《 北京清華大学にて 龍爪槐 と であった 》
2015年01月11日[日]の午後に、中国北京の清華大学にいった。
キャンパス巡りの中途で、奇妙な枝ぶりの樹木をみつけた。 同大 美術学院 副教授/原 博先生、書きしるしていわく、
「 その樹は、龍の爪のエンジュで、中国ではこう書きます 」。
―― < 龍爪槐 > !
ここから、頭がいっぱいになって、ただでさえおそい歩みが、凍りついたようにこわばり、すべてが疲労となっておそってきた。
ふるく、中国周王朝 ( 前1100ころ-前256 ) の時代、三公の位をあらわす高貴な樹木とされたのが < 槐 カイ ・ えんじゅ> である。
その槐の一種の < 龍爪槐 > は、冬枯れのころに剪定され、まさに龍の爪のような奇観を呈する。
【 関連URL : アダナ ・ プレス倶楽部ニュース / [会員情報] 中国清華大学 美術学院/原 博先生 陳 輝先生とお会いしました 】
「 木をみて、森をみず 」 なる格言がある。 やつがれのばあい、まことにもって恥ずかしながら、「 木をみて、木をみず 」 であった。
これまでの訪中で、西安 ・ 洛陽 ・ 南京 ・ 鄭州などで、間違いなく < 槐 > をみてはいた。
それよりなにより、北京の紫禁城 ( 現故宮博物院 ) のあちこちに < 龍爪槐 > が植えられており、紫禁城の北、景山公園は < 龍爪槐 > の名所だとされていることをつい最近知った。
すなわちやつがれは、あちこちで < 龍爪槐 > の垂れさがった枝ぶりや、蝶のように可憐な花を、間違いなく目にはしていたが、みてはいなかった。
シンシンと冷えこむ北京の冬の夕刻に < 龍爪槐 > を知ったため、葉の生いしげる姿や、蝶のように可憐な花も撮影していなかった。 そのため上掲三点の写真は 中国版百度百科 から引用したものであることをお断りしたい。
【 百度百科 : 龍爪槐ウェブ 龍爪槐画像集 】
またわが国の代々木公園にも龍爪槐があり、あちこちで栽培もされているようである。
代々木公園のものは、1984年(昭和59)、東京都と北京市との友好都市05周年を記念して、北京市から寄贈されたものだという。
わが国では、枝が湾曲して垂れさがるようすから、「 しだれえんじゅ 」 とも呼ばれている。
【 花紀行 ・ 花おりおり 】
また、わが国ではほどんど研究の手がおよんでいないが、近代印刷史研究に欠くべからざる重要な場所が、 中国浙江省寧波の < 槐路 > にあり、その通りをめざして車を走らせたこともあった。
それなのに、この < 龍爪槐 > なる樹木のなまえを知らず、また冬枯れの寒風のもと、剪定されたこの怪奇な樹木の姿を(みて)みなかったばかりに、無知をさらした。 無残なものであり、ここに不明をお詫びしたい。
【 関連情報 : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日】
北京清華大学のあちこちに植栽されていた <龍爪槐>。 花をつけ、実もおちてから、このような枝ぶりに剪定されている。 こうするとかえって翌春の枝ぶりがよくなるという。 《 槐 えんじゅ/カイ を知るために 》
えんじゅ 【 槐 】 ヱンジュ ―― 広辞苑
( ヱニスの転 ) マメ科の落葉高木。 中国原産。 幹の高さ約10-15メートル。 樹皮は淡黒褐色で割れ目がある。 夏に黄白色の蝶型の花をつけ、のち連珠状の莢サヤを生じる。 街路樹に植え、材は建築 ・ 器具用。 花の黄色色素はルチンで高血圧の薬。 また乾燥して止血薬とし、果実は痔薬。 黄藤。 槐樹。 季語は夏。
【 槐 】 ―― 漢字源
① 省略 ( 広辞苑とほぼおなじ )
② { 名 } 三公。 また三公の位。 周代に朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事にもとづく。
<熟語>
【 槐安夢 】 カイアンノユメ 唐の李公佐の小説 『 南柯記 』 にある。酔夢のひとつ。
【 槐位 】 カイイ 三公の位。 『 槐座 カイザ ・ 槐鉉 カイゲン ・ 槐鼎 カイテイ 』。 朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事や、鼎カナエの三本足や、鉉ゲン(鼎の耳の金具)を三公にたとえたことから。
【 槐棘 】カイキョク 槐の木とイバラの木。 三公九卿をさす。
【 槐市 】 カイシ 漢代の長安の東方にあった市場の名。 槐を植え各地の産物 ・ 書籍 ・ 楽器を売買し、学問も論じたので、のち、大学の別名となった。
【 槐宸 】 カイシン 天子の宮殿
【 槐門 】 カイモン 三公 ・ 大臣の家柄
《 四川宋朝体 龍爪 と名づけられた 顔 真卿書風とは 》
いつも混乱がみられるので、まず<顔氏世系表>から世代を追って顔氏一族を紹介しよう。
【 顔 之推 がん しすい 】
531年-? 南北朝時代の学者。 山東省臨沂リンギのひと。 あざなは介。 南朝の梁、北朝の北斉・北周につかえ、さらに隋につかえた。 著書に 『 顔氏家訓 』 がある。
『 顔氏家訓 』 は七巻からなり、隋の601-04ころ成立した。 著者みずからの体験を基礎とした処世訓の書。 乱世を生き抜いてきた著者の経験 ・ 見解が広汎かつ具体的に述べられているので、当時の貴族の生活 ・ 社会の状況をうかがう貴重な史料とされる。
【顔 師古 がん しこ】
581-645年。 中国唐代の学者。 万年(陝西省西安市)のひと。 顔之推の孫で、唐二代皇帝太宗 ・ 李世民の近臣。 訓詁の学にすぐれ、『 漢書 』 の注釈を書いた。
太宗皇帝 [ 唐朝第二代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身も能書家であり、儒教の国定教科書として 『 五経正義 ゴキョウ-セイギ』 を近臣に編集させた。 そこで使用する書体として、編集協力者の顔 師古による正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいた。
【 顔 元孫 がん げんそん 】
?-714年。万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは聿修。 進士となり唐の高宗から玄宗の時代に活躍した。 顔杲卿の父親。 祖父 ・ 顔 師古の「 顔氏字様 」 の字体を、正体 ・ 俗体 ・ 通体に整理して、『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
【 顔 杲卿 がん こうけい 】
602-756年。 唐代玄宗につかえた忠臣。 山東省臨沂リンギのひと。 常山の太守であったので、顔 常山ともされる。 唐の玄宗の末年(755-63)におこった安禄山父子、史思明父子の叛乱 「 安史の乱 」 で捕らえられ、安禄山をののしって殺された。 子の泉名と季明も殺された。
この従兄弟父子の死、とりわけ姪の李明の死を悼んで顔 真卿によって行草書で書かれた、追悼文の草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に現存する。
【 顔 真卿 がん しんけい 】
709-85年。 唐代玄宗の忠臣。 万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは清臣、諡は文忠、顔魯公とも呼ばれる。 「 安史の乱 」 に際し、平原太守として武功があった。 徳宗のとき叛乱をおこした李 希烈の説得にあたったが殺された。 書芸の評価はきわめてたかい。
顔 真卿 (ガン-シンケイ 709-85) の生誕から1300年余が経過した。
この顔 真卿生誕1300年祭を契機として、顔 真卿の業績の再評価がなされ、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書芸展が盛んに開催され、関連図書の刊行もさかんである。
顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安碑林博物館
2011年09月、中国陝西省西安をおとずれた。
顔 真卿関連の石碑が集中する 「 西安碑林博物館 」 の 第3-4室 は、日中は中国人をはじめ、各国からの団体客が押しよせ、あまりの混雑で、ほとんど碑面の閲覧もできないほどの状態だった。
たまたまホテルが至近の場所にあったのを幸い、翌早朝に再度参観に訪れた。
このときもまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。
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robundo type cosmique には、この顔真卿書風に淵源をみる、四川刊本書体 『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 がある。
わが国では、顔真卿生誕1300年祭のことは、書法界の一部で話題になったものの、ひろくはあまり関心がもたれなかったようである。
そこであらためて、唐王朝中期の、忠義の志をもった政府高官にして、文武のひとでもあった顔真卿を紹介し、あわせてデジタル ・ タイプ 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 を紹介するとともに、この書体をもちいた名刺製作の実例をご紹介したい。
《 顔 真卿書風を継承する、四川刊本と、四川宋朝体字様のふるさと 》
中国の西南部 ・ 四川省は、ふるくは蜀ショクとよばれていた。
蜀は唐王朝末期の板目木版による複製法、刊本印刷術の発祥地のひとつで、その刊本字様 ( 書風 ) は顔 真卿書法の系譜をひくものとされている。
また四川刊本は 「 蜀大字本 」 とも呼ばれ、
「 字大如銭、墨黒似漆 ―― 字は古銭のように大きく、字の墨の色は黒漆のように濃い 」
として高い評価がされている。
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強勢王朝として威をほこった唐王朝(20代、618-907)ののち、五代十国の混乱期をへて建朝された、宋 ( 北宋、960-1127 ) の時代にも、唐王朝官刊本の伝統的な体裁を四川刊本は継承していた。
また女真族の金国との争乱に敗れ、都を開封 ( 中国河南省の都市。黄河の南方平野に現存。 Kaifeng, 東京 ・ 汴ベン京とも ) から、臨安 ( 現浙江省 杭州 Hangzhou ) に移して建朝された南宋 ( 1129-1279 ) での刊刻事業の継続と、覆刻 ( かぶせぼり ) のための原本の供給に、四川刊本は大きな貢献をはたした。
ところが、こうした四川刊本も、相次いだ戦乱と、くり返しおこなわれた<文字獄>などの文書弾圧のなかに没して 、『 周礼 シュライ 』 『 新刊唐昌黎先生論語筆十巻 』 『 蘇文忠公奏議 』 など、きわめて少数の書物しかのこっていない。
そのような四川刊本の代表作が、わが国に現存する 『 周礼 』 ( 静嘉堂文庫所蔵 ) である。
『周礼 シュライ』(巻第9より巻首部、静嘉堂文庫所蔵、重要文化財)
『 周礼 シュライ 』 は 『 儀礼 ギライ 』 『 礼記 ライキ 』 とともに中国の 「 三礼 サンライ 」 のひとつで、周代 ( 中国古代王朝のひとつ。 姓は姫。 37代。 前1100ころ-前256 ) の官制をしるした書。
『 周礼 』 は周 公旦 ( シュウコウ-タン、兄の武王をたすけて 商(殷)の 紂王 チュウオウ を滅ぼした。
周の武王の没後、甥の成王、その子康王を補佐して文武の業績を修めた。 周代の礼樂制度の多くはその手になるとされる ) の作と伝えるが、 『 周礼 』 の著者とその成立年度には議論もある。
『 周礼 』 は秦の焚書で滅したとされたが、漢の武帝のとき李氏が 「 周官 」 を得て、河間の献王に献上し、さらに朝廷に奉じられたものが伝承される。
本来 『 周礼 』 は 「 天官 ・ 地官 ・ 春官 ・ 夏官 ・ 秋官 ・ 冬官 」の六編からなるが、「 冬官一編 」 を欠いていたので 「 考工記 」 をもって 「 冬官 」 にかえている。
静嘉堂文庫所蔵書は 巻第九、巻第十だけの残巻ではあるが、南宋 ・ 孝宗 (127-200) のころの 「 蜀大字本 」 とされ、同種の本はほかには知られていない。
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《 顔氏書風にみる、龍爪と蚕頭燕尾 》
『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 は、林 昆範 ・ 今田欣一 ・ 片塩二朗の三名で構成された、ちいさな研究会 「 グループ 昴 スバル 」 の研鑽のなかで、主要なテーマとなったもので、『 周礼 』 を、なんども調査し、臨書し、試作をかさねるなかから誕生したデジタル ・ タイプである。
『 周礼 シュライ 』 の力強い字様には、横画の収筆や曲折に 「 龍爪 リュウソウ 」 とされる、鋭角な龍の爪ツメにも似た特徴が強調されている。 これは起筆にもあてはまり、またどっしりとした収筆も印象的である。
縦画の起筆にみられる 蚕頭 サントウの筆法は 『 周礼 』 においてはさらに強靱になり、龍爪に相対している。
このような顔真卿に特徴的な書法は 「 蚕頭燕尾 サントウ-エンビ── 起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている 」 とされ、また 「 顔法 」 とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いた。
この顔真卿の書風が四川刊本字様の手本となり、おおらかで力強く、独自性のある刊本字様へと変化したといえよう。 これはまた、工芸の文字としての整理がすすんだことをあらわし、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえる。
『 四川 シセン 宋朝体 龍爪 リュウソウ Combination 3 』 は、このような顔真卿書風と、四川刊本字様を継承した、あたらしいデジタル ・ タイプとして誕生した。
このように顔氏一族に伝承されてきた 「 顔氏字様 」 と、顔家伝来のその書風をさらにたかめた顔真卿の書風を、『 中国の古典書物 』 ( 林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97 ) では以下のように紹介している。
唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。 その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝 [ 唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。 そこで使用する書体を、編集協力者の顔師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいたことが挙げられる。
「 顔氏字様 」 はのちに 顔 師古の子孫、顔 元孫 ガン-ゲンソンが整理して 『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいられた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された 「 顔氏字様 」 は、あたかも唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。
『 多宝塔碑 』 ( 原碑は西安 碑林博物館蔵 )
拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。 現在は繰りかえされた採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。
顔真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、 「 一碑一面貌 」 とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔真卿の楷書による石碑の特徴である。
『 多宝塔碑 』 は、長安の千福寺に 僧 ・ 楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔真卿44歳の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。
行草書で書かれた草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 などの書巻は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に伝承するが、顔真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、晩年(780年、建中元年)の書作 『 自書告身帖 ジショ-コクシン-ジョウ 』 だけである。
《 四川宋朝体 龍爪 をもちいて名刺を製作する 》
デジタル ・ タイプ 『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 には、和字 ( ひら仮名 ・ カタ仮名 ) として 「 もとい、さきがけ、かもめ 」 の 3 種の和字がセットされている。
原字製作者は 欣喜堂 ・ 今田欣一氏によるもので、今田氏自身がWebsite内の 「 龍爪 」 において、詳細に設計意図、背景などをしるしているので、あわせてご覧いただきたい。
この 『 四川 宋朝体 龍爪 Combination 3 』 は、おおきく使うと、まさに 「 龍爪 」 と名づけられたように、天空たかくかけめぐる飛龍のように、勇壮な、勢いのある書体として立ちあらわれてくる。
また、板目木版による刊本字様(書体)として、ながらく書物にもちいられてきた字様のため、12pt.-18pt. といったすこし大きめな本文用書体としても、十分な汎用性をもった書体である。
このくらいのサイズだと、もはや 「 飛龍、龍の爪 」 というより、かわいらしい 「 辰の落とし子 」 のような、素直な刊本字様としての姿が立ちあらわれてくるのも面白い書体である。 それだけにつかいやすく、個人的な意見で恐縮ながら、とても好きな書体でもある。
そんなためもあって、 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 の発売以来、この書体をもちいて名刺を印刷している。本心ではせめて 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも、原字製作者の了承をいただいて、金属活字をつくってみたいところであるが、なかなか意のままにならないでいる。
そこで下記のようなデジタルデータを作成して、軽便なインク ・ ジェット・プリンターで 「 出力 」 していたが、どうしても滲みがひどく、また紙詰まりがしばしば発生するので、困惑していた。
朗文堂には活版印刷事業部 「アダナ ・ プレス倶楽部 」 があり、「 Adana-21J, Salama-21A 」 という活版印刷機の設計 ・ 製造 ・ 販売もおこなっているので、それを活用しないことはありえない。
たまたまコピー機が複合機にかわり、あわせてファクシミリ番号がかわったので、下記のデジタルデータをもとに樹脂凸版を作成して、「Adana-21J」による「 カッパン印刷 ≒ レター ・ プレス 」 を実施した。
印刷にあたったのは、粘り強く金属活字鋳造法を学んでいる日吉洋人さん。残念ですが小生が印刷すると、太明朝をもちいたために、字画が混みあっている 「 新宿私塾 」 の 「 塾 」 の字と、@メールアドレスの 「 @ 」 がインキ詰まりを起こして調整に難航する。
樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 とはいえ、なかなかデリケートなところもある。 ところが、さすがに日吉洋人さんはそんな障壁は軽軽とこなして、アッというまに 500 枚の名刺を刷りあげていた。
「 たかが名刺、されど名刺である 」。 とりあえずは軽便なコンピューター ・ プリンターで我慢できても、次第になにか物足りなくなる。 今回は樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 で製作した。
しかしながら、やはり金属活字による「活字版印刷」には、いまだに小生が言語化できないままでいる 「 Something Good 」 がある。 もちろん 「 Enything Bad 」 もあるのだが……。
ですから、いつの日か 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも金属活字をつくってみたい、そして胸をはってお渡しできる名刺をつくりたいというのが、目下の小生の見果てぬ夢であろうか。