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【森鷗外記念館】「鴎外・ミーツ・アーティスト ─ 観潮楼を訪れた美術家たち」1月 13日-4月1日

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文京区立森鷗外記念館
コレクション展
「鷗外・ミーツ・アーティスト ─ 観潮楼を訪れた美術家たち」

会  期:2018年1月13日[土]-4月1日[日]
     * 休館日は2月26日[月]、27日[火]、3月27日[火]
開館時間:10時-18時(最終入館は17時30分)
料  金:一般300円(20名以上の団体:240円)
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小説家、翻訳家、陸軍軍医など八面六臂の活躍で知られる鷗外ですが、実は美術とも深いつながりを持っており、沢山の美術家の知己を得ています。
鷗外は美術家たちの良き理解者でありながら、時には厳しい批評者でもあり、また美術庇護者としても彼らを支えます。鷗外にとっても、彼らは仕事仲間であり、一方で創作の源泉となる存在でもありました。

鷗外が出会った美術家たちの中から、鷗外の居宅・観潮楼(現・文京区立森鴎外記念館)を訪れた美術家に、100年以上の歳月を経て、再び集まってもらいましょう。
鷗外に作品を評価された洋画家・藤島武二、鷗外作品のモデルにもなった水彩画家・大下藤次郎、東京美術学校で鷗外の講義を受けた彫刻家・高村光太郎、鷗外の著書の装丁を多数手がけた洋画家・長原孝太郎…… 。
美術界における旧派と新派、あるいは明治美術界から白馬会、太平洋画会との価値観がせめぎ合う中で、鷗外は彼らにどのような眼差しを向けてきたのでしょうか。
そして美術家たちの眼は鷗外自身と鷗外作品に何を見出したのでしょうか。観潮楼に届いた美術家たちの書簡、鷗外の美術批評、鷗外作品を彩った装丁本など当館のコレクションを通して、「鷗外が見つめた美術家」と「美術家が見つめた鷗外」に迫ります。

【 詳細情報 : 文京区立森鷗外記念館

【展覧会】 森鷗外記念館 特別展「明治文壇観測 ── 鷗外と慶応三年生まれの文人たち」 2017年10月07日─2018年01月08日

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文京区立森鷗外記念館
特別展 「明治文壇観測-鷗外と慶応三年生まれの文人たち」
◯ 会       期 : 平成29年10月7日[土]-平成30年1月8日[月・祝]
* 会期中の休館日 : 平成29年11月28日、12月26日、12月29日-平成30年1月3日
◯ 開館時間 : 10時-18時(最終入館は17時30分)
◯ 会       場 : 文京区立森鷗外記念館 展示室 2
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慶応3(1867)年は、明治を代表する文人たちがそろって誕生した年として記憶されています。夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉など一時代を築いた文豪たち、俳句・短歌の革新に力を注いだ正岡子規、辛辣な批評家として活躍した齋藤緑雨、劇評の近代化に努めた三木竹二(鷗外の弟・森篤次郎)などが、この年に生まれました。
鷗外は彼らより5歳年上ですが、彼らとともに日本の近代文学史に足跡をのこしました。

本展では、鷗外主宰の雑誌「めさまし草」(明治29年1月から明治35年2月)を座標軸に、鷗外と慶応3年生まれのひとたちとの文学交流を辿ります。
鷗外・露伴・緑雨・紅葉らによる合評形式の文芸評論、子規一門の句が多く掲載された俳句欄、創刊号から連載された三木竹二の劇評など、「めさまし草」には、近代文学の出発期を主導した鷗外と慶応3年生まれたちとの共演が目立ちます。
一方で、文学史を眺めたとき、「めさまし草」の時代は文壇が変化していく時期と重なります。日清戦争後の社会情勢の変化に伴う新しい文学の登場と模索、道半ばでの死、自然主義思潮の登場……。

同じ時代を生きた者が、歩み方や活躍時期を同じくするとは限りません。それぞれの業績を「鷗外」という定点から観測した時、何がみえてくるのでしょうか。今年150歳を迎える慶応3年生まれと、鷗外による〝明治文壇観測〞を試みます。

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【展覧会】 文京区立 森鷗外記念館 森家三兄弟 ― 鷗外と二人の弟 10月1日[日]まで

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コレクション展 「森家三兄弟 ― 鷗外と二人の弟」

◯ 会       期 : 平成29年7月7日[金]-10月1日[日]
* 会期中の休館日 : 9月26日[火]
◯ 開館時間 : 10時-18時(最終入館は17時30分)
◯ 観  覧 料 : 一般300円(20名以上の団体 : 240円)
* 中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料
◯ 会      場 : 文京区立森鷗外記念館 展示室 2
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鷗外には二人の弟がいました。
一人は5歳年下で慶応3(1867)年生まれの篤次郎、もう一人は17歳年下で明治12(1879)年生まれの潤三郎です。現在では語られる機会が少なくなってしまいましたが、それぞれ劇評家、考証学者として活躍した弟たちです。

鷗外が「敏捷(びんしょう)」と形容する篤次郎は、鴎外と共に西洋詩や演劇論を翻訳し、鷗外主宰の雑誌「しがらみ草紙」「めさまし草」などの編集にも関わりました。
潤三郎は鷗外の史伝『伊澤蘭軒』『北條霞亭』などにおいて、鷗外の依頼を受け、史料蒐集や調査を引き受けました。また、鴎外の業績を後世に残すため、全集や評伝の刊行に努めました。
鷗外は二人を頼りにしていた一方で、長兄として、弟たちが困難に直面した際には、解決のために全力を尽くします。鷗外は自身と篤次郎について、
「こんな風に性癖の相違があつても、博士と弟とは喧嘩と云ふ程の喧嘩をしたことがない」(『本家分家』)と記していますが、三人の関係そのものを物語っているのかもしれません。

本年は篤次郎生誕150年にあたります。本展では、二人の弟たちに焦点をあて、彼らの生涯と業績を当館のコレクションを通して紹介します。互いを敬愛し、信頼しながら支え合ってきた森家三兄弟の絆をご覧ください。

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【特別展】 鷗外の「庭」に咲く草花-牧野富太郎の植物図とともに 森鷗外記念館 4月8日-7月2日

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「鴎外の〈庭〉に咲く草花―牧野富太郎の植物図とともに」
2017年4月8日[土]-7月2日[日]
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文京区立森鷗外記念館には、『花暦』と題する鷗外の自筆原稿が遺っています。この原稿には、2月から9月までの8カ月間の草花の開花状況が記されています。書かれた年代は確定できていませんが、明治30年頃の観潮楼(鷗外自邸)の庭を観察したものと推定されます。

明治の文豪・森鷗外が草花を観察していたこと、少し意外に思われるかもしれません。鷗外の日記や子どもたちの遺したエッセイからは、草花を好み園芸を楽しむ一面をみることができます。
また、鷗外は自身の作品の中にもたくさんの草花を登場させています。その数500種以上、植物専門家でもないひとりの作家が取り上げる数としては、並外れた数といえるでしょう。
作品の中の草花は、季節感や自然の美しさを忠実に伝えるものもあれば、鷗外の想いを伝える表現手段として登場するものもあります。草花の健やかな姿に鴎外は心を癒されると同時に、草花への関心が創作活動の契機にもなっていたにちがいありません。

本展では、観潮楼で咲いていた草花と、鴎外作品にみられる草花を、鴎外と同じ文久2(1862)年生まれの植物学者・牧野富太郎の植物図とともに紹介します。
草花の姿や印象を文字で記録した鷗外と、部分図や解剖図を盛り込み形態や性質を緻密な図で記録した牧野。
互いの日記に名前が記されるなど、ふたりには交流もありました。物事を克明に捉え続けたふたりの目を通して、鷗外の〈庭〉に咲く草花をご覧ください。

【 詳細 : 文京区立森鷗外記念館

【会期末迫る 文京区立森鷗外記念館コレクション展】 死してなお──鷗外終焉と全集誕生 四月二日[日]まで

20170321173649_00001 20170321173649_00002文豪・森鷗外は、大正十一年七月九日午前七時、自宅観潮楼でその生涯を終えました。
死の間際まで職務に励み、また著作のための調査に努め、自らの不調を自覚しながらも診療を拒み続けました。鷗外は死に直面しながら、どのような心持ちで最期の日々を過ごし、どのような言葉を遺したのでしょうか。当館には、鷗外の終焉に関する資料が多数遺されています。これらの資料を一挙展示し、鷗外逝去までの日々に迫ります。

鷗外逝去から十余日後、鷗外の葬儀委員長を務めた与謝野寛のもとに、『鷗外全集』刊行の企画が舞い込みました。寛は、鷗外と親交の深かった平野万里や永井荷風らを中心とした編集会を結成し、『鷗外全集』刊行に着手します。鷗外顕彰の第一歩とも言える『鷗外全集』刊行の経緯を、与謝野寛の書簡を中心に辿ります。

鷗外が死してもなお人々の記憶に残り、現代まで顕彰され続けるのは、鷗外を親しみ敬ってきた先人たちの尽力にほかなりません。鷗外終焉の地であり、鷗外の業績を顕彰する文京区立森鷗外記念館で、生から死へ、死から再生へと向かう鷗外の姿を追います。

【 詳細 : 文京区立森鷗外記念館