【公演】喜多能楽堂|第41回 中尊寺 白山神社能舞台(岩手県平泉町)|薪能 金色堂大修理五十年記念 8月14日 終了企画

 

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喜多能楽堂
第41回 中尊寺 薪能
金色堂大修理五十年記念
公演日時  2018年08月14日[火]
      開演 16:30  /  終演 19:30頃
会  場  中尊寺白山神社能舞台(岩手県平泉町)
演目/シテ 仕舞『笠之段』 佐藤 寛泰
      仕舞『駒之段』 出雲 康雅
      仕舞『鐘之段』 塩津 哲生
      狂言『水掛聟』 野村 万作
        能 『船弁慶』 佐々木多門

【詳細: 喜多能楽堂   ひらいずみナビ

前売開始 :2018年6月1日[金]
お問い合わせ:中尊寺薪能の会 ☎ 0191-46-2110

{能楽 喜多流についての簡略紹介}
喜多能楽堂 アイコンロゴ
http://kita-noh.com/ ゟ

喜多能楽堂

<喜多流について>
喜多流の歴史
喜多流の流祖、喜多(旧姓は北)七太夫長能(1586-1653)は、堺の目医者の子で7歳の時、豊臣秀吉の前で舞った「羽衣」で名を上げ「七つ太夫」と呼ばれた芸の天才でした。この名が後に、そのまま七太夫-しちだゆう-となり、喜多流の家元の呼称となりました。

その後豊臣秀吉の近習となり、六平太-ロッペイタ-と呼ばれていました。このロッペイタはポルトガル語に由来するともいわれ、秀吉の近くに侍っていたことから名付けられたといわれています。のちにはこの六平太を、家元継承前の名として用いました。

秀吉の応援もあって、金春禅曲の娘を娶って、その流れを汲むことになりますが、その時代には四座-よざ *01 のほかにも、渋谷流や下間-しもつま-流といった様〻な能役者の流れがあり、七太夫は卓越した芸術的感覚でそれらをも取り入れ、一流を創り出しました。その秀でた力量を認められ、一時は金剛太夫として、また宝生流の後見役を勤めるなどの活躍もありました。

大阪夏の陣には豊臣方の一員として戦い、落城後は身を隠していましたが、徳川家康が「七太夫はどうしている、あの能がもう一度観たい。」と云ったのがきっかけとなり、黒田藩主達が奔走して七太夫を探し出し、江戸へ出仕させました。その間に、徳川将軍は二代目の秀忠に替わっていました。

流紋(喜多紋)喜多流の紋所(喜 多 霞)

秀忠は七太夫に徳川家に仕えるように勧めましたが、七太夫は武士は二君に仕えずといって固辞しました。秀忠は、それでは今後は武士ではなく能役者として仕えるようにと勧め、北姓を喜多と改め、家紋もその時の引き出物の嶋台を模って喜多霞の家紋(喜多流の紋所)としました。太夫としての待遇を受け、従来の四座-よざ-とは別に、一流の創設を認められ、七太夫流或いは喜多流と呼ばれるようになりました。

*01【四座 よざ】
室町時代、大和猿楽の四団体をいう。結崎-ゆうざき(観世)・外山-とび(宝生-ほうしょう)・坂戸-さかど(金剛)・円満井-えんまんい(金春-こんぱる)の四つの座。江戸時代にはこれに喜多流を加えた「四座一流」を幕府が保護。大和猿楽四座。

公益財団法人 十四世六平太記念財団
十四世喜多六平太記念能楽堂
喜多能楽堂

〒141-0021 東京都品川区上大崎4-6-9
TEL:03-3491-8813 /  FAX:03-3491-8999

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