タグ別アーカイブ: ミツカン水の文化センター

【良書紹介】ミツカン 水の文化センター|『水の文化』69号|特集 Z世代の水意識

水の文化センター 表紙

ミツカン 水の文化センター
『水の文化』69号
Z世代の水意識
2021年11月
A4判  表紙とも52ページ フルカラー  あじろ綴じ
──────────────
1995年(平成7)は「インターネット元年」と呼ばれる。ここから私たちの生活は大きく変わっていくのだが、この時期以降に生まれた人口層が「ジェネレーションZ(Z世代)」だ。
Z世代は生まれたときからインターネット環境が身近で、デジタルデバイスを扱ってさまざまな情報を吸収する「デジタルネイティブ」とも呼ばれている。
環境問題に関心をもち、道徳意識も高く、堅実な経済観念をもつといわれるZ世代は「水」についてどう考えているのか──。旧世代とは異なる視野や価値観をもつとされるZ世代に「水」の切り口から着目し、これからの社会について模索したい。

ミツカン 水の文化センター ウェブサイトゟ

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト 既出まとめ }

【良書紹介】「ミツカン水の文化センター」機関誌|『水の文化』 第68号発刊|特集 みずみずしい果実

ミツカン68

ミツカン 水の文化センター
『水の文化』68号
みずみずしい果実
2021年 07月
A4判 表紙とも52ページ フルカラー  あじろ綴じ
──────────────
水分をたっぷり含む果実は、食後のデザートとして大好きな人が多い。旬に贈答品としていただいてもうれしいものだ。しかし、ふだんから食べている割に、私たちは果実のことをあまりよく知らない。
例えば、今ある果実の多くは、明治時代以降に導入されたものであることや、海外では水分を得るために果実を食べ、また野菜と果実を特に区別せずサラダとして混ぜて食べていることなど。

日本の果実のあり方は世界的に見るとやや特殊だ。甘みと見た目が重視される結果、高価になりがちで、日本人の果実摂取量は欧米人の半分以下といわれる。そして国内の果樹農家は稲作農家以上のスピードで減っているという。
人口爆発による食糧不足や気候変動など、地球が抱えている課題からも果実が果たす役割は重要となる。それは世界中でたくさんの果実を食べればその分だけ果樹が増え、緑地も広がっていくはずだからだ。おいしくて楽しい気分にさせてくれるみずみずしい果実が、私たちにもたらすであろうことについて考えたい。

intro湧き水に浮かべたスイカ(撮影 前川太一郎)

『水の文化』68号で取り上げる「果実」について
農林水産省が定める果樹(クリやウメ、ミカン、ナシなど=おおむね2年以上栽培する草本植物及び木本植物で果実を食用とするもの)のほか、文部科学省が「日本食品標準成分表」で定める「果実類」(草本植物から収穫されるものであっても通常の食習慣において果物と考えられているイチゴやメロン、スイカ)とする。ちなみに、メロン、イチゴ、スイカは、総務省の「家計調査」でも「生鮮果物」として扱っている。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト 既出まとめ }

【良書紹介】「ミツカン水の文化センター」機関誌|『水の文化』 第67号発刊|特集 みずからつくるまち

2021-03-15

ミツカン 水の文化センター
『水の文化』67号
みずからつくるまち
2021年 02月
A4判 表紙とも52ページ フルカラー あじろ綴じ
──────────────
北海道の旭川空港から車で10分ほどの場所にある東川町(ひがしかわちょう)。この人口減少社会にもかかわらず、近年は人口が増加傾向にある。また、約8300人の町民全員が地下水だけで暮らす、日本でも珍しい町だ。
過去およそ25年以内に転入した「移住者」比率は56.6%。つまり今の町民の2人に1人が「よそから移ってきた人」だ。移住した人たちは、東川町にどんな魅力を感じたのだろうか。

いっぽう、もともとこの地に住んでいる人たちは、1985年(昭和60)に「写真の町」を宣言するなど一風変わった施策を講じるこの地にどんな愛着をもち、地域にかかわっているのか。
美しい大雪山連峰に育まれた水を守り、教育に力を入れ、住民主体のイベントも活発な東川町を探り、今後の地域社会のあり方と、そこに「水」がどうかかわるかについて考えたい。

intro上空から見た東川町。遠くにそびえるのはこの地の象徴、大雪山連峰(提供:東川町)
ミツカン 水の文化センター WebSite ゟ

東 川 町  [ ミツカン 水の文化センター WebSite ゟ ]
人口は8328人、世帯数は3879世帯(2017年12月31日時点)。面積は247.06km2(東西36.1km・南北8.2km)。
北海道のほぼ中央に位置し、北海道北部の中核都市・旭川市に隣接する。日本最大の自然公園「大雪山国立公園」の区域の一部であり、大雪山連峰の最高峰・旭岳(2291m)は東川町域となる。
1894年(明治27)、旭川村字忠別原野の殖民地として区画整理が行なわれ、1895年(明治28)に香川、富山、愛知、徳島県人などが入植し開拓が始まる。1897年(明治30)12月、旭川村から分割して東川村と称するまでの2年半は旭川村の一部だった。「平成の大合併」(1999年から政府主導で行なわれた市町村合併)では「単独自立」の道を選択した。
[ 参考 : 東川町 ウィキペディア

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト 既出まとめ }

【良書紹介】「ミツカン水の文化センター」機関誌|『水の文化』 第65号発刊|特集「船乗りたちの水意識」

水の文化誌65

ミツカン水の文化センター
機関誌『水の文化』65号
船乗りたちの水意識
水が及ぼす浮力によって人やモノを運ぶ船は、鉄道や自動車、飛行機よりもずっと昔から、私たちの暮らしと社会を支えてきた。今日の文明は船があったからこそともいえる。
島国・日本が輸出入をほぼすべて船に頼っているように、船は今も重要だ。そして、大小の船を操る「船乗り(船員)たち」は、物理的にも心理的にも常に水と接しているし、水は船上で貴重なものだ。
船乗りたちの水に対する感覚や節水意識は、日常生活を陸上で過ごす私たちとやはり違うのだろうか? 海上での生活における水はどのような存在なのか。
主に外洋を舞台とする船乗りたちの水への向き合い方、そして海によって隔絶された船上におけるコミュニケーションや自然観を探る。

intro横浜港新港ふ頭5号岸壁に停泊する海技教育機構の練習船「海王丸」(撮影:川本聖哉)
ミツカン 水の文化センター WebSite ゟ

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト 既出まとめ }

【良書紹介】「ミツカン水の文化センター」の機関誌|『水の文化』 第63号発刊|特集「桶・樽のモノ語り」

63水の文化

ミツカン 水の文化センター
『水の文化』63号
桶・樽のモノ語り
水をはじめとする液体を貯蔵、あるいは運ぶために使われてきた桶と樽。桶とは桶側-おけがわ・箍-たが・底板からなる木製の容器のことであり、樽はその桶に蓋を付けて密閉できるようにしたものだ。
江戸期の日本は世界でも有数の桶と樽の生産地であり、昭和初期まで人々の暮らしのみならず産業や経済を支えていたのは桶と樽だ。戦後、桶と樽はあまり使われなくなったが、今でも桶や樽にこだわる人は存在する。

持続可能性が求められる現代において、今なお使いつづけられる桶と樽の価値とはいったい何なのか。大型の貯水・貯蔵装置の視点から考えたい。

mizunobukka  63木桶がひしめくしょうゆのもろみ蔵。この蔵独特の生態系をつくるのに木桶の果たす役目は大きい(香川県・小豆島のヤマロク醤油にて) ミツカン 水の文化センター WebSiteゟ

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト まとめ }

【良書紹介】「ミツカン水の文化センター」の機関誌|『水の文化』 第60号発刊|特集「 水 の 守 人 -もりびと」

20181203195735_00003

「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第60号
特 集 「 水 の 守 人 -もりびと」

ミツカン水の文化センターは、「人と水とのかかわり」によって生み出されてきた生活様式を「水の文化」と捉え、「健全な水循環」が保持されるよう20年にわたり研究活動や情報交流活動を行なってきました。その過程では、水を使いながら水・水辺を次世代につなげようと取り組むたくさんの人たちとの出会いがありました。

一つの節目となる機関誌『水の文化』60号では、水循環を支えるこうした人たちを「水の守人-もりびとー」と名づけ、取り組みの経緯や現状を取材しました。
多岐にわたる「水の守人」の活動記録を通じて、これからの人と水とのかかわり方を考えたいと思います。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト まとめ }

【良書紹介】 「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第59号発刊 特集{釣りの美学 ── 静寂と興奮の狭間で}

水の文化59intro

「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第59号
特集「釣りの美学 ── 静寂と興奮の狭間で」

古来釣りは趣味として、またはスポーツとして親しまれてきた。例えば1653年に出版された Izaak Waltonの “ The Compleat Angler ”(邦題『釣魚大全-ちょうぎょたいぜん』)は哲学に始まり(釣りをする前に)、魚の種類、釣り方、さばき方、料理方法などまでを綴った「釣り人の聖書(バイブル)」と呼ばれる。かの開高健もこの書の愛読家であり、釣りをするときは〈そこにある静かなることを学べ ── Study to be quiet ── 〉という言葉を一番大切にしていた。

日本でも1723年(享保8)に旗本の津軽采女-つがるうぬめ-が著したとされる『河羨録-かせんろく』や、江戸後期に黒田五柳が書いたとされる『釣客伝-ちょうかくでん』において、釣りの心得や準備に始まり、やはり魚の種類と習性や釣り方、料理方法まで記されている。

このように、釣りは多くの釣り人によって、静寂と興奮の狭間で支持されてきた。それはなぜなのか。そして、魚を釣るという行為を通じて生まれる「水と人との関係性」についても考えてみたい。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 活版アラカルト まとめ }

【良書紹介】 「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第57号発刊 特集{江戸が意気づく イースト・トーキョー}

20171105003923_00001「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第57号
特集「江戸が意気づく イースト・トーキョー」

東京の東側が元気だ。例えば、蔵前や清澄白河といったエリアでは、若いクリエイターたちが隅田川と関連運河の水辺のまちに魅力を感じて移り住んでいる。
振り返れば、江戸時代の江戸(東京)の中心軸は今よりも東側だった。幕府が「明暦の大火」(1657年[明暦3])をきっかけに隅田川左岸の低湿地を開発したことで、市街地(町場)は東へと広がっていった。

今、行政や企業、住民などさまざまな担い手が、東京の東側で生み出しつつある「現代ならではの魅力」を、地域の資産である隅田川と関連運河の視点から探っていく。東京の東側「イースト・トーキョー」で起きている変化の裏には、いったい何があるのだろうか――。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 文字壹凜 まとめ }

【良書紹介】 「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第56号発刊 特集{雲をつかむ}

20170715182903_00001
空を見上げるとそこにある「雲」。雲とは、大気中に固まって浮かぶ水滴または氷の粒(氷晶(ひょうしょう))のこと。空気が高く上がると温度が下がり、空気に含むことができなくなった水蒸気が集まって雲になる。
その雲は雨をもたらす物理的な存在というだけではない。なぜかしら人々の心に響く存在でもある。雲は人の夢や希望などあいまいなものにたとえられることが多く、また雲と聞いて思い浮かべる風景は一様ではない。雲に対する印象や思いは人それぞれではないだろうか。

いつもそこにある身近な存在である雲。その実体はどのくらい知られているだろうか。そして、刻一刻と姿を変え、二度と同じ形にならない雲は、人間にとってどのような存在なのか。
人の暮らしとの関係や、心理的・文化的な側面にも光をあてながら、雲の魅力に迫る。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター 】 { 文字壹凜 まとめ }

【良書紹介】 「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』 第54号を発刊 {昆布ロード}をご存じですか

水の文化54 resizedミツカン(株式会社Mizkan Holdings)は、2004年(平成16)創業200周年を迎えました。
「水」の恩恵を受け、「水」によって育てられてきたミツカンは、「水」をテーマとした社会貢献活動として、1999年(平成11)1月「ミツカン水の文化センター」を設立しました。

人の営みの根源には、常に「水」があります。人はときには「水」と闘い、またあるときには「水」と共生しながら、自らの「暮らし」をつくり上げてきました。当センターでは、この〝人と水とのかかわり〟によって生み出されてきた生活様式を「水の文化」ととらえています。
「健全な水循環」が保持されるよう、さまざまな研究活動や情報交流活動を通じて、「水」の大切さを伝え、「水」への意識向上を広く図っていきたいと考えています。
──────────

◎ 「ミツカン水の文化センター」 の機関誌 『水の文化』

機関誌「ミツカン水の文化センター」の機関誌『水の文化』
機関誌『水の文化』は、1999年(平成11)1月創刊。年3回、無償で発行しています。
創刊以来54号にたっしましたが、「人と水」、「人と人」 のかかわりの中で生み出された、知恵や地域固有の習慣に光を当ててきました。「水の文化」 を探るうちに、思いがけない〝新たな視点〟を発見することも。

意識してきたのは、多様な領域への取材。物事を一側面からだけ見るのではなく、立場が異なる人がどう考え、どうかかわっているかに着目し、横串を通すことで新たな切り口を探ります。また、無形の財産ともいえる知恵や習慣が、未来へつながることを心がけています。
発行後しばらくすると、ホームページ[水の文化 バックナンバー]からPDFファイルもダウンロードすることができますので、定期購読申込とあわせてご利用ください。

【 詳細 : ミツカン 水の文化センター
────────

企業文化広報誌としてきわめて評価のたかい、ミツカン 水の文化センター『水の文化誌』は、本欄でも 2016年03月02日 52号2016年07月14日 53号 に際して紹介 してきた。
ミツカン水の文化誌5220160711153632_00001
水の文化54 resized『水の文化誌』54号の特集は、「和船が運んだ文化」であるが、特集 Story 1 「昆布ロード ―― 富山藩と薩摩藩による[知られざる交易]」を興味深く読んだ。

明朝末期のなにかの刊本で読んだ記憶があるが、その資料を探し出せないでいる。
すなわち記憶によれば、南宋の時代、蝦夷松前(北海道)の良質な昆布が、天然の良港であった 十三湊 (青森県五所川原市)にあつめられ、そこから日本海を経由して、沖縄列島や黄海の島伝いの航路をたどって、長江(揚子江)、河水(黄河)の上流まで、砂金とともにひそかに運ばれていたという記録である。

当時の和船はちいさくて、沿岸航海しかできず、もっぱら中国船での輸送、それもひそかな輸送であったようだが、東北の豪族 : 安藤氏や藤原氏には、この「抜け荷  ≒ 密貿易」による昆布と砂金の輸出によって、京都政権による「日宋貿易」にまさるとも劣らない、巨万の富をもたらされたとしていた。

当時の中国は、漢族により臨安(杭州)をみやことした南宋と、満州女真族により開封をみやことした金(前金)が淮河を境に南北に分割統治していた。
ところが、その空隙をつくように、いわば密貿易で、中国船は大陸奥地まで大型船・小型船を乗り継いで輸送をつづけたという。
当時の中国で昆布がもとめられたのは、沿岸部では罹患者はすくなかったものの、内陸部にいくほど一種の風土病があり、昆布はその風土病に劇的な治癒効果をもたらしたので、「俵物」とされた昆布は一種の薬草とされ、チベットや蜀(四川省)のあたりまで輸送されていたと記憶している。
20161110135039_00001 20161110135039_00002 20161110135039_00003

◎ 『水の文化誌』54号の特集 「和船が運んだ文化」
   特集 Story 1 「昆布ロード ―― 富山藩と薩摩藩による[知られざる交易]」

だしや煮しめの具材など、日本人の食生活になくてはならない昆布の産地は羅臼、利尻などに代表される北海道が有名だが、消費量では富山県が際立って多く、数年前までは不動の全国1位だった。
昆布の採れない富山県で、なぜ食されているのか。それは江戸時代、富山県域が昆布をはじめとする海産物を運んだ海上流通の中継地を多く擁していたことに端を発する。
同じく昆布が生息しない沖縄(琉球)でも食されているのは、富山藩の商人たちが薩摩藩に昆布を持ち込んでいたからだ。
この富山藩と薩摩藩による「知られざる交易」が、やがて倒幕へとつながる。その痕跡を富山県と鹿児島県でたどった。


富山藩と薩摩藩 ―― 外様同士の暗中飛躍
「昆布ロード」をご存じだろうか。北前航路が拓かれた江戸時代中期から幕末、明治にかけて、蝦夷地(北海道)で収穫された昆布は、北前船で京都 ・ 大坂へ運ばれるだけでなく、薩摩から琉球を経て、さらには中国(清 ・ 後金)まで届けられていた。その道筋を「昆布ロード」と呼ぶ。

当時、昆布は重要な品だった。甲状腺障害が流行していた清ではその予防のためにヨードを多く含む昆布が求められていたが、海水温が高い清の沿岸では良質な昆布は育たない。
そこで財政の悪化した薩摩藩は、東アジアの海洋貿易の中継地として栄えていた琉球王国を介し、清に対して「抜け荷」と呼ばれる密貿易を始める。清への貢ぎ物のひとつが松前産の良質な昆布だった。

ところが北海道からは遠い薩摩藩で、昆布の入手は容易ではない。そこで薩摩藩が目をつけたのが富山藩。ともに外様大名であり、財政の逼迫した富山藩と薩摩藩が密かに手を結び、互いに利益を得る。薩摩藩は密貿易で得た利潤で財政を立て直し、倒幕へと向かったともいわれる。
北前船を舞台とした両藩の企てとは、どのようなものだったのか。[後略]