘打って展示してウケていた。ところで先般、吾輩、100円ショップで異な物を発見。「ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願」である。吾輩は意外にこういう埒ラチもないものが好きである。

そこで新発見! ヤマザキ版ハン 、モトイ 山崎パンのダルマをよくみると、向かって右側の眼(つまり左目)から墨をいれて願をかけるらしい。そんなことは吾輩は知らんかった。だから既報の高崎ダルマも、川越ダルマも、向かって左(つまり右目)から墨入れをしておった。信心不足だからこうなったのか、はたまた世故にうといのか、いずれかだ。こうなるから縁起物は苦手だ。ところでまだ受験戦争は終わっていない。就職活動シュウカツも一種の試験だ。「フレ~、フレ~、受験生」である。えっ? パンの味? 100円にふさわしい味でしたよ。

本日2月23日[先負センプ]、曇天で寒い日であった。

タイポグラフィあのねのね*003|東京築地活版製造所|『活字と機械』大正三年版「年賀状用活字」

(^O^)  いささか時季はずれの企画ですが  (^O^)
年賀用活字とその名称

『活字と機械』
(株式会社東京築地活版製造所 編集兼発行人・野村宗十郎 大正3年6月)

小冊子『活字と機械』はこれまであまり紹介されなかった資料である。同書はタイポグラフィを、本来の「情報伝達術のための総合システム」としてとらえ、その活字と機械の両側面から、大正初期(大正3年、1914)におけるタイポグラフィを立体的に紹介したものである。
造本データは以下のとおりである。

装  本  大和綴じを模した、いわゆる和装本仕立て
表  紙  濃茶の厚手紙 金色インキ、銀色インキほか特色使用。
      シーリング・ワックスを模した登録商標「丸もにH」
寸  法  天地226 × 左右154mm
本  文  頁  ペラ丁合 67丁134頁(裏白ページ多し)
      活字版印刷、写真網目凸版印刷、石版印刷、木口木版印刷などを併用。

『活字と機械』の魅力は様々にあり、多方面からの研究に資すところがあるが、ここでは2丁4頁にわたって紹介された「年賀用活字」を紹介しよう。外周部にはいかにも大正初期らしく、アール・ヌーヴォー調の装飾枠が本書図版ページに共通してもちいられている、この装飾枠は石版印刷(とみられる)特色によって印刷されている。

現在でもその傾きがみられるが、端物印刷業者にとって「年賀用印刷」は、歳末最大の「稼ぎどころ」であった。町角には《年賀状印刷賜ります》のノボリがはためき、歳末風景を華やかにいろどったものである。
そのため活字鋳造所はデザインに意を凝らし、さまざまな、おおきなサイズの「年賀用活字」を製造・発売して、その需要に応えた。もちろん「年賀用活字」は、活字鋳造所にとっても重要な歳末商品であった。

⁂年賀用壹號活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形(シャデッド色版)

ゴチックシャデッド形
壹號楷書
フワンテール形
ビジヨー形
三分二フワンテール形
●左頁下段右より左へ順に
貳號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形
参號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形

●見開頁右、上段右より左へ順に
フワンテール形
ゴチックシャデッド形
ゴチック形(シャデッド色版)
蔓形
●見開頁右、下段右より左へ順に
矢ノ根形
ゴチツク霞形
唐草形
鶴形
●見開頁左、上段右より左へ順に
松葉形
笹の葉形
梅が枝形
龜形
●見開頁左、下段右より左へ順に
篆書形
やまと形
初號楷書
若葉形

⁂年賀用三十六ポイント活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形
フワンテール形
矢の根形
梅が枝形

松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形などと、和のふんいきをつたえたい ── むきへの開発も目立つ。またいかにも大正期らしく、ハイカラな名称とエスプリの効いた形象もみられる。
「フアンテール形」は「FANTAIL  キンギョなどの扇型の尾、孔雀鳩」としてよいとみなす。「ビジヨー形」は「BIJOU  宝石:装飾物」であろうか。
これらは名称からして、洋のふんいきをつたえたい ── むきなども開発されている。

また、「年賀用活字」は書体デザイナーの技倆の見せどころでもあったので、時代の風潮や、歴史的視点から材をとったとみられる活字が多いのも特徴である。

ことしもたくさん年賀状をいただいた。ありがたいことだが、いまだに整理がつかず、年賀状に添えられた「移転通知」「電子アドレス」情報変更を転記できないままにいる。
そんないま、大正初期、号数制からポイント制への転換と、機械製造をより幅広く展開しようとしていた東京築地活版製造所の記録をみている。稿者はそろそろわが国のタイポグラフィ研究も、活字唯美論中心主義から脱却する時期かともおもっているが、「松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形」などの活字をみて、ニヤリとするのもわるくは無いようだ。

A Kaleidoscope Report 006 『印刷製本機械百年史』活字鋳造機の歴史

活字鋳造機の歴史

『印刷製本機械百年史』
(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日)


グラフィックデザイン全般の不振をささやかれるなかで、どういうわけか、最近タイポグラフィに関心を寄せる若者が増えてきた。まことにうれしいことである。
タイポグラフィ560年余の歴史は、金属活字のなかで誕生し、その揺籃期 ヨウランキ-ユリカゴノ-ジダイ を金属活字のなかですごしてきた。すなわちタイポグラフィとは「工芸 Handiwork」であり、タイポグラファとは「技芸者」であった。

ところが、わが国の近代タイポグラフィは、欧州諸国が産業革命を達成したのちに、近代化を象徴する「産業・工業 Industry」として海外から導入され、それまでの木版刊本技芸者を駆逐して、急速に発展を遂げたことにおおきな特徴がある。
わが国の木版刊本製作術は、おもに板目木版をもちいた版画式の複製術で、その歴史といい、技術水準といい、端倪タンゲイすべからざる勢いがあった。
それでも明治初期に招来された「金属活字を主要な印刷版とする凸版印刷術」が、ひろく、「活版印刷、カッパン」と呼ばれて隆盛をみたあとは、従来技術の木版刊本製作術は急墜した。それにかわって近代日本の複製術の中核の役割は「活版字版印刷術、活版印刷、カッパン」が担ってきた。

本論では詳しく触れないが、木版刊本から活字版印刷へのあまりに急激な変化の背景には「活字」の存在があった。江戸期木版刊本の多くが、徳川幕府制定書体の「御家流字様」と、その亜流――連綿をともなった、やや判別性に劣る字様(木版上の書体)――によって刻字されていたことが、「楷書活字」「清朝活字」「明朝体」に代表される、個々のキャラクターが、個別な、近代活字に圧倒された側面を軽視できない。
ここではその「個々のキャラクター ≒ わが国の近代活字」を「どのように」製造してきたのか、すなわち、活字製造のための機器「活字鋳造器、活字鋳造機」と、その簡単な機能を紹介したい。
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活字は鋳物であった。鉛を主体とし、スズ、アンチモンの三合金による鋳造物、すなわち重量も質量もある物質として確固として存在した。そして衰退を続けているとはいえ、いまだに活字鋳造がなされ、活字を主要な印刷版とする凸版印刷術、タイポグラフィは厳然として存在している。

もっとも素朴な活字鋳造器、活字ハンド・モールド(復元版・伊藤伸一蔵)

1590年(天正8)イエズス会士ヴァリニャーノが、わが国にはじめて西洋式活字版印刷機をもたらした。ヴァリニャーノはわが国に活字版印刷のインフラが未整備なことを知り、のちにその「技術者」を同伴して再来日したとされる。
そして1591年からのおよそ20年の間に、島原・天草・長崎などで「活字版印刷」を実施した。俗称キリシタン版の誕生である。
キリシタン版には、宗教書のほかに、『伊曾保 イソホ 物語』『日葡 ニッポ 辞書』など30種ほどが現存している。そのなかには日本語を組版するための活字、あるいは日本国内で活字原図製作・活字母型製造・活字鋳造を実施したとみられる活字を使用した書物もある。

したがってヴァリニャーノが伴ってきた「技術者」とは、「印刷術」だけでなく、活字父型製造(パンチ)、活字母型製造(マトリクス)・活字鋳造(タイプ・キャスティング)の技術にも長けていたとみることができる。
キリシタン版に関する文献は少なくないが、
「どんな手段で原寸の活字原図を製作し、どんな手段で活字父型・母型を製造し、どんな活字鋳造機器をもちい、どのように和文活字をつくったのか」
こうした角度からの研究はまだ未着手な部分が多い。

16世紀世紀末に伝来したキリシタン版は、1612年幕府直轄領におけるキリスト信教禁止令、1614年高山右近・内藤如安らのキリシタンを国外追放、1630年キリスト教関係の書物の輸入禁止など、一連の徳川幕府によるキリスト教禁止令によって、江戸初期に廃絶された。
すなわち17世紀前半において、イエズス会士ヴァリニャーノらがもたらした、西洋式活字版印刷機と活字製造機器は、半世紀の歴史を刻むことなく失われた。
このヴァリニャーノらがもたらした活字と印刷機による「印刷された書物 ≒ キリシタン版」はわずかに現存するが、その印刷機はもちろん、活字一本でも発見されたという報告は管見に入らない。したがってそうとう徹底した処分がなされたものと想像される。

しかし、幕末から明治初期、わが国近代タイポグラフィの黎明期に導入された「活字鋳造機器」は、16世紀世紀末のキリシタン版の時代と大差がない、きわめて素朴な活字鋳造器としての「ハンド・モールド」であったとみてよいであろう。
しかしキリシタン版と同様に、その伝来の正確な時代、ルートは判明しない。

わが国ではかつて「ハンド・モールド」を、中央からふたつに割って、そこから活字を取り出す形態から「割り型、割り鋳型、手鋳込み器」などと称した。そして「ハンド・モールド」からできた活字を、その地金の注入法からとって「流し込み活字」と呼んだ。

「ハンド・モールド」はきわめて簡便な「道具」であったので、「機械」とはされず、ふつう「器」の字があてられるのが特徴である。その「ハンド・モールド」は、キリシタン版の時代を別としても、江戸時代の後期には、すでに、江戸、長崎、鹿児島などに伝来していたとみられ、一部は、東京/国立博物館、長崎/諏訪の杜文学館(移動して長崎歴史博物館に収蔵)、鹿児島/尚古集成館などにその断片が存在している。

文書記録にはこのように紹介されている。
「嘉永4-5年[1851-2]の頃、即ち本木昌造モトギ-ショウゾウ先生の28-9歳の時、俗に所謂イワユル流し込みの活字を鋳成したのである」(『開拓者の苦心 本邦 活版』三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日、以下〔三谷〕)。
三谷幸吉が紹介したこの記録には、昭和10年代から多くの異論があった。すなわちこの「流し込み活字」でつくったとされる『蘭和通辯 ランワ-ツウベン』なる書物が現存しないためであり、また幕府の施設であった「蕃書調所 バンショ-シラベショ」などの諸機関が、地方官である本木昌造らより先行して活字を鋳造したとする、おもに川田久長らが唱えた説との対立であった。

しかしながら、筆者は本木昌造とそのグループが、嘉永年間、すなわち19世紀の中葉に、「割り鋳型をもちいて流し込み活字」をつくったとする説にさほど違和感を覚えない。もちろん稚拙な、「活字ごっこ」にちかいものであり、当然『蘭和通辯』なる書物をつくることもできないほどの、児戯に満ちたものであったとみるべきであるという前提においてである。


明治の開国ののち、長崎の本木昌造とそのグループ、そしてその後継者の平野富二/平野活版所と、工部省勧工寮のふたつのグループの活字鋳造は、「ポンプ式ハンド・モールド」を上海から輸入して鋳造したとする記録を散見する。たとえば三谷幸吉はこのように紹介している。
「蜷川氏は平野富二氏と知己の間柄であったが、活字の製法は工部省で習得した。さて工部省の製造法は手鋳込みポンプ式であった」〔三谷、p108、p133〕。

筆者も平野活版所(のちの東京築地活版製造所)と、工部省勧工寮(現在の国立印刷局)は、その活字の製造量と、両社の価格設定からみると、ハンド・モールドで活字鋳造したとするのには無理があり、おそらく簡便な改造機、「ポンプ式ハンド・モールド」をもちいたものとみる。
ところが、この「ポンプ式ハンド・モールド」の実態がまったくわからないのが実情である。わが国での名称も、記録には「手鋳込みポンプ式、手鋳込み活字鋳造機」とさまざまにしるされている。

おそらく明治最初期に導入された「道具ではない、活字鋳造用の機械」とは、「ポンプ式ハンド・モールド」であったとしてよいとみなすが、これは外国文献でも、管窺に入るかぎり、『Practical Typecasting』(Rehac Theo, Oak Knoll books, 1993)にわずかに写真紹介されているだけである。しかもレハックは、
「この簡便な活字鋳造機は、実機は現在米国に存在しないし、写真もスミソニアン博物館蔵のこの写真一葉だけである」
とする。わが国には実機はもとより、写真も存在しない。

以上を踏まえて、「活字鋳造機の歴史」『印刷製本機械百年史』(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日 p92-97)を紹介したい。本書は印刷・活字業界の歴史版総合カタログといった趣の書物であり、本文のページ数より、巻末に各社の会社紹介を兼ねた広告ページが多数紹介されている。

『印刷製本機械百年史』の執筆者と、同書に掲載されている主要文献は以下の通りである。
◎執筆者/沢田巳之助(印刷図書館)、本間一郎(元印刷情報社)、山本隆太郎(日本印刷学会)
◎主要文献/PRINTING PRESS(James Moran)、石川県印刷史、活版印刷史(川田久長)、写真製版工業史、大蔵省印刷局史、大蔵省印刷局百年史、印刷術発達史(矢野道也)、佐久間貞一小伝、藍・紺・緑、開拓者の苦心(三谷幸吉)、印刷インキ工業史、印刷機械(中村信夫)、印刷文明史(島屋政一)、明治大正日本印刷技術史(郡山幸夫・馬渡力)、中西虎之助伝

『印刷製本機械百年史』p93

『印刷製本機械百年史』p94

『印刷製本機械百年史』p95

『印刷製本機械百年史』p96

『印刷製本機械百年史』p97

《活字鋳造機》
記録によると、明治4年[1871]工部省勧工寮で手鋳込活字鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]1台を設備したという。また明治5年[1872]平野富二が長崎から上京し、神田佐久間町に、後の東京築地活版製造所を開業したとき、母型、鋳型各1組と、手鋳込鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]3台を持参したという記録がある。さらに明治6年[1873]5月13日発行の『東京日日新聞』に、
  今般私店に於いて泰西より活字鋳造の具、
  並に摺立機械等悉く取寄せたり、
  而して彼の各国の如く製を為す。云々。
  活字鋳造摺立所 蛎殻町3丁目 耕文書院
という広告が載っている。

世界で最初に実用された活字鋳造機は、ダビッド・ブルース(2代)が1838年最初に特許をとり、1843年に完成したものであるから、上記の鋳造機も、恐らくそれであろう。
[ブルース活字鋳造機は明治9年《1876》春、弘道軒・神崎正誼がわが国にはじめて導入した。平野活版所がブルース活字鋳造機を導入したのは、弘道軒に遅れること5年、明治14年《1881》春であり、この紹介には疑問がある(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌』片塩二朗
タイポグラフィ学会2011]。
わが国では一般にカスチング、あるいはなまってカッチングと呼んでいた。

これをはじめて国産化したのは大川光次である。大川は代々伊井家に仕えた鉄砲鍛冶の家に生まれた。明治5年[1872]頃から、赤坂田町で流し込み活字の製造や、活字鋳型の製造販売を業としていたが、明治12年[1879]印刷局に入り、鋳造部長となった。弟の紀尾蔵もともに印刷局に勤めていた。

明治16年[1883]大川兄弟は[印刷局を]退職し、再び[赤坂]田町で鋳型製造を始めたが、同時に鋳造機の製作も開始した[大川公次・紀尾蔵の兄弟が弘道軒のブルース活字鋳造機をモデルとしてブルース型活字鋳造機の製造販売を開始(『秀英舎沿革史』秀英舎 明治40年3月20日)。わが国ではこれを、カスチング、キャスチング、手廻し活字鋳造機などと呼んだ。東京築地活版製造所、秀英舎などがただちにこれを導入した]。
これが日本における活字鋳造機製作の最初である。大川は後に芝の愛宕町に移り、明治45年[1912]60才で死去したが、その門下から国友、須藤、大岩などという人が出て、いずれもキャスチングを製作するようになった[大川光次の門からは大岩製作所がでた。この大岩製作所からは小池製作所がでて、2009年8月31日まで存在した]。

自動鋳造機がわが国に始めて入ったのは明治42年[1909]である。この年、三井物産がトムソン自動鋳造機を輸入、東京築地活版製造所に納入した。次で44年[明治44年、1911]には国立印刷局にも設備された。トムソン鋳造機はシカゴのThompson Type Machine Co.が製作したもので、1909年特許になっている。しかし、これはそのままでは和文活字には不適当だったので、築地活版では大正7年[1918]これを改造して、和文活字を鋳造した。

大正4年[1915]、杉本京大が邦文タイプライターを発明し、日本タイプライター会社(桜井兵五郎)が創立された。これに使用する硬質活字を鋳造するため、特別な鋳造機が作られた。それは大正6年[1917]ごろであるが、この鋳造機が後に国産の独特な活字鋳造機を生む基となったといえる。

日本タイプライターの元取締役だった林栄三が印刷用としての硬質活字を研究、大正13年[1924]林研究所を創立し、この硬質活字を「万年活字」と名付けて時事新報社に納入した。彼はこの硬質活字を鋳造するために、技師長・物部延太郎の協力を得て自動活字鋳造機を設計し、「万年活字鋳造機」と命名した。

大正15年[1926]、林研究所は[林栄三の名前から]林栄社と改称した。万年活字は結局いろいろな欠点があることがわかって、使われなくなったが、翌年万年鋳造機各6台が大阪毎日新聞と共同印刷に納入され、普通の活字の鋳造に使われて好成績を収めた。機械の価格は1台2,500円であった。当時トムソン鋳造機は1万2,000円であったのである。

『印刷製本機械百年史』掲載の林栄社

これとほとんど時を同じくして、日本タイプライター会社でも、一般活字用の自動鋳造機を完成、万能鋳造機と名付けて発売した。これは普通の単母型の他、トムソン鋳造機用の平母型や同社で製作する集合母型を使用できるのが特徴であった。

これも同じころ、須藤製造所から須藤式自動鋳造機が発売された。これは鋳造速度の早いことを特徴としており、毎分5号活字で100本、6号なら120本鋳造できた。

この他に池貝鉄工所が昭和2年[1927]トムソン型の鋳造機を作ったが、永続しなかった。また東京機械製作所でも作ったというが、その年代は明らかでない。これは鋳込まれた活字が他の機械と逆に右側に出るのが特徴だった。

昭和6年[1931]ごろ、林栄社社長・林栄三が、活字1回限り使用、すなわち、返字の作業を廃止し、活字はすべて新鋳のものを用いて組版した方が鮮明な印刷が得られ、採算上も有利であるという説を発表した。
[この時代まで、活字は繰り返し、反復して使用されていた。印刷を終えた活字版は、解版されて、活字と込め物などに分類され、活字はもとの活字ケースに戻して(返し・返字)再使用されていた。林栄社の提案を受けて、中規模程度の活版印刷所でも、おおくは本文活字の活字母型を購入し、活字鋳造機を導入して自社内で活字鋳造を実施する企業が増大した。そのため活字鋳造所は本文用サイズ以外の活字や特殊活字の販売が中心となった]。
これが普及するに伴って、活版印刷業界に自家鋳造が盛んになり、鋳造機の需要も増えたので、昭和10年[1935]前後から、鋳造機のメーカーが著しく増加し、大岩式、谷口式、干代田式などの各種の自動鋳造機が市場に出た。

大岩式は大岩鉄工所社長、大岩久吉がトムソン鋳造機を範とし、和文活字に適するよう改造して、昭和8年[1933]発売したものである。大岩の死後、製作権はダイヤモンド機械製作所に移り、現在では小池製作所(小池林平社長)によって継承されている。

『印刷製本機械百年史』巻末に掲載された小池製作所

谷口式は谷口鉄工所の製作で、印刷所における自家鋳造に便利なようにできるだけ機構を簡素化し、価格を低廉にしたのが特徴だった。千代田式は千代田印刷機製造株式会社(古賀和佐雄社長)が昭和11年[1936]ごろ発売した自動鋳造機である。

この他に国友兄弟鉄工所が動力掛けのキャスチングを発売した。当時のキャスチングは鋳型の冷却装置がなく、鋳造中時々ぬれ雑布で[鋳型を]冷さなければならなかったが、この機械では鋳型に水を通して冷却するようなっていた。

戦争中は活字鋳造機も他の印刷製本機械と同様、製造を制限されていたが、終戦と同時に新しいメーカーが続出した。

まず池貝鉄工所がトムソン型を作ったが、昭和30年[1935]以降は生産を中止した。昭和22-23年頃三鷹にあった太陽機械製作所から太陽鋳造機というのが売出され、4-5年つづいた。また同じころ小石川の岩橋機械から岩橋式鋳造機が売出されたが長く続かなかった。
田辺製作所からも簡易鋳造機という名で構造を簡単にし、価格を下げた製品が出た。これは自家鋳造用として相当歓迎され、後にいずみ製作所が製作するようになり、昭和36年[1961]同社が社長の死去により閉鎖されるまで継続した。

昭和20年[1945]9月、大岩鉄工所の出身である小池林平は小池鋳造機製作所(現在の株式会社小池製作所)を創立、大岩式を基とした自動鋳造機の製造を始めた[2008年8月31日破産、のちに特許と従業員のおおくは三菱重工業が吸収した]。昭和21年[1946]には児玉機械製作所が設立され、やはり大岩式鋳造機を製造したが、これは33年[昭和33年、1958]に廃業した。

京都の島津製作所も、アクメという商品名で活字鋳造機を発売した。これは戦前の東京機械のものと同様、活字が右側へ出るのが特徴で、22-23年頃から30年頃[1947-1955]までの間相当台数が市場に出た。その他にも小さいメーカーが、2-3社あったようだが、明らかでない。

昭和21年[1946]12月、長野県埴科ハニシナ郡戸倉トグラ町の坂井修一は、林栄杜の元工場長で、当時長野県に疎開し八光ハッコウ電機製作所の工場長をしていた津田藤吉と相談して、八光活字鋳造機製作所を創立した。
最初のうちは被災鋳造機の修理及び鋳型の製作が仕事であったが、昭和23年[1948]3月、1本仕上げ装置を完成、標準型八光鋳造機の量産を開始した。従来の鋳造機では鋳込んだ活字の上下にカンナをかけて鋳張りを除き、次にこれを90度回転して左右を仕上げる方式であったが、この1本仕上げと呼ばれるのは、まず1本ずつ左右にカンナをかけ、ついで上下を仕上げる方式である。
次で、25年[1950]新聞社の要望に応え、単能高速度鋳造機を発表した。これは従来の標準8ポイントで毎分120本という鋳造速度を50%アップしたものである。

『印刷製本機械百年史』掲載の八光活字鋳造機製作所

[昭和]30年代に入ると、数多かった鋳造機メーカーも次第に減り、林栄社、八光、小池の3社となったが、それと同時にこの3社の激しい技術開発競争により、多くの改良が加えられ、活字鋳造機は面目を一新するに至った。すなわち、函収装置、温度自動調節装置、母型自動交換装置、地金供給装置、ぜい片回収装置などが次々と開発され、文字通り世界に類のない全自動鋳造機が生まれたのである。

一般活字以外の特殊な鋳造機としては、昭和24年[1949]頃、小池製作所でインテル及び罫の連続鋳造機を発表した。それまでわが国では罫、インテルは1本ずつ手鋳込みだったのである。これと同じような機械は他社でも作られたが、小池式の方が能率が上ったので間もなく中止され、小池のストリップ・キャスターだけとなった。小池製作所ではそれにつづいて、見出し鋳造機および花罫鋳造機を製作した。

ブルース型活字鋳造機とトムソン型活字鋳造機の国産化とその資料
Catalogue of Printing Machine』(Morikawa Ryobundo, Osaka, 1935 

花こよみ 008

花こよみ 008

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 雪の降る日に 柊 ヒイラギの

あかい木 コ の実が たべたさに

柊 ヒイラギの葉で はじかれて

ひょんな顔する 冬の鳥

泣くに泣かれず、笑うにも

ええなんとしょう、冬の鳥

                        薄田泣菫(ススキダ-キュウキン 1877-1947)

朗文堂-好日録007 景況と女性の眉、活字書体の選択

朗文堂-好日録 007

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◎ヤツガレ、風邪の治りかけでポワ~んとしておる。
新春早早なさけない。昨週末から、咳はでるは、鼻水はたれるはで、まことにもって無残であった。かかりつけ医のヒロオカ奴に駆け込んで、いつもの風邪薬4日分。土曜・日曜とどこにも出かけずグダグダしておった。本を読もうにも薬のせいかトロトロしてくるので、ただ毛布をひっかぶって、ゴホゴホ、ズルズル、チ~ンとやっていた。なさけないことはなはだしかった。24日[月]、なんとか出勤。それでもなんとなく、いまだにポワ~ンとしている。

¶ ところでかかりつけ医のヒロオカ奴、ひとの顔をみるたびに「もうタバコはやめましたか?」と薄ら笑いを浮かべながら、嫌みたっぷりいう。当世、たれも好きこのんでタバコを吸っているわけがない。単に年期のはいった、あはれなニコチン中毒重症患者なだけだ。だからむしろ同情してほしいのだが、どうもこのごろは社会的に、このあはれな症状を呈する患者にやさしくない。ましてをや、国家までが、卑劣千万、やらずぶったくり、ひとの中毒症状につけこんで、高額な税金まで巻き上げるおそろしい時代だ。ヤツガレほぼ一年ぶりの風邪っぴきだったが、ヒロオカ奴、今回は別のテできた。「タバコがやめられる内服薬がある、社会保険が使える云々……。風邪がなおったら来るように」ト偉そうにのたまう。「当院での治療実績は禁煙成功率80%だ!」ト鼻をピクピクうごめかせる。

¶ ウ~ン、これは蠱惑的かつ誘惑的ではないか。何度も禁煙に失敗し、ましてや風邪で咳がでているのに、タバコを吸っている莫迦にも甘い響きであるな。「禁煙成功率80%!」か。しかしである、あらかじめ20%は失敗する(逃げ道がある)ことになっておるではないか。もし、もしもであるが、吾輩がそっちのグループに入ったら、ヒロオカ奴、喜色満面、それを医学界論文に発表するに違いない。これまでもヒロオカ奴は、吾輩をネタに何本か医学論文を書いたにちがいないと睨んでいる。こんども「65歳・男性・喫煙歴56年・極めて悪質也――薬剤積極投与するも、長年の喫煙の悪癖を脱せず――」かな。ヒロオカ論文調ではな。

◎女性の眉と活字書体の、えもいわれぬ相関関係とは――
ところで諸君、女性の眉と、書体選択が、おもわぬ相関関係にあることをご存知かな。どうせ風邪でポヨ~ンとしているのだから、たまにはこんな話題も如何かな。女性とは、本能のどこか、どうやら触覚が世界規模において優れているようだ。景気とは、所詮 気 のものである。良くも悪くもなったりする。『広辞苑』においても、【景気】 ①様子。けはい。ありさま。景況――である。つまり女性とは世のなかの、気配、ありさま、そして景気波動までをを触覚中心の本能のどこぞで捉え、それをファッションに取りこむ才に優れているらしい。それがさざなみのごとくに波及すると流行となり、ついには景況をも左右するから怖ろしい。吾輩のように、衣食住には関心がないと本気でほざき、十年一日のごとくのドブ鼠ファッションとはえらい違いだ。つまり巷間よくいわれるのが「景気が悪化すると、スカート丈が短くなる」だ。かの英国のツィッギーが典型か。大阪万博のころとおもって欲しい。ミニ・スカートが流行った時代とは、世界規模の不況であった。これはファッション業界では半ば定説となっているそうだ。

¶ ここで女性の眉である。ふるく中国乱世の時代、ひとりの女官が眉を細くして、蛾 ガの触覚のような三日月型の眉を描いたところ、それが食うや食わずの乱世の女性の心を捉え、「蛾眉 ガビ」として、あのひろい中国全土に拡がって、われもわれもと眉を細くしたという。古来、女性とは、なにはともかれ、美しくありといという「美的欲求」にはひどく敏感なのだ。「景気が悪化するとスカートが短くなる」とはファッション界の俚諺リゲンだが、化粧品業界の俚諺リゲンでは「景気が好転すると、女性の眉は太くなる」とされる。おもいおこしてほしい。バブルの1980年代を、美しく、たくましくも駆け抜けていった女性たちは、みな太い眉をしておった。石田ひかりや石原真理子 モトイ 真理恵の眉は驚くほど太かった。W浅野とされた、浅野ゆう子、浅野温子だって、黒々とした眉をしておった。そして景気にかげりが生じた安室奈美恵チャン以降、わが国の女性の眉は細くなったとヤツガレ感じているが如何かな。

¶ ファッションや美容には蘊蓄をのたもう評論家も、自称批評家もいるが、社会の片隅に蟠踞バンキョする「書体印象派」の一部は、女性の眉と活字書体と景気波動の相関性などにはまったく関心をしめさないようだ。しかしヤツガレ、この20年ほど続く世界不況に際しても、書体の流行だけは適切に捉えておった。ただ株式投資は(元手がないから)やらないし、占い師のごとき評論家でもないので、それを己の企業運営――つまり儲けに反映できないのが腹立たしいが。ともあれ、明治の開闢 カイビャク からの活字意匠の変化を追ってくると、演繹法でも帰納法でもなんでもこいだが、ともかくおのずと導きだされる簡単な結論がある。

¶ つまり、「経済不況下においては、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」――である。どうやら世界景気も落ちるところまで落ち、あとは上昇軌道を期待できるところまできたようだ。いまは、夜明け前のもっともくらいときにあるとみている。これからは、「経済好況下においては、活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる―片塩式書体法則2」――がみられるはずだ。活字書体も社会の風潮を背景にしており、決して無縁ではないのである。わかりにくければ、女性の眉とスカート丈に注意することだ。この片塩式書体法則1・2は、おもに、あるいは先行して、商業印刷に反映されるが、ながい尺度でみると、雑誌・新聞などの近接メディアを通じて、図書の印刷用活字書体にも影響をあたえるのだ、友よ! いまはただ女性の眉毛のふとさに注目しよう

昭和初期、長い不況下にあったわが国の書籍印刷用書体――明朝体は、きわめて細くなっていた。
康文社印刷所社主、吉原良三(1896-不詳)は、印刷同業組合の理事として、「変体活字廃棄運動」にも深く関わった人物であるが、同時に「新刻」と称して「細形明朝」の販売に積極的であった。
(『日本印刷大観』昭和13年、差し込み広告)


本文用明朝体は明治末期をピークとして、複製の連鎖のためもあって、昭和前期にはすっかりやせ細っていた。昭和初期の大不況期には、それを逆手にとって「細形明朝」として発売する業者も登場した。図版は細形活字を積極的に製造・販売した康文社印刷所の書体見本。上/新刻九ポイント細形明朝体、下右/新刻五号細形明朝体、下左/新刻六ポイント細形明朝体

¶ バブルとは「それいけ、ドンドン」の時代でもあった。「でっかいことは、いいことだ」と指揮棒をふるったチョコレート会社もあった。重厚長大の、もはや古き良き時代となってしまったが……。活字は写植活字の全盛時代。つぐつぎと新書体が発表されていた時代でもあった。このバブルの直前、株式会社写研から発売された「ナール」は、ウエイトが細く、フトコロを大きくとった、新鮮な丸ゴシック体であった。しかし発表・発売直後に、第1次石油ショックがおそった。この急激な経済環境変化は、のちのバブルの崩壊のように緩慢に作用したのではなく、激震のようにわが国を揺さぶった。もちろん大不況に陥ったが、それでも「ナール」は好感をもって迎えられ、爆発的なヒット書体となった。つまり「ナール」は、製作者の意図とは別に、「不況になると、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」に完璧に合致していたのである。爆発的ヒットはなにも偶然ではないのだ。このころの女性の眉は幾分細かったことはもちろんである。「ナール」はもっとも細いウエイトから出発し、順次ウエイトを太めながらシリーズを形成していった。それでもデミ・ボールド・ウエイトの「ナールD」から以降は、さしたる成績を収めなかった。景気は好況期に入りつつあったのである。

¶ つまり「ナール」シリーズの拡張期の時代は、もはやバブル前期に突入していたのである。「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」の時代である。写研は丸ゴシック系の「ナール」シリーズに代えて、字面が大きく、フトコロのひろい、新ゴシック体「ゴナ」シリーズに注力し、これまたきわめて大きな成果を収めた。しかも「ゴナ」シリーズは「ナール」シリーズとは逆に、最初に極太、ウルトラ・ボールド「ゴナU」が発売され、もっとも好まれたのだ。それがバブル期の書体法則「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」である。それ以後のさざ波のような景気の浮揚期には、写研「スーボ」、「新聞特太ゴシック体 YSEG」、モリサワ「MB-101」などという、極太の書体が、入れ替わり立ち替わりして浮沈していった。2011年のいま、こうしたバブル期に盛大に使用された書体の使用例を見かけることはまずないといって過言ではあるまい。活字書体の選択も、社会風潮や景気の動向を鋭敏に反映しているのである。*書体名は各社の登録商標である。*

¶ 今朝の電車の中吊り広告で、薬品メーカーとアルコール飲料メーカーの広告が並んで掲示されていた。見出し書体は両社とも同じ書体で、丸くて細くてナヨットしたデジタル書体だった。サイズも位置もほぼ同じでおもわず苦笑した。風邪には新ビールが効くのかな? いずれ「片塩式書体法則3」もこのブログロール「花筏」に発表しよう。まぁ、風邪の抜けきれないいまだから、この辺にしようかな。
本日1月25日[火]、晴天なるも寒風つのる。ここにて擱筆。