《小女》1914年 株式会社中村屋蔵
中村屋サロン美術館
企画展示 開館10周年記念展
中村屋の 中村 彝 -つね-
会 期 2024年8月28日[水]- 11月4日[月]
前 期:8月28日[水]- 9月29日[日]
後 期:10月2日[水]- 11月4日[月]
会 場 中村屋サロン美術館
〠 160-0022 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル 3 階
開館時間 10:30 - 18:00(最終入館 17:40 まで)
休 館 日 毎週火曜日、9月30日[月]、
10月7日[月]・10月28日[月]10:30-13:00
* 但し、開館記念日の10月29日(火)は開館
入 館 料 500円 * 高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください)
* 障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料
特別協力 茨城県近代美術館
主 催 中村屋サロン美術館
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❖ 第1章 1907年-1911年 太平洋画会で育まれた時代
中村彝は、白馬会研究所で生涯の友となる中原悌二郎、鶴田吾郎、高野正哉らと出会い、翌年の1907年3月、中原を追うかたちで太平洋画会へ移ります。 当時、太平洋画会では中村不折、満谷国四郎が教鞭をとっていました。1908年の《裸婦習作》などには、パリのアカデミー・ジュリアンでジャン= ポール・ローランスに学んだ不折や満谷らの指導の跡を伺うことができますが、1909年から10年に描かれた自画像には、多くの自画像を描いたこと で知られるレンブラントの影響を見て取れます。さらに風景画や1911年の《麦藁帽子の自画像》では、ルノワールをはじめとする印象派やポスト印 象派の風情が感じられます。
❖ 第2章 1911年12月-1915年4月 中村屋裏のアトリエ時代
1911年12月、彝は中村屋裏にあるアトリエに住むこととなり、その間、相馬一家と家族のように過ごしました。 この時期、彝は相馬夫妻の子供たち、特に長女 俊子をモデルに多く描き残しています。俊子は、肺を病んでいた 彝の体調が悪いと献身的に看病をし、次第に二人は恋心を抱くようになりました。しかし1914年3月東京大正博覧 会に俊子の裸体画が出品されると、相馬夫妻と彝との間に亀裂が生まれてしまいました。16歳を迎えようとして いたミッションスクールに通う俊子にとって、裸体画のモデルを務める行為はスキャンダラスな出来事だったのです。
1915年4月、俊子への想いを抱えながら中村屋裏のアトリエから去ることとなります。
❖ 第3章 1915年 日暮里・谷中、1916年-1924年12月24日 下落合のアトリエ時代
1915年4月に中村屋裏のアトリエを引き払った彝は、日暮里そして谷中に居を構えます。相馬夫妻に俊子との結婚を申し込みましたが叶えられず、 翌1916年1月に夫妻立ち合いのもと俊子と面談を行います。これが俊子と顔を合わせる最後となりました。この年彝は、下落合の地にアトリエを 完成させて移り住みます。
1920年には、ロシアの盲詩人 ワシリー・エロシェンコをモデルに肖像画を描き、10月の第2回帝展に、その2年後にパリの日仏美術交換展に出品されて好評を博しています。
画集を見ながら、ルノワールやセザンヌらの表現を自分の作品に取り入れ自分の体力が許す限り精一杯活動を続けましたが、1924年12月24日、彝は息を引き取ります。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 新宿 中村屋サロン美術館 ]
[ 関 連 : YouTube 中村屋サロン美術館 開館10周年記念 中村屋の中村彝(前期)7:30 ]
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