タグ別アーカイブ: 平野富二の会

【会員からの報告】笹井祐子さん|長崎の「平野富二生誕の地」碑と「新町活版所跡」碑を訪問

CD70ACBF-CE4D-45C3-8497-0780F46D694A平野富二生誕の地 碑(2018年11月「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 建立)、長崎市所有
所在地/長崎市桜町 9-6(現 長崎県勤労福祉会館脇)
3A971A27-E1F9-4F53-84F1-283E3DF0A5AD長州萩藩蔵屋敷跡・吉村家跡・新町私塾跡・新町活版所跡碑・活字の碑

所在地/長崎市興善町 6(現 長崎県市町村職員共済組合会館)

2019年9月中旬、校外授業で学生と一緒に長崎有家方面に出かけました。長崎は良い旅でした。
自由行動の時間に、新設がなった「平野富二生誕の地碑」と、「新町活版所跡碑」に学務スタッフだけで行ってきました。近くに縁結びの小さい神社があって、とても良かったです。
写真を撮影したのは大学院生です。

「平野富二の会」の皆さまによろしくお伝えください。
                   日本大学 藝術学部 美術学科教授:笹井祐子会員

8D1E57B8-0C47-4A94-A79E-9EF91EA61189「平野富二生誕の地」碑 近くにある縁結びで著名な出雲大社分館
c9eed8f9657e0934ae113a3b687ee065[ 参考: 平野富二-明治産業近代化のパイオニア 平野富二の会

【ちいさな勉強会】本格公式書体、いぶし銀のタイプ製作者 ── タイプクリエーション:米 田 隆さん|10月04日 朗文堂 4 F-A

48144643e5bbe7a961268b284e0f2fb7-225x300講 師:米 田   隆 1955年  東京うまれ

「朗文堂ちいさな勉強会」
本格公式書体、いぶし銀のタイプ製作者 ── タイプクリエーション:米 田  隆さん
2019年10月04日[金] 19:00-21:00 朗文堂 4 F-A

個性や独自性が表出した活字書体もときには悪くない。それでもそこに、当たり前のように、いつの間にか存在し、ひろく使われている活字書体もある。そんな書体を作りつづけている米田さんをお迎えします。
本講座は狭隘な会場で開催されています。もうしばらくは基本的に会員のみの参加で、一般公募はしておりませんのでよろしくお願いいたします。

web4

 {米田 隆 略歴紹介}

1955年生まれ。東京都出身。
「欧文活字の晃文堂」の系譜を継承した、リョービ印刷機販売株式会社デザイン室/リョービイマジクス株式会社を経て、1988年有限会社タイプクリエーションを設立。
この間、終始「本明朝体シリーズ」製作者の故杉本幸治氏に師事した。
独立後は、リョービ、リコー、N E C、大日本印刷を中心に、写真植字書体・デジタルタイプの公的大型書体開発チームに携わる。
────────────────

{米田 隆/タイプクリエーション 主要関与書体}

◉ かな書体ぽぽる・クリアレター(NEC)
◉ 平成明朝体の製作第一次・第二次製作者チームに参加(日本規格協会/リョービ)
◉ MSゴシック体製作、Windows XP 表示用かなデザイン製作(リコー)
◉ 本明朝-Book 製作(リョービ・現モリサワ取扱)
◉ 「秀英体平成の大改刻」プロジェクトに参加、秀英角ゴシック体デザイン製作(大日本印刷)
◉ 歌手 A N 引退記念アルバム制定書体の製作
◉ 懇話会の話題:いわゆる G T 書体6万4千字の思いで。いわゆる電子政府書体の思いで。
オリジナルpen_web-1-2-768x768

【 有限会社タイプクリエーション  URL/Type Creation 】
[ 関連:花筏 タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載
 { URL管理者・日吉洋人、図版画像協力/木村雅彦・白井敬尚・組版工学研究会 }

kazari-upper

00010002 03上掲三冊の小冊子は「本明朝-Book」の製作に際して編集・執筆:組版工学研究会、組版・デザイン:白井敬尚形成事務所により製作され、リョービイマジクス株式会社から2004年に配布された。

重層的かつ複合的な 本明朝-Book の開発コンセプト [本明朝-Book Ⅰ pp 7-10]
本明朝-Book は、あくまでも本明朝シリーズのなかにある新書体として、その字体と形姿はすでに先行して販売されている 本明朝シリーズ と同一のものとして、使途に応じた多様な選択に応じられるようにした。
そのウェイトと黒みは 本明朝-L と 本明朝-M のほぼ中間においた。また横線を幾分太め、ふところを幾分しぼって、後述するダズリング・イフェクトの発生を防止した。

本明朝-Book のひら仮名かな・カタ仮名の字面は、本明飼-Mよりも小振りとして、ベタ組みでの安定感と紙面の解放感を獲得した。そのおもな理由はいわゆる新印刷方式の登場と普及にあった。つまりオンデマンド印刷や、製版フィルムを使わないで、データーから直接印刷版に焼き付ける「 CTP印刷」の普及によって、従来の明朝体のウェイトでは、図書や雑誌の文字組版印刷においては、細すぎたり太すぎるという傾向がみられたからである。

◉ 視覚補整対応方式(Optical Scaling)を意識した使途の設定
使用適性サイズは、ほぼ 11Q から 16Q の本文用サイズとして設定した。これには少しばかり説明が必要であろう。活字書体とは長らくのあいだ視覚補整対応方式(Optical Scaling)によって造られてきたという歴史がある。
すなわち金属活字の歴史のなかでは五五〇年余にわたって書体の基本デザインを変えずに、活字サイズの大小の変化に応じて、判別性と可読性の向上のために、大きなサイズではカウンターを狭めたり、鋭角な線質をやわらげたりしてきた。
また小さなサイズではカウンターを広げたり、線質を明瞭な構成に切りかえるなどして、それぞれの活字父型に複覚補整をほどこしながら彫刻・描画してきたという歴史があった。

それがパントグラフの原理を応用した、機械式活字活字父型・母型彫刻機(俗称ベントン)の登場をみてからは、急速に比例対応方式(Linear Scaling)の活字書体製造法に変化した。
この方式では、ひとつ、あるいはほんの少数の文字原図だけで、すべての活字サイズに一律に比例的な縮小または拡大をさせて対応する方式となった。光学式写真植字機はほとんどすべてがこの方式であり、現在の電子活字のほとんども同様である。

活字原図の比例対応方式には経済面を中心として長所も多いが、やはり大きなサイズではカウンターがゆるくなって間延びした文字形象となったり、小さなサイズではカウンターが狹まり、細線部が不明瞭にななって判別性に劣ることがあった。
すなわち、本明朝-Book においては、推奨組版適性サイズを、ほぼ「11Q から 16Q」に限定することによって、視覚比例対応方式 ── オプティカル・スケーリングを実現させたともいえた。

◉ ダズリンダ・イフェクト(Dazzling Effect)── 幻惑効果の防止に向けて
同時に 本明朝-Book の開発に際しては、ダズリンダ・イフェクト(Dazzling Effect)の解消を強く意識した。ダズリング・イフェクトとは幻惑効果のことであり、夕イポグラフィ用語では、「目がチカチカして読みづらい」ことをいう。
つまり、様式化された硬質な線が際立ち、水平・垂直線の線の太さの差が大きく異なって、機械彫刻の特徴が際立った「硬質な画線」がもたらす強いコントラスト、つまり明朝体漢字全般に避けがたく発生する幻惑効果への対応を、わが国では意識的にはじめて試みたものである。

組み方向は標準を縦組みとして、センター軸を中心に厳格な検証を加えた。すなわち快適な読書をもたらすために、なによりもセンター軸がすっきりと通り、揺らぎのない組版表情が安定感と信頼感をもたらすと判断された。図書・雑誌の組版印刷や、読み物としての大暈文書処理などの本文印刷用の市場にターゲットをしぼった、前例のない電子活字を意識して開発に着手した。

◉ 縦組み・横組み用とテクスト内容に配慮して12書体の仮名活字を同梱
横組みへの対応は、組み版ソフトウェアなどのアプリケーション・ソフトの充実と展開によって、漢字書体の形姿は変えずに、おもにかな書体の充実をもって臨むことにした。
すなわち 本明朝-Book のかな書体は、標準仮名、小仮名、新仮名、新小仮名の四種類をあらたに設計した。
またそれぞれに中心軸を重視し、ひら仮名・カタ仮名の大小関係を厳格に設定した縦組み用仮名と、ベースライン揃えを重視した横組み用を用意し、さらに「振り仮名・ルビ」用のデーターも別途に設計したので、本明朝-Book   OpenType フォントには、都合12種類の仮名書体が存在することとなった。
当然プロポーショナル・ピッチ(いわゆるツメ組み)もアプリケーションに依拠しながら実施できるという、プロフェッショナルの要望を最大限に取り込んだ、意欲的な開発となった。
──────────
『本明朝-Book  創世記』の三冊の小冊子は、【 タイプクリエーション URL/Type Creation 】に収録されており、以下の PDF データーゟ閲覧が可能です。
本明朝-Book  創世記Ⅰ 』『 本明朝-Book  創世記 Ⅱ 』 『 本明朝-Book  創世記 Ⅲ

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎〔シリーズ全七回最終回〕

無題
東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

はじめに
1.終末期の東京築地活版製造所の経営概要
2.専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿について
    2-1 吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」
       (一)伝票制会計
       (二)設備の更新
       (三)不用部門の切捨て
       (四)別工場
       (五)内政から外交
          終 焉
    2-2 その他の事績
3.解散を決議した第9代社長松田一郎について
    3-1 東京築地活版製造所との関わり
    3-2 取締役としての事績
    3-3 第9代社長としての事績
まとめ
シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長略歴」を完結するのに当たって
──────────
ま と め

第6代社長松田精一が辞任して専務取締役吉雄永寿に会社経営を託した昭和13年(1935)5月28日から、第9代社長松田一郎が会社解散を決議した昭和13年(1938)3月17日までの2年10ヶ月間は東京築地活版製造所の終末期であった。
この間、第7代社長空席のまま専務取締役として吉雄永寿が2年5ヶ月半、次いで第8代社長空席のまま代表専務取締役坂東長康が4ケ月半、それぞれ経営責任者として勤めた。その後は、代表取締役松田一郎が第9代社長に選任されて即日、会社解散を決議して清算業務に入った。

吉雄永寿と松田一郎の二人は、昭和6年(1931)3月12日の臨時株主総会において初めて取締役に選任され、以後、重任を重ねていた。それを勘案すると、会社役員として経営に参与した期間は共に7年間となる。一方、坂東長康が経営に参与したのは僅か4ヶ月半で、その業績は伝えられていない。

吉雄永寿は、父吉雄永昌が遺した東京築地活版製造所の株式50株に新株50株を加えて100株を所有する株主であった。
吉雄家は長崎のオランダ通詞の家柄で、吉雄永昌は吉雄辰太郎と称していた。初期の東京築地活版製造所の取締役であった品川藤十郎とは遠い親戚で、上京して大蔵省、内務省に出仕した。その頃、平野富二に協力して築地本社事務所の建築代金支払いの保証人となった。また、フィラデルフィア万国博覧会への活字類出品に協力したと見られている。

その後、高砂熱学の役員を経て、東京築地活版製造所の取締役として招聘されたとされている。昭和5年(1930)11月末の決算で大幅赤字を計上した東京築地活版製造所は、印刷業界の老舗「築地活版」をつぶすなとの声に押されて株主吉雄永寿は取締役に選任された。
当時の社長松田精一は長崎の十八銀行頭取や長崎商工会議所会頭を務め、多忙のため病気がちで、「築地活版」の経営に専念することができない状態にあった。その補佐役として長男の松田一郎も同時に取締役に就任した。

会社役員に就任して後、会計に伝票制を取り入れ、人員整理を断行、大阪営業所の縮小、印刷事業に着目した高速オフセット印刷機の導入と、板橋区志村に新工場の計画、同業組合への積極的参画など、経営改善に努めた。
しかし、満州事変に始まる日中戦争への拡大により経済・社会情勢はこれに味方せず、関東大震災後の復興のための多額の借入金と昭和5年後期の大赤字が足を引っ張り、昭和12年後期の決算で前期に続いて赤字計上の見込みとなったため、昭和12年(1937)10月29日開催の臨時株主総会において専務取締役を辞任し、監査役に就任した。

吉雄永寿の跡を引き継いだ代表専務取締役坂東長康は、債権者代表として送り込まれた人物ともいわれ、会社経営上の貢献についての記録は見当たらない。第8代社長空席での経営責任者であったが、会社解散決議の直前まで最後の経営責任者となった。

松田一郎は、松田精一、吉雄永寿、坂東長康の3代にわたる経営責任者の下で都合7年間、取締役を務め、経営を支えてきた。この間の松田一郎が果たした経営上の貢献は明らかにされていないが、資金面での協力が大であったことは推測される。
松田精一を代表とする松田一族の保有する株数は、東京築地活版製造所の発行株数12,000株の40%を越え、東京築地活版製造所とはある意味では松田一族の会社といっても過言ではない。

昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会が開かれ、経営責任者である坂東長康の不審な行動を見抜いた吉雄永寿は監査役の権限で退任を要求し、その結果、代表取締役に選任された松田一郎が第9代社長に就任した。松田一郎は、役員選任が終わった後、引き続いて会社解散の決議を行い、清算に入ることになった。
したがって、松田一郎は社長として会社経営を行うことなく、会社清算に入ったことになる。
この時の会社清算がどのように行われ、何時、解散届が役所に提出されたか不明であるが、築地の土地と建物は日本勧業銀行からの借入金の弁済に充てられた。その他、従業員の解雇手当や債権者への弁済には製品・資材や器械・器具類の売却により、多少の混乱はあったものの無事に清算を完了したと見られる。
なお、株主に対しては、昭和5年後期の決算以降、一度も株式配当を行うことなく会社解散となったが、最大株主である松田一族の代表でもある松田一郎の協力要請により、納得できる処置が講じられたものと見られる。

明治18年(1885)7月の会社設立から数えて53年、平野富二が築地に工場を建設した明治6年(1873)6月から数えると65年、わが国活版印刷の普及と発展に尽くした東京築地活版製造所は、その混乱を表面化することなく静かに幕を閉じた。

6a9d7b967230809909039bcc1bc4829e吉雄永寿の肖像写真
<日本工業倶楽部『創立二十年記念 会員写真帖』、昭和13年3月>

この写真は、東京築地活版製造所 常務取締役として掲載された。
日本工業倶楽部は大正6年に創立され、
東京築地活版製造所も会員の一員として加入していた。

【 古谷昌二ブログ : 東京築地活版製造所 歴代社長略伝 全七回まとめ 】
◉ 第一回 東京築地活版製造所 初代社長 平野富二
◉ 第二回 東京築地活版製造所 第二代社長(空席)、社長心得 本木小太郎
◉ 第三回 東京築地活版製造所 第三代社長  曲 田 成
◉ 第四回 東京築地活版製造所 第四代社長 名村泰蔵
◉ 第五回 東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎
◉ 第六回 東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一
◉ 第七回 東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
────────────────
[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。

当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

089aee8ce5f83770c85c66b12def716e (1) 2b062ad61fdc05565a450497053096b5 8eea1088f2130431c4ab6c7c23fbfee6 9268aaaf25ee2444a76ba3c57e83ba53 295ea6e53921610dc2c517d6ec01c01d

【平野富二の会】『通運丸開業広告』から|石川島平野造船所が最初に建造した「通運丸」シリーズ|東京築地活版製造所五号かな活字に影響をあたえた「宮城梅素-玄魚」

本項は、近日発行『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』(編集:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、発行:平野富二の会、B 5 版、ソフトカバー、384頁、図版多数)より。
その抜粋紹介の記事として、「平野富二の会」のウエブサイトに掲載されたものを転載した。
表紙出力『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』表紙Ⅰ

表紙の画像は以下より採取した。
◉ 右上:最初期の通運丸 ──『郵便報知新聞』(明治10年5月26日)掲載広告
◉ 右下・左上:『東京築地活版製造所 活版見本』(明治36年 株式会社東京築地活版製造所)電気版図版から採録

◉ 左下:『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所 平野富二)アルビオン型手引き活版印刷機
◉ 中心部の図案:『本木號』(大阪印刷界 明治45年6月17日発行)を参考とした。

kazari-upper

【 石川島平野造船所 ── 現:石川島資料館 】

石川島資料館入口石 川 島 資 料 館
[ 所在地:中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階 ── もと佃島54番地 ]
digidepo_847164_PDF-6東京石川島造船所工場鳥瞰図『東京石川島造船所製品図集』
(東京石川島造船所、明治36年12月、国立国会図書館蔵)

石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間にわたって、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場であった。この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現:I H I )開設の起点としている。

石川島資料館は、このような長い歴史を持つ石川島造船所の歴史を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

web用_200090 300dpi 通運丸開業広告 印刷調整 軽量化-1『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年
山崎年信 画 宮城梅素-玄魚 傭書 物流博物館所蔵

『通運丸開業広告引札』(物流博物館所蔵)には、平野富二が石川島平野造船所を開いて最初期に建造した「通運丸」が描かれている。
平野富二が石川島平野造船所を開いて最初に建造した船は、内国通運会社(明治5年に設立された陸運元会社が、明治8年に内国通運会社と改称。現:日本通運株式会社)から請け負った「通運丸」シリーズだった。

内国通運会社は、政府指導で組織化された陸運会社であったが、内陸部に通じる河川利用の汽船業にも進出した。
隅田川筋から小名木川・中川・江戸川を経由して利根川筋を小型蒸気船で運行する計画を立て、明治9(1876)年10月末に開設したばかりの石川島平野造船所に、蒸気船新造4隻と改造1隻を依頼した。

明治10(1877)年1月から4月にかけて、相次いで5隻の蒸気船が完成した。新造船は第二通運丸から第五通運丸まで順次命名された。第一通運丸と命名された改造船は、前年に横浜製鉄所で建造された船艇であったが、船体のバランスが悪く、石川島平野造船所で大改造を行ったものである。
同年5月1日から第一、第二通運丸により東京と栃木県を結ぶ航路の毎日往復運航が開始され、盛況を博した。

「通運丸」と命名された小型蒸気船は第五六号まで記録されており、昭和23年代まで運行されていた。

この絵図に描かれた通運丸が第何番船かを特定することはできない。しかし宣伝文から推察すると、利根川下流の木下や銚子まで運行していることから、すでに第五通運丸までが就航していると考えられる。
したがって、石川島平野造船所で納入した五隻の通運丸のいずれかが対象になる。後年、船体の外輪側面に大きく「通運丸」の船名が表示されるが、初期には、この航路は内国通運会社の独占だったため標示されていない。

津運丸帆柱付き帆柱のある通運丸を描いた「内国通運会社」新聞広告。当初は一本の帆柱を備えていた。
『郵便報知新聞』明治10年5月26日に掲載。(『平野富二伝』古谷昌二 著から引用)

web用_200097 300dpi 東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図 野沢定吉画-1 軽量化船体の外輪側面に大きく船名が表示された通運丸
『東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図』明治10年代
野沢定吉 画 物流博物館所蔵

上掲の『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年は、画は山崎年信、傭書は宮城梅素ー玄魚の筆になる。以下に詳細を掲載した。

【山崎年信 ── 初代】(1857─1886)
明治時代の日本画家。安政四年うまれ。歌川派の月岡芳年(1839─92)に浮世絵をまなび、稲野年恒、水野年方、右田年英とともに芳年門下の四天王といわれた。新聞の挿絵、錦絵などをえがいた。明治19年没、享年30。江戸出身。通称は信次郎。別号に仙斎、扶桑園など。

────────────────────

「傭書家: 宮 城 梅 素-玄 魚 」

通運丸開業広告引札』の撰並びに傭書は、宮城梅素・玄魚(みやぎ・ばいそーげんぎょ)によるものである。以下は錦絵に書かれた文章の釈読である。[釈読:古谷昌二]

廣 告

明治の美代日に開け。月に進みて
盛んなれば。實に民種の幸をやいはん。
國を冨すも亦。國産の増殖に在て。
物貨運輸。人民往復。自在の策を起
にしかず。されど時間の緩急は。交際
上の損益に關する事。今更論をま
たざるなり。爰に當社の開業は。郵
便御用を専務とし。物貨衆庶の乗
客に。弁利を兼て良製迅速。蒸気
数艘を製造なし。武總の大河と聞たる。
利根川筋を逆登り。東は銚子木下
や。西は栗橋上州路。日夜わかたず
往復は。上等下等の室をわけ。
發着の時間は別紙に表し。少も
遲〻なく。飛行輕便第一に。三千
余万の諸兄たち。御便利よろしと
思したまはゞ 皇國に報ふ九牛
の一毛社中の素志を憐み給ひて。
數の宝に入船は。出船もつきぬ
濱町。一新に出張を設けたる。内國
通運會社の開業より試み旁〻
御乗船を。江湖の諸君に伏て希ふ

      傭書の 序  梅素記

梅素_画像合成_02『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年の錦絵の広告文を釈読に置き換えたもの

宮城梅素-玄魚(1817─1880)は、幕末から明治時代の経師・戯作者・傭書家・図案家である。
文化14年江戸うまれ。浅草の骨董商ではたらき、のち父の経師職を手つだう。模様のひな形、看板の意匠が好評で意匠を専門とした。
條野傳平・仮名垣魯文・落合芳幾らの粋人仲間の中核として活動。清水卯三郎がパリ万博に随行したおり玄魚の版下によってパリで活字を鋳造して名刺を製作したとされる。

明治一三年二月七日没。享年六四。姓は宮城。名は喜三郎。号:梅素(ばいそ)玄魚・田キサ・呂成・水仙子・小井居・蝌蚪子-おたまじゃくし-など。
江戸刊本の伝統を継承した玄魚の書風は東京築地活版製造所の五号かな活字に昇華されて、こんにちの活字かな書体にも影響を及ぼしている。

東京築地活版製造所五号かな活字_03

東京築地活版製造所 五号かな活字(平野ホール所蔵)
『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所)

2013平野富二伝記念苔掃会-10一恵斎芳幾(落合芳幾)が書いた晩年の宮城梅素-玄魚
『芳潭雑誌』より

【 詳細: 平野富二の会 】

【Information Release 14】「平野富二生誕の地」碑建立有志の会|日本二十六聖人記念館:宮田和夫会員ゟ|長崎直近情報-碑前三の堀の櫻が満開に!

DSC_0681 「平野富二生誕の地」碑 正面

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 ── 皆さま
[日本二十六聖人記念館 宮田和夫]

ご無沙汰しております。
本日〔4月9日〕「平野富二生誕の地」記念碑の様子を見にいきました。
碑の表面側からみると、真正面に、なんと満開の桜が!
富二さんが毎年ちょうどこの季節に、満開の桜を愛でることができるようになった
気がしまして、
この場所に設置してよかったな、とはじめて思えました。

(撮影ポイントの制約で、添付写真では分かりにくいかもしれません)

長崎は風がつよく、ことしは春の黄砂? もありました。
碑の文字がかなり深く、太く彫り込まれている関係もありますが、

大切な碑文に土ぼこりが溜まりやすいことが分かりました。
ときどきふき取り作業にあたりたいと思います。

また今日は渋沢栄一の肖像が新一万円札に採用とのニュースもあり、
感慨深い一日となりました。

平野富二の会 ── 皆さまお元気でご活躍ください。[宮田和夫]
────────────────
「平野富二生誕の地」碑は2018年11月24日、長崎県勤労福祉会館
(長崎県長崎市桜町9 ― 6)脇、長崎市の歩道に設置されました。
碑は江戸時代の三の堀跡の方向をむいていますが、ここが櫻の名所だとは
知りませんでした。

宮田会員の写真で、前方突き当たり、満開の櫻並木を左手に曲がると、
そこから信号ひとつ、三分ほどで長崎奉行所立山役所(現:長崎歴史文化博物館)裏門です。
すなわち、安政4年-1857-数えて12歳の矢次富次郎少年 ── のちの平野富二が
当時のならいで、家僕(中間)ひとりをともなっての「通勤路」にあたります。
表門にまわっても七-八分ほど、どうやら富次郎少年の運動不足はいなめないようです。

長崎訪問の折は、ぜひともここにお立ち寄りいただき、平野富二「通勤路」を追体験いただき
できましたら碑周辺の清拭にあたっていただけたらと勝手なお願いを。
そして宮田さん、いつもながらご負担をおかけしまして恐縮です。

[ 参考: 長崎歴史文化博物館 日本二十六聖人記念館