承 前 【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層
《長いつき合いになる。 在仏のボヘミアン:磯田俊雄さん》
最高気温が摂氏14度というひどく寒い日だった。パリ在住30年余になる磯田俊雄さんが2016年11月22日、ほぼ一年ぶりにパリから飄飄と来社。
たまたまハンブルクから大澤能彦さんも来社されており、欧州勢のバッティング。欧州在住がながいおふたりとも愛煙家で、やつがれは友垣をえたおもいでうれしい。大石は渋い顔。
磯田氏は神戸出身。四人兄弟の末、パリでソルボンヌ大学博士課程修了の才媛と結婚し、息子も立派に自立した。
フラ~とニューヨークにいったはずが、いきなりパリからファックス。
「パリに住むことにしました。荷物はカメラの寺さんに任せました。当分かえりません」
爾来在仏35年ほどか。このひとも、気軽で暢気なボヘミアンといってよかろう。
かれとは大日本印刷CDC事業部でコピーライターとして勤務していた頃からのふるいつき合いである。若く見えるが、やつがれともさほど年は離れていない(はずだ)。それでも最初の頃に「磯やん」と呼んでいたので、いまだに「磯やん」。
もともとフランス語での簡単な翻訳監修や〝eBay〟の窓口は「哲っちゃん」という同窓生が担っていたが、高齢化してスペイン国境に近い田舎に移転して隠居生活。したがって現在は大石がメールを乱発して、磯やんを悩ませたり酷使しているようである。
今回も大石の依頼で、プラハの作家カレル・チャペック(Karel Čapec 1890-1938)がのこした、邦題『山椒魚戦争』のフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地:プラハ、フランス語表記 1960年発行)の 『La Guerre des Salamanders』 を苦心惨憺で購入されての持参であった。
火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所創設以来、現在でも同所のシンボルロゴである。
下部には、ギャラモン(Claude Garamond, 1480-1561)によるとされる、識語<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>が配置されている。この紋章がフランス国立印刷所のシンボルロゴに連なり、シャンボール城では記念メダルを販売している。
ほかにも大石は、「サラマンダー」をみずからの紋章としていたフランソワⅠ世の離宮(狩猟用離宮・世界遺産) シャンボール城 の記念メダルをねだっていたらしい。
そもそも大石はひどい地理 幷 方向音痴である。したがって、
「パリ郊外のシャンボール城にいくと、サラマンダーの紋が入った記念メダルが購入できるはずです。それをぜひ購入してきてください」
といった調子のメールを磯やんに送っていたらしい。
「大石さんはときどきヘンなことをいってくるんです。まるで東京から横浜にいってメダルを買って来いみたいな調子だったけど、ロワール渓谷のシャンボール城は、パリの隣り街じゃないんです。パリから170キロほど、禁漁区のおおきな森にかこまれた、昔の王様の狩猟用の別荘のようなところで、電車も無いし、車でも一日がかりですよ・・・・・・」
とボソボソとこぼす。やつがれは歓喜せんまでの共感のあまり、深くうなずきながら、そこは共に気軽なボヘミアン、
「磯やん、申し訳ない、悪かった。面倒をかけた。ごめん、ありがとう。これからもよろしく」
以下、一部ウィキペディア画像の助けを借りながら、シャンボール城とフランソワⅠ世を紹介したい。
シャンボール城の各所にみられる火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 「王のギリシャ文字」を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり、 創立以来フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。
フランソワⅠ世の紋章「サラマンダー」は、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして21世紀の初頭に再生された。 詳しくは次ページを参照願いたい。 《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France, 1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。
フランス国立印刷所は、580年ばかり以前のこの年、フランソワⅠ世治世下の王室印刷所、1538年の創立をもってその淵源としている。
フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond, 1480-1561)の活字父型彫刻による識語、<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。この紋章がシャンボール城ではメダルとして販売されており、今般磯やんが持ち来たったということである。
以下サラマンダーとフランス王立印刷所のシンボルロゴに関して、詳しくは次ページに【 [文 ≒紋学] フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係 】を一部修整して再掲載したのでご覧いただきたい。
《 プラハの造形家 ・ 執筆者 ・ 園芸家にして小説家 : チャペック兄弟とは 》チェコのプラハ第10区に「チャペック兄弟通り BRATŘİ ČAPKŮ」と名づけられた小高い丘への通りがある。そこの頂上部に連棟式のおおきな二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーター・執筆者の兄 : ヨゼフ・チャペックの住居で、現在は直系の孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家・作家の弟 : カレル・チャペックの住居跡である。
カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ第10区が買収済みだという。
ところがどちらもいまは非公開の建物であり、庭園である。したがってカレルの庭園の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを撮影した。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題『Zahradníkův rok 』、邦題『園芸家の一年』、『園芸家の12カ月』がある。
イラスト : ヨゼフ・チャペック
翻訳書も手軽に入手できる。『園芸家12カ月』(カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。
どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。
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やつがれにとっては、兄:ヨゼフ・チャペック、弟:カレル・チャペック兄弟とは、なによりも愛読書『園芸家12カ月 or 園芸家の一生』の挿絵画家、著者であり、せいぜい、戯曲『ロボット (原題:R.U.R.)』において「ロボット」なる造語をふたりでつくった兄弟程度の知識に留めておきたいところだが、ここに困った図書が一冊ある。
『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)。いま、やつがれの手もとにあるのは、1,978年7月18日 第1刷り、2013年10月4日 第14刷りの版である。
ここでは「著者」ではなく、「カレル・チャペック作」とされている。その理由を訳者は「訳者はしがき」「解説」「訳者あとがき」のなかで縷縷のべている。
すなわち『山椒魚戦争』には、活字見本帳・ちらし・新聞記事の切りぬき、マッチ箱などの図版(文字活字によるものがほとんど)が無数にあるのである。
文庫版とはそんなものだろうともいえそうだが、チャペック兄弟の図書は、プラハにおける初版はもちろん、多数の翻訳書をふくめて、わずかな例外をのぞいて軽装版である。ところが岩波文庫版には、残念ながら二点の図版紹介をみるだけであり、しかも原寸を欠いている。
岩波文庫版『山椒魚戦争』は、1978年の初版以来、35年ほどのあいだ、14版を重ねてきた図書である。
このような名著に四の五のいうわけではないが、ともかく活字サイズが「本文 明朝体8pt.相当」、「注釈 ・ 図版説明 ・ 訳注 ・ 解説 ・ 訳者あとがきなど 明朝体6pt.相当」といったちいさな活字サイズであり、しかも総ページ数496ページにおよぶのである。
とりわけこの本文より文章量が多いとおもえる注釈などの活字書風とサイズ 6pt. はつらい。
情けないことに、すでに視力がずいぶんと低下したやつがれは、再再の挑戦にもかかわらず同書を通読していない。別の翻訳者と版元からの『山椒魚戦争』が電子化されて、電子図書「キンドル」で読めるが、こちらはいささか翻訳になじめないでいる。
造形者にとってある意味では必読書ともいえる『山椒魚戦争』である。ぜひ視力がしっかりしているうちに読了をおすすめするゆえんである。
ところで、大石は磯やんの助力をえて、このたびフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地:プラハ、フランス語表記 1960年発行)の『La Guerre des Salamanders』を購入した。
ところが大石は、すでに上掲図版のフランス Éditions Cambourakis, 2012 『La Guerre des Salamanders』 をもっている。
同書はフランス語で表記されているが、図版は原寸で、ほとんどがオリジナルの各国語のまま、改変を加えずに紹介している。
ほかにも煙草の臭いが移るからとしてめったにみせないが、プラハにおけるチェコ語の初版、戦後版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版、仏語版など、異種本を10冊余ほど所有しているようである。
これらの異言語版は、この兄弟の思想的立脚点もあったのか、初版をふくめてほとんどが軽装版であり、いわゆる上製本仕立ては一点だけである。
そして内容を理解するために、邦訳書ももっているが、もっぱらチェコ語版と英語版で、挿画と造本、なによりも「サラマンダー、山椒魚」の各国の解釈を「活字見本帳のような図版」で楽しんでいるようである。
岩波文庫『山椒魚戦争』には、本文中の図版として紹介されたものは、上掲図版 Éditions Cambourakis, 2012 『La Guerre des Salamanders』 p.264 のものと同一の図版が、「カタコトの日本文」p.309 として紹介され、あとは「訳者あとがき」に紹介された「新中國版畫集」p.455 のわずか二点であり、しかも他の版のほとんどが原寸紹介であるが、同書はどちらも原寸を欠いている。
すなわち『山椒魚戦争』の隠喩、欧州中央部に位置し、文化文明の十字街路たるボヘミア・プラハならではの、多言語下における活字組版表現の実験を楽しみ、紹介するゆとりをいささか欠いているようである。
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《 カレル ・ チャペックを中軸に、その教育体験と職歴をみる 》
読みたいのに読めないという焦燥感はつよい。皆さんにお勧めしたいのは、『山椒魚戦争』はできるだけ視力が健康な、若いうちに読了されることである。
ここで、わが国ではとかくSF作家とされる弟:カレル ・ チャペックの受けた教育と仕事から、そのもうひとつの魅力、造形家の側面に迫ってみたい。
1909年、ギムナジウムを優等で卒業したカレルは、プラハの名門大学カレル大学へ進学し、哲学を専攻する。1910年、ベルリンのフリードリヒ ・ ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学。1911年、ベルリンの大学を修了後に兄 : ヨゼフがいたパリのソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。パリ時代にヨゼフとともに戯曲 『 盗賊 』 を書く。
1914年、第一次世界大戦が勃発する。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。
1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後しばらくは家庭教師の仕事をしていたが、1916年、チャペック兄弟として正式にプラハの文芸 ・ 造形界にデビューした。
このころはフランス詩の翻訳、とりわけアポリネールの象形詩に熱心に取り組んで、アポリネールがフランス語で象形化した詩(詩画)を、チェコ語での再現の実験に取り組んだ。
同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。1917年、独立前に唯一発行が許されていた 『 国民新聞 ナーロドニー ・ リスティ』 に論説文を書く仕事に就く。
1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたカレル ・ チャペックは 『 ロボット R.U.R. 』 を書き上げる。このときにヨゼフの助言をえて「ロボット」ということばが生まれ、全世界に拡散した。後に妻となるオルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。
1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府の動向ににあわせて次第に保守化していく 『 国民新聞 』 に不安を感じ、『民衆新聞 リドヴェー ・ ノヴィニ 』 へヨゼフとともに移籍する。戯曲 『 虫の生活 』(ヨゼフとの合作)を出版する。
その後逝去のときまで 『 民衆新聞 』 に在籍し続けた。
《 チャペック兄弟の最後 プラハ : ヴィシェフラット民族墓地Vyšehradský hřbitov にねむる》
プラハ:ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる(白い墓標)。
そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざま、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「 解 説 」 から紹介したい。
『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫) 「解説」 p.453-4
[前略] 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。[弟カレル]チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく[カレル]チャペックの家へやって来たのだった。
やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「残念ながらチャペックは昨年のクリスマス[1938年12月25日歿]に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。
チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「 独裁者の長靴 」 と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。
彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後 『 強制収容所詩集 』 という題名で出版された。[ 後略 ]