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【アルテピアッツァ美唄】間もなく雪解けの美唄で活発なイベントが開始されます

d08d226ce57d0ffce802ed2acc1126e4東日本大震災の衝撃を乗りこえて、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が<Viva la 活版  Viva 美唄>を開催したのは2013年09月13日-15日でした。美唄にはすばらしいおもいでがいっぱいですし、その後もアルテピアッツァ美唄「ポポロの会」を中心に交流がつづいています。

image-320x227アルテピアッツァ美唄
Blog アルテの日々
3月30日投稿記事によると、まだ美唄には残雪がみられるようですが、春の陽光にめぐまれて、急速に雪解けがすすんでいるようです。

そんな美唄から<Arte 通信 2018 Vol.31>が到着。たくさんのイベント資料が満載でした。その一部をご紹介。

安田侃カン彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
小島啓二写真展2018「アルテピアッツァ美唄と私」
dbc80529ce7663aa1159ebdefab73a13安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
小島啓二写真展2018「アルテピアッツァ美唄と私」
会 期  2018年4月7日[土]-16日[月]
会 場  アルテピアッツァ美唄 展示室 A・B
料 金  無 料
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小島啓二さんによる、アルテピアッツァ美唄での5回目の写真展。
今回は、アルテピアッツァ美唄の写真のほか、「私のアルテのフォト日記」を展示します。

安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
企画展「大理石が彫刻になるまで」
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安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 企画展
「大理石が彫刻になるまで」
会 期  2018年4月25日[水]-5月7日[月] * 会期中無休
会 場  アルテピアッツァ美唄 展示室A、B
料 金  無 料
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大理石が彫刻になるまで安田侃氏の白い彫刻の素材は大理石です。
遥か昔、何億年という長い年月をかけて海底に積もった生物が、マグマにより結晶化して大理石はできました。地球の一部である大理石を山から切り離し、人の手に渡すことを生業とする石職人。石職人から受け取った大理石に、全身全霊を込めてノミをふるう彫刻家。
地球の一部だった大理石が、私たちがここで触れている彫刻になるまでをご紹介いたします。
<関連企画>
◎ギャラリートーク
大理石の町イタリア・カラーラに住んでいたスタッフがカラーラの街のことなどをお話します。
予約不要です。
日時 2018年5月5日(土)、6日(日) 各日11:00-
会場 展示室 A
料金 無 料
【詳細: アルテピアッツァ美唄
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ギャラリー TOM
安田侃のまなざし展
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ギャラリー TOM
安田侃のまなざし展

日 時  5月3日[木・祝]-13日[日]
     11:00-18:00 * 5月7日は休館
会 場  ギャラリー TOM
     〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-11-1
     TEL. 03-4367-8102  http://www.gallerytom.co.jp/
料 金  一般500円 小・中学生200円 * 視覚障害者および付き添い 各300円

<関連企画 鼎談>
5月6日[日] 15:00-
水沢 勉(神奈川県立美術館長)× 柚木 紗弥郎 × 安田 侃
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░  What is Tom gallery ? ── 同ギャラリーホームページより

ギャラリーTOMは、盲人(視覚障害者)が彫刻に触って鑑賞できる場所として村山亜土(故人)・治江によって1984年に創設された私立の小さな美術館です。

ギャラリーTOMの創設者の一人である村山亜土は、独創的な美術家である村山知義を父に、叙情性豊かな童話作家である籌子を母に生まれました。村山亜土自身も児童劇作家として知られています。「ТОМ」という名称は大正時代のダダイストのグループ『マヴォ』の代表的なアーティストとして知られた村山知義の署名のロゴからとったものです。

村山亜土と治江の一人息子、錬(れん 故人)は不運にも生来の視覚障害者として生まれ育ちました。あるとき、錬が「ぼくたち盲人もロダンをみる権利がある」と言った言葉に突き動かされた二人が、視覚障害者のための美術館を設立したというのが ギャラリーТОМの誕生の経緯 です。
それ以来、TOUCH ME ART、触れられるアートというコンセプトで視覚障害者が彫刻に触って美術体験をできる施設として機能してきました。視覚障害者の美術鑑賞の場として視覚障害者も晴眼者も同じように体験ができるような先駆的で実験的な方向を求めています。

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17{展示報告 ①}[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫{新技法による活字母型の試作と活字鋳造}── ちいさな一歩、おおきな成果

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tsukiji5_02新技法による活字母型の試作と活字鋳造
千星健夫  NECKTIE design office

tsukiji5_01 tsukiji5_03 tsukiji5_04[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫
活字母型製造にデジタル加工技術 CNCを採用して再開可能とする
現在、日本国内で金属活字を鋳造する企業はまだ数十社を数えるが、その複製原型ともいえる「活字母型」を製造する業者は数年前にすでに途絶している。
すなわち明治初期からの「電鋳活字母型(電胎活字母型)」製造法はもとより、1885年(明治18)に英米の特許を取得している「機械式活字父型・母型彫刻機」、いわゆるベントン彫刻法も、業務レベルでの稼動がとまって久しいものがあった。

小型機ながら活字版印刷機を使用し、金属活字のいい知れぬ魅力を日々感じているもののひとりとして、こうした活字母型製造の窮状を側聞して看過できないものがあった。また台湾ではすでに旧方式によることなく、CAD方式による活字母型製造を達成していることも映像で確認できた。

NECKTIE design office はさまざまな造形活動を展開しており、その一環として、いわゆる「モノづくり」にも挑戦してきた。2015年に業界状況を知悉している朗文堂から、コンピューター制御による新規活字母型彫刻開発の可能性に関して相談があり、国内での活字母型製造のあらたな道筋をつくるために「モノづくり」仲間の金属加工会社を中心にいくつかあたってきた。

デジタル時代のいま、いかんせん130年余以前の技術であるベントン彫刻法を復活させることは、関連技術や資材が途絶している現代では現実的ではなかった。
今回採用した加工技術は「コンピューター数値制御切り削り加工」であり、金属加工業界では「CNC」とする一般的な加工技術で「Computer Numerical Controlled (CNC)Cutting」とされる技術である。

「CNC」のメリットは、コンピューターのCADファイルから直接素材に削りだすことができ、複雑な形象でも正確に対応でき、今回の素材とした真鍮をふくめ、ほぼどんな材料(素材)にも使えることにある。
デメリットとしては、大量一括生産に向かず、加工時間がかかることがあげられている。
試作段階で、単なる切り削りではなく、鋳型から活字が抜けやすくするために活字母型にもとめられる「抜き勾配  Bevel」の加工も可能なことがわかり、本格試作へのステップにはいった。
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今回試作した活字書体は、いわゆる「築地五号かな」(東京築地活版製造所 明治十年見本帳より)を選択し、試作として「いろは」の三文字を製作した。また現在の五号サイズ(10.5 pt.)に鋳造することから、鋳造を依頼した横浜:株式会社築地活字が保有する五号明朝体(漢字)との混植を想定して製作を進めた。

「築地五号かな」の考察
上掲図の、いわゆる『東京築地活版製造所 明治十年見本帳』の「第五號」ページのデーターの分析を重ねながら、コンピューター上にトレースした。ボディサイズに収まっていないようにみえる部分や、印刷されて文字部の一部分が太ったり痩せたりしていることも予想された。
そこでトレースしたデーターをそのままCADデーターとして使用するのではなく、活字母型彫刻用にデータに微調整を調整を加えながら作業を進行した。

実際の活字母型彫刻(CNC)に際しては、「母型深度」の設定、「抜き勾配」、「カウンター内の補強」など、印刷面には出てこない部分も細かく設定する必要があり、現状の活字母型と活字をそれぞれ分析して活字母型彫刻の作業にあたった。
実際に活字母型を製造し、活字鋳造を実施したのは「五号ひら仮名 いろは」の三文字である。
活字鋳造は横浜:株式会社築地活字で実施した。同社とは事前の打ち合わせを重ねていたこともあって、鋳造機に活字母型をセットすると、おもいのほか迅速に活字鋳造がなされた。
ついでさっそく実際に活版印刷をしてみたが、試作段階では望外の成果をみた。
tsukiji5_06 (1) tsukiji5_09 tsukiji5_08tsukiji5_04トリミング今回の試作によって、今後国内でも「既存の傷んだ活字母型の刷新」といった緊急の命題には対応が可能となったとみなされる。またこうした経験を重ねることによって、「あたらしい金属活字書体」の開発もなされるようになったら嬉しくおもわれた。
もちろん既存書体の刷新に際しては、製造コストだけでなく、乗りこえるべき難問も多い。また欧文活字であれば、ベースラインの設定やセット幅の研究も必要とおもわれる。

しかしながら、リニアスケーリング(比例対応)とはいえ、汎用コンピューターによって製作されたCADデーターから、大小さまざまな金属活字が鋳造できることになった。課題は多多あるが、この成果が活版印刷愛好者の皆さんにとって、金属(鋳造)活字の前途にたいする光明となればと念願している。

千星健夫 NECKTIE design office 特設 Works  /株式会社朗文堂/株式会社築地活字 ]

★ 本稿に関連する既発表の記事
花筏 タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載 初出:2011年06月10日
花筏 朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 初出:2011年08月27日
花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫 ベントン活字母型彫刻士 初出:2012年08月16日
花筏 朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる 初出:2012年10月22日
花筏 朗文堂好日録-025  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶 初出:2013年01月22日
花筏 タイポグラファ群像*003 細谷敏治氏 初出:2013年05月08日

【アルテピアッツァ美唄】新春特別号 popolo 便りが到着 厳冬の美唄で粘り強い活動を展開中

20180118160129_00003 20180118160129_00004 20180118160129_00005Viva-la-活版-Viva-美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ2[1]2013年《Viva la 活版  Viva 美唄》開催の地、アルテピアッツァ美唄から、いつもの通り『popolo NEWS LETTER』が到着。ことしのアルテピアッツァ美唄は開園から25周年になるそうです。
彫刻家:安田侃カン(1945-)氏の挨拶に、
  だいぶ昔ですけど、
  「お母さん、この卵ちいさくなったよ」
  「違うよ、あんたが大きくなったんだよ」
というはなしを聞いたそうです。この少女はどの作品を卵とみなしたのでしょう。勿論石彫作品が小さくなるわけはなく、
「何年も何年も通い続けていると、知らないうちに自分がおおきくなったということですね」
と安田侃氏はかたっています。この空間の開放感はなんともおおらかで、心がなごみます。

無題──────────
アルテピアッツァ美唄 Blog アルテの日々から

「ブロンズ展」「まなざし展」報告冊子発売!
投稿日 2018-01-11

昨年の夏にアルテピアッツァ美唄25周年事業として開催しました「安田侃ブロンズ展-時をつなぐ」、「安田侃のまなざし展」の報告冊子が発売されました。

各展覧会の記録写真、作品リスト、展覧会概要などがコンパクトに綴られています。会期中にアルテへお越しくださった方はもちろん、「見に行きたかったけれど、行けなかった」という方にもご覧いただきたい冊子です。安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄のギャラリー(木造校舎2階)とカフェアルテにて販売していますので、どうぞお手に取ってご覧ください。
■「安田侃ブロンズ展-時をつなぐ」、「安田侃のまなざし展」冊子セット
■ サイズ:各15cm×15cm
■ ページ数:各10ページ
■ 価格:500円(税込)※2冊セット

送料一律100円にて、発送も承ります。詳しくは、安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄(0126-63-3137)までお問合せください。

かんじき貸し出ししています
投稿日 2018-01-14

DSC_0271昨日、カフェアルテの窓から、ヒヨドリがナナカマドの赤い実を食べているのを見かけました。このように安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄の敷地内では、雪景色の中で動物たちに会える機会も少なくありません。
今朝、かんじきを履いて1mの高さはある雪原を歩きましたが、いつもと違う視線から見る景色は新鮮でとても気持ちのよいものでした。当館ではかんじきを貸し出ししております。動物たちの足跡を辿りながら歩くのもまた楽しいですので、みなさんもかんじきを履いて雪原の中を歩いてみませんか?ご希望の方は、ギャラリー(木造校舎2階)、カフェのスタッフにお声掛けください。

【 詳細情報 : アルテピアッツァ美唄

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-16  東京築地活版製造所アンソロジー 全日程を無事終了しました 

バーナー20171126221422_00001メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
東京築地活版製造所アンソロジー
全日程を無事終了いたしました

協賛をたまわりました、株式会社 I H I、株式会社イワタ、株式会社モリサワをはじめ、力強い協力とご支援を頂戴しました、平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会の皆さま、そしてサラマ・プレス倶楽部会員の皆さまにあつく御礼を申しあげます。
またプレイベント「江戸・東京 活版さるく」、本イベントにご参集いただきました多くの皆さまに、衷心より御礼を申しあげます。
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<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>は、開港地の長崎にうまれ、27歳にして上京、それからの20年間、明治産業の近代化におおくの功績をのこして47歳で逝去した平野富二の生涯をつうじて、メディアの越したかたをさぐり、ゆくすえを見定める機会でした。

ご存知のように、「媒体・媒介物」をあらわす{medium ミィーディアム}の複数形が {media 媒体・手段}です。
産業革命の負の側面がまさに露呈したともいうべき、19世紀世紀末・英国でのメディアの大混乱と同様に、I T 革命進行中のいまは、メディアが多様化し、氾濫し、流動化して瞬発的・刹那的となって、まさに混乱のさなかにあります。

こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

【継続情報は、おもに { 朗文堂 花 筏 } になります。あわせて { サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ } に収録されますので、引きつづきご声援・ご支援のほどお願いいたします。

メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ03 メディア・ルネッサンス
【速報写真集】
日展会館新館 一階講演会場 講師 : 平野正一氏 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」、谷中霊園・明治産業人{掃苔会}を中心に

会員 : 春田ゆかりさん提供写真
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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-15  東京築地活版製造所アンソロジー 日展会館新館での展示・WS/講演会二日目を迎えてヒートアップ

バーナー_1040429 _1040541 _1040542東京築地活版製造所アンソロジー
日展会館新館での展示・WS/講演会
二日目を迎えてヒートアップ

本日はご来場ありがとうございました。
あす26日[日]は最終日。二階展示 ・ WS は10時開始
フィールドワークで{ 掃 苔 会 } そうたいかい が早朝10時半出発
13:30-14:30 【最終講演会】
講師 : 平野正一 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」

より一層パワーアップしたコンテンツでご来場をお待ち申しあげます。
15時(午後三時で終了です。お早めにご来場ください)

【速報写真集】 日展会館新館 二階 主会場、一階講演会場をを中心に
会員 : 日吉洋人さん提供写真 _1040572 _1040556 _1040586 _1040433 _1040611 _1040613 _1040614 _1040578 _1040544 _1040516 _1040522 _1040518 _1040520 _1040525 _1040526 _1040524 _1040519 _1040521 _1040519 _1040523 _1040552 _1040561 _1040574 _1040575 _1040579 _1040581 _1040582 _1040515 _1040429 _1040498 _1040501 _1040502 _1040514 _1040566 _1040590 _1040567 _1040593 _1040601 _1040607 _1040595 _1040455 _1040456 _1040457 _1040460 _1040473 _1040475 _1040472 _1040485_1040494 

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-14  東京築地活版製造所アンソロジー 愈〻日展会館新館での展示・WS/講演会スタート

バーナー!cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E東京築地活版製造所アンソロジー
メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭年祭
11月24日[金] 会場点景報告

本日はご来場ありがとうございました。
あす25日[土]も、より一層パワーアップしたコンテンツで
ご来場をお待ち申しあげます。

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日展会館新館 二階 主会場を中心に 会員 : 時盛 淳さん提供写真
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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-13 東京築地活版製造所アンソロジー 東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地/津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋  

バーナー江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized東京築地活版製造所アンソロジー
東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地
津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
 大名屋敷とは、参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。
以下に『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 (人文社)から「東都下谷絵図」を紹介した。

 「切絵図」では、家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

江戸切り絵図秋葉原周辺この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、神田川左岸に「和泉町」という呼称はまだなかった。
「和泉町」の起立は『千代田区史』によれば明治5年であるが、一般社会にその名が知られるのにはだいぶ時間がかかった。

現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢の国 津藩 藤堂和泉守  二十七万九百五十石の上屋敷と門長屋》
<メディア・ルネサンス>の本番に先立ち、11月11日[土]開催のプレイベント「江戸・東京 活版さるく{愛称 :ブラ富二}」が開催された。
平野富二(1846-92)の生誕170年を記念して、平野の生誕地:長崎に設けられていた官立「長崎製鉄所」をはじめ、「海軍伝習所」、「医学伝習所」、そしてあまりにも資料不足だった「活版伝習所」などの、施設と人員と物資が、相互に関連しながら、いつ・どこへ・どのように江戸・東京にもたらされたのかを、豊富な資料をもとに探るツアーであった。

詳細な報告はいずれタイポグラフィ学会誌でなされるが、参加者のほとんどがおどろかれたのが、近代医学と近代タイポグラフィの揺籃の地が、ともにこの「東京都千代田区神田和泉町一」であり、明治最初期にはまさに激動のさなかにあったことであった。
詳細報告までの間、今回のイベントの AD をつとめられた日吉洋人さんの報告が日展会館でパネル展示によってなされることになった。
旗resized 缶バッジresizedブラ富二引率責任者日吉洋人さん医学館跡プレート 引率:日吉洋人神田某所一亀店主:山本氏・エミリー・字遊人 

津藩上屋敷-01 津藩上屋敷-02 【 プリント用PDF  津藩藤堂和泉守上屋敷・門長屋 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-12  東京築地活版製造所アンソロジー 連続講演会+掃苔会

バーナー

!cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E東京築地活版製造所アンソロジー 連続講演会
三日間 ・ 五人の講師による 連続七回の講演会

*     *     *
講演会場は日展会館新館一階になります。
講演時間は各講師とも一時間を予定しております。
貴重な原資料の展観をふくめ、著作・画像をまじえての講演となります。
友人・知人をお誘いのうえ、ふるってご参加ください(聴講・参加費無料)。
講座開始五分前までに一階会場にご集合ください。

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★ 11月24日[金]

講演会 ① : 11:00-12:00
講師 古谷昌二氏
「第一部 平野富二、長崎から東京へ」
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★ 11月24日[金]
講演会 ② : 13:30-14:30
講師 春田ゆかり氏
「本木一門創始による 京都〔點林堂〕」
1点林堂外観-M16-tei
★ 11月24日[金]

講演会 ③ : 15:00-16:00
講師 真田幸治氏
「明治の文芸雑誌と東京築地活版製造所 〔文芸倶楽部〕 と 〔新小説〕 」
明治28年 文藝倶楽部 第六編 泉鏡花「外科室」1頁目 明治28年 文藝倶楽部 第六編 表紙 明治28年 文藝倶楽部 第六編 木版口絵 水野年方
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★ 11月25日[土]
講演会 ④ : 11:00-12:00
講師 板倉雅宣氏
「〔もとき〕 か 〔もとぎ〕か 本木昌造の呼称」
板倉雅宣 タイポグラフィ論攷_表紙 タイポグラフィ論攷フライヤー表 タイポグラフィ論攷裏

★ 11月25日[土]
講演会 ⑤ : 13:30-14:30
講師 古谷昌二氏
「第二部 平野富二、神田和泉町から築地・石川島へ」
古谷昌二さんuu[1]
江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized東京築地活版製造所変遷
★ 11月25日[土]
講演会 ⑥ : 15:00-16:00
講師 春田ゆかり氏
「近代ひらがな活字の幕開け、池原香穉と周辺の人々」
2池原香穉書-抜刀隊50395-tei 3吉田晩稼碑63413-tei──────────
★ 11月26日[日]
講演会 ⑦ : 13:30-14:30
講師 平野正一
「子孫からみた 平野富二と縁者たち」
正一さんと平野富二 新旧長崎地図 e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5[1] 平野富二-206x300[1]──────────

東京築地活版製造所アンソロジー
掃 苔 会

{掃苔会}は主会場の日展会館新館に隣接する谷中霊園を中心に
明治近代産業とメディアの勃興に貢献した著名人の
記念碑・顕彰碑・墓地・墓標などをめぐります。

プレイベント<江戸・東京 活版 さるく>をうけて、より一層充実した内容となります。
版を重ねた特製ガイドブックをもとに、ベテラン会員がご案内いたします。
歩きやすい靴と服装でご参加ください。また道中に自動販売機がありませんので飲み物を各自ご用意ください。
(26日[日]10:10  二階の受付前にご集合ください。資料代として参加費1,000円)。

20171122172426_0000120171122172426_0000320171122172426_0000420171122172426_00002

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-11  特別展示 : 東京築地活版製造所アンソロジー/『花の栞』全5回の刊行

バーナー東京築地活版製造所アンソロジー
『花の栞』 全五回

【展示協力】
第一回 ・ 第三回 株式会社モリサワ所蔵
第四回        きくもとグラフィックス株式会社・菊本裕三氏所蔵 兵庫県丹波市

花の栞第3回活版之部 表紙 1898(M38) 花の栞第3回活版之部 草創時三代肖像

『花の栞』第三回 明治31年10月 東京築地活版製造所出品
創業期の経営者三人、とりわけ第二回の編輯を終え、刊行を目前にして急逝した曲田成を偲んでの東京築地活版製造所「生徒」の製作である。
東京築地活版製造所では明治中期まで、本木昌造は翁、平野富二は先生、長崎新街私塾出身者を生徒とする慣わしがあった。
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『花の栞』は、東京築地活版製造所第二代社長 : 曲田 成が、英国 『British Printer』 にならい、創刊直後の『印刷雑誌』をつうじて全国の印刷業者に呼びかけ、印刷技術の向上と新技術の普及をめざして発行したもので、現代のグラフィックデザイン年鑑・タイポグラフィ年鑑などのデザイン年鑑類のさきがけともいえる図書である。

『花の栞』の事務局は「印刷交換会」と称して東京築地活版製造所社内におかれ、印刷物の現物を公募収集し、それを冊子にまとめて発行したもので、公募作品は商用印刷物の提出は不可とされた。また印刷所名だけでなく、作業にあたった職工名、組版方式、印刷技法を明記するようもとめるなど画期的な逐次刊行物であった。
* 表題はいわゆる変体仮名で-はなのしほり・花のしをり-であるが、本稿では国立国会図書館にならってすべてを『花の栞』とした。

創始者の曲田成を第二号の刊行直前に急逝によって失い、逐年刊行はならなかったが、その遺志をうけた第三代社長:名村泰蔵によって刊行がつづけられ、
①明治26年12月 ②明治27年11月 ③明治31年10月 ④明治35年3月 ⑤明治41年6月
都合五回の刊行をみた。ただし名村泰蔵は貴族院議員でもあったので、印刷人は支配人:野村宗十郎の名で刊行されている。
発行部数は回を追うごとに漸減しているが、応募提出部数規定からみても最大150部程度とみられる。印刷図書館に全五回揃いがあり、国立国会図書館ではマイクロフィルム(モノクロ)で第1回・4回・5回を公開している。
また積極的に海外メディアにも送付していたため、海外の博物館にも一部が残存している。

花の栞4-0 花の栞4-1 花の栞4-2 花の栞4-3『花の栞』第四回 明治35年3月製本より

曲田成曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49

ここで東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期の四人の社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二
東京築地活版製造所創設者/初代社長、長崎うまれ・元長崎製鉄所所長
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田 成
東京築地活版製造所第二代社長、淡路島洲本うまれ・元徳島蜂須賀藩士(士籍返上)
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49
◯ 名村 泰蔵
東京築地活版製造所第三代社長/長崎うまれ・原姓北村、高級司法官僚・貴族院議員
天保11年11月01日-明治40年09月06日 1840. 11. 24-1907. 09. 06 享年68
◯ 野村宗十郎
東京築地活版製造所第四代社長/長崎うまれ・原姓服部、長崎製鉄所職員、元大蔵官僚
安政04年05月04日-大正14年04月23日 1857. 05. 26-1925. 05. 04 享年69
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平野富二は開港地であった長崎にうまれ、曲田成は当時徳島藩領であった淡路島中央東部、現洲本市にうまれた。ふたりはともに海をみながら幼少期を送ったが、1846(弘化3)年という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に脳溢血に倒れそのまま卒した。曲田成は出張先の姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。わずかな違いは、曲田が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒した。

近年国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』(編輯兼発行/松尾篤三 明治28年10月16日 請求記号:特29-644)が公開されてさまざまな事柄が判明した。そのひとつが、英国の印刷業界誌『British Printer』とのやりとりから曲田が発案した「印刷物交換 『花の栞』」の刊行企画である。

曲田成は創刊直後の『印刷雑誌』(第1巻2号 明治24年3月28日)に、「印刷様本ノ交換」とする記事を投稿している(原文は文語調片かなまじり。若干意訳)。
「英国ロンドンに印刷用紙および印刷業の日報を発行する会社がある。近来その創意によって万国印刷者の印刷物様本〔見本〕の交換がなされている。それをわが国でも企画し、毎年一回これをおこないたい」
として、英国での現状を細かく紹介した。

ついで『印刷雑誌』(第3巻6号 明治26年7月28日)に11条にわたる詳細な「第一回日本全国印刷物交換方法」の応募規定を掲げて公募を開始した。 それによると、
「第1 条 本法は活版・石版・木版・銅版・亜鉛版・写真版・電気版・細網版・およびその他の製版方式などの各種の版式による印刷物をたがいに交換し、技術の進歩を計ることをもって目的とする。交換とは同様同数の印刷物と、異種の同数の印刷物を交換することの意である」
としている。 さらに寸法は天地 ≒ 31.5cm、横 ≒ 24.5cm(製本時に三方化粧断裁されている)、厚さはボール紙・台紙・合紙したものは不可としている。
事務局は東京築地活版製造所内におき、営利目的ではないので、出品者(有料)と広報のための配布のほか、市場販売はおこなわない旨がしるされている。

国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』が公開されたこととあわせ、現在『花の栞』に関する研究も進行中である。
すなわち現在伝承されている東京築地活版製造所に関する事柄から、初代社長/平野富二、二代社長/曲田 成、三代社長/名村泰蔵の業績が抜けおち、象徴的な創業者/本木昌造が常にあらざるほど喧伝されてきた理由が判明しつつあり、その欠落部を埋める調査がなされている。
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◎ 花の栞 第一回
東京市京橋区二丁目17番地 株式会社東京築地活版製造所構内
第一回印刷物見本交換事務所 曲田 成
序文執筆者/無署名(第二回と同一人物)
明治26年12月製本(118点収録)
◎ 花の栞 第二回
東京市京橋区二丁目17番地 株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/無署名(第一回と同一人物)
明治27年11月製本(111点収録)
◎ 花の栞 第三回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/陽 其二
明治31年10月製本(110点収録)
◎ 花の栞 第四回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/手島精一
明治35年3月製本(106点収録)
◎ 花の栞 第五回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/手島精一
明治41年6月製本 (86点収録)

Seiichi_Tejima[1]手島精一(1849―1918)

創業から間もない平野富二、曲田成にフィラデルフィア万国博覧会(1876年・明治09年)へ漆器・陶磁器・扇子・屏風などのそれまでの博覧会の出展物だけでなく、文明開化の成果として、近代鋳造活字と活版印刷機の出展をうながし、また英国の印刷業界誌『British Printer』を紹介したのは手島精一だった。
手島精一は技術教育の先駆者。アメリカに遊学し(1870-1874)、帰国後東京開成学校監事、東京教育博物館長、東京図書館主幹を歴任した。その間フィラデルフィア、パリの万国博覧会に日本代表として出席、その後も内外博覧会に主役を演じた。

東京高等工業学校本館東京高等工業学校本館(ふつう蔵前の高等工業と呼ばれた)

1890年(明治23)東京職工学校校長に招かれ、以後、同校の後身である東京高等工業学校(現東京工業大学)の校長を1916年(大正5)まで務め、現場技術者の養成に貢献した。
東京高等工業学校は「蔵前の高等工業、芝浦の高等工芸」とされ、工業と技芸教育の双璧をなした拠点校であったが、関東大震災の被害が甚大で、現在地の目黒区大岡山に移転し、1929(昭和4)年に東京工業大学に昇格し現在にいたる。
手島精一は東京築地活版製造所にフィラデルフィア万博のころから支援をかさね、『花の栞』第四・五巻に序文をしるし、より創意にみちた意欲ある製作を呼びかけ激励している。

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-10  特別展示 : 夏目漱石全集と東京築地活版製造所-内田百間「築地活版所十三号室」

バーナー田中智子内田01 田中智子内田02
【作品名】 内田百間 『築地活版十三号室』より

【作者名】 著者 : 内田百間
                印刷 : 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)

東京築地活版製造所アンソロジー : 夏目漱石全集と東京築地活版製造所
内田百間「築地活版所十三号室」

夏目漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日)は、1916(大正5)年12月9日に持病の胃潰瘍が原因で永眠した。
『漱石全集』は岩波書店が刊行した夏目漱石の著作集。第一次全集は1917(大正6)年-1919(大正8)年にかけて全14巻で刊行された。
活字組版・印刷製本は東京築地活版製造所であった。 後年刊行のものに「普及版」「新輯 定版」などがあるが、1935(昭和10)年の「決定版」は小宮豊隆により原稿を尊重して編纂されたもので、以降の漱石全集の基礎となった。
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『思想』第162号・特輯漱石記念号(昭和10年11月)
「築地活版所十三号室」内田百間

大正六年の漱石全集初版の校正にあたつたのは、森田草平、石原健生、林原耕三の諸氏と私との四人である。
但し第十何巻日記書簡からは小宮豐隆氏が専らその任にあたられた。
私共がその仕事に取りかかつたのは、何年何月からであつたか、はつきりした記憶はないが、毎日みんなの顔を合はした場所は築地活版所の第十三号室である。〔中略〕

十三号室は本館に隣つた川添ひの煉瓦建の二階で、教室ぐらゐの廣さがあつた。その階段の下が職工達の通路になつてゐたので、夕方ぞろぞろと流れる様に帰つて行く職工達の間にふと老人の顔を見附けたり、綺麗な髷のお神さん風の姿に目を惹かれたりして何となく感慨を起こす様な事もあつた。
大正十二年の大地震で十三号室の建物はすつかり潰れて跡方もなくなつた様である。〔後略〕

M7,M37社屋Uchida_Hyakken内田 百間
(うちだ-ひゃっけん、戦後筆名を百閒と改めた〔読みは同じ〕。1889-1971)

夏目漱石門下の日本の小説家・随筆家。本名は内田榮造。別号百鬼園(ひゃっきえん)。
得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。
1910年(明治43)東京帝国大学文科大学入学。文学科独逸文学専攻。
1911年(明治44)療養中の夏目漱石を見舞い門弟となる。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平らと知り合う。

『夏目漱石全集』(岩波書店)の校閲に従事したのは1917年(大正6)28歳のころ。
夏目漱石没後20年に際して刊行された『思想』第162号・特輯漱石記念号(昭和10年11月)に、「築地活版所十三号室」、「漱石全集は日本人の經典である」をしるしたのは46歳のころ。
また「築地活版所十三号室」には「大正十二年の大地震で十三号室の建物はすつかり潰れて跡方もなくなつた樣である。」とあるが、東京築地活版製造所の本社工場は大正11年のはじめに全面的に取りこわされ、新築がなって、移転の当日に関東大震災に襲われている。此の部分は百間の記憶違いである。
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内田百間による「築地活版所十三号室」の既述と、残された写真とを照合すると、運河沿いの二階角部屋、通路脇の一室が出張校正室につかわれていたことが判明し、大正年代、関東大震災襲来までの東京築地活版製造所の部屋割りの一部があきらかになった。

また東京築地活版製造所はもっぱら活字鋳造所として知られるが、明治初期からさまざまな版式の印刷を手がけており、活字版印刷も『虞美人艸』(夏目金之助〔漱石〕著、春陽堂、明治40年12月29日)をはじめ、岩波書店『漱石全集』14巻を二年ほどでまとめている。

◯ 『虞美人艸』(夏目金之助〔漱石〕著、春陽堂、明治40年12月29日)
菊判 本文606ページ、印刷者・野村宗十郎、印刷所・東京築地活版製造所
基本組版 : 五号明朝活字 一行33字詰め 字間五号四分 一頁13行 行間五号全角
20171122144039_00001 20171122144039_0000420171122144039_00005
◯ 『漱石全集』(第五巻 著作権者・夏目純一、漱石全集刊行会、大正7年5月5日)
菊判 本文970ページ、印刷者・大久保秀次郎、印刷所・東京築地活版製造所
基本組版 : 五号明朝活字 一行44字詰め 字間ベタ 一頁14行 行間五号全角
20171122144039_00002 20171122144039_00003 20171122144039_00006
〔推奨参考図書 『漱石全集物語』(矢口進也著 2016年11月 岩波書店)〕

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-08  活版印刷ゼミナール 展示・実演+講演会+掃苔会

掲示ポスター用

メディア・ルネサンスロゴ01[1] メディア・ルネッサンスweb !cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E プリント用 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭日程表 PDF

 * メーン会場は日展会館新館二階になります。
二階の展示場には、稀覯書をふくめた豊富な資料がならび、また活版印刷実践者による製作品の数数がならびます。皆さまには至近距離から展観していただけます。
また明治六年に平野富二がまっさきに製造したものと同型の、アルビオン型手引き式活版印刷機、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部製造・販売 「Salama-21A」、「Salama-LP」 の小型活版印刷機二台を搬入して、ご来場の皆さまに操作・印刷していただきます。ぜひともご体験ください(一部有料です。上掲案内をご覧いただき会場にてお支払いください)。

* 講演会場は日展会館新館一階になります。
講演は各講師とも一時間を予定しております。貴重な原資料の展観をふくめ、著作・画像をまじえての講演となります。
友人・知人をお誘いのうえ、ふるってご参加ください(聴講・参加費無料)。

* 一階講演会場は映写室を兼ねています。
講演の終了後は、朗文堂サラマ・プレス倶楽部所蔵の貴重な動画・スライドショーをエンドレス・ロールでご覧いただきます。講演会が優先で中途上映打ち切りになることがあります。

* {掃苔会}は主会場の日展会館に隣接する谷中霊園を中心に、明治近代産業とメディアの勃興に貢献した著名人の記念碑・顕彰碑・墓地・墓標などをめぐります。
プレイベント<江戸・東京 活版 さるく>をうけて、より一層充実した内容となります。版を重ねた特製ガイドブックをもとに、ベテラン会員がご案内いたします。
歩きやすい靴と服装でご参加ください。また道中に自動販売機がありませんので飲み物を各自ご用意ください。
(11月26日[日]10:10  二階の受付前にご集合ください。資料代として参加費1,000円)
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会場 日展会館新館
110-0002 東京都台東区上野桜木2-14-3
TEL 03-5809-0803
・ JR日暮里駅 南口跨線橋上の駅舎です)より谷中霊園碑文通り経由、徒歩8分
・ 地下鉄千代田線・千駄木駅もしくは根津駅より徒歩10分
日展会館新館地図【 Googleマップ 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-01

メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ02
☆ プレイベント:「江戸・東京 活版さるく」 
無事に終了しました。

  11月11日[土]開催 (バスツアー 先約40名様 参加費7000円)

☆ メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
会  期 : 2017年11月24日[金]-26日[日] 10:00-17:00(最終日15時まで)
会  場 : 日展会館 新館 (東京都台東区上野桜木町2-14-3)
入場料 : 無 料(催事の一部には参加費が必要なものもあります)
* 展示のほか、講演会、活版ゼミナール、産業人掃苔会開催。詳細は後日WebSiteで

主    催 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部 160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
協    賛 : 株式会社 I H I 、株式会社イワタ、株式会社モリサワ
協    力 : 平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会

平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47

【 継続詳細情報 : サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ にて連続紹介 】

Main image 製作/日吉洋人会員
主要使用書体/イワタ太ゴシック体欣喜堂・朗文堂 おゝことのはH欣喜堂・朗文堂 銘石B
{漢数字 二} 平野富二墓標「二」より採取・加工 原字:吉田晩稼書 大楷書(蚕頭雁尾)より

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-04 11月11日[土] プレイベント{江戸・東京 活版さるく}ご案内

 プレイベント{江戸・東京 活版さるく}は
好天に恵まれ、全日程を消化して無事に終了いたしました。
ご参加ありがとうございました。

つぎは「日展会館 新館」でお会いしましょう。
バーナー
さるく01resized さるく02resized さるく03resized さるく04resized    【 江戸・東京 活版さるく 案内パンフレット -参加者配付資料 】
A4判 46ページ 中綴じ 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部
コンテンツ協力 : 古谷昌二 ・ 板倉雅宣  デザイン製作 : 日吉洋人会員

map-EdoTokyo1107-2     【 プリント用PDF  江戸・東京 活版さるく概略図 859MB 】
A3 判 カラープリント 参加者配付資料 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部
コンテンツ協力 : 古谷昌二  デザイン製作 : 春田ゆかり会員
江戸・東京 活版 さるく【 プリント用PDF  江戸・東京 活版さるく旅程表  514KB 】
旗resized缶バッジresized

☆ プレイベント:「江戸・東京 活版さるく」
11月11日[土]開催 (バスツアー)

平野富二(1846-92)の生誕170年を記念して、平野富二の生誕地長崎に設けられていた官立「長崎製鉄所」をはじめ、「海軍伝習所」、「医学伝習所」、そしてあまりにも資料不足だった「活版伝習所」などの、施設と人員と物資が、相互に関連しながら、いつ・どこへ・どのように江戸・東京にもたらされたのかを、豊富な資料をもとに探るツアーです。

「さるく」とは肥前・肥後など九州北東部の方言で、ぶらぶら歩きをさします。昨年五月開催の<Viva la 活版 ばってん 長崎 崎陽長崎探訪・活版さるく>では、狭隘な長崎市街地を考慮して小型バス二台での「さるく」となりました。 ことしはより広い東京での開催となります。
バスツアーといいながら、相当徒歩でのコースもありますので、歩きやすい靴と服装でご参加ください。

【 お問い合わせ・申し込み先 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  » send email 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-02   さぁはじまりました! サラマ・プレス倶楽部名物 宛名面一色+絵柄面二色 3000枚 都合9000回プレスの Postal Card 印刷

バーナーDSCN4375 DSCN4380 DSCN4385 DSCN4368 DSCN4396会報誌『 Salama Press Club NewsLetter  Vol. 35 』の配布を終え、サラマ・プレス倶楽部は本格的に<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の準備態勢にはいりました。
2011年東日本大震災に際し、各地会員の被災者へのおもいと、ご来場者の安全に配慮して、直前に<活版凸凹フェスタ>を中止して以来、久しぶりの東京でのイベント開催です。
メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ02この間に朗文堂内での事業部名が、登録商標にあわせて、「アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部」にかわり、イベント名も「活版凸凹フェスタ → Viva la 活版」と活版礼讃のイベント名にかわりました。
「Viva la 活版」イベントはその後、地方からの底上げと充実をはかり、北海道美唄市:アルテピアッツァ美唄、鹿児島市:尚古集成館、新潟市:北方文化博物館、長崎市:長崎県印刷工業組合会館での開催をかさねてまいりました。

折しもことしは、近代産業近代化のパイオニアとして、東京築地活版製造所と東京石川島平野造船所(現 I H I )の創業者 : 平野富二生誕170年にあたります。
プレイベント「江戸・東京 活版さるく」(11月11日[土]開催 先約40名様限定)では、長崎に設けられた「海軍伝習所」「医学伝習所」「活版伝習所」などの施設と人員とモノが、いつ・どこに・どのように江戸と東京にもたらされ、どのように消長したのかをバスツアーで探ります。
11月24日[金]-26日[日]に日展会館 新館を主会場として開催される<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170周年祭>も、盛り沢山の企画で皆さまをお迎えいたします。
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《 さぁはじまりました! サラマ・プレス倶楽部イベント名物 はがき印刷 》
今回のイベント告知はがきは、宛名面一色+絵柄面二色、3000枚製作ですから、都合9000回プレスの Postal Card (絵はがき)となりました。
10月12日[木]に四台の機械用に印刷版の組みつけ、13日[金]の夜から印刷を開始し、14日[土]、15日[日]と印刷作業に没頭しました。

雨の週末でしたが上掲写真のように、田中・日吉・松尾A・上条・千星・鷹巣・時盛・森田・江並といった多くの会員の皆さんのご協力をいただき、夜1?時ころに無事印刷を終えました。
これから本格的な広報態勢に入りますので、この<活版 à la carte>と同様、<イベントアーカイブ>コーナーに情報を集中しますので、ご訪問をよろしくお願いいたします。

【 継続詳細情報 : サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ にて連続紹介 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる

バーナー《明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域 三島毅・石黒忠悳の撰文、吉田晩稼の書
戸塚文海をはじめとする戸塚家の塋域はひろく、東京谷中天王寺墓地にある。
天王寺(てんのうじ 天台宗 護国山尊重院天王寺 台東区谷中七-一四-八)の創建はふるく、一二七四(文永一一)年の創建である。
はじめ「長耀山感応寺」と称した日蓮宗の寺院で、徳川家光と春日局の外護を受け、寺領二万九千六百九十坪、多くの塔頭を有する名刹であって、一六四四(寛永二一)年に寺領の一画に五重塔を建立した。 谷中五重の塔その後、この寺と五重塔はさまざまな変転をへてきた。
一六九八(元禄一一)年江戸幕府の命によって天台宗に改宗し、その三年後、いわゆる振り袖火事-明和の大火によって五重塔が焼失した。
塔は一七九一(寛政三)年に近江出身で湯島の大工・八田清兵衛が再建し、くだって一九〇八(明治四一)年に東京市に寄贈された。
この五重塔は幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった東京名所のひとつで、武蔵野丘陵東端の高台を占める谷中霊園のシンボルになっていた。

五重塔 五重塔2 幸田露伴 『五重塔』 青空文庫+『五重塔』(岩波書店 昭和23)を底本として参考組版
使用デジタルタイプ : イワタ弘道軒清朝体複刻版 「々 漢音繰り返し」、「〻 訓音繰り返し」
〔 『五重塔』参考組版 PDF  gojyuunotou

その後この五重塔は、関東大震災と太平洋戦争の厄災にもよく耐えてきた。したがって平野富二の墓も、これから述べる戸塚文海の墓も、この谷中五重塔をおおきくふり仰ぐような位置に設けられていたことになる。
ところが一九五七(昭和三二)年七月六日早朝、放火心中事件によって心柱をのぞいて谷中五重塔は焼失をみた。焼失後に焼け跡の心柱付近から、男女の区別も付かないほど焼損した焼死体二体が発見された。わずかに残された遺留品から、ふたりは都内の裁縫店に勤務していた四八歳の男性と二一歳の女性であることが判明した。
現場には石油を詰めた一升ビンとマッチ、睡眠薬が残されており、不倫関係の清算をはかるために焼身自殺を図ったことがわかった。
現在は谷中霊園内、いわゆる碑文通り交番の裏手に礎石だけが保存され、ちいさな公園となっている。

寺号も一八三三(天保四)年護国山天王寺と改称され、一八六八(慶応四)年彰義隊と新政府軍の兵火によって、本坊と五重塔をのぞく多くの塔頭が焼失した。
その後一八七四(明治七)年に寺域の大半を東京府に移管して谷中霊園が成立した。
さらに第二次世界大戦の末期、上野駅と鉄道線路付近に投下された米軍機の焼夷弾によって、寺域の相当部分に火焔がおよび、また周辺の谷中霊園東端に面した「平野富二墓標」をはじめ、墓地の損害もおおきかった。

現在の天王寺は、谷中霊園から日暮里駅およびその跨線橋にくだる坂の中途にあり、山門内におおきな「釈迦如来座像」がのぞめ、夜には座像がライトアップされて独自の景観を呈している。
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ところで戸塚文海は、海軍軍医総監(海軍少将に相当した)、共立東京病院(東京慈恵医院、現東京慈恵会医科大学の前身)の共同設立などの維新後の活動より、維新史のなかではむしろ旧幕臣のひととされ、なかんづく徳川慶喜の侍医の存在としての評価がおおきく、意外なほど資料が少ないひとである。
ここではまず簡略に、『日本人名大辞典』(講談社)から、戸塚文海と、その後輩にあたる高木兼寛を紹介する。 戸塚文海墓標【戸塚文海】(とつか-ぶんかい 1835-1901)
幕末-明治時代の蘭方医。 天保六年九月三日生まれ。
戸塚静海(とつか‐せいかい 江戸末期の蘭方医。本名維泰、静海は通称。遠江国〔静岡県〕のひと。シーボルトらに蘭医学を学び、幕府奥医師となり法印に叙せられた 1799-1876)の養子となる。
緒方洪庵、坪井信道、のち長崎で蘭医のボードインに師事し、徳川慶喜の侍医となる。 明治五年海軍省にはいり、九年軍医総監、一〇年初代医務局長。退官後に高木兼寛(たかき-かねひろ)らとともに共立東京病院(東京慈恵医院、現東京慈恵会医科大学の前身)を設立した。
明治三四年九月九日卒、享年六七。備中〔岡山県倉敷市〕出身。本姓は中桐、名は正孝。

【高木兼寛】(たかき-かねひろ 1849-1920)
明治-大正時代の医学者。 嘉永二年九月一五日生まれ。
鹿児島で西洋医学をまなび、明治五年海軍軍医。イギリスに留学、一八年海軍軍医総監となる。 脚気の栄養原因説を主張し、麦飯の採用など兵食の改善によって海軍の脚気を撲滅した。
成医会講習所(東京慈恵医大の前身)、有志共立東京病院、看護婦養成所を設立。日本最初の医学博士。
大正九年四月一三日卒、享年七二。日向(宮崎県)出身。幼名は藤四郎。号は穆園。

◎ 東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URLより)
・ 明治15年(1882年)8月  高木兼寛の主唱により、救療のための病院として賛同者の協力により有志共立東京病院開院
・ 明治18年(1885年)4月  有志共立東京病院に看護婦教育所を付設
・ 明治20年(1887年)4月  皇后陛下を総裁に迎え「慈恵」の名を賜り、有志共立東京病院を東京慈恵医院に改称
・ 明治24年(1891年)2月  高木兼寛 個人経営の東京病院開設
・ 明治40年(1907年)7月  社団法人東京慈恵会設立、東京慈恵医院を東京慈恵会医院と改称。 同医院に附属医学専門学校及び附属看護婦教育所を置く
・ 大正9年(1920年)4月 高木兼寛逝去

《戸塚家塋域の海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘をみる》
東京谷中霊園におおきく囲まれるようにして「天王寺墓地」がある。現在では天王寺の飛び地のようにもみえるが、その歴史的な経緯は既述した。
その一隅に相当ひろい敷地を占める戸塚家墓地がある。
敷地は東西にながい長方形で、四方をかこまれた塋域を入って右側中央、南面して、冒頭写真で紹介した戸塚文海の墓がある。墓標正面には「海軍軍医総監従三位勲二等戸塚文海墓」と鐫せられている。

最奥部の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」は東向きで、その方向はかつて天王寺五重塔があった方向にあたる。 戸塚文海墓標resized自然石の台石の上に、大きな碑石の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」がある。
篆額は徳川家達により、「戸塚文海先生之碑」とある。

徳川家達(とくがわ-いえさと 1863-1940)は旧徳川将軍家第一六代当主、政治家。
三卿のひとつ田安家(徳川慶頼)の三男として生まれ、はじめ亀之助と称した。 一八六八(慶応四)年前将軍慶喜にかわり、かぞえて六歳の幼少ながら新政府から徳川宗家の相続を命ぜられ家達と改名。五月に駿河・遠江(静岡県)・三河(愛知県)七〇万石に転じ、翌年、版籍奉還により静岡藩藩知事となった。
一八七七(明治一〇)年から一八八二年までイギリス留学、一八八四年公爵となり、一八九〇年貴族院議員、一九〇三(明治三六)年同議長につき以後三〇年間同職にあった。また日本赤十字社社長、済生会会長などの名誉職に任じ、ワシントン軍縮会議の全権委員も務めた。

碑文をしるした(撰)のは、漢学者の「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」である。
三島 毅(みしま-こわし 中洲と号す。文学博士 1830-1919)も旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。
維新後は多くの碑文を撰し、また重野安繹(しげの-やすつぐ 通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂・監修にあたった。
この現代につらなる「漢語字典」の編纂事業が三島 毅のおおきな功績とされている。

《幕末-明治初期の英語辞書、国語辞書、漢字字書・漢和辞典の刊行》 
江戸中期からポルトガル語・オランダ語の辞書が盛んにもたらされ、多くは写本であったが、一部は木版による翻刻本として刊行されていた。
江戸末期にいたり、にわかに英語の有益性が注目され、
・ 『英和対訳袖珍辞書』(わが国最初の活字版英語辞書、堀達之助、洋書調所・開成所刊、一八六二〔文久二〕)
・ 『和英語林集成』(ヘボン編纂、岸田吟香協力。上海で活字版印刷、和英辞典。一八六七〔慶応三〕)
・ 『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書、堀達之助『英和対訳袖珍辞書』を増訂し版を重ねた。薩摩学生:高橋新吉、前田献吉〔正毅〕、前田正名ら。上海で活字版印刷、一八六九〔明治二〕)などの英語辞書が陸続と刊行されていた。

薩摩辞書01鹿児島市 鹿児島県立図書館 正門前「薩摩辞書之碑」
以下「薩摩辞書」第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)
薩摩辞書02 薩摩辞書03 薩摩辞書04

『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書)には、開成所版からの増補であることと、その底本が、アメリカの語学者/ウェブスター(Noah Webster, 1758-1843)による英語辞書 『 ウェブスター大辞典 』 を典拠としたものであることが明記されており、以下の三版が知られている。

◯ A 第一版
『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ  正月 千八百六十九年新鐫)。
鐫センは深く掘る。年月は旧暦/1869年-明治02年)。印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。和文序に 「 改訂増補和訳英辞書 」、英文扉に 「 THIRD EDITION 」 とある。
◯ B 第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)。
年月は旧暦/1871年-印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。英文扉に 「 FORTH EDITION REVISED 」 とある。扉ページの 「 大正 」 は、元号を意味するものでは無い。
◯ C 第三版
『 稟准 和譯英辞書 』 (明治六年十二月 紀元二千五百三十三年)。
年月は新暦/1873年-明治06)。印刷所 : 東京新製活版所 天野芳次郎蔵版(一部複写のみ所有。未見)。

同書の刊行にあたっては、薩摩藩士:五代友厚(才助)が大きく関係しており、上海美華書館に依頼して刊行した初版がきわめて好評で、利潤もおおきかったことにより、この再版以降の刊行事業を大阪でなそうとして、長崎の本木昌造らと計った。
本木はこれに応えて人員を大阪に派遣したが、当時の設備と技倆では成功をみなかった。つまり全面的に組みなおされた第二版も上海での組版・印刷・製本となっている。
その折りの五代から本木への貸付金、五千円と利息は、のちに平野富二が本木昌造にかわって返済にあたっている。

「文明開化」とはそういうものさ……、といわんばかりに、英語辞書の刊行が先行したかげで、近代「国語辞典」と「漢和辞典」の刊行はおおきく遅れた。
江戸期までは、まとまった「国語辞典」が編纂されていなかったため、『 ウェブスター大辞典 』などの評価のある底本をえなかった両辞典の編纂は難航をきわめた。

維新からまもなく、一八七一(明治四)文部省編輯寮において『語彙』と称した国語辞典の編纂がすすめられたが、「いろは順」にするか、「あいうえお順」にするかというテーマでも議論が沸騰するばかりで、ようやく「あいうえお順」の配列と決したが、ようやく「あ」行の「え」にいたったころに計画は頓挫した。

この失敗に鑑みて、文部省は文部省報告課に勤務していた大槻文彦(のち国語学者、一八四七-一九二八)に「国語辞典」の編輯を命じた。
文彦は編纂中に幼女と妻を相次いで失うなどしたが、ほぼ独力で『言海』と名づけた国語辞書の原稿を完成させた。ところが当時の文部省は資金不足が顕著で、しばらく「保管」としたため、ついに文彦は一八七一(明治二四)年に私費での刊行を実行した。
印刷局活字系譜修整版見落とされがちではあるが、文部省もこの大槻文彦の挙に際して座視したわけではなく、紙幣寮活版局をもって印刷にあたらしめ、近代辞書にもとめられる大量の諸約物をつくり、膨大な不足字種を新鋳造活字によって提供するなどの支援にあたっていた。
『言海』は本文一千ページ、三万九千語を収録する本格国語辞典として完成し、その後各社から刊行をみた「国語辞典」の形式を定めたものとして評価がたかい。

漢語の辞典は、江戸時代には中国の『玉篇』、『康煕字典』の翻刻本が盛んに発行されていた。当時の教養人は漢字と漢文の素養に長けていたので、もっぱら若干の注釈を加えた程度の翻刻本をそのままもちいていたが、近代英語辞書と国語辞書の発行に刺激されるところがあり、「漢文・漢字・漢語辞典」の発行がまたれる風潮があった。

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20171012151428_00002中国最古の字書『説文解字』(後漢の許慎著)より <糸 ・ 糸編の字の一部>
『説文解字』(中国紫禁城図書館 黄山書社 2010年 宋版徐本の復刻本)

干禄字書『干禄字書』(顔元孫編・顔真卿書、中国唐代、明治12年 東京柳心堂〔翻刻〕)

中国の「字書」として評価のたかい図書二冊を図版で紹介した。
『説文解字』(せつもん-かいじ)は中国最古の漢字字書である。もとは一五巻。後漢の許慎キョシンの著とつたえる。
漢字九千三百五十三字、異体字千百六十三字を五百四十部にわけて収め、漢字字画の構成および用法に関する六種の原則-すなわち、象形・指事・会意・形声・転注・仮借カシャの説によって、その字画・字音・字義を解説した書である。

『干禄字書』(かんろく-字書)は、中国の初唐の顔元孫の著による字書である。干禄とは禄を干(もと)めるの意で、官吏登用試験(科挙)受験者のためにつくられた実用的な字体字書である。およそ八百字を四声によって分類し、字ごとに正体・通体・俗体の三体をあげる。すなわち官吏たらんと欲するものは、通行体や俗体のような字をもちいず、正体をもちいるべきだとしている。
のちに顔玄孫の子孫にあたる顔真卿が清書して科挙の受験生らに公開され、それを木版にした刊本がこんにちでも伝承されている。

現代臺灣における雕字工匠の作業状景現代中国や台湾でも、この『説文解字』、『干録字書』の両書は再評価がすすみ、さまざまな類似図書が刊行されている。
すなわち三島 毅らは、急速に木版刊本の雕字工匠が姿を消した明治時代後半期にあって、活字版印刷術、とりわけ異体字・俗字など、ふつうはもちいられない漢字活字の開発と発展をまって、「漢語 ⇄ 和語  漢和辞典」をつくることができるようになった。
一九〇三(明治三六)年重野安繹・三島 毅・服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ 詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻 佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典・漢和辞典」の形式を創出した。

ほかに三島 毅が名をのこしたのは、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六である。 「昔夢会 せきむかい」とは、会主が元一橋家家臣:渋沢栄一で、徳川慶喜伝記編纂事業の一環として明治末期に慶喜の回顧談を聞き、あわせて史料整理をおこなうための会であった。

会員は慶喜のほか、旧幕臣・新村猛雄、老中板倉勝静の家臣だった三島 毅、老中稲葉正邦の子・稲葉正縄、旧桑名藩士・江間政発、伝記編纂主任・萩野由之および三上参次、小林庄次郎・藤井甚太郎・渡辺轍・井野辺茂雄・高田利吉などの名が記録されている。

「昔夢会 せきむかい」は、一九〇七(明治四〇)年七月-一九一三(大正二)年九月まで、二五回の会が催された。会の談話筆記記録は『昔夢会筆記』として、慶喜没後の大正四年に印刷に付せられたが、まだ世情をおもんぱかるところがあって、わずか二五部のみの印刷で、伝記編纂関係者に配布されただけにとどまったとされている。
いまは幕末史の研究資料として『東洋文庫』七六(平凡社)に所収されている。

《海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘を読みとり、釈読する》
海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑は、故戸塚文海を顕彰した墓碑銘で、篆額を徳川家達がしるし、文章(撰)は三島 毅がしるし、書は長崎出身の書家 : 吉田晩稼によるものである。

古来中国には「碑碣学 ヒケツ ガク」とする学問がある。すなわち「碑 ヒ」は四角形の石で、「碣 ケツ」は円形の石の意であるが、転じて「碑碣学」は、石碑に刻されて後世にのこされた「いしぶみ研究」のことである。
「碑碣学」にあっては、石に刻し鐫せられたふみ-いしぶみを、ときに拓本術などをもちいて読みとり、それを解釈し、注釈を加え、公刊することが盛んである。

明治維新と、昭和中期の敗戦というおおきな価値観の変動があったわが国では、急速に漢文と漢字の素養に欠けるようになっている。また古文書はおもくみるふうがあるが、実際にはかくいう稿者をふくめ、江戸期通行体の「お家流の書」はもちろん、文書や碑石にのこされた漢文調の ふみ - おもいメッセージを読みとれなくなっている。

こうした風潮のなか、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑」を、ご自身で撮影した写真画像から、相当長文におよぶ一字一句を読みとり、それを解釈(釈読)されたのが古谷昌二氏である。
まだ未完成だとされるが、テキストをご提供いただいたのでここに紹介したい。

《海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑 紹介》
海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘
從二位勲四等侯爵徳川家達篆額
明治三十五年九月    東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰  吉田晩稼書 戸塚文海墓標resized 戸塚文海・静海墓地部分 谷中天王寺resized 戸塚文海墓地吉田晩稼書部分resized

從二位勲四等侯爵徳川家達篆額

明治中興之初我中備起于布衣顯榮於朝者蓋三民儒學有田甕江洋學有原田一道而醫術則爲戸塚文海君諱正考字子成文海其通稱幼字幸吉號甕浦本姓中桐氏淺田郡王島邨人考諱吉右衛門號逸翁妣堀氏家素富饒至王父頗衰逸翁憂之鋭意恢復君年少發憤就鎌田玄渓阪谷朗盧讀書既而自奮曰區區治章句何足以興家濟世乃去修醫術適有示醫範提綱者乃歎曰學醫不當如此乎遂之福山就寺地船里學和蘭文典尋從遊緒方洪庵及郁造于大阪坪井信道于江戸日夕研瓚矻矻不已然學資不繼或爲食客或傭書攻苦百端業頗進林洞海嘉其爲人延監塾生萬延紀元幕府侍醫戸塚静海聞其才學請養爲嗣配以其女於是冒其姓改稱静泊時長崎或傳習所聘蘭人講習醫術文久二年君奉幕命抵長崎從學蘭醫之杜意武代松本良順幹所務當時物理化學二科未聞君建言起醫學校多聘海外名士購器械書冊資講究又用乏杜意武説購驗温器顕微鏡備究其用方蓋爲吾邦用此器之權興居工年業大進慶応三年爲幕府侍醫改稱文海時内外多事君直言抗論人多不及知明治之初 朝廷屡徴不應五年遂起補海軍省五等出仕無幾任海軍大醫監九年補海軍省四等出仕兼大醫監尋任總監叙正五位會有薩南之亂海軍衛生療養之制未備君拮据經營以濟之事乎以功叙勲二等賜旭日重洸章十六年辭職點茶聴香以消閑自號市隠庵既而叙從四位三十四年春病作 特旨叙正四位未數月陞從三位一歳兩叙蓋異數也遂以九月九日薨于東京距生天保六年九月三日享年六十有七

皇上哀悼賻素縑二匹賜祭粢金七百圓越三日用海軍喪命葬谷中之阡元配戸塚氏先亡無子繼配久保氏生六男二女長男曰悦太郎承家曰幸三殤曰文雄曰春海竝留學西洋曰幸民曰五郎別養林氏子豊策改名環海現爲海軍軍醫總監君爲人頎然長偉剛直有才辯畢生用力醫務徳川氏之未欲建一大病院于京師東西奔走垂成而會戊辰之變不果徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之君與林研海坪井信良等謀建病院于静岡且多養生徒俟其業略成分遣各地書士乃安而就之及官于朝亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院君平素遇門人親子不啻故其就病也遠近來問争之相看護云頃者文雄徴墓銘于余余學謭才劣固非三民之然以郷友之故往來親交誼亦不可辭

嗚呼余嚮嚮銘甕江今又銘君而一道與余皆老而病後誰銘余人者臨筆浩歎遂銘之曰
起身市衣   苦學辛勤   醫傳西術   仁及三軍
濟世志成   家門復興   後昆紹述   三折其肱

明治三十五年九月       東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰  吉田晩稼書

〈 海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑 読み下し文 〉
明治中興の初、我が中備(備中国)、朝(朝廷)に於いて布衣・顕栄に起つ者は、蓋し三民。儒学に 田甕江 あり、洋学に 原田一道 あり、而して則ち医術は戸塚文海と為す。
君、諱は正考、字は子成。文海は其の通稱。幼字は幸吉、號は甕浦。本姓は中桐氏。淺田郡王島邨(=村)の人。考(=亡父)の諱は吉右衛門、號は逸翁。妣(=亡母)は堀氏。

田甕江 → 【川田甕江】(かわだ-おうこう 1830-96) 幕末・明治前期の漢学者。備中岡山の人。名は剛(たけし)。文章家として知られた。著書『文海指針』など。
原田一道】(はらだ-いちどう 1830−1910)  幕末-明治時代の兵学者,軍人。備中岡山新田(鴨方)藩士。江戸で洋式兵学をおさめる。一八六三(文久三)年池田長発(ながおき)にしたがい、渡欧して兵書を収集・購入。のち兵学大学校教授、砲兵局長などをつとめ、明治一四年陸軍少将。貴族院議員。別名に駒之進、敬策。

家は素(=貧)しく、富饒、王に至る。父は頗ぶる衰う。逸翁、之れを憂いて、鋭意、恢復す
君は年少にして發憤し、鎌田玄渓・阪谷朗盧に就いて読書す。既にして自ら奮して曰く。區區に章句を治めるに、何ぞ興家濟世を以て足らんやと。
乃ち去りて医術を修む。適(=たまたま)医範提綱を示す者あり。乃ち歎いて曰く。医を学ぶは此の如く不当か。

遂に福山に之(=往)き、寺地船里に就いて和蘭文典を学ぶ。尋いで大阪に於いて緒方洪庵及び郁造に、江戸に於いて坪井信道に従遊す。日に夕に研瓚し、矻矻として不已(=止)まず。然るに学資が継(=続)かず、或いは食客となり、或いは書を備なえ、苦しみを攻め、百端の業頗ぶる進む。林洞海は其れを嘉みし、人延監塾生となす。

万延の紀元に幕府の侍醫戸塚静海が其の才学を聞き、養うことを請い、其の女(=娘)を以て配して嗣(=跡継ぎ)となす。是に於いて其の姓を冒(=名乗る)して、静泊と改稱す。
時に長崎の或る伝習所は蘭人を聘して医術を講習す。
文久二年、君は幕命を奉じて長崎に抵(=至)り、蘭醫之杜意武に従って学び、松本良順に代わりて所務を幹す。當時、物理・化學の二科は未まだ聞かず。君は建言して医學校を起し、海外名士を多く聘し、購器械・書冊を購して講究に資す。又、乏杜意武を用いて説いて、驗温器・顕微鏡を購して其の用方に備究す。蓋し吾邦の為に此器を用いる之權興は居工年業大進(?)。

慶応三年、幕府侍醫と為し文海と改称す。時に内外多事。君は直言して抗論す。人は多くを知るに及ばず。
明治之初、朝廷は屡、徴不應。(明治)五年、遂に起(=立)ちて海軍省五等出仕に補す。幾(いくばく)も無くして海軍大醫監を任ず。(明治)九年、海軍省四等出仕兼大醫監に補す。尋いで、總監に任じ、正五位に叙す。
会(たまたま)薩南之乱が有り、海軍の衛生・療養之制が未だ備わらず、君は拮据して以済の事を經營してか、功を以って二等賜旭日重洸章に叙す。(明治)十六年、職を辞して、點茶・聴香し以って閑を消す。自ら市隠庵と号す。既にして從四位叙す。

(明治)三十四年春、病と作(=為)る。 特旨により正四位に叙す。未だ數月ならずして從三位に陞す。一歳の兩叙は蓋し異數のこと也。遂(つ)いに以って九月九日東京に薨ず。生を距(へだてる)は、天保六年九月三日、享年六十有七。

皇上は哀悼して素縑二匹を賻し、祭粢金七百圓を賜る。越えること三日、海軍を用(もち)いて喪を命ず。谷中之阡(=墓道)に葬る。元配(=先妻)の戸塚氏は先に亡くなって子は無く、繼妻の久保氏は六男二女を生む。長男は曰く、悦太郎。家を承(つ)ぐ。曰く幸三は殤(わかじに)す。曰く文雄、曰く春海は並んで留学す。曰く幸民。曰く五郎は別に林氏の子豊策として養われ、環海と改名して現に海軍軍醫總監となる。

君、人と為りては頎然・長偉・剛直にして才辯あり。畢生、醫務に用(もち)う。徳川氏が之れ未だ一大病院を京師に建てることを欲せざるに、東西に奔走して成るに垂(なんなんと)す。而して、會戊辰の変に会いて果さず。

徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之。君は林研海・坪井信良等と謀りて病院を静岡に建て、且つ多くの養生の徒を俟つ。其の業略(ほぼ)成りて、各地に書士を分遣す。乃ち安而就之及官于朝。亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院

君は平素門人を遇するに、親子不啻故。其の病に就く也、遠近から來問し、之れを争いて相看護すと云う。頃者(近頃)、文雄は余(=私、三島 毅)に墓銘を徴す。余は學謭才劣にして、固(もと)より三民の然るに非ず。郷友之故を以て往來し親しく交誼す。亦(=また)辞すべからず。
06_DSCN3634 吉田晩稼書状二resized 吉田晩稼書状一resized 吉田晩稼書状三resized <石黒忠悳がしるした碑文(谷中天王寺墓地 戸塚文海墓所)> 07_DSCN3632戸塚家墓地左手に、無名碑ながら格調のたかい石碑がある。
友人と書して撰したのは「男爵 石黒忠悳」である。
今般、日吉・時盛・玉井の三氏が碑面を損傷しないように配慮して乾式拓本の採取にあたり、それをもとに古谷昌二氏による釈読を得た。

この碑は戸塚文海の逝去にあたり、最後まで看護をつくした門人一一名の名を刻した碑を墓側に建立し、そのゆえんをしるすことを、文海の子、戸塚文雄からの依頼をうけ、石黒忠悳がしるしたものらしい。
ところがこの無名碑の背後は自然石の肌合いをのこしたもので、確認不十分ながら名前を刻した痕跡はみられなかった。
一一名の名を刻してのこしたとされる碑-いしぶみ-は、可能性としてはこの無名碑と正対する、戸塚文海の墓の近辺にもうけられているものを見落としている可能性がたかい。

碑文の末尾に「明治三十五年二月」とあるので、この碑は戸塚文海の没後(明治三四年九月卒)まもなく、塋域正面の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」より先に建立されたものと想像されるが、記述内容には「事 碑文に詳らかなり」とあり、墓碑銘の内容を知っていたことをおもわせる既述もある。
もしかすると大きく、文章量の多い「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」は、作業に手間取り、建立が遅れたのかもしれない。墓碑銘には卒後一年、「明治三十五年九月」建立とある。

また石黒忠悳の無名碑には書芸家の名前はみられないが、拓本採取にあたった三氏とも、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」と同様に、長崎出身の書家:吉田晩稼によるものとみたいとしている。
これまで吉田晩稼は「大楷  ≒ おおきな楷書」の名手とされ、おおぶりな楷書の刻字ばかりが強調されてきたきらいがある。ところがここにみる書は三センチ角ほどのこぶりな字で、八分の味のくわわった隷書にちかく、楷書とはいいがたいものであった。
いずれにしても、吉田晩稼に関する研究はまだ着手したばかりであり、もうすこし時間をいただいてから発表したい。 東京大学医学部略史 同大URL撰者の石黒忠悳は、森鷗外の大学・軍医・大学教授のすべての先輩にあたる人物である。
したがってこの戸塚文海の塋域は、さながら司馬遼太郎『胡蝶の夢』の前半部の登場人物が総出演しているような奇妙な時代感がある。

石黒忠悳は長命で、晩年に近代医学事始のような回顧談『懐旧九十年』(岩波書店)をのこしている。 石黒忠悳20170201133731_00001 ここでは幕末・明治の政治家、大鳥圭介(幕府歩兵奉行、戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順、のち清国兼朝鮮公使、男爵 1833-1911)の嫡孫にして、慶応大学医学部教授、医学史研究の第一人者とされた、大鳥蘭三郎(1908-96)の簡潔な紹介からみたい。

【石黒 忠悳】(いしぐろ-ただのり 1845-1941)
日本の軍医界の功労者。陸奥国伊達郡梁川(現福島県伊達市)の平野家に生まれ一六歳で祖家石黒家を継いだ。
一八六五(慶応元)年に「医学所」に入って西洋医学を修めた。明治維新後に神田和泉橋ちかくの「大学東校」に出仕、一八七〇(明治三)年大学少助教となった。
翌一八七一年、兵部省軍医寮に出仕して軍医としての第一歩を踏み出し、一八七四年佐賀の乱には陸軍一等軍医正として出陣、一八七七年西南戦争では大阪臨時陸軍病院長を務めた。

一八八八年軍医学校長、一八九〇年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に任ぜられた。日清戦争(一八九四-九五)では野戦衛生長官として、日露戦争(一九〇四-〇五)では大本営付兼陸軍検疫部御用掛として活躍し、傷病兵の救護、戦時衛生の確保に貢献した。
明治初期において西洋医学を各方面に移植することに尽力し、陸軍軍医となってからは日本の陸軍衛生部の基礎の確立に功労が大きい。

退職後、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。
『外科説約』、『黴毒新説』、『虎烈剌 コレラ 論』など多くの著訳書があって、これらが啓蒙的な役割を果たしたところが大であった。 『懐旧九十年』そのほかの著書もある。
医界の長老として重きをなし、よく長寿を保った。嗣子:石黒忠篤(いしぐろ-ただあつ)は政治家となり農政面で知られた。[大鳥蘭三郎]
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亡 友 戸 塚 君 文 海 之 疾 病 也 其
門 人 自 遠 方 来 懇    看 護 宛 如
孝 子 之 於 慈 親 者 凡 十 有 一 人
事 詳 碑 文 令 嗣 文 雄 君 欲 示 其
姓 名 於 将 来 謀 于 予 今 也 軽 浮
成 俗 不 顧 情 義 而 諸 子 之 於 其
師 如 彼 其 厚 洵 足 以 敦 薄 起 懦
是 宣 傳 也 因 使 諸 子 親 書 其 名
刻 之 於 貞 石 建 於 墓 側 予 為 書
其 由 云
友 人   男 爵 石 黒 忠 悳 識
明 治 三 十 五 年 二 月

《石黒忠悳がしるした碑文 読み下し文》
亡友 戸塚君文海 疾病にて之(=逝)く也。其の門人 遠方より来りて 看護に懇(=尽)くすこと 宛(さながら)孝子の慈親に於ける如き者凡そ十一人。事 碑文に詳らかなり。
令嗣文雄君 其の姓名を将来に示すことを欲し、予(石黒忠悳)に謀ること今也。
軽浮成俗なるは情義を顧みず、而して諸子 之れ其の師に於いて彼の如く、其の厚恂は敦薄起懦を以て足る。是れ 宣(=述)べ伝えるもの也。
因って諸子をして親しくその名を貞石(=石碑)に之れ刻み、墓側に建つ。
予は其の由を書となす。云。
友人 男爵石黒忠悳 識す。
明治三十五年二月 

{ 新 宿 餘 談 }

本稿をアップロードしてまもなく「平野の会」の友人から連絡があり、戸塚文海が卒した明治三四年九月九日の四日後、日刊紙『萬朝報』(よろずちょうほう 明治三十四年九月十二日、二千八百六十三号)に戸塚文海の業績紹介が掲載されており、それを引いた論文、「長崎医学の百年 第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓)の存在を教えていただいた。

中西 啓氏の論文は正確で、詳細を極めたものだったが、ここでは適宜改行と改段を加え、〔 亀甲括弧 〕 内に稿者の補遺を加えて紹介したことをお断りしておきたい。
この新聞報道-紙のふみ-の引抄が、 -いしのふみ- からの釈読を試みられている古谷昌二氏への支援になれば幸甚である。

あわせて冒頭に紹介した高木兼寬関連の記録と、東京慈恵会医科大学沿革などに、なぜか戸塚文海の名が残らなかったことに、いまさらながら残念なおもいがつのっている。

*        *        *

「長崎医学の百年 第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」
『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓、1961、pp.97-116)

戸塚文海の韓は正孝、字は子成、通称は文海、本姓は中桐氏で、備中玉島〔現岡山県倉敷市〕の人である。
幼時、学を郷の先輩に
受け、医学に志し、十六才の時、宇田川玄真撰、文化二年刊の『医範提綱』を読み、大いに悟る処あり、洋学を学ぼうと思い、大坂に至り、緒方郁造の門に入り、その後、江戸に出て、坪井信道に随って泰西医学を修め、医学生間に盛名があった。

萬延元年(一八六〇年)、二十六才で、幕府の侍医静春院法印戸塚静海にその才学を愛され、養嗣となつた。
この時、長崎の〔医学〕伝習所にポンペが
教授していたので、幕命を受け、遊学し、更に後、松本良順氏に代って伝習所を督していたが、ポンペの帰国後は、ボードウィンに随って研鐙し、叉医学生を教督した。ボードウィンは文海の内科に精なるを称し、内科病室を挙げて文海に托した。

慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜が宗家を継いで将軍になった時、文海を長崎より召して侍医とし、常に傍らに侍さしめたが、医学の他、洋学に関してその顧問格となり、教示した処が多かったと云う。
この時に当って文
海は大いに豪商紳士に説いて市立大病院を起そうとしたが、間もなく、維新の騒乱となり、企画は実現しなかった。
慶応三年十月に慶喜が大政を返上し、上野に謹慎し
た際、文海は随って侍した。
徳川家が封を駿河に受けた
時も従って駿河に移り、林研海等と共に諸生を教督した。
そして、維新政府はしばしば招聴したが辞して起たなかった。

明治五年五月、勝海舟の懲癒〔教え諭す、さそい〕により、遂に維新政府の徴に応じ、同十月、海軍大医監に任ぜられ、同九年二月、海軍軍医総監に陞任〔昇任〕した。
この時は恰も帝国海軍
の創立に際しており、海軍衛生医務の事業において経営規画する所多く、遂に帝国海軍衛生医務の事業を創始した。
同十年の役に功を樹て、勲二等に叙され、旭日重光
章を賜わり、自ら久しく栄職にあっては後進の進路を妨けることを慮り、同十六年十月、病を称して職を辞し、願によって本職を免ぜられ、家に籠った。

ところが、文海の盛名は都下に噴々としていて、辞職後も静養することができず、病客〔患者〕は門に充ち、車轍の静かな日とてなかった。
文海が職を奉じていた余暇に高木兼寛と謀り、首
として自ら資を投じ、他を誘って、東京慈恵院を設立し、一は医学の実修とその進歩を謀り、一は貧苦無事の病民を救療するを期し、その恵に浴するもの多く、遂に現代の盛況に到った。
晩年、専ら病客を謝し、静居安養し点茶・聞香に閑を消したが、その交る所は頗を博く、書画珍器も多く蒐集していた。

その妻配戸塚氏は早く破し、子がなかったので、久保氏を嬰り、六男二女を挙げた。 嗣文雄、三男久保春海は共にドイツに留学し、林氏の子を養子としたが、それは海軍々医大監戸塚環海で、英独に留学せしめた。環海も頗る学名があった。
文海が病臥すると、門人等は四方よ
り集り、病床に侍したが、その病が危くなるに臨んで、特旨を以て従三位に陞叙せられた。享年六十七才であった。
(明治三十四年九月十二日『萬朝報』二千八百六十
三号による)

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協 力/古谷昌二、平野正一、日吉洋人、時盛 淳、玉井一平、春田ゆかり
主要参考資料/『日本人名大辞典』(講談社)、東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URL)、東京大学医学部URL、古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』(朗文堂)、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六、 『日本大百科全書』(小学館)、「長崎医学の百年第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓)、『干禄字書』(顔元孫遍・顔真卿書、中国唐代、明治一二年東京柳心堂〔翻刻〕)、石黒忠悳『懐旧九十年』(岩波書店)

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-03  江戸神田川左岸に足跡をのこした長崎の写真士:上野彦馬

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上野彦馬上野彦馬  二二歳の写真(万延元年 一八六〇年)
撮影者 : 伊勢国津 藤堂藩藩士 堀江鍬次郎  撮影地 : 江戸 

上野彦馬(うえの-ひこま 一八三八-一九〇四)は、わが国写真術の先駆者のひとり。肥前長崎生まれ、号は季渓。
鵜飼玉川(うかい-ぎょくせん 一八〇七-八七)、下岡蓮杖(しもおか-れんじょう 一八二三-一九一四)らと並び、もっとも早い時期に「コロジオン湿板法」による営業写真館を長崎の中島川河畔に開いて、職業的に写真を撮りだした人物である。

彦馬の父、上野俊之丞(うえの-としのじょう 一七九〇-一八五一)、あざな常足ツネタリは、長崎の富裕な御用商人であり、長崎奉行所の御用時計士として、出島への出入りを許されていた。
彦馬はその次男であったとされるが、俊之丞の没後一二歳でその家督を相続している。
代〻の絵師でもあった俊之丞は多才なひとで、西洋の知識を積極的に取り入れ、火薬原料である硝石の製造、さまざまな形象や紋様を綿布に型染めにする「更紗」(中島更紗サラサ)の製造もおこなっていた。

また俊之丞は一八四八(嘉永一)年には、フランスでの発明から間もない写真術「ダゲレオタイプ」の機材一式をオランダからいち早く輸入した。
ダゲレオタイプとは、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、一八三九年にフランス学士院で発表された写真術である。
この方式では銀板上にアマルガムで画像が形成される。また一回の撮影で一枚の写真しか得ることができず、複製はできなかったし、できあがった写真は左右逆像となっていた。俊之丞は、日本にはじめてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入した人物とされている。

上野俊之丞による写真は管見に入らないが、同様のタゲレオタイプの写真術で、薩摩藩士が撮影した薩摩藩主 : 島津斉彬の写真が、日本人の手になるはじめての写真とされ、重要文化財に指定されている。

島津斉彬1857尚古集成館蔵

島津 斉彬(しまづ-なりあきら 一八〇九-五八)
薩摩藩の第一一代藩主。島津氏第二八代当主。 尚古集成館所蔵。
日本人の手による日本最古の銀板写真。国の重要文化財に指定されている。

そんな上野屋敷には、俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まり、家庭内での会話にも頻繁にオランダ語が使われていたとされる。そうした環境の中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育った。こうした父の行蔵は、まだおさなかったとはいえ、実子の彦馬に与えた影響はいわずもがなであろう。
母の伊曽イソも教育熱心で、彦馬は幼少時代の初学を、町内の私塾:松下平塾に通ってまなんでいた。

一八五一(嘉永四)年にその俊之丞が没し、上野彦馬が一二歳で家督を相続した。なにぶんまだ幼少であったので、翌一八五二年から四年間、大分日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園カンギエン」に入門して漢学を学んだ。
一八五六(安政三)年長崎へ帰り、オランダ語を通詞名村八右衛門(号:花渓)に伝授された。同門の先輩に福地源一郎(櫻痴 のち東京日〻新聞主筆兼社長、衆議員議員、戯作者)、名村泰蔵(のち司法官僚、貴族院議員、東京築地活版製造所第三代社長)らがいる。

さらに一八五八(安政五)年には、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする「医学伝習所」の中に新設された「舎密試験所」に入り、「舎密学」(セイミ-ガク Chemie オランダ語・化学)を学んだ。
このとき、蘭書から「コロジオン湿板法写真術」のことを知り、大いに関心を持つにいたった。そこで「舎密試験所」で同僚だった、伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎(あざな:公粛)らとともに、蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深めた。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも写真術の実際を学んだ。

《伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎と、藤堂和泉野守高猷の江戸屋敷》
この時代、肥前長崎は海外情報があふれ、沸騰する坩堝のような様相を呈しており、全国各地・各藩から有為の若者が崎陽長崎に集まっていた。
彦馬は「舎密試験所」で八歳ほど年長の伊勢津藩士(現在の三重県)堀江鍬次郎(ほりえ-くわじろう あざな:公粛 一八三〇-六五)と知りあった。鍬次郎は短命で、その業績に関して知るところは少ないが、正規の藤堂藩の藩士であり、先端知識の取得のため藩命をうけて長崎に派遣されていたとみられる。いずれにせよ鍬次郎は彦馬の良き先輩であり、共同研究者となった。
鍬次郎はときの藩主 : 藤堂高猷(とうどう-たかゆき、通称:和泉守、号 : 観月楼、維新後伯爵 一八一三-九五)に願って、当時一五〇両もした最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許された。

藤堂高猷 藩主藤堂高猷(とうどう-たかゆき 一八一三-九五)
明治十二年 明治天皇御下命『人物写真帖』<上>
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 PD

藤堂高猷は、幕末維新期の伊勢国津 藤堂藩藩主。藤堂高虎にはじまる藤堂家一一代藩主にして、最後の藩主となった。
黒船の来航をみた幕末には、幕命をうけて海防のための大砲を鋳造し、江戸湾台場の築造にあたるいっぽう、一八五八(安政五)年に藩領の町人のために郷校「修文館」を開設した。
もともと公武合体論者だったため、幕末には幕府軍と官軍(新政府軍)にたいして中立の立場をとっていたが、鳥羽・伏見の戦に際し、山崎関門で藤堂藩の指揮者:藤堂采女ウネメは、中立から一転してにわかに幕府軍を攻撃、幕軍敗北の原因のひとつとなったとされる。
その後の戊辰戦争では津  藤堂藩は新政府軍に参加して従軍した。

藤堂高猷の維新後は、拝領屋敷であった和泉橋近くの藤堂和泉守上屋敷(現千代田区神田和泉町一)を返上し、いっとき近在にあった旧藤堂藩中屋敷(現台東区)で生活した。一八六九年(明治二)年津藩知藩事となり、同四年六月隠居。伯爵。
明治二八年二月九日死去。享年八三。墓は東京都豊島区の染井墓地にある。法名は高寿院詢蕘文道大僧正。

一八六〇(万延元)年、彦馬と鍬次郎は藤堂高猷の命をうけて江戸に行き、神田和泉橋ちかくの藤堂藩中屋敷(現台東区)に滞在した。
それから一年近くの間、ふたりは幕府「蕃書調所」に通いながら、藤堂屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影していた。

上野彦馬その当時(一八六〇年 文久元年)二二歳の上野彦馬を、堀江鍬次郎が撮影した写真が残っている。すなわち本稿冒頭にかかげた肖像写真がそれである。
彦馬は月代を剃らない丁髷姿で、手指は深深と袂に隠している。のちに著名な写真士となる彦馬も、このころはまだ「写真を撮ると手指から魂魄を抜きとられる」とした迷信を信じていたのかとおもうと面白いものがある。
また和泉橋近くにあった藤堂藩邸が撮影地であったとされているが、それが上屋敷(千代田区)か、その北側に近在していた中屋敷(台東区)であったのかは記録されていない。

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
大名屋敷とは、
参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。はじめは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えていた。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。

東都下谷絵図resized

「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)から『江戸切絵図』(尾張屋版 1849-70)を紹介した。
「切絵図」では家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、和泉町という呼称はまだなかった。
現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢国 津 藤堂藩 二十七万九百五十石 とは》

藤堂高虎藤堂家宗家初代  藤堂高虎
弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)

藤堂 高虎(とうどう-たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主。のちに伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
藤堂高虎は、浅井・織田・豊臣・徳川と何度も主君を変えた戦国武将として知られる。また築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られる。

津藩は伊勢国(三重県)津に藩庁を置いた藩。安濃津藩・藤堂藩ともいう。藩主藤堂氏、城持ちの外様大名であった。一六〇八(慶長一三)年藤堂高虎入封後、廃藩置県まで続いた。
高虎は近江国犬上郡藤堂村(近世は在士村)地侍の家に生まれ、はじめ浅井氏に仕えたが、のち秀吉の異父弟秀長に仕え紀州粉河二万石、秀長没後は秀吉の直臣となって文禄四年伊予板島(宇和島)七万石の大名となった。

秀吉没後は関ヶ原の戦の戦功により徳川家康の篤い信任を受け、慶長五年伊予今治二〇万石に封ぜられた。
その後高虎は伊賀・伊勢入封して、大坂方に備えて同一六年軍事的拠点として伊賀上野、政治的拠点として津城の大修築をおこない、津には参宮街道を城下町に引き入れて各町割を定め、伊賀上野は三筋町など町割を作って城下町を整備した。

大坂冬・夏の両陣の功により、一六一五(元和元)年伊勢国鈴鹿・奄芸・三重・一志四郡内で五万石、同三年積年の功を賞され伊勢国田丸領五万石を加増された。また弟藤堂正高知行の下総国香取郡内三千石領有も認められ三十二万三千九百五十石となった。
一六三五(寛永一二)年二代藤堂高次のとき、高虎の義子高吉統治の伊予越智郡二万石は伊勢飯野・多気郡内と振替となり、一六六九(寛文九)年高次の隠居(致仕)に際し、次男の藤堂高通に五万石を分与して、支藩久居(ひさい)藩が立藩した。
一六九七(元禄一〇)年、藤堂高通の弟高堅の久居藩襲封時に三千石を分知して、津藩は二十七万九百五十石となり、この石高は維新時まで変わらなかった。

津は現在の津市となった。三重県中部、伊勢平野のほぼ中心にあり、三重県の県庁所在地で、人口は三重県では四日市市につぐ、およそ二八万人のまちとなっている。

《神田和泉町の起立と名前の由来》
神田和泉町(現:東京都
千代田区神田和泉町)は、一八七二(明治五)年に、伊勢津 藤堂藩上屋敷の旧地と、旧出羽鶴岡藩酒井家中屋敷と、三軒の旧旗本屋敷を合せて起立した。町名は藤堂氏の受領名「和泉守」にちなむ。
西は神田松永町、南は神田佐久間町二-三丁目、東は向柳原(むこうやなぎはら)一丁目、北は下谷徒(したや-かち)町一丁目・下谷二長(したや-にちょう)町(現台東区)。
藤堂氏は一六五七(明暦三)年の大火後当地に土地を拝領して幕末に至る。

沿革図書によると、神田和泉町(現:東京都千代田区神田和泉町)とされる地域は、延宝年中(一六七三―八一)は藤堂藩上屋敷、水野隼人正・中根平十郎の屋敷と酒井左衛門尉抱屋敷、一七一八(享保三)年は藤堂藩上屋敷、酒井左衛門尉抱屋敷、中根内匠・牧野伊予守・松平右近将監・朽木土佐守の各邸が占める武家地であった。

一七四六(延享三)年は朽木邸が植村庄五郎邸、牧野邸が稲葉興三郎邸になっている。
一七六五(明和二)年は松平邸が酒井勝次郎邸、植村邸が岩城伊予守邸に、一七八三(天明三)年は酒井勝次郎邸が松本十郎兵衛邸、岩城邸が三枝源十郎邸に、一七八九(寛政元)年は松本邸が松平兵庫頭邸に、一八〇六(文化三)年には鶴岡藩中屋敷と中根勘解由・三枝修理・能勢伊予守・能勢介十郎の屋敷となっていたが、維新まで一貫して伊勢津 藤堂藩をはじめとする武家地であった。

東京大学医学部略史 同大URL明治元年、津 藤堂藩邸は収公され、ここに「医学校、大病院」が設置された。翌年医学所は「大学東校」と改称し、一八七八(明治一一)年「大学医学校」が本郷に移設されたのちには、「東京帝国大学医科大学第二病院」(敷地二千九〇〇余坪)となった。
鶴岡藩邸跡には一八七四(明治七)年文部省医務局司薬場が置かれ、翌年医務局は内務省の管轄となった。
明治10年頃の和泉町周辺図『五千分一東京図』より「東京府武蔵国神田佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」部分
本図は参謀本部陸軍部測量局によって1876(明治9)年から10年間ほどをかけて作製された三角測量法の精密図で、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)より紹介した。したがって上野彦馬と堀江鍬次郎が藤堂藩中屋敷に滞在した一八六〇(万延元)年より16年ほどのちの地図であるが、江戸時代と現代をつなぐのには好適な資料となる。

下部を横断している河川は江戸城外堀の役割もはたした神田川で、石神井方面から流出する小河川をあつめた人口河川である。地図上では左から右に流れて隅田川に合流していた。和泉町は江戸時代もいまも神田川左岸のまちであった。

和泉橋から北(上部)へ直行する道は、「此通御徒町ト云」とされた通りで、現在は拡幅されて昭和通りとなり、その上を首都高速道路がはしっている。
地図左下の空き地は一八六九(明治二)年末の大火後に設置された火除地である。ここには鎮火神社として秋葉権現が祀られていたために秋葉原(あきばはら)と称した。現在の秋葉原駅にあたる。
この秋葉原駅昭和通り口からでると、昭和通りを横断して徒歩四-五分で「千代田区神田和泉町」に到着する。

上野彦馬はまたおなじ一八六一年(文久元)年九月、藤堂公と共に藩領の津(現三重県津市)へ同行し、藩校「有造館」の洋学所で蘭語と化学を講義した。
翌一八六二年堀江鍬次郎(公粛)の協力を得て、藩校「有造館」の化学教科書『舎密局必携』を著し、同書中の「撮形術 ポトガラヒー」の項で写真技法について詳細に述べている。

舎密局必携01 舎密局必携02resized『舎密局必携』 国立公文書館蔵 請求記号:197-0267

『舎密局必携』(せいみきょく-ひっけい)は、上野彦馬がワグネル(Rudolph Wagner)ほかの蘭書を抄訳し、また宇田川榕庵訳述『舎密開宗』を参考に著述し、堀江鍬次郎(公粛)の校閲になる化学実験便覧である。
一八六二(文久二)年に前篇三巻(総説、無機化学の非金属部、ガラス製法、写真術)を刊行したが、予定した中篇四巻(金属部)、後篇六巻(有機化学)、附録三巻(試薬、雷機器、伝信機、坑工所業など)は、彦馬の帰崎と鍬次郎の逝去もあって未刊に終わった。
それでも化学の入門と写真術の手引き書として好評を博し、津・江戸・京・大坂の書肆(書店)によって発行され、明治中頃まで愛読された。

《長崎にもどり、中島川河畔に「上野撮影局」を開設》
一八六二(文久二)年の暮れ、上野彦馬は長崎中島河畔の自邸に、営業写真館「上野撮影局」を開設、写真撮影業をはじめた。
当初は、長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬、高杉晋作をはじめとする多くの幕末の志士たちも上野のもとを訪れ、被写体として肖像撮影に臨んだ。

上野撮影局中島川河畔の「上野撮影局」  上野彦馬撮影
IMG_3749 IMG_3750 IMG_3748 IMG_3746 IMG_3747現在の「上野彦馬邸跡」と「上野撮影局跡」  2016年年05月古谷昌二氏撮影

bf68f72db8e94a4692f5bf51ba72e26a[1] cf112724480f737e17aa85e69ea61519[1]長崎一の「ふうけもん」とも評された
十八銀行第二代頭取・長崎商法会議所会頭 :
松田源五郎
「明治10年内国勧業博覧会」  上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵

明治期に入ってからも彦馬は写真士としての活動を旺盛に繰り広げた。一八七四(明治七)年、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。一八七七(明治一〇)年には長崎県令:北島秀朝(ひでとも 一八四二-七七)の委嘱により、「西南戦争」の戦跡を記録撮影した。

陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、弟子の冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)が、反政府側(西郷軍)の谷干城(たに-かんじょう)の依頼で撮影した同戦争の記録写真とともに、現存する日本写真史上最初の戦争写真として知られており、同年第一回内国勧業博覧会(東京・上野公園)に出品され、鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一八九〇年年代には「上野撮影局」支店を、ロシア沿海州のウラジオストクや、中国の上海、香港にも開設していた。
その門人から内田九一(内田-くいち 一八四四-七五)、守田来蔵(一八三〇-八九)、冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)
をはじめ、明治期に活躍した写真士が輩出した。
一九〇四(明治三七)年五月二十二日長崎新大工町の自宅で没。享年六十七。長崎の皓台寺にねむる。

上野彦馬長崎公園上野彦馬顕彰碑  長崎諏訪公園  古谷昌二氏撮影
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{ 新 宿 餘 談 }
長崎タイトルresize-627x108[1]宮川雅一氏と平野の会[1] DSCN3541DSCN3536 DSCN3537上野彦馬撮影吉宗ヨッソウresized

上野彦馬撮影 吉宗(よっそう)の正月風景

吉宗 よっそう は創業慶応二年、長崎浜町にある百五十年余の歴史のある老舗の料理店である。
ことし七月の長崎訪問のおり、長崎県印刷工業組合のご好意にあまえて、吉宗名物料理「茶碗むし・蒸寿し揃」を出前で食した。はじめはドンブリ二鉢の量におどろいたが、ともかくとびっきりの旨さで完食した。

たまたまこのあと頂戴した「宮川スクラップブック」に、「上野彦馬撮影 吉宗正月風景」があった。店先は整然と掃ききよめられ、正月らしく、しめ縄が飾られ、門松がたっている。右起こし横組み「蒸椀茶 ⇄ 茶椀蒸」の看板は、ふるい木造船の船板をもちいたものとされていた。
いまも吉宗は出前に注力しているようだが、彦馬の時代にも出前に熱心だったようで、当時としては斬新だったであろう自転車が右側に数台ならんでいる。
吉宗 よっそう のWebSite にはこの「茶碗蒸」について、以下のような解説をみる。

吉宗の茶碗むしは、茶碗むしと蒸寿しが一対となった夫婦蒸しで、ほかにはない、吉宗伝統の名物料理です。
穴子をはじめ、海老、鶏肉、しいたけ、きくらげ、銀杏、たけのこ、蒲鉾、麩、などの吟味された材料と味加減は、百五十有余年の伝統の味がそのまま生きている名物のひとつです。

201303021213034109二〇一七年〇七月、「平野富二生誕の地」碑建立有志会」 の 古谷昌二、平野正一の両氏とともに長崎を訪問した。現地では長崎県印刷工業組合、宮田和夫氏に同行していただき、平野富二の生家跡に記念碑を建立する件につき、長崎市役所に相談にうかがった。

その折り、寸暇をぬすんで、長崎慈善会・虎與号トラヨゴウ書店主にして「明治長崎のふうけもん」とされた、安中半三郎の創立による「長崎盲唖院」(現長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校」を訪問して、時津トキヅ町にある長崎県立盲学校正門脇の『安中翁紀念碑』を取材した。
そののち長崎市元助役にして、現在は長崎都市経営研究所所長・長崎市史談会顧問の宮川雅一氏を自宅に訪ね、たくさんの資料を頂戴した。

そのなかの「宮川スクラップブック」に、上掲図版で紹介した「吉宗 よっそう」の正月風景をふくめ、上野彦馬の写真資料が相当数あることに、迂闊ながら帰京後しばらくしてから気がついた。

20170907225211_00001 上野彦馬撮影  桃渓橋-ももたにばし

《さすがに名人とうならせた 桃渓橋 ももたにばし 上野彦馬撮影》
彦馬はおそらく中島川と西山川の合流地点あたりまで重いカメラを(数人で)はこび、中島川上流の桃渓橋を撮影したものとおもわれる。すなわち下流から上流方向に向けて桃渓橋を撮影している。

この橋は一六七九(延宝七)年僧ト意の募財によって架けられたとされる。昭和五七年七月の長崎大水害により半壊したが、西道仙筆のひら仮名異体字(いわゆる変体仮名)を駆使した橋名碑をふくめて原型に復元された。
桃渓橋 ももたに橋」の名前は、河畔に多くの桃の木があったことに由来しているとされるが、現在は大楠がおいしげり独特の風情をかもしだしていた。

稿者はめったに写真を撮らない、というより、デジタル機器を苦手としていて撮れない。
いまの小型デジカメにはさまざまな機能があるらしいが、このときは単なるデフォルト機能(標準設定)のまま、桃渓橋の上から中島川上流にむけて、自分でシャッターを押した。カバンのなかには「宮川スクラップブック」があったわけだから、事前に確認していたら彦馬と同じポイントから撮影ができたのにと悔やんでいる。

もちろん、それでも上野彦馬に敵うべくも無いことは重重承知しているつもりである。
中島川桃渓橋から上流方向をのぞむ[1] 長崎中島川桃渓橋-627x413[1]
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協 力/古谷昌二、平野正一、宮川雅一、田村省三、春田ゆかり、宮田和夫、長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会、松尾 巌
主要参考資料/『日本大百科全書』(小学館)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本人名大辞典』(講談社)、『津市史』一-三、久保文武『伊賀史叢考』、杉本嘉八「津藩」(『新編物語藩史』七所収)、『京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記』(東洋文庫)、『世界大百科事典』(平凡社)、「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)、鈴木八郎他監修『写真の開祖 上野彦馬』、『古写真に見る幕末明治の長崎』(姫野順一、明石書店)、宮川雅一『郷土史岡目八目』(長崎新聞社)、日本学士院編『明治前日本物理化学史』、 『明治維新以後の長崎』(長崎市小学校職員会)、大岩正芳『上野彦馬の「舎密局必携」』(『化学史研究』四)、『日本歴史地名大系』(平凡社) 、増永驍『ふうけもん-ながさき明治列伝-』(長崎文献社)、古谷昌二『平野富二伝 考察と補遺』(朗文堂)

【Open atelier】 LIFE with Bonami ── 絵 ・ 言葉 ・ 色 ・ 音・・・・・Bonami のつくるものすべて

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ボナミについて

小さな港町、真鶴にて。
活版印刷と手製本の本づくりのアトリエです。
杉山聡 三木葉苗 三木咲良 のトリオ。

Bon ami(ボナミ)はフランス語で「なかよし・良き友だち」の意味。
私たち三人は、はじめて出会ったその瞬間から仲良しになりました。そのことが、私たちの人生でいちばんの彩りです。
浮き沈む日々も、ただ、こういいます。「私たちは Bonami(なかよし)です。」
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アトリエの日々  LIFE with Bonami

PB177150[1]いろいろあるけれど、わたしたちはやっぱり、ここで生きています。
のんびりやは、のんびりやらしく
今年もおわりにさしかかる頃、今年はじめてのオープンアトリエのお知らせです。
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LIFE with Bonami
オープンスケジュール
2017年11月12日(日)、18日(土)19日(日)、
23日(木祝)24日(金)25日(土)26日(日)
13:00-17:00

絵 ・ 言葉 ・ 色 ・ 音・・・・・Bonami のつくるものすべて
それぞれから生まれるすべてを、そのまま大事に
たとえ何も生まれなくても、そのまま大事に
オープンから五回目のこの季節
改めて「Bonami って何?」という気持ちで会いに来て下さい!
新作「せ か い の な ま え」も、お披露目いたします。
* * *
11月の1ヶ月間、真鶴・湯河原エリアは『アート散歩』期間中です。
4回目の今年も、地域に暮らす62組の作家が参加しています。
各会場のスケジュールをご確認の上、ぜひお運び下さい!

【 詳細情報 : Bonami

【タイポグラフィ学会】 第13回タイポグラフィ学会総会 並びに 『タイポグラフィ学会誌10号』刊行披露会開催

_DSF2350-2 2017.10.1集合写真2第13回 タイポグラフィ学会総会
『タイポグラフィ学会誌10号』刊行披露会
2017年10月1日 日曜日
於 : 学校法人専門学校 東洋美術学校 本部棟302教室
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タイポグラフィ学会(山本太郎会長)は、10月1日(日曜日)、第13回タイポグラフィ学会総会、および『タイポグラフィ学会誌第10号』の刊行披露を爽やかな秋晴れのなかで開催、無事に全日程を終了した。

『タイポグラフィ学会誌10号』刊行披露会では、
・ 真田幸治会員による論文
『「資生堂書体」とその源流としての「雪岱文字」― 小村雪岱と資生堂意匠部』
・ 大石  薫会員による研究ノート
『わが国への凹版印刷機導入期における凹版印刷機についての考察』
についての概要解説がおこなわれた。

『タイポグラフィ学会誌10号』の販売、ならびに一般公開による『タイポグラフィ学会誌10号』論文発表会の日程などの詳細は、追って タイポグラフィ学会 のサイトとこちらのサイトでお知らせします。

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【コンサート】 プッチーニ〝蝶々夫人のゆうべ〟in アルテピアッツァ美唄 10月14日[土]・15日[日]

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{新宿餘談}
東日本大震災の衝撃を乗りこえ、朗文堂サラマ・プレス倶楽部がそれまでの東京中心のイベント開催の路線を変更しました。つまり、活字版印刷器機をたずさえて、在京の会員と、全国各地の会員との協同で、各地域での活版礼讃イベントを開始したのは、2013年、初夏の風が爽やかな07月、北海道美唄市<アルテピアッツァ美唄>でした。

ですから美唄にはおもいでがたくさんありますし、いまもその記録は「イベントアーカイブ Viva la 活版 Viva 美唄」にたくさんのこされています。
あのときは新緑の翠が溢れるアルテピアッツァ美唄でしたが、今秋、北海道のはやい紅葉にもまけずに、全山・全ホールが緋色に染めあげられるコンサートが開催されます。
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アルテピアッツァ美唄25周年記念コンサート
〝蝶々夫人〟の夕べ in アルテピアッツァ美唄
2017年10月14日[土] 開場 14:00 開演 14:30
2017年10月15日[日] 開場 17:00 開演 17:30
ゲスト : ドナータ・ダヌンツィオ・ロンバルディ
(プッチーニ・フェスティバル2016〝蝶々夫人〟主演ソプラノ歌手)
会場 : アルテピアッツァ美唄 アートスペース(旧体育館)  費用:5000円
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{安 田 侃 カン}
オペラの神秘の一端と、感動を、アルテピアッツァ美唄で身近に感じてもらいたい。

{北海道二期会理事長・北海道日伊協会会長・みべ音楽院院長 三部安紀子}
プッチーニ「蝶々夫人」のゆうべに寄せて

1970年イタリアに留学し、その後大理石の産地のピエトラサンタにアトリエを構え、地球上に彫刻を残してきた世紀の彫刻家安田侃氏を心から尊敬致します。
2000年から北イタリアのトッレ・デル・ラーゴでオペラ界の巨匠ジャコモ・プッチーニのオペラ「蝶々夫人」で、舞台美術を担当、彫刻で蝶々さんの魂を表現。観衆の湧き出る感動は強烈!!イタリアの夏のフェスティバル・オペラの舞台に彫刻のみ。実に素晴らしい!

安田侃氏の彫刻は沈黙の中に幸福、愛、痛み、苦しみが潜むまさに総合芸術といわれるオペラの根源的要素にぴったり。
今回はソプラノ、ドナータ・ダヌンツィオ・ロンバルディさんが「蝶々夫人」をご披露しに、来日。いつか札幌でも安田侃氏の作品と共に「オペラ」を上演したい。

{ゲスト出演 : ソプラノ ドナータ・ダンヌンツィオ・ロンバルディ}
現在プッチーニオペラを表現する第一人者の一人として知られる。
「ラ・ボエーム」「つばめ」「蝶々夫人」「修道女アンジェリカ」「マノン・レスコー」の各主演によりプッチーニ金賞を受賞。
レパートリーには他にも「マリア・スツゥアルダ」「べリザリオ」「オテロ」「ランスの旅」「椿姫」「ポッペアの戴冠」「ティレジアスの乳房」「選ばれた乙女」等がある。

また、D. Oren, B. Bartoletti, Z. Peskò, J. Tate, R. E. Pidò R.Abbado, L. Maazel, P. Domingo, F. Zeffirelli, J. Savary, W. Decker e P.L. Pizzi等多くの指揮者、演出家、芸術監督と共演している。

  【 詳細 : アルテピアッツァ美唄 コンサート

【イベント】 第7回 かまくらブックフェスタ 10月7日[土]・8日[日]

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第7回 かまくらブックフェスタ
◯ 会  期
2017年10月7日[土]・8日[日] 両日とも10時から18時
◯ 出  展
牛若丸/映画酒場編集部とその仲間たち/ecrit(エクリ)/北と南とヒロイヨミ/共和国/
群像社/タバブックス/トムズボックス/羽鳥書店/books moblo(ブックス モブロ)/
編集工房ノア+ぽかん編集室/編集室屋上+カディブックス/りいぶる・とふん/港の人/MODERATO ROASTING COFFEE
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鎌倉の出版社・港の人主催による本のお祭り。 独自のポリシーをもって活動をする出版社や出版者が自慢の本を販売します。
個性豊かな出版社や、本と活字にまつわるユニークな活動をする人々が集まり、出版物を展示販売します。
広い庭のある落ち着いた空間で、大切な一冊となる本に出会えますように。
会場にはコーヒーと軽食のコーナーも。
書店ではうもれがちなおもしろい本、貴重な本の数々が、
本好きのかたのご来場をお待ちしています。

【 詳細 : かまくらブックフェスタ HP

【根岸子規庵】 正岡子規生誕150年記念糸瓜忌特別展示開催 九月一日─九月三〇日

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正岡子規生誕150年糸瓜忌特別展示
         特別展示1 「子規の歳旦」
         特別展示2 「子規文房四宝と仕込杖」

期  間 平成29年9月1日[金]-9月30日[土]
午前10時30分-16時(昼食休憩無し)
休庵日 9月4日[月]、11日[月]、25日[月]
入庵料 500円(通常入庵料と同じ)
──────────
今年の糸瓜忌は、新出資料「歳旦帳 明治卅四年一月一日」を初公開します。
その所在と全容が不明であった明治34年の賀客による歳旦帳は、子規の新出5句、伊藤佐千夫の新出歌2首、子規の自画像2作、中村不折の描いた彩色子規横臥図などを含む、貴重な資料です。

同時に、特別展示2として、子規の捜索を支えた文房具や寝具等の端切れの他、今年研磨を終え輝きを取り戻した日清戦争従軍携行の仕込杖の刀身を展示いたします。
また、
生誕150年記念の大きな企画として、子規の生涯と漱石等友人たちとの交流、子規の作品を題材に新作オペラ「病牀六尺に生きる」を台東区共催にて公演いたします。
俳句や短歌と音楽の融合による新たな子規の世界をお楽しみください。

【 詳細 : 子 規 庵

【イベント】 夜長月の幻想百貨 緑青社{つるぎ堂+knoten}出展情報

21191913_488045444906569_393354013010147433_n[1] 21105753_488045508239896_4026152541771433777_n[1]夜長月の幻想百貨
9月16日[土]-18日[月・祝]  12:00-18:00
フリースタジオ・パリオ
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さまざまなジャンルで活躍中の造形者・お店による
三日間限定の展示イベントが開催されます。
サラマ・プレス倶楽部会員の 緑青社 <つるぎ堂+knoten>さんも
参加されています。

【 詳細 : 夜長月の幻想百貨

【展覧会報告】 小津和紙ギャラリー/手漉き紙四人展2017  新潟長岡の「紙漉サトウ工房」佐藤徹哉さん

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DSCN2692 DSCN2703 DSCN2701紙漉技芸士:佐藤徹哉さんとは、2015年活版礼讃イベント{Viva la 活版 Let’s 豪農の館}ではじめてお会いした。以来サラマ・プレス倶楽部の皆さんとはすっかり親しくされている。今回は小津和紙ギャラリーに登場、
会場には横ちゃんこと横島大地さん、藤現代版画研究所の楚山さんがおみえだった。
小津和紙】 {文字壹凜まとめ
DSCN21661[1]1c451c_36d32d1a8103478caf0e36a94631017f.jpg_srb_p_653_490_75_22_0.50_1.20_01[1]759739c254d60d36087880ab103460c0[1]

【会員情報】 活版印刷展示会 ── 活版 TOKYO 2017 開催のお知らせ

20170703214208_00003kappan_tokyo_2017_visual08w[1]活版TOKYO>は、東京は神保町で開催される活版印刷のイベントです。
2017年7月14日(金)、15日(土)、16日(日)の3日間、開催され、サラマ・プレス倶楽部会員の皆さんも参加されます。
詳細情報は随時更新されています。最新情報は FacebookTwitter にてご確認のうえ、ご観覧ください。
主催者URL

【企画展】 映像化された吉村作品の世界|吉村昭記念文学館 7月23日[日]まで

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映像化された吉村作品の世界
会場 吉村昭記念文学館
116-0002 東京都荒川区荒川二丁目50番1号

◯ 会  期 : 平成29年3月26日[日]-7月23日[日]
     【 前期 : 3月26日[日]-5月17日[水] 】
     【 後期 : 5月19日[金-]7月23日[日] 】
◯ 時  間 : 9時30分-17時
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吉村昭記念文学館では、開館記念企画展「映像化された吉村作品の世界」を開催します。

小説家:吉村昭(昭和2-平成18)は現在の荒川区東日暮里でうまれました。
吉村は少年時代から映画や役者に魅せられ、映画監督をこころざしました。その夢は病気の影響で断念せざるをえませんでしたが、のちに小説家として発表した作品は次〻と映像化されていきました。

平成18年(2006)に79年の生涯に幕を降ろしてもなお、吉村作品の映像化は続き、その魅力はいまも色あせることなく、現代のわたしたちを惹きつけてやみません。
本展では吉村昭と映画の関わりに触れながら、映像化された作品に焦点をあて、作品から広がる世界を紹介します。

【 詳細 : 吉村昭記念文学館

【公演】 {幽玄} 坂東玉三郎×鼓童 Bunkamura オーチャードホール 5月16日─20日

20170214173632_00011 20170214173632_00012坂東玉三郎と鼓童! 『アマテラス』に続く共演第2作。
 能楽を題材にしたスペクタクル。日本のシアターアートのその先へ。
佐渡を拠点に世界を縦横無尽に活躍する太鼓芸能集団 鼓童。2012年から2016年にかけては、歌舞伎俳優で人間国宝の坂東玉三郎を芸術監督に迎え、毎年一作のペースで新作を発表してきた。
玉三郎と鼓童との出逢いは2000年のこと、舞台での共演を望む鼓童に対し玉三郎はまず鼓童単体の舞台「鼓童ワン・アース・ツアースペシャル(2003年)」の演出で応えた。

そして両者の距離が近づいた2006年「アマテラス」で共演が実現。この作品は日本神話に題をとり、玉三郎演じるアマテラスと八百万の神々に扮した鼓童が繰り広げる音楽舞踊劇。
当代随一の立女形と、日本を代表する和太鼓グループとの共演はたちまち一大センセーションを巻き起こし、翌年には早くも歌舞伎座で再演。
そして2013年の再々演では東京・福岡・京都で計67回の全公演がソールドアウトするという伝説の舞台となった。

その「アマテラス」に次ぐ11年ぶりの待望の共演作が、いよいよ2017年5月、オーチャードホールで幕を開ける。
15年以上にわたり玉三郎はその自由自在な発想と類い稀なる審美眼で、鼓童のクリエイションに大きな変革をもたらした。メインツアー「ワン・アース・ツアー」や、男性のみのエッジの効いた「打男」などを続けざまに演出、いずれも国内外で高い評価を得てきた。

そして今回のテーマは「幽玄」、まさに玉三郎の本領で、世阿弥が見た世界を「羽衣」、「道成寺」、「石橋」など能の代表演目を題材にして表現することに挑戦する。

対する鼓童も600年の月日の中で創り上げられてきた能楽を専門家に学びつつ、世界最高峰の演奏技術と玉三郎の導きによって、これまでの作品群で拡げてきた表現を昇華させ、日本の美意識を鼓童ならではの形で表現しようとしている。
玉三郎氏の舞踊が、魂を揺さぶる鼓童の太鼓の響きと、能楽にインスパイアされた妙なる音色と一体になって、奥深くも情感豊かなイマジネーションの新たな地平へといざなうことでしょう。

とはいえ客席の我〻は、能に詳しくある必要はない。ただ心を開き「幽玄」の感覚を全身で味わいながら、長い時間をかけて育まれた日本文化が、遥か未来に連なってゆく至福の時間を楽しめばよいだけなのだ。

【 詳細 : Bunkamura  オーチャードホール

【造形詩人 森郁男さんからの情報】 薩摩琵琶 正弦会『琵琶演奏大会』 開催のお知らせ

20170510161827_00001 20170510161827_00002薩摩琵琶 正弦会『琵琶演奏大会』が開催されます。日本の語り芸のなかでも薩摩琵琶の弾き語りは勇壮で、力づよい撥音と、気迫をこめて語る物語が、時空を超えて聴く側に迫ってきます。
魂の叫びにも重なる薩摩琵琶の弾き語りと、琴線に触れる平曲の調べを、ぜひ皆さまにもご鑑賞いただきたいと念願いたします。
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薩摩琵琶  正弦会『琵琶演奏大会』
日時:05月28日[日]正午開演
会場:日本橋社会教育会館ホール

文字壹凜まとめ 花筏 森郁男 造形詩集 『青春の虜』}

【舞台公演】 IHIステージアラウンド東京 愈〻3月30日こけら落とし 初公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花。日本の Entertaiment が Drastic に変わる

話題沸騰! キミはこの衝撃に耐えられるか?
アジア初、没入型エンターテインメント施設として2017年03月31日に誕生する 「IHI ステージアラウンド東京」。
こけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。
劇団☆新感線 の公演フライヤーと、Village Audiens Club (VAC) から紹介。
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劇団☆新感線の最高傑作 『髑髏城の七人』

劇団☆新感線『髑髏城の七人』1990年に池袋西口公園テントで産声を上げた『髑髏城の七人』は、以来7年ごと上演される度にブラッシュアップされ、今では劇団☆新感線最高傑作といわれる名作。
特に97年版は、物語・演技・殺陣・音楽など全ての面が完璧に調和し、〝いのうえ歌舞伎〟シリーズの真骨頂となった。
そして2004年には〝ドクロイヤー〟と銘打ち、同じ作品を全く別のキャストで、更に演出を変えて春と秋に連続上演するという大胆な試みを決行。ドラマ性の強い『アカドクロ』、ケレン味の強い『アオドクロ』と見事に趣向を変えた作品はいずれも大成功を収め、一旦は作品として完結を迎えた。
蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕矩幕縺・ 蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕ウ髻ウ髢九″さらに初演から21年目の2011年には、若いキャストが結集することによって新たな着想を得て、『髑髏城の七人』がよみがえった。

更にその7年後に掛かる2017年-2018年というこの年に、一年以上かけて 〝 I H I ステージアラウンド〟という、客席が回転するという大胆な演出が可能となる前代未聞の劇場の杮落としとして、これまで類を見ない『髑髏城の七人』が誕生する。

ものがたり

時は天正十八年(1590)。織田信長が死に、豊臣秀吉が天下を治めていたこの頃、都から遠く離れた関東の村〻は<天魔王(成河)>率いる関東髑髏党に荒らされていた。
この日も、とある村が髑髏党の鉄機兵たちに襲われていたところに、傷だらけの<沙霧(清野菜名)>が飛び込んでくる。彼女は、天魔王らの居城・髑髏城の抜け道が記された絵図面を持っていたために追われていたのだ。
と、そこに派手な身なりの傾奇者たち・関八州荒武者隊の面々が登場する。先頭に立つのは、頭目の<兵庫(青木崇高)>だ。しかし仲間の<三五(河野まさと)>の裏切りにより、みるみるうちに窮地に陥る荒武者隊。

そこへフラリと現れた着流し姿の男が、手にした大きな鉄煙管で鉄機兵を叩きのめす。男は自らを<捨之介(小栗旬)>と名乗り、沙霧に傷の手当てをさせるため、兵庫と共に関東一の色里〝無界の里〟へと向かう。
色里〝無界〟は宿場も兼ねているため人の出入りも賑やかで、その中には何か事情を隠していそうな怪しげな牢人<狸穴二郎衛門(近藤芳正)>らの姿もある。
この色里一と評判の<極楽太夫(りょう)>は、「沙霧をかくまってほしい」という兵庫らの頼みを快く引き受けてくれた。


その夜。店の裏で再び沙霧は髑髏党に襲われそうになるが、捨之介と〝無界の里〟の主<蘭兵衛(山本耕史)>がそれを阻む。そこに突然現れる、天魔王。
実は捨之介と蘭兵衛と天魔王の三人は、ある時期、共に時間を過ごした間柄だったのだ。南蛮製の鎧と仮面を装着した天魔王には、捨之介の刀も蘭兵衛の短筒も歯が立たない。しかしこの場は、狸穴二郎衛門が間に割って入ったことで難を逃れられた。

天魔王、そして髑髏党との戦いを覚悟した捨之介は山奥にこもる刀鍛冶<贋鉄斎(古田新太)>を訪ねて、無敵の鎧を叩き斬る刀、必殺の〝斬鎧剣〟を打ってほしいと頼み込む。
しかしその頃、蘭兵衛は単身で髑髏城へ行こうとしていた。それに気づき、こっそりと後を追う沙霧。

捨之介、蘭兵衛、天魔王が抱える深い縁(えにし)とは……。天魔王の謀略を、捨之介たちは阻止することができるのか……。
──────────
劇団☆新感線の大型公演は、いつものことではあるが切符の争奪戦が熾烈をきわめる。
こけら落としが間もなくに近づいたいま、『髑髏城の七人』 花鳥風月シリーズの上演日程が
発表されている。
{ I H I  ステージアラウンド東京 } があつく注目される昨今である。
◎ 『髑髏城の七人』Season 花  3月30日-6月12日
◎ 『髑髏城の七人』Season 鳥  6月27日-9月01日
◎ 『髑髏城の七人』Season 風  09月下旬
◎ 『髑髏城の七人』Season 月  11月下旬

【バレエ公演】 {ムーミンがバレエを躍る!} フィンランド国立バレエ団 Bunkamura オーチャードホール

20170214173632_00013 20170214173632_00014 20170214173632_00015フィンランドから、話題騒然の新作が今春渋谷に!
{ムーミンがバレエを躍る!} フィンランド国立バレエ団
Bunkamura オーチャードホール
4月22日[土]-25日[火]
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今春、フィンランド国立バレエ団が世界中から注目を集める話題の新作を携え来日する。

バレエ作品の題材はなんと…ムーミン! フィンランドの国民的キャラクターといっても過言ではないムーミンが、北欧を代表する超一流バレエ団によってバレエ化されるのだ。
フィンランド国立バレエ団は、高いレベルを誇る北欧バレエ界をリードするクラシックのバレエ団。500人以上の専属スタッフを擁するオペラハウスでは、年間を通してバレエやオペラの公演が毎日行われている。バレエ団の芸術監督を務めるのはケネス・グレーヴ。あの伝説のダンサー ヌレエフの寵愛を受け、ニューヨーク・シティ・バレエ、アメリカン・バレエ・シアター、パリ・オペラ座バレエ団など世界中の観客を魅了したスターダンサーだ。

【 詳細 : 渋谷  Bunkamura  オーチャードホール

【展覧会】 Gallery Bar Kajima 『谷村優希展』 3月13日-4月1日開催

20170314223918_00001 20170314223918_00002谷村優希さんが版画家になった。そのことが興味深い。
最近、自分は反射でしかない、ただただ反映でしかない、と思うようになっている。
道元は正法眼蔵の中で、人は自身自性があるかと誤まると断言している。
自分だと思い込んでいる自分など存在しないのだというのだ。

こんなことを言われても困るだろうが、同時に反射、反映でしかない自分に
親しみを覚えてくる。
その意味で谷村優希さんが反画家になったことが興味深いのだ。〔加島牧史〕

【 詳細 : 加島牧史  Web&Blog : gbkajima.jimdo.com 】

【イベント】 上野[文化の杜] ザ・東京ヴァガボンド X 上野

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地域連携プログラム:上野商店街
ザ・東京ヴァガボンド × 上野
上野っ子が物語る上野の魅力を世界へ発信

世界を移動しながらインターネット上に物語を紡いでいくストーリーテラー、テンギョウ・クラが上野商店街の人々と出会い、彼らの口から語られる上野の魅力を世界に発信する。
上野商店街という屈指の知名度と集客力を誇る東京の繁華街で生まれ育ち、愛する地元の変遷を見守ってきた上野っ子たち。
己のアイデンティティを見失ったヴァガボンド(放浪する者)が、上野っ子アイデンティティの支柱となる彼らの故郷、上野の魅力に耳を傾ける。
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ザ・東京ヴァガボンド × 上野 
作品発表報告会
2017年3月11日[土] 14:00-16:00
東京文化会館 大会議室

上野っ子へインタビューをし、彼らの声に耳を傾けることで見えてくる上野商店街の文化的な魅力を写真と文章で表現したものをポータルサイトにて二カ国語で公開(3月上旬公開予定)。
上野商店街の方をお招きして、本企画で製作した作品についての報告発表をおこないます。来場されたみなさまには、作品を冊子にまとめたものを配布いたします。

【 詳細情報 : 上野文化の杜トップ 特設ページ

【能 公演】 伝統と創造シリーズ vol.8 遠藤康行「狂 -くるい-」 2 部作 『DOJYOJI+』『KANAWA』 2月17-19日 セルリアンタワー能楽堂

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伝統と創造シリーズ vol.8
遠藤康行「狂 -くるい-」 2 部作
『DOJYOJI+』『KANAWA』

2017年2月17日[金] 19:00 開場  19:30 開演
2月18日[土] 16:30 開場  17:00 開演
2月19日[日] 13:30 開場  14:00 開演

2008年より継続して上演している『伝統と創造シリーズ』。
その第8回目となる本公演は、マルセイユ・バレエ団でリハーサル・ディレクター、ダンサーとして活躍し、本年より日本に拠点を移した遠藤康行が、能や歌舞伎舞踊にもなっている『道成寺』をモチーフにつくり上げる『DOJYOJI+』、そして同じく嫉妬の思いから女が鬼になる能「鉄輪」をモチーフにした『KANAWA』の2作品をお届けします。
〝狂〟をテーマに女性の多面性をどのようにダンスで描くのか、どうぞお楽しみに。
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振付・演出: 遠藤康行
『DOJYOJI+』
津村禮次郎
上田尚弘、貝ヶ石奈美、梶田留以、片野翠、鈴木奈菜、野瀬山瑞希、引間文佳

『KANAWA』
酒井はな
梅澤紘貴
遠藤康行

企画制作: セルリアンタワー能楽堂
企画制作協力: studio ARCHITANZ

【 詳細 : セリアンタワー 能楽堂

【展示会】 page2017 ― ビジネスを創る~市場の創出~

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《page とは》
page 展は、1988年開催以来、2017年で30回目を迎える、印刷メディアビジネスの総合イベントです。
 会場内では、ビジネスに役立つカンファレンスやセミナー、ブース内での商談が活発に行われており、顧客拡大や情報交換の場としてご活用いただけます。
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開催概要
開催期間  2017年2月8日[水]-10日[金]
場    所   サンシャインコンベンションセンター
主    催   公益社団法人日本印刷技術協会

【 詳細 : 日本印刷技術協会  page2017

【展覧会】 大洲大作・写真の仕事――石の街 宇都宮美術館 サテライト企画展 Vol.008

20161226132413_00001 20161226132413_00002宇都宮美術館 サテライト企画展 Vol.008
大洲大作・写真の仕事――石の街

◎ 会 期 : 2017年1月19日[木]-2月5日[日]
◎ 会 場 : 市民ギャラリー(うつのみや表参道スクエア 市民プラザ 5 階)
◎ 問い合わせ先 : 宇都宮美術館  TEL. 028 – 643 – 0100

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8回目となる今回のサテライト企画展では、宇都宮美術館開館20周
年・市制施行120周年記念「石の街うつのみや-大谷石をめぐる近代建築と地域文化」展(2017年1月8日-3月5日、於・宇都宮美術館)に連動する内容として、「石の街うつのみや」展のためにアーティストの大洲大作氏が撮り続けてきた写真をご紹介します。

しばしば「石の街」と称される宇都宮、その産地である「石の里」の大谷地区は、わが国でも稀に見る「石の産業・建築文化」が栄えてきました。その石-大谷石として知られる凝灰岩の誕生のきっかけは、約1,500万年前における海底火山の爆発にさかのぽりますが、それが長い時間をかけて岩石となり、古墳時代から石材として利用されて現在に至ります。

今日でも、「石の里おおや」を訪れると、自然の奇岩、採石によって生じた絶壁、里山や農村の間に顔を覗かせる石切場の跡、石造りの神社などに出会うことができます。また、「石の街うつのみや」では、石藏や石塀、石のプラットフォームから石の近代建築まで、大谷石を用いた多種多様の建造物が日常の風景に溶け込んでいる、としても過言ではありません。

そんな「石のある風景」に魅せられた大洲氏は、約2年をかけて、「石の街」「石の里」を何度も訪れてカメラを向けてきました。「写真をメディウムとし、風景に人の営みを見ること」を追求している大洲氏が捉えた作品は、どれも身近な場所を写したものでありながら、多くの発見に満ちています。
今回は、そのうち、大判プリント(1,000×660mm) 1点、中判プリント(450×300mm)約15点、小判プリント(手札サイズ)多数、スライド・ショーによって、立体的な写真の展示を試みます。

【サラマ・プレス倶楽部】歳末恒例 手づくり<餅と餃子の忘年会>12月03日[土] 四谷のレンタルキッチン Patia で開催

師走です。印刷・出版界ではこの時期の作業を<歳末進行>と呼び、一年中でもっとも繁忙をきわめるときとされます。
サラマ・プレス倶楽部の会員の皆さんも、{Season’s Greetings Card}や{年賀状}の製作であわただしい時期ですが・・・・・・、そこはそれ。例年よりいくぶん早い12月03日、<手づくり 餅と餃子の忘年会>を開催。

10.27 アッパークラス 松尾愛子さん 時盛さんはやくも10月27日の{活版カレッジ・アッパークラス}の集まりに際に、新潟旅行の報告で盛りあがっているメンバーをよそに、黙黙と{サラマ・プレス倶楽部 2016年 ボー年会}のためのコースターづjくりにいそしんでいたのは松尾 A さんと時盛さん。忘年会DSCN8259[1] DSCN8728《本番当日早朝 空中花壇から「雲南百薬おかわかめ」を収穫 仕込み作業開始》
忘年会をレンタルキッチンで開催するようになってから二年目。あいかわらず主メニューは餅と餃子であるが、そこに野菜たっぷりの「豚汁」がメニューに加わった。つまり食器の心配はなくなったが、食材はかえって増加した。

地方会員から切り餅などの差し入れも頂戴したが、炊飯器はキッチンにあっても電動餅つき器は無いので、当然運搬が必要となる。
なによりも熱帯性植物とされる「雲南百薬おかわかめ」は、寒さにふるえながらようやく発芽させた新芽を摘みとられていた。このとき園芸家は沈黙するしかない。
DSCN8739 DSCN8740 DSCN8749 DSCN8752 DSCN8754 DSCN8753 DSCN8789 DSCN8792 DSCN8794DSCN8746《松尾 A さん、時盛さん苦心のコースターで乾杯! 餅と餃子と豚汁、それに各地の銘酒がずらり 手づくり感いっぱいの忘年会の開幕でした》
搗きたての餅は、大根おろしで「おろし餅」、粒あんで「あんころ餅」、と大好評。
手づくり餃子も、製造担当が追いつかないほどの人気で、蒸しあがると瞬間蒸発の勢いでした。
なにしろ貸し切りの会場ですから、相客を気にする必要はなく、壁面には過去のイベント写真<Viva la 活版  すばらしき活版>がスライドショーで連続投影されていました。

  • 2013年 <Viva la 活版 Viva 美唄
  • 2014年 <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
  • 2015年 <Viva la 活版 Let’s 豪農の館
  • 2016年 <Viva la 活版 ばってん 長崎
    DSCN8758 DSCN8755 DSCN8767 DSCN8768 DSCN8796 《サラマ・プレス倶楽部忘年会は幅広い造形者で構成されていました》
    談笑がつづき、宴たけなわの会場で、欧文組版・欧文ページ物印刷の小宮山清さんが、恒例の「活版印刷昔〻はなし」。
    戦争末期、焼夷弾が工場の至近距離に落下して、工場設備が全焼した小宮山さんは、戦後すぐの急場しのぎに「組版ステッキ」を木製手づくりでしのいだとのことでした。
    また戦後しばらくして入手した「組版ステッキ」は、握りの部分がすっかり摩耗してしまいましたが、いまでも馴染みがよいとされます。
    そんな貴重な品を持参され、皆さんにご披露。

    来たる2017年は、明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕170年の記念すべき年です。朗文堂 サラマ・プレス倶楽部でもさまざまな企画が進行中です。
    また来年の年末に、おおきな成果をひっさげて皆さんとお会いしたいものです。
    小宮山清さん DSCN8782 DSCN8788DSCN8787

【舞台公演】 IHIステージアラウンド東京 そのこけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。日本の Entertaiment が Drastic に変わる

話題沸騰! キミはこの衝撃に耐えられるか?
アジア初、没入型エンターテインメント施設として2017年03月に誕生する 「IHI ステージアラウンド東京」。
こけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。
劇団☆新感線 の公演フライヤーと、Village Audiens Club (VAC) から紹介。  蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕矩幕縺・ 蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕ウ髻ウ髢九″2017年3月に東京・豊洲にオープンする 新劇場 「IHIステージアラウンド東京」。

そのこけら落とし公演 ・ 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。 

「IHI ステージアラウンド東京」は、1300人以上もの観客を乗せて360°回転する円形の客席を劇場中央に配置し、その周囲をステージとスクリーンがぐるりと取り囲み、観客席が回転しながら舞台、映像、音楽、照明の全てが画期的な方法で融合することで、これまでにない感覚を体験させてくれるアジア初の没入型エンターテインメント施設。

「IHI ステージアラウンド東京」 こけら落とし公演となる 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 は、いのうえ ひでのり による演出、劇団☆新感線 座付き作家 ・ 中島かずき が手掛けた脚本で、7 年ごとに再演を繰り返す 劇団☆新感線 の代表作。
その 『髑髏城の七人』 を、“ 花 ・ 鳥 ・ 風 ・月 ” の4 シーズンに分け、シーズンごとに全て異なるキャスト、脚本 ・ 演出も練り直され、 2017年から2018年の約 1 年に渡るロングラン公演が予定されています。

皮切りとなる 『髑髏城の七人』 Season 花  Produced by TBS では、2011年に上演された『髑髏城の七人』 で捨之介を演じ、6 年ぶりの 劇団☆新感線 参加となる 小栗 旬をはじめ、山本耕史、成河、りょう、青木崇高、清野菜名といった 劇団☆新感線 初参加となる個性豊かな顔ぶれや、2003年『阿修羅城の瞳』以来、13 年ぶりの参加となる 近藤芳正、そして古田新太、河野まさと、逆木圭一郎、村木よし子、礒野慎吾、吉田メタル、保坂エマといったお馴染みの劇団員も集結し、約2 か月半におよぶ公演に挑みます。
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劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花  Produced by TBS
◎スタッフ&キャスト
     作    : 中島かずき
演    出 : いのうえひでのり
出    演 : 小栗旬/山本耕史/成河/りょう 青木崇高 清野菜名/近藤芳正/古田新太 ほか
◎上演スケジュール

2017年3月30日[木]-6月12日[月]  IHI ステージアラウンド東京

主    催 : TBS
制    作 : ヴィレッヂ
企画・製作 : TBS ヴィレッヂ 劇団☆新感線
公式サイト : IHI ステージアラウンド東京 公式サイト蜉・屮譁ー諢溽キ喀陦ィ1 蜉・屮譁ー諢溽キ喀陦ィ4

きょう10月04日は明治産業近代化のパイオニア平野富二 百七十回目の誕生日{弘化03年08月14日(新暦1846年10月04日)}

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二 
弘化03年08月14日(新暦1846年10月04日)-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男として、長崎引地町ヒキヂマチ(現:長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。
16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

長崎諸役所絵図0-2国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
平野富二生誕地 長崎奉行所町使(町司)長屋 矢次家旧在地
長崎引地町ヒキヂマチ(現:長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)
48632901d887fc7558749f89fba250971[1]<Viva la 活版 ばってん 長崎>
2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと平野富二生誕地を訪問

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

【展覧会】 「ニュースパーク」日本新聞博物館 ― こんな時代があった 報道写真「昭和8年 1933年」

改修工事中だった新聞博物館が「ニュースパーク 日本新聞博物館」として、本年07月20日からリニューアル・オープンしています。
明日10月01日からスタートする企画展を、同館フライヤーからご紹介します。
20160929233044_00001 20160929233044_00002【 展 覧 会 】
「ニュースパーク」 日本新聞博物館
― こんな時代があった 報道写真「昭和8年 1933年」
◯ 会 期 : 2016年10月01日[土]-12月25日[日]
【 詳細 : ニュースパーク 日本新聞博物館 企画展
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昭和8(1933)年は、日本が満州事変に対する批判を受けて国際連盟を脱退、ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を握るなど、戦争への曲がり角の年といわれています。
一方で科学技術は大きな進歩を遂げ、人々は生活を楽しみ、未来に希望を託す気分が広がっていました。

本企画展では、古写真収集家の石黒敬章氏が所蔵する写真を中心に、共同通信社のアーカイブ写真を交えて、当時の世情を振り返ります。
第1章「大戦への曲がり角」では、世界大戦への「曲がり角」ともいわれる年の出来事をつづります。
第2章は「科学技術の発展と飛行機の時代」。科学技術が大きな発展をとげたこの時代、特に飛行機の進歩はめざましいものがありました。人々に輝かしい未来を予感させながらも、来るべき戦争では主力兵器になる運命の飛行機に焦点をあてます。
第3章「街のにぎわい」。
第4章「スポーツの興奮」では、つかのまの平和をおう歌する人々やスポーツを楽しむ人たちの姿を紹介します。

【株式会社IHIプレスリリース】 アジア初,没入型エンターテインメント施設のネーミングライツを取得 ~豊洲に建設予定 「IHIステージアラウンド東京」と命名~ 驚天動地の続報に乞うご期待!

株式会社IHI プレスリリース 2016年6月27日

360stage_logo[1] 360stage_around[1]株式会社IHI(所在地 : 東京都江東区豊洲,社長 : 満岡 次郎,以下「IHI」)は,このたび,株式会社TBSテレビ(所在地 : 東京都港区赤坂,社長 : 武田 信二)が豊洲埠頭にて建設・運営するアジア初の没入型エンターテインメント施設のネーミングライツ(命名権)を取得し,「IHIステージアラウンド東京」(英語表記 : IHI STAGE AROUND TOKYO)と命名しました。同施設は2017年3月に営業開始する予定です。

IHIは,1939年(昭和14年)に造船所を豊洲に設立して以来,長い年月にわたり豊洲とともに歴史を歩んできました。現在においても,「職・住・遊・学」の複合開発を推進し,同地区の発展および魅力向上に向けて取り組んでいます。

このたび,豊洲における文化芸術の振興と知名度向上を目的に,豊洲埠頭に建設されるエンターテインメント施設の事業に関わるとともに,ネーミングライツを取得し,「IHIステージアラウンド東京」と命名しました。

豊洲を含む湾岸エリアでは,豊洲新市場の開業や,東京オリンピック・パラリンピックの競技施設・選手村の建設が計画されています。IHIは,今後も豊洲の更なる発展と魅力ある街づくりに,積極的に取り組んでいきます。

<契約内容>       
 名   称  :  「IHIステージアラウンド東京」(英語表記:IHI STAGE AROUND TOKYO) 
 契約期間  :  2016年6月~2020年10月 

<「IHIステージアラウンド東京」の概要>
 「IHIステージアラウンド東京」はアジアで初めて,また,世界でも2例目の没入型エンターテインメント施設であり,1,314名を乗せた巨大な円形の客席が360°回転し,その周囲を取り囲むステージとスクリーンによって,従来の劇場では表現し得ない緻密で壮大な舞台空間を実現できます。

STAGE AROUND TOKYO

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 17】アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働に成功。愈〻研究に着手した同二号機

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長崎県印刷工業組合所蔵アルビオン型手引き印刷機一号機には、やつがれは2002年以来修復再稼働を提案し続けてきた。それが十余をへた2016年09月02日、同組合・板倉雅宣氏・山田善之氏らの協力で復旧され稼動をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ百年余も以前の活版印刷機。

いっぽう東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が鋳込まれた二号機は、アカンサス紋様が施され、また各所に金泥塗装が施されていた痕跡がのこる、きわめて資料性のたかい印刷機である。
製造担当は、東京築地活版製造所か、大阪活版製造所かは明確ではないが、両社の登録商標の制定年代から、一号機よりもより古い、明治20-30年代の製造と推測されている。

ところがこの二号機は、中央駆動部以外に欠損部品が多く、研究の手がほとんど及んでいない。そこでタイポグラフィ学会会員:日吉洋人氏が、将来の部品補充と再稼働をめざし、銘板部を切りぬき写真で公開した。
遠くない将来、一号機につづき、長崎県印刷工業組合所蔵のこのアルビオン型手引き印刷機二号機も必ずや再稼働をみることができるものと確信している。

手引き印刷機のチンパン 板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163731_00001 切りぬき02 切りぬき01