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【朗文堂ブックコスミイク】 好評既刊書 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』 平野富二生誕170年祭

バーナー c744292ca56cacab6da941241b982f44[1] 平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
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平野DM表 平野DM裏『平野富二伝-考察と補遺』 フライヤー PDF 13.93MB 
朗文堂コスミイク 既刊書案内

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 ── 長崎の長州藩蔵屋敷──

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古谷昌二さんuu古谷ブログトップ明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、
同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を
駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
ご訪問をお待ちしております。

20171002114232_00001この石垣の上がかつての長州藩蔵屋敷で、明治最初期「新町私塾」があった。
1934(昭和9)年頃の撮影 『長崎印刷百年史』口絵より
厳流坂01厳流坂02かつて「新町活版所」跡碑と併設されていた「詩儒 吉村迂齋」碑。
現在は見あたらない。

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古谷昌二ブログ
探索:平野富二の生まれた場所
町司長屋の前にあった桜町牢屋
町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
町司長屋の背後を流れる地獄川
矢次事歴・平野富二祖先の記録
矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
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⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
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{明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
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明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
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ことしは{明治産業近代化のパイオニア 平野富二生誕百七十周年}です。
あたらしい WebSite 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連のブログ情報を意欲的に記述しています。
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古谷昌二ブログ/
探索:平野富二の生まれた場所 ② 町司長屋の前にあった桜町牢屋 ③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡 ④ 町司長屋の背後を流れる地獄川 ⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録 ⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人

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【新WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 ── 矢次事歴 提供:「平野富二生誕の地」碑建立有志会

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年 
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平野表紙uu[1]

平野富二伝 考察と補遺
編著者  
古谷 昌二
装  本  
A4判、ソフトカバー、864ページ 図版多数
定  価  
本体12,000円 + 税
ISBN978-4-947613-88-2 C1023

本書は、明治前期の活字版印刷術の黎明期に活躍し、ついで、造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発など、 わが国近代産業技術のパイオニアとしておおきな業績をのこした平野富二に関して、 これまで一般にはあまり知られていなかった産業人としての事績を発掘して、その全貌を紹介し再認識してもらうことを目的とする。 同時に、明治前期の工業界をリードした、技術系経営者としての平野富二の事績紹介が、そのままわが国近代の産業技術発達史の一断面をなすものである。
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〔古谷昌二 略歴〕
昭和10年(1935)、東京都に生まれる。
昭和33年(1958)、早稲田大学第一理工学部機械工学科を卒業。
同年、石川島重工業株式会社(現、株式会社IHI)に入社。
製鉄設備を初めとして、産業機械分野の設計、開発、技術管理、新機種営業部門を歴任。
平成7年(1995)、定年退職に際し、その後の一つのテーマとして平野富二の事績調査に取り組み、IHI OBを中心とした社史研究会「平野会」の設立と運営に協力。
日本機械学会正会員。
「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表 同会ブログに積極的に執筆中
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古谷昌二のブログ 05月 <「矢次事歴」 : 平野富二の祖先の記録> より一部抜粋
b111290cf961a5fbd02952deeee60c00[1] 3602b5dfee780fb196392065b40fe03e[1]「矢次事歴」は、矢次家初代の関右衛門から九代温威までの事歴を纏めたものである。これは、矢次家直系の子孫矢次めぐみ氏(十三代)に伝承されている。


<平野富二の兄と甥について>
 明治維新により長崎奉行支配の地役人の組織は、名称は変更されたが、基本的にはそのまま新政府に引き継がれた。矢次温度威は、正徳3年(1713)から九代にわたって長崎奉行に仕えた最後の町司となった。

矢次温威は、天保14年(1843)10月19日に父豊三郎の長男として生まれ、幼名は和一郎、後に重之助、重平と称し、明治2年(1869)に温威と改名した。
幼名を富次郎と称した平野富二は、3歳下であった。

父の病死により、嘉永1年(1848)10月、数え年6歳で矢次家の家督を継いで、町司役となったが、幼年のため、奉行所の内〻の了解を得て、年令を11歳として届け出た。
『慶応元年 明細分限帳』(越中哲也編、長崎歴史文化協会、昭和60年)によると、「矢次重之助 丑二十八歳」となっている。これは、丑年の慶応1年(1865)に数え年28歳であることを示す。実際は、5歳のサバを読んでいるので23歳となる。
数え年13歳のとき、初めて加役として新仕役掛を勤めている。慶応1年(1865)2月、町司定乗に昇進した。

慶応4年(1868)4月、長崎奉行所に代わって新政府の下で長崎裁判所が設置され、振遠隊第二等兵を命じられる。この時点で、初代から続いた町司の役職は無くなったと見られる。
新政府の下で奥州に兵卒として派遣され、転戦して帰還後、上等兵となった。明治5年(1872)2月、振遠隊は廃止され、代わって少邏卒(月給6両)を命じられたが、同年中に解任された。邏卒は今でいう警察官に相当する。

温威の父豊三郎の時代である天保9年(1836)当時、長崎奉行に仕える町司などの地役人は2,069人で、長崎の町人の13人に1人が地役人という情況だったとされている。この地役人たちが一斉に家禄を失ったことになる。
以後、特定の職を持たない温威一家は、資産を食いつぶし、親類縁者を頼って不安定な生活を送ることになる。

矢次辰三は、矢次家に入籍してから本木昌造の経営する新街私塾に学び、明治16年(1883)頃に温威の長女こうと結婚、一男三女をもうけている。

幕府の崩壊により家禄を失い、不安定な生活を送る中で成人し、どのような職に就いたかは不明である。
しかし、矢次辰三著とする明治27年(1894)9月30日発行の「長崎港新図 全」と題する地図がある。この地図は、東京の三間 ミツマ 石版印刷所の石版、色刷りの地図で、長崎の虎與號 トラヨゴウ 書店から発行されている。

【図書紹介】 『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』 髙松 昇著 株式会社IHI発行 2009年8月1日 非売品

20170209174758_00001 20170209174441_00001 故髙松昇受賞式にて: 前列左より 田村氏、髙松氏、石原氏。後列右より 合田氏、弊所山路理事長

2 0 1 0 年1 0 月2 9 日
プレス・リリース(PDF)
2 0 1 0 年度「住田正一海事奨励賞」、「住田正一海事史奨励賞」及び
「住田正一海事技術奨励賞」決定のお知らせ
                       社団法人日本集会海運所
                       住田海事奨励賞管理委員会

住田正一海事奨励賞は、永年海運造船事業に従事するかたわら、海事資料刊行、海軍史の研究を通じて、広く海事文化発展に寄与された故住田正一氏を記念して設置された。
正一氏のご子息、住田正二氏( 元運輸
事務次官、前J R 東日本社長、現J R 東日本相談役) が、1 9 6 9 年に創設して以来、社団法人日本海運集会所に住田海事奨励賞管理委員会を設け、選考決定している。2 0 0 2 年からは、海事史奨励賞、20 0 8 年度から海事技術奨励賞が設けられた。

本年度も 3  賞それぞれに応募作があり、選考の結果以下のように決定した。
・海事奨励賞受賞
作:石原伸志・合田浩之共著『コンテナ物流の理論と実際』(成山堂書店)
・海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平
野富二の生涯』(株式会社 IHI )
・海事技術奨励賞受賞作:社団法人日本船舶海洋
工学会海中技術研究委員会編『海洋底掘削の基礎と応用』(成山堂書店)
2010年10 月2 5 日、日本海運集会所において受賞式が行われ、各
受賞者に賞状と賞金が贈呈された。

< 海事史奨励賞受賞理由>
海事史奨励賞の『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』は、幕末から明治という激動の時代を47 歳という短命で逝った富二の生涯を、各地に散逸する新たな資料や情報を地道に長期間かけて発掘し、はじめて知られざる実像に迫ったもの。
同造船所を自らの手で創り上げた情熱と行
動力、そして起業家としての生きざまは、日本のものづくりの危機が叫ばれるなか、時代を超えて読者に訴えかけるものがある。
著者の髙松
昇氏は1943年株式会社東京石川島造船所入社、19841 年専務取締役を経て1991年退社。
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平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち 「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書《ことしは平野富二生誕170年祭》
明治産業近代化のパイオニア-平野富二の生誕170祭の記念すべきとしである。
それを期として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が結成され、同会専用URL<平野富二:明治産業近代化のパイオニア>も公開された。
平野富二東京築地活版製造所初号明朝体<平 野  富 二>

弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。数えて16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)数えて27歳 婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に神田佐久間町東校内に「長崎新塾出張所」(現東京都千代田区神田和泉町1)のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

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《2002年12月1日 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式と故髙松 昇さん》
HiranoH1[1] 20170209164033_00003平野富二碑 旧長崎禅林寺建立平野富二
(弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
(1846.8.14 - 1892.12.3)

◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より(雨天決行)
場 所  平野家墓苑(東京谷中霊園 乙11号14側)
【 朗文堂ニュース過去ログ : 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式 】
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デジタル時代の時計はあまりにはやくておどろかされる。
上掲した<海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』(株式会社 IHI )>などの貴重な情報も、情報過多の渦に巻きこまれ、つい失念してご報告がおおきく遅延してしまうことがある。

髙松 昇氏は、1919(大正8)年12月04日 富山県高岡市の出身。
1941(昭和16)年 旧制富山高等学校卒業、1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部卒業、同年株式会社東京石川島造船所(現IHI
)入社、爾来同社に勤続し1981(昭和56)年石川島播磨重工業(現IHI)専務取締役となり、1896(昭和61)同社常任顧問、1991(平成3)6月退社された。
そのころ筆者は髙松氏の謦咳に接する機会をえて、小田急線で世田谷区成城のお住まいを数度訪問したが数年前に逝去されたかたである。
ここにご報告の遅延を故人にお詫びするとともに、遅ればせながら皆さんに 髙松 昇氏の功績を紹介した。
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2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催された。
長崎から移築された「平野富二碑」のご披露のためもあって、会場を「東京谷中霊園内 平野家塋域」とした。告知に際して「雨天決行」としたが、折悪しく早朝から冷たい雨がふり、開始時刻前には本格的な降雪となった。

ご列席いただいた皆さんは、予測をはるかに上まわり115名の多くのご参加をいただいた。なかには遠方から、それも高齢のご出席者が多かった。
あわてて葬祭業者に依頼して、テントをふた張り用意し、石油ストーブも数基設置したが震えあがるほどの寒さはきびしかった。

 とりわけ平野富二の生誕地:長崎からは、三菱重工業株式会社長崎造船所(造船所史料館)、長崎県印刷工業組合(阿津坂 實氏)などの参列者がめだった。

墓前祭のあと、日暮里駅前の料理屋で平野家主催の小宴がひらかれた。ところが列席者が多くて一度では収容しきれず、若手は降りしきる雪の中で<谷中霊園掃苔会>を急遽開催して、90分遅れで小宴に参加していただいた。
平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>関連の広報物のデザインは杉下城司氏が担当されたが、このにわかに設定された<掃苔会>のご案内役も担当していただいた。
また<THE CEREMONY TO COMMEMORATE  TOMIJI HIRANO 1846-1892>が、山本太郎氏によって欧文に翻訳・組版され、列席者に配布された(使用書体 : Adobe Jenson pro,  Adobe Warnock pro)。
ついでながら、このときの公式記録はプロの撮影によるビデオデープでのこされている。
デジタルメディア環境の激変もあり、そろそろほかのメディアに書きかえて皆さんのお役に立ちたいとおもう。

20170209164033_00001 20170209164033_00002[PDF:TOMIJI HIRANO 1846-1892

平野富二の在京20年ばかりの間の活躍分野は、<金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木>といったひろい領域におよんでいる。
それぞれの分野でその関連分野の研究はすすんでいたが、とかく専門分野に特化しがちで、平野富二の全体像の把握は困難な情勢にあった。

おもへらく、2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催され、髙松氏をはじめとする「平野会-IHIの事業歴史研究会」の研究実績と、印刷・活字界の研究が突きあわされ、その後のひろい交流の基盤となった功績はきわめておおきかった。

あらためて、髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯 下巻』 「あとがき」文中の-協力者御芳名-の記事をみると、先般発足した<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の会員の名前が列記されていることにおどろく。
なかんずくこの「あとがき」は、「最後に、前記平野会の古谷昌二氏のご協力に感謝致します」として結ばれている。
こうした先達の遺徳にみちびかれて、古谷昌二氏を発起人代表として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が設立され、地道な研究と活動がはじまっている。
皆さまのご支援を期待するゆえんである。
古谷昌二さんuu[1] 平野表紙uu