タグ別アーカイブ: スラヴ叙事詩

【展覧会予告】 国立新美術館 2017年春、最高のミュシャに出会う/チェコ国外世界初公開・超大作《スラヴ叙事詩》全20作

20170206151525_00004 20170206151525_00003 20170206151525_00005 展覧会概要

国立新美術館(東京・六本木)では、2017年3月8日(水)から6月5日(月)まで、「ミュシャ展」(主催:国立新美術館、NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社ほか)を開催いたします。

2017年は日本とチェコが国交を回復してから記念すべき60周年を迎える年にあたります。
アール・ヌーヴォーを代表する芸術家のひとり、アルフォンス・ミュシャ(チェコ語発音ムハ※、1860-1939)は、オーストリア=ハンガリー帝国領モラヴィア(現チェコ)に生まれ、ウィーンやミュンヘンを経て、27歳でパリに渡り絵を学びました。
なかなか才能を発揮する機会に恵まれなかったミュシャは、34歳の時に、女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを手がけることになり、一夜にして成功をおさめます。以降、優美で装飾的な作風は多くの人を魅了し、時代の寵児として活躍しました。

美しい女性像や流麗な植物文様など、華やかで洗練されたポスターや装飾パネルを手がける一方で、ミュシャは故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族のアイデンティティをテーマにした作品を数多く描きました。
その集大成が、50歳で故郷に戻り、晩年の17年間を捧げた画家渾身の作品《スラヴ叙事詩》(1911-1928年)です。およそ縦6メートル、横8メートルにも及ぶ巨大なカンヴァスに描かれた20点の油彩画は、古代から近代にいたるスラヴ民族の苦難と栄光の歴史を映し出す壮大なスペクタクルであるといえます。

本展はこの《スラヴ叙事詩》を、チェコ国外では世界で初めて、全20点まとめて公開するものです。プラハ市のために描かれ、1928年に寄贈された《スラヴ叙事詩》は、1960年代以降、モラヴィアのクルムロフ城にて夏期のみ公開されてはいたものの、ほとんど人の目に触れることはありませんでした。
その幻の傑作が、80年以上の時を経て2012年5月、ついにプラハ国立美術館ヴェレトゥルジュニー宮殿(見本市宮殿)にて全作品が公開されました。
そしてこのたび国立新美術館では、パリで活躍したミュシャが《スラヴ叙事詩》を描くにいたるまでの足跡を約100点の作品を通じて辿りつつ、これら幻の最高傑作の全貌を一挙、紹介します。

※パリでその名を広く知られるようになったため、日本では「ミュシャ」というフランス語の発音に基づく表記が用いられてきたが、本展ではチェコで制作された《スラヴ叙事詩》に関してはチェコ語の発音に基づき「ムハ」と表記する。

◎ 会  期
2017年3月8日[水]-6月5日[月]
毎週火曜日休館 ただし、5月2日[火]は開館 
◎ 開館時間
10:00-18:00
   ※金曜日は20:00まで
   ※4月29日[土]-5月7日[日]は20:00まで
   ※入場は閉館の30分前まで 
◎ 会  場
国立新美術館  企画展示室2E
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2

【 詳細 : 国立新美術館トップ  ミュシャ展URL 】 

【ボヘミア チェコ プラハ】05 民族魂のほとばしり Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ 巨大連作絵画『スラヴ叙事詩』(重複紹介)

 

プラハ[1]

Alfons Mucha  アルフォンス・ミュシャ  『スラヴ叙事詩』

本項の初出は2016年12月07日であった。
ここにまさに快挙ともいうべき展覧会、国立新美術館における《ミュシャ展》2017年3月8日-6月5日開催の予告フライヤーを紹介するとともに、暢気な喫煙ボヘミアンがプラハを訪れた記録から、【ボヘミア チェコ プラハ】05 をここに再掲載した。
勝手ながら字句や年代の表記などの相違は、すべて上掲の国立新美術館の情報を優先していただきたい。

01[1] 02[1] 03[1] 04[1]

プラハで市販されている 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもまたいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 裏返せば執着力に欠ける。さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとはボヘミア地方の住人のことで、中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただし、その地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには隷従をしいられたり、流浪したりと、堪え忍んできたつらい歴史もある。

またチェコは古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほどドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 また鉄鋼業を中心に工業産業がさかんで、ガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
さいわい、いずれもお盆休みを利用した「三泊+機中泊二日」というみじかい滞在の弾丸旅行だったが、2014年08月、2016年08月の二度にわたってプラハを訪問した。
古都プラハはわが国の京都と姉妹都市であり、街の規模も似かよっているし、名所旧蹟は数え切れなくある。したがってその紹介にあたり、気軽な観光写真と食べ歩き報告ではない方法をかんがえていたが、なかなかに難しいものがあった。

たまたまYouTubeに、プラハを流れるブルタバ川(わが国ではドイツ語風にモルダウ川がふつう)、プラハ城、レギー橋、プラハ国民劇場、欄干に聖人の彫像が見られるカレル橋、旧市庁舎の時計塔、街並みなど、プラハの主要な観光地の映像があった。
やつがれが訪ねた真夏とちがい冬枯れのプラハの光景であったが、ここに紹介された観光地のほとんどは訪問している。
それと本稿の主要テーマ、『アルフォンス・ミュシャ スラブ叙事詩』製作の端緒となった民族音楽、カレル・アンチェル&チェコ・フィル( Karel Ančerl )演奏、スメタナ作曲の交響詩『我が祖国 プラハの風景』12:32があった。まずこのYouTubeでプラハのふんいきを知っていただきたい。

──────────
《アール・ヌーボの旗手から大変貌するきっかけとなった スメタナの交響詩『わが祖国』》
アール・ヌーヴォーの旗手、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860-1939 わが国ではフランス風にミュシャとする)は、もうひとりのアール・ヌーボーの画家、クリムト(グスタフ・クリムト, Gustav Klimt, 1862-1918 帝政オーストリアの画家)と双璧をなしたグラフィックデザイナーであり、画家でもあった。

パリでのミュシャの出世作『ジスモンダ』長尺ポスター 1894年
プラハ城 聖ヴィート大聖堂 外観 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス1 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス 上部アッププラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャ製作のステンドグラス 1931年

ミュシャはパリとアメリカを往復しながら、クリムトとならんで満天下の人気をあつめ、おもに官能的な女性を描いていたが、次第にボヘミアンとしての民族意識にめざめるようになった。
一説によると、1908年(明治41)ボストン交響楽団の演奏によるスメタナの『わが祖国』をきいて感動し、またアメリカで生計を維持するのに足るスポンサーもついたため、余生をチェコ国民とプラハ市民に捧げるべく、1910年、プラハ近郊にあるズビロフ城の一部を借り、ミュシャの20年近くにわたる『スラヴ叙事詩』の製作がはじまった

Alfons_Mucha_at_work_on_Slav_Epic[1] DSCN0098

わが国には情感ゆたかにうたいあげた「叙情詩」や、心情を吐露し訴求した「抒情詩」は多い。ところが、「神話」はあまたあるとはいえ、「叙事詩」は意外にすくないよようだ。
すなわち「叙事詩」とは、「多くは民族など社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡や事柄をありのままに述べつづる(叙事)の態度でうたい上げた詩」とされる。
すなわちミュシャが、1910年から1928年にかけて、民族の歴史をまなび、それに通暁し、さらに事実調査と現地調査をかさねてつくられた連作絵画が『スラヴ叙事詩』である。

『スラヴ叙事詩』は、チェコおよびスラヴ民族の伝承および歴史を題材としており、太古の時代から1918年のチェコ独立までを描いている。ただし、制作順序については作品に描かれた時代どおりではない。
サイズは小さいものでもおよそ4 x 5メートル、大きいものでは6 x 8メートルに達する。

全作品が完成した後、1928年に特設の展示場を用意することを条件に、この作品はプラハ市に寄贈された。
しかしながら、ミュシャと『スラヴ叙事詩』は、製作完了から必ずしも幸せな道を歩んだわけではない。2012年以前はチェコ共和国の地方都市、南モラヴィア州のモラフスキー・クルムロフの城館に忘れ去られたように展示されていた。

1939年03月、ナチスドイツによって当時のチェコスロヴァキア共和国は解体されて、プラハに入城したドイツ軍によってミュシャは逮捕された。
「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。
ナチスドイツ軍は70歳代後半になっていたミュシャを厳しく尋問し、三ヶ月余にわたって拘留した。欧州戦線での第二次大戦が終了の前、78歳のときに獄中で躰調をくずして釈放されたが、その4 ヶ月後に症状が悪化して終戦をまたずに逝去した。
◯ アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)

ミュシャの遺体は、『スラヴ叙事詩』製作の啓示をあたえたとされる作曲家:スメタナ、戯曲家・作家・造形者・造園家のヨゼフ・チャペック、カレル・チャペック兄弟らとおなじ、プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov の中央部にある「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」に埋葬されている。
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ戦後、祖国は独立を果たしたが、当時のチェコ共産党政権は愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。
しかし民衆レベルではミュシャへの敬愛は生き続け、1968年におこった変革「プラハの春 Pražské jaro」の翌年には、ミュシャの絵画による郵便切手数種が製作されている。
また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォーの再評価の動向とともに、改めて高い評価を受けている。

2012年以降はチェコ国立美術館分館、ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác National Gallery in Prague)1 階に展示されている。
この建物は本来「産業見本市」のために1928年(昭和03)に建設された、鉄とコンクリートと水平連続ガラス窓を特徴とする「国際様式建築」であるが、90年近い時を刻んでなお古さを感じさせない名建築であった。
それでも、「建築様式の見本の街」とされるプラハでは、少なくとも旧市街ではほとんど類似の建物をみることはなかった。
──────────
《チェコ国立美術館分館ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)の『スラヴ叙事詩』》
プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿 ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác National Gallery in Prague)外観 スラヴ叙事詩案内板上) プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿。ここが手狭となり至近の地に新宮殿が1928年にプラハ初の「機能主義様式」で建設された。Veletržní は「見本市の」の意である。
下) ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác, National Gallery in Prague 1928年)の外観と正面サインボード

スラヴ叙事詩『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』『ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教』『クジージュキの集会』『スラヴ叙事詩』 左) ロムニェジージュのヤン・ミリチ 中) ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 右) クジージュキの集会

アルフォンス・ミュシャ畢生の大作『スラヴ叙事詩』のスケール感を実感していただきたく、上掲図版を紹介した。
来館者はほとんどA4 三つ折りの小型パンフレットをもち、作品と解説(叙事詩)を見くらべている。若いカップルなどは肩をよせあって、男性がちいさな声で解説を読みながらゆっくりと鑑賞している姿はほほえましかった。
それでもこれだけの著名作品なのに、来館者はまばらで、その分ゆっくり『スラヴ叙事詩』と対話できた。またノーフラッシュが条件ではあるが撮影が許可されることにはおどろいた。

二年前のプラハ訪問の際、プラハ場内のルネサンス様式の建物で「午後のコンサート」を聴いた。なにぶん観光地でのコンサートであり、ピアノとヴァイオリンだけの演奏であったが、スメタナ組曲『わが祖国』はしみた。臨席の老夫婦などは頬を紅潮させてスタンディング・オベーション。不覚ながらやつがれも鼻の奥がムズムズした。
ヴェレトゥルジュニー宮殿でも『スラヴ叙事詩』をみながら、幻聴のように、スメタナ『わが祖国』が耳朶のどこかで鳴りひびいていた。
以下ウィキペディアの支援をうけながら、いくつかの作品を紹介したい。

◎ スラヴ叙事詩『イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた―』
スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より印刷の様子 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より紙漉きの様子イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた
1914年 610 x 810 cm

ヤン・フスとペトル・ヘルチツキーの影響を受けて1457年に設立されたチェコ兄弟団(ボヘミア兄弟団)は信仰にとって教育が重要なものと考え、ミュシャの故郷であるイヴァンチッチェに学校を創設し、聖書をチェコ語に翻訳した。
この聖書はその後クラリッツェで印刷されるようになり「クラリッツェ聖書」と呼ばれた。
チェコ語で書かれたこの聖書は国民の連帯意識を高め、またチェコ語文法の基本ともなった。
画面右手には印刷された聖書をルーペを使ってチェックする人人が描かれ、左手前方には老人のために聖書を読む青年が描かれている。青年の厳しい表情はカトリックによるその後の迫害を予知しているかのようである。

◎ スラヴ叙事詩 『ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』よりシメオン皇帝 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』より筆記者と本を読む老人ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星
1923年 405 x 480 cm

ブルガリア帝国の皇帝シメオンⅠ世は帝国の版図を拡大し、その治世は帝国の繁栄の時代であった。ブルガリアは文化の中心地ともなり、ここには文人、学者、司祭に囲まれた皇帝が描かれている。

◎ スラヴ叙事詩 『フス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし』
スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』 スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』より読書する人びとフス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし
1923年 405 x 480 cm

フス派の穏健派(ウトラキスト派)はバーゼル協約によってフス派を認めさせることに成功した。しかし教皇はこの協約を一方的に破棄し、ローマに従うことを求めてきた。
この時チェコの国王であったのがボジェブラディのイジーであった。彼はおよそ150年ぶりのチェコ人の国王であり、賢明な王として知られた。
この作品では横柄な態度をとる教皇の使節に対し、玉座を蹴って立ち上がり、要求をはねのける国王の姿である。右下に描かれたこちらを向いた少年は「ローマ(ROMA)」と題された大きな本を閉じており、ローマとの関係の終焉を表している。

【 活版 à la carte : チェコ プラハ での過去ログ紹介

【ボヘミア チェコ プラハ】05 民族魂のほとばしり Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ 巨大連作絵画『スラヴ叙事詩』

プラハ[1]

Alfons Mucha  アルフォンス・ミュシャ  『スラヴ叙事詩』
01[1] 02[1] 03[1] 04[1]

プラハで市販されている 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもまたいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 裏返せば執着力に欠ける。さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとはボヘミア地方の住人のことで、中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただし、その地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには隷従をしいられたり、流浪したりと、堪え忍んできたつらい歴史もある。

またチェコは古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほどドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 また鉄鋼業を中心に工業産業がさかんで、ガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
さいわい、いずれもお盆休みを利用した「三泊+機中泊二日」というみじかい滞在の弾丸旅行だったが、2014年08月、2016年08月の二度にわたってプラハを訪問した。
古都プラハはわが国の京都と姉妹都市であり、街の規模も似かよっているし、名所旧蹟は数え切れなくある。したがってその紹介にあたり、気軽な観光写真と食べ歩き報告ではない方法をかんがえていたが、なかなかに難しいものがあった。

たまたまYouTubeに、プラハを流れるブルタバ川(わが国ではドイツ語風にモルダウ川がふつう)、プラハ城、レギー橋、プラハ国民劇場、欄干に聖人の彫像が見られるカレル橋、旧市庁舎の時計塔、街並みなど、プラハの主要な観光地の映像があった。
やつがれが訪ねた真夏とちがい冬枯れのプラハの光景であったが、ここに紹介された観光地のほとんどは訪問している。
それと本稿の主要テーマ、『アルフォンス・ミュシャ スラブ叙事詩』製作の端緒となった民族音楽、カレル・アンチェル&チェコ・フィル( Karel Ančerl )演奏、スメタナ作曲の交響詩『我が祖国 プラハの風景』12:32があった。まずこのYouTubeでプラハのふんいきを知っていただきたい。

──────────
《アール・ヌーボの旗手から大変貌するきっかけとなった スメタナの交響詩『わが祖国』》
アール・ヌーヴォーの旗手、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860-1939 わが国ではフランス風にミュシャとする)は、もうひとりのアール・ヌーボーの画家、クリムト(グスタフ・クリムト, Gustav Klimt, 1862-1918 帝政オーストリアの画家)と双璧をなしたグラフィックデザイナーであり、画家でもあった。

パリでのミュシャの出世作『ジスモンダ』長尺ポスター 1894年
プラハ城 聖ヴィート大聖堂 外観 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス1 プラハ城 聖ヴィート大聖堂 ムハのステンドグラス 上部アッププラハ城 聖ヴィート大聖堂 ミュシャ製作のステンドグラス 1931年

ミュシャはパリとアメリカを往復しながら、クリムトとならんで満天下の人気をあつめ、おもに官能的な女性を描いていたが、次第にボヘミアンとしての民族意識にめざめるようになった。
一説によると、1908年(明治41)ボストン交響楽団の演奏によるスメタナの『わが祖国』をきいて感動し、またアメリカで生計を維持するのに足るスポンサーもついたため、余生をチェコ国民とプラハ市民に捧げるべく、1910年、プラハ近郊にあるズビロフ城の一部を借り、ミュシャの20年近くにわたる『スラヴ叙事詩』の製作がはじまった

Alfons_Mucha_at_work_on_Slav_Epic[1] DSCN0098

わが国には情感ゆたかにうたいあげた「叙情詩」や、心情を吐露し訴求した「抒情詩」は多い。ところが、「神話」はあまたあるとはいえ、「叙事詩」は意外にすくないよようだ。
すなわち「叙事詩」とは、「多くは民族など社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡や事柄をありのままに述べつづる(叙事)の態度でうたい上げた詩」とされる。
すなわちミュシャが、1910年から1928年にかけて、民族の歴史をまなび、それに通暁し、さらに事実調査と現地調査をかさねてつくられた連作絵画が『スラヴ叙事詩』である。

『スラヴ叙事詩』は、チェコおよびスラヴ民族の伝承および歴史を題材としており、太古の時代から1918年のチェコ独立までを描いている。ただし、制作順序については作品に描かれた時代どおりではない。
サイズは小さいものでもおよそ4 x 5メートル、大きいものでは6 x 8メートルに達する。

全作品が完成した後、1928年に特設の展示場を用意することを条件に、この作品はプラハ市に寄贈された。
しかしながら、ミュシャと『スラヴ叙事詩』は、製作完了から必ずしも幸せな道を歩んだわけではない。2012年以前はチェコ共和国の地方都市、南モラヴィア州のモラフスキー・クルムロフの城館に忘れ去られたように展示されていた。

1939年03月、ナチスドイツによって当時のチェコスロヴァキア共和国は解体されて、プラハに入城したドイツ軍によってミュシャは逮捕された。
「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。
ナチスドイツ軍は70歳代後半になっていたミュシャを厳しく尋問し、三ヶ月余にわたって拘留した。欧州戦線での第二次大戦が終了の前、78歳のときに獄中で躰調をくずして釈放されたが、その4 ヶ月後に症状が悪化して終戦をまたずに逝去した。
◯ アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)

ミュシャの遺体は、『スラヴ叙事詩』製作の啓示をあたえたとされる作曲家:スメタナ、戯曲家・作家・造形者・造園家のヨゼフ・チャペック、カレル・チャペック兄弟らとおなじ、プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov の中央部にある「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」に埋葬されている。
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ戦後、祖国は独立を果たしたが、当時のチェコ共産党政権は愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。
しかし民衆レベルではミュシャへの敬愛は生き続け、1968年におこった変革「プラハの春 Pražské jaro」の翌年には、ミュシャの絵画による郵便切手数種が製作されている。
また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォーの再評価の動向とともに、改めて高い評価を受けている。

2012年以降はチェコ国立美術館分館、ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác National Gallery in Prague)1 階に展示されている。
この建物は本来「産業見本市」のために1928年(昭和03)に建設された、鉄とコンクリートと水平連続ガラス窓を特徴とする「国際様式建築」であるが、90年近い時を刻んでなお古さを感じさせない名建築であった。
それでも、「建築様式の見本の街」とされるプラハでは、少なくとも旧市街ではほとんど類似の建物をみることはなかった。
──────────
《チェコ国立美術館分館ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletržní palác)の『スラヴ叙事詩』》
プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿 ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác National Gallery in Prague)外観 スラヴ叙事詩案内板上) プラハのアールヌーボ建築ブームの先駆けとなった産業宮殿。ここが手狭となり至近の地に新宮殿が1928年にプラハ初の「機能主義様式」で建設された。Veletržní は「見本市の」の意である。
下) ヴェレトゥルジュニー宮殿 (Veletržní palác, National Gallery in Prague 1928年)の外観と正面サインボード

スラヴ叙事詩『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』『ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教』『クジージュキの集会』『スラヴ叙事詩』 左) ロムニェジージュのヤン・ミリチ 中) ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教 右) クジージュキの集会

アルフォンス・ミュシャ畢生の大作『スラヴ叙事詩』のスケール感を実感していただきたく、上掲図版を紹介した。
来館者はほとんどA4 三つ折りの小型パンフレットをもち、作品と解説(叙事詩)を見くらべている。若いカップルなどは肩をよせあって、男性がちいさな声で解説を読みながらゆっくりと鑑賞している姿はほほえましかった。
それでもこれだけの著名作品なのに、来館者はまばらで、その分ゆっくり『スラヴ叙事詩』と対話できた。またノーフラッシュが条件ではあるが撮影が許可されることにはおどろいた。

二年前のプラハ訪問の際、プラハ場内のルネサンス様式の建物で「午後のコンサート」を聴いた。なにぶん観光地でのコンサートであり、ピアノとヴァイオリンだけの演奏であったが、スメタナ組曲『わが祖国』はしみた。臨席の老夫婦などは頬を紅潮させてスタンディング・オベーション。不覚ながらやつがれも鼻の奥がムズムズした。
ヴェレトゥルジュニー宮殿でも『スラヴ叙事詩』をみながら、幻聴のように、スメタナ『わが祖国』が耳朶のどこかで鳴りひびいていた。
以下ウィキペディアの支援をうけながら、いくつかの作品を紹介したい。

◎ スラヴ叙事詩『イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた―』
スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より印刷の様子 スラヴ叙事詩『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校―クラリッツェ聖書の発祥地―』より紙漉きの様子イヴァンチッチェでの聖書の印刷  神は我らにことばを与え給うた
1914年 610 x 810 cm

ヤン・フスとペトル・ヘルチツキーの影響を受けて1457年に設立されたチェコ兄弟団(ボヘミア兄弟団)は信仰にとって教育が重要なものと考え、ミュシャの故郷であるイヴァンチッチェに学校を創設し、聖書をチェコ語に翻訳した。
この聖書はその後クラリッツェで印刷されるようになり「クラリッツェ聖書」と呼ばれた。
チェコ語で書かれたこの聖書は国民の連帯意識を高め、またチェコ語文法の基本ともなった。
画面右手には印刷された聖書をルーペを使ってチェックする人人が描かれ、左手前方には老人のために聖書を読む青年が描かれている。青年の厳しい表情はカトリックによるその後の迫害を予知しているかのようである。

◎ スラヴ叙事詩 『ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』よりシメオン皇帝 スラヴ叙事詩『ブルガリアのシメオン皇帝―スラヴ語文学の暁の明星ー』より筆記者と本を読む老人ブルガリア皇帝シメオン スラヴ文学の明けの明星
1923年 405 x 480 cm

ブルガリア帝国の皇帝シメオンⅠ世は帝国の版図を拡大し、その治世は帝国の繁栄の時代であった。ブルガリアは文化の中心地ともなり、ここには文人、学者、司祭に囲まれた皇帝が描かれている。

◎ スラヴ叙事詩 『フス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし』
スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』 スラヴ叙事詩『ポジェブラッドのイジー王』より読書する人びとフス教徒の国王ボジェブラディのイジー 条約は尊重すべし
1923年 405 x 480 cm

フス派の穏健派(ウトラキスト派)はバーゼル協約によってフス派を認めさせることに成功した。しかし教皇はこの協約を一方的に破棄し、ローマに従うことを求めてきた。
この時チェコの国王であったのがボジェブラディのイジーであった。彼はおよそ150年ぶりのチェコ人の国王であり、賢明な王として知られた。
この作品では横柄な態度をとる教皇の使節に対し、玉座を蹴って立ち上がり、要求をはねのける国王の姿である。右下に描かれたこちらを向いた少年は「ローマ(ROMA)」と題された大きな本を閉じており、ローマとの関係の終焉を表している。

【 活版 à la carte : チェコ プラハ での過去ログ紹介

【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層|’16年9月

プラハ[1]

5317183b8e979c2d28ba03fb44bf5b30[1] Kafkasd2[1] DSCN0428 DSCN0430 DSCN0436 DSCN0439チェコの首都プラハは「モザイクのまち」「文明の十字路」「塔と黄金と革命の都市」「建築様式の宝庫」とも評される。わが国の京都と姉妹都市でもあり、まちの規模や歴史の重厚な蓄積には共通点が多い。
このプラハに2014年09月、2016年08月と二度にわたる旅行をこころみた。いずれもモスクワ経由で、機中泊をふくむ三泊五日のあわただしい弾丸旅行であった。

《 プラハ城場内 : 黄金の小径 22番 フランツ・カフカ作品執筆地のひとつ 》
やつがれは、いなかの高校生のころ、ユダヤ系プラハのひと、フランツ・カフカの作品にはまったことがある。当時はまさかその生家をたずね、その執筆場所のひとつを訪問し、墓参ができるなどとは考えたこともなかった。

《 アールヌーヴォーの旗手の変貌 Alphonse Mucha アルフォンス・ムハ or ムシャ 》
旅の同行者 : 大石は、いなかの高校生のころにアルフォンス・ムハ(わが国ではムュシャとする)の絵画に衝撃をうけたという。1989年(平成元)北海道立近代美術館を中心に「没後50年 アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ムュシャ展」が開催され、髙島屋を中心に全国巡回展が催された。福岡の美術館でも開催され、その四半世紀余も前の展覧会図録はいまだに本人の宝物らしい。

20160830172215_00001 20160830172215_00002「Alphonse Mucha」はチェコでうまれ、パリでデビューし、米国で美術教育にたずさわった人物である。わが国ではフランス音で「ミュシャ」とされることが多いが、明2017年に『スラヴ叙事詩』を中心として東京でおおきな展覧会が予定されている。

『スラヴ叙事詩』は、人気画家、アール・ヌーヴォーの旗手として官能的な女性を描いていたムハを想像するとおどろくことになる。この大作はちいさなものでも4メートル四方、おおきなものでは8×6メートルもある巨大な作品である。
パリとアメリカを往復して活躍していたムハが、1908年(明治41)ボストン交響楽団によるスメタナの『わが祖国』をきいてひどく感動し、余生を祖国チェコ国民とプラハ市に捧げるべく無償で描いた20枚の連作である。
ムシャ大作製作中 DSCN0262 DSCN0100 DSCN0101《 兄・造形家:ヨゼフ・チャペック Josef Čapek 弟・作家:カレル・チャペックKarel Čapek 》
さきごろ報告したが、かねて『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2014年晩夏、三泊五日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの民族墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。
891ebad257c3d67fdff8b3805a300815[1]仔細に読むとわかるが、この日本語訳の『園芸家12カ月』の表紙の写真は、カレルが本書を執筆した場所とはことなり、結婚して晩年に居住していた場所である。
ヨゼフとカレルの兄弟が居住していた住居は、それぞれ門を構えたおおきな二世帯住宅で、プラハ10区に現存している。
DSCN0027 DSCN0005 DSCN0017 DSCN0018 DSCN0025上掲写真の向かって右側が弟・カレルの住居、養蜂箱がおかれている左側の玄関が兄・ヨゼフの住居であった。
ふたりはこの建物にいっときともに住んでいた。そしてカレルは結婚後に郊外に住居を求めて移転し、兄・ヨゼフはゲシュタポにとらわれ収容所で歿したが、子孫が現在もここに居住しており、プラハ市10区は、とりあえずカレルの住居跡を購入・管理しているが、まだ一般公開はされていない。

ヨゼフとカレルの共作ともいうべき『山椒魚戦争』がのこされた。同書はどんな名訳を得てもその魅力の半分も伝わらないおもしろい書物である。
今回のプラハ行きは、たまたま給費留学で、プラハのカレル大学に留学されていたサラマ・プレス倶楽部会員:山崎洋介氏と、プラハ在住10年余という友人:平松さんの支援をいただくことができた。事前のメールの交換で『山椒魚戦争』のチェコ語版のいくつかを購入できた。
近近撮影データとともにご紹介したい〔その後山崎氏と平松さんは結婚され、山崎氏は日本大学歯学部准教授に就任されている〕。
DSCN9934(25%縮小) DSCN0702(25%縮小) DSCN6316(25%縮小) DSCN6327(25%縮小) DSCN6331『プラハ迷宮の散歩道 ―― 百塔の都をさまよう愉しみ』(沖島博美 ダイヤモンド社)の冒頭ではプラハの魅力をこのようにしるしている。

プラハは奇跡だ、と人は言う。
何百年もの間に多くの戦争が起こった
それでも町は破壊されなかった
中世の町並みがそのまま残った

神聖ローマ帝国の偉大な皇帝カール四世は
プラハが最大の帝都になることをめざした
14世紀、プラハは神聖ローマ帝国一の大都市となった
その栄華がこんにちのプラハの基礎になっている

重厚なゴシック建築の間に輝くアール・ヌーヴォーの館
時代を超えて美しく調和する様ざまな建築様式
この美しい町は奇跡ではない
プラハ市民が命をかけて守ってきたものなのだ

以下はやつがれの備忘録であり、ご紹介予定の項目である。
◎ ムハ関連:ムハ美術館、ホテルパリ、プラハ市民会館、民族墓地、スラヴ叙事詩
◎ チェコの魅力:キュービズム建築、石畳、市電、技術博物館、アドルフ・ロース、ビールと煙草