【平野富二 生誕の地 碑 建立 有志の会】日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地|東京都千代田区神田和泉町 1 資料|「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」安政六年(1858年)購入・披露

広景 3

「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」 安政六年(1858年)
「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」所蔵

「津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋」
日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地
東京都千代田区神田和泉町 1
[関連:「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」

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平野富二の東京初進出の場所を特定する

このたび「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」が、「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」(安政六年)を購入した。経緯は以下の通り。

  • 2016年12月20日、「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」の結成直前。
    板倉雅宣・櫻井孝三・古谷昌二・片塩二朗・大石 薫・日吉洋人氏が本会事務局に集合。
    長崎での平野富二 生誕地が判明した現在、平野富二の東京初進出の場所の確定が話題になる。
  • 文書記録では「神田佐久間町三丁目」が多く見られるが、それはどうも違うようだとの話となり、現:和泉公園の辺りではないか …… と活発な議論と成るも結論を得ずに散会。
  • 2016年年末-2017年正月、片塩氏が「ミミズのうわごと」状態となって、司馬遼太郎『本郷界隈』、森鷗外『雁』、石黒忠悳『懐旧九十年』、三谷幸吉『本木昌造・平野富二 詳伝』、第一期『印刷雑誌』など関連資料を乱読。
  • 第二次種痘所が幕府に移管され西洋医学所 → 医学所となり、維新後に公収され、また隣接していた津藩藤堂和泉守上屋敷(現:東京都千代田区神田和泉町 1 )に移転。同所は維新後の混乱のなかで、医学所 → 軍陣病院(合併)→ 医学校 → 大病院 → 医学校兼病院 →(大学校分局)→ 大学東校 → 東校 → 第一大学区医学校 → 東京医学校と短期間に呼称が変遷したことを東京大学医学部図書館資料などから確認。
  • 津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋(現:東京都千代田区神田和泉町 1 )に本木昌造らによる「文部省御用活版所」が開設され、その隣接地に平野富二一行が進出したことを確認。
  • 2017年01月初旬、「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」結成。同会にて神田和泉町関連資料の抜粋が紹介された。
    あわせて天文方にはじまり、蕃所調所、洋書調所、開成学校から大学南校 → 東京開成学校となった系譜の調査と、昌平坂学問所(昌平黌)、昌平学校、大学となって、この三つの系譜が現東京大学の枢要部(法学部・理学部・医学部)に連なったおおきな潮流の把握が「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」の研究テーマとして設定された。
  • まもなく古谷昌二氏より都立中央図書館所蔵、まったく同日に、平野正一氏より国立国立国会図書館所蔵「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画 安政六年」デジタルデーターが発掘された。
  • 2017年11月11日、「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」のプレイベントとして、バスツアー「江戸・東京 活版さるく」(主催:朗文堂 サラマ・プレス倶楽部)が開催され、参加者とともに、神田佐久間町と神田和泉町(明治5年起立『千代田区史』)を訪問し、位置関係を確認、「神田佐久間町三丁目」としか記録できなかった当時の状況を参加者とともに理解した。
  • 2017年11月24日[金]-26日[日]、「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」(日展会館新館)にて開催され、展示・講演資料として「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画 安政六年」(国立国会図書館所蔵・東京都立中央図書館所蔵)を公開。
  • ここまでの研究の成果は、翌2018年秋『タイポグラフィ学会誌 11』(タイポグラフィ学会発行)に発表され、江戸錦絵「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画 安政六年」が、ひろく知られるようになった。 
  • 2019年02月06日、懇意の古書店より「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」(安政六年 1858年)を「平野富二 生誕の地碑 建立 有志の会」として購入した。

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「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」展示資料
「津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋」
【 プリント用PDF  津藩藤堂和泉守上屋敷・門長屋 】

また「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」代表:古谷昌二氏のブログにて、下記の関連記事が公開されている。
[関連:古谷昌二ブログ 2018年10月 文部省御用活版所の開設
[関連:古谷昌二ブログ 2019年01月 東京進出最初の拠点:神田和泉町

bc3c96ef94bc9b6103fa4d238de187f1御用活版所の設立認可(『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵)

この公文書によって本木昌造は、大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、御用活版所の用地拝借を願い出た結果、大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。
この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。

65660edef684f9d89514f4d8993eff66上野下谷外神田辺絵図(近吾堂版、嘉永2年)

津藩藤堂家上屋敷の東西(絵図で左右)の長さは約350メートルで、その周囲は堀と門長屋に囲まれていた。屋敷の南側(上方)の道路に面して豪華な表門が設けられていた。神田川に架かる和泉橋を通る道路は和泉橋通りと称し、現在の昭和通りに相当する。
もう一つの新シ橋-あたらしばし(現、美倉橋)を通る道路は現在の清洲橋通りに相当する。

91c5b93791e1fcb16a3133bec141b742明治4年 藤堂和泉守上屋敷跡絵図(吉田屋又三郎板『東京大絵図』〈明治4年8月改正〉)

藤堂和泉守の上屋敷は新政府に接収されて大病院となった。ここに医学校が移転してきて、大学東校、東校、第一大区医学校、東京医学校と改称を繰り返して、1876(明治9)年に本郷元富士町、現東京大学医学部敷地に移転した。

90f447fb8c8840e3d119534e879f5f51旧東校表門通りの現状写真

画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、道路沿いに堀と門長屋が表門を介して続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、この一画に平野富二一行によって「長崎新塾出張活版製造所」が設けられたとみられる。手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

[関連:活版アラカルト メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-13 東京築地活版製造所アンソロジー 東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地/津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋]