カテゴリー別アーカイブ: 字学

【映像紹介】DNP 大日本印刷 {秀英体 映像アーカイブ}

映像アーカイブ
秀英体の紹介映像と活版印刷の職人映像をご覧いただけます。

人に想いを届けるフォント。大日本印刷の秀英体
「秀英体」は創業以来100年以上にわたり開発を続け、金属活字からデジタルフォントへと進化してきました。現在も各種印刷物や電子書籍、ウェブサイトや映像用の文字として活躍の場を広げています。印刷技術の変遷の中で生き続ける「秀英体」の姿を、イメージ篇と本篇の2つの映像で伝えます。

「イメージ篇」
秀英体が持つ伝統や先進性を紹介するとともに、オリジナル書体「秀英体」に込めたDNPの想いをまとめました。
DNP秀英体画像
「本  篇」

◯「秀英体のデザイン」…デザインの特徴やなりたち
◯「秀英体と出版事業」…活版からデジタル化に至る印刷技術の変遷や出版事業との関わり
◯「秀英体のいまと未来」…今も続く秀英体の改良や未来の文字環境への展望
の三部構成です。 〝活字の分身〟 のオリジナルキャラクター「秀英くん」による解説のほか、岩波書店「広辞苑」の編集者・平木靖成さんと、資生堂「花椿」のアートディレクター・澁谷克彦さんへのインタビューを通じて、秀英体やタイポグラフィを楽しく、深く知ることができます。
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その手が文字をつくるまで ~活版印刷の職人たち~
DNPは1876(明治9)年の創業以来、書籍や雑誌の印刷を通じて出版と深く関わってきました。長年にわたり出版文化を支えたDNPの金属活字による活版組版部門は、印刷技術の変化に伴い2003(平成15)年、127年の歴史に幕をひきました。

これまで日本の出版文化を支えてきた活版印刷職人の技を、「活版印刷の流れ」と、各工程の詳細「①作字」「②鋳造(ちゅうぞう)」「③文選」「④直彫り」「⑤植字」「⑥ゲラ刷り」の全7編で構成された映像で紹介します。各工程の映像では、手法や道具の工夫点やノウハウを、職人のインタビューを交えて解説します。

【 詳細情報:DNP大日本印刷  秀英体映像アーカイブ

【展覧会】 国文学研究資料館 {和書のさまざま}

和書のさまざまオモテ 和書のさまざまウラ国文学研究資料館 通常展示
「和書のさまざま」

会      期 : 平成30年1月15日[月]-5月26日[土]
休  室  日 : 日曜日・祝日
      * 展示室整備日(2月14日,3月14日,31日,4月11日,5月9日)
開室時間 : 午前10時-午後4時30分 * 入場は午後4時まで
場      所 : 国文学研究資料館1階 展示室
主      催 : 国文学研究資料館入場無料
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この展示が対象とする「和書」とは、主として江戸時代までに日本で作られた書物を指します。堅い言葉で言えば「日本古典籍」ということになります。ただし、明治時代頃までは江戸時代の書物の系統を引く本が作られていましたので、それをも取り扱っています。
「和書」と似た言葉で「国書」という語がありますが、これは古典籍の内で、日本人の著作した書物を言います。「和書」はそれより広く、漢訳仏典や漢籍、あるいはヨーロッパ人の著作も含め、江戸時代以前に日本で製作されたすべての書物を指す言葉です。

一般に書物が製作されるには、それを支えまた受容する文化的背景があり、そうして製作された書物が、新たな文化──文学、芸能、思想、宗教など──を生み出す基になるという現象が普遍的に見られます。書物によって展開した日本の文化を考える上で、日本人の著作か否かを問わず、日本で製作されたすべての本を視野に入れなければならない理由がここにあります。
国文学研究資料館は、創設以来四十年以上にわたり、全国の研究者の御協力をいただき、所蔵者各位の御理解のもとに、国内外に所在する日本古典籍の調査を継続して行ってきました。調査を通して得られた、古典籍に関する新たな知見も少なくありません。この展示には、その成果も反映しています。

この展示では、和書について、まず形態的、次に内容的な構成を説明した上で、各時代の写本・版本や特色のある本を紹介し、併せて和書の性質を判断する場合の問題をいくつか取り上げてみました。全体を通して和書の基本知識を学ぶとともに、和書について考えるきっかけとなることをも意図しています。
和書の広大な世界を窺うためにはささやかな展示ではありますが、以て日本古典籍入門の役割を果たすことを願っています。

【 詳細情報 : 国文学研究資料館

【研究会】 糸・紙・繊維・布 ─ 原 啓志さん 亜麻の花と亜麻の種

原さん_亜麻01原 啓志さん水彩画  亜麻 ( Flax ; Linum usitatimum

高級リネンが 書簡用紙として
シガレットペーパーとして
コスメテイックペーパーとして生まれ変わる 〔原 啓志〕

亜麻 ( Flax ; Linum usitatimum )は、中央アジアおよびアラビア原産の一年生草本で、直径約 2 mm の茎が真っ直ぐ 1 m 程度まで生長する。
北緯40-50度の地域では、春に播種し、夏から秋にかけて開花、結実する。
暖かいナイル川流域では秋に播種する。
生育には100-120日、降雨量は 700 mm を必要とする。
下部の葉が落ちる頃、刈り取り又は引き抜き、川や池に浸けて精練(レッティング)を行った後、砕茎、打麻(スカッティング)により、長繊維(ライン)さらには亜麻布(リネン)を得る。この時に派生する短繊維(トウ、ウェイスト)の一部を亜麻パルプの原料とする。

エジプトの遺跡から発見された最古の布は亜麻でできていた。この後ピラミッドから発掘された見事な亜麻布は、ニューヨークのメトロポリタン博物館にもたくさん保管されている。
日本への渡来は1690年頃に製薬用の亜麻仁油を採るために栽培されたのが最初であり、明治に入って繊維用の栽培が北海道で初めて成功したが、現在日本ではほとんど栽培されていない。

ところで1100年から1700年頃にかけて、欧米各地に伝播した製紙における最初の原料は襤褸(ボロ)であり、木材パルプが作られるようになるまでは、衣料襤褸がおもな製紙用の原料であった。
中でもリネン襤褸は強度その他の特性から、高級筆記用紙、書簡用紙、高級ボンド紙、特殊薄葉紙、たばこ用巻紙、脂取り紙などに使用されてきた。
日本製紙パピリア株式会社ではこうした亜麻の特性を生かして、高級書簡用紙、印刷用紙のエクロンライティングのほか、旧三島製紙株式会社が創業以来生産している、たばこ用巻紙、脂取り紙などをつくっている。
ベルギーにある国立亜麻博物館に栽培されている亜麻の原種は、あまり背が高くなく、茎も分岐しているが、可憐な美しい花を有史以来咲かせ続けている。

原さんresized【 原 啓志 (はら-ひろし)さん プロフィール 】
・ 1949年  佐賀県生まれ 幼少時より東京北区で育ち、王子の「紙の博物館」が遊び場だった
・ 1973年  東京農工大学卒業  三島製紙株式会社入社
・ 1984年  農学博士(東京大学)
・ 2008年  日本製紙グループの事業再編に伴い、三島製紙株式会社が日本製紙パピリア株式会社となる
・ 2013年  日本製紙パピリア株式会社常務取締役を退任
・ 2014年  高知県製紙工業会紙産業特別技術支援員(2017年3月契約終了)

この間、三島製紙株式会社・日本製紙パピリア株式会社の、開発室長兼開発研究所所長、吹田工場長、原田工場長、本社技術開発本部長、高知工場長を歴任。
1981年と1989年に紙パルプ技術協会賞受賞。

和紙、非木材繊維、パルプ、紙の表面性、吸液挙動等の研究、シガレットペーパー、情報記録用紙、薄葉印刷用紙、ケナフ紙などの特殊印刷用紙、透き入れ紙、特殊紙の開発を手がけるほか、ISO 9000 シリーズ、PL 法対策にも関与。
紙や特殊紙の講演、執筆も多数。
ヨーロッパの手漉き紙に日本の山野草や小動物などを描いた個展を開く。
洋風の食材をモチーフにしたイラストとデザインで、1997全国カレンダー展日本印刷産業連合会会長賞を受賞など趣味も多い。
著書 : 『紙のおはなし』(日本規格協会)、『印刷用紙とのつきあい方』(印刷学会出版部)
共著 : 「最新加エガイド」、「特殊機能紙」、「現代デザイン事典」、「おもしろい繊維のはなし」、「紙パルプ技術便覧」、「紙パルプ事典」ほか

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「十年ひと昔」という。このごろは「うしなわれた20-25年」ともいう。
製紙業界の中枢にながらく勤務された原 啓志さんとの交流は1992年にはじまった。すなわち「ふた昔半」前からのおつき合いであり、「経済一流、政治三流」とみずから嘯き、外国から揶揄されていたわが国が、国勢の下降をはじめた「失われた20-25年」と合致する。

20171012151428_00001 20171012151428_00002中国最古の字書『説文解字』(後漢の許慎著)より <糸 ・ 糸編の字の一部>
『説文解字』(中国紫禁城図書館 黄山書社 2010年 宋版徐本の復刻本)

25年前とは、やつがれが40代後半、原啓志さんが40代前半、まさに元気と勇気と遊気は旺盛だった。それでもいつお会いしても、「昔はよかった …… 」 というようなはなしに堕することがないことがうれしい。
はじめは「草-ケナフから紙をつくりたい」というやつがれの無謀なこころみが縁だった。
’70年代から中国にいくことが多く、宏大な大地における木材資源の枯渇を眼前にし、その地の十数億のひとたちの、印刷用紙・生活用紙・包装用紙の使用が漸増から激増するのをみて危機感をいだいた。
それで木材資源にかえて「草-ケナフから紙をつくりたい」と希望したが、当時はそんな試みは無謀とされ、たれも耳を貸さなかった。ところがそんな逆風のなか、たった一社、ひとり三島製紙の漢 オトコ たちが協力してくれた。

原さんはいかにも技術者らしく冷静にかたられた。
「草の繊維から布や紙をつくっていたのは、木材パルプよりずっと古い歴史があります。できないことはありません」
紆余曲折はあったが、こうして誕生したのが「ケナフ100」であり、その用紙をもちいて『 Y・M・D-モノ・ヒト・デザイン 飛躍する地場産業への提言』(五十嵐威暢企画、マギー・キンザー佐伯著 1993 品切 朗文堂)をつくって、フランクフルトのブックメッセに出展した。
日・英二ヵ国語表記であったが、メッセでは「草からつくった図書」として話題になった。9784947613097DSCN8199 『 Y・M・D-モノ・ヒト・デザイン 飛躍する地場産業への提言』のときは、その用紙を「ケナフ100」と呼び、いわば小社による三島製紙株式会社への特注品ともいえる、別寸特漉き印刷用紙だった。

《 文字百景 1995年6月-1999年12月 印刷用紙にケナフ100を全冊採用 》
B6 判中綴じの小冊子『文字百景』(組版工学研究会 朗文堂)百冊を、1995年6月-1999年12月、四年半ほどのときをかけて発行した。
印刷用紙は当時の三島製紙「ケナフ100グリーンエイド 四六判横目70kg」、題字製作 : 美登英利さん、フォーマット製作 : 白井敬尚さんであった。
「文字百景と謳ったんだから、百冊だすぞ」、と威勢はよかったが、当初は20-30冊も発行できれば……と内心はおもっていた。幸いおおくの協力者を得て百冊の刊行を終えた。
上掲写真は合本で、国立国会図書館、印刷図書館などが所蔵している。
20171030115826_00001 20171030115826_00002 20171030115826_00003「草からつくった紙-ケナフ」のことはあらかたここにしるした。関心のあるかたは PDFデーターからお読みいただきたい。『文字百景 022』 紙をつくってみました(1996年6月)

〔参考 PDF データー made of kenahupaper 18.70MB 〕 

《朗文堂愛着版『花あしび』(堀 辰雄著)に透かし紋様を入れた特注図書用紙を製造》

Bashibi[1]花あしびによすタイポグラフィつれづれ艸  花あしびによす

あえて朗文堂愛着版と謳った。この図書『花あしび』(堀 辰雄著 2000年 朗文堂)にはつよいおもいいれがあり、また故堀辰雄の夫人:堀多恵子氏の支援もいただいていた。
『花あしび』(堀 辰雄著)の本文用紙は三島製紙「オークバルキーオペーク グリーム」を選択した。
この用紙の原材料はカナダ産の広葉樹を中心としたパルプ材からつくられるもので、図書としての保存性を重視し安定した品質の「中性紙」で、わたしたちの要求にもっともちかい、すぐれた性質を有しており、また小社では書物用紙として普段から使いなれていた。

基本的な用紙の品質や印刷適性は安定していたのでなんの問題もなかったが、それでも市販品としての「オークバルキーオペーク クリーム」をそのまま使用したわけではなかった。
当時は「花あしびスペシャル」とよんでいたが、汎用性のたかい書物用紙を、『花あしび』専用に三島製紙に依頼して、「別寸特抄き」によって、透かし紋様(Water mark)をいれて抄造することにした。

書物としての風合いと重厚感をねらって、すこし厚くて重めの斤量、一平方メートルあたり104.7 g、すなわち四六判千枚あたりの重量が 90 キログラムで、一枚あたりの紙厚が 0.125 mm になる用紙を特別に注文した。
そして原材料のパルプ材には、「なにも足さない、なにも塗らない」を基本として、スーパーカレンダーにつよい圧力をくわえず、やわらかくて、やさしい、しなやかな風合いをねらってつくられた。

書簡用紙とは異なり、書物の本文用紙に透かし紋様をいれるばあいは、あくまでも印刷適性を損なわず、平滑性がある用紙にしあげることがもとめられた。またこの用紙が、印刷、製本などの工程をへて一冊の書物となったときに、あらかじめ指定した基本位置にマークが配置されるように工夫することももとめられた。
そもそも透かし紋様とは、全体が均一で平滑性のあることを目指す印刷用紙に、あえて不均一な部分を加えることになる。この二律背反した要求にこたえるために、すべての抄造工程や、寸法誤差や、紙の収縮を考慮したうえで、マークの形状や、おおきさをきめることがもとめられた。

そのために三島製紙株式会社の力づよいバックアップをいただき、何度か朝四時起きで東名高速道をはしり、三島製紙の主力工場:原田工場に出向いた。朝八時に三島に到着、当然そこには開発室長兼開発研究所所長の原 啓志さんがにこやかに出迎えてくれた。
ともかく巨大で精緻な、用紙の抄造機をみるとわかるが、恣意的で独断的な紋様を工場側に押しつけるだけでは、透かし紋様の抄造には困難をきたすことになる。

『花あしび』の企画では、透かし紋様自体が目的ではなく、堀辰雄先生へのオマージュがもともとのねらいだったから、多恵子夫人から拝借した、故堀辰雄氏愛用の印鑑「堀」の印影をもとに、極力抄造の作業が容易になるように、開発担当者:原 啓志さんの意見をうかがいながらマークの形象に検討をくわえた。
透かし紋様の技術には、用紙にたいして、マークの部分が凸状になる「黒透かし」と、マークの部分が凹状になる「白透かし」と呼ばれる技術がある。
『花あしび』には、マークは凹状の「白透かし」が実施されている。
これらの詳細は<『花あしび』制作ノート>にしるされ、『花あしび』と同梱で販売された。
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《共通の友人:古澤省吾さんから 亜麻 の種子をお分けいただいた》
古澤省吾さん2017.08.15resized古澤省吾さんは神田駿河台で商事会社「株式会社 エヌ・ビー・アール」を営まれている。
きわめて行動力のあるかたで、いずれ本欄でも紹介したい魅力的なかたである。

たまたま同社の事業に「亜麻」があり、種子をすこしお分けいただいた。古澤さんは亜麻のやわらかい種子(仁)から、「亜麻仁油」を製造販売されている。
亜麻は冒頭の原 啓志さんの水彩画のように可憐な花が咲くらしい。そして糸ができ、布ができ、紙ができ、種子からは油ができるらしい。小社のノー学部育種科が夢中になるのもむべなるかなである。公開画像によれば下掲写真のようになる。
いまから播種のとき、春の到来と、「艸木風信帖」への報告がまたれるこのごろである。
亜麻の花

【研究会】 『古文眞寶』特別研究会 : 武蔵野美術大学 と 国文学研究資料館 の合同研究会

国文研集合武蔵野美術大学造形研究センター
「日本近世における文字印刷文化の総合的研究」
古文眞寶特別研究会 : 武蔵野美術大学 と 国文学研究資料館 の合同研究会
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武蔵野美術大学造形研究センター「日本近世における文字印刷文化の総合的研究」(プロジェクト長 : 新島 実)は、去る09月08日[金]、国文学研究資料館(東京都立川市 館長 : ロバート・キャンベル) 第二会議室において、「古文眞寶特別研究会」を開催しました。 

① 講演/神作研一 (国文学研究資料館教授)
「江戸の古文真寶」
② 講演/林      望 (作家、国文学者、書誌学者)
「江戸の版本の文字について ―古文真寶のことなど―」
     「古文真寶コレクション」縦覧
     参加者全員によるディスカッション

写真 : 前列右から、神作研一、寺山裕策、勝井三雄、林 望、新島 実(敬称略)
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【 復習参考資料 古文眞寶 Gǔ wén zhēn bǎo 、古文真宝 こぶんしんぽう
古文真宝(こぶんしんぽう Gǔ wén zhēn bǎo)
中国の詩文の選集。宋末・元初の黄堅の編と伝えられる。
通行本は前・後集それぞれ10巻。前集には漢から宋までの古体詩を10体に分類し、後集は戦国から宋までの17体の文章を収める。
後集には辞・賦などの韻文を含み、辞・賦・説・解・序・記・箴シン・銘・文・頌・伝・碑・弁・表・原・論・書に分けられる。古文を主としているが、李白の〈春夜桃李園に宴するの序〉のような駢文ベンブン(四六文とおなじ)をまじえる。
中国におけるよりも主として日本で流行し、室町時代に伝来して五山の学僧に愛読されて以来、江戸時代の初期まで、特に後集がもてはやされた。
それ以降は 《文章軌範》 《唐宋八家文》 と併用され、古文学習書における独占的地位にやや衰えが見られるが、林羅山・鵜飼石斎の 《古文真宝後集諺解大成》 をはじめ多くの注釈書がある。
中国詩文にたいする常識を養った書物として重要である。また江戸期には堅苦しい人のことを〈古文真宝〉と呼んだ。
『世界大百科事典』 [佐藤 一郎]
20171026141442_00002【 参考URL : 国文学研究資料館

【字学】 香港の書体設計士:郭炳権さんと、北京のFOUNDER 方正(方正字庫)

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香港の書体設計士:郭炳権さんから、うれしいお便りと、大量の近作パンフレットをお贈りいただいた。
郭炳権さんは70歳代なかば、44年余にわたる経験をほこる著名な書体設計士で、1980-2000年にかけて、わが国の株式会社写研に数百万におよぶ漢字書体原字を提供されたとされる。その一部は写研から発売されて好評を博していた。

1970年代ころまでのわが国では、いわゆる筆書体活字の原字の書き手は、おもに能書家と印章士が担ってきたが、金属活字母型製造の衰勢とあわせて、印章士も高齢化し、旺盛な需要を背景に新書体をもとめる写真植字業界では、中国、それに香港、台湾といった国と地域に原字の書き手を求めることがおおかった。
郭炳権さんもこうした需要に応え、意欲的に写研に原字提供を続けていた。
中国国家大劇場審査風景昨2016年03月、中国文字字体研究与研究中心・中央美術学院・FOUNDER 方正の主催で、<第八届『方正奨』字体設計大賽 ≒ 第8回『方正賞』書体設計コンペティション>が開催された。そこに審査員として、やつがれと、ワークショップ担当として大石も招かれた。

ほかの 審査員 は、長いつき合いのある北京大学中央美術学院院長/王 敏 Wan min さん(浙江美術院・ベルリン造形大学・エール大学修了、アドビ本社ADをへて、北京オリンピックCD)、清華大学教授/趙 健さん、平面設計士/陳 紹華さん、書体設計士/仇 寅さんらの北京語話者と、郭 炳権さん(香港語話者)、ATypI から英語話者がふたり、そしてやつがれと大石(日本語話者)らという、きわめて国際的な顔ぶれだった。

審査会場と審査員が指定されたホテル(北京大学教職員専用)は豪華なもので、どうしてかすべて北京大学とそのキャンパス内の北京大学関連施設であった。
応募部門は「排版字体設計・創意字体設計・英文字体設計 ≒  本文用書体部門・ディスプレー用書体部門・欧文書体部門」からなり、欧文書体をのぞくふた部門はあまりに応募点数が多かった。

二日間におよんだ審査会は熱気を帯び、また昇竜の勢いをみせる中国産業界の地力を実感させて十分だった。
そして最も愕いたのは、夜更けにおよんだ審査会終了の翌朝10時、北京市内中央、天安門から近い、巨大な「 国家大劇院 」で、受賞作の発表とB全判ポスターサイズの作品展示、そして受賞者が出席して、授賞式までがとりおこなわれたことであった。
前夜の審査会では「英文字体設計」部門は一位該当作無しとされ、また「排版字体設計」部門一位候補作として二点が同点となり、相当激しい議論の末、決着をみたのは夜更けもいいところだった。
したがってどうして三部門、ほぼすべての受賞者が「国家大劇院」の会場にいたのか、いることが可能だったのか、このあたりの事情はいまだによくわからないままでいる。
中國の知人数人にこの疑問をぶつけたが、「それが中國です」とかわされてしまった。
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炳郭権先生と大石 王敏先生へのプレゼント 審査風景・腰が痛くなる 「方正賞」講評会の前 左から/方正総経理・炳郭権・やつがれ・大石・原博 中国国家大劇場 審査員講評会/司会・清華大学張先生「国家大劇院」では、授賞式につづいて、審査員講評が公開でなされ、質疑応答も盛んに交わされた。つづいて審査員各氏による講演があった。この間郭炳権さんは終始にこやかに、後進の成長を見守り、よろこびをあらわしていた。
最終講演でちょっとしたハプニングがあった。それはあまりに広大な中国ならではのもので、もっぱら香港語(広東語系方言)話者の炳郭権さんの講演が、会場につめかけた、標準語(北京語)になれた聴講者には十分には伝わらないことが判明し、急遽「香港語 ⇄ 北京語 通訳」が起用されたことであった。
そのため、このあとに予定されていた大石のワークショップの開始時刻は大幅に遅延したが、これも今となっては良いおもいでとなっている。

この<第八届『方正奨』字体設計大賽>のことに関しては、てまえ自慢にとられても困るし、同年05月、趙 健主任教授、原 博 Yuan Bo 助教授のお招きによる、北京清華大学での講演 にくらべてあまり積極的に報告してこなかった。
ほかにも、現代中国が「産学共同」体制であることは承知しているが、どうしても北京大学と、「FOUNDER 方正、方正字庫」の関連がわかりにくかったことがある。またラテン・フォントベンダーがあっという間に集約され、適切な競争がみられなくなったことの物足りなさがあった。
それがして、ノンラテン(漢字圏)フォントベンダーでも似たような現象が起きることへのひそかな危惧があるからである。

20171002095405_00001ともあれ、郭炳権さん、いややはりここでは、いささか古風な中國風に「郭炳權老師」としるそう。ちなみにやつがれ「片塩」は、中國では「片盐」とあらわされ、香港と臺灣では「片鹽」とあらわされる。
郭炳權老師は今でも原字をアナログ方式でおこされている。WebSiteは開設されていない。
郭炳權老師とほぼ同世代のやつがれ、これからもお互いに健康で、北京の時と同様に、たとえ通訳がいなくても、心をひらき、おなじ漢字圏の仲間として、また大量の「筆談」をかわしながら多いに親交をふかめていきたいと念願している。

【長崎県印刷工業組合】 機関誌〝PB ながさき〟本木昌造関連記事抜粋を刊行

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長崎県印刷工業組合(理事長:山口善生)では、1985年に本木昌造顕彰会(会長:岩永正人)を設立して、本木昌造顕彰活動を展開してきました。
その努力があって本木昌造墓碑が長崎市指定文化財に登録され、例年本木昌造命日の9月3日に、関係者とともに菩提寺:大光寺において法要し、先人の遺徳を偲んできました。

それらの記録は、同組合の機関誌〝PBながさき〟において詳細に報告されてきました。
このたびそれらの関連記事のうち、1986年7月-2017年3月号までの30余年にわたる記事を抜粋して冊子本としてまとめられました。
株式会社モリサワ:池田暢氏と、長崎県印刷工業組合のご好意で少量をおわけいただきました。同冊子より数ページを抜粋して紹介し、また別途 <花筏>に PDF データー も添付しましたので、関心のあるかたは小社で閲覧いただくか、長崎県印刷工業組合 事務局(電話:045-824-2508)にお問い合わせください。
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20170922113000_00001 20170922113000_00003 20170922113000_00005 20170922113000_00006 池原香穉碑の前で 山本隆太郎・阿津坂実・斉藤喜徳の各氏{新宿餘談}
〝PBながさき〟Vol.22  1999.9 の片隅に懐かしい写真をみつけた。
このときは「本木昌造活字復元プロジェクト」に先だって、斯界の長老が訪崎して、諏訪公園噴水広場を訪問したときのものである。この写真から18年ほどが経過し、お三方とも黄泉に遊ぶひととなられた。

写真左の山本隆太郎氏は、印刷学会出版部に長らく在籍して、同社の歴史にひとつの時代を築かれ、また社業はもとより、いまなお『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科辞典』(平凡社)などの「印刷関連項目」は、ほとんどすべてが同氏の署名記事となっている。

ついでながら、両書の「医学史関連項目」はほとんど大鳥蘭三郎氏(オランダ・ハーグ市うまれ、慶応義塾大学医学部卒・同大教授 1908-96)の署名記事である。
同氏は幕末から明治初期の政治家/大鳥圭介の嫡孫で、またやつがれのオヤジの親友でもあった。夏休みにはしばしば信州飯山の禅寺 : 正受庵に滞在され、夜になると寺を脱出して、下戸のオヤジと「般若湯」を交わしていた。

写真中央の阿津坂実氏は、長崎県印刷工業組合の事務方を長年にわたって担い、後進の面倒をよく見ておられたかたであった。また小社に活字版印刷の復興をめざして「アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部」が発足した際には、長崎から駆けつけられて応援していただいた。同氏は タイポグラフィ学会 第三回本木昌造賞 を受賞されている。

写真右の斉藤喜徳 ヨシノリ氏は、圭角の無い人柄で、もっぱら喜徳 キトクさんと愛称されて東京都中央区に〝斉藤正文堂〟を営んで、欧文端物印刷とカメラ撮影をこよなく愛された。

このお三方の謦咳に接することは多かったが、18年後のいまは、「年年歳歳花相似たり 歳歳年年ひと同じからず」のおもいを強くするばかりである。

【新書体誕生】 タイプクリエーション 米田 隆 ── Digital Typefaces InterActive Calligraphic Font Series 百人百書 たかゆきPen

タイプクリエーショントップページresized 米田06resizedいぶし銀の活字書体製作者 米田 隆

百人百書 たかゆき Pen  は
Typefaces InterActive Calligraphic Font Series です。
パッケージ購入者と米田さんとの共同作業でオリジナル書体を構築していく
まったくあたらしいコンセプトのもとに誕生しました。
【 新設URL/Type Creation

 {米田 隆 略歴紹介}
1955年生まれ。東京都出身。
 「欧文活字の晃文堂」の系譜を継承した、リョービ印刷機販売株式会社デザイン室/リョービイマジクス株式会社を経て、1988年有限会社タイプクリエーションを設立。
この間終始「本明朝体」製作者の故杉本幸治氏に師事。

リョービ、リコー、NEC、大日本印刷を中心に、写真植字書体・デジタルタイプの公的大型書体開発チームに携わる。
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{米田 隆 主要関与書体}

◎かな書体ぽぽる・クリアレター(NEC) ◎本明朝Bookデザイン製作(リョービ・現モリサワ取扱) ◎平成明朝体の製作に参加(リョービ) ◎MSゴシック体、WindowsXP表示用かなデザイン製作(リコー) ◎「秀英体平成の大改刻」プロジェクト参加、秀英角ゴシック体デザイン製作(大日本印刷)など

【 新設URL/Type Creation
 {URL管理者・日吉洋人/図版画像協力/木村雅彦・白井敬尚・組版工学研究会}

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【新WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 ── 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人 提供:「平野富二生誕の地」碑建立有志会

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1] 古谷ブログ紹介古谷昌二さんuu

ことしは{明治産業近代化のパイオニア 平野富二生誕百七十周年}です。
あたらしい WebSite 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連のブログ情報を意欲的に記述しています。
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古谷昌二ブログ/
探索:平野富二の生まれた場所 ② 町司長屋の前にあった桜町牢屋 ③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡 ④ 町司長屋の背後を流れる地獄川 ⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録 ⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人

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【字学】 さいかち の さかをあるく さて困った<皁・皀・皂>のつかいわけ

神田のさかを、あるいている。
どこからか、あまく、強い、沈丁花のかほりがする。

ぬかあめに ぬるゝ丁字の 香りなりけり    久保田万太郎

この早春の花は中国原産とされるが、秋の金木犀とならんで、格別に樹影や開花をみなくとも、どこからか風にのってやってくる芳醇なかほりを味わうだけでうれしくなる灌木である。
漢名では瑞香という。瑞香のままでよかったのではないかともおもったりもする。
和名の沈丁花は、沈香と丁字のかおりを合わせたものとも、香りは沈香で、花の形は丁字(丁子 Clove)に似るからだともいう。
 DSCN9803 DSCN9804 DSCN9811駿河台での所用をおえて、帰路は「さいかちのさか」をたどることにした。
この坂道は、JR中央線の線路(水道橋-御茶ノ水)の南の脇を、東(水道橋方面)から西(御茶ノ水方面)へとくだる坂道である。坂の下は小栗坂と交じわり、白山通りをわたると水道橋駅東口にいたる。
右側は駿河台から神田川への切り通しのつよい傾斜地で、その下にJR中央線と、それと並行する神田川をはさんだ反対側に、お茶の水坂がある。そちら側はすでに文京区である。

坂の頂上のあたりの右手に、「私立東京歯科大学 水道橋キャンパス さいかち校舎」があり、そのすぐ先からは右手の建物がなくなっている。
千代田区神田駿河台二丁目、坂の左手に「東京デザイナー学院」のキャンパスがある。坂の両側の歩道には街路樹がならんでいる。かつてはここにも「さいかち」が植えられていたとされるが、芽吹きのまえのこのとき、「さいかち」らしき樹木はみられなかった。

それでもこの坂には「さいかち の さか」の由来碑がいくつかある。
 「さいかち」は、山野や川原に自生する豆科の落葉高木で、夏の開花ののち、30センチにもなる細長くて扁平な豆莢が垂れさがる。
秋になると種子が熟れて、豆莢は暗褐色になってよじれてくる。
ふるくは「さいかし さいかち」といった。

さいかしや 吹きからびたる 風の音   呉江
夕風や さいかちの実を 吹き鳴らす   石井露月

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ところで、この樹木が発する樹液を甲虫類が好むらしい。その大型のものを「さいかしむし・さいかちむし」と呼んだ。
すなわち、「さいかしむし・さいかちむし」はカブトムシの古名である。季語は夏とされる。漢字は「皂莢虫」(広辞苑)とあらわされた。
理由はわからないが、字義も字音も異なるのに、この「さいかち」の樹木・実などにしばしば混用されている漢字で「皀」、「皁」、「皂」がある。
 
・「皀」  漢読み キョウ・コウ 訓読み -                     JIS第二水準   6225
・「皁」  漢読み ソウ・ゾウ  訓読み - 意読 くろい JIS第三水準  8864
・「皂」  漢読み ソウ       訓読み -                      JIS表外漢字 9551(Unicode 7682)

これをふまえて「さいかちのさか」にある標識や看板などをみると興味深い。
・東京歯科大学 水道橋キャンパス 「さいかち校舎」
・千代田区教育委員会設置の標識では「皀角坂」

・神田駿河台二丁目のビル名のサインボードには「皂莢坂ビル」
・伝 松尾芭蕉の句碑には「皂角子」

皂角子の 實は そのままの 落葉哉 DSCN9812 DSCN9813 DSCN9815 DSCN9818 DSCN9819 DSCN9820

すこし気になったので、辞書あさりをこころみた。

◎ 『広辞苑 第六版』(岩波書店)
さいかち【皂莢】  マメ科の落葉高木。高さ3-5メートル。山野・河原などに自生。栽培もされる。茎・枝などに多数のとげがあり、葉は複葉。夏、緑黄色で四弁の細かい花を開く。秋、長さ30センチメートル余の莢(さや)を垂下する。果実はサポニンを含み洗濯用、また漢方生薬の皂角子(そうかくし)として、解毒・潤和剤。若芽は食用。材は器具材・細工物などにする。季語は秋。

◎ 『漢字源 JIS第1-第4水準準拠』(学研教育出版 電子版 抄印)
【 皀 】
漢読み キョウ・コウ 訓読み -  JIS第二水準   6225
《意味》 1.  {形・名}かんばしい。穀物のかおり。 2. {名}穀物の粒。一粒。
《解字》   象形。器に穀物を盛った姿を描いた字。卽(即)・既・郷や食の下部に含まれる。
《難読語》 皀莢〈さいかち〉・皀隔〈きゅうかく〉
《熟語》 ありません

【 皁 】
漢読み ソウ・ゾウ  訓読み - 意読 くろい JIS第三水準  8864
1.(名)さいかち・はんのきなどのどんぐり状の実。そのくろい外皮をくろ色の染料とし、その白い実の粉を洗剤にもちいた。「皁実(ソウジツ)」「皁莢(ソウキョウ)」。
2.{形}くろい〈くろし〉。はんのきの実のようにくろい。「皁衣〈ソウイ〉(くろい衣)。
3.「皁隷〈ソウレイ〉」とは、黒衣を着たしもべ。のち役所の雑役夫。→略して皁という。
4.「皁櫪〈ソウレキ〉」とは、馬小屋のこと。→略して皁という。
5.{名}俗:はんのきの実やくろマメをこねてつくった洗剤。「肥皁〈ヒソウ〉〈洗濯材。今は石鹸のこと〉」。
6.{名}くろいかまど。→竈〈ソウ〉に当てた用法。「祭皁〈サイソウ〉〈=祭竈。年末のかまど祭り〉」。
《解字》象形。小枝にまるいどんぐり状の実のなったさまを描いたもの。早と皁はもと同源であるが、皁はその原義をあらわし、早は、くろい → 暗いとき → まだ暗い早朝と転用された。
《難読語》
皁莢〈さいかち〉
《熟語》
【牛驥同皁】ギュウキドウソウ 中略〔史記・鄒陽〕
【皁衣】ソウイ 中略〔漢書・肅望之〕
【皁桟】ソウサン 馬小屋
【皁白】ソウハク 黒色と白色。転じて、是非・善悪のこと〔魏志・鍾繇〕

【 皂 】  
漢読み ソウ       訓読み -         JIS表外漢字 9551(Unicode 7682)
本紹介にあたり使用した『漢字源 JIS第1-第4水準準拠』(学研教育出版 電子版)には「親字」・異体字・俗字のいずれにも「皂」の紹介はみられなかった。
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よんどころなく長年にわたってもちいている『大修館新漢和辞典 机上版』(諸橋轍次ほか 改訂版第二刷り)をみた。
その606ページ、部首「白」、一画「百」につづき、二画のはじめに【 皀 】があり、ついで【 皁 】がおかれていた。「皂」は無かった。二画はこれで終わり、三画「的」につづく。
【 皀 】、【 皁 】の解説は、これまでのものと大差はなかったが、【 皁 】の解説の末尾におもわぬ記述があって絶句した。図版でもしめす。

◇ 皂 は俗字。

karatati[この項つづく] 初出2017年03月02日
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《初掲載から二ヶ月余 さまざまな反響をいただいた》
もっとも多かった反応は<「皂」 漢読み ソウ   訓読み- JIS表外漢字 9551(Unicode 7682)>が電子メディア上に表示されない、もしくはバケルというものであった。
たしかにデバイスによって、また書体選択によっては、表外漢字や記号類の一部が表示されないことは、{活版 à la carte}の姉妹コーナーともいうべき{ 文字壹凜 }で、さんざん苦労し、迷惑をおかけしてきたことでもある。

『大修館新漢和辞典 机上版』(諸橋轍次ほか 改訂版第二刷り)のなかで、俗字とされている【 皀 】に拘泥することが本稿の目的ではない。
そこで次回はおもいきって「さいかちのさか」とひらかな表記としてみたい。

【新WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 提供:「平野富二生誕の地」碑建立有志会


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明治産業近代化のパイオニア ──%e5%b9%b3%e9%87%8e%e5%af%8c%e4%ba%8c%e5%88%9d%e5%8f%b7

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5この「平野富二:明治産業近代化のパイオニア」サイトは
長崎の生んだ明治時代の実業家 平野富二についての記録です。
「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書★     ★     ★     ★

ことしは<明治産業近代化のパイオニア 平野富二生誕170周年>です。
それに際して2017年新春から有志によって結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が運営するブログロールが上掲図の WebSite < 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ > です。

この<WebSite 平野富二> は簡便なブログロール型のものですが、いくつかの特色あるコーナーが設けられています。
平野富二 紹介

「平野富二生誕の地」碑
◎ 「平野富二生誕の地」確定根拠
古谷昌二ブログ
連 絡 先
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◎ 古谷昌二ブログ アーカイブ簡略紹介

01 探索:平野富二の生まれた場所
 <長崎生まれとしかわからなかった>
 平野富二が長崎の町司矢次豊三郎の次男として長崎に生まれ、幼名を矢次富次郎と称したことについては、福地桜痴の記述したとされる「平野富二君の行状」に示されている。
それをもとに調査し、結果をまとめた三谷幸吉編著『本木昌造・平野富二詳伝』でも、長崎の何処で生まれたかについては明らかにしていない(以下略)。
長崎諸役所絵図0-2
02 町司長屋の前にあった桜町牢屋

<長崎引地町の桜町牢屋・三ノ堀・地獄川>
 平野富二の生まれた引地町の周辺には、長崎の長い歴史に関連する史跡が存在する。それは、桜町牢屋・三ノ堀・地獄川である。これらの史跡には、その痕跡を示すものは僅かであり、説明板や表示もない。平野富二の生誕地をおとずれたついでに、平野富二を生み、はぐくんだ長崎の土地とその歴史をしることも意義あることと思う(以下略)。
w26_牢屋
03 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡」

 <町司長屋の横にあった窪地>
 幕末の「長崎明細図」によると、引地町町司長屋の敷地に隣接して、何やらいわく因縁のありそうな土地が、周囲から孤立して描かれている。
この土地が接している引地町通りの延長部分は、「引地町町使長屋絵図」によると、道幅が狭くなっており、片側は桜町牢屋の石垣で高くなっている。反対側は、道路面から下に石垣が積まれており、この土地が窪地であることが分かる(以下略)。
fbe97729998a350c8d52782b8230e46a-1[1]あたらしいWebSite、< 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ > へのご訪問をお待ち申しあげます。

【図書紹介】 『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』 髙松 昇著 株式会社IHI発行 2009年8月1日 非売品

20170209174758_00001 20170209174441_00001 故髙松昇受賞式にて: 前列左より 田村氏、髙松氏、石原氏。後列右より 合田氏、弊所山路理事長

2 0 1 0 年1 0 月2 9 日
プレス・リリース(PDF)
2 0 1 0 年度「住田正一海事奨励賞」、「住田正一海事史奨励賞」及び
「住田正一海事技術奨励賞」決定のお知らせ
                       社団法人日本集会海運所
                       住田海事奨励賞管理委員会

住田正一海事奨励賞は、永年海運造船事業に従事するかたわら、海事資料刊行、海軍史の研究を通じて、広く海事文化発展に寄与された故住田正一氏を記念して設置された。
正一氏のご子息、住田正二氏( 元運輸
事務次官、前J R 東日本社長、現J R 東日本相談役) が、1 9 6 9 年に創設して以来、社団法人日本海運集会所に住田海事奨励賞管理委員会を設け、選考決定している。2 0 0 2 年からは、海事史奨励賞、20 0 8 年度から海事技術奨励賞が設けられた。

本年度も 3  賞それぞれに応募作があり、選考の結果以下のように決定した。
・海事奨励賞受賞
作:石原伸志・合田浩之共著『コンテナ物流の理論と実際』(成山堂書店)
・海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平
野富二の生涯』(株式会社 IHI )
・海事技術奨励賞受賞作:社団法人日本船舶海洋
工学会海中技術研究委員会編『海洋底掘削の基礎と応用』(成山堂書店)
2010年10 月2 5 日、日本海運集会所において受賞式が行われ、各
受賞者に賞状と賞金が贈呈された。

< 海事史奨励賞受賞理由>
海事史奨励賞の『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』は、幕末から明治という激動の時代を47 歳という短命で逝った富二の生涯を、各地に散逸する新たな資料や情報を地道に長期間かけて発掘し、はじめて知られざる実像に迫ったもの。
同造船所を自らの手で創り上げた情熱と行
動力、そして起業家としての生きざまは、日本のものづくりの危機が叫ばれるなか、時代を超えて読者に訴えかけるものがある。
著者の髙松
昇氏は1943年株式会社東京石川島造船所入社、19841 年専務取締役を経て1991年退社。
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平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち 「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書《ことしは平野富二生誕170年祭》
明治産業近代化のパイオニア-平野富二の生誕170祭の記念すべきとしである。
それを期として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が結成され、同会専用URL<平野富二:明治産業近代化のパイオニア>も公開された。
平野富二東京築地活版製造所初号明朝体<平 野  富 二>

弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。数えて16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)数えて27歳 婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に神田佐久間町東校内に「長崎新塾出張所」(現東京都千代田区神田和泉町1)のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

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《2002年12月1日 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式と故髙松 昇さん》
HiranoH1[1] 20170209164033_00003平野富二碑 旧長崎禅林寺建立平野富二
(弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
(1846.8.14 - 1892.12.3)

◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より(雨天決行)
場 所  平野家墓苑(東京谷中霊園 乙11号14側)
【 朗文堂ニュース過去ログ : 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式 】
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デジタル時代の時計はあまりにはやくておどろかされる。
上掲した<海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』(株式会社 IHI )>などの貴重な情報も、情報過多の渦に巻きこまれ、つい失念してご報告がおおきく遅延してしまうことがある。

髙松 昇氏は、1919(大正8)年12月04日 富山県高岡市の出身。
1941(昭和16)年 旧制富山高等学校卒業、1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部卒業、同年株式会社東京石川島造船所(現IHI
)入社、爾来同社に勤続し1981(昭和56)年石川島播磨重工業(現IHI)専務取締役となり、1896(昭和61)同社常任顧問、1991(平成3)6月退社された。
そのころ筆者は髙松氏の謦咳に接する機会をえて、小田急線で世田谷区成城のお住まいを数度訪問したが数年前に逝去されたかたである。
ここにご報告の遅延を故人にお詫びするとともに、遅ればせながら皆さんに 髙松 昇氏の功績を紹介した。
──────────
2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催された。
長崎から移築された「平野富二碑」のご披露のためもあって、会場を「東京谷中霊園内 平野家塋域」とした。告知に際して「雨天決行」としたが、折悪しく早朝から冷たい雨がふり、開始時刻前には本格的な降雪となった。

ご列席いただいた皆さんは、予測をはるかに上まわり115名の多くのご参加をいただいた。なかには遠方から、それも高齢のご出席者が多かった。
あわてて葬祭業者に依頼して、テントをふた張り用意し、石油ストーブも数基設置したが震えあがるほどの寒さはきびしかった。

 とりわけ平野富二の生誕地:長崎からは、三菱重工業株式会社長崎造船所(造船所史料館)、長崎県印刷工業組合(阿津坂 實氏)などの参列者がめだった。

墓前祭のあと、日暮里駅前の料理屋で平野家主催の小宴がひらかれた。ところが列席者が多くて一度では収容しきれず、若手は降りしきる雪の中で<谷中霊園掃苔会>を急遽開催して、90分遅れで小宴に参加していただいた。
平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>関連の広報物のデザインは杉下城司氏が担当されたが、このにわかに設定された<掃苔会>のご案内役も担当していただいた。
また<THE CEREMONY TO COMMEMORATE  TOMIJI HIRANO 1846-1892>が、山本太郎氏によって欧文に翻訳・組版され、列席者に配布された(使用書体 : Adobe Jenson pro,  Adobe Warnock pro)。
ついでながら、このときの公式記録はプロの撮影によるビデオデープでのこされている。
デジタルメディア環境の激変もあり、そろそろほかのメディアに書きかえて皆さんのお役に立ちたいとおもう。

20170209164033_00001 20170209164033_00002[PDF:TOMIJI HIRANO 1846-1892

平野富二の在京20年ばかりの間の活躍分野は、<金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木>といったひろい領域におよんでいる。
それぞれの分野でその関連分野の研究はすすんでいたが、とかく専門分野に特化しがちで、平野富二の全体像の把握は困難な情勢にあった。

おもへらく、2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催され、髙松氏をはじめとする「平野会-IHIの事業歴史研究会」の研究実績と、印刷・活字界の研究が突きあわされ、その後のひろい交流の基盤となった功績はきわめておおきかった。

あらためて、髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯 下巻』 「あとがき」文中の-協力者御芳名-の記事をみると、先般発足した<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の会員の名前が列記されていることにおどろく。
なかんずくこの「あとがき」は、「最後に、前記平野会の古谷昌二氏のご協力に感謝致します」として結ばれている。
こうした先達の遺徳にみちびかれて、古谷昌二氏を発起人代表として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が設立され、地道な研究と活動がはじまっている。
皆さまのご支援を期待するゆえんである。
古谷昌二さんuu[1] 平野表紙uu

【字学】 ひとごと or たにんごと - NHK 放送文化研究所

他人事画像

「ひとごと (人事) 」 と 「 たにんごと (他人事) 」

NHK放送文化研究所

Q

「他人」に「事」と書く「他人事」について、「ひとごと」と「たにんごと」という二とおりの読み方・言い方を耳にします。放送での読み方などは、どうなっているのでしょうか。

A

まず、「他人事」「たにんごと」という表記(書き方)と言い方・読み方は、どちらも放送では原則として用いないことにしています。
「自分に関係ないこと」などを意味する場合の伝統的な言い方は「ひとごと(人事)」[ヒトゴト]とされ、放送でもこの語法を採っています。
表記は、「ひと事」または「ひとごと」です。  Χ  「他人事」「たにんごと」

 
<解 説>
ご指摘の「他人事」という用語は、近年「ひとごと」に加えて「たにんごと」という読みで使われることも多く、むしろ最近では一般に後者のほうを耳にすることが多いようです。
しかし、「自分には関係ないこと」「自分には利害関係のない他人(たにん)のこと」などを意味する場合の伝統的な語・ことばは「人事(ひとごと)」[ヒトゴト]とされ、多くの国語辞書が【ひとごと】「人事」を採っています。
また、これについて国内の主な新聞社や通信社も、「ひとごと」または「人ごと」の表記(表現)を認めているだけで、「たにんごと」「他人事」については認めていません。
このような状況の中で、NHKでも平成12年(2000年)2月に放送用語委員会でこの件について改めて審議しました。その結果、「タニンゴト」ということばは誤読から発生したもので、原則として使わない」ことにし、従来通り「表記は ◯ ひと事 Χ 他人事 読みは ◯ ヒトゴト Χ タニンゴト」と決めています。

この用語委員会の決定の理由や戦前の国語辞書を含めた辞書調査などによりますと、「他人事」「たにんごと」ということばが生まれた背景については、次のようなことが考えられます。
 《もともと「他人(たにん)のこと」を意味する語・ことばには「ひとごと」という言い方しかなく、この語に戦前の辞書は「人事」という漢字を主にあてていた。ところが「人事」は「じんじ」と区別できないので「他人事」という書き方が支持されるようになり、これを誤って読んだものが「たにんごと」である。》 

上記の背景を指摘したうえで、用語委員会は決定の理由を「このような背景から考えると、いたずらに類義語を増やすものとしても、このことばの使用は勧められない」と結んでいます。   なお、「他人」を「ひと」と読むのは表外音訓(常用漢字表にない読み)です。
 
(『NHK日本語発音アクセント辞典』P766、『NHK新用字用語辞典 第3版』P471、『NHKことばのハンドブック第2版』P172参照)
2005.12.12 (メディア研究部・放送用語 豊島 秀雄)

【字学】 「年年歳歳花相似─歳歳年年人不同」 唐・劉廷芝 {々 二の字点・カンクリ}の乱用を脱し{〻 二の字点・ピリピリ}再考

24ad0c1081293947302de5927ad06284-692x1024[1]使用デジタルタイプ:「杉明朝体」、「弘道軒清朝体 復刻版
75100e35e8f939573414c2327ca6af3a[1]《厄介な記号:漢数字のゼロ 〇 と、大きな丸印・白丸 ◯ 》
漢の字(漢字)とは、定まった字音(よみ)・字画(かたち)・字義(いみ)を必要とする。
このうちいづれかが欠けているばあいは「記号」ないしは「文 ≒ 紋」とされる。
いわゆる「漢数字のゼロ 〇」は、「一〇 ジュウ、一〇〇 ヒャク」となり、字音と字義が変動する。したがって「漢数字のゼロ 〇」は狭義の「字[漢字]」ではない。また漢字分類法の部首はなく、ほとんどの漢和辞典や中国語辞典には掲載されていない。

電子機器では「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」に配当されている。
Ideographic とは{表意文字[記号]}の意であり、JIS:2130番代の「0-F まで」の16項目に隣接して掲載されているのは「 ^ ̄_ヽヾゝゞ〃仝々〆〇ー―‐/ 」で ある。
上掲図版で紹介したが、変換ソフト ATOK ではこれらを「準仮名、準漢字」としている。
すなわち「漢数字の 〇」は漢字ではなく、それに準ずる記号的な存在として扱われている。

ここで注意したいのが「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「○ 丸印、白丸 White circle JIS:217B」と、「◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」との混用ないしは誤用である。
JIS:2170番代の「0-F まで」の16項目に隣接して掲載されているのは「 $¢£%#&*@§☆★○●◎◇ 」で ある。またポツンと離れて「◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」がある。
──────────

◎ ご面倒でも電話口の向こうの知人に、電話番号、ビル名などをつたえるつもりで、ゆっくり丁寧によんでください

{文字壹凜} 2016年01月06日
ゼロと◯
電話番号やビル名など、数字が所〻に混じった文を、口頭でひとに伝えるのは面倒なもの。
上掲の短文を、声にだして、ゆっくりおよみください。もしかすると「0 → ゼ、ロ、 ま、る、」とまじってよみませんでしたか。
渋谷のランドマークのひとつ、 {渋谷109}は「渋谷 イチ マル キュウ」、イマドキの若者は「マルキュウ」がふつう。
これを「 縦、組、み、前、提、」でデジタル機器に入力すると、数字はテンキー使用だとばかりもいっていられない意外な事故が発生中。その危険性は{ 他人事 }とともにいずれ解明しましょう。
漢数字ゼロw[1]75100e35e8f939573414c2327ca6af3a[1]この「漢数字のゼロ」と、「大きな丸」はパソコンやスマホなどに搭載されている汎用性のある書体では、一見すると判別が困難である。したがって、「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」とが、混用ないしは誤用されたテキストが印刷所に持ちこまれることがしばしばみられる。
ところが縦組みで使用したテキストを、そのまま横組みに転用したときなどに、おおきな問題が発生する。
その対策として良心的な公版書籍印刷所などでは、事故防止のために独自の検索ソフトを作成して、「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」とを判別し、正しいつかいわけをしている現状がある。
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《乱用がめだつカンクリ 々 と、衰退したピリピリ 〻 の見直しにむけて》
ほかにもいくつかの「漢字とおもわれている記号」がある。
◎ 「〃 JIS:2137  Ditto mark  同じく記号 印刷業界用語:おなじくチョンチョン」
◎ 「仝 JIS:2138 音読み:トウズ、 同上記号」
◎ 「々 JIS:2139 Ideographic iteration Mark  繰りかえし記号、印刷業界用語 カンクリ、最近の若者用語 ノマ」
◎ 「〻 Vertical ideographic iteration mark  画句点 1-02-22 二の字点・ゆすり点、印刷業界用語 ピリピリ」

電子機器の文字入力にあっては、「〃・々」は、「おなじ・どう」から変換ができる。
ただし「仝 JIS2138」は本来「同」とおなじ字であり、また中唐の詩人:蘆仝ロドウにみるように中国では姓や名にもちいられている。記号としての文字変換は「おなじ」からなされるばあいがほとんどで、「どう」からは変換されないことが多い。

やっかいなのは「々 と 〻」のつかいわけである。
古来はもとより、現代中国でも「々 カンクリ・ノマ」は、略記号という認識があるため、日常生活ではもちいるが、正式文書や詩歌ではほとんどもちいない。

わが国では漢字を漢字音でよみ、また和訓音でもよむ。すなわち「日日」には、「日〻 にちにち」とし、「日々 ヒビ」とする要があり、この両音を区別するために、いつのころか「〻 ピリピリ」がうまれた。当然和訓音がない中国ではまったくもちいられない記号である。
「〻」は英語表記ではVertical Ideographic Iteration Mark(垂直表意文字-縦組み漢字-の繰り返し記号)とされ、漢字水準では「〻 画句点:1-02-22」といった相当下位にある。国際的には「〻 Unicode : U+303B」にある。
そのために汎用性の低い一部のデジタルタイプでは「〻」を欠くこともしばしばみられる。

7548d53fb5b74d13849da1aaf8c76092[1]5.0.2 JP P1こんにちの『毎日新聞』の源流をなす『東京日日新聞』は、1872年(明治5年)2月21日、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎らが創刊した東京最初の日刊紙として呱呱の声をあげた。ここでの「日日」は、「にちにち」であり、略称や俗称として「にちにち」「とうにち」などと呼ばれた。

当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、二年後に銀座(銀座四丁目三愛ビル直近、現ユニクロ店舗)に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。
1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着した。ついで1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎(櫻痴)が社説欄を創設してからは紙面を一新し、政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。

『東京日日新聞』は、創刊からしばらくは「日日 日〻」などと表記したが、まもなくみずから崩れた。すなわち「日々 ヒビ」としるして「日日 にちにち」と(勝手に)読者によませるようになった。
「々 JIS:2139 Ideographic iteration Mark  繰りかえし記号、印刷業界用語 カンクリ、最近の若者用語 ノマ」がすっかり定着し、「〻 Vertical ideographic iteration mark  画句点 1-02-22 二の字点・ゆすり点、印刷業界用語 ピリピリ」は、形象が横組み表記ではもちいずらかったのか、あまりに「々」の乱用が目立つ昨今である。
ことしは「々 〻」にこだわってみたいとおもうゆえんである。

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足/趣意書と平野富二生誕の地確定根拠を発表

05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催され、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。
8ed979955048d3208a8a4c7c96c739b41-1024x175[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画が平野富二の生家跡であることが判明しました。w21_引地町町使長屋 44fb978b853aae4f20258b5d23743605[1] 48632901d887fc7558749f89fba250971[1]平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。
e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二初号平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。

2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

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05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑 建立趣意書

発  行:2016年12月
発行者:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
連絡先:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
      メール  info@hirano-tomiji.jp
事務局:朗 文 堂
     160-0022 東京都新宿区新宿2-4ー9
     電話 03-3352-5070 ファクシミリ 03-3352-5160

☆「平野富二生誕の地」碑建立有志の会は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の開催を契機として自発的に発足しました。
ご関心のあるかたは事務連絡先までご一報いただけたら、「趣意書」と、「平野富二生誕の地 確定根拠」を収録した小冊子を進呈いたします。
また2017年(平成29)早早から専用URLの発足も準備中です。

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 発起人申込書
趣意書

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足

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本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月に、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。

長崎タイトルresize-627x108[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画であることが判明しました。
DSC_0045これを契機として「崎陽長崎 活版さるく」に参加したメンバーの中から、この場所に平野富二の記念碑を建立する要望が出され、現在有志者により具体化のための検討ならびに予備調査が行われています。
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平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5長崎での平野富二の知名度は、恩師である本木昌造の陰に隠れて高いとはいえません。しかし平野富二は県営時代の長崎製鉄所において、その付属施設となった小菅修船場の初代責任者として抜擢され、長崎製鉄所の経営に大きく貢献しました。
その収益により立神ドックの掘削を建言して、長崎製鉄所を本格的な造船所とする道を造り上げました。この掘削工事は、当時長崎市内に溢れていた失業者の救済にも役立てられました。  

その貢献が認められて長崎県官吏の資格である権大属に任じられ、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管された時の最後の経営責任者となりました。そのとき平野富二は数え年で26歳でした。
今の三菱長崎造船所の前身は平野富二が貢献した長崎製鉄所であり、長崎造船所立神地区の壁面にある記念碑の銘板には、平野富二の名前が記録されています。  

工部省移管に伴い長崎製鉄所を退職した平野富二は、その後活版製造事業で経営に行き詰まった本木昌造の要望を受けてその経営を引き継ぎ、短期間のうちに活字の品質とコストの問題を解決して、大量生産の技術を完成させて事業を成功に導きました。
のちに平野富二が農商務省に提出した文書には、
「創業の功は専ら本木氏に在りて、改良弘売の功は平野の力多きに居る」
と述べています。

本木昌造の創業した活版製造事業を軌道に乗せるため、平野富二は需要の中心地である東京に拠点を移しました。
当時の公文書や書籍類は、筆写や木版摺りで作成されていました。これらを活版印刷化することによって得られるメリットは大きく、それを宣伝すると共に、輸入に頼っていた活版印刷機の国産化を図りました。
その結果、官公庁や府県が発行する布告・布達類の活版印刷化が促進され、また、近代的新聞の普及に結び付き明治初期における文明開化の実現に大きく貢献しました。

また平野富二は、長崎製鉄所時代に決意した、
「造船事業を興して国家に寄与する」
との志望を実現するべく、1876(明治9)年、海軍省から旧石川島造船所の跡地を借用して、わが国最初の民間造船所を設立しました。
そこでは、河川運行用の小形蒸気船を開発して内陸部への交通運輸の便を開き、海難事故の多かった海上運送で堅牢・安全な洋式船舶を建造、また、民間造船所としてわが国最初の軍艦建造を行いました。

1892年(明治25)年12月3日、平野富二は演説中に発症した脳溢血により病没しました。享年47でした。生前の功績により、
「民設西洋型造船所の嚆矢たり。我邦造船事業の先達として従五位を贈し可然」
として1918(大正7)年に従五位を追贈叙位されました。

このように平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。
2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

【展覧会】 董其昌とその時代-明末清初の連綿趣味/東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画

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ぢゃむ 杉本昭生【活版小本】 次の本が出来るまで その41

七十二候(しちじゅうにこう)
「七十二候」とは、「二十四節季」をさらに約五日ごとに分類し気候の変化や動植物の様子を表現したものです。
12月2日より12月31日までを掲載します。
※大雪 次候の虎始交は書家であり画家の中村不折氏の作品です。最後に製作者のリストを掲載しておきます。いつか本にできればと思っています。
しかし印をひとつずつ押すのは大変でしょうね。でも楽しそう。
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書道博物館 施設概要】 冒頭部・部分
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館である。
殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財がその多くを占めている。

こうしたコレクションと、昭和11年11月に開館した当初の博物館建設に伴う一切の費用は、すべて不折自身の絵画や書作品の潤筆料から捻出した。その偉業は日中書道史上においても特筆されるべきものである。
こうして書道博物館は、開館以来約60年にわたって中村家の手で維持・保存されてきたが、平成7年12月、台東区に寄贈された。そして平成12年4月に再開館したのが現在の台東区立書道博物館である。
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{新宿餘談}
中国明王朝は朱元璋(太祖)がほかの群雄を倒し、蒙古族王朝元を北に追い払って金陵(南京)に建朝した。三代成祖(永楽帝 1402-24)のとき北京(順天府 1421)に遷都。
明代前半期は久しぶりの漢族正統王朝のもとで「文藝復興」の時代とされ、また奇妙なことに西欧の「ルネサンス」の時代ともかさなっている。
ところが後半期は、皇族は奢侈にはしって治世が安定せず、宦官の専権が目立ち、各地で農民の叛乱が勃発し、異民族からの圧迫も多く、国勢は次第に衰微をみた。

董其昌(とう-きしょう 1555-1636)はそんな明朝末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残して「藝林百世の師」とされた。また清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、その影響で清朝においては正統の書とされた。

ところで、董其昌が活躍した明末清初の時代とは、わが国では徳川時代初期にあたり、徳川幕府の正統の書とは、楷書でも行書でもなく「お家流」とされた連綿体であった。
またここ最近、規矩の明確な明朝体・ゴシック体の使用に「活字ばなれ」と称されるような疲労感がみられ、ひら仮名からはじまり漢字にいたる「連綿体」が世上の関心をあつめている。
この奇妙な符合がどこから発しているのかを考えるのに好適な展覧会が、新春早早から開催される。

書道博物館オモテresized書道博物館ウラresized東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
董其昌没後380年
董其昌とその時代一明末清初の連綿趣味-

中国明王朝の時代に文人として活躍した董其昌(とう-きしょう 1555-1636)は、高級官僚として官途を歩むかたわら、書画に妙腕を発揮しました。
書ははじめ唐の顔 真卿を学び、やがて王羲之らの魏晉時代の書に遡ります。さらに当時の形式化した書を否定して、平淡な書風を理想としながら、そこに躍動感あふれる連綿趣味を盛り込みました。
画は元末の四大家から五代宋初の董 源に遡り、宋や元の諸家の作風を広く渉猟して、文人画の伝統を継承しつつ、一方では急進的な描法によって奇想派の先駆けとなる作例も残しています。

董其昌は書画の理論や鑑識においても、卓越した見識を持っていました。『画禅窒随筆』は、董其昌の書画に対する深い理解と理念を示すものとして知られています。

明王朝から清王朝への移行は、単なる政権交代ではなく、漢民族が異民族である満州族に覇権を奪われた歴史上の一大事でもありました。
董其昌によって提唱された書画の理念は、明末から清初にかけた激動の時代の書画にも濃厚に反映されました。連綿趣味は、当時の人〻の鬱勃たる心情を吐露する恰好の場となったのです。
ところが満州族である清の康熈帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その後三百年に及ぶ清朝においても董其昌は大きな影響を与え続けました。

今年度は、董其昌の没後380年にあたります。このたび14回目を迎える東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画では、中国書画の流れを大きく変えることとなる董其昌に焦点をあてながら、そのあとさきに活躍した人〻の書画を取りあげます。
両館の展示を通して、魅力あふれる董其昌ワールドをお楽しみください。
【詳細:書道博物館
【詳細:国立博物館 東洋館

【Rebuilding】 朗文堂WebSite〝タイポグラフィつれづれ艸〟あまりにふるく気恥ずかしくはあるが若者に背をおされて再構築

kill-time-typography白頭を悲しむ翁に代わりて
唐  劉 希夷

   古人復た洛城の東に無く
   今人還た対す落花の風
   年年歳歳花相似たり
   歳歳年年人同じからず
   言を寄す全盛の紅顔の子
   応に憐れむべし 半死の白頭翁
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{新宿餘談}
朗文堂の WebSite は、デジタル時代の時計では太古の時代の発足である。
したがってメーンページの左下の片隅にちいさく案内がある〝タイポグラフィつれづれ艸〟などは、いつの間にか存在が希薄となっていた。
それでもずいぶん前から、何人もの社員や、外部の管理者がすこしずつ手を入れて細〻ながらも維持がなされてきた。
そんなコーナーにも若者には新鮮な発見があるという。
ならば公開をためらってきたコンテンツを序序に掲載して〝タイポグラフィつれづれ艸〟を再構築し、内容をゆっくり増補すべく、肩のこらない程度の改造に着手した次第。
朗文堂 WebSite の休息所として、ときおり訪問していただけたらうれしい。

【デジタルタイプ情報】 視覚デザイン研究所 誘目性 Inducibilityと可読性 Readabilityの両立をめざして果敢な挑戦を継続する書体開発

20161208003542_00001 vdllogo[1] IMG_3803

視覚デザイン研究所(代表・葛本京子)は、明朝体・ゴシック体といった既製書体とは一線を画し、斬新で独創性のある書体開発を続け 「造形の美的バランスと文字の可読性」の両立をコンセプトに意欲的に日本語書体の創出をめざして実績を重ねてきた。
同社は今後も「個性を美しく強く主張、表情豊かなタイプフェイス」を創作したいとする。
タイポグラフィ学会会員

【詳細:視覚デザイン研究所】  (朗文堂タイプ・コスミイクでも書体見本帳進呈)

【タイポグラフィ学会】 『タイポグラフィ学会誌 08号 09号』 論文発表会を開催/タイポグラフィ・ジャーナル 『タイポグラフィ学会誌 09』 特別委託販売開始

02_03888-2DSC04014-22016_論文発表会チラシ_1101(大)[1]タイポグラフィ学会は、2016年11月23日[水・祝日]、学校法人専門学校 東洋美術学校 D棟学生ホール(東京都新宿区富久町2-6)において、『タイポグラフィ学会誌08号・09号』論文発表会を開催しました。

  • 挨拶 タイポグラフィ学会 設立10周年を経て――山本太郎会長
  • 論文発表 学会誌08号から――真田幸治会員
    『「雪岱文字」の誕生-春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ』
  • 論文発表 学会誌09号から――春田ゆかり会員
    『近代初期「平仮名活字」の書き手について-池原香穉とその周辺』
    と題し、各論文で取りあげられた資料展示をおこないながらの論文発表会となりました。

【 詳細 : タイポグラフィ学会
──────────
03_03919-2R0046680-6-407pix[1] DSC03943-2 DSC03991春陽堂版『鏡花全集』函表04巻[1] DSC04438[1]Gakkaishi09_KariDSC04344 DSC04307P1330552[1] P1330555[1]
【タイポグラフィ・ジャーナル特別委託販売】
タイポグラフィ学会 『タイポグラフィ学会誌 09』 販売開始
Gakkaishi09_Kari (2)『 タイポグラフィ学会誌  09 』が刊行されました。

タイポグラフィ学会は、タイポグラフィという技芸に学問的な基盤を与え、その成果を実技・実践を通して社会に貢献することを目的に、2005年8月に設立されました。 『タイポグラフィ学会誌』は2007年に創刊、今回が09号となります。

『 タイポグラフィ学会誌  09 』の主要内容
  • 論文:近代初期「平仮名活字」の書き手について― 池原香穉とその周辺
    タイポグラフィ学会会員 春田ゆかり
  • タイポグラフィ学会 設立10周年を経て
    タイポグラフィ学会会長 山本太郎
  • タイポグラフィ学会設立10周年記念催事「長崎研修」の報告
    Viva la 活版 ばってん 長崎『崎陽探訪・活版さるく』

今回は、当学会の10周年の催事(2016年5月に開催「長崎研修」)に関する記事なども特別掲載しております。
これらの研究成果が、日本国内にのみならず、各国の研究者によって広く参照されタイポグラフィ研究の発展に寄与することを希望するとともに、『タイポグラフィ学会誌』が今後さらに、タイポグラフィの研究における特色ある媒体として成長していければと考えております。
タイポグラフィ学会
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◎ 『 タイポグラフィ学会誌 09
特別委託販売 朗文堂ブックコスミイク
・ 非会員向け頒布価格 : 1部 3,000円(送料・税別)
・ 学生向け頒布価格 : 1部 2,000円(送料・税別)
*学生証明書の提示が必要です。

株式会社 朗 文 堂
160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
E-mail : robundo@ops.dti.ne.jp 
Telephone : 03-3352-5070    Facsimile : 03-3352-5160

長崎タイトルresize-627x108[1]1030963[2] 32-1-49545-2[1] DSCN7458[1]PrintDSCN7436[1] 31-4-50052[1] 10-6-49164-e1466416277572[1] DSCN7451[1]『タイポグラフィ学会誌 09』には、タイポグラフィ学会の設立10周年の催事(2016年5月に開催「長崎研修」)に関する記事などが p.55-79 に特別掲載されています。
本書のご購入は<朗文堂ブックコスミイク>にてたまわります。

20160503155850029_0001map-Nagasaki画像小菅修船場resized 12-1-49586[1] 立神ドック建碑1uu 立神ドック建碑2uu 357eec44b63e3267ff83e04839cabfd41[1]

【ボヘミアン、プラハをいく】 04 パリ在住ボヘミアンの磯田俊雄さん、フランス版『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作)と、フランソワⅠ世にちなむシャンボール城のメダルを持参して来社

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DSCN8375 DSCN8380 承 前 【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

《長いつき合いになる。 在仏のボヘミアン:磯田俊雄さん》
最高気温が摂氏14度というひどく寒い日だった。パリ在住30年余になる磯田俊雄さんが2016年11月22日、ほぼ一年ぶりにパリから飄飄と来社。

たまたまハンブルクから大澤能彦さんも来社されており、欧州勢のバッティング。欧州在住がながいおふたりとも愛煙家で、やつがれは友垣をえたおもいでうれしい。大石は渋い顔。

磯田氏は神戸出身。四人兄弟の末、パリでソルボンヌ大学博士課程修了の才媛と結婚し、息子も立派に自立した。
フラ~とニューヨークにいったはずが、いきなりパリからファックス。
「パリに住むことにしました。荷物はカメラの寺さんに任せました。当分かえりません」
爾来在仏35年ほどか。このひとも、気軽で暢気なボヘミアンといってよかろう。

かれとは大日本印刷CDC事業部でコピーライターとして勤務していた頃からのふるいつき合いである。若く見えるが、やつがれともさほど年は離れていない(はずだ)。それでも最初の頃に「磯やん」と呼んでいたので、いまだに「磯やん」。
もともとフランス語での簡単な翻訳監修や〝eBay〟の窓口は「哲っちゃん」という同窓生が担っていたが、高齢化してスペイン国境に近い田舎に移転して隠居生活。したがって現在は大石がメールを乱発して、磯やんを悩ませたり酷使しているようである。

今回も大石の依頼で、プラハの作家カレル・チャペック(Karel Čapec  1890-1938)がのこした、邦題『山椒魚戦争』のフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地:プラハ、フランス語表記 1960年発行)の 『La Guerre des Salamanders』 を苦心惨憺で購入されての持参であった。
フランス国立印刷所 旧ロゴ[1]「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所創設以来、現在でも同所のシンボルロゴである。
下部には、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)によるとされる、
識語<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>が配置されている。この紋章がフランス国立印刷所のシンボルロゴに連なり、シャンボール城では記念メダルを販売している。

ほかにも大石は、「サラマンダー」をみずからの紋章としていたフランソワⅠ世の離宮(狩猟用離宮・世界遺産) シャンボール城 の記念メダルをねだっていたらしい。
そもそも大石はひどい地理 幷 方向音痴である。したがって、
「パリ郊外のシャンボール城にいくと、サラマンダーの紋が入った記念メダルが購入できるはずです。それをぜひ購入してきてください」
といった調子のメールを磯やんに送っていたらしい。

「大石さんはときどきヘンなことをいってくるんです。まるで東京から横浜にいってメダルを買って来いみたいな調子だったけど、ロワール渓谷のシャンボール城は、パリの隣り街じゃないんです。パリから170キロほど、禁漁区のおおきな森にかこまれた、昔の王様の狩猟用の別荘のようなところで、電車も無いし、車でも一日がかりですよ・・・・・・」
とボソボソとこぼす。やつがれは歓喜せんまでの共感のあまり、深くうなずきながら、そこは共に気軽なボヘミアン、
「磯やん、申し訳ない、悪かった。面倒をかけた。ごめん、ありがとう。これからもよろしく」
以下、一部ウィキペディア画像の助けを借りながら、シャンボール城とフランソワⅠ世を紹介したい。

フランス離宮シャンボール城概観 シャンボール城の装飾屋根 シャンボール城 フランソワⅠ世紋様シャンボール城の各所にみられる火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 「王のギリシャ文字」を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり、 創立以来フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。

フランソワⅠ世の紋章「サラマンダー」は、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして21世紀の初頭に再生された。 詳しくは次ページを参照願いたい。saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。
フランス国立印刷所は、580年ばかり以前のこの年、フランソワⅠ世治世下の王室印刷所、1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による識語、<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。この紋章がシャンボール城ではメダルとして販売されており、今般磯やんが持ち来たったということである。

以下サラマンダーとフランス王立印刷所のシンボルロゴに関して、詳しくは次ページに【 [文 ≒紋学] フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係 】を一部修整して再掲載したのでご覧いただきたい。

《 プラハの造形家 ・ 執筆者 ・ 園芸家にして小説家 : チャペック兄弟とは 》DSCN0063DSCN0025DSCN0027DSCN0005チェコのプラハ第10区に「チャペック兄弟通り  BRATŘİ ČAPKŮ」と名づけられた小高い丘への通りがある。そこの頂上部に連棟式のおおきな二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーター・執筆者の兄 : ヨゼフ・チャペックの住居で、現在は直系の孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家・作家の弟 : カレル・チャペックの住居跡である。

カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ第10区が買収済みだという。
ところがどちらもいまは非公開の建物であり、庭園である。したがってカレルの庭園の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを撮影した。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題『Zahradníkův rok 』、邦題『園芸家の一年』、『園芸家の12カ月』がある。
20161027164925_00001イラスト : ヨゼフ・チャペック
チャペック01 20161027164925_00002翻訳書も手軽に入手できる。『園芸家12カ月』(カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『園芸家の一年』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。
どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。

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チャペック02やつがれにとっては、兄:ヨゼフ・チャペック、弟:カレル・チャペック兄弟とは、なによりも愛読書『園芸家12カ月 or 園芸家の一生』の挿絵画家、著者であり、せいぜい、戯曲『ロボット (原題:R.U.R.)』において「ロボット」なる造語をふたりでつくった兄弟程度の知識に留めておきたいところだが、ここに困った図書が一冊ある。
20161103145611_00004『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)。いま、やつがれの手もとにあるのは、1,978年7月18日 第1刷り、2013年10月4日 第14刷りの版である。
ここでは「著者」ではなく、「カレル・チャペック作」とされている。その理由を訳者は「訳者はしがき」「解説」「訳者あとがき」のなかで縷縷のべている。

すなわち『山椒魚戦争』には、活字見本帳・ちらし・新聞記事の切りぬき、マッチ箱などの図版(文字活字によるものがほとんど)が無数にあるのである。
文庫版とはそんなものだろうともいえそうだが、チャペック兄弟の図書は、プラハにおける初版はもちろん、多数の翻訳書をふくめて、わずかな例外をのぞいて軽装版である。ところが岩波文庫版には、残念ながら二点の図版紹介をみるだけであり、しかも原寸を欠いている。

岩波文庫版『山椒魚戦争』は、1978年の初版以来、35年ほどのあいだ、14版を重ねてきた図書である。
このような名著に四の五のいうわけではないが、ともかく活字サイズが「本文 明朝体8pt.相当」、「注釈 ・ 図版説明 ・ 訳注 ・ 解説 ・ 訳者あとがきなど 明朝体6pt.相当」といったちいさな活字サイズであり、しかも総ページ数496ページにおよぶのである。
とりわけこの本文より文章量が多いとおもえる注釈などの活字書風とサイズ 6pt. はつらい。

情けないことに、すでに視力がずいぶんと低下したやつがれは、再再の挑戦にもかかわらず同書を通読していない。別の翻訳者と版元からの『山椒魚戦争』が電子化されて、電子図書「キンドル」で読めるが、こちらはいささか翻訳になじめないでいる。
造形者にとってある意味では必読書ともいえる『山椒魚戦争』である。ぜひ視力がしっかりしているうちに読了をおすすめするゆえんである。
20161103145611_0000320161104192107_00001ところで、大石は磯やんの助力をえて、このたびフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地:プラハ、フランス語表記 1960年発行)の『La Guerre des Salamanders』を購入した。
ところが大石は、すでに上掲図版のフランス Éditions Cambourakis, 2012 『La Guerre des Salamanders』 をもっている。
同書はフランス語で表記されているが、図版は原寸で、ほとんどがオリジナルの各国語のまま、改変を加えずに紹介している。

ほかにも煙草の臭いが移るからとしてめったにみせないが、プラハにおけるチェコ語の初版、戦後版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版、仏語版など、異種本を10冊余ほど所有しているようである。
これらの異言語版は、この兄弟の思想的立脚点もあったのか、初版をふくめてほとんどが軽装版であり、いわゆる上製本仕立ては一点だけである。
そして内容を理解するために、邦訳書ももっているが、もっぱらチェコ語版と英語版で、挿画と造本、なによりも「サラマンダー、山椒魚」の各国の解釈を「活字見本帳のような図版」で楽しんでいるようである。

岩波文庫『山椒魚戦争』には、本文中の図版として紹介されたものは、上掲図版 Éditions Cambourakis, 2012 『La Guerre des Salamanders』 p.264 のものと同一の図版が、「カタコトの日本文」p.309 として紹介され、あとは「訳者あとがき」に紹介された「新中國版畫集」p.455 のわずか二点であり、しかも他の版のほとんどが原寸紹介であるが、同書はどちらも原寸を欠いている。
すなわち『山椒魚戦争』の隠喩、欧州中央部に位置し、文化文明の十字街路たるボヘミア・プラハならではの、多言語下における活字組版表現の実験を楽しみ、紹介するゆとりをいささか欠いているようである。
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《 カレル ・ チャペックを中軸に、その教育体験と職歴をみる 》
読みたいのに読めないという焦燥感はつよい。皆さんにお勧めしたいのは、『山椒魚戦争』はできるだけ視力が健康な、若いうちに読了されることである。
ここで、わが国ではとかくSF作家とされる弟:カレル ・ チャペックの受けた教育と仕事から、そのもうひとつの魅力、造形家の側面に迫ってみたい。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業したカレルは、プラハの名門大学カレル大学へ進学し、哲学を専攻する。1910年、ベルリンのフリードリヒ ・ ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学。1911年、ベルリンの大学を修了後に兄 : ヨゼフがいたパリのソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。パリ時代にヨゼフとともに戯曲 『 盗賊 』 を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後しばらくは家庭教師の仕事をしていたが、1916年、チャペック兄弟として正式にプラハの文芸 ・ 造形界にデビューした。
このころはフランス詩の翻訳、とりわけアポリネールの象形詩に熱心に取り組んで、アポリネールがフランス語で象形化した詩(詩画)を、チェコ語での再現の実験に取り組んだ。
同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。1917年、独立前に唯一発行が許されていた 『 国民新聞 ナーロドニー ・ リスティ』 に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたカレル ・ チャペックは 『 ロボット R.U.R. 』 を書き上げる。このときにヨゼフの助言をえて「ロボット」ということばが生まれ、全世界に拡散した。後に妻となるオルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府の動向ににあわせて次第に保守化していく 『 国民新聞 』 に不安を感じ、『民衆新聞 リドヴェー ・ ノヴィニ 』 へヨゼフとともに移籍する。戯曲 『 虫の生活 』(ヨゼフとの合作)を出版する。
その後逝去のときまで 『 民衆新聞 』 に在籍し続けた。

《 チャペック兄弟の最後 プラハ : ヴィシェフラット民族墓地Vyšehradský hřbitov にねむる》
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)裏口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)入口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟の斜め前にあるスメタナの墓プラハ:ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる(白い墓標)。
DSCN6084 DSCN6082 DSCN6045 DSCN6048そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざま、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「 解 説 」 から紹介したい。

『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫) 「解説」 p.453-4
[前略] 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。[弟カレル]チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく[カレル]チャペックの家へやって来たのだった。
やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「残念ながらチャペックは昨年のクリスマス[1938年12月25日歿]に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。

チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「 独裁者の長靴 」 と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。
彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後 『 強制収容所詩集 』 という題名で出版された。[ 後略 ]