カテゴリー別アーカイブ: Viva la 活版 ばってん 長崎

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-03  江戸神田川左岸に足跡をのこした長崎の写真士:上野彦馬

バーナー平野富二論攷輯バーナー01resized

上野彦馬上野彦馬  二二歳の写真(万延元年 一八六〇年)
撮影者 : 伊勢国津 藤堂藩藩士 堀江鍬次郎  撮影地 : 江戸 

上野彦馬(うえの-ひこま 一八三八-一九〇四)は、わが国写真術の先駆者のひとり。肥前長崎生まれ、号は季渓。
鵜飼玉川(うかい-ぎょくせん 一八〇七-八七)、下岡蓮杖(しもおか-れんじょう 一八二三-一九一四)らと並び、もっとも早い時期に「コロジオン湿板法」による営業写真館を長崎の中島川河畔に開いて、職業的に写真を撮りだした人物である。

彦馬の父、上野俊之丞(うえの-としのじょう 一七九〇-一八五一)、あざな常足ツネタリは、長崎の富裕な御用商人であり、長崎奉行所の御用時計士として、出島への出入りを許されていた。
彦馬はその次男であったとされるが、俊之丞の没後一二歳でその家督を相続している。
代〻の絵師でもあった俊之丞は多才なひとで、西洋の知識を積極的に取り入れ、火薬原料である硝石の製造、さまざまな形象や紋様を綿布に型染めにする「更紗」(中島更紗サラサ)の製造もおこなっていた。

また俊之丞は一八四八(嘉永一)年には、フランスでの発明から間もない写真術「ダゲレオタイプ」の機材一式をオランダからいち早く輸入した。
ダゲレオタイプとは、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、一八三九年にフランス学士院で発表された写真術である。
この方式では銀板上にアマルガムで画像が形成される。また一回の撮影で一枚の写真しか得ることができず、複製はできなかったし、できあがった写真は左右逆像となっていた。俊之丞は、日本にはじめてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入した人物とされている。

上野俊之丞による写真は管見に入らないが、同様のタゲレオタイプの写真術で、薩摩藩士が撮影した薩摩藩主 : 島津斉彬の写真が、日本人の手になるはじめての写真とされ、重要文化財に指定されている。

島津斉彬1857尚古集成館蔵

島津 斉彬(しまづ-なりあきら 一八〇九-五八)
薩摩藩の第一一代藩主。島津氏第二八代当主。 尚古集成館所蔵。
日本人の手による日本最古の銀板写真。国の重要文化財に指定されている。

そんな上野屋敷には、俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まり、家庭内での会話にも頻繁にオランダ語が使われていたとされる。そうした環境の中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育った。こうした父の行蔵は、まだおさなかったとはいえ、実子の彦馬に与えた影響はいわずもがなであろう。
母の伊曽イソも教育熱心で、彦馬は幼少時代の初学を、町内の私塾:松下平塾に通ってまなんでいた。

一八五一(嘉永四)年にその俊之丞が没し、上野彦馬が一二歳で家督を相続した。なにぶんまだ幼少であったので、翌一八五二年から四年間、大分日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園カンギエン」に入門して漢学を学んだ。
一八五六(安政三)年長崎へ帰り、オランダ語を通詞名村八右衛門(号:花渓)に伝授された。同門の先輩に福地源一郎(櫻痴 のち東京日〻新聞主筆兼社長、衆議員議員、戯作者)、名村泰蔵(のち司法官僚、貴族院議員、東京築地活版製造所第三代社長)らがいる。

さらに一八五八(安政五)年には、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする「医学伝習所」の中に新設された「舎密試験所」に入り、「舎密学」(セイミ-ガク Chemie オランダ語・化学)を学んだ。
このとき、蘭書から「コロジオン湿板法写真術」のことを知り、大いに関心を持つにいたった。そこで「舎密試験所」で同僚だった、伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎(あざな:公粛)らとともに、蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深めた。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも写真術の実際を学んだ。

《伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎と、藤堂和泉野守高猷の江戸屋敷》
この時代、肥前長崎は海外情報があふれ、沸騰する坩堝のような様相を呈しており、全国各地・各藩から有為の若者が崎陽長崎に集まっていた。
彦馬は「舎密試験所」で八歳ほど年長の伊勢津藩士(現在の三重県)堀江鍬次郎(ほりえ-くわじろう あざな:公粛 一八三〇-六五)と知りあった。鍬次郎は短命で、その業績に関して知るところは少ないが、正規の藤堂藩の藩士であり、先端知識の取得のため藩命をうけて長崎に派遣されていたとみられる。いずれにせよ鍬次郎は彦馬の良き先輩であり、共同研究者となった。
鍬次郎はときの藩主 : 藤堂高猷(とうどう-たかゆき、通称:和泉守、号 : 観月楼、維新後伯爵 一八一三-九五)に願って、当時一五〇両もした最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許された。

藤堂高猷 藩主藤堂高猷(とうどう-たかゆき 一八一三-九五)
明治十二年 明治天皇御下命『人物写真帖』<上>
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 PD

藤堂高猷は、幕末維新期の伊勢国津 藤堂藩藩主。藤堂高虎にはじまる藤堂家一一代藩主にして、最後の藩主となった。
黒船の来航をみた幕末には、幕命をうけて海防のための大砲を鋳造し、江戸湾台場の築造にあたるいっぽう、一八五八(安政五)年に藩領の町人のために郷校「修文館」を開設した。
もともと公武合体論者だったため、幕末には幕府軍と官軍(新政府軍)にたいして中立の立場をとっていたが、鳥羽・伏見の戦に際し、山崎関門で藤堂藩の指揮者:藤堂采女ウネメは、中立から一転してにわかに幕府軍を攻撃、幕軍敗北の原因のひとつとなったとされる。
その後の戊辰戦争では津  藤堂藩は新政府軍に参加して従軍した。

藤堂高猷の維新後は、拝領屋敷であった和泉橋近くの藤堂和泉守上屋敷(現千代田区神田和泉町一)を返上し、いっとき近在にあった旧藤堂藩中屋敷(現台東区)で生活した。一八六九年(明治二)年津藩知藩事となり、同四年六月隠居。伯爵。
明治二八年二月九日死去。享年八三。墓は東京都豊島区の染井墓地にある。法名は高寿院詢蕘文道大僧正。

一八六〇(万延元)年、彦馬と鍬次郎は藤堂高猷の命をうけて江戸に行き、神田和泉橋ちかくの藤堂藩中屋敷(現台東区)に滞在した。
それから一年近くの間、ふたりは幕府「蕃書調所」に通いながら、藤堂屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影していた。

上野彦馬その当時(一八六〇年 文久元年)二二歳の上野彦馬を、堀江鍬次郎が撮影した写真が残っている。すなわち本稿冒頭にかかげた肖像写真がそれである。
彦馬は月代を剃らない丁髷姿で、手指は深深と袂に隠している。のちに著名な写真士となる彦馬も、このころはまだ「写真を撮ると手指から魂魄を抜きとられる」とした迷信を信じていたのかとおもうと面白いものがある。
また和泉橋近くにあった藤堂藩邸が撮影地であったとされているが、それが上屋敷(千代田区)か、その北側に近在していた中屋敷(台東区)であったのかは記録されていない。

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
大名屋敷とは、
参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。はじめは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えていた。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。

東都下谷絵図resized

「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)から『江戸切絵図』(尾張屋版 1849-70)を紹介した。
「切絵図」では家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、和泉町という呼称はまだなかった。
現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢国 津 藤堂藩 二十七万九百五十石 とは》

藤堂高虎藤堂家宗家初代  藤堂高虎
弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)

藤堂 高虎(とうどう-たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主。のちに伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
藤堂高虎は、浅井・織田・豊臣・徳川と何度も主君を変えた戦国武将として知られる。また築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られる。

津藩は伊勢国(三重県)津に藩庁を置いた藩。安濃津藩・藤堂藩ともいう。藩主藤堂氏、城持ちの外様大名であった。一六〇八(慶長一三)年藤堂高虎入封後、廃藩置県まで続いた。
高虎は近江国犬上郡藤堂村(近世は在士村)地侍の家に生まれ、はじめ浅井氏に仕えたが、のち秀吉の異父弟秀長に仕え紀州粉河二万石、秀長没後は秀吉の直臣となって文禄四年伊予板島(宇和島)七万石の大名となった。

秀吉没後は関ヶ原の戦の戦功により徳川家康の篤い信任を受け、慶長五年伊予今治二〇万石に封ぜられた。
その後高虎は伊賀・伊勢入封して、大坂方に備えて同一六年軍事的拠点として伊賀上野、政治的拠点として津城の大修築をおこない、津には参宮街道を城下町に引き入れて各町割を定め、伊賀上野は三筋町など町割を作って城下町を整備した。

大坂冬・夏の両陣の功により、一六一五(元和元)年伊勢国鈴鹿・奄芸・三重・一志四郡内で五万石、同三年積年の功を賞され伊勢国田丸領五万石を加増された。また弟藤堂正高知行の下総国香取郡内三千石領有も認められ三十二万三千九百五十石となった。
一六三五(寛永一二)年二代藤堂高次のとき、高虎の義子高吉統治の伊予越智郡二万石は伊勢飯野・多気郡内と振替となり、一六六九(寛文九)年高次の隠居(致仕)に際し、次男の藤堂高通に五万石を分与して、支藩久居(ひさい)藩が立藩した。
一六九七(元禄一〇)年、藤堂高通の弟高堅の久居藩襲封時に三千石を分知して、津藩は二十七万九百五十石となり、この石高は維新時まで変わらなかった。

津は現在の津市となった。三重県中部、伊勢平野のほぼ中心にあり、三重県の県庁所在地で、人口は三重県では四日市市につぐ、およそ二八万人のまちとなっている。

《神田和泉町の起立と名前の由来》
神田和泉町(現:東京都
千代田区神田和泉町)は、一八七二(明治五)年に、伊勢津 藤堂藩上屋敷の旧地と、旧出羽鶴岡藩酒井家中屋敷と、三軒の旧旗本屋敷を合せて起立した。町名は藤堂氏の受領名「和泉守」にちなむ。
西は神田松永町、南は神田佐久間町二-三丁目、東は向柳原(むこうやなぎはら)一丁目、北は下谷徒(したや-かち)町一丁目・下谷二長(したや-にちょう)町(現台東区)。
藤堂氏は一六五七(明暦三)年の大火後当地に土地を拝領して幕末に至る。

沿革図書によると、神田和泉町(現:東京都千代田区神田和泉町)とされる地域は、延宝年中(一六七三―八一)は藤堂藩上屋敷、水野隼人正・中根平十郎の屋敷と酒井左衛門尉抱屋敷、一七一八(享保三)年は藤堂藩上屋敷、酒井左衛門尉抱屋敷、中根内匠・牧野伊予守・松平右近将監・朽木土佐守の各邸が占める武家地であった。

一七四六(延享三)年は朽木邸が植村庄五郎邸、牧野邸が稲葉興三郎邸になっている。
一七六五(明和二)年は松平邸が酒井勝次郎邸、植村邸が岩城伊予守邸に、一七八三(天明三)年は酒井勝次郎邸が松本十郎兵衛邸、岩城邸が三枝源十郎邸に、一七八九(寛政元)年は松本邸が松平兵庫頭邸に、一八〇六(文化三)年には鶴岡藩中屋敷と中根勘解由・三枝修理・能勢伊予守・能勢介十郎の屋敷となっていたが、維新まで一貫して伊勢津 藤堂藩をはじめとする武家地であった。

東京大学医学部略史 同大URL明治元年、津 藤堂藩邸は収公され、ここに「医学校、大病院」が設置された。翌年医学所は「大学東校」と改称し、一八七八(明治一一)年「大学医学校」が本郷に移設されたのちには、「東京帝国大学医科大学第二病院」(敷地二千九〇〇余坪)となった。
鶴岡藩邸跡には一八七四(明治七)年文部省医務局司薬場が置かれ、翌年医務局は内務省の管轄となった。
明治10年頃の和泉町周辺図『五千分一東京図』より「東京府武蔵国神田佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」部分
本図は参謀本部陸軍部測量局によって1876(明治9)年から10年間ほどをかけて作製された三角測量法の精密図で、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)より紹介した。したがって上野彦馬と堀江鍬次郎が藤堂藩中屋敷に滞在した一八六〇(万延元)年より16年ほどのちの地図であるが、江戸時代と現代をつなぐのには好適な資料となる。

下部を横断している河川は江戸城外堀の役割もはたした神田川で、石神井方面から流出する小河川をあつめた人口河川である。地図上では左から右に流れて隅田川に合流していた。和泉町は江戸時代もいまも神田川左岸のまちであった。

和泉橋から北(上部)へ直行する道は、「此通御徒町ト云」とされた通りで、現在は拡幅されて昭和通りとなり、その上を首都高速道路がはしっている。
地図左下の空き地は一八六九(明治二)年末の大火後に設置された火除地である。ここには鎮火神社として秋葉権現が祀られていたために秋葉原(あきばはら)と称した。現在の秋葉原駅にあたる。
この秋葉原駅昭和通り口からでると、昭和通りを横断して徒歩四-五分で「千代田区神田和泉町」に到着する。

上野彦馬はまたおなじ一八六一年(文久元)年九月、藤堂公と共に藩領の津(現三重県津市)へ同行し、藩校「有造館」の洋学所で蘭語と化学を講義した。
翌一八六二年堀江鍬次郎(公粛)の協力を得て、藩校「有造館」の化学教科書『舎密局必携』を著し、同書中の「撮形術 ポトガラヒー」の項で写真技法について詳細に述べている。

舎密局必携01 舎密局必携02resized『舎密局必携』 国立公文書館蔵 請求記号:197-0267

『舎密局必携』(せいみきょく-ひっけい)は、上野彦馬がワグネル(Rudolph Wagner)ほかの蘭書を抄訳し、また宇田川榕庵訳述『舎密開宗』を参考に著述し、堀江鍬次郎(公粛)の校閲になる化学実験便覧である。
一八六二(文久二)年に前篇三巻(総説、無機化学の非金属部、ガラス製法、写真術)を刊行したが、予定した中篇四巻(金属部)、後篇六巻(有機化学)、附録三巻(試薬、雷機器、伝信機、坑工所業など)は、彦馬の帰崎と鍬次郎の逝去もあって未刊に終わった。
それでも化学の入門と写真術の手引き書として好評を博し、津・江戸・京・大坂の書肆(書店)によって発行され、明治中頃まで愛読された。

《長崎にもどり、中島川河畔に「上野撮影局」を開設》
一八六二(文久二)年の暮れ、上野彦馬は長崎中島河畔の自邸に、営業写真館「上野撮影局」を開設、写真撮影業をはじめた。
当初は、長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬、高杉晋作をはじめとする多くの幕末の志士たちも上野のもとを訪れ、被写体として肖像撮影に臨んだ。

上野撮影局中島川河畔の「上野撮影局」  上野彦馬撮影
IMG_3749 IMG_3750 IMG_3748 IMG_3746 IMG_3747現在の「上野彦馬邸跡」と「上野撮影局跡」  2016年年05月古谷昌二氏撮影

bf68f72db8e94a4692f5bf51ba72e26a[1] cf112724480f737e17aa85e69ea61519[1]長崎一の「ふうけもん」とも評された
十八銀行第二代頭取・長崎商法会議所会頭 :
松田源五郎
「明治10年内国勧業博覧会」  上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵

明治期に入ってからも彦馬は写真士としての活動を旺盛に繰り広げた。一八七四(明治七)年、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。一八七七(明治一〇)年には長崎県令:北島秀朝(ひでとも 一八四二-七七)の委嘱により、「西南戦争」の戦跡を記録撮影した。

陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、弟子の冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)が、反政府側(西郷軍)の谷干城(たに-かんじょう)の依頼で撮影した同戦争の記録写真とともに、現存する日本写真史上最初の戦争写真として知られており、同年第一回内国勧業博覧会(東京・上野公園)に出品され、鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一八九〇年年代には「上野撮影局」支店を、ロシア沿海州のウラジオストクや、中国の上海、香港にも開設していた。
その門人から内田九一(内田-くいち 一八四四-七五)、守田来蔵(一八三〇-八九)、冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)
をはじめ、明治期に活躍した写真士が輩出した。
一九〇四(明治三七)年五月二十二日長崎新大工町の自宅で没。享年六十七。長崎の皓台寺にねむる。

上野彦馬長崎公園上野彦馬顕彰碑  長崎諏訪公園  古谷昌二氏撮影
165_6526

{ 新 宿 餘 談 }
長崎タイトルresize-627x108[1]宮川雅一氏と平野の会[1] DSCN3541DSCN3536 DSCN3537上野彦馬撮影吉宗ヨッソウresized

上野彦馬撮影 吉宗(よっそう)の正月風景

吉宗 よっそう は創業慶応二年、長崎浜町にある百五十年余の歴史のある老舗の料理店である。
ことし七月の長崎訪問のおり、長崎県印刷工業組合のご好意にあまえて、吉宗名物料理「茶碗むし・蒸寿し揃」を出前で食した。はじめはドンブリ二鉢の量におどろいたが、ともかくとびっきりの旨さで完食した。

たまたまこのあと頂戴した「宮川スクラップブック」に、「上野彦馬撮影 吉宗正月風景」があった。店先は整然と掃ききよめられ、正月らしく、しめ縄が飾られ、門松がたっている。右起こし横組み「蒸椀茶 ⇄ 茶椀蒸」の看板は、ふるい木造船の船板をもちいたものとされていた。
いまも吉宗は出前に注力しているようだが、彦馬の時代にも出前に熱心だったようで、当時としては斬新だったであろう自転車が右側に数台ならんでいる。
吉宗 よっそう のWebSite にはこの「茶碗蒸」について、以下のような解説をみる。

吉宗の茶碗むしは、茶碗むしと蒸寿しが一対となった夫婦蒸しで、ほかにはない、吉宗伝統の名物料理です。
穴子をはじめ、海老、鶏肉、しいたけ、きくらげ、銀杏、たけのこ、蒲鉾、麩、などの吟味された材料と味加減は、百五十有余年の伝統の味がそのまま生きている名物のひとつです。

201303021213034109二〇一七年〇七月、「平野富二生誕の地」碑建立有志会」 の 古谷昌二、平野正一の両氏とともに長崎を訪問した。現地では長崎県印刷工業組合、宮田和夫氏に同行していただき、平野富二の生家跡に記念碑を建立する件につき、長崎市役所に相談にうかがった。

その折り、寸暇をぬすんで、長崎慈善会・虎與号トラヨゴウ書店主にして「明治長崎のふうけもん」とされた、安中半三郎の創立による「長崎盲唖院」(現長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校」を訪問して、時津トキヅ町にある長崎県立盲学校正門脇の『安中翁紀念碑』を取材した。
そののち長崎市元助役にして、現在は長崎都市経営研究所所長・長崎市史談会顧問の宮川雅一氏を自宅に訪ね、たくさんの資料を頂戴した。

そのなかの「宮川スクラップブック」に、上掲図版で紹介した「吉宗 よっそう」の正月風景をふくめ、上野彦馬の写真資料が相当数あることに、迂闊ながら帰京後しばらくしてから気がついた。

20170907225211_00001 上野彦馬撮影  桃渓橋-ももたにばし

《さすがに名人とうならせた 桃渓橋 ももたにばし 上野彦馬撮影》
彦馬はおそらく中島川と西山川の合流地点あたりまで重いカメラを(数人で)はこび、中島川上流の桃渓橋を撮影したものとおもわれる。すなわち下流から上流方向に向けて桃渓橋を撮影している。

この橋は一六七九(延宝七)年僧ト意の募財によって架けられたとされる。昭和五七年七月の長崎大水害により半壊したが、西道仙筆のひら仮名異体字(いわゆる変体仮名)を駆使した橋名碑をふくめて原型に復元された。
桃渓橋 ももたに橋」の名前は、河畔に多くの桃の木があったことに由来しているとされるが、現在は大楠がおいしげり独特の風情をかもしだしていた。

稿者はめったに写真を撮らない、というより、デジタル機器を苦手としていて撮れない。
いまの小型デジカメにはさまざまな機能があるらしいが、このときは単なるデフォルト機能(標準設定)のまま、桃渓橋の上から中島川上流にむけて、自分でシャッターを押した。カバンのなかには「宮川スクラップブック」があったわけだから、事前に確認していたら彦馬と同じポイントから撮影ができたのにと悔やんでいる。

もちろん、それでも上野彦馬に敵うべくも無いことは重重承知しているつもりである。
中島川桃渓橋から上流方向をのぞむ[1] 長崎中島川桃渓橋-627x413[1]
──────────
協 力/古谷昌二、平野正一、宮川雅一、田村省三、春田ゆかり、宮田和夫、長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会、松尾 巌
主要参考資料/『日本大百科全書』(小学館)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本人名大辞典』(講談社)、『津市史』一-三、久保文武『伊賀史叢考』、杉本嘉八「津藩」(『新編物語藩史』七所収)、『京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記』(東洋文庫)、『世界大百科事典』(平凡社)、「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)、鈴木八郎他監修『写真の開祖 上野彦馬』、『古写真に見る幕末明治の長崎』(姫野順一、明石書店)、宮川雅一『郷土史岡目八目』(長崎新聞社)、日本学士院編『明治前日本物理化学史』、 『明治維新以後の長崎』(長崎市小学校職員会)、大岩正芳『上野彦馬の「舎密局必携」』(『化学史研究』四)、『日本歴史地名大系』(平凡社) 、増永驍『ふうけもん-ながさき明治列伝-』(長崎文献社)、古谷昌二『平野富二伝 考察と補遺』(朗文堂)

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 ── 長崎の長州藩蔵屋敷──

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年

古谷昌二さんuu古谷ブログトップ明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、
同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を
駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
ご訪問をお待ちしております。

20171002114232_00001この石垣の上がかつての長州藩蔵屋敷で、明治最初期「新町私塾」があった。
1934(昭和9)年頃の撮影 『長崎印刷百年史』口絵より
厳流坂01厳流坂02かつて「新町活版所」跡碑と併設されていた「詩儒 吉村迂齋」碑。
現在は見あたらない。

──────────
古谷昌二ブログ
探索:平野富二の生まれた場所
町司長屋の前にあった桜町牢屋
町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
町司長屋の背後を流れる地獄川
矢次事歴・平野富二祖先の記録
矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
長崎の長州藩蔵屋敷

【イベント報告】 としょかん de 活版印刷─本木昌造からのおくりもの 長崎県印刷工業組合×長崎市立図書館

無題
としょかん de 活版印刷――本木昌造からのおくりもの

2017年9月9日[土] 10:00-17:00  終了企画
会場 : 長崎市立図書館 多目的ホール
長崎県印刷工業組合 × 長崎市立図書館  共催/本木昌造顕彰会 後援
  
長崎01 長崎02 長崎03去る9月9日[土]、長崎県印刷工業組合 青年部を中心に、会場を長崎市立図書館 多目的ホールで、<としょかん de 活版印刷――本木昌造からのおくりもの>が開催されました。

さすがに近代活字版印刷術発祥の地を誇る長崎とあって、この会場の地は、江戸期は「唐通事会所」で、明治最初期には「長崎製鉄所付属 活版伝習所」が開設された場所です。
その後はながらく「興善町小学校、新興善小学校」がおかれていましたが、2008(平成20)年に長崎市立図書館が開館しました。
[ 協力 : 長崎県印刷工業組合事務局 ]
長崎タイトルresize-627x108[1] w11_唐通事会所 IMG_3880 IMG_3879

【唐通事会所跡】 現:長崎市興善町
本興善町に置かれた唐通事役所の跡。通事と記し、阿蘭陀通詞と区別することが多い。
唐通事は通訳業務だけでなく、貿易の枢機に参画する日本側の役人であり、また海外情報の聴取や異文化の導入などでも重要な役割を担った。
その役料は町年寄に次ぎ、唐貿易がオランダ貿易の約二倍近いため、阿蘭陀通詞より唐通事のほうが重きをなしたとされる。

唐通事は一六〇三(慶長八)年に長崎奉行が任命した馮六(平野氏の祖)以来、長崎在住の潁川・彭城・林・何・呉・陽・神代・東海ら、四〇余姓のすべてが有力明人とその後裔で、大明人としての意識をもっていた。
通訳業務のほか、諸法令の伝達と執行、貿易品の評価や日本側役人としての取引折衝、外国人や出入り商人の管理・統制などにもあたる広い業務内容であった。

はじめ大通事・小通事・稽古通事の三段階で、一七〇八(宝永五)年当時は、風説定役一・目付二・大通事四・小通事五が定員で、ほか稽古通事一二がいたが(「諸役人役料高並勤方発端年号等」長崎市立博物館蔵)、享保(一七一六―三六)以降これら各職に過人・並・格・見習などの職を設け、上席の頭取・諸立合・御用通事を設定した。
唐通事は一八六七(慶応三)年の解散まで、延べ一千六四四人(実数八二六人)を数えた。

役所は年番の唐大通事宅を充てたが、一七六二(宝暦一二)年糸蔵跡に唐通事会所を開設、敷地は一八四坪(長崎市中明細帳)。長崎諸役所絵図(国立公文書館・内閣文庫旧蔵)では「唐通事会所並貫銀道蔵」として総坪数二五六坪。
一八六九(明治二)年 本木昌造がここに「長崎製鉄所付属活版伝習所」を設立ひらいた。
参考:『日本歴史地名大系』(平凡社)

Viva la 活版 ばってん 長崎 文字壹凜Summary

【長崎県印刷工業組合】 Printing Birth Nagasaki ー 『PBながさき』 2016.9 Vol.93 紹介

ながさき93号09月03日は近代活版印刷の祖 本木昌造の命日です。それを記念して、日本印刷産業連合会では09月を「印刷の月」と定め、各種の周知・啓蒙活動を行っています。
長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会では毎年法要を行っています。

第141回 本木昌造墓参・法要

平成28年9月2日(金)、大光寺において本木昌造先生の墓参・法要が行われました。
午後5時から墓地での焼香を行い、5時30分から本堂において第141回法要が執り行われま

した。
来賓、関連業者、組合員の約40名が参列し、大光寺住職の読経のもと、長崎県印刷工業組合山口善生理事長、本木昌造顕彰会 岩永正人会長、参列者がつぎつぎに焼香を行いました。

山口理事長挨拶、岩永正人会長のあいさつを行った後(要旨は後述)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏に今回修復して印刷が可能となったアルビオン型手引き印刷機の価値・重要性についてお話しいただきました。
──────────
◎ 長崎県印刷工業組合 山口善生理事長挨拶
本木昌造顕彰会は昭和60年に発足いたしましたが、本木昌造の顕彰事業は明治20年代頃から当時の商工会などにより本木昌造をたたえる動きがあったようです。

また、昨年、業界の皆様、またモリサワ様の絶大な支援をいただき復刻した本木活字を鋳造
し、これを用いた印刷体験を昨年の長崎市立図書館、今年6月福岡での九州印刷情報産業展、また、明日長崎市立図書館において業界また地域への広報に青年部を中心に行っていきます。
また、今年は印刷会館の倉庫に眠っていたアルビオン型手引き印刷機の修復を行い、印刷することが可能となりました。
今後とも、本木昌造の功績を長崎の文化遺産また印刷業界に携わる者の基礎として顕彰してまいりますのでよろしくお願いいたします。
──────────
◎ 本木昌造顕彰会 岩永正人会長――本木昌造を支えた人々
今年は長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会にとって記念すべき年となりました。

5月6日-8日の3日間、株式会社朗文堂主催で「Viva la 活版 ばってん長崎」というイベントを長崎県印刷会館で催すことができ、非常に有意義なことでした。
全国から活版印刷の愛好者、研究者、制作者等たくさんの方がお見えになりました。今日も朗文堂の片塩さんがお見えですが、本当にありがとうございました。

 〔平野 富二〕
その時に大きな報告をいたしました。本木昌造を支えた多くの方がいますが、その代表格が平野富二だと思います。本木の陰にかくれ長崎ではあまり注目をあびていないが、その生家を特定いたしました。本木昌造交友者マップにあらわしています。
旧町名 引地町、現在の桜町の長崎県勤労福祉会館です。国立公文書館にある長崎諸役所図にある町使長屋図「矢次」とあるが、平野富二の旧姓矢次家の場所です。
本木が大阪活版製造所を作るときに五代友厚から大きな借金をしたが、この借財を完済したのも平野富二である。印刷業界としても忘れてはならない人です。

 〔西 道仙〕
西道仙という人がいます。眼鏡橋の橋名碑の揮毫も西道仙である。明治時代の文化人であり、長崎の文明開化の先駆者である。ジャーナリストであり、政治家でもあります。明治6年長崎新聞を発行している。その他西海新聞も発行している。

 〔松田源五郎〕
松田源五郎は十八銀行の創始者であるが、当時の政財界をリードしている人である。長崎商工会議所を設立し、初代会頭を務めている。また、長崎新聞の創立にも貢献した人である。経済的に本木昌造を支えた人です。
本木昌造の事業はこういう人たちの応援があってなしえたものであり、そのことも改めて記憶しておきたいものです。
本木昌造交友者マップ.pdf

 〔アルビオン型手引き印刷機の修復〕
長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機の修復ができましたが、明治時代のものであり、印刷業界にとってきわめて大きなニュースです。本日その印刷機で印刷したものを資料として配布しています。福岡の文林堂の山田さんに修復いただきました。本当に有難うございました。
アルビオン型手引き印刷機について

──────────
◎ 修復したアルビオン型手引き印刷機実演
平成28年9月2日(金)14:00からの理事会冒頭に修復したアルビオン型手引き印刷機の実演を行った。印刷機の操作は修復をお願いした㈲文林堂の山田善之氏にお願いした。実演には芸術工学会の大串誠寿氏(福岡市)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏、大石薫氏(東京都)、タイポグラフィ学会 板倉雅宣氏(東京都)もはるばる駆けつけました。
印刷機の由来等について本木昌造顕彰会の岩永正人会長が説明し、同時に山田氏にアルビオン型手引き印刷機の写真を亜鉛版に作成し、印刷してもらいました。

 PBながさき93号(2016.09)

8ed979955048d3208a8a4c7c96c739b41-1024x175[1]

長崎印刷組合年賀アルビオン上掲の長崎県印刷工業組合『PB ながさき』に紹介された記事は、おおむね <活版 à la carte>2017年01月23日掲載において紹介した。
【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

まことに迂闊なことに、既報の<活版 à la carte・花筏>での紹介は、同組合会報誌『PB ながさき』ほかの記録が、URL上にPDFで公開されていることを知らぬまま記述していた。
ここに 長崎県印刷工業組合 執行部ならびに事務局の皆さまにお詫びすると同時に、長崎県印刷工業組合のURLへリンク設定すると同時に、今後は長崎県印刷工業組合の動向の紹介に注力してまいりたい。
20160914163731_00001[1] DSCN6687-627x470[1] DSCN6744-627x470[1]

【図書紹介】 『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』 髙松 昇著 株式会社IHI発行 2009年8月1日 非売品

20170209174758_00001 20170209174441_00001 故髙松昇受賞式にて: 前列左より 田村氏、髙松氏、石原氏。後列右より 合田氏、弊所山路理事長

2 0 1 0 年1 0 月2 9 日
プレス・リリース(PDF)
2 0 1 0 年度「住田正一海事奨励賞」、「住田正一海事史奨励賞」及び
「住田正一海事技術奨励賞」決定のお知らせ
                       社団法人日本集会海運所
                       住田海事奨励賞管理委員会

住田正一海事奨励賞は、永年海運造船事業に従事するかたわら、海事資料刊行、海軍史の研究を通じて、広く海事文化発展に寄与された故住田正一氏を記念して設置された。
正一氏のご子息、住田正二氏( 元運輸
事務次官、前J R 東日本社長、現J R 東日本相談役) が、1 9 6 9 年に創設して以来、社団法人日本海運集会所に住田海事奨励賞管理委員会を設け、選考決定している。2 0 0 2 年からは、海事史奨励賞、20 0 8 年度から海事技術奨励賞が設けられた。

本年度も 3  賞それぞれに応募作があり、選考の結果以下のように決定した。
・海事奨励賞受賞
作:石原伸志・合田浩之共著『コンテナ物流の理論と実際』(成山堂書店)
・海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平
野富二の生涯』(株式会社 IHI )
・海事技術奨励賞受賞作:社団法人日本船舶海洋
工学会海中技術研究委員会編『海洋底掘削の基礎と応用』(成山堂書店)
2010年10 月2 5 日、日本海運集会所において受賞式が行われ、各
受賞者に賞状と賞金が贈呈された。

< 海事史奨励賞受賞理由>
海事史奨励賞の『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』は、幕末から明治という激動の時代を47 歳という短命で逝った富二の生涯を、各地に散逸する新たな資料や情報を地道に長期間かけて発掘し、はじめて知られざる実像に迫ったもの。
同造船所を自らの手で創り上げた情熱と行
動力、そして起業家としての生きざまは、日本のものづくりの危機が叫ばれるなか、時代を超えて読者に訴えかけるものがある。
著者の髙松
昇氏は1943年株式会社東京石川島造船所入社、19841 年専務取締役を経て1991年退社。
──────────
平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち 「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書《ことしは平野富二生誕170年祭》
明治産業近代化のパイオニア-平野富二の生誕170祭の記念すべきとしである。
それを期として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が結成され、同会専用URL<平野富二:明治産業近代化のパイオニア>も公開された。
平野富二東京築地活版製造所初号明朝体<平 野  富 二>

弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。数えて16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)数えて27歳 婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に神田佐久間町東校内に「長崎新塾出張所」(現東京都千代田区神田和泉町1)のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

──────────
《2002年12月1日 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式と故髙松 昇さん》
HiranoH1[1] 20170209164033_00003平野富二碑 旧長崎禅林寺建立平野富二
(弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
(1846.8.14 - 1892.12.3)

◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より(雨天決行)
場 所  平野家墓苑(東京谷中霊園 乙11号14側)
【 朗文堂ニュース過去ログ : 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式 】
──────────
デジタル時代の時計はあまりにはやくておどろかされる。
上掲した<海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』(株式会社 IHI )>などの貴重な情報も、情報過多の渦に巻きこまれ、つい失念してご報告がおおきく遅延してしまうことがある。

髙松 昇氏は、1919(大正8)年12月04日 富山県高岡市の出身。
1941(昭和16)年 旧制富山高等学校卒業、1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部卒業、同年株式会社東京石川島造船所(現IHI
)入社、爾来同社に勤続し1981(昭和56)年石川島播磨重工業(現IHI)専務取締役となり、1896(昭和61)同社常任顧問、1991(平成3)6月退社された。
そのころ筆者は髙松氏の謦咳に接する機会をえて、小田急線で世田谷区成城のお住まいを数度訪問したが数年前に逝去されたかたである。
ここにご報告の遅延を故人にお詫びするとともに、遅ればせながら皆さんに 髙松 昇氏の功績を紹介した。
──────────
2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催された。
長崎から移築された「平野富二碑」のご披露のためもあって、会場を「東京谷中霊園内 平野家塋域」とした。告知に際して「雨天決行」としたが、折悪しく早朝から冷たい雨がふり、開始時刻前には本格的な降雪となった。

ご列席いただいた皆さんは、予測をはるかに上まわり115名の多くのご参加をいただいた。なかには遠方から、それも高齢のご出席者が多かった。
あわてて葬祭業者に依頼して、テントをふた張り用意し、石油ストーブも数基設置したが震えあがるほどの寒さはきびしかった。

 とりわけ平野富二の生誕地:長崎からは、三菱重工業株式会社長崎造船所(造船所史料館)、長崎県印刷工業組合(阿津坂 實氏)などの参列者がめだった。

墓前祭のあと、日暮里駅前の料理屋で平野家主催の小宴がひらかれた。ところが列席者が多くて一度では収容しきれず、若手は降りしきる雪の中で<谷中霊園掃苔会>を急遽開催して、90分遅れで小宴に参加していただいた。
平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>関連の広報物のデザインは杉下城司氏が担当されたが、このにわかに設定された<掃苔会>のご案内役も担当していただいた。
また<THE CEREMONY TO COMMEMORATE  TOMIJI HIRANO 1846-1892>が、山本太郎氏によって欧文に翻訳・組版され、列席者に配布された(使用書体 : Adobe Jenson pro,  Adobe Warnock pro)。
ついでながら、このときの公式記録はプロの撮影によるビデオデープでのこされている。
デジタルメディア環境の激変もあり、そろそろほかのメディアに書きかえて皆さんのお役に立ちたいとおもう。

20170209164033_00001 20170209164033_00002[PDF:TOMIJI HIRANO 1846-1892

平野富二の在京20年ばかりの間の活躍分野は、<金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木>といったひろい領域におよんでいる。
それぞれの分野でその関連分野の研究はすすんでいたが、とかく専門分野に特化しがちで、平野富二の全体像の把握は困難な情勢にあった。

おもへらく、2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催され、髙松氏をはじめとする「平野会-IHIの事業歴史研究会」の研究実績と、印刷・活字界の研究が突きあわされ、その後のひろい交流の基盤となった功績はきわめておおきかった。

あらためて、髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯 下巻』 「あとがき」文中の-協力者御芳名-の記事をみると、先般発足した<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の会員の名前が列記されていることにおどろく。
なかんずくこの「あとがき」は、「最後に、前記平野会の古谷昌二氏のご協力に感謝致します」として結ばれている。
こうした先達の遺徳にみちびかれて、古谷昌二氏を発起人代表として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が設立され、地道な研究と活動がはじまっている。
皆さまのご支援を期待するゆえんである。
古谷昌二さんuu[1] 平野表紙uu

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

長崎印刷組合年賀アルビオンうれしい年賀状をいただいた。
既報のとおり、昨二〇一六年九月二日、「本木昌造墓前祭」にあわせ、長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機一号機」が同組合で復旧され、稼動実演をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30-40年ころの製造とみられる百年余も以前の印刷機。

もう一台の「アルビオン型手引き印刷機二号機」、東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が表裏に鋳込まれた印刷機は、明治20年代の製造と推測されるが欠損部品が多い。
ところが一号機の復旧をみて、こちらの二号機にも復旧の動きがあると仄聞する。
近代活字版印刷発祥の地、長崎印刷人の意地と底力を見るおもいがする昨今である。
長崎タイトルresize-627x108[1]DSCN6689-627x470[1] 切りぬき01-627x627[1] 切りぬき02-627x627[1]

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造墓前祭」で復元修復報告と実演 》
長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機 一号機」(大阪・片田製造所製造)、同二号機(天板両面に東京築地活版製造所、大阪活版製造所の銘板が鋳込まれている。推定明治20年代製造)は、その由来、存在意義、価値などの詳細が明らかでないまま、同館三階収蔵庫にいつのころからか放置されていた。

19世紀の終わりのころから、長崎にのこされた本木昌造由来の活字を復元しようとする気運があった。その際収蔵スペースが問題となり、スペース確保のために収蔵庫を整理して、前述の「アルビオン型手引き印刷機」二台を処分して展示室にしようとするという話題がもちあがったことがあった。

若気のいたりであったのかもしれない・・・・・・。
まことに余計なことながら、このうわさをを耳にして、当時の専用ワープロをたたいて、「アルビオン型手引き印刷機」二台の保存と再生をつよく訴えたことがあった。
その専用ワープロのデーターはやつがれの手もとではすでに消滅していたが、長崎の印刷組合で紙媒体でしっかり保管されていた。そして再稼働にあたって、その保管文書をもとに二台の印刷機の由来、存在意義、価値を説明する小冊子をつくりたいとの申し出をいただいた。
大慌てで一部の語句を修整し、資料補強をなしたが、いかんせん時間がなかった。そのため一部に重複もみられるが、その一部を紹介したい。

20160914163731_00001[1]☆      ☆      ☆     ☆

長崎県印刷工業組合所蔵
アルビオン型手引き印刷機

モノとコトの回廊
アルビオン型手引き印刷機とは

「手引き印刷機 Hand press」とは、「手動で操作する印刷機の総称」である。
一般にはグーテンベルクがもちいたと想像される印刷機のかたちを継承したもので、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされる。
そのため厳密には手動式であっても、Salama-21A や テキンなど、印刷版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen press」とは区別されている。

グ-テンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案された木製の「ネジ棒式圧搾機型印刷機 Screw press」であったとされるが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想像の域を出ない。

現存する最古の手引き印刷機としてぱ、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムや、イタリアのパルマ宮殿にあるジャンバティスタ・ボドニ(1740-1813)博物館の木製手引き印刷機の存在が知られている。
またアメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-90)も、木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られている。

グーテンベルクの木製活版印刷機の時代からその後350年ほどは、細部に改良が加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化はなかった。
その後に開発された著名な手引き印刷機としては、「コロンビアン印刷機」、「アルビオン印刷機」、「スミス印刷機」、「ラスペン印刷機」、「ワシントン印刷機」、「八-ガー印刷機」(以上年代順)などがあげられる。

フィギンス社アルビオン写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フイギンズ社による1875年製のアノレビオン型手引き印刷機である(Lingua Florence 所蔵)。
本機は印刷機としての実用面だけでなく、19世紀世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォなどの新工芸運動の影響をうけて、アカンサスなどの植物模様が描かれ、金泥塗装の多用、猫脚の形態などに装飾の工夫がみられる。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランドをあらわす古名(雅称)である。ラテン語の「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレートブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来する。

アノレビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機である。
アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるためのオモリがアメリカの象徴である鷲の姿をしている。

「アノレビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重いオモリにかえて、頭頂部に内蔵されたバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?-1828)によって考案された。
またコープ社の閉鎖後も格段の規制をもうけられなかったために、キャズロン社、フィギンズ社などが、独自の工夫を加えながら大小様様な同型機の製造を続けていた。

産業革命を経た19世紀末の英国では、すでに蒸気機関などの動力による大型印刷機が
商業印刷の主流であったが、アーツ・アンド・クラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスは、手工藝再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン型印刷機をもちいていた。また、石彫家にしてタイポダラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていた。

20160523222018610_0004『Book of Spesimens  Motogi & Hirano』
(平野富二活版製造所 推定明治10年 平野ホール蔵)

わが国でも「アノレビオン型印刷機」とのつきあいはふるく、明治最初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所、江川次之進による江川活版製造所などの数社によって、アノレビオン
型の手引き印刷機が大量につくられていた。
また明治09年、秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も、アルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっている(片塩二朗『秀英体研究』)。

長崎県印刷工業組合所蔵
アフレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされた

2003年07月19日、わが国の印刷人、タイポダラファにとって嬉しいニュースが流れた。
それは長崎県印刷工業組合三階の収藏庫に、国産「アルビオン型手引き印刷機」が二台所
蔵されていることが、朗文堂・片塩二朗によって再発見され、報告されたからである。

そのうちの一台は(以下一号機)、横板部に二つの筋違いの正方形の中に「 K 」のマークがみられ、版盤なども健在で保存状態は比較的よい。
これは南高有家(島原)の「有正舎」の旧蔵品で『長崎印刷百年史』(田栗奎作 長崎県印

刷工業組合 昭和45年11月03日)に写真紹介されていたものである。
201109handpress[1]この一号機を板倉雅宣は『ハンドプレス・手引き印刷機』(朗文堂 p.64)で、同機の「 K 」マークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。

もう一台のアルビオン型手引き印刷機は、元長崎県印刷工業組合相談役:阿津坂実(1915-2015 花筏:タイポグラファ群像008)によると、「九州荷札印刷」の旧藏品であったとする(以下二号機)。
機械主要部のほか圧盤までは現
存しているが、加圧ハンドノレ、版盤、版盤案内レール、チンパン、あんどん蓋などは欠損している。

切りぬき02-627x627[1] 切りぬき01-627x627[1]BmotoMon2[1]二号機に特徴的なのは、目立たないが「テコ Fulcrum」に鋳込まれている「丸 も」のマークである。これは本木昌造の裏紋とされている。
もうひとつは、横板(天板)の両面に鋳込まれている社名と
マークの存在である。
正面(加圧ハンドルのある側)には、

「TYPE FOUNDRY OSAKA TRADE MARK JAPAN」とあり、大阪活版製造所の機械類の
マーク「丸 も に旭日」が鋳込まれている。
裏面には「TYPE FOUNDRY TSUKIJI TRADE MARK  TOKIO」とあり、東京築地活版
製造所の「丸 も にH」(ローマン体)のマークが鋳込まれている。

この両社のマークが制定されたのは1885年(明治18)ころとされている。したがって二号機は明治中期の製造とみられるが、いずれも本木昌造一門につらなる、大阪・谷口黙次/大阪活版製造所、東京・平野富二/東京築地活版製造所のいずれで製造したのかは判明しない。

アルビオンとはイギリスの古名で、「アルビオン・プレス」はイギリスのリチャードー・コープが1820年に発明、同工場のジョン・ホプキンスンが1824年に改良した手引き式の活字版印刷機である。
コープ社が閉鎖されたのちも、格別の保護を主張しなかったために、英国では数社が同型機の製造を継続していた。

わが国では明治初期から平野富二(東京築地活版製造所)、江川活版製造所、金津鉄工所、国友鉄工所、片田鉄工所などによって国産化され、安定した活字版印刷機として評価され、ふつうは単に「手引き印刷機|と呼ばれていた。
また秀英舎(現・大日本印刷)の創業時の印刷機も「アノレビオン・プレス」であったことが、
最近創業時の工場写真が出てきたことで判明している。
いずれにしても同型機の多くは昭和中期まで、一部で校正機などとして長年にわたって用いられていたすぐれた印刷機であった。

活字版印刷術、タイポグラフイとは、活字だけでは成立しない。当然印刷機も必要である。このたび長崎県印刷工業組合から再発見されブこ本機は、平野富二関連では『BOOK
OF SPECIMENS MOTOGI &HIRANO』(活版所平野富二 平野ホール所蔵 推定18フフ)の最終ページに図版で紹介されていたものとほぼ同一のものである。

いずれにしても本機の発見は嬉しいニュースであった。なによりも本木昌造と、その師弟であった平野富二/東京築地活版製造所、谷口黙次/大阪活版製造所が誕生した長崎で
発見されたことを欣快としたい。
そして印刷関連業界、タイポグラフイ界・造船工学界・
機械工学界の研究者がひとしく同機に熱い視線を注いでいる事実を記録しておこう。

《急速に進展した総合技術としての活字版製造術の研究-活字製造だけの研究の陥穽を脱し、関連器械・技術研究への視点 》
長崎県印刷工業組合でのアノレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされたのち、顕
著な変化があった。それはこれまで活字版印刷術研究 ≒ タイポグラフイとはいいながら、ともすると活字だけに偏するかたむきがみられたのにたいし、総合技藝としてのタイポグラフィの視点から、活字と器械研究への視座の転換がみられたことである。

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会 2003年9月30日)は、「本木昌造活字復元プロジェクト」の旗のもとになされ研究であった、同書の執筆者の多
くは、すでに活字製造と関連人物の資料発掘に偏することなく、その研究の視座を大きく
転換していた。

同書刊行の直前、筆者片塩二朗は肺炎から敗血症となって入院中であった。しかしながら不完全ではあったが、「文明開化とタイポグラフイ勃興の記録」をしるし、そのコラムとして「長崎県印刷工業組合所蔵アノレビオン型手引き印刷機 p.291」をのこし、両機の保存と再生・再稼働をつよく希望した。

また、印刷博物館開館三周年記念企画展図録『活字文明開化一本木昌造が築いた近代』(印刷博物館2003年10月6日)では、主要展示に同館が所蔵する三台の「アノレビオン(型)手引き印刷機」を出展し、おおきな関心をよんでいた。

『ハントプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂 2011年9月15日)は、真っ向から手引
き印刷機に取り組み、論述したものである。
著者:板倉雅宣は国内各所に現存している手引

き印刷機を丹念に調査し、その形状・マークの採用時期などから、それぞれの印刷機の製造
元・製造年度に関して詳述している。

それによると、一号機は「K」のマークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。
二号機に関しては、両社のマーク
の採用時期と照らし明治18年(1885)から大阪活版製造所の名前が見られなくなる明治末年までの間のものであろうとしている。

『明治近代産業のノベイオニア-平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 2013年11月22日)においては、ついに長崎で発祥した活版製造業のことを、長崎製鉄所による産業の近代化の事業の一環としてとらえ、その中心に長崎出身の平野富二の事業をおいて、まったくあらたな
視点から、近代産業としての活版製造業にとり組んだ。その成果はおおきく、小指の先ほどもないちいさな活字と、巨大な造船事業が、長崎製鉄所の事業を基盤として誕生し、それがそれぞれ飛躍していった姿を記録し尽くすことに成功した。

《長崎と全国のタイポグラフアの交流の場となった<Viva la 活版ばってん長崎>》
朗文堂サラマ・プレス倶楽部による活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>が長崎県印刷会館を主会場として、2016年5月6-8日に開催された。

東京をぱじめ、全国各地から訪崎した会員は50余名。マイクロバス二台をレンタして開催された{崎陽長崎 活版さるく}には、地元勢の参加があって45名を超えてていた。また会場には熱心な来場者多数を連日お迎えした。

DSCN7279-627x470[1] DSCN6689-627x470[1]事前準備、撤収作業と、一部の会員は五泊にわたる長崎滞在となり、140年余にわたっ
て蓄積された長崎の活版印刷事業の奥深さを実感する機会となった。
その際、同館所蔵の小型プラテン印刷機だけでなく、貴重な「アルビオン型手引き印刷機」もなんとか稼動・実演したいという意見があり、部品の欠損が少ない一号機を復元する試みをした。
ところがなにぶん出張先での修復作業であったブこめ、工具も足りず、部品の補充もでき
ずに稼動実現の成果をあげることはできなかった。

その際、訪崎され<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられていた板倉雅宣氏が詳細に点検され、一号機はやはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、将来の復元稼動を支援することになった。

また長崎県印刷会館の収蔵庫には、本木昌造の逝去後の「新町活版所」を経営し、本木昌造の叙位に際して資料提供にあたった境 賢治(1844-?)がもちいていたとされる「インキロ
ーラー鋳型」かおり、これも主会場に展示されて話題を呼んだ。
こうして2003年から13年あまりの時間が経過していた。

☆      ☆      ☆     ☆

《本木昌造141回忌に際し アルビオン型手引き印刷機が復旧披露》
2016年9月2日[金]開催の「本木昌造141回忌法要」に際し、長崎県印刷工業
組合の力により「アノレビオン型手引き印刷機」一号機が修復・復元され、稼動・実演されるとの情報に接した。とてもうれしく、わが国の印刷産業史に特筆すべき快挙となった。

うかがったところによると、<Viva la 活版 ばってん 長崎>におけるサラマ・プレス倶楽部会員の皆さんの関心の推移をみて、長崎県印刷工業組合もついに「アルビオン型手引き印刷機」(一号機)の本格修復を決断されたとされる。
復元稼動に際しては、福岡市の有限会社文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163336_00002[1] 20160914163336_00001[1] DSCN6742-627x470[1] DSCN6744-627x470[1]

「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館三階で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。
「チンパン Tympan」は<Viva la 活版 ばってん 長崎>会期の前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。

 (有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
 「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」
手引き印刷機のチンパン-627x470[1] DSCN6687-627x470[1]
ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を、片塩が簡単ではあったが解説にあたった。
DSCN6804-627x352[1]
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足/趣意書と平野富二生誕の地確定根拠を発表

05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催され、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。
8ed979955048d3208a8a4c7c96c739b41-1024x175[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画が平野富二の生家跡であることが判明しました。w21_引地町町使長屋 44fb978b853aae4f20258b5d23743605[1] 48632901d887fc7558749f89fba250971[1]平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。
e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二初号平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。

2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

──────────
05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑 建立趣意書

発  行:2016年12月
発行者:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
連絡先:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
      メール  info@hirano-tomiji.jp
事務局:朗 文 堂
     160-0022 東京都新宿区新宿2-4ー9
     電話 03-3352-5070 ファクシミリ 03-3352-5160

☆「平野富二生誕の地」碑建立有志の会は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の開催を契機として自発的に発足しました。
ご関心のあるかたは事務連絡先までご一報いただけたら、「趣意書」と、「平野富二生誕の地 確定根拠」を収録した小冊子を進呈いたします。
また2017年(平成29)早早から専用URLの発足も準備中です。

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 発起人申込書
趣意書

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e8%b6%a3%e6%84%8f%e6%9b%b8_%e8%a1%a8%e7%b4%99

本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月に、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。

長崎タイトルresize-627x108[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画であることが判明しました。
DSC_0045これを契機として「崎陽長崎 活版さるく」に参加したメンバーの中から、この場所に平野富二の記念碑を建立する要望が出され、現在有志者により具体化のための検討ならびに予備調査が行われています。
────────

平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5長崎での平野富二の知名度は、恩師である本木昌造の陰に隠れて高いとはいえません。しかし平野富二は県営時代の長崎製鉄所において、その付属施設となった小菅修船場の初代責任者として抜擢され、長崎製鉄所の経営に大きく貢献しました。
その収益により立神ドックの掘削を建言して、長崎製鉄所を本格的な造船所とする道を造り上げました。この掘削工事は、当時長崎市内に溢れていた失業者の救済にも役立てられました。  

その貢献が認められて長崎県官吏の資格である権大属に任じられ、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管された時の最後の経営責任者となりました。そのとき平野富二は数え年で26歳でした。
今の三菱長崎造船所の前身は平野富二が貢献した長崎製鉄所であり、長崎造船所立神地区の壁面にある記念碑の銘板には、平野富二の名前が記録されています。  

工部省移管に伴い長崎製鉄所を退職した平野富二は、その後活版製造事業で経営に行き詰まった本木昌造の要望を受けてその経営を引き継ぎ、短期間のうちに活字の品質とコストの問題を解決して、大量生産の技術を完成させて事業を成功に導きました。
のちに平野富二が農商務省に提出した文書には、
「創業の功は専ら本木氏に在りて、改良弘売の功は平野の力多きに居る」
と述べています。

本木昌造の創業した活版製造事業を軌道に乗せるため、平野富二は需要の中心地である東京に拠点を移しました。
当時の公文書や書籍類は、筆写や木版摺りで作成されていました。これらを活版印刷化することによって得られるメリットは大きく、それを宣伝すると共に、輸入に頼っていた活版印刷機の国産化を図りました。
その結果、官公庁や府県が発行する布告・布達類の活版印刷化が促進され、また、近代的新聞の普及に結び付き明治初期における文明開化の実現に大きく貢献しました。

また平野富二は、長崎製鉄所時代に決意した、
「造船事業を興して国家に寄与する」
との志望を実現するべく、1876(明治9)年、海軍省から旧石川島造船所の跡地を借用して、わが国最初の民間造船所を設立しました。
そこでは、河川運行用の小形蒸気船を開発して内陸部への交通運輸の便を開き、海難事故の多かった海上運送で堅牢・安全な洋式船舶を建造、また、民間造船所としてわが国最初の軍艦建造を行いました。

1892年(明治25)年12月3日、平野富二は演説中に発症した脳溢血により病没しました。享年47でした。生前の功績により、
「民設西洋型造船所の嚆矢たり。我邦造船事業の先達として従五位を贈し可然」
として1918(大正7)年に従五位を追贈叙位されました。

このように平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。
2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

【「平野富二生誕の地」碑建立有志の会】 「平野富二生誕の地」確定根拠を発表

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e8%b6%a3%e6%84%8f%e6%9b%b8_%e8%a1%a8%e7%b4%99

平野富二の生前に発行された東京築地活版製造所編纂『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 並ニ 継業者平野富二氏行状』によると、「平野富二氏、幼名ハ富次郎、長崎ノ士人、矢次豊三郎ノ二男、……、弘化三年丙午八月十四日、長崎ニ於テ生ル。」とある。

平野富二の生家である矢次ヤツギ家の記録「矢次事歴」によると、1874(明治7)年4月に記録された矢次家の住居表示は、第一大区四ノ小区引地町50番地となっている。

矢次家の始祖矢次関右衛門は元大村藩士で、故有って浪人となり長崎に移り住んでいたところ、正徳3年(1713)、空席となった町使役を仰せ付けられた。のちに町使は町司と表記されるようになるが代々世襲して、父豊三郎は矢次家八代目として町司を勤めていた。

町使長屋は、寛文3年(1663)、現在の引地町ヒキヂマチに初めて建てられたが、宝暦5年(1755)に類焼したため建て替えられた。以前は11軒(戸)だったものが13軒(戸)となって、2軒(戸)が追加された。このことは「引地町町使長屋絵図」〈添付資料1  長崎歴史文化博物館所蔵「長崎諸御役場絵図」第一巻〉に記載されている。

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%991

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%991%ef%bc%88%e6%8b%a1%e5%a4%a7%ef%bc%89
添付資料1
上図:「長崎諸御役場絵図」第一巻、長崎歴史文化博物館所蔵
下図:上図の白枠部分の拡大図
────────
添付資料1 は焼失後に建て替えられた町使長屋の絵図で、2棟ある長屋の各軒(戸)に入居名が記載されている。絵図で右側に描かれている長屋の右端から二番目に「矢次」と明記されている。

焼失前の町使長屋の絵図も別途存在するが、それには「矢次」の名前はどこにも記載されていない。そのことから、矢次家が引地町の町使長屋に入居したのは、建て替えられて2軒(戸)が追加されたときの1軒(戸)に入居したと見られる。

引地町町使長屋の位置は、明和年間(1765年頃)に作成されたと見られる『長崎惣町絵図』〈添付資料2 長崎歴史文化博物館所蔵〉に「町使屋舗」と表示されている。
くだって嘉永3年(1850)に再板された『長崎明細図』〈添付資料3 長崎勝山町文錦堂刊〉には、その位置に「丁じ長や」と明記されている。嘉永三年(1850)は平野富二が数え年五歳であることから、引地町にある町使長屋が平野富二の生誕の地であると見ることができる。

w21_引地町町使長屋国立公文書館『長崎諸役所絵図』より「引地町町使長屋」

添付資料1と類似の絵図が国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」に含まれている。その絵図を現在の長崎法務局の「国土基本図」に重ね合わせて合成し、「町使屋鋪」と表示した地図〈添付資料4〉が、布袋厚著『復元! 江戸時代の長崎』に掲載されている。
それには現在の勤労福祉会館の建物などに重ね合わせて町使屋舗が描かれており、それによって矢次家の在った場所を確定することができる。 以上

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%992%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%992%ef%bc%88%e6%8b%a1%e5%a4%a7%ef%bc%89◯ 添付資料2
上図:「長崎惣町絵図」明和年間制作、長崎歴史文化博物館所蔵

下図:上図の白枠部分の拡大図
────────

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%993%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%993%ef%bc%88%e6%8b%a1%e5%a4%a7%ef%bc%89◯ 添付資料3
上図:「長崎明細図」嘉永3年(1850)再板、長崎勝山町文錦堂刊

下図:上図の白枠部分の拡大図
────────

%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c_%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%994
◯ 添付資料4
『復元! 江戸時代の長崎』布袋 厚 著から引用

────────
〈備考〉平野富二生誕の地 位置確定目安
引地町町使長屋は、7戸建てと6戸建ての2棟の長屋が引地町筋の道路に面して建てられており、この2棟の長屋は本大工町筋に抜ける道路によって隔てられている。

添付図2によると、矢次家のある7戸建て長屋が建てられている敷地は、前面道路に沿って長さ27間(当時、長崎では六尺五寸を一間としていたことから、これを換算すると約53.1メートルとなる)と表示されている。1戸当たりの幅は平均約7.6メートルとなる。

焼失前の「町使町絵図」(添付省略)によると、同じ敷地と見られる場所にある6戸建て長屋には、5戸が間口5間、一戸が4間と表示されている。長屋内に路地は設けられていないので、長屋の全長は29間となる。添付図2とは2間の差があるが、その理由は不明。この「町使町絵図」には「矢次」の名前はない。

添付図1では、各戸はすべて間口が3間と表示されており、これとは別に前面道路から裏庭に通じる路地が7戸建て長屋では4本ある。その内、2本の路地には途中に井戸があり、他の2本の路地には井戸はないので同じ幅とは限らない。路地の幅は明記されていないので、長屋全体の長さ(間口)は不明である。

敷地の北東に隣接する窪地に現在建てられているビルの境界が当時と同じとすれば、境界を基点としてほぼ8メートルから15メートルの間が矢次家居所跡、すなわち平野富二生誕の地の目安となる。
────────

〈参考〉添付資料1の左側添え書き

【原文】
此図元長崎奉行所支配普請方用屋敷所蔵也明治維新後故西道仙翁得本図十襲不措後與故長崎區長金井俊行氏謀模寫本図納諸長崎區役所以便研究者焉 大正二年 月及翁歿余請得本図於其嗣某氏分為弐巻施装訂就明嶽道人有馬祐政先生龍江深浦重光先生求其題字以備座右

巻中所在自政所衛門至陣営望台米廩等凡四拾有弐図(全長約拾弐間、上下弐巻)奉行所幷管掌町悉載焉 實長崎史研究者必須之図也
大正四年孟春下沈      鶴城 福田忠昭識

【現代文】
この図は、元長崎奉行所支配普請方の用屋敷に所蔵されていたものである。明治維新の後、故西道仙翁が本図を得て大切に秘蔵して手放さなかった。後に故長崎区長金井俊行氏と相談して本図を模写し、長崎区役所に納めて研究者の便とした。大正二年 月、西翁が没し、私はその嗣者である某氏から本図を得た。分割して二巻とし、装丁を施し、明嶽道人有馬祐政先生に従って龍江深浦重光先生にその題字を依頼し、座右に備えた。
巻中には、政所・衛門から陣営・望台・米蔵などに至るまでおよそ四十二図(全長約十二間、上下二巻)があり、奉行所と管掌する町がことごとく載せてある。実に、長崎史研究者にとって必須の図である。

%e6%b7%bb%e4%bb%98%e8%b3%87%e6%96%991-%e9%83%a8%e5%88%86%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e5%9b%b3◯ 添付資料1  左側添え書きの部分拡大図

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 19】 長崎の〝ふううけもん〟安中半三郎『辞世の句』

長崎バーナー

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料 DSC_2488[1]上) 櫻馬場「私立長崎盲聾学校」校舎落成記念 明治41年(1908)[読者のご教授による]
下) 『史跡 盲唖學校跡』 碑-この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは1メートルにも満たない大きさで、桜馬場町の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

長崎県立盲学校」、「長崎県立ろう学校」は、安中半三郎を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立された。同年9月12日開院。
その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として授業を開始した(以後この日が開校記念日)。

九州初の盲聾教育機関であったため、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続け、そのため校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くことになった。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしてきた。
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設された。

現在この両校は、大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

DSCN6175-627x470[1]長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
安中半三郎は大正10年(1921)69歳をもって卒した。墓碑は本蓮寺脇の特設墓地にあるが、葬儀は神式として執りおこなわれた。フェンスで囲まれふつうは立ち入りができない。

<安中半三郎 辞世の句>
     酒飲めば 浮世をよそに 捨て小船
     ただようてこそ たのしかりけり

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 18】 『東来和歌之碑』 全文釈読紹介 長崎諏訪公園噴水広場 

長崎バーナー

R0049302-2tei

安中半三郎  ◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1他) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)

長崎公園は、明治6年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園である。
秋には「長崎くんち」で著名な諏訪神社と合わせ、「諏訪の杜」として、中心市街地でありながら、樟を中心とした常緑照葉樹の巨木がしげり、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩いの場として市民に親しまれている。
その一画に日本最古といわれる装飾噴水があり、石灯籠とならんで、いくつかの碑が建立されている。

噴水広場の中心をしめるのは、『池原翁元日櫻長歌幷短歌碑』(大正3年7月建立)である。
この碑に関しては春田ゆかり氏が「書と活字のはざまにいた池原香穉」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代活字文化保存会編 2003年9月30日)をあらわし詳述している。

噴水のかたわら、山際にふたつの碑が寄りそうように建立されている。
ひとつは『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)で、ほとんどの資料には「長崎文庫や盲唖学校の創始者である、安中東来(半三郎)の和歌35句が刻まれている 」程度の解説をみる。
ひとつは『月の句碑』(長崎俳画協会 昭和63年10月16日建碑)で、「俳人向井去来と山本健吉を讃える碑」とされている。

安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい  1853年12月29日[嘉永6年11月29日]-1921年(大正10)4月19日 享年69)は、たしかに長崎文庫の創立により、現長崎県立図書館の創立者のひとりとされる。
また安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」が創立され、それは現在の長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校につらなっている。
──────────
このように事業家・慈善家・篤志家といった一面のほかに、安中半三郎は
明治期長崎がうんだ稀代の奇妙人・酔狂人であり〝ふうけもん〟ともされた。
とりわけ「安中書店・虎與號 トラヨゴウ 」での出版活動、大阪に谷口黙示らが下阪し、平野富二らが東京に上京したのちの長崎活版製造所において、西道仙・松田源五郎らと編集・刊行にあたった第一次『長崎新聞』など、出版・印刷人としての側面も順次紹介したい。

今回は「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN」から、まず、「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る 長崎素平連」。筆蹟 テ は安中半三郎のものかどうか判明しない。

活字版 櫻木よりも 世に薫り   東  来
統合安中半三郎狂歌◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)
!cid_6AC995D2-53A7-4D09-A25B-A6F4E50A4BEF !cid_EC83C279-446A-47AC-BA75-5D024AF4F963 !cid_1140D8C2-683C-4C9D-9A63-BA89FF00FE4D歌碑『東来和歌碑』は、碑面の損傷がおおく、またいわゆるお家流風の流麗な筆致で書されているため、これまで35句におよぶ碑文の紹介がなされることがすくなかった。
歌の製作者としては、末尾にわずかに安中半三郎の号「東来」があるが、碑文の建立者、年度などはみられない。
これは安中半三郎独特のテレもあったろうし、『類代 酔狂句集 初編』(編輯兼出版人:安中半三郎 長崎市酒屋町四十四番戸住居 明治17年4月出版)をあらわし、事業家・篤志家としても著名だった半三郎にとっては、明治中期-大正初期にかけては、「東来」の号だけで長崎市民には十分だったのかもしれない。

さいわい、資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)に長崎の金石文の多くを活字文章におきかえた記録がのこっていた。また本稿には春田ゆかり氏のご協力もいただいた。
この釈読はおもに同書によったが、もとよりこの分野は専門ではない。誤謬にはご叱正をたまわれば幸甚である。

【 関連 : 花筏 【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎  】
【 関連 : 文字壹凜 「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る」

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 17】アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働に成功。愈〻研究に着手した同二号機

長崎タイトルresize

長崎県印刷工業組合所蔵アルビオン型手引き印刷機一号機には、やつがれは2002年以来修復再稼働を提案し続けてきた。それが十余をへた2016年09月02日、同組合・板倉雅宣氏・山田善之氏らの協力で復旧され稼動をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ百年余も以前の活版印刷機。

いっぽう東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が鋳込まれた二号機は、アカンサス紋様が施され、また各所に金泥塗装が施されていた痕跡がのこる、きわめて資料性のたかい印刷機である。
製造担当は、東京築地活版製造所か、大阪活版製造所かは明確ではないが、両社の登録商標の制定年代から、一号機よりもより古い、明治20-30年代の製造と推測されている。

ところがこの二号機は、中央駆動部以外に欠損部品が多く、研究の手がほとんど及んでいない。そこでタイポグラフィ学会会員:日吉洋人氏が、将来の部品補充と再稼働をめざし、銘板部を切りぬき写真で公開した。
遠くない将来、一号機につづき、長崎県印刷工業組合所蔵のこのアルビオン型手引き印刷機二号機も必ずや再稼働をみることができるものと確信している。

手引き印刷機のチンパン 板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163731_00001 切りぬき02 切りぬき01

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 16】 長崎のアルビオン型手引き印刷機が復旧 長崎活版さるく 思案橋横丁ぢどりや三昧

長崎バーナー

1030963 1030946 10309502-1-49043[1]{Viva la 活版 ばってん 長崎}は、近代機械産業発祥の地、それも140年余の歴史を刻んだ活版印刷にはじまる印刷産業の中核地・長崎県印刷会館を主会場として開催された。
そのため、地元長崎の印刷人だけでなく、ひろく全国から長崎に結集した活版印刷実践者・研究者とのよき交流の場となった。
ばってん長崎_表 プリント全国各地から長崎を訪問されたかたは50余名。それに地元長崎の印刷人と、テレビや新聞報道によって長崎県印刷会館に来場された一般のお客さまはおおきをかぞえた。
このイベントに際し、会場設営・会期三日間・会場撤収と、十数名のアダナ・プレス倶楽部会員と、新宿私塾修了生の皆さんにご協力いただいた。
また創立十周年を期して特別参加された「タイポグラフィ学会」の皆さんにも全面的なご協力をいただいた。

あれから四ヶ月あまりの時間が経過したが、訪崎された皆さんは、長崎で収集したあまりに膨大な資料や写真の整理が追いつかないとされるかたもおられ、いまだにうれしい悲鳴も聞こえるいまである。
それは主催者 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部もまったく同様で、あまりにも多くの知見と資料にかこまれ、またあらたに誕生した長崎の活版印刷術を守もろうとされるおおきな人の輪、皆さんとの交換に追われる日々をすごしている。
──────────
《 Viva la 活版 ばってん 長崎 主会場 : 出島町 と 宿泊所 : 新地周辺 》
主会場は長崎市出島町の「長崎県印刷工業組合 長崎県印刷会館」であったので、県外から参加されたみなさんは、そこから徒歩でもせいぜい5-6分、会場至近の「新地地区」のホテル五ヵ所にそれぞれ滞在されていた。
この出島と新地は、現在では埋め立てがすすんで境界が明確ではないが、下掲図でみると、右側の扇形の築島が「出島」であり、左方の矩形の築島が「新地」であった。
4-1-49076 長崎諸役所絵図8 上図) 江戸時代に描かれた長崎港出島周辺の絵図。半円形の樹木が茂った場所は、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)。
その前に半円状にひろがる民家は、出島御用をつとめた町人らが居住した江戸町。幕末の「海軍伝習所」は長崎奉行所西役所に置かれた施設であった。

長崎県印刷工業組合・印刷会館は、出島左先端部に設けられた「牛小屋・豚小屋」の位置と、「新地」の中間部のあたりにあたる。いまはすっかり埋め立てられているが、市電は印刷会館の直前を出島海側跡(出島通り)に添うように、湾曲しながら走行している。
長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側中図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「出嶋 総坪数三千九百六十九坪」。
出島右先端部は「通詞部屋  七間五間」である。出島内の建物は多くが二階建てであったが、オランダ通詞の詰め所であった「通詞部屋」も二階建てであった可能性がたかい。
そのほかにも町役人 乙名 オトナ 詰め所が二箇所あり、また番人・料理人や身のまわりの世話をする日本人が出島の内部にも相当数、日中のみ滞在し、一部は居住もしていた。
料理人のなかには退役ののち、長崎町内で「南蛮料理」をひろめたものもいたとされる(長崎史談会顧問:宮川雅一氏談)。

長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側長崎諸役所絵図9上図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「新地荷蔵 幷 御米蔵 総坪数三千八百六十坪」。出島左方海中の矩形の敷地。
中国からの船舶(唐船)が入港すると、小型舟艇で海岸の倉庫に積荷を搬入していたが、元禄11年(1698)の大火で焼失した。
そのため「俵物」などの貿易用荷物の搬入と運び出しの便を図り、荷物を火災や盗難から守り、また密貿易を防ぐために、元禄15年(1702)に海岸を埋め立てて築島をつくり、そこにたくさんの蔵所(倉庫)を建て、「新地荷蔵」と称した。

幕末から明治初期になると唐人屋敷(最盛時九千三百六十三坪)が廃止されたので、唐人屋敷に在住していた中国人の一部がこの新地に移り住み、今では中国料理店や中国産の土産物店が軒を並べ、長崎独特の中国人街を形成している。

《 5月5日[木]設営日 数名が前夜最終便で長崎入り。早朝から展示設営開始 》
イベント前日、「先乗り班」として長崎新地地区のホテルに分宿していた会員数名が、続続と長崎県印刷工業組合・印刷会館の三階主会場に集結した。
ほとんどのかたはサラマ・プレス倶楽部・活版カレッジ修了生であったが、創立10周年で特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんの姿も多かった。また心づよい援軍として長崎県印刷工業組合の会員も参加されていた。

<Viva la 活版 ばってん 長崎>で使用した小型活版印刷機は、もっぱら整備と注油・清拭をかねて、長崎県印刷工業組合所蔵の機械をもちいた。
その設置、試運転、展示物の配置などは、三階:横島さん・石田さん・小酒井さん・古谷さん・平野さん・真田さん・須田さん・加久本さんらのベテラン会員の手で順調に展開された。

1-7-50052-06.jpg一階特設会場には、タイポグラフィ学会の展示と、懇話室 兼 休憩室がもうけられ、その設営は春田さん・小酒井さんを中心に、福岡から駆けつけられた大庭さんと、三階の展示設営が目処がついたかたから順次応援にまわっていた。

通常のサラマ・プレス倶楽部の活版礼讃イベント<Viva la 活版  シリーズ>では、いつも予算過少のせいもあって、懸垂幕などの「大型告知」は経験不足であった。ところが長崎ではおもいきって大型懸垂幕に挑戦した。
製作・設置担当はタイポグラフィ学会会員・活版カレッジ修了:日吉洋人さん。

初出・明治24年『印刷雑誌』掲載「東京築地活版製造所広告」、また大冊の活字見本帳『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年)に「電気版見本」として収録され、サラマ・プレス倶楽部のアイキャッチ、アイドルおじさんとして創部以来もちられてきた「活版おじさん」を主要モチーフに、防水対策も完ぺきに施されたおおきな懸垂幕が、展示会場に工場直送で既に到着していた。

DSCN7280 DSCN7282

《 設営に難航した懸垂幕、実稼動に失敗したアルビオン型手引き印刷機 》
さて、会場設営もほぼ目処がついたころ、いよいよ懸垂幕の設置にとりかかった。
担当者は長崎ははじめてだったが、完ぺきな設置予定図まで準備していた、
ところが、長崎県印刷工業組合・印刷会館ではこれまでこうした懸垂幕を設置したことがないそうで、当然吊り下げ装置や金具が無い!
垂れ幕02DSCN7247 DSCN7253
あれこれ工夫し、また急遽スマホで吊り下げ方法を検索したところ、
「懸垂幕で検索すると、前半は製作業者の広告がつづき、後半は体験者のブログで、『甘く見るな! 懸垂幕の吊り下げ法』がどっさりです」
との報告でびっくり仰天。
ちょうど小雨も降ってきたし、ひと晩ゆっくり考えれば何とかなるさ・・・・・・(やつがれ)、というなんとも無責任な発言で、懸垂幕設置作業は翌朝に持ちこしとあいなった。

この懸垂幕と、後述する「チンパン Tympan」の張り替えは、ともに日吉さんの担当。バスターミナル・ホテルに宿泊していた日吉さんは、この夜は悶々として一睡もできなかったようである。
翌朝は会館(定時:09-17時)に無理をお願いして、早朝八時から作業にとりかかり、来場者をお迎えした定刻十時には、何ごともなかったように?! 設営が完了していた。
1030963
松尾愛撮01 resizeまた<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機二台を収蔵庫から取りだし、そのうち部品欠損の少ない「仮称 一号機」の麻布製の「チンパン Tympan」だけを張り替えて実稼動させる予定であった。
この仮称一号機は、大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ、百年余も以前の印刷機であったが、収蔵庫から引き出して注油・清拭してから点検したところ、上部のカムに破損があり、応急修理では稼動しないことが判明した。

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造の墓参・法要」で復元修復報告 》
その後訪崎され、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられたタイポグラフィ学会会員:板倉雅宣氏が詳細に点検され、やはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、復元稼動を支援することになった。

ここで長崎県印刷工業組合もついにアルビオン型手引き印刷機(一号機)の本格修復を決断されて、福岡市の(有)文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

アルビオン型手引き印刷機の構造アルビオン・プレスの構造 挿入図
『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 2011年09月15日 朗文堂 p.73)
20160914163336_00002 20160914163336_00001福岡で活版印刷業を営まれている有限会社文林堂/山田善之氏ご夫妻
『かたりべ文庫 職人の手仕事 Vol.17 〈活版印刷〉』
(ゼネラルアサヒかたりべ文庫 2015年4月1日)

手引き印刷機のチンパン「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。「チンパン Tympan」は会期前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」

20160914163731_00001ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を片塩が解説にあたった。
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露}

DSCN7279DSCN6689 DSCN6687 DSCN6742 DSCN6744DSCN6804

《 『崎陽長崎 活版さるく』 と 印刷会館閉館五時以降 連夜の さるく と 根拠地 ぢどりや 》
15-4-49694 12-1-49586矢次家旧在地 半田カメラ
会期の中日、2016年05月07日[土]には、参加者40名ほどでマイクロバス二台をチャーターしての「崎陽長崎 活版さるく」が実施された。
その夜参加者は疲れもみせずに、長崎県印刷工業組合のお手をわずらわせた、これも新地角の中国料理の老舗「京華園大ホール」での懇親会に臨まれた。
4-3-49083 16-1-49084
その報告は本欄でも、<長崎行き、参加されたかたも、断念されたかたも大集合 Viva la 活版 ばってん 長崎 スライド報告会>でも報告したが、主会場の長崎県印刷工業組合会館は、定時が午前九時から午後五時であった。

ところで、多くの若い造形者の皆さんは、朝に弱く夜にはめっぽうつよい。そのため開場は十時としたが、閉館は印刷会館の規定で夕刻五時厳守となった。

それでなくても西端のまち長崎の日没はおそい。当然会場を五時に出てもホテルにすぐ引きあげるわけはない。ましてサラマ・プレス倶楽部には真田幸文堂と横島大地さんという、グルメ情報ならなんでも任せておけというふたりがいる。
出島町印刷会館から徒歩10分ほどで、繁華街思案橋がある。橋といっても高知の「はりまや橋」と、長崎の「思案橋」は、いまではこれが橋かというほどあっけないものではある。

4-30-49132 4-31-49134

長崎ことば「さるく」とは、もともと「うろつきまわる」の意であるとされる。
ところが2006年開催「長崎さるく博‘06」で、主催者の「長崎さるく博‘06推進委員会事務局」が間違えて説明したために、「『さるく』とは『ぶらぶら歩く』という意味である」と説明するメディアが後を絶たない――ウィキペディア とされている。

ここからは格別の説明を加えず、長崎を堪能し「さるく――うろつきまわった」参加者の皆さんをご紹介したい。ただしイベント本番の{崎陽長崎 活版さるく}とはちがい、「さるく」の本拠地となったのは主会場ちかくの思案橋横丁で、(B級)グルメ : 真田幸文堂、横島大地のコンビが、
「ひとの良さそうなお母さんがひとりでやっている店です。ここは良さそうです」
と初日の夜に推薦した、
思案橋横丁「ぢどりの三昧」であった。

10人も入ればいっぱいのこの店に、連日、それもイベント中日には25名ほどで押しかけ、客席はもとより調理場まで占拠し、ついには店外での立ち飲みまではじまる騒ぎとなった。
また最終日には引退しているご主人とともに、お母さんが<Viva la 活版 ばってん 長崎>に参加され、しまいにはサラマ・プレス倶楽部から同店に「感謝状」まで贈呈することになった。
ちどりや

4-32-49136 DSCN7268 4-36-49146 4-37-49147DSCN7574

 《 長崎 さるく の 記録 》
4-4-49085 4-5-49086 4-6-49087 4-8-49090 4-9-49091 4-10-49092 4-11-49095 4-12-49096 4-13-49097 4-14-49099 4-15-49100 4-16-49104 4-17-49105 4-18-49106 4-21-49110 4-22-49113 4-19-49107 4-20-49108 4-23-49117 4-26-49121 4-28-49127 4-27-49124 4-38-49151 4-40-49155 4-41-491574-42-49158

【 Season’s Greetings 】 晩夏にふさわしい歌 長崎:黄檗宗興福寺の斎藤茂吉歌碑から紹介

DSCN7460斎藤茂吉(1882-1953)は長崎医学専門学校教授として長崎に在住。
歌集『つゆじも』をのこし長崎の短歌会におおきな足跡を残した。

長崎寺町興福寺境内 斉藤茂吉歌碑

長崎の
昼しつかなる
唐寺や
思ひいつれは
白き
さるすべりのはな   茂吉

DSCN7478 DSC03714

【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 平野富二(矢次富次郎)生家旧在地が判明

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
──────────
今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏

{Viva la 活版 ばってん 長崎} 14 活版印刷作品展示紹介

長崎タイトル

103096327-7-50001    
◎ 田中智子(はな工房)
DSCN7483
【作品名】 『栞』
【作者名】 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 箔押
──────────
【作品名】 『MY TYPE』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)
──────────
【作品名】 『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(樹脂凸版)
──────────
【作品名】 『風景』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
──────────
【作品名】 『かごっまことば』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
──────────
【作品名】 『風のうた』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(ゴム版印刷)

◎ 加久本真美
DSCN7499
【作品名】 『活字見本帳』
【作者名】 加久本真美(東洋美術学校 タイポグラフィ・サークル QP 卒業生)
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)
一昨年から学校に残る金属活字の整理を開始し、見本帳を制作。
掃除 → 分類(書体・活字サイズ別)→ 印刷の手順で、活字の状態と種類を調査している。

◎ 日吉洋人
プリンティングオフィスresized

【作品名】 THIS IS A PRINTING OFFICE
【作者名】 言葉:Beatrice Warde   組版・印刷:日吉洋人
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)

◎栃木香織(文香―Fumikou―)
DSCN7478
【作品名】 『photo book』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)  写真:上野隆文(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版)  写真:インクジェット印刷
──────────
【作品名】 『モンヨウ誕生記念』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版、ゴム版画)

宗則和子(botaniko press)
宗則和子(botaniko press)さんの出品は、展示とあわせ受付でも展示して販売されました。
DSCN7473
【作品名】  スズラン 二種類/ワスレナグサ 三種類/スノードロップ 二種類/アンティーク押し花 スミレ 二種類/アンティーク押し花 スミレ/アンティーク押し花 アネモネ 二種類/タマゴタケ・ベニテングタケ
/アマタケ・イッポンシメジ/タマゴタケ/ベニテングタケ/ イッポンシメジ
【作者名】 宗則和子(botaniko press)
【版式・技法】 凸版(樹脂凸版) 

◎ 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室

DSCN7484【作品名】 『SORA 2012』
【作者名】 版画 : 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室
装丁:西尾 彩
【版式・技法】 凸版、平版(リトグラフ)
「キのスプーンのあじがするキセツに」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「そらが さびしくないように」 AOYAMA YUKIE 青山由貴枝
「ソラノオト」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「いつも見あげております」 ISHIAI HIROKO 石合広子
「ソラ タカク」 YUKO SASAI 笹井祐子
────────────
DSCN7480【作品名】 『THE LOVE OF BOOKS ― Old English Song
【作者名】 版画:日本大学藝術学部 美術学科
高浜利也、菊池史子、笹井祐子、宮澤真徳、山﨑香菜、大槻孝之、
日比野絵美、宮澤英理子
活字組版 : 大石 薫(アダナ・プレス倶楽部)
製 本 : 栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 版画 : 凸版(リノカット、木版)、凹版(銅板)、平版(リトグラフ)、モノタイプ(モノプリント)など    文字 : 凸版(活字版印刷)

本書は、第35回全国大学版画展(主催:大学版画学会/町田版画美術館)において、日本大学藝術学部 美術学科 笹井祐子准教授(当時)と、大学版画学会所属のアダナ・プレス倶楽部 大石薫による公開セミナー「版画と活字」のための参考展示作品として制作されたものである。
活字版印刷を導入した授業展開の一例として、同じ詩をテーマに、各々でイメージをふくらませながら、それぞれのイメージに合った技法で版画を制作し、一冊の折本のかたちにまとめた試みである。手製本はアダナ・プレス倶楽部会員 栃木香織の協力による。

◎ Bonami
DSCN7505
【作品名】 かみきりサックル
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)   絵 : 凸版(樹脂凸版)
────────
【作品名】 さくらとカトリ
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)  絵 : 凸版(樹脂凸版)
────────
【作品名】日々への手紙
【作者名】作者:三木葉苗
装丁・印刷・手製本:Bonami
【版式・技法】凸版(樹脂凸版)
────────
【作品名】 dear my sister
【作者名】 絵 : 三木咲良 文 : 三木葉苗
装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 凸版(活字版印刷、樹脂凸版)   平版(オフセット平版印刷)

関 宙明 ユニバーサル・レタープレス
DSCN7507【作品名】 『わが友ユダ』
【作者名】 詩 : 新井延男      版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
──────────
【作品名】 『草地の時間』
【作者名】 詩 : 村野美優      版元:港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
──────────
【作品名】 『鈴を産むひばり』
【作者名】 歌 : 光森裕樹       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
──────────
【作品名】 『夜の甘み』
【作者名】 詩 : 伊藤啓子       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷:内外文字印刷
表紙箔押し:真美堂手塚箔押所
デザイン:関 宙明
──────────
【作品名】 『詩への途中で』
【作者名】 詩・エッセイ : 高橋 馨        版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
―――
これら一連の書籍のアートディレクション・デザインを担当した関 宙明氏は、Adana-21J をもちいた活版印刷部門ユニバーサル・レタープレスでのみずからの活版印刷実践を、本職であるグラフィック・デザインにも活かし、活版印刷所とのコラボレーションによる書籍づくりを展開しています。

杉本昭生 ぢゃむ
DSCN7485

【作品名】 活版小本
印刷・製本 : すぎもとあきお(ぢゃむ)
【版式・技法】 文字 : 凸版(樹脂凸版)

『芥川龍之介の遺書』芥川龍之介/『マーク・トウェインの箴言集』マーク・トウェイン/『菊池寛』菊池寛/『實語敎』/『盈満の咎』/『黒猫・餅饅頭』薄田泣菫/『漢詩抄』/『子規随筆』正岡子規/『死生に関するいくつかの断想』ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)/『狂訳 小倉百人一首』/『盈満の咎 弐』/『獨樂吟』橘曙覧/『Greise  老人』リルケ・森鴎外訳/『冬日の窓』永井荷風/『老嬢物語』ギ・ド・モーパッサン/『舞鶴心中の事実』高浜虚子/『我が子の死』西田幾多郎/『電車の窓』森鴎外/『尾生の信』芥川龍之介/『夢十夜より  ─第三夜─』夏目漱石/『てがみ・二十一のことば』チェーホフ/『蜜柑』芥川龍之介/『老人の死』シャルル・ルイ・フィリップ/『ごぜくどき地震の身の上』/『道理の前で』 フランツ・カフカ/『変な音』 夏目漱石/『名家遺詠集』/『挽歌詩三種』 陶淵明

◎ タイポグラフィ学会創立10周年 特別参加
Print
32-1-49545-2 DSCN7458 DSCN7436 31-4-50052 DSCN7451 10-6-49164

【作品名】 タイポグラフィ学会創立10周年 特別展示
【作者名】 タイポグラフィ学会 有志
──────────
【作品名】 タイポグラフィ学会「本木昌造賞表彰状」
【作者名】 紙面設計 : タイポグラフィ学会
活字組版・印刷 : 大石 薫(タイポグラフィ学会会員)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)
オーナメント、プリンターズ・マーク : 凸版(銅凸版)
オーナメントは『BOOK OF SPECIMENS』活版製造所
平野富二(明治10年)より採録

◎ Lingua Florens(桐島カヲル)

DSCN7495【作品名】 断片小説
【作者名】 Lingua Florens(桐島カヲル)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)      図版 : 孔版(シルクスクリーン)

「長崎松の森なる千秋亭にて いと厳粛に …… 」と綴った〝ふうけもん〟福地櫻痴。大石は長崎のパワースポットと評す

「長崎松ノ森ナル千秋亭ニテ」(千秋亭は1889・明治22年、総理大臣伊藤博文の命名により富貴楼と改名)ときいて、ハッと反応するような奇妙人を、長崎では〝ふうけもん〟という。
松の森には放し飼いの「若冲 じゃくちゅう」 が数羽いた。おおむねひとになついていたが、一羽挑みかかる鶏がいた。その不届きもんの鶏を「若冲一」と名づけ、以下五羽の鶏と、モソモソとあるく烏骨鶏ウコッケイとしばし戯れた。

東京都美術館の若冲展 は好評だったがきょう(05月24日)で終わり。
会期二日目(4月23日)に参観して息を呑んだやつがれ、「見逃す無かれ 若冲展」として本コーナーでも紹介した。会期後半の週末などは入場に五時間待ちという混雑だったときいた。巡回展が期待されるところである。
そして「長崎松の森なる千秋亭」への再訪の機会をうかがうやつがれがここにいる。
長崎タイトルresize20160424142155830_0005DSCN7620 DSCN7623 DSCN7738 DSCN7728DSCN7722

【良書紹介】 渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か 十八銀行:松田源五郎

20160520212058459_0001渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営
著者名 |水尾順一  田中宏司  蟻生俊夫 編著
判  型    | 四六判   頁数 260ページ
定   価   | 1,944円(本体1,800円+税)
ISBN 9784496051975          第1刷 2016年05月01日

「論語と算盤」にはその理念が次のように述べられている。 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」 この理念のもと、ともすれば失われてしまいがちな企業の社会的責任について、現在の経営を根本から見直す。
【 詳細 同友館 OnLine
=================== 
{ 新宿餘談 } 長崎タイトル長崎では印刷界でも機械製造界でも、同市出身の平野富二が語られることはほとんどなく、活版印刷なら本木昌造が、機器製造なら岩崎弥太郎だけだと周囲にお伝えしてきた。
今回<Viva la 活版 ばってん 長崎>に各地から訪崎された皆さんは、その実態を眼前にして、やはり驚かれたようであった。

その逆に、三菱重工業長崎造船所(ながせん)の関係者で、懇親会に参加されたかたは、 「今回のみなさんは、平野富二さんに詳しくて、お好きですね~」 といささか呆れていた。

『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』 第11章 「算盤勘定だけでない企業経営/IHI」 の執筆者は、IHI 執行役員の水本伸子氏により、渋沢栄一が手がけた多くの事業の一環として IHI の事績を14ページにわたって、とてもわかりやすく、簡潔にまとめている。 とりわけ注目されたのは、
3. 渋沢栄一の貢献  (2) 最初の株主  であった。 

「有限責任石川島造船所」設立の1889(明治22)年、資本総額は17万5000円(1株100円)株主数は17人で計1750株だった。会社創立時の株主名簿は現存していないが、3年目の株主とその持ち株数が第3次営業報告に載っている(図表11-1)。渋沢、平野、梅浦、西園寺の4名は設立時委員を務めた。

図表11-1 最初の株主と持ち株数 (第3次営業報告書[明治25年]記載)
渋沢  栄一  400株
平野  富二  389株
松田源五郎  270株
田仲  永昌  250株
西園寺公成  150株
梅浦  精一  130株

渋沢栄一はともかく、またのちに社長となった梅浦精一のことは若干の知識があったが、ここに第三位の株主として、長崎十八銀行第二代頭取にして「長崎の渋沢といわれた人物」が登場することに興味をひかれた。 松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影たまたま小社に松田源五郎の外戚で、玄孫にあたられるかた(松尾 巌氏)が来社され、明治10年の松田源五郎の肖像写真(撮影:上野彦馬)を提供していただいた。
解像度は低いが一般公開はこれがはじめてとなるようである。

上野彦馬の台紙にみる「明治10年内国勧業博覧会」、このとき松田源五郎36-7歳。
この博覧会は、前年に新設された十八銀行支配人(のち第二代頭取・衆議院議員)松田源五郎が企画したもので、西南戦争の大混乱のさなかに、長崎諏訪公園のいわゆる丸馬場を会場として開催されたものである。

平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要がまし、渋沢栄一の助言と支援を得て「有限責任石川島造船所」(現 IHI )となった。
その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。

松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

この松田源五郎を〝ふうけもん〟と評した人物、長崎新聞に長く勤務した増永 驍がいた。
〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿を意味する。いずれ詳細を紹介するが、おなじ馬鹿でも、もうすこし愛嬌のある馬鹿のことである。

増永は〝ふうけもん〟の本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)を配し、同名の小説『ふうけもん』をのこした。
たしかに紹介した写真をみても、冷徹な銀行人というより、長崎人に多い面長で、瞳は好奇心にあふれ、わんぱく坊主がそのまま成長したような風貌にもみえる。

また十八銀行は松田源五郎のころから平野富二の活字版製造(東京築地活版製造所)を終始支援し、同社の取締役にも就任している。
のちにも松田精一(十八銀行第五代頭取、衆議院議員)は、東京築地活版製造所の第五代社長も兼任していたほどの密接な関係にあった。

そのためもあり、すこし松田源五郎と十八銀行にこだわってみたいとおもっていた。そこで昨週末本書を読了した。
読者諸賢に、もっともソロバン勘定の苦手なやつがれが、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』をお勧めするゆえんである。

インキローラー鋳型とその鋳込み法-欧文印刷の権威:小宮山清さんからお便りがありました

長崎タイトルDSC03576 DSC03579 DSC03586小宮山清氏。昭和6年2月26日うまれ。[1]インキローラー鋳型とその鋳込み法-Ink roller mould & ink roller casting

活版 à la carte : 2016年05月19日}に欧文印刷の大ベテラン:小宮山印刷工業の小宮山清さんからお便りを頂戴した。
小宮山さんは{Viva la 活版 ばってん 長崎}にご夫妻で参加され、{崎陽長崎・活版さるく}には最長老のおひとりだったが、終始若者にまじって、きつい坂道もものともせず行動をともにされていた。

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。会長だの顧問といった肩書きに類するものはまったくない。
ところが小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  8?歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関して、わが国有数の知識と経験を有されている。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね*020
──────────
[小宮山 清さんからのお便り]
今回の長崎では貴重な物、珍しいところ、存分に満喫させて頂きました。

会期終了の次の日に「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」の記念館に寄ってきました。宮田和夫様に長時間ご案内していただき申し訳なかったです。 特に上智大学(イエスズ会)のことで共通の話題などがありました。  

帰りがけに記念館のショップで、雑誌「楽」を買ってきました。 本木昌造、平野富二、二十六聖人のことが書かれてまして。今回の旅行のためのようでしたが、宮田さんがこれを執筆されたのは2012年の発行なのでびっくりしました。
戦前派には欠かせない「原爆資料館」にも行ってきました。本当に楽しい旅行でした。 有難うございました。

ローラー鋳型の写真   20160523222018610_0001 20160523222018610_0002 20160523222018610_0003 20160523222018610_0004『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』 (活版製造所 平野富二 伝明治10年版 平野ホール蔵) p.102 右肩にインキローラー鋳型が MOULD とされている図版記録をみる

最近の朗文堂のブログで見たのですが、インキをつけるローラーの鋳型のことです。
これはとても貴重な写真です。
わたしの手もとには見当たらないので、
よろしかったら、この写真のデーターを送って頂きたいのですが。  

これはわが家にもありましたが、戦前にテキンを購入すると附属品としてついてくるものでした。戦前のインキローラーは、ゴムではなく「にかわ」でした。夏になると印刷中にとけてしまってとても大変でした。
戦前でも勿論ローラー屋さんがあって「たき替え」をしてもらいました。 古いローラーをもう一度「煮なおし」て、各印刷屋に届ける商売です、ローラー屋さんの工場の中は湯気でもうもうでした。

戦後の復興にあたり、わが家でも昭和22年にまたテキンを設備しましたが、ローラー屋さんがまだ再開していなかったので、「にかわ」を買ってきて、テキンと一緒についてきたローラー鋳型でローラーを作って印刷したりしました。  

私事ですが、山の会の友人で印刷用ローラーを作っている知人に、昔は「にかわ」を使って印刷のロールを作っていた事を話した事があります。 この写真を見たとき、これは、どうしてもその知人(『ゴム工業便覧』1,300ページの図書の著者)に、この写真を見せなければと思い、このメールを書いた次第です。

{Viva la 活版 ばってん 長崎}13 新町活版所・境賢治と 貴重資料 インキローラー鋳型 Ink roller mould

長崎タイトル

2-1-49043 32-1-49545-2<Viva la 活版 ばってん 長崎>主会場となった長崎県印刷会館に、長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が明治期に使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が所蔵されている。
きわめて貴重なものではあるが、平素は収蔵庫のなかにしまわれている。今回のイベントに際し、これも貴重品の同館所蔵の「アルビオン型手引き印刷機」二台とあわせ、主会場中央に展示した。

設営日に一時間ほどをかけて清拭し、機械油で注油もして、脇には日吉洋人氏製作のB4判の解説パネルもおいて展示したが、なにぶん今回はコンテンツが多すぎて、この一見地味な機具はあまり注目はされなかったようである。
なにより会場写真として「インキローラー鋳型 Ink roller mould」をアップして撮影した資料はまだ手もとには到着していないのが現状である。したがって「インキローラー鋳型 Ink roller mould」の写真紹介は、前日に収蔵庫にあったときのものを紹介する。
総鉄製で重量は20キログラムほど、重厚感と迫力のあるものである。
DSC03576 DSC03579 DSC03586  インキローラー鋳型1030949

インキローラー鋳型とその鋳込み法
Ink roller mould & ink roller casting

【 roller casting 】  Walzenguss
膠ローラーの鋳込み。インキローラー鋳型(mould)は、円筒状もしくは半円筒状のものを合わせて円筒にしたもので、この筒孔の中心に鉄心棒(roller stock)をたてて、液状のローラー材料(roller composition)の融解せるものを流しこんだり、圧搾空気で注入してインキローラーを製作する。いずれの方法によるも、表面に気泡の生ぜざるように注意するを要す。
『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)

このように、翻訳書としてインキローラー鋳型とその鋳込み法(Ink roller mould & ink roller casting)を解説した『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)は、現在はいわゆる『印刷辞典』の第一版とみなされている。

ところが、第二版以降は、この項目は省略されて第五版にいたっている。
すなわち明治の末ころになるとインキローラー専門の工場が誕生し、一般にはこの機器の解説が不用となったためのようである。
機器や技術の変転がはげしかった「印刷」をつづった『印刷辞典』には、版を重ねるごとに、このようにふるい機器や技術の記載は、仕方がないとはいえもれている事例が多い。

インキローラー(ink roller)は、印刷インキを練ったり、印刷版面にインキをつけたりするための丸棒である。活字版印刷では、ふるくは皮革製のインキボール(タンポとも)をもちい、近年ではニカワ製のインキローラーが多くもちいられてきた。印刷の品質に関わる重要な機材のひとつである。

67現在では一定の耐久性のあるゴム製ローラー、合成樹脂製ローラーが多く使われている。明治中期ころのニカワローラーは7-10日ぐらいで摩耗・劣化がみられ、職人がみずから「巻きなおし(たき替え・煮なおし)」作業にあたっていたとされる。
日日の清拭作業、使用状況と保存状況によるが、いまでも、ときおりは鉄心棒(ローラー軸)と両端のコロを添えてローラー専門工場に依頼し、「巻きなおし」作業が必要になる。
この作業は「養生」を含めて相当の日数を要するため、本格印刷工場ではインキローラーをはじめから交換用予備を含めて複数セットを設備することが多い。

現在ではインキローラー専門の製造・巻きなおし工場も充実している。そこでは耐久性にすぐれたゴムローラーの製造がほとんどで、まれに簡便な樹脂ローラーをみるが、かつては臭気がつよい天然ニカワ(膠)をもちいて、作業者自身が煩瑣な「インキローラー(境賢治は肉棒としるしている)巻きなおし」を頻繁に実施していた。

境 賢治長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が長崎県印刷工業組合に所蔵されている。 またその鋳込み法(ink roller casting)に関する記録が『本邦活版開拓者の苦心』にみられるので紹介する。

我が国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所
境 賢治氏 ── 煮方の秘奥を公開す ──

膠ローラーに就いては、今日尚、研究している人が多いくらいであるから、明治初期の関係者が如何に多くの苦心をこれに費やしたかは恐らく想像外であろう。本木[昌造]先生の創設された新町活版所に在って霊腕ママを振るっていた境賢治氏は、明治十年頃から、膠に色々の物を混合して、ローラーの耐久力に関する研究をしていたものである。

明治二十三年になって、其当時としては稍稍理想的なるものを発見することが出来たと云うから、研究にだけ(でも)十何年かを要したことになる。
然るにこの尊い経験を惜しげもなく一般に公開したのであるから、昔のひとは流石に寛容で恬淡で何となく大きいところがあったように思う。
[境賢治]氏の経歴其の他に就いては、調査未了なまま惜しくも省略して、此処には単に氏が公開した肉棒煮方秘訣の一文を記載することにした。

拝啓 ローラーの煮き方に就いては、貴所も随分御苦心致し居られ候も、今回当所にては、肉棒を練るに塩を少々宛入れて練り、殆ど一ヶ年間試験を致し見候処、暑寒により塩を増減し、冬分は膠八斤一釜に塩十六匁を加えて煮き、夏は塩四匁、此割合を用いれば肉棒堅くなること普通法より長く日数を保つのみならず、煮直しをなす時にも早く砕くるに付、其利益莫大なり、最も之は昨春以来当所に於て試験の成績に有之候故宜敷御心懸御実験可然と奉存候。其煮直しにも是迄十日間保つものは十五日間位は必ず差支無之候間兎も角御実験可然と奉存候。
二白 砂糖蜜又は蜂蜜は是迄の如く膠に加え候上に塩を加う事に御座候。
明治二十四年五月
長崎新町活版所  境    賢  治
「わが国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所 境 賢治氏-煮方の秘奥を公開す-」 『本邦活版開拓者の苦心』 (伝三谷幸吉執筆、津田伊三郎編、津田三省堂、昭和9年11月25日、p.171-172)

このように境賢治の記録を『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年)にのこした三谷幸吉は、境賢治とは面識がなかったとみられ、半世紀余も以前の、たれに向けたのか判然としない境賢治の書簡を紹介するのにとどまっている。
長崎の新町活版所は、おおくの逸材が大阪・横浜・東京へとあいついで去り、新街私塾(新町私塾)関係者としてはひとり境賢治が孤塁をまもっていた。
ちなみに文末の「二白」は追伸と同義である。

 この新町活版所の孤塁を守りつづけたとされる境賢治に関する記録はすくない。
このすくない記録を整理すると、境賢治は1844年(弘化元)にうまれ、明治帝の最末期に贈位にもれたひとを詮議した1911年(明治44)には67-68歳で健在であったようである。
またこの世代の長崎印刷人の多くは新町私塾の終了生であったが、境賢治は塾生としての記録は見ない人物である。

わずかに『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 朗文堂 p.353)に肖像写真と以下のような記録をみる。
境 賢治20160519202753637_0001

 

 

 

 

 


本木昌造御贈位の詮議があった明治四四年(1911)のころには、長崎在住のおおかたの本木昌造の友人や子弟は物故していたが、高見松太郎(新町私塾出身 貿易商)、岡本市蔵(新町私塾出身、同塾会計掛をつとめた。長寿をたもち反物商)、立花照夫(新町私塾出身、長崎諏訪神社宮司)の三氏が健在で、ほかにはわずかに長崎新町活版所の境賢治(1844-?)が長命をたもっていた。したがって本木昌造の事績調査は主としてこの四名がその任をつとめたのである。

《活字組版術に長けたひと 長崎新町活版所/境賢治による『聖教歴史指南 完』》
本木昌造一門のうち活版印刷術の技術者の多くは、紙幣寮(印刷局)、大阪活版製造所、東京築地活版製造所などに旅立ったが、長崎に残留したのが境賢治であった。

境賢治がのこした印刷物は『長崎新聞』(初代)、『西海新聞』などの新聞印刷のほかにも数点しられるが、『長崎古今学芸書画博覧』(西道仙 海人艸舎蔵版 明治13年 新町活版製造所)、『書画雑記』(筆記幷出版人・西省吾 肥前長崎区酒屋町51番戸 西道仙か?)など大判の枚葉印刷物も多い。すなわち明治12年頃の新町活版所には、手引き印刷機ではなく、相当大型の円圧シリンダー型の印刷機があったと想像されるのである。

 ここに紹介したのは冊子本で『聖教歴史指南 完』(米国聖教書類会社蔵版 明治17年5月)である。「聖教」はキリスト教の意であり、また聖書をも意味した。
最終ページには、振り仮名(ルビ)以外にはあまり使用例をみない「七号明朝活字」字間二分アキで、
「 印 行 長 崎 新 町 活 版 所 」
とちいさくしるしている。
聖教歴史指南 表紙 聖教歴史指南扉 (この項つづく)