本木昌造、諱:永久-ながひさ-がもちいていた佩刀が長崎歴史文化博物館で鑑定書つきで展示され、長崎会員からスマホ写真を頂戴いたしましたので紹介いたします。
本木家・平野家(矢次家)はともに長崎の地役人で、明治維新以後のいっときは「卒族」とされていましたが、苗字帯刀をゆるされていました。
日本美術刀剣と押形展
会 場 長崎歴史文化博物館企画展示室
期 間 2018年9月13日-24日 会期終了
主 催 日本美術刀剣保存協会長崎県支部
平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への進出の夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した、1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。
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大阪四天王寺境内にある「本木氏昌造翁紀念碑」。ここにみる本木昌造の銅像と碑域は明治30年に建立されたが、昭和20年金属供出令で銅像をうしなった。昭和60年の再建にあたっては、本木昌造が士装した資料がなかったため、絵画をよくした森川龍文堂:森川健市が戦前の銅像の記憶をもとに絵画をおこし、それにもとづいて像造したとされる。
(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大印工本木先生銅像復元委員会 昭和60年9月)
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